窓の向こうに、桜の木が植えられている。

 日本人は桜が大好きだ。
 日本に渡ってきたのがちょうど春のことで、川で、山で、公園で、そこらじゅうでお花見が催されていたのにびっくりしたものだ。
 それから数年経って、自分も桜を大好きになった。
 DNAには刻まれていないが、日本人のタマシイというものを、新しいオトーサンから徐々に受け継いできたということだろう。
 だが……

「ボクは、次の花を見らレルだろうカ」

 生命の息吹を内側に隠し耐える樹の姿に、山居ジャックはこらえきれず涙を流した。
 遠い祖国で父と母を奪った病が、今また自分の命を脅かしている。
 日本の冬は厳しい。病弱の身には特に。
 もしかしたら、この冬を越すことは……

「ほーら、暗くならないの」

 女性の声に驚き、ジャックはベッドの上でビクッと跳ねた。
 いつの間にか部屋の入口に、毎日合わせている顔があった。

「ヒットリサン、おはようゴザイマス」

 山乃端一人、この山居医院に住み込みで働く看護師である。

 山居医院は小さな診療所で、居住スペースと診察スペースが半々となっている。
 「山居直助」の名声から遠方からでも訪れる者は多いが、従事者は直助と一人だけなのだ。
 そのため、常に予約はいっぱいである。
 ジャックはそんな「実はスゴイ」場所に特別にお世話になっていることに若干罪悪感を持っているが、周囲のほうは誰ひとり彼を悪く言うことはない。
 彼の部屋は居住スペースと診察スペースのちょうど境目にあり、なので彼を「入院患者」と称していいものかどうかは微妙である。
 他に入院患者はいないのでその区別自体どうでもいい話と言えばそうなのだが。

「ごはん持ってくる?」
「今日は動けルンで、行きマス」

 2人が食卓に向かうと、直助は既に食パンを頬張っていた。

「やあ、おはよう」
「おはようゴザイマス、オトーサン。どこか出掛けルンですカ?」

 今日は休診日である。家にいるつもりなら、直助が朝食を急ぐ理由は無い。

「ああ、ちょっと大学に薬の研究を見に行く約束があるのでね」
「それってもうお仕事じゃない。もう1日休んだら?」

 一人が指摘すると、直助はコーヒーをあおってから、悪戯そうに笑った。

「良いんだよ、趣味だから」

 一人は心の中でため息をついた。自分にとって医療は人を救う手段だが、この人は医療そのものがやりたいことなのだ。もちろんそれで彼の功績の価値が下がるわけではない。ただ単に、呆れただけだ。

「分かった。じゃあ先生の部屋掃除しとくね。」
「悪いね、一人君」
「あノ、ボクも手伝いヲ……」

 おずおずと申し出るジャックに、一人は形相を変えた。

「ジャック! あんたは治るのが仕事で、それは年中無休だから家事とかはオーバーワークだって、何回言わせるの?」
「ゴメンナサイ……」

 しゅんとするジャックにちょっと心が痛んだが、これは大事なことなのだ。

「悔しかったら、早く良くなること!」



 カーテンを開けると、光に照らされて埃が舞っているのが分かる。
 机一面のうずたかく積み上げられた医学書が一人のやる気を削いだ。

「やるって言ったのあたしだけど、ちょっとほったらかしすぎじゃない?」

 まあ、いつも通りのことだ。
 直助は研究のことになると周りが目に入らない、典型的な学者タイプである。
 それは、こんな環境の中でも、本自体に埃が被っているわけではないことから分かる。もちろん、毎日のように読んでいることがその理由だ。

「しょうがない、さっさと片付けますか」

 換気のために窓を開け、一人は掃除機を掛けた。
 それが終わると、持ってきたバケツの中でぞうきんを絞り、棚や机を拭き始める。
 本は棚に戻さないのかと思うかもしれないが、直助はこんな状態でも配置を覚えているため、下手に動かせないのだ。



