夜に朝を接ぐ。
 昼に夜を接ぐ。
 赤い空が金接ぎの如く、時の隙間を埋めると言うなら。
 刃の下のひび割れは、流れる赤い血が塞ぐだろうか。
 日はまた沈む。
 日はまた昇る。
 昨日に何かを忘れても。
 今日やり残したことがあろうとも。
 明日も何も変わらぬと、思い知らされることを恐れても。
 ◆  ◆  ◆
 非常に不本意ながら労働することになった。
 イグニッション・ユニオン第1回戦を終えた後、様々な人から連絡を貰った。
 それは俺の両親であったり、俺と忍の共通の友人であったり、大家だったり、部長だったりした。
 出るなら言ってくれればよかったのに、頑張ってたな、応援してるよ、てゆうか魔人だったんだ、阿僧祇なゆのライブ良かったね。
 大体似たようなことを言う。
 電話越しに聞く部長の声も例に漏れず好意的に聞こえたので、大会出場のために休みが取れないか打診したのだが。
『やってることはいつもと同じなんだから、君の相方が黒服警備保障に護衛を依頼するという形ではどうかね』
 提案のようにも聞こえるが有給申請は通さないという強迫である。
 俺は今回のことを仕事として捉えたくなかったし、忍の懐具合も心配だったから、この際普通に欠勤してやろうかと思いもしたのだが。
「いつの間に、いや、なんで依頼したんだよ?」
 今回の警備対象者、大道寺忍はいつものピエロメイクに苦笑を浮かべながら両手をやや下に向けてゆっくりと上下させた。
 まあ落ち着け、という意味だろう。
「そりゃ利点もあるけどなあ……」
 就業時間を忍との打ち合わせや訓練に使えるというのは確かに大きい。
 どうやって出場の都合をつけようか悩む必要もなくなったので肩の荷が下りた感じもする。
 会社に定時連絡を入れる必要はあるがそれも大した手間ではない。
 ただなんとなく釈然としない。
「わだかまりが残るのはほんとによくないからな。話し合おうぜ」
 阿僧祇なゆもファイヤーラッコTVでそんな感じのこと言ってただろう。
 しかし結局。
 第2回戦に出場するためにはしょうがないということで受け入れるしかなかった。
 あくまでも今回は、だ。
 仕事にする以外の方法でスケジュールを確保する手段が見つかればそちらに切り替える。
 そういう俺の要望に忍も同意してくれた。
「よし、じゃあ気持ちを切り替える。ぱりなリサーチ事務所への対策を考えよう。こいつらヤバいだろ」
 それを言ったら他もヤバいが。
 こいつらは第1回戦で大会出場者の中でも飛びぬけてヤバい相手に勝っている。
 あの登録名のやたら長い夫婦が全力を出し切れていたかは疑問だが、ともかくぱりなリサーチ事務所はスペックで上回る敵にも勝てるコンビということだ。
「こいつら忍者だよな。で、能力は見えない斬撃? 透明な武器か? 俺はそもそも忍者と相性が悪いんだよな」
 小さなパソコン台に設置されたノートパソコンを二人で覗き込む。
 これは忍の私物だ。
 俺も伊達でネット回線を繋いでいるわけではなく自分のパソコンを持っているのだが、そのメモリが4GBと知った忍が何とも言えない顔で持ち込んできたのだ。
 動画サイトで試合映像を見返せばそれなりに多くのことがわかってくる。
 まずは魔人能力についてだが、試合中に異常だと判断できることが起こったのは二回。
 忍者のすることとはいえ流石におかしいと思う。
 一回目は戦闘開始直後、百合子がぱりなのデコ苦無を避けると同時に、何かが百合子の首に当たっていた。その後に百合子はぱりなを自分の敵と定めていた。
 二回目はクロムウェルが白烏の首を断とうとした瞬間、何かがクロムウェルの頬を裂いた。クロムウェルは白烏から目を離し、女子高生制服の女――実際はぱりなではなく百合子だったわけだが――に向き直った。
 撮影機器の性能不足か、彼らの動作の素早さや細やかさを十分に捉え切れているとは言い難い。
 しかしヤバい夫婦の挙動を信じるならば、両方ぱりなが行ったことなのだろう。
 投擲モーションと共に切り裂く何かを放つ能力。
 物理的に存在するデコ苦無と同時に投げることもできるし、その上で軌道をずらすこともできる。
 動きに合わせた現象が起きるという点では、少し忍の能力に似ていると言えなくもない。
 向こうはその気になるだけで自由に発動できるようだが。
 ぱりなの方はそういう能力であると仮定して、白烏の方に不審な現象は起きていない。単純に齢を重ねた極めて厄介な忍者である、ように見える。
 加齢で衰えた筋力や持久力を技術と道具で補っている。身体能力は鍛え上げた非魔人以上のものには見えない。
 何より役に立つ魔人能力があるならば、あのヤバい夫婦相手に温存する理由はない。
 白烏は魔人ではない――と言い切れないのが忍者の嫌なところだ。
 忍者というのは情報を重視し、小細工を弄し、力量差を覆す。
 白烏の非力さが非魔人と思わせるための演技でないとは言い切れない。
 全力で当たらず押し負けるリスクを抱えてでも後の戦いのために手札を隠すことはあり得る。
 ぱりなの魔人能力についてもそうだ。俺の考えが的外れ、というか誘導されている可能性もある。
 単純にガラスや氷で作ったごく薄く透明な武器を隠し持っていたと考えられないこともない。
 見せかけの魔人能力で本当の能力を隠しているということはあり得る。
 だから忍者は嫌いだ。
 何をするかわからない。どんなことでも仕掛けてくる。様々なトリックで一見起こり得ないようなことを実現させる。
 それはつまり奴らの行動の何が魔人能力であるか断定しづらいということであり、俺の『普通の生き方』は非常に相性が悪い。
 そしておそらくそれを相手も知っている。
 自身の情報を秘匿するだけでなく、他者に関する事柄を探り出して有効に活用するのが忍者だ。
 幻想企画との試合から多くの事柄を読み取っているのは間違いない。
 他のアプローチからの調査も怠らないだろう。
 今こうしている間にも黒服警備保障に侵入して俺のデータを抜いているかもしれないし、俺たちの故郷で経歴を洗っているかもしれないし、直接俺たちを見張っているかもしれない。
