東京には未だ、数多くの寂れた街道が残っている。
例えば最寄り駅からの交通の便が悪く、誰も住みたがらない土地だったり。
例えば土地開発の話こそあがっているが、諸事情で誰もやりたがらなかったり。
あるいは権力者が根回しを行い、わざと人が寄り付かないように寂れさせていることもある。

東京といえば見渡す限りの大都会、なんてイメージばかりが先行しがちだが、実際に足を運んでみれば都心化が進んでいるのは東京の中でもごく一部だけ。
少し駅から離れてみればそこは田舎と変わらない下町だった――なんてことはよくある話だ。

彼がこれから訪れるところもまた、東京にあって東京とは思えない、不良やホームレスといった落伍者の集う場所だった。
こち亀でお馴染み、亀有駅北口から歩いて10分程度、見渡す限りの住宅街を抜けた先に誰も近寄りたがらない寂れた商店街がそこにある。
その名も、逢迷街道(おうめかいどう)
東京にあって誰もがその地に赴くことを避け、ここを是正しようと画策した政治家が表社会から姿を消した、都心に現存する巨大な腫れ物。

曰く、ヤクザが日夜抗争を繰り広げているとか。
曰く、ホームレスがスリの真似事をしているとか。
曰く、未解決事件の遺体置き場に使われているとか。
曰く、迷い込んだら無事には帰れないのだとか。

真偽はともかく、興味本位ですら立ち寄りたいとは思わせないほど黒い噂が後をたたない商店街なのは間違いない。

しかし、そんな暗黒商店街にあっても1つだけ、彼をここに立ち寄らせるだけの『理由』となる噂がまことしやかに広まっていた。
それは本当にお金に困っている人にだけ聞こえてくる、まるで釈迦が垂らした蜘蛛の糸。
手を伸ばせば確かに掴める。――しかし、表立って広まれば瞬く間に逃げてしまいそうな、小さな噂。

曰く、どんな大金でも貸してくれる『金貸し屋』がそこにある、と。


*


彼が逢迷街道に足を踏み入れようとしたとき、そこに居合わせた買い物帰りの主婦たちが群を成して彼に詰め寄った。
――危ないからおよし、若いのにおよし。
傍から見れば興味本位で入ろうとした若者にしか見えなかったのだろう。
実際に彼は若い。とはいえ一身上の都合からまともな職に就くことが難しく、それなりに訳があってお金を必要としているのだ。

「すみません、どうしても行かないといけないんで」

彼がそう答えると、主婦たちは口々に逢迷街道の良くない噂を喋り始めた。
この前興味本位で立ち寄った女性が無残な姿で発見されただの、拳銃の発砲のような音が毎夜聞こえておっかないだの。
やがて主婦たちが本来の目的を忘れて世間話を始めたので、彼は逃げるようにして逢迷街道に足を向けた。

入り口付近にいるのは見るからに近寄りがたい外国語で話すアジア系の男女で、彼を一瞥すると関係者だと思われたのか、すぐに目を逸らされてしまった。
しばらくはシャッターを降ろした無人のエリアが続く。まるで表社会と裏社会を隔てる門のように、その境界で商いを営むものは誰も居ない。
遠くで車やバイクの往来が見える。一見すると普通の商店街のようだが、道を横切る車はベンツやポルシェといった高級車ばかり。バイクも大型ばかり。
彼のような新参者は一息で吹き飛ばされてしまいそうだ。既にここがどんなところか、察しの良い者は回れ右をするだろう。

「――おぉい、お前さん。そこのお前さん」

一瞬、諦めの悪い主婦の一人がここまでついてきたのかと思ってギョッとしたが、それは青年の杞憂だった。
古びた店の物陰から声がする。それは物乞いやホームレスと見間違いそうな身なりだが、占い師を営む老婆のようだ。
その老婆はまるで明日には死にそうだと言わんばかりに、シワだらけ、シミだらけでボロボロの身体をしていた。
目元もまるで開いておらず、口元から覗く4本だけになった永久歯が年老いることの残酷さを物語っている。

無視を決めるのは簡単だった。
しかし、僅かにも逢迷街道の異常さを知ってしまった彼は少しだけ心細くなり、それを紛らわせるように老婆の相手をしようと考えた。
見れば、『占い1回 1000円』と書いており、至って良心的な店構えである。
金貸し屋に向かう前に、少しだけ未来を占ってもらうとしよう。
彼には特別な力があったが、それでも未来を知ることは出来ないのだから。


*


老婆は生まれつき目が見えない病気を患っていた。
目を開いても一切の光を感じられないのが全盲とするのであれば、彼女はその逆の状態にある。
――目を開いても、光しか感じられない。
まるで瞳に太陽が貼り付いているように、白一色の世界。
老婆に見えるのはそれだけだった。

また、老婆には一つだけ不思議な力があった。
その能力を理解してもらうなら、まずは一昔前のケータイカメラを知っている必要がある。
人が人の顔を認識するとき、それは目や口や鼻といった顔のパーツがあれば事足りるだろう。
これは人間の古典的な刷り込みで、目や口に見えるものがあれば何でも人の顔のように見えるのが人の本能だ。
しかし昔のケータイのカメラはそれが出来ない。というより、顔認証という機能が付いていない。
当然、老婆の目もカメラと同じように、白一色という世界の中に人の顔を見出すことが出来ない。

だが彼女が見ている白一色の光景の中には、時折り動くものを感じることがあった。
至近距離であれば僅かに、物が動くことを目で見て認識することが出来ることがある。

人が笑顔になったとき、口を開けて歯を見せることがある。
口角が上がり、目尻が下がる。
――彼女は生まれつき、人が笑った瞬間だけ、人の顔を認識することが出来たのだ。

そして、彼女に魔人能力が目覚めた。
人の顔を見ることで、その人物が辿った過去・現在、そして未来を正確に予知することが出来る能力。
――能力名、『スマイルヴィジョン』。
彼女はこの能力を使って人を助けるために、占い師を始めたのだった。

こうして若い頃はそれなりに頼られていた彼女も、今やこんな辺境に追いやられていた。
それでも能力はまだまだ現役だという自負だけで、今日も生き永らえている――。


*


「それじゃあ、まずは名前と生年月日を教えておくれ」

老婆が能力を使って占うためには、まず相手に笑ってもらう必要がある。
他愛のない質問からはじめて心を開いてもらうのは、彼女の常套手段だった。

「俺の名前は鎌瀬居助(かませ いぬすけ)。2000年5月3日生まれの牡牛座だ」

目の前から落ち着き払った男性の声がする。
生年月日からして、まだ若い方だろう。社会経験も身に付いていないはずだ。

しかし、名前や年齢といった情報がそれ以上自分の占いに役立つわけではない。
彼女が占いと称して能力を行使できるのは、相手が相好を崩して笑ったときだけ。
そんなことはおくびにも出さず、目の前の水晶に向かって「おんじゃらほんじゃら」と念仏を唱えつつ占い師の真似事を続ける。
その瞳は真っ直ぐに正面を見ていた。――声のするほうに。誰かが居るほうに。

「お前さん、これまで多難な人生を歩んできたようじゃな。
 誰よりも賢く生きようとし、気高く振る舞い、実際は誰よりも傷つくことを恐れる繊細な心の持ち主じゃ」

人はいつだって正しいものだけを信じるわけではない。
どんなに疑り深い人間でも、あるいは人を信じすぎる人間でも、素直に受け止められるのは自分が信じたいと思った言葉だけ。
だから、どのような決めつけであってもまずは「自分かもしれない」と咀嚼し、それが深い意味合いを持つ言葉であれば簡単に飲み込んでしまう。
こうして、目の前に居る『占い師』という超常に対して心を許してしまうのだ。

「どうじゃ? 当たっておるだろう?」
「あー……そうかもしれないな」

彼はお世辞とも取れる無難な答えを返したが、表情の変化はあまり無い。
老婆は好機とばかりに身を前に乗り出し、より顔の移り変わりを観察しやすいものにした。
普通は詰め寄られるとその分だけ身を後ろに引きたがるものだが、そうしないのは彼が心を許しているということか、あるいは彼自身の優しさか。
既に老婆は勝利を確信していた。


*


「お前さんは人を気遣いすぎるがあまり、損ばかりする選択をした経験が多いようじゃな。
 その優しさに周りは気付いているが、お前さんが積極的な行動をしてくれるのを待っているようじゃ」
「……いや俺、そもそも友達居ないんだけど」
「こ、これから出来るんじゃよ。お前さんの優しさならすぐ出来るぞ。
 ――素敵な出会いがある。占い師であるわしが保証しよう!」

そのような問答をかれこれ5分近く繰り返していたが、彼はニコリとも笑うことは無かった。
表情筋が死んでいるのか。あるいは顔中に傷があって笑うことが出来ないのか。
はたまた占い師からの言葉を重く受け止めすぎて明るい反応が出来ないのか――。
そのような相手をしたことは一度や二度ではないが、表情を変えない相手に対し、老婆が出来ることは一切ない。

「……すまん、今日は水晶が不調のようじゃ。
 お代はいらんから、また後日出直してきてくれ」

老婆の本質は善意である。
占った相手の過去・現在、そして未来を見通すことが出来れば適切なアドバイスを下すことが出来る。
未来とは不変のものではない。結末を知り、変えようとする意志があれば辿るべき未来を変えることは容易であり、変えないこともまた容易である。
それを1000円で買えるとあっては占ってもらわない理由が無いだろう。

一方で、老婆は逢迷街道に雇われている立場でもある。
彼女の占い結果により、その者が逢迷街道に仇をなすかどうかを見極め報告する、いわば門番のような役割だ。
仮に目の前の青年が逢迷街道を摘発する立場であることを見抜けば、その行いが『街閻魔』と呼ばれるこの街の管理組織に通達され、彼は地獄まで追われる身となる。
同様に「占えなかった」という結果もまた好ましいものではない。それでは彼自身の潔白を証明できなくなってしまうのだから。
彼をここで帰し、それでも逢迷街道の奥まで進んでしまうのであれば、第二、第三の門番が彼の対応を行うことになるだろう。

逢迷街道の本懐とは多くの魔人を飼い慣らし、危険の芽を即座に摘み取り、堅牢なルールによって守られた稼業人どもの聖域である。
これを脅かす者は、誰であろうと生かしてはおけない。
これを守れない者は、誰であろうと近寄ってはならない。
ここは東京にあって都会にあらず。田舎の集落のように統率の取れた仕組みが存在しているのだ。

