昼と呼ぶには少し影の多い時間、白い部屋の扉は乱暴に叩かれた。

「どちら様ですか」

椅子に座った人物は落ち着いた声で言う。膝に抱えられたニワトリは首を少し伸ばしただけで鳴きはしない。

「貴様は誰だ」

しばらく間を置いてドアの向こう側から返答がある。その声はくぐもっていて性別や年齢を判別することが難しかった。

「不調法を嗜める形式的なやりとりは抜きにしましょう」

単調なリズムの電子音。
掃除の行き届いた清潔な部屋。
そこに眠るもう一人の人物の目を覚まさないように彼女はゆっくりと立ち上がった。
利口な家禽は動作の前にそれを察していたようで、既に硬い床に蹴爪を立てている。

「私の名前は端間一画。相談屋さんです」
「そうかい。あいにくこちらは余計な奴に素性を明かしたくはない。だから扉を開けないし貴様に開けさせもしない。どうしても名前が知りたいというのならば『死神』とでも呼べ」
「それは私かこの人の命を奪いに来たという意味ですか?」
「貴様は予定に入っていない。それに今回は様子見だから、すぐにでも立ち去るよ」

扉は上部に磨りガラスのはめ込まれた金属製の引き戸であったが、一画はたった5センチメートルの厚みもないその一枚板の向こう側に部屋の内部をなんとか探ろうとする気配を強く感じていた。
やがて埒が明かないと考えたか何か納得の行く成果を得られたのか気配が止み、場の緊張はわずかばかり緩められた。

いくつかの問答を交わすと、『死神』は廊下から姿を消した。

開かれた扉の先には部屋と同様に真っ白な廊下が広がっている。
右方突き当りの曲がり角からペタペタと足音が響いたが、現れたのは隣室の男子小学生で『死神』の風情は感じられない。

足元のニワトリと共に彼に挨拶をすると、一画は再び部屋へと戻った。

昼光は既に南天を下りているが、部屋の主は未だに寝息を立てている。
そろそろ目を覚ましてほしいとは一画も考えているが、この人が瞼を開けたならひどく驚かせてしまうだろうことも予想ができた。
もしかしなくてもここを追い払われるかもしれない。

主人を驚かせないように、自然物音は立てないように身体が覚えた。
ニワトリも大声を上げないように心得ている。

この時間を終わらせるのは『死神』の再度の来訪か、自分自身のヘマか。
一画は席に戻り、枕元へと目を落とした。


——


苛烈な昼の日差しの下、ぬかるんだ土手の草原を行く。
マイと呼ばれるその少女は目的地も無く、ただ泥と湿気と夏日と青空と積乱雲とぬるい風と流れはあっても濁り切った川と親と自分とを恨み、フラストレーションに流されるままに足を運んだ。

行く手にはかつては小さな工場として利用されていた小さなコンクリート製の廃墟。
錠の壊された扉から上がりこむと、埃だらけの広間には湿った冷気が立ち込めている。かつて置かれていたはずの機械設備は跡形もなく取り払われ、部屋の隅に残された段ボールの中身やや机の上に残された製図用品からかろうじてこの空間の過去を窺われた。

他にも誰かが利用したのだろう、弁当の容器やペットボトル、スナック菓子の包装、漫画雑誌に使った後のティッシュペーパーのようなゴミが乱雑に放り散らかされている。
ヒビの入った窓ガラスは内側からベニヤ板とガムテープで塞がれ、烈日から孤独な暗闇であることだけが退廃の積み重ねられたこの廃屋を天国に変貌させていた。

スクールバッグから紙パックのアイスティーを取り出すと、マイはそれを一息に飲み干した。人肌ほどのぬるさが今日一日で流した汗を飲み下しているようで逆に心地いい。
鞄の底に小さく畳んであったビニール袋に潰したパックをしまうと、足元の埃を軽く手で払い、制服のスカートが汚れることに少し躊躇しながらも腰を下ろす。
広大な闇の中、うるさかった蝉や人の声も遠く離れて一人じっとうずくまっていると、これまで生きてきた社会から取り残されたような不安と自分以外の世界が滅び去ったかのような喜びが同時に胸に押し寄せてくる。
バッグには潰れたビニール包装のサンドイッチが入っていたので、腹は空いていなかったが今の言い知れぬ感情をスパイスにゆっくりと味わうことにした。
卵サンドを完食し、ハムとレタスのサンドにも手を伸ばす。

壁面のベニヤ板の間隙から差し込む正午の厳しさは心持ち和らいだように感じられたが、スマートフォンを開いて時間を確認する気にもならなかったし、スケジュールなんて無いのだ。
どうせなら夜になった時にこの心地いい廃工場がどのような空間となるのかを確認するまでは帰りたくない。

端から少しづつ齧っていると、不格好なサンドイッチからレタスの小片がこぼれ落ちる。マスタードとマヨネーズがべったりと塗り付けられた黄緑色の水っぽいものが不潔な床をさらに限りない汚れへと格上げした。

「あー、もったいない……」

マイには拾い食いをするような意地汚さも衛生観念も備わっていなかったが、普段ならばテーブルの上で食べるようなメニューが一瞬で食材ではなくなる感覚を味わうのは久しくないことだ。

その汚物を躊躇うことなく咀嚼する者がいた。

シャキシャキと音を立ててベタベタの葉野菜を食べきるとマイの手元、清潔な白いフワフワに物欲しそうな目を向ける。

クックドゥー!

そいつは恰幅の良いニワトリだった。


扉の閉まる音がする。
食事に夢中になっている間に誰かがこの建物に入ってきていることに気が付かなかったらしい。

「へえ、美味しそうなものを食べているね。シャンテクレールも気にしているよ」

暗闇に佇むのはレースのシャツの上にチョッキを着た大人の女性だった。シャンテクレールと呼ばれた雄鶏は飼い主のもとに駆け寄るとクルクルと小さく呟いている。
あまりにも気安い態度に、マイは戸惑った。かなり好き勝手に利用されている痕跡は残っている廃工場だが、目の前の女性がここの本来の管理者であれば大目玉を喰らうかもしれない。下手をしなくても他のゴミもマイと結びつけられるだろう。

既に不法侵入は犯しているとは分かっていても他人の分まで面倒を被るのは御免だった。

「あの、勝手に入ってすみませんでした。暑くて体調を崩しかけていたんです。一休みする場所を探していたらここのドアが開いているのに気が付いて…」

先んじて謝ろう。勢いで誤魔化して適当な所で立ち去ろう。

そう考えて立ち上がり頭を下げたマイだったが、頭を上げた時に見えたのは女性の冷ややかな表情だった。
冷や汗が頬を伝う。
相手の表情には謝罪を聞き入れるような色は一切見えなかった。