 とりあえずはその辺りは全部やられていて、その上俺の思いつかないやり方での情報収集もしていると仮定しておこう。
 ただ、今回の戦いは突発的なものだ。イグニッション・ユニオン自体の準備期間にどれだけの時間が当てられたかは知らないが、少なくとも俺が参加を決めたのは結構受付期限ギリギリだった。
 ぱりなリサーチ事務所はどの時点から俺たちに関する情報取集を始めたのだろうか。
 忍者とは忍ぶ者だ。
 刃の心。鋭く研ぎ澄まされたというだけではなく、しなやかで粘り強い心の持ち主だ。
 室町、戦国時代の「草」と呼ばれた忍者は敵地に潜り込んで数世代に渡って生活し、書類の改竄などせずにその地の人間としての身分を手に入れたという。
 そうして完全に溶け込んでいる間も情報収集を続け、本来の主からの指令を待ち続けるるが、結局は本拠地と任地が事を構えず何事もなく生涯を終えるというケースもあったらしい。
 中には自身の家系が忍だということを伝えられる前に親の世代が死んで任務が途絶えたとか、自ら主との繋がりを断って抜け忍になったとかいうこともあるそうだが。
 そういう潜伏者が黒服警備保障にもいるだろうか。
 可能性は低いと思う。
 現代は戦国時代よりも遥かに人口が多い。個々人が所属する組織、勢力も細分化している。
 いくらなんでもその全てに諜報員を潜ませておくのは不可能だ。限られた人員の配置先は慎重に取捨選択される。
 それなりの理由がなければ大会以前から調査活動の対象に選ばれるということはあるまい。
 少なくとも黒服警備保障とぱりなリサーチ事務所が敵対しているという話はないし、因縁がないのなら弊社はただの零細企業に過ぎない。
「忍は忍者に目を付けられる覚えってあるか?」
 質問されるのも意外だという風に、忍は肩をすくめて首を振る。
 そうだろうな。名前がたまたまそれっぽいだけで完全に一般人だ。
 俺たち二人に対して忍者らしい気長な調査は行われていないと見ていいだろう。
 それがない忍者など純粋に高レベルな技術と知識を持った工作員でしかない。
 弊社のセキュリティはいまいち信用できないから全く気休めにならない。
 やはりとにかくヤバいと想定しておく必要がある。
 なんとかして弱みを守って強みを押し付ける戦いをする必要があるが、既に見せた戦法には頼りづらい。間違いなく対策されている。
「1回戦で使わなかった俺たちの武器って何かあるか?」
 忍は自信ありげに頷いて胸を叩き、パッと右手を開いて見せた。
 大きな手の指の股に一つずつジャグリングボールが挟まれている。
 確かに試合ではやらなかったが。
 こいつがジャグリングするのはちょっと調べればすぐわかるだろう。
 相変わらず毎日練習を続けているし、以前のように近所の公園でも披露している。
 大会参加が決まってからテラスハウスの隣に越してきたのだ。身軽だと思う。
 この行動力が忍の長所なのは間違いないが、それを戦いに活かせるかというと――。
 ピンポーン、とドアチャイムが鳴る。
 無根拠に嫌な予感がした。
 忍にその場で立ち上がって置くよう手で示し、俺自身は警戒棒に手を添えてドアに近づく。
 魚眼レンズを覗くと、黒い忍び頭巾に忍び装束の老人が一人立っていた。
「私は不忍池忍軍の未来を憂う者。真不忍池忍軍の一人だ。お主らにとっては敵の敵ということになる。不忍池ぱりなは先代棟梁不忍池守破離衛の娘であるが――」
 返事もしてないのにドア越しに話し始めたぞコイツ。
 ……結局そいつは名前も名乗らないまま、一方的に長話を続けて帰って行った。
 要はぱりなリサーチ事務所についての情報提供だったのだが全く信用できない。
 忍も困惑した様子で、「どうするの?」と目線で語り掛けてくる。
「まあ、深く考えなくていいだろ。用があったのは多分隣だ」
 ◆  ◆  ◆
 興信所「ぱりなリサーチ事務所」内にて。
 ブレザー制服を着崩したギャルがソファに背を預け天を仰いでいる。
 緩めの巻き髪が背もたれにふわりと掛かる。
 百合子と服を交換して一瞬でも誤認させる、その作戦のために一時は黒く戻されていた不忍池ぱりなの髪は再び明るく染め直されていた。
「お嬢様。やはりわしには黒髪の方がお似合いでしたと思えますがのう」
「いやいやこの夏は甘め過ぎないピンクが来るんだって! いやでも妾はオレンジかラベージュも試したいし、ツートンやってみるのも円満具足かなーって。この雑誌みたいな感じ! どう、よくね?」
「ツートンならば黒髪ベースでもよろしいのではありませぬか? いえ、今はそれよりも」
「うん、マイリーマンズね。ゆりりぃとクロやんほどじゃないけどまたも一人当千って感じ。まー当然かー」
 傍に控える小柄な老人、白烏は手元の資料に目を走らせる。
「屋釘寛の方ですな」
 無名の人物ではあるが集められた情報から察するに一角の手練れである事は間違いなかった。
 職業は警備員。身辺警護を主にして人を守りながら戦うこと多数。護衛対象を殺されたことも刺客を殺したこともない。
 彼の敵となるような手合いに対し、その命を奪わずに制圧するのは困難だ。
 普通の警護は優れた装備の質と多人数による綿密なコンビネーションによって対応する。
 何よりも危険を回避するために移動ルートを構築し、怪しい物は遠ざけて、そもそも襲われる状況自体を避けるのが常道だ。
 それをこの男は大抵の場合、単身支援を受けることなく、警戒棒のみ携えて、襲い掛かる相手を片端から殴り倒している。
 能力による有利もあっただろうが、1回戦では白烏が警戒していたクロスケ――獅童功一とも見事に渡り合っていた。
 そして。
「条件付きながら無敵となる能力、ですか」
「ん。でもかなり違うくね?」
「全く違いますな」
 ぱりなの亡き父、白烏が今も御館様と呼ぶ男、不忍池守破離衛の能力と比しての話だ。
 守破離衛の能力、『人遁・身ノ城』は仲間を庇う時にだけ無敵になる能力であった。
 無敵になるという点だけ見れば同じ系統にも思えるが、発動条件が違う以上運用方法は大きく異なる。
 屋釘の能力は「屋釘自身が魔人能力により引き起こされたと認識した」事柄にしか作用しない。