「うぅむ……水晶が映らぬということは、良からぬことが起きる兆候に違いない。くれぐれも用心するのじゃぞ」

老婆に出来ることといえば、こうした言葉で注意を促し、彼の無事を祈ることだけだった。

「いや、ありがとうな婆さん。楽しませてもらったぜ。この千円札は受け取ってくれよ」

その時、何かが動いて老婆の右手に千円札を握らせた。
それは間違いなく彼が見せた善意そのものだった。
――その去り際、彼はニコリと微笑んで。


「――おお、おお! 見えた……見えたぞぉ!!」


老婆はようやく彼の顔を認識した。
その瞬間、彼の生きてきた過去が、早回しのビデオテープのように脳内に流れ込んでくる。
老婆は生まれつき自分の目で実像を見ることは無かったが、能力のおかげもあり人並み以上に世界というものを理解していた。
そして彼がこれから辿る未来が流れてくる。それは光に満ちていて、暖かい、至って普通の人間の未来だった。

「お前さんはこれから、今井商事という場所に向かい、そこで大金を得るじゃろう!
 じゃが、それは借り物のお金じゃ。――そしてどうやら、返せるアテは無いらしい。
 それを取り立てに女がやってくる。その名は有間真陽(ありのま まよ)。――彼女との出会いが、お前さんの未来を大きく良い方向へと変えるだろう!!」

老婆は脊髄反射的に見えた光景を早口でまくしたてる。
だが――その反応は特にない。
遅すぎたのだろうか。

「……おい、お前さん? 占いの結果が出たのじゃぞ。……お前さん!?」

彼は老婆に千円札を握らせた後、あっという間にこの場を離れてしまっていた。
そんなことは知ってか知らずか、老婆はすがるように彼の姿見を掴むため両腕を伸ばした。
それまで見えていた光景が蜃気楼のように霞んで消える。
最後に残ったのは白一色の世界。老婆自身の目が能力抜きで見ることを許された――生き地獄。
また、取り残されてしまった。

「行ってしまったのか……じゃが、彼は決して悪い者ではない。そのままでも良い――」

その時、強い風が吹いて老婆に握らされていた千円札が飛んでいってしまった。
同時に老婆の記憶から彼に関する痕跡の一切が失われる。

老婆は彼の能力に関する過去・現在・未来を見ることは無かった。
それは能力自身の作用であり、彼の意志とは関係なく発動した防衛本能である。

老婆は空を見つめていた。
その目にはどこまでも白い、白い空が広がっている。

彼がここに来ていたことを憶えている者は、もう誰も居ない。


*


鎌瀬居助は子供の頃、血気盛んな少年と呼ばれていた。
気に入らないことがあればすぐに噛みつき、争わずにはいられない性格であった。
だが、彼自身お世辞にも強さや賢さとは無縁にあり、いつも返り討ちに遭うのは居助の方だった。
最初は居助にやり方に付いてきた者たちも次第に愛想を尽かし、いつしか誰にも相手にされなくなっていった。
両親は優秀な兄ばかりに愛情を注ぎ、居助を居ないものとして扱っていた。

高校2年生になると、居助は非行に走った。
暴行や窃盗を繰り返しては警察のお世話になり、補導を受ける立場となった。
それでも両親は叱りこそすれ、愛情を持って居助を正そうとはしなかった。
まるで居助が居たことを忘れようとしているように。

ある日、居助は自分の影が薄くなっていることに気付いた。
陰――ではない。文字通り、『影』が薄くなっていたのだ。
まるで透明人間を見るように道行く人たちは居助が居たことに気付けない。

彼は無意識につぶやいていたのだ。
――いっそ、俺のことなんて忘れてしまえ。
どれだけ悪行を繰り返そうと、それを誰も憶えていなければ問題は無いのだから。

そして少年は魔人になっていた。
彼の生い立ちを誰も知らない。彼がどこで生まれたのか、誰の弟だったのか、それを知る者は誰も居ない。
彼が居た痕跡が残らない。彼と関わっていても別れた途端、関わっていたことを忘却してしまう。
彼の筆跡も残らない。書いた文字さえ彼の能力によってひとりでに消えてしまう。

まるで打ち切り漫画の悪役のように裁かれることなく、誰の記憶にも残らず生きていく能力。
――能力名、『一話限り』。

彼は今日も孤独に悪事を働いていた。
この世のどこにも、居助の居場所は存在しない。


*


居助が逢迷街道を少し進むと、やがて目的地が見えてきた。
その建物はまるで不動産会社のような佇まいで、お世辞にも大きい建物ではないが、3階建てのオフィスビル全てがその会社の敷地だった。

この街においてその名を知らない者はいない。
ある者は言う。そこにはあらゆる富が集っていると。
また、ある者は言う。そこには悪魔が棲んでいると。
魔人の強さこそがこの街におけるステータスというなら、間違いなく彼の右に出るものは居ないだろう、と。

圧倒的な運を持ち、この世の全てを支配する者――今井総(いまい すべて)
また、そこに集う選りすぐりの強者たち。
その門を叩くものに分け隔てなく財を与える、天井知らずの金貸し屋。

――今井商事。
どんな危険を冒してでも手に入れたい、宝の山がそこにあった。

「いらっしゃいませ。お待ちしておりましたよ」

居助がビルを見上げていると、そこから笑みを貼り付けたような男が声をかけてきた。
上京したての若手芸人のようにパリッとした、白いスーツに身を包んだ男だった。
おそらくは今井商事の営業担当なのだろう。感じの良い風貌をしているが、油断は出来ない。

とはいえ「お待ちしておりました」とは、まるで居助の心を読んだような言葉だ。
誰にも必要とされず、誰にも憶えてもらえない――居助がそんな風に言われたのはいつ以来だろう。
たとえお世辞だとしてもやはり嬉しい。思わず口元が緩んでしまう。

「今すぐお金が必要なんだ。貸してくれるんだろ?」

挨拶もそこそこに居助が本題に入ると、嫌な顔ひとつせず男は名刺を取り出した。

「わたくし、こういう者と申しますが」

居助は名刺を受け取り、そこに『今井商事 1課 祓拓成(はらい たくなる)』と書かれているのを確認した。
そしてお返しとばかりに居助も自分の名刺を男に渡す。

お金を借りる立場というのは、ある程度の地位を確立していたほうがやりやすい。
そのため、居助は表向きは自営業としての顔を持っていたのだった。

「さて、本日はいくらお渡しいたしましょうか?」
「100万……いや、1000万だ。すぐに用意できるか?」
「はい。問題ございませんが」

吹っかける居助に対し、拓成は一瞬たりとも笑顔を崩すこと無く話を進めていく。
どうやら噂は本当だったらしい。渡りに船とはこのことだ。

「では、立ち話も何ですので、続きは建物に入ってからにいたしましょう。お茶のご用意もございますが。
 弊社は駅チカとは無縁の場所にあるものですから、皆様ヘトヘトになっていらっしゃるのです。どうぞ心ゆくまでくつろいでいってくださいませ」

拓成はまるで相手の心を読んでいるように、居助の欲しかった労いや優しさを惜しみなく並べていく。
ここまでされると逆に恐ろしささえ感じるのが人の性というものだが、そこをぐっとこらえて彼の厚意に甘んじることにした。
後ろを振り返ることなく前にズンズンと進む拓成に、置いていかれないよう居助は早足で追いかける。

奥から獰猛な獣の唸り声が聞こえてくる。
獲物は誰だ。狩人は誰だ。

大いなる使命を巡り、魔人同士はひかれ合う。


*


「あっさり終わってしまった……」

時間にすれば1時間も掛かってはいないだろう。
まるで床屋で髪を切るぐらいの感覚であっさりと事が片付いてしまった。
血だらけになるような戦いも、ドラマチックな出会いも別れも無いまま居助は今井商事を後にしようとしている。
特に能力について問われることもなく、見ず知らずの人間に1000万という大金をポンと貸してくれる、噂通りの優良企業だったというオチなのか。

今井商事の内装は一見して小さな事業所といった感じだった。
1階には事務員が作業するスペースがあり、2階には商談用の客室が、3階には社長室があるという。
金貸し屋の事務作業と聞いても居助には何のことだか分からなかったが、あまり関係のない話だろう。

客室に入るとはじめに簡素な書類を渡された。
お金を貸すということは、当然借りパクされないように固い契約で縛ってしまうのが道理というものだ。
1枚目は名前や住所、連絡先や年収、借入れ金の使い道など、特におかしな点もない契約書のようだった。
自分用の控えに2枚同じものが用意されているのも至って普通だ。
2枚目は契約を結ぶことにより発生する双方のルールが記された誓約書。色々書いてある。

居助がそれらに目を通していると、話通りにお茶やお菓子が次々に出てくる。

「お金を借りるということは、これから苦労されるということ。
 わたくしどもとて、鬼や悪魔ではございませんが。ひとりでも多くのお金に苦しむ方々を救いたい――それだけでございますよ」

一抹の不安を拭えない居助の心をやはり見透かすように、拓成という男は笑みを絶やさず語り始めた。
それから聞いてもいないのに今井商事の成り立ちや社長の経営理念などを話し始めたので、居助は適当に聞き流しつつ契約書の空欄を埋めていった。
年収の欄には1000万と記入し、職業には個人事業主と記載する。

この辺りにツッコまれたときの返しにはいくつかのパターンがある。
当然一定の収入源が無ければ返すアテも無いと判断され、お金を貸してくれるところも貸してはくれないだろう。
とはいえ会社勤めなんて書いた日には、その会社の連絡先から簡単に嘘がバレてしまう。
そのため個人事業主としての肩書きを持ち、仕事内容はフリーライターであったりイラストレーターであったり様々と説明する。
また、それを裏付けるために都心でマンションや車を購入していた。ここまですると、流石に疑われることも少ない。

「きれいな字をお書きになりますね。字体は心を映すとよく言いますが。お客様は清らかな心をお持ちなのでしょう」
「え? ――あ、いやぁ、そうっすね」

思わぬところを褒められてしまい、居助もよく分からない返しをしてしまった。
はじめは信用ならない営業マンというイメージだった拓成も、接しているうちに段々と理解が及ぶようになってきた。
最初から彼は居助に対し、疑ってかかろうとはしていない。偽りのない好意で接し、友好関係を結ぼうとしていたのだ。

その信頼をこれから裏切ってしまうことに、少しだけ罪悪感から心が痛む。

何はともあれ、契約書を一通り書き終えたので、居助は2枚目の契約事項に目を通し始めた。

「弊社のルールは少し変わっておりますので、口頭でもお伝えしておきましょう。
 うちは他社様よりも低金利でお金をお貸ししますが、代わりに一括払いでの返済しか認めておりません。
 毎年1回発生する金利分の差額を納めていただければ、最長30年まで返済期限を先延ばしにすることが可能でございます」

