1.しのぶれど
鉄の匂いが鼻を突く。
刃と血が支配することを意味する、鉄火場の臭気である。
不忍池 守破離衛を罠に嵌めたとされる忍軍は、ここに、一人の少女によって尽くを破壊されていた。
忍びの掟は絶対である。
だが、それは、あくまで建前の話だ。
掟その全てを日常として完璧に順守している里など、決して多くはない。
だから、些細な違反には互いに目を瞑り、許容するのが慣例であった。
だが、少女はそれを許さなかった。
そんな寛容があるならば、なぜ、父は――不忍池 守破離衛は死なねばならなかったのか。
「掟が、絶対の規則が父を殺したならば、それは万事に全て適用されるべきであろう。
そうでなければ掟など笑止。恣意で邪魔者を消すための方便に過ぎぬ。掟は公平であるという建前を守ろうとするなら、老人共は、妾の行動を、咎めたてることなどできなかろうて」
かくて、『命じられたときのみの処罰執行機関』であった、追い忍の里、不忍池忍軍の中にあって、少女は『違反の暴きたてと処罰を行う追い忍』となった。
もはや、それからの少女は、機構だった。
忍びのあるべきは、主君の命を忠実に為す、意思のない機構、無私の怪物である。
己の意思という色を捨て、透明な、ただ刺激に対して最適解の反応を繰り返す、無意識の化生である。
その意味において、不忍池 守破離衛の死は、彼女を無私の忍びとして『完成』させた。
忍びの血に生まれた以上、当然に望まれた理想。
個としての在り様を捨てて、『役割』を体現した、その果ての『到達点』である。
己の明確な意思を元に、己の情を越えた判断を下す、守破離衛の『滅私』ではない。
意思ではどうにもならぬルールを認め、己を無にしてルールそのものとなる『無私』。
透明で自動的なシステム。
硝子細工めいた、玻璃の怪物。
師としては喜ぶべきであったのだろう。
忍びとしては尊ぶべきであったのだろう。
だが、そうはできなかった。そうはならなかった。
白烏は、その透明な忍威の前に、余計な言葉をかけてしまった。
白烏とは、よく名づけたものだと老人は思う。
闇夜に溶けることこそ烏の羽、忍びの術。
だが、落ちこぼれの己は、空の青、海の青にも染まず漂い、夜にも映える白の烏だ。
「――もう、ここまでになさいませ、姫」
「我が父を殺した男が、今更、妾に何を説く」
冷ややかな言葉。
肺腑を、抉られる思いがした。
侮蔑でも怒りでもなく、静かに、意図を問うだけの声が、これほどまでに痛い。
未来ある若者。敬すべき主。目の前の少女の父親。
それを切り捨てたときの感触は、今でも男の手に残っている。
片時も忘れたことはない。
毎夜、その悔悟は悪夢となってこの身を苛んでいる。
男自身が、彼女に対する引け目を持っている。
どの面を下げて何を言うのかと、そう思っている。
けれど。
あの、腕の中で冷たくなっていく、主が、言い残したことを、男は覚えている。
彼は、不忍池 守破離衛は、掟を守る追い忍の首魁は、最後に、掟よりも、妻と子の幸せを望んだ。
忍びの掟を守り、離れ、最期には破って、妻子を衛る、『人間』となったのだ。
ならば、どれほど恥を晒そうと。
その最期を看取った自分には、彼女を、人とする義務があるだろう。
たとえこの場で彼女の怒りを買い、斬り捨てられるとしても。
「しのぶれど いろにでにけり わがこいは、と申します」
その言の葉こそ、完成した今代の忍び、玻璃那姫を殺した事の刃。
彼女の父を殺し、彼女の忍びとしての『完成形』をも殺した、男の業。
稀代の『追い忍』が、ただの『老い忍』となった、瞬間だった。
2.血の呪縛
漆原 トウマは、スマートフォンでの通話を終えて、空を見上げた。
本屋で買ったばかりの専門書が、急に重みを増したような気がした。
相棒である時雨 ナミタはホテルに残している。
今は、決勝に向けた『仕込み』について、試行錯誤しているはずだ。
この電話だけは、ナミタに聞かせたくはなかった。
通話先は、トウマの母親だ。
漆原という姓は、母方の家のものである。
トウマがそれを名乗っているのは、母親の離婚の結果、ではない。
単に、父が漆原の婿養子だからだ。