 魔人能力以外の戦闘手段を豊富に持つぱりな達には比較的与しやすい能力だ。
 屋釘との戦闘で注意すべきはやはり彼自身の身体能力の高さだと二人は判断する。
「それよりも火輪の塔、よもや実在する物だったとは」
 その塔の名は以前から耳にすることもあった。伝説としてではあるが。
 天まで伸びる塔は一抱え程の太さしかなく、手足をかけられる凹凸もほとんどない。
 登り切ることができれば大きな力を得られるというが、実際はその頂上で暮らす仙人がたどり着いた者に修行を課すのだという。
 その塔を見たという証言者は複数いるが登り切ったと言う者はいない。
 ヘリで頂上まで近づこうとして雲に阻まれたとか、その場を衛星から観測したが何も映っていなかったと言う者もいた。
 それがある場所についてさえそれぞれの証言が食い違う。
 神出鬼没、正体不明。
 この世には確かにそのような不思議もある。
 しかし実在の証拠は今まで得られていなかった。
 今までは誰も存在を気に留めなかった零細企業、株式会社黒服警備保障とは火輪の塔の秘密を守る結社であるのかも知れない。
 屋釘は入社直後にいくつかの荒行をこなしたという。
 曰く、銃口を突き付けた状態から発射される弾丸をかわす。
 曰く、雲の上まで伸びる柱を道具無しで登る。
 曰く、その柱の頂上で暮らす仙人が持つ毒を飲む。
 曰く、そこからパラシュートなしで地上に飛び降り受け身を取る。
 後ろ三つが同じ場所で行われている。この三つが黒服警備保障における新人研修の本番。
 最初の一つは秘密を守るための入門試験であろうと白烏は判断した。
「正々堂々り合いは禁物。妾らは忍者らしくいこうぜい」
「はっ。こちらについてはそれでよろしいかと」
 シンプルな強さは崩しがたい。しかし調査を通じて見えてきた人柄には十分付け入る隙があった。
「で、しのぴのほうはどうしようか。能力で言うならこっちの方が気宇壮大いし!」
「またそのような愛称を……」
「いやー妾らが忍って呼んだらちょっとややこしいことにならね?」
「それそうかも知れませぬが」
 本人の経歴は一般人そのものだが、大道寺忍の能力は紛れもなく「強い」能力だ。彼が演じられる事柄ならば全てを実現できる。
 まだ見せていない使い道もあるはずだし、幻想企画との戦いで使った中にも嫌なものがある。「触るとくっつく床」を成立させられれば機動力は大きく削がれる。
 発動事態を阻止したい。
「目今わかるのは、やってることを他人が口に出さなければ発動しない。その口に出す役は敵でもいい。口に出す役はしのぴから離れててもいい。発動させるまではパントマイムを続けていないといけない。しのぴの動きを直接見ていなくてもいい。ただし口に出す役のことをしのぴ自身が認識していないといけない、かなー?」
 第1回戦において、大道寺は単身で能力を発動させることがなかった。
 大道寺は自身意外に阿僧祇なゆしかいない状況で壁の演技を試みていた。
 屋釘が爆弾について口にした時、大道寺は離れた場所におり、爆発に備えて伏せる恰好を続けていた。
 終盤に大道寺が回復した際、屋釘は背を向けて視認してはいなかった。
そして試合中のマイリーマンズは知らなかったのであろうが、爆弾の演技の際に中継映像を見たファイヤーラッコが「これ爆弾じゃね?」と口走っており、その時にはまだ爆弾は実体化していなかった。
 これらの事柄からぱりなが下した推論に白烏が付け加える。
「イメージさえできているのなら描写は正確でなくとも構わないようですな。本来T字の棒を上げ下げするだけでは爆発は起きません。あれはダイナマイト・プランジャー、起爆装置に充電するための機械ですから。現実通りにする必要があるならば起爆スイッチを押す動作が欠けています」
「ゆうてしのぴの動きをちょい崩しても安心できんし。うん、やっぱりしのぴの能力を封じるならぴろしを押さえた方がよき」
「あくまでもそうする方が有利という判断ですな?」
 白烏の確認には言外の意図が含まれている。それを察せぬぱりなではない。
「あー、めんご。ちょっと意地になってるかも。違うのはわかってるんだけど。爺やはどう思う?」
「いえ、ただの確認です。問題はありませぬ」
「……ありがと」
 ぱりなから白烏への感謝の言葉には、この老忍者が傍らにいる幸福を噛み締めるような響きがあった。手に入らないものを求めるような寂寥も。
 やはり守破離衛のことだ。
 父に認められ譲られたのではなく、遺されたものを受け継いだ当主の座。
 誰よりもぱりな自身が父と己とを比べていた。
 忍びの在り方を変える。
 その願いを抱いたのはぱりな自身が忍びの掟に疑問を抱いたからだ。
 父を殺した掟を変えれば、父のように殺される者がいなくなる。
 そして掟に抗おうとして果たせなかった父を超えたという証明にもなろう。
 父を越えたい。
 子として当然の想いは、父が生きていたならば、いつか老いた背に気づく切なさと共に叶えられる願いは、もはやそんな形でしか実現されることはない。
 屋釘の能力を攻略しても父を越えたとは思えないだろう。
 だから、ほんの少しの意地がぱりなの思考をわずかに偏らせたのだとしても。
 その偏りを受け入れたのは、やはり忍びとしての勝算があるからだ。
 白烏にはそう思えた。
 ◆  ◆  ◆
 東京の夏が来るより少し前。
 夕暮れ。
 ぱりなは事務所の窓から茜色の空を見る。
 どこかからカレーの匂い。遊びを終わらせようとする子供たちの声。
 ぱりなも昔は里の子供とよくかくれんぼなどをした。
 遊びというより修行の一環であり、日が沈んだ後のことである。
 忍びは夜を恐れない。
 迷信に惑わない。
 幽霊を信じない。
 では、死者については、どう思うべきか。
 死ねば終わりだ。
 死者が生者を見守ることなどないのだろう。
 死者のために、今生きている者を恨むべきか。
 守破離衛を殺したのは白烏だ。
 当然知っている。
 それができる者は他におらず、白烏自身がその夜の内に告白した。
 悲しみはあるが、不思議と怒りはない。