再度頭を下げたマイの耳に気だるげな女の声が入ってきた。

「美味しそうなものを食べているね。シャンテクレールも気にしているよ」

先程と同じセリフ。同じ声音。
チラと目を向けると注がれる視線と目が合ってしまった。

「美味しそうなものを食べているね。シャンテクレールも気にしているよ」

マイは恐ろしくなってこの場を立ち去りたくなった。しかし出口との間に恐怖の根源が立ち塞がっているのだ。
ロボットか病理的精神の持ち主か、単に人を追いつめるためのテクニックなのか。表情のない顔からは何も読み取ることができない。

「美味しそうなものを食べているね。シャンテクレールも気にしているよ」

女は右手をマイに向けて伸ばした。
殴られる、と予感して躱した彼女に向けて、女は掌を向けていた。

サンドイッチをそこに乗せると女はそれを二つに割り、片方をバリバリと咀嚼し、他方をシャンテクレールへと与えた。


「ありがとう。腹が減っていたんだ」

特に喜びも感謝も伺うことのできない表情で、女はあっという間に渡されたものを完食した。シャンテクレールも小さな嘴で同じペースを見せたのは魔法か何かのようだった。
マイは再び床に座らされ、二人がパンを食べる様子を半強制的に見守らされたが、緊張がこの異常なシチュエーションを異常と感じさせてくれない。

女がこの建物の管理者でも所有者でも関係者でもないと告げた後にもそれは同様だった。
マイはこの廃墟に入ってくるのは不良学生やホームレス、怖いものみたさの大学生や動画投稿者、あるいは逃げ場所を探す犯罪者ぐらいのものだと予想していた。
彼女自身ここに入るのは初めてだったし、実際にどのような顔触れがここに立ち寄るのかなんて知らなかったが、インターネット上の噂話や拙い推理によって廃墟とはそういう場所であると信じ込んでいた。

ニワトリを連れた女は見るからに成人していて、ホームレスという身なりでもない。撮影用具も手にしている様子はない。
だから初めはここの関係者だと思い込んでいたのだ。しかし本人がそうではないと否定している以上、その正体で思い浮かぶのは犯罪者だ。

「取って喰らいはしないよ。お喋りでもしようじゃないか」

口から頬だけで笑顔を浮かべると、女は勝手に喋り始めた。

「私の名前は……そうだね、イチとでも呼んでくれ。君のことはなんて呼べばいいかな不良少女ちゃん。」
「……マイです。そんな不良に見えますか」
「だってこのサンドイッチレジに通してないだろう」

バレた。万引きも不法侵入も今日が初めてのことだった。財布の中身が足りていないことに気が付き、その場の勢いでサンドイッチをバッグに突っ込んで持ち帰ってしまったのだ。アイスティーも他のスーパーマーケットで手を出してみたが、見咎められずに成功した。

しかし何故それを店からは遠く離れた場所で見抜かれたのか。ずっと見られていた、とは流石に考えにくい。

警戒する様子のマイに、イチは今度こそ本当にご機嫌の笑顔を見せた。

「当たってた? いや、本当に勘だったんだけどね。結構当たるもんなんだ。カマかけてごめんね」
「外れてたら失礼な発言この上ないと思いますが」
「外れてないんだから別に良いじゃない。私なんとなくその人の財布事情とか一目で分かるの。すごい特技でしょ」
「尺度がきっちりしててどのような相手でもほぼ確実に当たるというのならばすごいんじゃないですか」
「当たるよー、もうすごく当たる。滅茶苦茶当たるんだから」

急にフランクな態度を取ってきたイチに対する警戒は一層強くなる。マイの弱みをこの女は何かに利用しようとしている。

「それで要求は何ですか。あまり無茶を言いつけられたら私だって警察に行きますよ」
「要求だなんて人を何だと思ってるのマイちゃーん。私はカワイイ女の子とここで楽しくお喋りしたいだけなんだけどなあ」

「ここ」があまりにも不自然すぎる。あまりにも暗く汚いこのロケーションは落ち着いて話をするのに向いていない。それだというのにイチはこの場を離れようという素振りは一切見せずにどっしりと腰を下ろしてシャンテクレールを片手で遊ばせている。

それに、この女は魔人だ。

マイの魔人能力『開幅術(Raveltomy)』がそう告げている。自身も同じ魔人とは言え、危険な魔人が数多く世に隠れているというのは単なる偏見ではないとマイは考えていたし、それを実証するような目にも何度か遭っている。

薄暗い廃墟に自分を留めようとする推定犯罪者に気を許すことはできない。しかし事を荒立てるというのも犯罪者魔人を相手には無謀なことこの上ない。
隙を探しながら話をするしかないのだ。
マイも相手に合わせて顔だけでも笑顔を浮かべるように気を付けた。暗い中でも歯や目に反射する光は目立つ。謎の勘で弱味を握ってきた相手に素顔を長く見せたくは無かった。

「カワイイだなんて長らく言われてないので新鮮ですね。それで何の話をしたいんですか」

もしかしたらその話題にこの女の狙いがあるのかもしれない。
化かし合いや騙し合いなんて経験が無いので、何かを話して満足してもらえるならプライバシーでもなんでも暴露して切り上げたいという気持ちが既にマイの中にあった。

「なんで万引きしたの」

違う。絶対にこれはマイを引き留める目的と結びつく質問ではない。しかし下手に嘘をつけばどうなるかも分からないので、ある程度正直に話した方が良いだろう。

「何故でしょうね、あなたが察した通り今現在所持金が無かったというのも理由の一つではあると思います。でもそれよりも……」
「それよりも?」
「只々攻撃的な気持ちでしてしまったような気がします。不良にも憧れてるところがあったのかな。元々すごく真面目な学生ってわけじゃないですけどね。テストや模試の点数は良いんですよ。教科によっては県内でも一桁の順位は何回か取っていますし」
「でも魔人じゃ学校のテストで何点取ってても将来なんて無いに等しいよね」

絶句した。これは先程の万引き疑惑どころではない、確信を持った言葉だ。

「マイちゃんぐらいの年で無理した感じでノーフューチャーな行動してる子は結構な確率で魔人だよね。それ以外の要因の子もいるけど慣れたら判別はできるし」
「勘でそんなに分かるものですか」
「経験則が強いからね。山ほど見てきたんだ」

イチはニヤニヤと笑っている。その笑顔に不安を感じさせるのは背後の天井が高く薄汚れた空間のせいではない。楽しそうな表情と比例するような不吉な雰囲気は間違いなく本人から湧き出てくるものだった。
魔人だから狙われている、というのはどうやら間違いがなさそうだったがその先に何を目的にしているのかは分からなくひたすらに不気味だった。