「んー、こんなところかな」

 一人は立ち上がって伸びをした。それから銀の懐中時計を開いて時間を確認する。
 もうすぐお昼だ。

「うわー、もうお昼作らないと、忙し忙し!」

 そう言って窓を閉めようとしたとき、外にいた、どこかで見覚えのある男と目が合った。

 次の瞬間、山居医院は爆発した。

 男は建物の残骸に注意深く近づく。
 探っているのだ、反応を。
 普通ならあの一撃で死んでいるはずだが、“彼女”が“普通”とは限らない。
 何しろ、十数年も会っていないのだから。
 男は嫌悪感をあらわにした。
 彼はこれまで、望むものをすべて手に入れてきた。
 音楽の才能、芸能界での名声、地位、財産。
 『ビッグ馬場(ばんば)』と言えば誰もが知るスターだった。
 やがて彼は、自分がルールだと思い込むようになった。
 ルールを決めるということは世界をもう一度始めなおすこと。
 彼は、世界の始まりをイメージした爆発能力『ビッグバンバン』を得、魔人となった。
 そんな彼が今までに唯一屈辱を味わった。
 その相手があの、山乃端一人だったのだ。

「ダメダメだZE~~~~ィ☆」

 馬場は、思い返すうちに、不意打ちで襲撃したことを後悔してきた。

「こんなんじゃオレの恨みは晴れねェYO! もっとZANKOKUに、もっとDORAMACHIKKUに!」

 このビッグ馬場をコケにしたことを存分に思い知らせてから殺すべきだった。
 だから頼む、死んでいないでくれ、と願った。すると、

「そこの……あなた……お怪我は……ありまセンカ?」

 弱弱しい声と共に、瓦礫の中から誰かが立ち上がった。
 今にもまた倒れそうな、細身の若者――ジャックだ。
 馬場は、ジャックが自分に話し掛けたということに気付かずにぽかんとしていた。

「大変……なコトニ……巻き……込まレま……シタね……」

 そこまで聞いてようやく馬場はジャックの声が誰に向けてのものか、と、同時にジャックの勘違いにも気付いた。
 彼は自分が犯人だと思っていない。ならば、彼を人質に取るべきか……いや。

「ああ、オレは大丈夫YO! だけど、EKUSUPUROUJONの直前に、中にいる女の人を見たんだZE! あの人は無事なのかYO?」

 ならば、その勘違いを一人の捜索に利用させてもらうまでだ。

「ヒットリサンは……怪我は……あり……マセン。デモ……動けナイ……カラ……助けヲ……」

 馬場はうすら笑いを浮かべる。
 ジャックの言い方からすると、2人は同じ場所にいたのだ。
 それさえ分かればもう騙しはいらない。

「山乃端ァ! 出てこなければてめえの隠れてる場所に直接火球をブチ込むぞ!」

 馬場はキャラ作りも忘れ、鬼の形相でジャックの足元に手を向ける。
 その掌にはエネルギーが集まり、圧縮され、空気がゆらめき、小さな火の球が形成されている。

「ヒットリサン! こノ人……危ナいデス!」
「ふん、小僧、オレの恨みはその女だけだ。さっさと逃げろ、見逃してやる」
「ボクは……逃げまセン!」

 ジャックの足元の瓦礫に動きは無い。
 ふと、馬場の頭に違和感がよぎったが、それを無視して叫んだ。

「じゃあ、一緒にくたばりやがれ!」

 灼熱の炎が迸り、辺り一帯を光が包む。



「ん……う……」

 一度目の爆発直後に遡る。
 一人は倒れた本棚と本棚の隙間の空間に運良く入り込んでいて軽傷だった。ただし、身動きはそれほど取れそうにないが。

「ヒットリサン、無事……デスカ?」

 ジャックの声が聞こえてきた。
 彼は自室にいたはずだが幻聴ではない。
 10メートル以内ならどんな状況でも会話できる、ジャックの魔人能力『ハナサナイカラハナサナイカ』だ。