 今も里で暮らす母がどう思っているのかはわからない。
 都内に暮らすぱりなとは密に連絡を取り合っているが、白烏とは互いに避けている。
 それは仕方ないのだろう。
 それがいつまで続くのだろう。
 母と白烏もやはり長い付き合いだという。
 二人がまた普通に話せる日は来るのだろうか。
 それにどれだけの時間がかかるのだろうか。
 不忍池ぱりなには夢がある。
 脱ブラック忍者労働。
 忍び里働き方改革。
 ぱりなリサーチ事務所の法人化。
 困難な道ではあるのだろう。
 ぱりな自身はどれだけの年月をかけても実現させる覚悟がある。
 しかし、支えてくれる白烏はかなりの歳だ。
 生まれ変わった忍びの里を、彼に見せることはできるのだろうか。
 マンションの前のアスファルト。
 子供たちの影が長く伸びている。
 ずうっと、ずうっと、長く伸びる。
 ずうっと、ずうっと、ついていく。
 子どもたちがぐずぐずしている間に日が落ちて、影は闇へと消えて行った。
 ◆  ◆  ◆
 新月の夜。都会の空には星がない。
 その昔、闇夜は彼らの世界であった。
 しかし、今は。
 彼らにとってはあまりにも眩しい電灯が二人の男を克明に照らす。
 小柄な老人。白烏。
 一方も老人。忍び装束。マイリーマンズを訪ねた男であった。
「性懲りもなく……」
「こちらの台詞だ」
 互いの言葉に込められた思いは、苛立ち、呆れ、失望。
 それでもまだ、二人は刃ではなく言葉を交わしている。
 真不忍池忍軍。元はと言えば不忍池忍軍の忍び達から分かれた集団である。
 旧来の在り方を重んじる彼らは改革を進めようとするぱりなに対し反旗を翻した。
 彼らにすれば掟に背くぱりなこそが秩序の破壊者だ。
 それも終わった話ではある。
 二つの勢力は数年前に戦い、真不忍池忍軍の古強者たちは敗れ、逃げ延び、抜け忍となった。
 ぱりなが彼らに追い忍を放つことはなかった。
 しかし彼ら自身は抜け忍を許さぬ掟のために抜け忍となる矛盾に耐えられなかった。
 看過できぬ数であるからと進言して行方を探った白烏が目にしたのは、里を見下ろす山の中腹で自害した同胞たちの亡骸である。
 死体の数が合わないことには気づいていた。
 自害を選ばなかった生き残りは掟に対して柔軟さを持ち合わせているやもしれぬ。
 時が過ぎれば和解することもあろうか。
 それが理論的な勘考とは言い難いともわかっていた。
 互いに老人、道を違えたならそれもそのまま、生涯を終えるまで会わずともいい。
 その思考に願いと侮りが混ざっていることもわかっていた。
 忍びの三病厳に戒むべし。
 結局は戦うことになる。
 躊躇いはない。
 それでも。
 彼らに追い忍は出さないというのがぱりなの決定だ。
 仕掛けられるまでは仕掛けない。
 故に白烏は言葉を続ける。
「お嬢様はお前のような者も気にかけておられるのだぞ」
「『お嬢様』か。御館様と呼べる人物は守破離衛殿が最後だった。お前にとってもそうなのだろう? ……あの方もつまらぬことでその資格を失ったが」
「御館様は御館様だ。真不忍池忍軍などと名乗る資格がないのはそちらであろう」
「確かにな。馬鹿馬鹿しい名ではある」
 男は薄く笑う。
「お前の名は似合っているぞ。『追い忍』改め『老い忍』とはな。お前自身が誰より過去を引きずっているではないか。お前はやはり私の同類だ」
「違う。過去を忘れぬことと、過去にすがることは違うのだ」
「私は未来を見ている。祖先が紡いだ過去から繋がる正しい未来をな。白烏、今日はお前を勧誘に来たのだ。お前が私と同じ理想を見ているとは言わない。しかし現在には疑問を感じているはずだ。『本当にお嬢様が言う革命などができるのか?』、『そもそもこの改革は本当に正しいのか?』、『御館様は一人で道を違えた。迷う者を巻き込むことなどしなかった』」
「黙れ」
「ふ、今日はこの手を取らずともよい。だがお前たちはイグニッション・ユニオンを勝ち抜けぬ。そうなればあのお嬢様に夢を見る者達の目も覚めるであろうよ。……その時こそお前の力が必要だ。待っているぞ」
 男は踵を返す。武器を抜かず、悠々と歩き去る。
 白烏は白刃を抜いた。
「流石に見抜くか。白烏」
「知れたこと」
 振るう刃が飛礫を弾く。
 男は武器を抜かなかった。ただ握りこんでいた飛礫を打っただけだ。
 じゃり、と快くはない音が鳴り、白烏の刃が軋む。
 男の飛礫は粘土を纏う小石だ。刃物に当たれば鈍らせる。
 昔から変わらない。
「さて、手早く終わらせよう」
 男ままた刃を抜いて白烏に迫る。
 数合の打ち合い。
 そして。
「何のつもりだ……」
 白烏の心中では動揺よりも疑問が広がる。
 あまりにも呆気なく、男は白烏の刃に貫かれた。
 男自身が受け入れたようにすら見えた。
 老いたとはいえ、この男であればもっと粘ったはずだ。
 そして隙を見て彼を討つのは付近に隠れた若手の忍びのはずであった。
 大道寺忍は屋釘寛の暮らす長屋に移り、隣り合って住み始めた。調査のためにもう一方の隣家に潜入していた忍びである。
 その者がマイリーマンズに真不忍池忍軍が接触したとぱりなに報せ、男の動向を探り、白烏に宛てられたメッセージを探し当てた。
 白烏は数人の味方を連れて会見に応じた。戦いの備えではあったが真不忍池忍軍の残党は最早少数のはずであり、本当に話し合いだけで終わる可能性もあったのだが。
 若手の忍びが手ぶりで知らせる。
 他に敵の気配なし。
「ぐ、ふ。そうとも、私一人だ。一人で貴様らを相手にできるとは思わぬ。故に後を託すことにした。守破離衛殿を殺め、悔悟に突き動かされるお前なら、私を殺めたことも忘れはしまい」
「馬鹿な」
「どうだ。私を殺して、何を思う」
「何も」
 白烏の冷たい視線が男の顔に注がれる。
 男の表情は、脱力。
 虚無感ではなく安堵の。
「そうだ。追い忍は心を動かさぬ。それでよい」
 そして真不忍池忍軍最後の一人は世を去った。
 白烏にとっては、同じ年に同じ里で生まれた者たちの最後の一人でもあった。
 白烏以下不忍池忍軍の忍び達は極めて冷静かつ迅速に戦いの痕跡を消し去った。