「それで? 攻撃って誰に対する攻撃だったのさ。まだマイちゃんの人間像が全く見えてこないなあ、詳しく聞かせてよ」
「最初はもっと簡単にバレるものだと思っていたんです。商品も持たずに店を出たならば取り押さえられることも予想していました。別に捕まりたかったわけではないです。ただ、自分が社会に必要ないような劣ったものとして見られるものになりたかった。軽犯罪は丁度良かったんです」
「その割に私をここの管理人と思い込んでた時には誤魔化そうとしてたね。アンビバレンスな感情の動きってやつかな」
「攻撃したかったのは母親と自分に対してですよ。万引きはまだしも一人での不法侵入は稚気から出た遊びが法に抵触したとしか受け取られないでしょう。怒られはするかもしれませんが笑って許されてもおかしくないです。そもそもここに入った時は暑さを避けることしか考えていませんでしたがね」

そしてマイは続けて語った。母との確執が生まれた原因、彼女が生まれ育った家庭について。


20世紀の終わり頃、マイは両親の下に生を授かった。
父は絵画や塑像を中心に創作を行うアーティストで、母はその手伝いをしていた。ずっと昔は作品が売れずに苦労していたらしいが、マイが生まれる頃には芸術に興味のない人間でもどこかで名前は聞いているほど著名な人間になっていたという。

子が物心が付く頃には、亭主関白な家庭(さくひん)が完成していた。
父親が作った作品は特に情熱や時間、技術を掛けずに制作したものであっても挙って有名企業や富豪が買い集めようとしたし、過去の作品が本や雑誌に掲載され、デザインが利用されるという時にはインタビューが組まれて広告塔になった。
ネームバリューが金を生み、オーソリティーとして君臨し、大金が懐へ転がり込んだ。

稼いだ金品は豪勢に使うことがインスピレーションを刺激すると本人は嘯き、外では贅沢三昧な日々を送っていたが家庭内へは気が向いた時にしか稼ぎを還元しなかった。
帰る家である邸宅は豪邸だったし食事や洗顔・入浴道具等には出費を惜しまなかったものの、広い家にも関わらず手伝いを雇うことも自動掃除機を買うことも許さなければ、毎食のメニューは指定したものしか作らせない。

これを破ると妻には贅沢をさせているのに自分の仕事もできはしないと多くの人の前で喧伝し、恥をかかされた当人からの反論も許さなかったのだ。

子供だったマイにとって、母親は物静かで滅多に怒ることは無いけれどなんだかいつも怖い人で、父親は欲しいものは買ってくれないけれど明るくて有名で誇らしい良い人だった。
小学校、中学校に上がるころにもその評価は変わらず、むしろ周囲から父親を褒められ羨ましがられる機会が増えるほどにこの評価は絶対的な物として固定された。

母は父に詰られ無視されたが、マイは彼に容姿を褒められ、ベタベタと表現してもいいほどに遊びに誘われた。
母の側に問題がある。
その頃はマイもそう思っていた。

しかし長ずるにつれて次第に分かるようになる。
父が愛しているのは娘の若さ。母から去って行った過去の幻影なのだと。
周囲に相談したところで芸術家の資質がそうさせたなどと評価されるのが精々で真剣に取り合われなかった。

性的な目で見られていたわけではない。
だから他人の評価も全く的を外したものではないのだろう。
ただし、父の持つ芸術家の資質というものが、想像されるよりもずっと俗っぽいものだったという、ただそれだけの話だ。

遊びには連れて行っても、着る物、食べる物、遊ぶ物は全て彼が決めた物に限られた。
自由に使えるお金も貰ったことは無いし、母同様に財産の管理は娘の物にまで行き届いていた。
母ではなく娘を気に入ったのは、血の繋がりからかもしれないし、若さからかもしれない。

ただ、愛でるという行為は支配の形態しか取られなかったのだ。

マイが高校一年生の冬、風向きは変わった。
芸術活動への情熱などとうに失っていた父親はそれまでも積み上げていた権威を利用して小手先だけの創作を続けていたが、新星と仰がれる芸術家が自分の作品を盗作されたと吹聴したのだ。

十分な地位を手に入れていた父は慌てなかった。一部で人気が出始めているとは言え、新参者の戯言など縁あるお偉方、顧客達は耳にも入れないだろうとタカをくくっていたのだ。
実際、若い芸術家の指摘はきちんと弁解すれば難癖としても処理することができるような微妙な線だったこともある。

父は油断した。
時勢は若者を選んだのだ。古くなった神輿が価値を自ら損耗していることに得意客の多くは気付いていた。
これまで付き合いを続けていたのもあくまでも算盤を弾いた結果そちらが得だと判断していたに過ぎず、新たな商機を若者に見出した後には父に由来する価値を売り抜いた。

真面目に創作を続けていればそれでも底値を割ることは無かっただろう。
しかし晩年の彼の作品は過去の名誉が鍍金をしている駄作に過ぎなかった。
それを改めて正しい目で見た人々は、過去の名作もキャンバスの裏しか見えないほどに執拗に目を光らせるようになってしまったのだ。

盗作の訴えは一件に留まらず、便乗して訴訟する者も相次いだが、芸術畑と法律畑では作物の育て方が違う。
創作者達の間ではこれまでわざわざ訴えることはしなかったような暗黙の了解があったような表現もいくつかが盗作と見做され、この判決を受けて新たな訴えが起こされた。

父があれほど厳しく支配し続けて来た財産は、見る間に剥ぎ取られていったのだ。

「恥知らずの盗作者」「成金ロートル」「美術界のソーカル事件」「美術界のゴッドハンド」「美術界のジョーカー(?)」「カス」

衆口は日々新しい呼称で彼を揶揄し、非難するというよりは玩具にした。
その矛先は当然ながら彼の妻子にも向いて、近所付きあいや友人付きあいなども絶えてなくなり、親戚からも距離を取られるようになった。

それでも母は変わらず押し黙り、むっつりとした態度を変えずにいた。学校で浮くようになっても、マイはそんな母のことは気丈だと内心評価していたものだ。

態度を一貫させる母とはうって変わって父の替わり様は凄まじかった。
母に対して偉そうにする所だけは変わらなかったが、豪邸を売り払うと安アパートで安酒を一日中飲み続ける生活を送り、娘にも時に乱暴に当たるようになった。

最期は昔の恋人だったという人と練炭自殺を謀り、ピンク色の肉塊になった所を北国の道の駅駐車場で発見されたのだ。

父の末路を知った時、マイはどこか安心していた。
昔ならばいざ知らず最近の父は母が外で稼いできた金を食いつぶす側に回っていたし、夜遅く帰って来ては騒ぐし乱暴を働くので眠る時間も取れなかったのだ。