「うん、動けないけど、怪我は全然。そっちはどう?」
「ボクの方ハ……抜け出せソウデス。今、助けヲ……」

 そうジャックが言って、声がしばらく止む。
 瓦礫に遮られ、外の音は全然入ってこない。
 ジャックがいなかったら、能力が無かったらと思うとゾっとした。
 これまで外で色んな事件に居合わせたりしたことはあったが、ここまでの事態は初めてだ。
 一人はハッと思い出して、銀時計の無事を確認する。
 問題ない。無傷だ。
 なぜこんな洋風の時計が山乃端神社で受け継がれているのかはよく分からない。
 分からないが、一人の第六感がこれを持っていろと告げているのだ。

「ヒットリサン! こノ人……危ナいデス!」

 ジャックの叫びが聞こえた。
 「この人」がどの人かは聞くまでもなかった。爆発直前に目が合った男。その直後、突然掌をこちらに向けてきたので、慌てて身をかがめたのだ。それから凄まじい衝撃が一人を襲った。男は、おそらく魔人。

「ジャック、逃げて!」

 一人の声に、ジャックは答えた。

「ボクは……逃げまセン!」

 直後、一人は再びの爆音と熱を感じた。



「思い……出しマシた……ビッグ……馬場サン……デスね」

 砂埃の中から、大やけどを負ったジャックが姿を現した。
 いや、おかしい。
 “普通”なら『ビッグバンバン』の直撃を受けて立ち上がれるはずがない。

「お前、魔人か?」
「……」

 沈黙は、肯定しているようなものだ。
 だが……馬場は考える。どちらにせよ、『ビッグバンバン』に対抗できるような能力なら、攻撃を受ける前に使うはずだ。
 トンデモEFB(チート)級カウンター能力でも持っていたら別だが、その時はその時で自分はもう詰んでいるので、この先どう行動しようが変わらない。
 結局、ジャックのことは無視して山乃端一人に集中するのが最善だろう。

「しかし、ここじゃない、のか?」

 瓦礫は結構えぐれたが、死体どころか、一人がいた痕跡すら無い。
 手加減したはずなので跡形も残らないほどではないはずだ。

「それとも……」

 あるいは、一人も魔人であるという可能性。それが一番恐ろしい。
 だが少なくとも、自分の知っている頃はそうではなかったはずだ。
 それによくよく考えると、あの年齢を超えてから魔人になるなど、自分のように劇的な人生を歩んで来ない限りはそう無いはずだ。

「山乃端は、魔人か?」
「……」

 ジャックは沈黙を貫く。実に素直だ。
 表情で分かる。これは真実を隠すための黙秘ではない。黙っていれば情報を渡すことはないという、ごまかしの沈黙だ。
 となると、より都合の悪い「魔人ではない」が正解となる。

「あなたは……こんなコトをすル……人でハ……アリマセン……」

 お前に何が分かる、と思いながら、馬場は瓦礫を蹴っ飛ばし始める。
 魔人の脚力で、何百kgもの瓦礫が一度に掻き分けられる。

「…………ック……さん……」

 馬場はなおも声を無視して一人を探す。
 粉々に崩壊した建物は、どこが何の部屋だったかも分からない有様だ。
 ここは洗面室だろうか。鏡の破片が散らばっている。

「ファンの……皆さんガ……悲しミマス……ヨ……」

 それがどうした。
 安っぽい言葉にかえって頭が冷えた馬場は、思い出す。
 そういえば、最初に一人を見たのは、もっと向こうのあの辺りだった。
 途中からジャックの話で一緒にいたものと思い込んでしまっていた。
 攻撃前の違和感は、一人がいたであろう場所とジャックのいた場所が違うということだった。

「オトーサン……オカーサンも……悲しミマス……」

 馬場は、真っすぐ直助の部屋のあった所に向かっている。
 一人の居場所がバレたようだ。

「ヒットリサン!」



「思い……出しマシた……ビッグ……馬場サン……デスね」

 無事だったジャックの声に一人は安堵する。
 同時に、自分も思い出せていなかった名前をジャックの口から聞き、腑に落ちた。テレビを通さないと、意外と気付かないものだ。
 いや、直接の面識もあるにはあるが、随分前の話だ。
 実は馬場と一人は中学の頃の同級生だったのだ。
 彼が華々しくデビューしたときは町を挙げてのお祭り騒ぎだった。
 しかし、一人が恨まれる理由にはさっぱり覚えがない。