そんな制度を使ってまで家名を残すことを強く望む程度に、漆原の家は、地元における名家である。厳格な家庭であった、とも言える。
季節ごとに笑ってしまうほどの人数の分家筋が集まり、本家であるトウマの母親と祖父母に作り笑いを浮かべて頭を下げていく。そんな様子が、世間的に普通でないことに気付いたのは、いつだったか。
祖父母は、母は、トウマ個人に何も望まなかった。
ただ、漆原の名を、血を残すこと。
名と血を傷つけるようなことだけはしないようにと育てられた。
漆原という血を次代に繋ぐ運搬機であることだけが、生まれた意味であると。
大人しく品行方正で、真面目に頑張っている素朴な青年。
そんな『役割』だけを求められた。
このまま行けば、適当な『いい血の相手』と見合いをさせられ、つがいにされて、子を生まされ、漆原何代目と、系譜に名を書かれて、トウマの一生は終わるのだろう。
『俺たち二人で勝ち上がる、このクソ田舎を出て全部のしがらみを引きちぎって『トップ』を手に入れる』
いつか、トウマが口にした『全部のしがらみ』とは、ナミタを縛る境遇だけではなかった。トウマを縛る、『血の乗り物であれ』という家の呪いをも含んでいた。
きっと、母親も、その呪いに逆らおうとしたことがあるのだろう。
トウマの兄、漆原 アキは、母親の不貞の子だ。
祖父母の選んだ『漆原に相応しい血』の婿養子ではなく、他の男と作った命。
そこにあったのが、愛なのか、それとも単なる祖父母への意趣返しなのか、トウマにはわからない。
今わかっているのは、その母親もまた、トウマにとっては、漆原の血の呪縛に繋ぎとめようとする側の存在であるということだけだ。
『アキ、あなたは人間じゃないの』
『こんな田舎で、力をひけらかして目立たないで頂戴……野球は高校生までで終わりにして』
兄に対して、母親が口にした言葉を思い出す。
妙な目立ち方をするなと。早々に帰って来いと。
ならずものの子どもに騙されたなら、これまでの事は仕方がない。まだやり直せると。
先ほどまでの電話で、母親が言ったことと、兄への言葉が重なる。
「くそ」
無意識に縛るもの。
気が付けば、引き寄せられるもの。
呪縛。端的に言えばそれが、漆原 トウマにとっての『血』である。
だからこそ、兄が羨ましかった。
才能を羨んだのも事実だ。だが、本質はそこにない。
己の翼で、流れる漆原の血の呪縛から軽々と世界へと飛び去った、その自由さこそが、半人半鳥のその身を、母を恨むことすらなく、屈託なく是とする様が、まぶしかったのだ。
ナミタには言えない。強くなってきたとはいえ、ナミタの精神面はまだ不安定だ。
勝ちを重ねて自信を付けた相棒を不安にさせることは避けたい。
結局は、漆原 トウマが越えるべき問題でしかないのだ。
護身用に持ち歩いている、カードに押された血判の赤を見る。
魔人能力、『トップを狙え / Aim for the TOP』。
血判の押されたものに、『意思の無い運動』を引き寄せる能力。
魔人能力は、個人の心性、認識による世界律の改変である。
であるなら、漆原トウマのそれは『血に感じる呪縛』が起源となっているのだろう。
意識的に切り離そうとしても、避けようとしても、無意識は血に引きずられる。
『イグニッション・ユニオン』に挑んだのは、ナミタのためもある。
だが、自分に流れる血に感じていた束縛を打ち砕くためのもの。
トウマ自身のためでもある。
本屋の紙袋を開ける。
スポーツ科学。原子物理学。生物学。心理学。節操のない選択だとトウマ自身も思う。
だが、決勝戦の相手『ぱりなリサーチ事務所』もまた、強敵だ。
圧倒的な応用力を誇るナミタの能力と比べて、自分の能力は力が足りない。
それを補うための工夫ならば、全てを試みるべきだと、トウマは思っていた。
そういう意味で、母親からの電話はちょうどいいタイミングだった。
想像していた以上に、血の呪縛が強いことを自覚することができたからだ。
血の呪縛への意識がこの能力を生み出したならば、今のこの閉塞感こそ、不快感こそ、この能力を『完成』させるための引き金になりうる。
「……」