拓成が滔々と語る内容は、確かに一般的な金融会社とは大きく異なるルールのように思えた。
身振り手振りを交えつつ、決して笑顔は絶やさず。

「それと――不定期で審査が入ります。
 もしもお客様に支払い能力が無いことが発覚したり、契約書に記入された内容と異なる事実が発覚した場合、『取り立て』を向かわせますのでご了承ください」

その言葉に、静かな緊張が走る。
居助の頬を冷たい汗が流れた。

「ま――嘘はよくございません、というだけの話ですが。
 お互い誠実に接していればそのようなことにはなりませんので、ご安心くださいませ」

ニコリ、と。
どこまでも楽観的なのか、あるいは今井商事に敗北はないという自信の表れなのか。
拓成はそこまで話し終えると、既に役目は終えたとばかりに社長の武勇伝を語り始めた。

それからややあって、居助は手提げ袋いっぱいに積まれた札束の山とご対面を果たすことになる。
所得隠しを行うために全て手渡しで受け取ろうとしたが、流石に1000万の重みに居助の腕が耐えきれず、また目立ちすぎるという問題が発生した。

「それでしたら、500万はお持ち帰りになられて、残りの500万は口座振込というご要望にも承りますが」

居助が一人葛藤していると、やはり人の心を読んだかのような助け舟がやってきたので、その言葉に甘んじて500万だけ受け取ることにした。
振込先の口座番号を渡し、居助は500万の入った手提げ袋を抱えて外に出る。

拓成は最後まで笑みを崩すことなく、その背中を見送っていた。


*


「今井商事……大したこと無かったな」

現代の黄金郷を後にして、居助はひとりごちる。
初めこそ扉の向こうから怖い人たちがわんさか湧いてくる、なんて予想もしていたが全ては杞憂に終わった。
居助の能力は戦闘向きではないため、正面からの殴り合いになっていた場合無事では済まなかっただろう。

むしろ建物内のほうが安全だったとさえ思わせてくれる。
逢迷街道に出てみるといかにもカタギではない風貌の男女が白昼堂々と闊歩しており、これから目が合わないように帰るのが大変だ。
500万円を奪われる恐れだってある。普通に全額口座振込のほうが良かったか、という後悔の念すら湧いてきた。

「あ、お疲れ様っす」
「ひっ――!?」

と、一周回って恐ろしい考えばかり巡らせていた居助の前に、薄手のTシャツに身を包んだ少女が現れる。
ほんの数秒前まで居助の周りには誰も居なかったはずなのに、彼女は当たり前といった顔でそこに居た。
まるで気配を感じさせず――居助の直ぐ傍まで接近していた。

「――ん? あー、バイトの子かと思ったら見間違えたっすよ。ウチのお客様でしたか。大変失礼したっす」

少女は居助の持っている手提げ袋をチラリと目線を落とし、そこに詰められていた札束に気付いて態度を改めた。
どうやら彼女も今井商事の人間のようだった。

「それでは今後ともご贔屓に、もとい道中お気をつけてください――っす」

言い終わるのが早いか、彼女は急いでいたのかまともな挨拶も無いまま、先程まで居助が居た事務所の中へと消えていく。

彼女を追いかけるように突風が吹き荒れた。
居助は思わず手提げ袋が飛ばされないよう、手に力を込めた。

咄嗟のことに声も出ず、居助が振り返ると既にそこには誰も居ない。

あまりの速さに顔も名前も分からなかった。
まるで記憶に残ることを避けているように――とは、都合が良すぎる解釈だろうか。

「何だかさっきの人、俺に似ていたな……」

ただの勘違いかもしれないが、少し親近感を憶えつつ、しかし彼女と出会うことは二度と無いだろう。
――彼女も、居助と出会ったことを忘れてしまうのだから。


*


鎌瀬居助の能力は一言で表すと『忘れられる』ことに特化した能力だが、もう少し噛み砕いて説明していこう。
能力が目指しているのは居助が存在していた痕跡を世界のどこにも残さないこと。
そのために作用する事象は主に3種類。人の記憶から消え去り、足跡は消し去り、筆跡も残さない。

果たしてそれらはどの時点で発動するのだろうか。
魔人能力には自動で発動するもの、本人の意志により発動するものの2種類があると仮定すると、居助の能力はどちらにも属していた。

まずは自動発動(パッシブ)能力。
誰かが居助と接触している間は能力は発動せず、居助のことを普通に認識し続けるが、一旦離れてしまうと居助のことを忘れ始める。
彼とのやり取りを忘れ、彼から受け取ったものも無くなり、完全に忘却してしまう。

次に任意発動(オプショナル)能力。
流石に居助が少し席を外すたびに忘れられるのは過剰であるため、しばらくは憶えていて欲しいと願うこともある。
住民票や固定資産の契約書など、大事な書類から筆跡が消えてしまうのも困る。
そのために居助に関する痕跡を『定着』させることも出来る。
ただし、あくまで能力の影響を受けていない状態と同じにしているだけなので、忘れっぽい人の頭に残り続けるということは出来ない。

最後にもう1つ、定着させた痕跡を好きなタイミングで消去することも出来る。
これらの性質により、居助はあらゆる犯罪に手を染めてもバレることは無かった。

居助が居たことを知るものは誰も居ない。
これまでも、これからも。


*


「やった……ついにやったぞ……!」

帰宅後、居助のスマホに入金を知らせる1通のメールが届いた。
これでようやく1000万全てが手元にやってきたということになる。

彼は契約書の控えを取り出し、まだそこに筆跡が残されていることを確認した。
――静かに能力を行使する。
紙面からインクが乾くように、居助の書いた文字が、押した印がそこから消えていく。
最後に残されたのは、拓成から渡されたままの白紙の状態。そこに居助が関わった痕跡は残されていない。
今日居助と関わった人達の記憶も消去し、社内に残した契約書や誓約書からも同様に筆跡が消えているだろう。

これで居助がお金を借りた事実が消え去り、1000万だけが手元に残る。
――今井商事を見事に騙し、完全犯罪が成立した瞬間だった。


*


今年もクリスマスがやってくる。
毎年のように来ないもの、梅雨前線・東京の初雪・年賀状。
節分やハロウィンといったイベントは毎年来てもあっという間に過ぎてしまうが、クリスマスだけは否応なしにやってくる。
12月頭から丸1ヶ月かけて街は賑わい、駅前の観賞用樹木は彩り鮮やかにイルミネーションが施される。
誰が誰と過ごすとか、今年はどうやって過ごそうかなどといった浮かれ話があちこちで飛び交う。
鎌瀬居助にとっては頭が痛くなる時期だった。

今井商事から1000万を抜き去り、半年が経とうとしていた。
しばらく遊ぶお金に困らなくなったのは間違いないものの、それで彼の根本的な問題が解決するわけではない。
自らの能力は「忘れられたい」という願望を具現化したものであるため、特定の人間と関係を持つことは能力的にも居助の性格的にも難しい。
――このままずっと、誰に憶えられることなく生きて、死んでいくのだろうか。
人生は途方もなく長く、ひとりで過ごすにはあまりにも退屈すぎて地獄だということに彼が気付いたのは、わりと最近のことだった。

こういった寂しさを紛らせるためか、彼はお金に物を言わせて風俗店の常連客になっていた。
中でも気に入っているのは俗にデリヘルと呼ばれる、デリ嬢を自宅やホテル、駅前まで招いて性的な行為を含む接待をさせることが出来るサービスだった。
とはいえ彼は性欲盛んなタイプというわけでもなく、いざデリ嬢と会って行為に及ぶかどうかは雰囲気によって決めている。
あくまで欲しかったのは人の温もりであり、「憶えていて欲しい」という人間らしい本能と、「忘れて欲しい」という拗れた能力との自己矛盾に悩まされていた。

多くの娯楽がそうあるように、彼がデリヘルを利用することに対し、崇高な理由は存在しない。
その日は何となくそういう気分だったので、常連とする店舗『ホワイト・リリィ』に電話をかけることにした。

ホワイト・リリィはデリ嬢と駅前で待ち合わせを行い、そのまま自宅に連れ込んで行為に及ぶことを楽しめるタイプのデリヘルサービスである。
行為よりも交流を重んじる彼としては、いきなり自宅に呼ぶよりも駅前で待ち合わせを行い、お互いの雰囲気を確認してから事に及ぶほうが気が乗るので好きだった。
これまで何度かお世話になったが、これといった不満は無い。女の子の愛想もよく、宅配ピザLサイズ3枚分程度の料金設定も彼にとっては丁度よかった。

ちなみに能力をフル活用すればデリ嬢に払った料金をその場で回収することも出来るが、彼自身の矜持がそれを許さなかった。
たとえ相手が忘れたとしても、彼は自分の行いを全て憶えているから。

――トゥルルル、トゥルルル。

スマホの通話履歴からいつもの番号をタップし、発信音が流れたことを確認してからしばらく待った。

――トゥルルル、トゥルルル。

いつもならこの辺りで受付の人が出てくるはずだが、今日は何だか遅い。
ひょっとして定休日なのだろうかと思い、素早くパソコンを開きブラウザからホームページも確認したが、やはり営業日である。
受付の人が丁度休憩に入ったタイミングだったのだろうか。彼は他の店に電話を入れることも考えつつ、留守電に切り替わるまでと辛抱強く待った。

――トゥルルル、トゥルルル。

『……ふわ~ぁ。お電話ありがとうございます。こちらホワイト・リリィですけど』

やっと電話が繋がり、スマホの向こうから女性の声が聞こえてきたが何だか様子がおかしい。
まるで先程まで寝ていたとでも言いたげに眠たげな声をしている女性だった。というより、聞き間違えでなければあくびまでバッチリ入っていた。
前回までは普通の人がハキハキと対応していたはずだったのだが、新しいバイトの人と入れ替わったのだろうか。

いや、冷静に考えれば世間はクリスマスシーズンなのだ。
お金欲しさにバイトを始める人が増えていてもおかしくはない。

居助は気を取り直してサービスを頼むことにした。

「すみません、女の子を派遣してほしいのですが」
『……ふわ~ぁ。承りました。まず始めにお客様のお名前と最寄り駅を教えていただけますか?』

やはり受話器越しまで聞こえる大きさであくびをしたような声が入っているが、それを除けば至って普通の電話対応だった。
むしろこういったサービスの電話は慣れていても興奮して挙動不審になりがちなので、彼女のようにマイペースな対応に救われたりするのだろうか。

居助はそのようなことを考えつつ、受付の人に名前や最寄り駅を伝えていく。
希望する時間帯やコースの長さ、どのようなプレイが好みか、といった質問をあくび混じりに聞かれたので、それらにも1つずつ答えていく。