やっと自分の生活ができる。母と二人で自分達の人生を歩けるようになるだろう。
そう考えていた。

父がいなくなった後、母はしばらく変わらずにムッツリとした態度を貫いていた。
生まれてこの方そういう人間だと思ってきたから、マイもそれは気にしなかった。
しかし段々と口数が増え、表情も豊かになった。
娘へ向けて生前の父への怒りを口にし続け、父が死んだことの喜びを訴え続けた。

確かにマイも母の言には共感できた。
しかし、長年抑え続けた感情の発露は感情の制御方法を忘れさせることにも繋がったのか、母のそれはとにかく長く、激しかった。

家にいる時間の大半を怒りと喜びに費やし、娘にも同じだけの長さ激しさで共感することを強いた。
同居者が同様に怒らず、喜ばないと見ると深く悲しみ、恨み、「私と違ってお父さんに可愛がられてたもんね」と妬みをぶつけた。

やがて自分の娘ではなくあの男の娘という視点でマイを見るようになると、生涯で最初で最大の復讐対象として母は家庭内での父を模倣するようになる。

家では酒を手放さなくなり(働き先もアルコール類の提供と会話を業務とする飲食店だったので実際の所は寝る時間以外アルコール摂取を絶やさなかった)、娘の自由を絶対に許さなかった。

マイが魔人になった時も魔人は忌み嫌われるものという前提で、そうなるのは当然だったと母は笑っていた。

曰く
「私とはかけ離れたおぞましい存在にお前が近づいていくほど安心できるね。まともに教育した覚えもないお前に私が残したのは若い頃の容姿ぐらいのもんで、それもどうせ下らない男に食いつぶされる餌にしかなりはしないんだ。他に残る要素全てがあの男の遺産だと考えれば腐っていくのを見るのがこの上なく愉快だねえ!」
とのことである。

まともではないが、母は被害者だ。
これまでに反抗したことだってあるが、叱られたのはただ親の支配を逃れること一点のみだった。
ならばいっそのこと、親孝行として、意趣返しとして、徹底的にダメな人間になってやろうと決めたのが先週あたりのことで、今日の万引きもその流れで行われたことだ。

母親になんとか反抗したいが、哀れな彼女を攻撃するなら自分が加害者と同時に被害者を担わないことには気が引けて決行できなかった。
自分自身を哀れな罪人へと堕とすことだけが、その二つを満たし得るという考えが窃盗を行わせたのである。


以上のようなことをマイは語った。
犯罪者かもしれず、脅迫者である存在に対してここまで胸中を晒す義理は無かったのだが、つい熱が入ってしまった。

パチパチと拍手。
眠りこける雄鶏を胡坐をかいた脚の上に、イチは涙を拭くような素振りを見せたがその袖口は全く濡れていない。

「うんうん、凄いね。物語みたいだね。あの有名人の娘だったんだね。出会えたのが奇跡かもしれないね」
「別に楽しませるために語った訳ではありません」
「それじゃあ何? 共感? 同情? もしかしてお金が欲しかったのかな」
「もらえるならお金は欲しいです。ですが金銭が欲しくて話したつもりはないですよ。無論共感も同情も期待していません」
「じゃあこれをあげよう」

ペンのようなものを無理矢理握らされた。突き返そうとしても受け取ろうとしない。それどころかイチはマイを帰らせようといきなり急かし始めた。

「引き留めて悪かったねえ。家で待ってるのはイヤ~なお母さんなのかもしれないけど早く帰った方が良いよ。万引きなんかして当たるよりも家族として話し合おうとすることが大事だと思うなあ」
「そんなこととっくに試しましたよ。でも駄目だったんです。これは返します」

開幅術(Raveltomy)』を使うまでもなくこのペンがあからさまに怪しい。
念のため使って確かめると、案の定握らされたものに魔人能力の痕跡がある。きっとこれを持たせる機会を伺っていたのだ。
これを持ったままでいるとどうなるのかは分からない。
しかし無関係な人間を無理やり巻き込んだ企みというものは、基本的に善意に基づくようなものではないと人生経験の浅いマイでも断言することはできる。

「でもさ、それって諦めてるだけじゃないの?」

イチの口調が少し柔らかくなったような気がした。

「お母さんが被害者でもあるとは思えてるんだよね。だったら憐れみからでもいいからさ、救ってあげようという意志を貫いてみようよ。というより感情を差し挟む必要も無いかもね、自分が最終的に楽になることを考えるのでもいい。そりゃもちろん大変だよ。今のお母さんは明らかに加害者側の人間だし、マイちゃんの心が折れそうになるかもしれない。それでもさ、もしかしたらに縋るのは悪いことじゃないと思う。そうでもしないときっと不可能と思えたことを可能にすることはできないから」

シャンテクレールは目を覚まして何かを促すようにマイの脚を突いている。広大な二人きりの廃墟にイチの声がよく響いた。

「私が渡したのはお守りだよ。マイちゃんが挫けないようにってお祈りが込めてあるから。駄目だった時はまたその時に考えよう。以前無理だったことが今なら簡単にできるってことが世の中には結構あるもんだからさ」

善意、なのだろうか。マイは分からなくなった。
ひょっとして疑い過ぎていたのかもしれない。迷いのある今、『開幅術(Raveltomy)』は何も教えてはくれない。
イチが本当に応援してくれているのかどうか、もう判別は付かなかった。

マイを送り出すイチの瞳には、確かに祈っているような真剣さを感じる。
どちらにしてもいつまでも廃墟に居続ける訳にはいかないのだ。犯罪者だとしてもそうでないにしても不審者から解放されるのだからそれに越したことは無い。
どうしても危ないと判断したならば、渡された物は捨てればいいだけの話だ。

扉をくぐる直前、イチは最後に言い残した。

「迷惑なんてさ、生きてる限り誰であっても誰かにかけてるものなんだよ。家庭内でそこまで激しい例は流石に普遍的とは言えないけどさ。お父さんは死んじゃったからもう無理だとしても、お母さんもマイちゃんもまだ生きてるんだから、それなりに迷惑かけあえばいいよ。お互いにそれを受け入れ合えるような状況ができれば、今とは違ってどこよりも気楽な場所にだってなるはずだから」

図らずもちょっといいこと言ってるな、とマイも耳を傾けてしまったが、すぐに振り切って外へ出るのだった。


空気は未だに昼の熱気を残していたが、朱色の輝きを備えた日差しは入道雲の妨害もあってかつての威力を失っている。
河川敷特有の草と水の香気漂う風は、汗の沁みた夏服には寒いとさえ感じられた。
今日は自分でも混乱して普段では考えられないほど歩いたので、家に着くまではかなり時間がかかるだろう。