トウマは噛んでいたガムを吐き出して、手近な電柱に血判のカードを貼り付け、路地裏へと曲がった。
他者に説明する上では面倒なのでざっくりと『意思のない運動』を血判に引き寄せるものだとしている、漆原 トウマの『トップを狙え / Aim for the TOP』。
これには実のところ、行使するにあたりLEVELによる使い分けがある。
LEVEL1は、最も直感的に理解しやすい対象、「漆原 トウマに対して相対速度を持ち、かつ、接触という形で人為的な意思が介在していない物体の運動」――投射物、落下物を対象とする行使。
能力覚醒直後は、もっぱらこの使い方が中心だった。
LEVEL2は、「目に見える人の動きのうち、意識下にない動作」――視線や反射的な動作を対象とする行使。
実戦での応用は、3回戦、剣の達人である『骨の従者』――刃山 椿に対して使ったような形になる。トウマの主観として『意思のない運動』と認識しにくいせいか、LEVEL1よりもわずかに消耗が大きい。
今使うのは、『LEVEL2』。
振り返り、裏路地の奥から、大通りを行く人々を観察する。
魔人能力発動。『トップを狙え / Aim for the TOP:LEVEL2』。
人々の視線の半分が、路地裏の入口の血判に引き寄せられる。
残る半分は、手元のスマートフォンを見たまま。
そして、ただ一人。
ストリートファッションの女が、ほんのわずか、路地裏の奥を一瞥して、視線を逸らした。
「気付いてる。来いよ」
トウマの呟き。
相手との距離は10m以上。声が聞こえたはずがない。
だが、唇を読んだのだろう。去ろうとしていたストリートファッションの女は、観念したように路地裏へと歩いてきた。
「奇策妙計。『血判』で無意識の視線を『引き寄せて』妾の視線が意識的にキミを追ってたのを炙り出したってわけね」
女がスポーツキャップを外すと、ふわりと染められた髪が広がる。
不忍池 ぱりな。
『イグニッション・ユニオン』の決勝で、トウマたちが戦う相手の片割れだった。
「こっちの能力は看破してるって言いたげだな」
「だいたいね」
「さすが忍者。隠し事の類は通用しないってことか」
「あはは、男のコのプライベートは暴いたりしないって。必要なことだけだから安心して」
「必要ならするって言ってるぜ」
「否定的?」
「当たり前だろうが!」
「リアクションよき!」
ぱりなは、そう言うと、トウマが手にした紙袋に視線を移した。
「キミは強いよ。ナミタ君も強い。キミたちが思っているより、キミたちは今のままで強い。……けど、もしも、その先に無理やり手を伸ばすなら」
路地裏の気温が下がる錯覚。
3回戦直前の記者会見でも起きた現象。
不忍池 ぱりなの、気安い女子高生の仮面が外れかけた証。
「キミも、人からはみ出た、怪物になる」
踏みとどまる。震えかける脚に意識を込める。
トウマは、この相手と、殺し合いをするのだ。
「安い心理戦だな」
真っ向から返されたトウマの視線を、ぱりなはどこか寂しげに受け止めた。
「……そっか」
ぱりなは手にしたキャップを、トウマに投げる。
それを受け止めるために意識をその放物線へと向けた一瞬で、ぱりなは路地裏から姿を消していた。
「くそ」
トウマは、ぱりなが投げてきたスポーツキャップを隅から隅まで検分する。
当然のように、頭頂部の天ボタンには、帽子には似つかわしくない機器が仕込まれていた。盗聴器か、発信機か。いずれにしても、ろくなものではないだろう。
これが忍者。
一つの行動に複数の布石を込め、次々と乗り換えて戦う変幻自在の刺客。
シンプルに鍛え上げた暴力を、全く油断なく相手を分析して振るうものたち。
漆原 トウマが、チーム『ダフトパンク!!』が、トップに立つために相対する、最後の敵。
「これを返してやろうとか思うことすら、アイツの思う壺なんだろうな」
機器を外して踏みつぶし、トウマはぱりなが残したキャップをかぶって歩き出した。
問題ない。
そんな小細工や分析すらものともしない力に、トウマは手を伸ばす。
トップを狙うために。
兄がしたように、この血の呪縛を、乗り越えるために。
3.不忍術