 若者の中には粛々と動きながらも何か思いを馳せる者がいただろうか。
 これから報告を受けるぱりなであればどうだろうか。
 新月の夜。忍びを見守る星月はない。
 街灯は忍びの味方ではない。
 闇だけが忍びの居場所だ。
 古くからの在り方に従うならば。
 ◆  ◆  ◆
「一般人がいる場所に罠は仕掛けてないよな?」
 屋釘寛は不忍池ぱりなにそう話しかけた。
「そりゃとーぜん。一般人を巻き込むとかマジ敬慮羨望なんよ」
「だよな。そういうタイプでよかった。……でも人払いされてたらやっただろ」
 戦場となる東京タワーには二つの展望台がある。
 一つは地上150メートルに位置するメインデッキ。
 もう一つは地上250メートルのトップデッキ。
 4人の大会参加者はトップデッキに備わる鏡を敷き詰めたインテリア、ジオトリックミラーの元に集っている。
 試合開始前ではあるが撮影スタッフも傍に控え、さらにメインデッキやタワー下部のフットタウンには大勢の観客が詰めかけていた。
「ええー? ぴろしは妾らのことなんだと思ってるわけ?」
「怖い忍者……ぴろし?」
「そ。ぴろしとしのぴ。そう呼ぶことにしたから! よろ!」
 嫌とも良いともいう前に。
「これより『ぱりなリサーチ事務所』VS『マイリーマンズ』の試合を開始します!」
 世界が反転する。
 左右。
 前後。
 あるいは、此岸と彼岸でもあるか。
 ◆  ◆  ◆
 足の下に固い床を踏みしめた瞬間、俺は警戒棒を引き抜き全方位を警戒した。
 忍はぎこちない動きで俺の後ろに回る。
 試合開始後は極力音を立てず、事前の取り決め通りに動くと打ち合わせをした。
 他の人間の姿はない。少なくとも視覚では確認できない。
 別々の場所に転送されたか。1回戦には各コンビの初期位置が異なる試合もあった。
 先ほどよりも広い空間。鏡文字のオフィシャルショップ。メインデッキか。
 警戒棒をいったんホルスターに収める。
 事前の打ち合わせでは試合開始時の状況についてのパターンを想定して初動を決めた。
 二人がバラバラになったら最速で合流するために中心部のメインデッキへ移動する。
 二人そろってフットタウンにいたら屋上に出て敵を待つ。
 この状況、俺たちが二人一緒で、相手の姿が見えず、場所は展望台。
 この場合の動きはこうだ。
 忍を背後に控えたまま、広い窓へとにじり寄る。
 反転した東京の景色を眺めつつ、上着を手に巻きつけて窓を殴る。
 安全のため加工された非常に強いガラスだから最初は罅が入るだけだ。
 警戒棒で殴ったら棒の方が曲がるか折れるかしただろう。
 ともかくガラスに穴が開くまで殴る。
 縦2メートル、横1メートルが目標だ。
 敵が来るまでに穴が開くかどうかが一つの分かれ目になるが。
 俺の背後ですうっとスムーズに、チャイムもなく、エレベーターのドアが開く。
 陰翳礼讃。そのエレベーターは電灯のない時代の暗さをコンセプトにしているそうだが、老忍者はどのような感想を抱いたのだろうか。
 ◆  ◆  ◆
 二度だ。
 大道寺忍に白烏の手裏剣がかすり、まきびしを踏んだ。
 大道寺は二度毒を受けた。
 白烏は訝しむ。
 火輪の塔で毒を飲み生き残ったという実績があるのは屋釘の方だ。
 大道寺が毒に耐えているのなら彼の能力によるものであろう。
 しかしパントマイムの演目は何だ。
 マイリーマンズは言葉を発しておらず、毒は傷口から体に入ったはず。
 事前に行った演技を現実とし、それを今も続けているはずだ。
 白烏は大道寺の動きを観察する。
 固い。
 いや、動作自体は滑らかだ。しかしいちいち姿勢が妙だ。動きのどこを切り取っても妙に角ばった直線的な印象のポーズを取っている。
 戦いに慣れていないというのではなく、それが演技なのだと言うならば。
 人形振りか。歌舞伎や日本舞踊にも同名の動作はあるが、パントマイムにおけるそれはむしろ西洋的なロボットダンスの要素が強い。
 大道寺は阿僧祇なゆとの戦いで彼女の能力によりサイボーグと化し、結果的には耐久性が増した。
 それに近いことを自前で行っている。
 人形であれば毒は効かない。しかしあの状態を保ったままであるなら、他のパントマイムは機敏には行えまい。
 忍びが毒を用いることを見越し、それに対する対策を第一にしたか。
 建物の内側を向いた大道寺が窓側の屋釘を庇う形になっている。
 白烏が煙幕を撒き、横に回り込む。
 屋釘に向けた手裏剣は警戒棒に弾かれる。
 こちらはあまり足を動かさない。
 まきびしへの警戒と、破った窓に対するこだわりが見える。
 窓を割ったのはおそらくガス対策。
 催涙弾の類を受ければ大道寺の能力使用が困難になる。
 致死性の毒も全く効かないわけではないのだろう。
 それは白烏も同じこと。近距離でガス兵器は使いにくい。無理に使う必要もない。
 ただ気を引けばよいのだ。
 屋釘が振り返り、虚空に向けて警戒棒を振るった。
 ◆  ◆  ◆
 忍びは連携して個々の弱さを補う。
 ぱりなリサーチ事務所の場合、一人が囮として注意を引き、他の者が隠形にて機を伺い必殺の攻撃を放つという戦法を多用する。
 囮に向いているのは目立つ容姿のぱりな、とは限らない。
 ぱりなにその戦い方を教えたのは白烏だ。
 白烏。守破離衛と二人忍を組んだ際は隠形に回っていた。
 しかしそれは守破離衛の能力が仲間の前に立つことに向いていたからである。
 それ以前、壮年となる前、守破離衛と組む前は違う。
 白烏。それは本名ではない。若かりし頃の戦いぶりから与えられた役目の名だ。
 黒い烏の群れの中で何よりも目を引く者。
 白烏。闇に潜むことのない囮役の名前。
 鍛え上げた技を以て必殺の機を得るまで一人耐え続ける、不忍池忍軍において最も信頼される戦忍びの名でもある。
 ぱりなは瞠目した。
 自身にも白烏にも失敗はなかった。次の策もあるとはいえ、これで終わる可能性は十分にあった。
 白烏が煙幕を撒いたと同時、エレベーターからメインデッキに移り機を伺った。
 屋釘が白烏の手裏剣を弾いた直後に『手裏に秘するがしのぶの華よ』を投げ放った。