今日は母の出勤日では無かったはずだ。朝早く帰って来て風呂も入らず寝ていたと思う。
イチの忠告に騙されたと思って従ってみよう、そんな気分になることができた。
生まれて初めてと思えるほどに心が軽かった。早く家に帰りたいとここまで強く願ったのも。

足取りが軽い。
ローファーが跳ねるような心地がした。
走らなくても走っているようなスピードが出る。
足裏から伝わる柔らかい土の反作用が気持ちいい。

風を切るステップの最中、突如マイは呼び止められた。
妨害者は言った。

「自己紹介をしておこう。俺の名前は山ノ端一人だ」


声を掛けてきたのはスーツの男。背は特別高くは無いが低くもない。
日本人には珍しく、頬から顎までを覆う柴のような髭がよく似合う精悍な顔つきをしている。
黒縁のメガネはひょっとすると伊達かもしれない。お洒落には気を使っている、という印象だった。
そして『開幅術(Raveltomy)』は伝えている。彼が魔人であることを。

「すみません、急いでいるんで」

本日二度目の不審者遭遇だがもうこれ以上構うつもりは無かった。足早に横を駆け抜け、スピードを増した。

「いいや、構ってもらおうか。お前の都合など知らない。俺が優先だ」

思うようにスピードが出ず、あっという間に追いつかれてしまった。『開幅術(Raveltomy)』はこれが魔人能力の結果だと言っている。
逃げることができないならば、その目的を見極め、諦めてもらうか払うものを払ってここを離れたい。山ノ端一人を名乗る男の話を仕方なく促す。

「話を聞いてくれるのか、ありがとう。いや感謝するまでもなく当然のことだな。俺の話は聞かれなくてはならない。おっと前置きが長くなりすぎてはいけないな。簡潔に言おう、俺は山ノ端一人だが山ノ端一人でない」

意味不明の口上が始まる。話の途中で逃げようとしたがマイの脚は動かない。
今も彼の術中にあるということなのだろう。

長ったらしい口上は省略して纏めると彼は以下のようなことを主張しているのだった。

曰く、世の中には「山ノ端一人」と呼ばれる人間がおり、歴史の転換点となるイベントが起きる直前に命を散らすのだという。その死因の多くは悲惨な殺人であるらしい。
だが、「山ノ端一人」という名前を実際に持っている者は滅多におらず性別も実の所限定されていないが、その死亡後に起きた重大な事件から遡り、「山ノ端一人」とよく似た名前の人間が「山ノ端一人」であったのだと認定されると諡や戒名のように「山ノ端一人」の称号を賜るのだ。

現代の倫理に照らせば死者を利用して好き勝手をしているようにも聞こえる話ではあるが、観測は厳密に行われているし、「山ノ端一人」と目される人間は確かにその死亡時、運命に多大な影響を及ぼしているという結果も科学的な実証が済まされている。

これは平行世界や過去未来にも通じる絶対的な法則であるようで、「山ノ端一人」は資源として着目され始めた。

『ダンゲロスSSローンエッジ』は平行世界、過去未来から集められる限りの「山ノ端一人」をかき集めて殺し合いを行わせる科学的歴史的キャンペーンである。
一斉死した「山ノ端一人」のエネルギーは時空を捻じ曲げ、優勝者のあらゆる望みをかなえ続けるだろう。

マイの前に現れた男はその参加者の一人なのだと言う。
本名は山ノ橋一人(かずひと)
魔人能力はSSキャンペーンという単位でのメタ視点獲得。これまでにも『ダンゲロスSS受験戦争』『ダンゲロスSSリクルート』を勝ち抜くことで人生の上り坂を踏破してきたのだと自慢げに語ってみせた。

そしてマイは今回のキャンペーン、『ローンエッジ』参加者である山ノ橋のプロローグで成敗されるモブ「山ノ端一人」であり、先程から起きている怪奇現象はSS参加者がプロローグで必ず「山ノ端一人」を殺すことがルールで定められていることで逆説的に起こされた現象なのだと言う。

お前は何をしたって死ぬのだと、山ノ橋は笑った。

「どうやって死にたい? 実銃は流石に持っていないが改造エアガンならほらここにあるぞ。警棒も包丁も、毒ガスを発生させるための洗剤だってある。死に方だけは選ばせてやると言ってるんだ、優しいだろう? こういうアピールは読者によく響くからやってるだけでお前は感謝しなくてもいいけどな」

逃げられない以上、やることは決まっている。
マイは手の中を見た。イチに渡されたそれは、彫刻刀やデザインナイフにも似たペンナイフだ。
キャップを外すと、山ノ橋へ向けて襲い掛かった。

「プロローグでは俺が勝つことが決まってるからさ。抵抗しても意味ないんだよ」

その言葉を裏切らないように、刃は軌道を曲げ男の身体を避けて通った。

「本編は読者投票で勝敗が決まるシステムなんだけどな。敵側の溶離が決まった試合に出演した俺が塩試合するだけで決着が着くんだ。ルール上絶対負ける能力は送るなってことになってるけど俺が勝利するSSでは絶対勝つわけでルールには反してない訳さ」

警棒やガスガンを放り捨て、包丁一本で男は攻撃に転じて来る。
ギラリと輝く凶悪な銀にもまさか必中の運命が付与されているのではないかと危惧したが、それは慌てて距離を取ったマイの身体に触れもせず空を切った。


ここでマイの魔人能力について説明しよう。
開幅術(Raveltomy)』は開腹術(laparotomy)をもじったネーミングで、「腹」を掛け軸の単位「幅」という字に置き換えている。
その能力名の通り、マイは万象に関して腹や絵巻物を開くように、よく見ることができた。
ただしその絵の作者や背景知識、技術に関する知識は無いに等しい状態で見るようなもので、対象のことを直接詳しく知ることができる訳では無い。

3つに分けて要約すると、この能力が報せてくれるのは①明らかに周囲から浮いている違和感、②受ける印象と実際の対象の間での不和、③複数の対象を比べる中で共通している、あるいは似通っている内容だけである。

①対象が生物なら魔人か否か、そして生物でもそうでなくても魔人能力が介在しているか否かを自動的に判断し、その魔人要素が何時対象に関わったのかまで大まかに把握することができる。

②誇張、矮小化、虚偽の有無を確かめられる。対象がマイの受けた直感的な印象とどれだけ差異があるものかをなんとなく理解できるのだ。
印象と具体的にどのような差異があるのかは分からなくても、何か別の意図が介在しているということは一瞬で見極めることができる。
そしてそれが人間の関わる対象ならば故意なのか過失なのか、まで自動的に伝わってきた。