「ショッピングモール・ヴィーナスフォート! 東京湾に浮かぶ女神の砦の決戦を制し、頂点に立つのはどちらのタッグか! 火と火を重ねて炎を燃やせ! イグニッション・ユニオン!」
イグニッション・ユニオン決勝戦当日。
東京都江東区青海パレットタウン内ショッピングモール、お台場ヴィーナスフォート。
元凶となった『”AGAIN”』は敗退したが、安全措置は継続され、現場に観客はいない。それでも、中継画面に高速でスクロールするコメントの様子から、声にならない歓声が飛び交い、この戦いの注目度が見てとれた。
現代の忍者。
シンプルな能力と鍛えた技巧、戦況判断で勝ち上がった『ぱりなリサーチ事務所』。
ジャイアントキリングの若者。
魑魅魍魎渦巻くここまでの戦いを、機転と成長で乗り越えてきた『ダフトパンク!!』。
下馬評で優勝候補と目されていた『”AGAIN”』と『闇の王と骨の従者』を下した、ともに、人気はあれど実力としてはダークホースと思われていた二組である。
『ぱりなリサーチ事務所』所長、女子高生忍者、不忍池 ぱりなは、向かい合う相手の様子を確認した上で、相棒であり師でもある老忍者、白烏とうなずき合った。
対する『ダフトパンク!!』の漆原 トウマと時雨 ナミタは、多くの荷物は持ち込んでいるものの、普段と変わらない様子だった。具体的には、ぱりなたちが可能性の一つとして想定していた、ナミタの『巨大化』の気配はない。
ヴィーナスフォートは海沿いの施設だ。
仮に時雨 ナミタの『吸水による巨大化』に時間制限があると仮定すると、3回戦で見せた事前吸水による初手巨大化を、より行いやすい立地ということになる。
それをしないということは、同じ札を二度切ることによる対策を恐れたからだろう。
的確な判断だと、ぱりなは思った。
忍者の戦いとは、事前の準備と分析だ。
一度見た戦術には、当然に対応は考えている。
だがそれは、ぱりなたちの勝利が容易であることを意味しない。
1回戦の相手、『【二度目の結婚式来賓募集中】鬼と元怪物狩りのスーパーミラクル☆ラブラブラブリー夫婦【友達も募集中。是非来てね】』は、物理的な最強であった。
2回戦の相手、『マイリーマンズ』は、あらゆるものを具象化し、あらゆる異能を無効化する、矛と盾としての最強であった。
3回戦の相手、『“AGAIN”』――特に仙道 ソウスケは、目的を達成する知性としての最強であった。彼の目的が大会の優勝であったなら、彼は間違いなくそれを成し遂げていただろう。
そして、4回戦もまた、ある種の最強との戦いであると、二人の忍びは認識していた。
ともすれば『ダフトパンク!!』自身すら誤解している可能性があるが、『イグニッション・ユニオン』で、彼らを、機転で勝ち上がってきたヒーローだと判断するのは、一面だけを切り取った過小評価だ。
「爺や」
「はい」
「勝つよ」
「御意に」
対する『ダフトパンク!!』もまた、緊張した面持ちで『ぱりなリサーチ事務所』を見つめている。
「トウマ」
「ああ」
「行くよ」
「この先が『トップ』だ」
「それでは、これより、『ぱりなリサーチ事務所』VS『ダフトパンク!!』の試合を開始します!」
高らかな宣言。
そして、次の瞬間、世界が遍く反転した。
ーーーーーーーーーーーー
そして舞台の幕が開く。
舞台の名はショッピングモール――ヴィーナスフォート。
演ずるは無職、男子高校生、女子高生、老忍者。
鏡の世界に勝者は二人。
“無敵”を示す時は今。
ーーーーーーーーーーーー
反転する。逆転する。鏡鳴する。鏡感する。
世界が歪み、全てがさかさまの世界へと、決勝に臨む4人は放り込まれた。
ぱりなは頭に叩き込んだヴィーナスフォートの見取り図と、周囲の状況を照合する。
目の前にあるのはフードコート。
即ち、ここは、全三階層のヴィーナスフォートの最上階、3F Venus OUTLETの北端ということになる。
これまでの転送のパターンから考えれば、『ダフトパンク!!』の転送先は、1F Venus FAMILYだろう。
2Fと3Fは中央部の吹き抜けで繋がっているが、1Fは2F床面によって隔てられている。
射線は通らない。であれば、3Fで待ち構えるか?