前回電話したときにも同じようなことを聞かれていた。
マニュアル通りに対応できているということは、やはり新しいバイトの人なのだろう。

『……ふわ~ぁ。それでは、当店からルナという子を派遣いたします。
 この子、入ったばかりの新人ですから、優しく扱っていただきますようお願いしますね』

やはりクリスマスシーズンだけあって人の入れ替わりが激しいのだろうか。
とはいえ居助は女の子を選り好みするような性格ではないので、どのような人材がやってきても問題は無い。

次に料金の支払い方法や女の子へのNG行為といったお決まりの諸注意を聞いて、受付は完了となる。

『……ふわ~ぁ。それでは、おやす――女の子との楽しい時間をお過ごしくださいませ』

彼女は最後まで眠たげな態度を隠すことなく、程なくして電話が切れた。
――何だったんだ、一体。


*


居助はとりあえず指定された時間まで暇をつぶし、駅前の待ち合わせ場所で女の子を待つことにした。
こうして新しい人と出会うことは彼にとって苦ではなく、誰かを待つ時間は心地よい。

日照時間の移ろいは早いもので、夏場なら明るかった時間帯さえ冬場になった途端に暗くなる時間となる。
逢魔が時を待たずして冬の太陽は沈んでいく。
帰宅ラッシュで忙しなく行き交う人々を見ていると、世界から切り離されたような感覚に陥る。
――あるいは、能力に目覚めたあの日から、居助は何処にも存在していないようなものだが。

「お待たせしました。居助さん、ですよね?」

自分を呼ぶ女の子の声がして、居助は思わず振り返る。

そこに居たのは女子高生か、下手すれば女子中学生にさえ見間違いそうなとても小柄な少女だった。
白いダウンコートを何枚も重ね着しているのか、換毛期のペンギンのようにモコモコとしていた。
一目見た瞬間に存在しない過去の甘酸っぱい青春時代が浮かんでくる――そんな初々しい雰囲気を持つ女の子だ。

なるほど、これは確かに受付の人が念を押して「優しく」と言いたくなるのも納得である。

「あぁ、居助は俺だが……よく分かったな」

駅で待ち合わせをしている人は大勢居る中で、どうして居助は自分だと分かったのだろう。
まずは素朴な疑問から投げかけてみる。

「いえ、違っていたらその時なので。1回目で当たって良かったです」
「すごい行動力だ」

思わず苦笑を浮かべると、それにつられて少女もクスリと笑った。
気を取り直してお互いに自己紹介を行う。

「はじめまして。わたしはホワイト・リリィ所属のルナと申します。本日はよろしくお願いいたします」
「あぁ。話は聞いていると思うけど、一応。俺は鎌瀬居助。さっきみたいに居助って呼んでいいよ」

居助は自分の名字が嫌いだったので、基本的に自分のことは名前で呼ばせるようにしていた。
先程初対面で名前呼びだったのは偶然か、あるいは他のデリ嬢から話に聞いていたのか。
――いや、後者はあるはずがない。
誰も居助のことを憶えているはずが無いし、当然店側からしても『初めての客』という認識になっているのだから。

「それでは、居助さん。早速ですが、お家まで歩きましょうか」
「あ、その前に――」

先に進もうとするルナを慌てて引き留める。
今更法に怯えることなんて何も無いのだが、これだけは聞いておかないと人として駄目だろうと思っていたことがある。

「君、年齢は――」
「20歳です」
「あっはい」

食い気味に返答されてしまった。
そう言われてしまっては客側はこれ以上追求することは出来ない。
おそらくルナという名前も偽名であるなら、身分証明書を見せて欲しいとお願いするのも非常識というものだろう。
とりあえず、向こうからいざというときに「未成年です」と言われないのであれば、居助にとっても都合は良い。

しかし、居助はロリコンでは無いのでこんなに危ない橋を渡る必要があるのか、と聞かれれば答えはノーだ。
見てくれは良いので成り行きで――という可能性は否定出来ないが、少し話をしてみて駄目そうだったら解散にしよう。
そう結論付けると、居助は首を縦に振った。

「――分かった。改めて、今日はよろしく」
「はい。お手柔らかにお願いします」

居助は静かに手を伸ばす。
その手を少し見つめた後、ルナは微笑んで手を繋いだ。

12月のある日、忘れられない夜が幕を開ける。


*


「…………」
「…………」

都会の明るさには目もくれず、黙々と歩く2人の男女。
ひとりは『痕跡を残さない』特殊能力を持った男、鎌瀬居助。
もうひとりはホワイト・リリィ所属の新人デリ嬢、ルナ。
彼らは決して綺麗な場で出会ったとは言い難い縁で結ばれていたが、これから夜を共にするかもしれないパートナーのはずだった。

しかし、思った以上に彼女が寡黙な性格をしていたので、居助はどうやって話しかけようか迷っていた。
まるで付き合いたてのカップルのように繋がれた手が少しずつ痺れてくる。
緊張で掻いた汗が彼女を不快にしてはいないだろうか。

大きな交差点でそこそこ長い信号に引っかかたのをチャンスと思い、居助は世間話を切り出す。

「――今日、そんなに寒くないよな」
「すみません。わたし寒がりなんです」

不服そうにモコモコとコートの袖を振りながら彼女は答えた。
本当はもっと気の利いた言葉もあっただろうに、何故か居助は初めて会ったときからずっと思っていたことを口にしていた。
今のは軽率な発現だったな、と流石に反省せざるを得ない。

再び気まずい空気が流れる前にと次の話題を何とか探す。
本当に話題に困ったときはこれしかない、という話題が居助には1つだけあった。

「ルナは、どうしてこの仕事をしようと思ったの?」
「……そうですねぇ」

オヤジ臭い質問と笑われるかと思ったが、彼女は案外真剣に考える素振りを見せていた。
信号が青に変わったので交差点を横断しつつ、静かに答えを待つ。

「わたし、こう見えても結構やんちゃな性格だったんですよ」
「え? 本当にそう見えないんだが」

口から飛び出てきたのは意外な言葉だった。
というか、業界に入ってきた経緯をしっかり説明してくれるらしい。
長くなりそうだったので、話の腰を折らないように黙って聞くことにする。

「わたしの母がかなり性格に問題がある人で――色々あって。
 それで家を飛び出してきたんですけど……生きることに必死で、周りが見えなくなって」

一瞬、自分のことを言われているのかと思ってドキリとした。
細部こそ異なるが、彼女の境遇には自分を重ねずにはいられない。
居助もまた、優秀な兄ばかり見て不出来な自分を忘れようとした両親に嫌気が差して、こんなところまで飛び出してきた身なのだから。

「そんなわたしを、命懸けで止めてくれた人が居るんです。
 人が信じられなくなったわたしを、真っ直ぐな言葉で受け止めてくれた――大切な人。
 その人の背中に追いつきたくて、この仕事に就いたんですよ」

唯一異なるのは、彼女には叱って正してくれた人が居るということ。
もしも居助の母や友人が1人でもまともであれば、世界に絶望してまでこんな外道は選ばなかったのかもしれない。

デリ嬢はアイドルではないので、基本的に恋愛についての制限は無い。
居助がこれまでに出会ったデリ嬢の中にも恋人やセフレの存在を公言する人も居れば、旦那が居るとまで言い切った人も居た。
彼女は「大切な人」とぼかした言い方を選んでいたが、その人とは恋慕の関係にあるのだろう。

目の前の彼女が急に遠い存在のように感じる。
彼女は既に、誰かのヒロインとして生きているのだから。
――ただの悪役モブのように生きる自分とは大違いだった。

折角ここまで語ってくれたのに無反応ではあまりに冷たい人間だと思われそうなので、率直に気になったことを聞いてみる。

「今は、お母さんとは仲直り出来ているのか?」
「…………」

しまった。また失言をしてしまったようだと、彼女の浮かない表情から察する。
彼女は灯台のように自分を照らしてくれる人こそ見つけられたが、元いた世界に戻るまでには至っていないらしい。
――しかし、居助はそう解釈していたが、ルナは顔を上げると照れ臭そうに笑っていた。

「お母さんとは、もう仲直りしていますよ。
 全部わたしの誤解だった――お互いに不器用だったんですよ」

詳しい事情こそ分からないが、無事に和解出来ていたようだった。
彼女は居助とは紙一重の境遇にあるが、その僅かな差がここまで明暗を分けたのだろうか。

駅前の社会人でごった返すエリアを抜けて、人通りの落ち着く国道沿いの住宅街までやってきていた。
居助の暮らすマンションはまだしばらく先にある。
気まずかった空気もだいぶ和らいで、これで安心して行為に――及ぶかどうかはさておき、彼女とは上手くやっていけそうだと思った。

歩道の向こう側からすれ違うようにして、一組の親子が楽しそうに歩いてくる。
優しそうな母と、暖かいコートに身を包んだ小学生ぐらいの男の子だった。

「ねぇママ、駅前にサンタさん居たよ! サンタさん!」
「もう、クリスマスには早いでしょ。何かの見間違いよ」

確かに今はクリスマスシーズンでこそあれ、サンタ服でバイトする若者の姿さえ見かけない時期のはずで、サンタクロースの出現にはまだ早い。
とはいえ子供は純粋なもので、きっとクリスマスが楽しみなあまり、何かをサンタクロースと見間違えたのだろう。

と、心の内でひとりツッコミを入れていくと、親子は居助たちを見向きもせず、背後へと消えていく。
賑やかな会話だけがフェードアウトせずに、静かな夜道にしばらく反響していた。

「ねぇねぇ、今年もサンタさんウチに来るかな!」
「あなたが良い子にしてたら来てくれるわよ。今年は何が欲しいの?」
「うーんとね……ママ! ママがずっと家に居てくれますようにって、サンタさんにお願いする!」
「そんなのサンタさんお願いされても困るわよ。……でも、そうね。ママはずっとあなたの傍に居るわよ」

ごく当たり前の、親子の会話。
母が子供を愛するのは当然のことで、子供が母を信頼するのも当然のことで。
――そのはずなのに、思うところがあるのは自分だけではないはずだ。


「居助さん」


繋ぐ手がぐっと重くなる。
居助が振り返ると、そこには立ち止まったまま、空を見上げる少女の姿があった。
何かを堪えるように震えた声で、誰かに訴えるように言葉を紡いでいく。

「神様は――残酷ですね」

それは居助に向けられた言葉なのか。
あるいは、自分自身に言い聞かせているような強がりの言葉だった。

「人生で大事なものは、いつだって手遅れになってから気付かされるんですね。
 ――もっと早く気付きたかったのに。誰も、何も教えてくれなくて。
 忘れたくなった頃に、真実はやってくるんです。もう間に合わないことだけを、残酷に告げていくんです」
「…………そうだな」