「ジャック、黙って聞いて。そいつがあたしのほうに近づいて来たら、合図してほしいの」

 そうジャックに告げて準備を始める。
 最近人に襲われることも多くなってきた一人が、銀時計とともに護身用に肌身離さず持ち始めた、対魔人用の麻酔注射だ。
 見つかりそうになったら、こいつで先手を仕掛ける。
 ほとんど動けないとは言え、身をよじるくらいはできるので、飛び出しやすい姿勢を整える。
 一人は戦闘においては何の経験も無い一般人だが、日頃の不運のせいで度胸だけは人一倍ついた。
 そこからじっと動かず、合図を待つ。
 実際には数分だろうが、もっと時間が経ったように感じた。

「ヒットリサン!」

 ジャックの叫びの後、目の前の瓦礫が取り払われ、視界が拓ける。
 眩しい、が、構わず注射を振り被る。
 針が、男の腕を捉えた!
 その、細い腕を――
 馬場と一人の間に割って入った、共に暮らす青年の腕を。

「ジャ……ック?」

 一人も、馬場も、予想外という表情でジャックを見つめていた。
 ガクっと全身の力が抜け、ジャックは意識を失う。

 硬直が数秒続いたが、先に我に返ったのは馬場だ。
 掌で空気が渦を巻く。
 そこに熱が生まれ、見る見るうちにエネルギーを増していく。

「山乃端……お前は……」
「ヤメロ!」

 一人を仕留めようとする馬場に、ジャックは、ありったけの声をぶつけた。
 ジャックが?
 麻酔が効かなかったのだろうか。
 いや、違う。
 彼の魔人能力だ。“どんな状況でも”会話できる。例え、意識を失っていようと。

「こん野郎っ!」

 しかし当然、馬場はジャックの能力を知らない。
 タイミング的には、とうとう反撃に出たかと勘違いしただろう。
 そもそも馬場は、先ほどジャックが打たれた注射がただの麻酔であることすら知らない。
 下調べによるとここの家主は高名な医者らしい。
 魔人能力に匹敵するような薬さえあっても不思議ではないと思っていた。
 なので警戒する。
 その馬場の意外な慎重さが今、ジャックと一人の命を辛うじて保たせていた。

「……教えてやるよ、オレがなんで山乃端を恨んでいるか」

 隙を窺うように馬場は話し始めた。
 それでもジャックは馬場に背を向けたまま、がっしりと一人を守っている――ように馬場には見えた。

「忘れもしない、あれは中学生の頃。オレたちは男女何人かでカラオケに行ったんだ」

 動く様子は見えない。馬場は続ける。

「マジで盛り上がってよ、皆オレの歌が上手いって話題になったわけよ。そしたらこいつ、何したと思う?」

 馬場はそこで一度息を飲む。返答次第では火球をぶっ放してやろうと思った。
 だが、隙の無い背中からは聞きに徹する意思を感じた。

「よりによってオレの番でよお!用を足しに行きやがったんだぜ!」

 一人は声が出せなかった。
 そんな、そんなしょうもない理由でこれだけの殺意を向けられていたのかと。
 しかし、ジャックは落ち着いた声を放った。

「あなたの事情は、よく分かりマシタ」

 その物言いに、馬場はカチンときた。

「何を分かったってんだよ」

 本当は、理解しているのだ。馬場は、自分の動機の下らなさを。
 だが、だからと言って止めることもできない。

「笑えよ」
「笑いマセン」

 ジャックが嘲ってくれれば、それで箍が外せるのだ。

「おかしいだろ!」
「おかシクナイ!」

 だがジャックは頑なだった。
 彼の能力は、現象としては念話に近いが、精神的な意味合いはかなり異なる。
 話し手は声を出す感覚で話すし、聞き手は声がちゃんと音として聞こえてくる。
 だから、より感情が伝わる……わけではない。
 念話のほうが、感情はそのまま正確に伝わるに決まっている。
 だがそれでいい。
 この能力の真髄は、完全な伝達ができないがゆえに、言葉を尽くして正確に伝えようと“必死になれる”ことだ。