③は戦闘中に使えるようなものではないので

山ノ橋は決して優れた戦闘能力は有していない。魔人能力が恐ろしいだけで筋力も感覚器官もマイに大きく劣っている。

だから、追いつめられているようでも攻撃の隙は見極めることが容易だったし、空が暗くなるまで殺されずに粘ることができた。
これだけ戦闘が長引いてることが敵の本意でないことも『開幅術(Raveltomy)』が教えてくれている。
警察や見物人が一切気配を見せないというのは山ノ橋の影響かもしれないが、それでも万事が思い通りになる訳では無いという事実はいくらかの安心をもたらした。

「長引きすぎだ。プロローグの文字数が多すぎると読者に嫌われるぞ」

包丁を構えた山ノ橋、その背後に『開幅術(Raveltomy)』は反応した。

「チェーホフの銃ってやつだよ。劇中に登場した銃は発砲されなくてはいけないという一種のルールだ。改造ガスガンと警棒と毒ガスじゃあ準備が足りなかったかな。もう少し簡単にカタが付くと思っていたんだがね」

ポルターガイストのように銃と警棒と洗剤が浮遊し、マイへと襲い掛かった。


マイへと、ハジ「マイ」チカクへと、襲い掛かった。

ここは端間一画(マイ)のプロローグだ。


凶器は動きを止め、墜落した。
呆然とする山ノ橋を後ろから刺したのはもう一人の山ノ端一人、イチだ。

「ここまで代わりを引き受けてくれてありがとうね、マイちゃん。モブとしてくたばらずに済んで大助かりだったよ」

女はどこかへと歩いて行った。

やはり騙されていたのだ。
それ以上のことは確かめられなかったが、捨て駒にされたという事実だけは理解できた。
ペンナイフに何か仕掛けがあったのだろうが、魔人能力は既に発動していない。

事切れた山ノ橋の肉体は中空に鏡面が生ずると同時に一瞬で消失し、血痕も拭い去られた。
一瞬遅れて鏡面も影を無くし、一画の眼前にはごく普通の河川敷が戻ってくる。
あたかも今日一日夢を見ていたようだった。
それでも、握りしめられたペンナイフは全てが現実だったということを訴えている。

投げ捨てようとも思ったがそれは止めた。
今更空想に逃げ込むこともできない。
どれだけ癪に障る体験だとしても、どうせなら覚えておいた方が気は紛れる。
もう家庭を改善したいなどとは到底考えられない。

重い足取りで自宅へとたどり着くと、普段通り「おかえり」の声も遅くまでの外出を咎める声もない。
待つのはリビングでテーブルに突っ伏して寝ているのか起きているのか分からないただ一人の家族。
切れかけの電球が明滅する中、一画は母にに万引きをしたこと、そのことについて明日謝りに行きたいことだけを伝えると、ドロドロの白目を剥き出しにした笑顔が返ってきた。

「お前は本当にどうしようもないね。ああもっと利口な子供が欲しかった」

勝手にしろ、ということらしい。
ついて行く気は無いという決心も無言の内に察するしかなかった。

酒精香るこの家は、外よりもずっと暗い。


「警察には言わないで置いてやるけどさあ。本当にどういう教育受けてるんだろうね。普通は教われば分かるでしょ物を盗んだらいけませんって。悪いことだと分かっててやるんだから始末に負えないよ。子供でも十分分別が付く年齢でしょキミ」

翌日訪れた一件目の犯行現場、一画は怒られに怒られて少し手も出されたが、大事にはならず返してもらうことができた。
し二件目の店主は法律に則り罰を受けるべきだという考えで警察へ被害届を出し、一画は留置場へ送られる。

母親と顔を合わさない日々を数日過ごし、拘留施設にいるはずが快適に感じている自分がいることを一画は自覚する。
狭いはずの空間は限りなく広大な平野にも感じられ、蛍光灯の無機質な明かりがひたすらに暖かかった。

施設を出た後、地獄が待ち受けていた。
学校には万引きに関して連絡が行っているが、その処分として停学・謹慎を言い渡されたのだ。
クラスメイトや場所には全く執着など無かったが、家で母と顔を合わせる時間が増えた。

笑われる、怒られる、謗られる。

そんな時間がいつまでも続くようだった。母は蚊が顔に止まってもそれを気にする様子もなく家にいる間はほぼずっと呪詛を吐き続けた。
気質として一画は自ら悪口雑言を吐くこと、反撃しようとすることはなかったので精神に属するあらゆる才能が萎縮していくのみ。

謹慎中に学校が予定していた三者面談には母が全く顔を出すつもりがなく、予定を立てることもできない。

困り切った教師連中に母は「娘の学歴なんて気にしてないので中退させてもいいです」などと気軽に口にする。
しかしそれが光明となった。

一画は学校を辞めた。
家も飛び出した。
どうせ母が自分を探すようなことは無いのだ。

一画が頼ったのは数多く作られた魔人保護目的で作られたNPO法人の一つである。
様々な理由と単純な社会的差別から不自由に苦しんでいる魔人は少なくない。
通常の仕事に就けないならば犯罪に手を染めるしかなく、それがさらに魔人と非魔人の確執を大きくしている。

そのような事態を防ぐためのセーフティーネットとして日本ではいくつものNPO団体が設立されており、著名で社会的地位を築いた魔人が協賛することも多い。

一画は親元を離れた未成年魔人を中心に保護しているという団体を知り、頼みにした。
無事に保護を受け、住居や仕事を斡旋される中で彼女はこのような団体の実態を知る。
全ての仕事がそうだとは言わないものの、魔人が任される仕事は犯罪スレスレの内容や犯罪ではあっても見逃されているだけの内容、非魔人には耐えられないような身の危険と隣り合わせの内容というものが多くを占めていた。
他の団体の成年魔人と話してみると、そちらでは能力や腕力に物を言わせた暴力か性産業に従事するのだと言う。

世知辛い状況に囲まれていたが、家でじっとしているよりはずっとマシだった。

そして運よくありついた探偵業のアシスタントで、一画は天稟を発揮したのだ。


開幅術(Raveltomy)』改め『一画方』のここまで語られていなかった能力を今こそ説明しよう。
一画は家を出ると同時に元の能力名は捨て、自分の名前を押し出したネーミングを使うことに決めた。
上では絵や腹に例えて表現しているが、結局の所この能力は一画が意識の対象にした万象の「複雑さ」を余さず捉えるシックスセンスだ。

「複雑さ」とは何か。
それは造形や細かさ、どれだけの機能を持っているかに留まらない。
歴史的にどのような変遷を辿ったのか、どのような化学反応や物理的変化が今の状態を作ったのか、その材料は何か、趣味は何か、自然光の下ではどのような色をしているのか、どのような味や香りなのか、ある特定個人Aにこれはどのような影響を与えられるのか、ある個人Bには? ある特定グループXには? ある動物群αには? ……エトセトラエトセトラ!