居助もつられて空を見上げる。
都心はどんなに夜空が晴れていても、目を凝らさなければ星ひとつ見えはしない。

当たり前に明るすぎて、見えなくなったもの。
暗くなって初めて分かる、日常の大切さ。
――2人がそれに気付いたのは、全てを失った後だった。

「……お母さん。わたしを産んでくれて、育ててくれて、ありがとう。
 これからも頑張るからね。ずっと見守っていてね」

東京の夜に、流れ星がひとつこぼれて落ちた。


*


「わたし、牛乳を一気飲みする男の人が好きなんです」
「いきなり何言ってんだ」
「フェチなんですよ、牛乳一気飲みフェチ」
「そんな言葉初めて聞いたが」

しばらく夜道を進んでいると、急にルナが晴れ晴れとした笑顔で突拍子もないことを言い出した。
彼女とは色々あり、すっかり打ち解けてきたと思ってきた矢先にこれである。
というより、猫を被っていた部分が剥がれて本性を見せてきたというところか。

これは男として喜ぶべきか、悲しむべきか、判断に悩むところである。

「って言っても、うちに牛乳は無いと思うぞ」
「じゃあ買いましょう。腰に手を当ててぐいっといきましょう。近くにスーパーはありませんか?」
「急にグイグイ来るなお前……」

目をキラキラと輝かせて迫ってくる彼女に、居助も思わず苦笑い。
居助はこれといって牛乳が好きではないが嫌いというわけでもなく、コップ一杯分ぐらいであれば余裕で一気飲み出来るだろう。
同じ痛みを共有するもの同士、これからも仲良くしていきたい。少しぐらい彼女の要求を飲んでも損は無いはずだ。

ここからなら、スーパーまでそう遠くは無い。
一旦ルートを変更することにはなるが、時間にも余裕があるので問題ないだろう。

「わかった。牛乳を買いに行こう」
「あ、それならついでにマヨネーズも買ってください」
「……それもフェチなのか?」
「いえ、家にあるマヨネーズが丁度切れそうだったのを思い出したので」

悪びれずそう言って笑う彼女を、少しだけぶん殴りたくなった居助だった。


*


近所のスーパーで紙パックの牛乳とマヨネーズを買ってあげると、ルナは余程嬉しかったのか小躍りしながら店の外へと駆け出していった。
居助はついでに数日分の食材を買い足してから、会計を済ませて彼女の後を追いかける。

レジ袋を提げて店の外に出ると、別の女性と話をしているルナの姿がすぐに見つかった。
彼女が駅の方向に向かって手を伸ばすと、女性は会釈をして立ち去っていく。
居助がそれをしばらく観察していると、ルナがこちらに気付いて手を振った。

「ルナ、何していたんだ?」
「道案内です。駅の場所が分からなくて困っていたようだったので」
「ふーん。……偉いな」

素直に褒めると、ルナはふんすと得意げに鼻を鳴らした。
牛乳とマヨネーズが入った小さなレジ袋を右手に持って、彼女は上機嫌のようだった。

「それじゃあ、今度こそ居助さんのお家に行きましょう」

買い物を済ませ、それぞれ違う袋を持った2人は目的地へと向かう。
夜も本格的に更けてきた頃、街明かりに照らされ、後ろからついて来る影はどこまでも真っ黒だった。

待ちに待った、夜が始まる。


*


「ほへー、居助さんって高そうなマンションに住んでるんですねー」

居助の住居まで来たデリ嬢は口を揃えて皆こう言う。
都会のマンションは似たり寄ったりだと思うが、普通にオートロックの付いた立地が良いだけの高層マンションである。

居助は能力を使えばいくらでもお金が稼げたため、初期費用の調達に困ることは無かった。
そうして貯めた費用をマンションや高級車といった固定資産にあて、社会的な信頼を得て更に高額なお金を金融会社から毟り取る。
――居助のこうした考えは実行にさえ移せれば巨万の富を得られるのだが、如何せん彼自身が小心者であるため、大した稼ぎまでには至っていない。

それに、どれだけ稼いでも彼自身の本質は変わらず、先に待つのは虚無ばかりだった。
記憶に値しない、不出来な人間――かつて、両親や友人は居助のことをそのように評価していた。
今だって、ろくな仕事にも就けず騙し討ちのようなやり方でお金を稼いでいる、最低な人間だ。
身の丈に合わない金ばかり持っていても、誰かと一緒に幸せになることは決して出来ない。

やがて彼女も、居助のことを忘れるのだから。

エレベーターに乗って、彼女を部屋まで案内する。
24階建て高層ビルの801号室、そこが居助の居住空間だった。

「好きにくつろいでいっていいよ」
「お邪魔しまーす」

ひとり暮らし用の部屋なので室内は多少狭く、ごちゃついているという印象を与えやすい。
扉を開けるとまず玄関があり、風呂やトイレといった水回りがあり、キッチンとリビングが合体したような大広間があり、目立たない場所に寝室もある。
間取りも広さもごくありふれたワンルームだ。不便を感じないので、しばらくはこのままで良いだろう。

「とっても男の人、って感じの部屋ですね」
「綺麗なお世辞をありがとう」

部屋に入るなりルナがコートを脱ぎ始めたので、クローゼットからハンガーを取り出して渡す。
2枚重ねのダウンコートの下から出てきたのは、ピンク色のセーターに身を包んだ細身の少女だった。
セーターから漂う仄かな汗の匂いに、居助はドキリと興奮してきた。

見た目こそ少々幼いが、ここまで親睦を深めたのなら敢えて断る理由も無いだろう。
居助はひとり覚悟を決めて、男らしく彼女をリードすることにした。

「それじゃあ、先にシャワー浴びてきなよ。ゆっくり待ってるからさ」
「はい、そうさせてもらいますね。たくさん歩いたせいで足がパンパンですよ」

ルナは足の太ももをさすりながら、脱衣所へと向かう。
その途中、思い出したように居助と向き合った。

「そういえば居助さん、音楽は好きですか?」
「音楽……? まぁ、普通に聴くけど」
「本当ですか! わたしロックに詳しい男の人フェチなのですが!」
「フェチ?」

それがフェチにあたるかどうかはさておき、彼女は唐突にロック音楽の素晴らしさについて語り始め、邦楽・洋楽を問わず知っているロックバンド名を挙げていった。
居助も中学生の頃に「カッコ良さそうだから」という理由で洋楽ロックに心酔していた時期があったため、言っていることの半分ぐらいは理解できた。

彼女は一通り満足するまで語り終えると、鼻歌混じりに今度こそ脱衣室へと向かっていった。
衣擦れの音が聞こえ始め、やがてシャワーヘッドから勢いよくお湯が流れる音へと変わる。

居助はレジ袋から牛乳とマヨネーズ、それから買い込んだ数日分の食材たちを冷蔵庫の中へと仕舞っていく。
そして、また彼女はロックの話をするだろうという予感がしたので、シャワーから上がってくるまで寝室でロックを聴いて時間を潰すことにした。

濃厚なギターやドラム、それから力強いボーカルによる攻撃的な英語の歌詞が耳を覆う。
久しぶりに聴くロックは心地よく、彼に流れる時間の感覚を消し飛ばしていく。

頭の中で耳障りの良いロックの音色が加速と停止を繰り返していた。
音楽に限界は無く、いつまでも世界を塗り替えていく。

――全ての駒は揃った。

終わらせよう。
ここまでの茶番を。

裁きの時は訪れた。


*


「居助さん」

ルナの声で居助は現実に引き戻される。
ロックを聴きすぎたあまり、トランス状態に陥っていた。
一体いつまでそうしていたのだろう。時計の針は21時を指していた。

風呂上がりのルナは白いパジャマに着替えていた。
華奢な身体も合わさり、まるで雪ウサギのように可愛らしい姿だ。

「じゃあ、次は俺もシャワーを――」
「あ、居助さんは大丈夫です。わたし汗臭い男の人フェチなので」
「そのフェチは比較的メジャーだな」

居助がこれまでに出会ったデリ嬢の中でも、そういったフェチを持つ人は珍しくなかった。
あるいは「さっさと仕事を終わらせて帰りたい」という意味が含まれていることもあるが、ルナに限ってそれは無いだろう。

これから起こることを予感して、ベッドの上で居助は生唾を飲んだ。
この感覚だけは何度経験しても慣れることは出来ない。
――自分に上手く出来るだろうか。不安ばかりが募る。

「それじゃあ、居助さん。……行きましょうか」

しかし、クルリと背を向けてリビングへ向かう彼女を、居助は思わず引き留めた。

「あの、ルナ……? どこへ?」
「どこって、牛乳ですよ。牛乳一気飲み」
「ああ……。今じゃないと駄目か?」
「駄目です。牛乳を一気飲みする姿を見せてもらわないと気分が高揚しません!」

急に駄々をこね始めるルナに、居助は渋々ながらも付き合うことにした。
ここで焦っては折角の良い雰囲気を台無しにしてしまう。彼女に従って牛乳を一気飲みすることにしよう。

居助は外行きの私服のまま、再びリビングに腰を落ち着けた。
冷蔵庫から牛乳を取り出し、食器棚からコップを取り出す。
パジャマ姿のルナが目を輝かせながら見守る中、コップに牛乳を注いでいく。

「さぁ。男らしくぐいっといきましょう! ぐいっと!」

人に凝視されながら飲むという行為がこんなに緊張するものだろうか。
高鳴る心臓を落ち着かせ、居助は覚悟を決めてコップに口をつけた。


彼女の口元が「ごめんね」と囁く。


牛乳を口の中に流し込むと、異変に気付いたのは一瞬だった。
――死ぬほどマズい。舌が痺れるような、圧倒的な違和感。
居助は前にもこれと同じものを飲んだことがある――記憶を引き出し、それを思い出した。
まるで夏場に丸1日放置したのに気付かず、飲み残しの牛乳を口に入れてしまったときのようだ。

つまり――腐っていたのだ。
それに気付いて、居助は急に気分が悪くなり、口の中に含んでいたものを全て吐き出した。

「おえっ! ……げほっ、げほっ! 何だこれ、買ったばかりの牛乳が――」
「腐っていた――っすか?」

背後から別の女性の声がして、居助は咄嗟に飛び退いた。
いつからそこに居たのか――気配も見せることなく、彼女はそこに居た。
あの時と同じように、薄手のTシャツに身を包んで。


「今井商事、3課。有間真陽っす。以後お見知りおきを。
 ――鎌瀬居助くん、君が借りた1000万を契約に従い、『取り立て』に来たっすよ」


一気に色んなことが起こりすぎて居助はパニックに陥っていた。
助けを求めるようにルナが居るほうをチラリと見る。
しかし、期待を裏切るように彼女は全く動じていなかった。

彼女はあらかじめ仕組んでいた立場だったのだから。

「――騙していてごめんなさい。改めて自己紹介しますね。
 今井商事、2課。浅田(あさだ)るいなです。居助さんの身辺調査を行わせていただきました」
「お前……最初から……!」

部屋には味方が居ないことを悟り、却って気を落ち着かせていく。

そもそも前提からしておかしい。
居助の能力は『痕跡を残さない』ということであり、今井商事からお金を借りた形跡はおろか、そこに居た人々も居助のことを知らないはずだ。

「どうしてお前らは、俺のことを知っている……!」
「何故って――書いたっすよね、契約書」
「それは俺の能力で消したはずだ! 俺に関する記憶も、痕跡も、筆跡も――」
「憶えているっすよ、全て」

真陽はどこからともなく1枚の紙切れを取り出す。
それを広げると――今井商事で差し出されたものと同じ、契約書。
そこには確かに、居助が書いた文字もそのまま残されていた。

居助は驚くよりも先に、咄嗟に能力を発動する。
あの時上手くいかなかったというなら、今度は絶対に失敗しない。
契約書に残された筆跡を全て『消去』する――!