「おかしくナイ」

 実際のところ、ジャックは本心を言っているわけではない。
 エライヒトの気分で庶民が虐げられるのはよくあることだと知っているのだ。
 だから、ここを切り抜けるための言葉(武器)を探していた。

「あなたがヒットリサンを恨むのはおかしくナイ。デモ、それでヒットリサンを殺したラ……」

 そして、見つけた。

「この先、あなたがどんなビッグになってモ、それはヒットリサンに届かないンデスよ」
「は?」

 ジャックは、言葉を継ぎ足す。ゆっくりめに、言い聞かせるように。

「ダカラ、“見返してヤル”コトが出来なクなルンです。『ザマミロ』って」

 馬場は、不意に恐怖を感じた。いや、もう手遅れなのかもしれないが。
 確実なのは、この言葉を最後まで聞いてしまったら、自分はもう目的を果たせないだろうということだ。

「こいつ!」

 溜めていた『ビッグバンバン』を、ジャックを殺すつもりで放った。
 ジャックの体は吹き飛ばされ、仰向けに倒れた。
 口を開く様子はない。
 それでもなお、声は、声は止まらない。

「モチロン、あなたが勝手ニそう思うコトはできマス。でも、ヒットリサンがそれで現実に悔しガルコトは二度ト無くなりマス」
「もうっ! もうおめえはっ! しゃべるな!」

 馬場はジャックに近づき、直接、手を出してジャックの喉を絞める。

 無駄だった。


「虚しいデショ?」



「ちょっと……あんた!」

 一人が叫んだ。
 『ビッグバンバン』を食らったのがジャックの体越しだったため、致命傷を免れたのだ。

「あたしを殺しに来たんでしょ、その子には手を出さないで!」

 馬場は、ジャックに馬乗りになったまま放心していた。 

「ジャックの能力は、ただ“話せる”ってだけなのよ! 何も危険は無いの!」
「……だけ?」

 一人のその言葉に、馬場は反応した。
 ジャックを蹴とばし、再び『ビッグバンバン』を構え、一人に向ける。

「“だけ”、なわけがねえ。こんな凶悪な……」

 馬場は一人の目の前に来た。
 この火球を放せば、望み通り、一人は死ぬ。
 死ぬ。のだが、

「頭にこびりついてやがる」

 放せない。

「あの言葉を聞くまでなら、後悔しなかったろうに」

 間違いなく、殺す気でここまで来た。なのに。

「今オレがお前を殺したら、オレはきっとこの先“虚しさ”を抱えて生きていくんだろうよ。そういう“呪い”を、そいつは植え付けやがった」

 馬場は、火球を消し、一人に背を向けた。

「オレの負けだ。出頭するわ」
「待ッテ……クダサイ」

 去ろうとする馬場を、ジャックが呼び止める。意識が無いにもかかわらず。

「『この家ハ……ボクが……無理にオ昼の手伝イヲしようトして……火事にしてシマイまシタ』」

 それは、馬場を庇っての言葉ではない。
 この男を刑務所に入れて、頭を冷やされると、今度はまた何を考え出すか分からない。この男には仕事で忙殺されていてもらわないといけないのだ。

「……罪すら認めてもらえねえたぁ、人生二度目の屈辱だ」

 一瞬暗い表情を見せた馬場は、目をギュッと瞑り、開いたときには『ビッグ馬場』へと“戻って”いた。

「HEY! そんじゃお前を見返してやる分まで含めてビッグになってやんYO!」



 それから、3日が経った。
 山居医院はしばらく休診となった。
 仮住まいの賃貸で、直助は一人とジャックの手当てをしている。
 彼は大学から戻って医院と2人の惨状を見た時、とても驚いたが、ジャックが例の“設定”を答えると、それ以上の追及はしなかった。
 一人よりジャックの方が怪我と火傷の程度は酷かったが、魔人の回復力だろうか、治るスピードは速かった。これが病にも有効ならよかったのに、と、思わずにはいられない。