実際には過去から現在に連なるあらゆる情報が詰まっている。しかしそれは例に挙げたような問題と答えの形で表示されることはなく、明快な言語や数字が表されるのでもない。

漠然としたイメージで言えば色とベクトルに表現されるテキスタイルとして「複雑さ」は表現され、一画の脳を刺激する。

これによって例えば自然には生まれ得ないパターンを魔人の印として見出したり、自分の中の印象が持つ一定のパターンと実際の対象のパターン間差異を見抜いて嘘や誤りを見抜けるのだ。

そして『開幅術(Raveltomy)』の説明時には割愛した③の用法こそが、この能力の肝だ。
例えばA.楳図かずお、B.「ウォーリーを探せ」のウォーリー、C.野比のび太の3つに対して『一画方』を使ったとする。
AとBに共通していてCには無いパターンとして赤白の縞々や帽子、成人男性、名前が「う」から始まることなどが現れる。
ここにD.藍衣(錦鯉の1品種)やE.生の霜降り肉を加えていくことで、赤白の二色で体の広い範囲が覆われているか否かのパターンを抽出できる精度は上がっていく。
ここに赤白ではない物も対象として加えていくことで更に完璧に近づいていくことだろう。
BとCの共通項である眼鏡や生物学上雄というような要素もやはり同じだ。

今例に出したのはキャラクターを見れば一目でわかる特徴に過ぎないため、能力の利便性が伝わりにくいかもしれないが、内面や本人の気付いてない要素に対しても抽出は可能であるため実質的な使い道は無限大と言えよう。

また、上に挙げた例で言えばA、B、D、Eのそれぞれの赤:白の比率を割り出すような用途にも利用可能だということまで懇切丁寧に説明すれば流石に『一画方』がどれだけ情報アドバンテージに優れた能力であるかはそろそろ誰もが理解できたはずだ。


話は戻って探偵アシスタントをしていた頃の一画。
調査依頼があると彼女は『一画方』によって調査対象の素性や現在位置を推測、依頼された情報だけ答え合わせをして何件もの依頼を速攻で終わらせてきた。
成功に成功を重ね続け、アシスタントには勿体ないと周囲からも見做されるようになり、遂に一画は独立した。

彼女が主となった事務所は「セメルデピンゲス」と名付けられ、大成功と呼んでもいい盛況を呼んだ。本人は誰にも詳細を語ったことは無いが、一画の能力が情報収集においては万能らしいと一部で噂が流れたことでフィクションの探偵のように警察の協力で事件解決に漕ぎつけたことも一度や二度ではない。

一番の大手柄、10億円を奪取した魔人銀行強盗「目出し帽(バンクラバ)」逮捕への貢献で表彰された時には全国紙にも顔が出たほどである。

誰もが羨むような栄光を彼女は手にしていた。
家で母と向き合っていた頃の窮屈さは無くなったし、確かにその時分と比べれば解放感はある。それでも、依頼達成や他人からの感謝、羨望や栄光の一切に一画は喜びを見出すことができなかった。

魔人能力が便利すぎて達成感を感じられないだとか、サクセスストーリーが急に訪れたものだから麻痺した幸福神経が混乱しているとかそういった理由ではない。

LEDの輝く壁も調度も真っ白に染め上げられた清潔な一室。
革張りソファで膝を抱え、一画は熟考した。

一体全体どうしてここまで何も楽しめないのか、その答えを探した。

分からないままに時間が過ぎていく。
眠気が体の芯を溶かしていく。

「今は何時だろう」

卓上のデジタル時計は5時を表示しているが、AMとPMの文字は小さくて寝惚けた眼には綺麗に映らない。

窓を覆う遮光カーテンには微かな薄紫色を呈していた


——


相談屋「セメルデピンゲス」の定休日、一画は地域の児童養護施設を訪ねた。
顔見知りになった子供も多く、何人かのヤンチャが近くまで駆けつけては話をせがんだ。
ダブルボタンのベストを引っ張る小さな手を優しく引き離すと、他の子供達も集まっている大部屋まで待つように言い聞かせた。
そこまでの短い距離でも我慢できないのか、駄々をこねそうになる男児の頭を撫で、唸る彼に足を度々止めながら一画は大勢が待つ場所へと向かう。

先生と呼ばれる職員が司会を進行する中で、一画は探偵として関わってきた事件について面白おかしく語った。
職員からの要望もあって話せるのは幼い子供の人格育成に差し障りがないような内容に限られたが、語り口で驚かせ、怖がらせる技術には熟達している。
話を終えると子供の勉強を見て、職員の雑務に手を貸し、レクリエーションに参加した。

その日は他人の似顔絵を描いて発表する日だった。
子供や職員が真剣な顔をして二人一組の作業に勤しんでいる間、一画はここの所連れ歩いているニワトリの美貌をスケッチブックに書き写していた。

一足早く作業を終えた園児ほどの背丈をしたの男児と女児が「なにかいてるの」「みせてー」と駆け寄るので、最新の一ページを彼らに披露する。

「えー、なにこれうさぎー?」
「へたくそだけどかわいいえだねーいやされるー」

結構な言い様だ。
しかし確かに、彼らの見たページに描かれているのは、すぐそこで体を丸くしている羽毛の塊とは似ても似つかない小動物をアブストラクトしてキュビズム的な技法で処理をしたものかと疑われるヨレヨレの線の集積だった。

「それでは私とあなた達のどっちが上手く絵を描けるか競争しましょうか。負けませんよ」
「えー、しょうぶにならないじゃん」
「おねえさんずっとひとりでかわいそうだったからきょうそうしてあげようよー」
「しかたないなー」

まだレクリエーションの時間は余っているので一画の提案は受け入れられた。
施設でも特に幼い彼らは単純に決められた作業に飽きて中断し、滅多に無い客に興味を寄せられて話しかけたのだ。
遊びがあるならばそこに飛びつく。

「完成しましたよー」
「おれはもうかきおわってたよ」
「みーちゃんはかみのけかいたらおしまい。うん、もういいよー」

園児二人は自慢げに年相応の画力で描いた一画の顔を笑顔で掲げている。一筆書きしたような髪と丸だけで書かれた瞳が愛らしい。

「おっ特徴を捉えてますねー。だけどお姉さんも頑張りましたよー?」

一画のスケッチブックには園児二人を紙上に直接落とし込んだような鉛筆画が残されていた。とても同じ時間で描いたとは思えず、そもそも先程のニワトリの時とはレベルが違う作品を見せられ、モデル達は黙り込んでしまう。