「無駄っすよ。この紙に流れている時間は私の能力によって停止しているっす。
 つまり――君が契約書を書いたその日からインクは乾くことなく、そのままの状態をキープしているということっす」
「……くそっ、お前も能力者なのか!」

別の能力による能力の相殺。
居助も全く考えが及ばなかったわけではなかったが、そんな偶然があるわけないとも高を括っていた。
――その慢心が、こんな最悪の事態を招くとは予想もしていなかった。

彼は必死に打開策を考える。
たかが紙切れ1枚で――居助の能力が全て無効になったわけではない。

居助と真陽は正面から睨み合い、互いに出方を窺っていた。

「抵抗しないなら手荒な真似はしないっすよ。――今井商事まで付いてきて欲しいっす」
「そんなの――お断りだ! その契約書をお前から奪えば、俺の痕跡は再び消える!」
「君の能力は痕跡を消す能力っすよね。勝ち目があると思うっすか?」
「…………契約書に、俺の能力までは書いていない! 俺の能力は忘れられることではなく――」


「わたしの前で、ハッタリや嘘は通じませんよ」


その時、沈黙を貫いていたルナ――改め、るいなが口を開く。
そうだ。能力者が1人とは決まっていない。
まだ目の前に居る真陽の能力すらよく分かっていないのに、同時に2人の能力者を相手にするのは厳しい。

「親切心から伝えると、るいなの能力は『真実しか言えなくなる』能力っす。
 ――今日一日、るいなと過ごした君なら心当たりはあるんじゃないっすか?」
「…………!」

口の中にあった違和感がようやく氷解する。
思えば駅前で会ったとき、世間話をしようとしたとき、それ以降も――ずっと、居助の口から出る言葉は本音ばかりだった。
あの時気が利いた言葉が言えなかったのは緊張のせいだとばかり思っていたが、初めから能力の影響を受け続けていたのだ。

「……くそっ、厄介な能力だな!」

真実しか口に出来ないということは、今までの発言が全て本当だと吹聴しているようなものではないか。
ずっと居助は墓穴を掘り続けていたのだ。自らの死地が、まさか自分の部屋とは思わないだろう。

腹をくくり、正面から対峙することだけを考える。
勝負は一瞬で決着を付けなくてはいけない。

隙を見て、居助は食器棚からナイフを取り出すとそれを真陽に突きつけた。

「……ぶっ殺してやる。お前の能力さえ無ければ――俺はなぁ!!」

決死の覚悟で放った怒号に、しかし真陽は臆することなく、ニヤリと笑った。
――刹那、真陽の身体が視界から消える。

瞬間移動。
自らを超加速させることにより、一瞬で移動を行う能力。
思い返せば真陽と初めて会ったときも、一瞬で現れたり消えたりしていた気がする。
その後に何が起きていたか――。

彼女の後を追いかけるように、突風が吹いていた。

「――そこだぁ!」
「なるほど、良い勘しているっすよ」

右から回って背後を取ろうとした真陽を、一瞬吹いた風を読んで居助が咎めた。
勢いよく突き刺したナイフは、しかし彼女の左手に握り込まれて止められている。

ゼロ距離での睨み合い。
追い詰められているのは居助か、それとも真陽か。
――ナイフを握る左手から、鮮血が滴り落ちる。

「この能力を見せるのは初めて――じゃないっすね。
 私と出会ったときに看破されていたのは、流石に予想外っす」

物質が移動する時間を加速させても、その周囲に存在する風の流れまでは誤魔化せない。
瞬間移動に伴う副作用は、激しく風の流れが乱れること。
その風の流れを読むことで真陽の移動ルートを計算することは、決して不可能ではない。

「だけど――これで、攻撃手段は封じたっすよ」

信じられないことに、真陽が握り込んでいたナイフはあっという間に錆びてしまい、先端からポキリと折れてしまった。
――ナイフの中に流れる時間を加速させたのか。

「チートかよ……おい!」

武器が通用しないなら、物理で攻める。
居助が必死の思いで放った渾身の蹴りは、真陽の腹に存外深く刺さった。

「――んぅ!?」
「先輩!」

背後からるいなの悲痛な叫びが聞こえる。
一瞬生まれた隙を突いて、居助は脱兎の如く部屋を飛び出した。

その途中、チラリとるいなを見るが――その瞳には既に、居助のことなんて見えていなかった。
泣き出しそうな表情で、真陽のことだけを見ていた。

そうか――あの時の話は、全くの嘘なんかじゃない。
彼女にとっての大切な人は、確かにここに居る。

大切なものを失い、別の大切な人を見つけたるいな。
全てに絶望して全てを手放し、何も見つけることの出来なかった居助。
そして――二度と戻ってこないと思っていたものを突きつけ、今まさに居助を追い詰めようとしている真陽。

リビングから玄関に通じる扉を閉めると、居助は能力を発動した。

筆跡を消すことが出来ないなら――せめて痕跡や記憶だけでも。
今日の出来事を全てリセットすれば、時間は稼げるだろう。

居助の居場所は、やはりどこにも存在しなかった。


*


「先輩! しっかりしてください!」
「うぅ……痛いっす……ズキズキ痛むっす……」

食器棚の傍でうずくまる真陽を、パジャマ姿のるいなが駆け寄った。
誰かに腹を蹴られたような気がする。鋭い痛みが自身を襲っていた。

「先輩……誰にやられたんですか!?」

そこで大きな違和感に気付き、真陽は辺りを見渡した。
見知った顔、見知らぬ部屋――誰かの家を『調査』しに来たのだろうか。

大切な何かを、忘れているような。

痛んでいるのは腹ばかりではない。
ふと左手を見ると、そこにも大きな傷が走っていた。

「そ、その左手――先輩、これって」

その傷は、間違いなく彼が残した痕跡だった。
痕跡を辿り――彼女たちは『記憶』を思い出す。

彼の能力の弱点は、記憶を完全に消去することは出来ないということだった。
人間の脳は複雑に出来ているため、彼の能力が及ぶ範疇を超えている。
そのため他の痕跡や筆跡を消去することで、「思い出すことが出来ない」という状態を作り出していた。

そして、記憶を失う前の真陽は左手の傷に流れる時間を止めることで、能力では消せない痕跡を作り出していたのだ。

「――これで終わりっすよ、居助くん」

無敵に思われた能力は完全に打ち破った。
真陽はベランダの窓を開けて、外へと飛び出す。

「先輩! ここ8階ですけど――!」

真陽は自身の能力でどこまでも加速していく。
るいなの静止も耳に届くことは無い。

「はぁ……先輩ってば、いつもひとりでカッコつけるんですね」

部屋に残されたるいなは、彼女の無事を祈ることしか出来なかった。
その背中はいつまでも遠くにある。


*


「……くそっ、どうなってやがる!」

居助は何度目か分からない悪態をついていた。
緊張か震えのあまり、靴に足を通すことすらままならない。
このまま素足で逃げ出すことも考えたが、あっという間に追いつかれてしまうだろう。

悪戦苦闘の末に、ようやく靴を履くことが出来た。
居助は玄関の扉を開けて、外へ――――

「思い出したっすよ」
「うわぁ!」

逃げ出すことは出来なかった。
玄関を開けるとそこに居たのは、記憶を失っているはずの追跡者の姿だったのだから。

居助は驚きのあまり、玄関に尻餅をついた。
そこに覆いかぶさるようにして真陽が近づき、彼を完全に押し倒した。

「――これでもう、逃げられないっす」
「何でお前……俺のこと、憶えてんだ」

鼻先がくっつくほどの距離。
手足を必死に動かして抵抗を試みるが、ガッチリ抑えられていて動くことは叶わなかった。

「ナイフで切ったじゃないっすか、私の左手。その傷跡から思い出せたっすよ」
「そんな痕跡、俺の能力で――!」

言いながら、居助はそれが無駄な足掻きであると悟った。
契約書の筆跡が消えなかったように、左手の傷も彼女の能力によって『停止』させられているのなら、打つ手は無い。
――まさか自らの攻撃によって付けた傷で能力を封じられてしまうとは、あまりにも皮肉がすぎる。

こんなにも自分を忘れようとしない人間に出会ったのは、初めてのことだった。

「これで、二度と居助くんのことは忘れないっすよ」
「……でも、傷はいつか修復されて見えなくなるだろ! その時に俺のことは思い出せなくなる!」
「この傷は一生残しておくっす。たとえ何度忘れそうになっても、この傷を見るたびに思い出してやるっすよ」
「――――!」

話で聞いていた通りの人間だった。
居助が一生かけて抱えてきた闇を、彼女は真っ直ぐな言葉で受け止めようとしている。

「何で……俺のためにそこまで……」
「放っておけなかったからっすよ。居助くんが抱えているものは、決して1人で解決できるものじゃないっす。
 ――本当は、仲間が欲しかっただけ。根は優しいってこと、私は知っているっすよ」
「そんなの――分からねぇだろ!」
「あの時るいなちゃんに共感してくれて、ありがとう」
「…………」

どんなに強がっていても、見透かされてしまう。

――居助だって本当は誰にも忘れられたくないのに。
拗れた自意識と不出来な自分に嫌気が差して、こんなに過ちだらけの人生を歩むことになってしまった。

「俺……まだやり直せるのかな」

倒れ込んだ姿勢のまま、居助の目から涙が溢れてくる。
――神様は残酷ですね。
――人生で大事なものは、いつだって手遅れになってから気付かされるんです。
訴えるような少女の声が耳に響いていた。