 屋釘は振り返りそれを叩き落とした。
 梟の羽ばたきよりもかすかな音を聞き取ったというのか。
 ぱさ、と軽い音が響く。切り落とされた警戒棒の先端がカーペット素材の床に転がった。
 ぱりなと白烏は挟み討つ形になっている。
『手裏に秘するがしのぶの華よ』は白烏にとっても不可視であるが、小柄な老忍者の頭上を通る高さに投げれば同士討ちの心配はない。
 完全にタイミングを合わせた同時攻撃ならば結果は変わるか。
 鏡写しのようなモーションで二人の忍びが不可視と黒鉄の手裏剣を投じる。
 屋釘はぱりなを見据えたまま再び警戒棒を振るう。
 その背後、白烏との間には大道寺が割り込んだ。
 巨体に手裏剣が突き刺さるが血すら流れぬ。
 白烏は白刃を抜いて駆ける。
 大道寺が身構えようとする。
 その時には既に大道寺の肘関節に刃が抉りこまれていた。
 刃を引き抜き、大道寺の脇の下から振るわれた大きくしなる警戒棒を受け止める。
 屋釘の背中に不可視の何かが当たる感触。無傷。彼は一投目の『手裏に秘するがしのぶの華よ』を目にしなかった。
 光の反射すらないと理解し、ガラスや水晶のような紛い物の不可視ではないと断じた。
 デコ苦無を構えたぱりなが駆ける。投擲物は弾かれるだけだ。武器同士を接触させ、わずかでも硬直させれば白烏が――。
 屋釘は得物を打ち合わせず、ぱりなの腕を掴んだ。
 ならば小手抜き。
 屋釘はしつこく掴む。
 ぱりなの体が浮く。投げか。
 屋釘の体も浮いている。
 ふわり。ぐらり。
 大道寺のような巨体であれば、そうはならなかったのだろうが。
 屋釘が半端に開けていたガラスの穴は、細身の屋釘とぱりなであれば頭から通る程度の大きさではあった。
 白烏が駆ける。いや、飛んだのか。
 窓の外、落ちる二人を追って。
「お嬢様!」
 それがこの戦いの中、初めて発された言葉であった。
 ◆  ◆  ◆
 建物から出ても敷地の外に出なければ場外にはならない。
 屋釘はあらかじめイグニッション・ユニオン運営に確認を取っていたし、その様子は不忍池忍軍の者が目にしていた。
 とはいえ本当に落ちるとは。
 東京タワー下部、フットタウンの屋上で白烏と屋釘が睨み合う。
 ぱりなと屋釘を追って飛び降りた白烏であったができる事は少なかった。
 先に飛び出した二人との間には相応の距離があり、ぱりなに当たる危険を避けるため飛び道具も使えない。
 組み合って身動きの取れない二人を鉤縄で巻きつけるように諸共に捉える。縄の逆端は飛び降りる前にメインデッキ内オフィシャルショップの柱に取り付けてある。
 自身はそのまま落ちて、吊り下げられた二人とすれ違いざまに屋釘を斬る――。
 それができればよかったが、屋釘は縄を引き千切って反撃した。
 ぱりなは縄を掴み直し、白烏と屋釘は鉄骨の隙間を落ちて行った。
 着地を仕損じる二人ではない。
「火輪の塔に比べれば、大したことはないのでしょうな」
「あの塔を知ってるのか? 登った?」
「いえ、わしは平凡な忍び故、ただ在り来たりな鍛錬のみを積んで参りました」
 屋釘に対し手裏剣や仕込み銃はただ撃つだけでは無意味。
 まきびしも相手が踏む位置になければならず、撒いたことを知られた時点で脅威は損なわれる。
 刃を振るっても単純な力と速さでは白烏が劣る。
 仕掛けるならばまずは煙幕を使うべき――仕掛けるならばだ。
 白烏は時を稼ぐ。
 望みはぱりなだ。
 マイリーマンズを分断した今、単身取り残された大道寺を討つか。屋釘の攻略にこだわるか。
 どちらにも勝算がある。
 どちらを選ぶかはぱりな次第。
 どちらにせよ、白烏の役目は屋釘をこの場に釘付けにすることだ。
「俺は、そういう努力がすごいと思う。火輪の塔なんか大したことじゃないんだ。生命を賭けたからって強くなるわけじゃない。あんたの修行は違うだろ。その歳までずっと修行して、生涯を懸けたから本当に強くなったんだ。……あんたに似た人を知ってる」
 白烏は訝しむ。
 どちらかと言えば、屋釘は戦いの最中余計な言葉は交わさない類と見ていた。
 とはいえ1回戦の間も完全に沈黙を守っていたわけではなく。
 狙いあってのことか。
 無意味な言葉か。
 少なくとも、大道寺の能力の為の言葉は含まれていないようではあるが。
「案外と喋りますな」
 不自然な挙動だという指摘。駆け引きに対する牽制。
「きつい時は喋りたくなるんだよ」
 屋釘の顔に浮かぶ汗は白烏より遥かに多い。疲労と、焦りもあるか。
 精神的な負荷によって口が軽くなるということはある。
 それが真実か演技かはまだわからない。
「もう一人、悪い方向に似たやつも知ってる」
「ほう」
「あんた、後悔してることがあるんだってな。俺が知ってるやつもそうだ。そいつには仲のいい友達がいたんだ」
 ◆  ◆  ◆
 その友達には夢があった。
 いつからそうだったとか、なんでそれを目指したのかは俺も知らない。
 とにかくそいつはジャグリングとパントマイムのパフォーマー、大道芸人になろうとしていた。
 毎日毎日練習してた。俺はそれを見物してた。他の友達も一緒に見ていた。
 人に見てもらう方が上達が早くなるからな。
 その日はたまたま、俺とそいつの二人きりだった。
 その時は道具を使ったパントマイムの練習をしていた。
 傘を使うやつだ。
 傘をさして、腕を伸ばして、片足でつま先立ちして、風に吹かれるようにして。
 俺は、ああ、飛んでるって口に出した。
 そいつは、本当に飛んだ。
 俺は、あり得ないって思った。
 ……そいつが魔人になったって知ってるのは俺だけだった。
 俺もそいつも秘密にしていた。
 そいつはジャグリングの練習はみんなの前でも続けてたけど、パントマイムの練習は誰にも見せなくなった。
 パントマイムはやめたのかってこっそり聞いたら、家で鏡の前で練習してるって教えてくれた。
 そいつは、多分、俺には見に来て欲しかったんだと思う。
 そういう時、遠慮して頼まないやつなんだ。
 俺は、ジャグリングしか見に行かなかった。