「せんせえがかいたえをもってきたんじゃないの? ずるはだめだよ」
「ちゃんとじぶんのちからでがんばらないといけないんだよー」
「分かりました、ちゃんとやりまーす」

文句を言われて今度は一画が目の前で新しく二人の似顔絵を瞬く間に作成したものだから、今度こそ本人以外が描いたなどとは言われなかった。

「おれこんなかおしてた…?」
「みーちゃんこんなじゃないもん」

ただし、二枚目はそれぞれ表情を現実とは似つかないように崩したために余計に彼らは混乱する。
もう少しで泣き出すかもしれないという所で、一画は名刺を渡して謝る。

「ごめんなさいね、からかい過ぎました。お詫びに私の名刺を渡しておきますから、困った時や悪い人に狙われてると思ったら教えて下さいね。特別に無料で解決しちゃいますよ」
「とくべつにむりょうってさぎのてぐち?」
「おんきせがましー」
「えーっ手厳しいですねー。本当は使う機会が無い方が良いですけど、念のために持っておいてください」
「かいじゅうもたおせる?」
「たのみこまれたらことわるのもわるいよね」

似顔絵のイタズラについてはケロッと忘れた様子の彼らとしばらく会話をし、似顔絵の発表を終えると一画は事務所と同じビルに入っている自宅へと帰宅し、風呂の準備を済ませるとクッションでくつろいだ。

今日のような活動の後は気分が良い。ニトリで購入した吊り下げ式の照明器具が豪華絢爛なシャンデリアに見えてくる。
善行だとか徳を積んだとかそういったものに充実を感じているのではない。

ちょっかいをかけてもフォローさえすれば遊んでいることになる子供たちとの触れ合いが、今の一画の生活を精神面で支えていた。

以前探偵専業だった頃に、自分の幸せはどこにあるのか悩んだことがあった。

悩み続けて眠りに落ちたが、その時に夢で高校生の頃の一幕が再演された。
マイと呼ばれていた頃の一画の他にイチと山ノ橋一人の出演したその夢は、急に忙しくなった現実よりもずっと肉感を感じられた。
今は秋だと言うのに、眠りに落ちているのは清潔な部屋の中だと言うのに、肌を焼く日も廃墟の埃も河川敷の風も、全身で知覚できた。

「迷惑なんてさ、生きてる限り誰であっても誰かにかけてるものなんだよ」

憎たらしい詐欺師のセリフは起床後にも何度も脳内でルフランされた。

「お父さんは死んじゃったからもう無理だとしても、お母さんもマイちゃんもまだ生きてるんだから、それなりに迷惑かけあえばいいよ。お互いにそれを受け入れ合えるような状況ができれば、今とは違ってどこよりも気楽な場所にだってなるはずだから」

探偵として自立し、暇ができたタイミングに母の近況を調べたことがある。
一画が家を出た後、母はまたムッツリした無口な仏頂面に戻ったらしい。そして勤め先でも愛嬌を振り撒かないようになり、表情筋を動かすこともなく身体を壊して死んだのだという。周囲の人間は誰も母の体調の異変に気が付かなかったし、母も不調があることを一切漏らさなかった。

「お母さんもマイちゃんもまだ生きてるんだから、それなりに迷惑かけあえばいいよ。お互いにそれを受け入れ合えるような状況ができれば、今とは違ってどこよりも気楽な場所にだってなるはずだから」

今更そんなセリフを聞かされた所で、どうしたらいいのか。
母程に血を分け合って憎み合って愛し合えるような相手はきっと一画の人生には他にいなかった。
詐欺師の言であっても受け入れて、母と和解しておきたかったと何度も思った。

母は何故また仏頂面に戻ったのだろう。
少なくともあの頃の母のことは好きだった。
もしかしたら母自身は感情を閉じ込めることを嫌っていたかもしれないが、実際はどうだったのかを確かめたい。

既に対象がいないこともあり、『一画方』は無力だ。③の用法ならば失われたものも対象にできるが、パーソナルでデリケートな部分は推測もパターン判断も難易度が高すぎる。

くよくよと過去について考えるのを一旦止め、遮光カーテンを開く。
真昼の柔らかな日の光と鯖雲が目に入ると、一画の下に天啓が舞い降りた。

母の感情や好みはもう分からない、それでも自分自身の内面に日が差し込み、輪郭が顔を現したのだ。

「私は……他人に迷惑をかけることを愉快に思っている……」

探偵稼業の中で感じていた不満の正体が急に腑に落ちた気がした。


本当ならば子供相手ではとても満足できない。
加減は難しいし、やりすぎるようなことがあれば厳しい目で見られて二度と近付けなくなるかもしれない。

理想とするのは攻撃の意志や敵意を込もらない遊びの延長のような迷惑の掛け合いで、特別な相手であるとか、特別な機会であるとかを、一々気にしないで許し合う世界。

しかしこの世には弱者と強者、加害者と被害者のような線引きがあり、その図式が残った状態のまま迷惑をかけあった所で、蹂躪かルサンチマンにしかならない。

だからまずは困っている人、弱者側の境遇にある人、被害者になってしまっている人達を救う。
善行には喜びを感じなくても、理想に近づいていると感じるだけで、それがどれだけ小さな一歩でも喜びは感じられるのだ。


——


現在、一画は病室のベッドに横たわる山ノ端一人(イチ)を見つめている。

シャンタクレールは一画が預かり世話をしている。銀色の光沢をした羽は汚れとは無縁のようで、何故か大学病院に入ることを許されているのだ。

イチを発見したのは本当に偶然で、今年の晩夏の辺りにひき逃げに遭って救急車で運ばれる場面を見かけたのだ。
イチの傍にはシャンタクレールの他に、誰もいなかった。

一画は何度も病室を訪ねているが、他の見舞客は見たことがないし彼女の他に花を飾っている者もいないようだった。

イチは独りなのだ。

きっと一画の他にも何人もの相手を騙し、死の運命を押し付けて来たのだ。
紛れもない加害者である。
しかし、彼女も愉快犯として死を周囲に振り撒いているようには見えなかった。
きっと被害者でもあるのだろう。

イチと、それから父母から得た教訓が薄い胸の中に眠っている。

「生きてる間に迷惑をかけても、死んで喜ばれる人間にはなるな」


これを伝えたならば、イチはどう思うだろう。

『死神』を名乗る人間も現れ、今度こそ運命はこの女のエンドロールを用意しているのかもしれない。

何ができるかは分からないし、助けるべきかも実際には決心がついていない。

日を雲の影が覆った。
雪が降るような気がした。
最終更新:2022年02月06日 18:58