 ジャックはベッドの上で思い出していた。
 あの戦闘中、瓦礫の中で、馬場でも一人でもない“誰か”の声を聞いた。

「オトーサン」
「なんだい? どこか痛むのか? それとも欲しいものがあるのか?」
「……鏡、デス」
「ああ、分かった」
「ソレから、少し部屋ヲ離れてイテクダサイ」
「ああ」

 直助は手鏡を持ってきて、ジャックに渡した。
 ジャックも年頃であるから不思議には思わなかったが、その使い方は直助の想像とは違っていた。

「あなたが、あの時ボクに話し掛けテイタ人ですネ?」

 ジャックが声を掛けると、鏡の中のジャックの顔の代わりにスーツ姿の男が現れた。

「ええ。ようやくお目にかかれました、山居ジャックさん。私は鏡助と申します」
「ボクの名前ヲ……」
「あなたのことは調べさせてもらいました。魔人能力もです」
「……」
「“ここ”は“別の世界”なので、あなたの能力の射程範囲に入れませんでした。あの時アドバイスできればよかったのですが……いや、でもお見事に切り抜けました」

 わざわざ一介の病人でしかないジャックのことを調べるなど明らかに怪しい。
 この男の素性は何だろうか。
 “鏡の中”にいる男……ジャックにはひとつ思い当たることがあった。
 向こうばかりこちらのことを知っているのは気持ち悪いので、ジャックは尋ねた。

「あなたは、『イグニッション・ユニオン』の……」
「そうです! あの舞台を作ったのが私です」

 と言っても、C3ステーションの交渉ルートも何も知らないので気休めの質問でしかない。
 むしろそんな大イベントの裏方を一手に担っていた人物がジャックに何の用があるのか、謎は深まるばかりだ。
 ジャックが考え込んでいると、今度は鏡介のほうから話し掛けてきた。

「あなたは1年前、“タロット”を一度は手にし、しかしそれを受け入れませんでした」
「ナゼそれを……」
「話してくれませんか?」

 ジャックは鏡助の目を見た。
 結局、鏡助について大した情報は得られていない。
 にもかかわらず、なぜか信頼してもいいような気がする。
 彼のその目に、ジャックのよく知っている“安心感”が宿っていたからだ。

「あれを拾っタ時、少しダケ思いマシタ。ボクには戦いハデキないケド、皆の願いヲ叶エルことはできルンじゃないカ。ボクの願い――世界平和の夢も叶えラレルンじゃないカって……」

 しかし結局は手放した。
 誰かを犠牲にしてできる平和など……と考えたわけではない。
 ジャックは“平和”を心のあり方とは思っていなかった。
 誰かが誰かを恨もうと、暴力をさせない状態に人々を縛り付けることが“平和”なのだ。

「諦メたのは単純に、ボクに力が足りナイと思っタからデス。腕力に屈しナイ程の、言葉のチカラが」

 鏡助は、少し間を置いて返した。

「成程。ですがあなたは、今度こそ巻き込まれます」
「何ニ……」
「山乃端一人さんです。彼女はもう既に大きな流れの中にいます。先日の襲撃はその前哨戦といった感じでしょう」
「ヒットリサンが?」
「おそらく、命を狙われ続けます。私が対処できればよかったんですが、とある事情でそうもいかないのです」
「それヲ、ボクが守ル……」

 命を狙ってくるのは、おそらく魔人だろう。
 ならば直助に頼れるのは医療面のサポート程度だ。
 魔人である自分が、ひとりでやらなければならない。
 事態の重さに、頭がくらくらしてくる。

「安心してください、あなたにはきっと、協力者が現れるはずです。今は、どんな方々かは言えませんが……」

 鏡助はスーツの内ポケットから懐中時計を取り出し、時間を確認した。

「すみません、そろそろ彼らのところにも回らないといけないので、私はこれで失礼します」

 そして、鏡の枠外へと――

「一人さんのこと、頼みました……いえ、これを私が言うのはおかしいですね。あなたの家族を、どうか、救ってください」

 ――姿を消した。
 ジャックはそれからしばらく、直助を呼ぶことを忘れていた。
 鏡助の持つ懐中時計は、一人の持っているものと同じだった。そのことが強く印象に残っていた。

第一話へ続く
最終更新:2022年02月06日 16:25