「――もう、忘れられたくねぇよ」
「言ってるじゃないっすか。もう居助くんを忘れる人なんて、居ないっすよ」
「……ははっ、夢みてぇだ」

今日はあまりに多くの出来事がありすぎた。
――あまりにも都合が良すぎて、本当に夢みたいな話ばかりだった。

安心したら、何だか急に眠気が襲ってきた。
ひょっとして、本当に夢なんじゃないだろうか。

ひとりが寂しくて見ることになった、あり得るはずのない夢想話。
たとえこれが夢でも、こんなに幸せなことは無いだろう。

でも、本当はこれが夢であってほしくない。
だってこれが夢なら、醒めた後になって、るいなや真陽のことを忘れてしまうのだから。


「――忘れたくねぇなぁ」


少年は縋るようにつぶやき、そして意識を手放した。

居助の居場所は、ここにある。


*


浅田るいなは唐突に眠気を感じ、彼女が到着したことを身を持って察した。
慌てて着てきたコートのポケットから強力なミントガムを取り出し、口の中に放り込む。

徹夜で勉強していた頃のように重い身体を引きずりながら、玄関へと繋がる扉を開ける。

そこには玄関で倒れ込み熟睡している男女の姿と、それを外から見下ろす女性の姿があった。
念のため補足すると、男女とは居助と真陽のことである。
傍目には真陽が居助を襲っているようにしか見えない。

「…………何が起きたんですか、一体」
「……ふわ~ぁ。見ての通りじゃない? これなら、ぼくの助けは要らなかったかな」

女性は大きなあくびを隠そうともせず、早くも回れ右して帰宅の意志を示していた。

「あ、お疲れ様です。入々夢(いいゆめ)先輩」
「……ふわ~ぁ。るいなちゃん、ご苦労様」

彼女の名前は入々夢美奈(みな)。今井商事の4課でリーダーをやっている先輩だ。
特技は眠ること。そして眠らせること。
――そう、彼女もまた魔人であり、『周囲に居る人間を無差別で眠らせる』という迷惑極まりない能力を持っている。
居助が利用するであろうホワイト・リリィの事務所に張り込み、職員全員を眠らせてハイジャックしていたのも彼女である。

寝る子はよく育つというが、美奈のスタイルはモデル顔負けのもので、身長182cmながら細身で誰もが羨むナイスバディの持ち主だ。
引き換えに彼女の性格は怠惰そのもので、一週間の半分以上を――下手すれば一週間丸ごとを、眠ることだけに費やしている。

その性格で仕事が務まるのかと最初は疑問に思っていたるいなだが、4課とは備品管理を担当する部署であり、その備品管理システムを設計したのが彼女というから驚きだ。
備品管理の流れを可能な限り自動化することで仕事時間を最低限に減らし、削減した分の時間を睡眠にあてているという。
――詰まるところ、勤勉で怠惰なエンジニアそのもの、といったところだろうか。

そんな彼女だが、今日は奇妙な格好をしていた。
肩から腰にかけて大きな縦縞の入った、赤いコートを羽織っている。
これでは――まるで。

「……サンタさん、ですか?」
「……ふわ~ぁ。違うけど。私服だもん」
「――――あ」

そういえばここに来る途中、子供が「サンタさんを見た」と言っていたが、彼女の服を見てそう思ったのかもしれない。
世間って狭いなぁ、とるいなは思わずクスリと笑った。

「……ふわ~ぁ。よく分からないけど、そこで安らかに眠っている男が今日のターゲットで間違いない?」
「はい。居助さんです」

その発言を聞くなり、美奈は真陽の身体をどかしつつ、居助をひょいと持ち上げた。
どちらも当分目覚めそうにない。何があったかは分からないが、お疲れなのだろう。

まるで酔い潰れた人を介抱するように居助を背負い、そのまま事務所まで連れて行こうとする。
ずり落ちないように腕の位置を調整しながら、美奈は「そうだ」と声をかけた。

「……ふわ~ぁ。るいなちゃんから見て、居助くんはどうだった?」

あるいは、彼が本当に手遅れな人間だったら、そのまま今井商事で恐ろしい目に遭っていただろう。

しかし彼は若い。悪事を働きながらも、自らが悪に染まることを拒む理性がきちんと残されていた。
それに、彼が本当は優しいことを一番理解していたのは――他ならぬ、るいなだった。

静かに微笑んで、彼女は答える。


「忘れられない人、です」


美奈はそれだけ聞くと、少しだけ顔をほころばせて彼を連れて帰ることにした。
安らかな表情は――彼自身も、答えは見つけられたということなのかもしれない。



その日、東京からひとりの小悪党が姿を消した。
鎌瀬居助は今井商事のお世話になりながらも、一人前の人間として更生する道を選んだのだった。

いつか、誰にも忘れられない、立派な人になるために。


*


それから年が明けて、街はあっという間にバレンタインの時期を迎えていた。
女の子も男の子も浮足立って、チョコを贈ったり、貰ったりを楽しむ季節のイベントだ。

亀有賑わいの商店街、通称『ゆうろーど』においても、チョコを第一に掲げた販売戦略が多く飛び交っている。

人混みに紛れて歩く2人の女性の姿があった。
普段は借金の取り立てに勤しむ22歳の社会人、有間真陽。
同じ会社で働き、顧客の身辺調査を担当する18歳の女の子、浅田るいな。

彼女たちは、ここ亀有で休暇を満喫している真っ最中だった。

「すみません。先輩をわたしの用事に付き合わせてしまって」
「気にしなくていいっすよ。るいなちゃんと休みの日が合うのなんて滅多に無いから、とても楽しいっす」

そう言って屈託のない笑顔を浮かべる真陽に、思わずるいなも頬を赤くしてしまう。
真陽は冬着らしく飾り気のないトレンチコートを羽織っており、るいなは相変わらずダウンコートを重ね着して雪だるまのように着膨れしていた。

るいなの用事とは、母に贈る花を買いに花屋まで向かうことだ。
何故こんな時期に――と疑問に思う真陽だったが、どうやら母の好きな花がこの時期にしか売っていないものらしい。

真陽としても花屋に赴くのは久しぶりだったので、断る理由が無かった。

寒さから身体を寄せ合いながら、少女たちは街を歩く。
そうしている間はまるで普通の女の子のように、日常の風景に溶けていく。


*


「いらっしゃいませ~」

有名な歌にあるように、花屋の店前に並んだ色んな花を見ていると、店員の女性に声をかけられた。
園芸の花とは数え切れないほど品種のあるもので、様々な花が咲く春はもちろん、夏や秋、冬にも季節の花は様々だ。
この時期にはツバキやスイセンといった気高い印象を持つ花が多く並んでいる。

女性は部屋を飾り付ける花を探すために、この店を訪れていた。
しかし想像以上に数が多く、とても選びきれない。

生花もいいが――いっそ、造花で済ませてしまうのもいいかもしれない。
花というものを甘く見ていた彼女は、贅沢な悩みに直面していた。

「何をお探しでしょうか?」
「部屋に飾る花を探しているのだけれど、おすすめはあるかしら?」
「装飾用のお花をお探しですね。お客様、園芸の経験はお持ちでしょうか?」

店員はこういった客の扱いには慣れているようで、淀みないスマイルで接客を行っていく。
一方、女性は人と話すこと自体に慣れていないため、目線を合わせることが出来ない。

「いいえ、裁縫は得意だけど園芸の経験は無いわ」
「それでしたら、手のかからない造花がおすすめですね。こちらのベルベットローズはいかがでしょうか」
「あら、綺麗ね」

まるで鮮血のように赤い、バラの造花。
赤いものは白い部屋によく似合う。女性が想像していたイメージにぴったりだった。

少し値は張るが、女性は金に糸目をつけない性格をしていたので、特に気にすることは無かった。

「それじゃあ、これに――」

そう言いかけたその時、他の客が来店してきた。
2人組の若い女性客のようだった。

「いらっしゃいませ~」

店員がそちらに行ってしまったので、何となく買うタイミングを逃した気分になってしまった。
折角なのでもう少し見て行こうか。女性は他にも良い花が無いかと物色を始める。

「グローリー・オブ・ザ・サンをください」

何だその必殺技みたいな名前は。
おそらくは先程入店した女性の可愛らしい声には似つかわしくない、如何にも通好みといった名前が耳に飛び込んできた。
ちょっとベルベットローズって名前カッコいいなぁ、なんて思った矢先にこれだ。世界はまだまだ広い。
花屋って結構楽しいかも、と女性は見識を改めるのだった。

しばらくして、店員が白い花を持って現れる。
これが噂のグローリー・オブ・ザ・サンというやつだろうか。
まだ開花時期には少し早いためか小ぶりだが、強い生命力を感じる花だった。

しばらくそれを見つめ、同じものを買おうか迷っていると――隣に、ひとりの少女が寄ってきた。
何と声をかけようか分からず挙動不審になっていると、向こうから話しかけられた。

「花って――こんなに種類があったんすね。ちょっと興味が湧いてくるっす」
「えぇ、本当にね。こんなに面白い名前がいっぱいあるなんて、知らなかったわ」

彼女の話しやすい雰囲気に引っ張られるように、2人はすぐに打ち解けた。

それから例の長い名前の花を買った小柄な少女も会話に加わり、花屋に明るい声が響き渡る。
色とりどりの花があって会話の種には困らない。
まるで女子高生の頃に戻ったように、いつまでも語り明かしていたかった。