 魔人のことだけ見ないふりして、その他のことだけ今まで通りにすればいいと思ってた。
 魔人のことなんか他人事で、普通の俺には関係ないって、思い込んでた。
 だからだろうな。
 魔人の力は自分の思い込みを世界に強制する力だ。
 自分は他のやつとは違うって思い込みをな。
 俺はこういう魔人になったよ。
 ◆  ◆  ◆
「あんたの事情とはだいぶ違うんだろうな。ただ、後悔してることがあるんだってのは聞いてた」
「真不忍池忍軍ですかな」
「ああ」
 白烏は心を動かさない。
 ただ、屋釘の言葉はただの話だけ。挑発や情報を得る駆け引きの意図はないと感じた。
 であれば時間稼ぎが目的か。
「不忍池忍軍は抜け忍狩り代行を生業とし、わしも多くの人間を殺めてきました。お嬢様はその在り方を変えようとなさっている。かつてはわしの戦功であった過去が、今度はわしの罪と捉え直されることになりましょう。……いえ、それはいいのです。わしが後悔しているのはたった一人のこと」
 白烏は話し続ける。時間稼ぎならこちらにも都合がいい。
「不忍池守破離衛様。お嬢様の父君に当たる方。今のお嬢様と同じ考えを持っておられた。わしがこの手で殺めました。今のわしであれば、お嬢様を殺めるなど考えられませぬ。何故、御館様の時にはそう思えなかったのか。御館様と共に里を変え、生まれ変わった里をお嬢様に託す、そういう未来もあったのかと」
 時を稼ぐ。選んだ話題に特別の意図はない。
「いえ、あったはずはない。悔悟など、詮無きことです。わしがお嬢様に従うのは最後の主命であるからです。しかし、掟から外れた御館様の主命に従うと決めたのは、わしが御館様を殺めた時、わしの心が乱れたからです」
 白烏は言葉を切る。今、それを思い出して自身の心は揺れているか。
 戦場で心を乱してはならない。
 ……過去を思い出したところで、今更狼狽えはしない。
「人を殺めて動揺することがあると、わしがそれを初めて知ったのを御館様を殺めた時です。そうでなければ、掟よりも御館様に従おうとは思わなかったでしょう。わしの話はこんなところですかな」
「……そういうやつらは、こっちを恨んでくれないんだよな」
「ええ、そういうお方です」
 屋釘と白烏は動かず睨み合う。
 互いに時は稼いだ。
 その時でぱりなと大道寺は何をなし得たか。
 まだ何もできていないのか。
 試合はまだ続いている。
 ピンポーン。
 メインデッキでは鳴らなかった音が。
 エレベーターから響いた。
 扉が開く。中にいたのは一人。
 赤白縞模様。道化服の巨漢。
 屋釘が駆け寄り、白烏が押しとどめる。
 先程までの疲労が嘘のように、屋釘の顔に怖いもの知らずの笑みが浮かぶ。
 その頭が裂け血が迸った。
 ◆  ◆  ◆
 屋釘寛の弱点を一つ上げるなら、その精神力は凡庸であると言わざるを得まい。
 元来自身を普通と思い込む傾向がある。普通という言葉には多様なニュアンスが含まれるが、彼の場合は周囲から突出することがないという意味合いだ。
 その身体能力に対して過小な自己評価だ。
 一方で、他者に対しては概ね素直に敬意を抱く。特に夢を持つ者、努力する者に対しては。
 だから屋釘寛は大道寺忍を信頼する。時には過剰に思えるほどに。
 不忍池ぱりなはそれが最大の隙になると踏んだ。
 白烏と刃を交える時よりも、言葉を交える時よりも、離れ離れになった大道寺忍との合流の瞬間にこそ最大の油断が産まれると見た。
 単身の大道寺を見逃し。この状況が生まれるのを待ち。
 そこに『手裏に秘するがしのぶの華よ』を投げ放った。
 形作られる手裏剣は、振るう速度が速いほど鋭さが増し、モーションが大きいほど巨大になる。
 それ以外の形状はぱりなの自由だ。
 のこぎり状の刃が空気を拡散し音を消す。
 梟の羽を模し、更に精度を高めた物だ。
 戦いの中で数度見せた物はそれをあえて不完全にし、わずかな音を立てるようにした。
 空を裂く音で察知できると誤認させるためだ。
 不可視にして不可聴。真なる無音の『手裏に秘するがしのぶの華よ』は決して気づかれる事がない。
 しかし、屋釘は銃口を突き付けた状態から発射される弾丸をかわすのだという。
 ただ命中しただけでは、彼がそれを認識した瞬間、皮一枚を刺しただけで能力により止められる可能性もあった。
 よって目指したのは触覚に対しての不可知。
 以前からぱりなの欲するところではあった。
 抜け忍狩り代行を脱却しても忍びとして戦うことはある。
 その上で、死に行く敵を苦しめることは本意ではない。
 極限まで磨き上げた鋭さがあれば肌に張り巡らされた痛覚神経を刺激することはない。
 鋭さを増す方法は明快だ。
 ぱりな自身の速さを練り鍛えればよい。
 クロムウェル・バッテンフォールの頬を裂いた時、未だそこにはほんの少しの熱と痒みがあった。
 過去の話だ。
 数日前、ほんの少し昔の話。
 ほんの少しの修練を重ねる時間がぱりなにはあった。
 無音無痛。
 寸毫の距離に迫りて気配なく。
 両断してなお知られることなく。
 何よりも忍ぶ刃がこの戦いを終わらせる。
 そのはずであった。
 ◆  ◆  ◆
「ねえぴろし、もしかして音が鳴っちゃった感じ?」
 鉤縄を手放してぱりなは戦場に降り立った。
 頭の皮一枚を裂いた屋釘はむしろ困惑したようだった。
「音なんかしない。したらまずあの夫婦だって避けるだろ。忍びは音を無にせねばならぬとかいう心得もあるんじゃねえのか」
「じゃあなんでわかったワケ?」
「わかんねえよ。ただ攻撃するなら今だな、今攻撃されてるんだろうなって思っただけだよ」
 その臆病が一瞬遅ければ。
 などという「もしも」に思いを巡らすことはない。
「それな。爺や。廉頗負荊。作戦失敗」
「承知」
 ぱりながデコ苦無を振りかざし、屋釘が警戒棒でそれを受ける。
 全力の押し合いではない。
 力比べならば即座にぱりなが競り負けるだろう。
 ぱりなは白烏の教えに従う。
 囮役を請け負う時は、まずは自身の無事を第一に。
 無理に相手を仕留めようとせず、受け流し、捌き、耐える。
 十分な時を稼げば仲間が片をつけてくれる。