しかし、時間はあっという間に過ぎていく。
女性には戻らなくてはいけない場所があった。

「――さてと、私はそろそろ家に帰ろうかしら。また会いましょうね」

最終的にベルベットローズとグローリー・オブ・ザ・サンを1束ずつ買い上げて、女性は店を後にする。
なんと有意義な時間だっただろうか。世界はまだまだ広い。

「お姉さん」

立ち去ろうとすると、背後から最初に話しかけてきた方の少女が呼び止めた。

「懐中時計、落としたっすよ」

そう言われてポケットに手を突っ込むが、確かに見当たらなかった。
――母から譲り受けた、銀時計。大切なものだ。

「ありがとう。助かったわ」

少女からそれを受け取り、礼を伝える。
ふと少女の左手を見ると、まだ新しく見える傷が走っていた。

「あら。その傷――」
「あ、大丈夫っすよ。この傷はそういう傷じゃないっす」
「そうなの……?」

何故か誇らしげに笑う彼女を見て、これ以上の追求はやめておいた。
今度こそ別れを告げて、2人は別々の道を往く。

もっと様々な花が咲き乱れる、新世界のために。
女性はもうひと頑張りしようと、決意を固めていた。


*


「綺麗な方でしたね」

花屋からの帰り道、るいなは彼女をそう評していた。
彼女は何か夢中になれるものを知っている、真っ直ぐな瞳をしていた。

機会があればまた会いたいと、真陽は思っている。
それに花屋で知った珍しい名前の花の数々も、大きな収穫だった。

「それじゃあ、次はどこへ行きましょうか」

一段落ついて明るい表情を見せるるいなとは反対に、真陽は急に眠たくなってきた。
日頃の疲れだろうか。ゆっくりと目蓋が重くなってきて――。

「せ、先輩! これ食べてください!」

口の中にミントガムが放り込まれる。
即効性のミント成分が頭を刺激し、眠気が多少和らいだ。

「これは、近くに居るんじゃないですか?」
「あはは……まさかー」

普通の人ならそうではないが、2人にとっては睡魔を感じるところに必ず居るといっても過言ではない先輩のアテがある。
存在自体がウルトラレアのような人なので街で遭遇することは殆ど無いため、もしも居るなら何らかのメッセージを持っている可能性が高い。

「あ、居ましたよ! あの喫茶店です!」

るいなが指差す先には、至って普通の珈琲喫茶が店を構えていた。
しかし、店の中を覗いてみると、客も従業員も皆一様に眠りこけている。
――間違いない。彼女の能力で全滅しているのだ。

「……うわぁ」

分かりやすくて有り難いが迷惑極まりない、かなりタチの悪い先輩だった。


*


「……ふわ~ぁ」

カウンター席に座って気持ち良さそうに熟睡している彼女を起こすと開口一番、大きなあくびが聞こえてきた。
入々夢美奈。真陽たちと同じ今井商事に所属する4課のリーダーであり、万年床をこよなく愛する眠りマイスターでもある。

「……ふわ~ぁ。君たち、ぼくの居場所がよく分かったね」
「逆に分からない方がおかしいと思いますよ」

るいなの容赦ないツッコミにも動じず、美奈は寝ぼけ眼でにへらと笑った。

「……ふわ~ぁ。お休みのところ悪いけど、真陽ちゃん、あなたに社長から用事があるってさ。ぼくはそれを伝えに来たよ」
「用事って――それ、今じゃないと駄目なんですか?」
「……ふわ~ぁ。愚問だね。大事な要件じゃないなら、ぼくは引き受けないよ」

なるほど確かに。
わざわざ嫌がる美奈を使ってまで伝えたい用事なら、それは間違いなく大事な話なのだろう。

とはいえ、ここまで大事にして伝える必要はあっただろうか。甚だ疑問である。

「先輩、わたしのことは大丈夫なので、行ってきてください。ちょっと入々夢先輩にお説教してから帰ります」
「……ふわ~ぁ。……え?」
「うん、後は任せた。行ってくるっす」

いつもは動じない美奈が珍しく狼狽するのを横目に、真陽は喫茶店を後にした。

急ぐことは何よりも容易い。
真陽はいつものように能力を使い、最短距離で加速していく。

嫌な予感がしていた。


*


「お帰りなさいませ、お嬢様」

社長室に入るなり、視界に飛び込んできたのは黒い燕尾服に身を包んだ男の姿だった。
真陽は一瞬ぎょっとしたが、よく見るとそれはいつもの彼の姿だった。

「祓くん、何してるっすか」
「休日を返上してまで社長室にお越しいただいたことに対する、最上級のおもてなしですが」

彼の名前は祓拓成。
今井商事の1課に所属する、真陽の後輩だった。

驚くべきことに彼は今井商事にあって逆に珍しい、何の能力も持たない一般人である。
とはいえ怪しい喋り方から分かる通り、ここに来る前は詐欺師のようなやり口で金を巻き上げる悪人であった。
しかし、社長と出会いどんなに巧みな話術も敵わない人が居ると知ってからは、社長に心酔して今井商事の営業として働くようになっていた。
改心したかどうかは定かではないが、彼の得意の話術が正しい方向で生きているのであれば願ったり叶ったりだろう。

「急に呼び出したりしてすまない。まずは座ってくれたまえ」

低く落ち着いた社長の声を聞いて、真陽の心がぐっと引き締まる。
見ると、神妙な面持ちで応接用テーブルの上座に腰掛ける社長の姿があった。

社長――今井総。
今井商事の創設者兼、代表取締役。
小さな会社の頭取ではあるが、裏社会で彼の名前を知らない者は居ないと言われるほどの鬼才の持ち主だった。

曰く、生まれながらにして魔人能力に目覚めていたという。
彼が手にしたものは間違いなく大成する。常に最善を選ぶ能力を持ち合わせていた。

勝利の女神から寵愛を受けたとされる、至高の運の持ち主。
――能力名、『ヴィクトリアス・マイルストーン』。

彼について多くを知る者は少ない。
けれど、彼に付いていけば問題は無いという絶対的な自信の元、こうして数多くの従業員が集う実力者である。

「お嬢様、粗茶をお持ちいたしました」
「その気色悪い喋り方やめろっす」

貼り付けたような笑みを絶やすことなく、拓成はお茶やお菓子をテーブルに並べていく。
やがて社長は1枚の書類を取り出し、本題に入ろうとする。

しかし、真陽が口を開くよりも先に、拓成が身体を前のめりにさせながら横槍を入れてきた。

「社長。ここからのお話ですが、下賤なるわたくしめがお耳に入れてもよろしいのでしょうか?」
「構わんよ」
「あぁ、なんと勿体なきお言葉! ありがとうございます! ありがとうございます!」
「…………」

何を見せられているのだろう。
変な男のせいでやる気を削がれつつあるが、静かに社長からの言葉を待つ。

「単刀直入に言おう。山乃端一人、彼女を捕まえてくるのだ。
 他のどの仕事よりも優先し、必ず遂行させたまえ」

そう言って社長が手渡したのは、彼女の諸情報が記載された契約書の写しだった。
住所や電話番号よりもまず目につくのは借入額のところ。100億という桁外れの金額が書かれている。

企業相手であれば返せるアテがあって話は成立するが、個人でこの額は正気の沙汰ではない。
しかも契約成立日は8年前の日付を示しており、今までの間に契約違反にならなかったのが不思議なレベルだ。

――違う。むしろ逆だ。
どうして今になって、契約違反になったのだろうか。

「社長」
「言いたいことは分かる。彼女とは浅からぬ因縁があるのだ。いずれ話そう。
 ――だが、今は一刻を争う。すぐに追跡を始めて欲しい」
「…………分かりましたっす」

確かにそう言った大人の事情を聞いて仕事の役に立つことはあまり無い。
契約書の写しを懐にしまい込むと、真陽は社長室を後にした。

「いってらっしゃいませ、お嬢様。どうかお気をつけて」

拓成の声に答える声もなく、扉は静かに閉められる。
一筋縄では行かないだろうな、という予感が真陽にはあった。

花屋での会話が既に懐かしい。
彼女は――今、どこで何をしているだろうか。


*


穏やかな朝の流れを感じる。
ここはどこにでもあるアパートの一室で、女性は日々を豊かに暮らしていた。

彼女の趣味は裁縫だ。
朝からせっせと針を縫い、ぬいぐるみを編んでいく。
デフォルメされたパンダやゾウのような造形をした、至って普通のぬいぐるみだった。

彼女はひとり暮らしだったので、その趣味を咎めるものは誰も居ない。
部屋中の棚や床といった至る場所にぎっちりと並べられたぬいぐるみの数々は、女性の心をいつも満たしていた。
パンダ、ゾウ、キリン、ライオン、パンダ、ゾウ、キリン、ライオン、パンダ、ゾウ、キリン、ライオン――。
またひとつ、新しい仲間が出来上がった。

――ピンポーン。

誰かがチャイムを鳴らす音が聞こえる。
宅配便の人が来たようだった。
女性は身なりを整えると、すぐに扉を開けた。

「おはようございます。荷物を受け取りに来ました」
「ご苦労さま。このダンボールを持っていってね」

そう言って、女性は3箱のダンボールを配達員に渡した。
配達員がその1つを手に持ってみると、思いの外とても軽い。

「おや。こちらは何が入っているのでしょうか?
 お手数おかけしますが、中を拝見させていただいてもよろしいでしょうか」
「えぇ。構わないわ」

配達員が箱の中を覗いてみると、そこにはぬいぐるみがぎっしり詰め込まれていた。

それは一般人が見れば狂気すら感じる光景であったが、配達員とて素人ではない。
ただのぬいぐるみであることを確認すると、「わかりました」と安心して荷物を受け取ることにした。

「ちょっと作りすぎちゃったから、倉庫に預けたいのよ」
「はい。それはそれは」

軽いやり取りを交えながら、卒なく配達の手続きが完了する。
これが女性にとっての当たり前の日常だった。

無事に荷物の受け渡しを終えたあと、再び女性は編み物に没頭していく。
その部屋には買ったばかりの花が飾られていた。


*


彼女には大いなる使命があった。
自らの編んだぬいぐるみを使って、世界を混沌に塗り替えること。

ぬいぐるみの中には少量の火薬が仕込んである。
これらを全て起爆させることで――世界は修復不可能なダメージを負うことになるだろう。

女性はある日、能力の目覚めを感じた。
その能力を使ったことは一度もないが、本能で力を理解していた。
それは自らが死ぬことによって発動する、一度きりの能力なのだから。

女性はぬいぐるみを編んでは、世界中のレンタル倉庫にそれを預けていく。
その維持費は毎月数百万にまで膨れ上がっていったが、彼女には全く痛くもない話だった。
彼女は日々種を蒔いていた。その気になれば国を1つ簡単に吹き飛ばせる量の、爆弾だ。

起爆スイッチは存在しない。
だが、ぬいぐるみに埋め込まれた少量の火薬と信管が、彼女の死によって一斉に起爆する。

そして――世界は新しく生まれ変わるのだ。
土の中に埋まっていた悪意が芽生え、新しい世界の春を告げる。

そして審判の日は近づいた。
神のお告げが下ったのだ。

――東京に向かい、命を捧げよ。

彼女は歓喜した。ついに自分の行いが実を結ぶときがやってきたのだ。

鞄いっぱいに花とぬいぐるみを詰めて、彼女は東京の街へと繰り出す。
素晴らしい1日になる、そんな予感がした。



山乃端一人(やまのは ひとり)
自らの死によって、世界中にばらまいた爆弾を起爆させる能力者。
――能力名、『ハルマゲドンの引き金』。



東京は真っ赤な夜を迎えようとしていた。
最終更新:2022年02月06日 22:31