 白烏にとって十分な時とは一瞬だ。
 白刃が大道寺の首を刺し貫く。
 固い感触。相も変わらず人形の体。
 しかし刃を捩じり首を飛ばせば戦闘不能。
 大道寺はぶ厚い体に魔人の怪力を込めて刃を押しとどめようとする。
 非魔人である白烏は全霊の力を込めなければならない。
 それもやはり一瞬で十分。
 その一瞬を幾つかに分けた程度の一刹那。
 白烏は大道寺の動きを目にした。
 T字の棒を上げ下げする。
 それが何であるかはわかる。
 白烏もぱりなもよく素振りをする。
 そこにない物があるかのように思わせるのは修練の成果だ。
 大道寺にも同じものを感じる。
 しかし。
「それはダイナマイト・プランジャーだ。充電器であって爆薬ではない」
 大道寺の魔人能力は『Q』。それは見る者に解釈を託す問いかけだ。
 答えは白烏の言葉が規定した。
 実体化したのはT字の棒が付いた鋼の箱。それだけ。
 この場に在っては、何の意味も無い。
 しかし。
 戦場で言葉を発するのには相応の理由がある。
 注意を引くため。情報を得るため。魔人能力のトリガー。
 戦闘の布石。
 あるいは単語として無意味な、一瞬の大声、掛け声ならば、筋力のリミッターを外す作用もあるのだという。
 逆に言うならば、そうでないなら喋ってはならない。
 ごく単純な理由として。
 意味ある文章を紡ぐならば、そこには呼吸が必要だ。
 腹の力を抜き、力を入れ、喉を震わせ、肺から押し出す空気に音を乗せる。
 同時に腕を動かしながら、腕にある程度の力を残しておくことは可能ではある。
 ある程度だ。
 全身からほんの少しずつ力をかき集め、一閃の刃を形作るような、技巧によって立つ徒人であるならば。
 それは致命の欠落であろう。
 あまりにも呆気なく動きを止めた白烏の姿に、彼を咄嗟に突き飛ばした大道寺自身が誰よりも驚いているようだった。
 それが決着だったのかはわからない。
 なおも忍者の恐怖を疑わない屋釘が警戒棒を投げ放ち、鋭く切り取られた先端部が横たわる白烏に突き刺さり。
 試合終了のアナウンスが流れたのはそれに一瞬遅れてのことだった。
 ◆  ◆  ◆
 正直に言えば、俺は能力に当たりが付いていたぱりなよりも、非魔人の白烏をより警戒していた。
 魔人と非魔人の境界は曖昧だ。俺はよく知っている。
 白烏が戦闘中に魔人へ覚醒することは十分あり得ると考えていた。能力について誰も知らない魔人に。
 結局そうはならなかった。
 あの老人は世界に自分の思い込みを押し付けるような人間ではないのだろう。
「忍者、怖かったな。あいつらが弱いわけないんだよ」
 忍が俺の肩を叩く。
 自分でも強張っているのがわかる。
 試合が終わり家に帰った今も緊張が抜けていない。
 窓から入り込む夕日が忍を茜色に染めている。
 これを見ろと言わんばかりに広げた手の指には四つのボールが挟まっている。
 始まったのは4ボールファウンテン。
 四つのボールが次々に入れ替わり、二つの山を形作る。
「忍、今日の試合の映像を見返したら、俺が色々喋ってると思うんだけどさ」
 静かな戦場だった。会話を拾えなかったとは思えない。
「今度一緒に練習するか? ジャグリングと、パントマイムも」
 またしても戦いには使わなかったが。これからもそうなる気はするのだが。
 俺にとっては、それは大事なことなんだ。
 忍にとってはどうなんだ。返事が聞きたい。
 忍は何も言わず、ただにっこりと笑って見せた。
 ◆  ◆  ◆
 東京の夏。
 あの試合からしばらく後。
 具体的には、お盆。
 ぱりなリサーチ事務所は脱ブラック忍者労働を掲げている。今年のお盆休みは土日祝日合わせて十連休だ。
 真ん中に三日間の平日があるが、ぱりなの「半端な出勤はバイブス愁苦辛勤っしょ」との意向である。
 ぱりなと白烏は例年通りに守破離衛の墓参りへ向かった。
 ごみを拾い、墓石を磨き、打ち水をする。
 花を供え、線香をあげ、手を合わせる。
 言葉は発さない。
 ぱりなはただ心内で父に語り掛けた。
 何を?
 それは誰にも言わない。白烏にも。
 何もかもを話す必要はない。
 白烏が何を思ったのかも、ぱりなが問うことはない。
 素朴な疑問はある。
 忍びは夜を恐れない。
 迷信に惑わない。
 幽霊を信じない。
 ならば、父や祖先の霊を想うことは、忍びの道に反するのだろうか。
 その辺りについて、白烏が講釈を垂れたことは特にない。
 ぱりなは、それでいいのだと思う。
 父が存命であった頃から墓参りの習慣はあった。
 ぱりなや守破離衛が生まれる前から、先祖の墓は建っていた。
 だから。
 父に言葉が届かなくても。父の言葉を聞くことはなくとも。
 それは大事なことなのだろう。
 ぱりなは実家にも顔を出し、白烏は門の外で控えていた。
 その帰り道である。
「ねえ、爺や」
「なんですかな、お嬢様」
「私の名乗り、どう思う?」
「と、おっしゃいますと?」
「守るの一字は蹴っ飛ばしー、つってイキってるけどさ」
「行儀悪くはございますな」
「うん」
 言葉に詰まる。
 先達の教えをあえて守らないのではなく、守るほどの教えを父から受けていないのだ。
 守破離。
 師を越えていくその道程の、自分は最初の段にすらいないのだ。
 時々そう口走りかけ、その度に打ち消している。
 教えなら白烏から授かっている。
「社員の皆を守れたらいいなって思ったり。パパ上みたいな能力はなくてもさ」
「お嬢様、気づいておられませんか?」
「何?」
「わしと御館様はその昔、百合子殿とクロムウェル殿に敗北いたしました。しかし先日の戦いにてお嬢様とわしはお二方に勝利しました」
「……あ」
「無論試合と実戦の違いはありまする。あの方々に手心があったということも間違いありませぬ。しかし勝ちは勝ちです。全てにおいて御館様を追い越したとは申せませぬが、一面については追いついております。この爺も日々成長するお嬢様のお姿に欣喜雀躍でございます」
「……そっか。妾も成長してるってわけだ」
 夏の日は長い。
 時計の針は夕刻を刺す。
 それでも未だ空は青く。