それは得策ではないと、ぱりなは即断する。
ヴィーナスフォートの2F Venus GRANDの中央部には、ヴィーナスフォート最大の広場である「噴水広場」がある。
六人の女神によって支えられた杯が水をたたえる、このモールのシンボルとでもいうべきピクチャースポットだ。
そして、同時に、この戦いの「核」となる拠点でもある。
この場所を、『ダフトパンク!!』に先に押さえられるのはまずい。
「爺や。庫裡中心に用心縄。並びに未坤、革商いに青」
「承知」
簡潔な言葉をかわし、二人は動き出す。
2Fを警戒しつつ、3Fに布石のための工作を行う。
それが、二人の出した結論だった。
吹き抜けから2Fを見下ろす限り、『ダフトパンク!!』がすぐに上へと登ってくる様子はない。
漆原 トウマも時雨 ナミタも、事前の戦場確認やそれを応用した戦術を構築するタイプだ。
当然、ナミタの魔人能力にとって重要な水の潤沢な供給源である噴水広場のことを意識しているだろう。
それでも、1Fでの行動を優先するということは、当然に確固たる目的があってのこと。
(なら、1Fに先制攻撃を仕掛ける?)
自問自答。結果は、否。
漆原 トウマの能力は、血判の設置によって、地形を自分に有利なものに変える。
一度に『引き寄せ』の効果を持たせることができる血判は一つのようだが、切り替えは自在に可能と推測される。
つまり、無策で一階に降りることは、敵の口の中に飛び込むに等しい。
これまでの戦闘の映像。
調査した、漆原 トウマと、時雨 ナミタの経歴。家族構成。
そこから推測されるプロファイリング。
そこから、不忍池 ぱりなは、無数の可能性を思考する。
裏の読み合いの経験では、ぱりなと白烏が有利。
しかし、『ダフトパンク!!』の二人の能力は、それぞれが無限に近い応用方法を持っている。
互いがそれをどこまで応用し、読み切るか。
これは、そういう戦いであった。
ーーーーーーーーーーーー
「来たぜ、忍者」
「一人なんだ」
「そっちこそ。迷子なら、放送流してもいいんだぜ」
金属バットを構えて、漆原 トウマが笑う。
一回戦から映像を見ていて感じていたことだが、空元気の使い方をよくわかっている子だ、とぱりなは思った。
大抵それは、苦労人、特に、上世代との折衝を余儀なくされた子どもの特徴だ。
それはそのまま、ぱりな自身の境遇にも共通するものでもあった。
二人が接敵したのは、2F Venus GRAND「オリーブ広場」。
ぱりながこの戦場の重要拠点と目している噴水広場から数十メートルほど北だった。
一見して無手に見える女子高生と、金属バットにウェストポーチの青年。
この一場面だけを切り取って、今代最強の魔人タッグ同士の戦いとは誰も思わないような、カジュアルな光景だった。
「まあ」
「そんなはずはないよな」
「ね!」
だが、その印象は、一瞬で、覆る。
少女の手が閃き、紅硝子で飾られた苦無が三つ、飛んだ。
眉間。心臓。股間。それぞれが、人体の急所を狙う、必殺の一射。
「よっと!」
が、青年は怯むことなく金属バットを振りかぶると、
――魔人能力発動『トップを狙え / Aim for the TOP:LEVEL1』
三本の苦無は、不自然に軌道を捻じ曲げられ、その全てが金属バットの『芯』に吸い寄せられた。
いや、そうではない。金属バットの『芯』に押された、漆原 トウマの魔人能力の媒介である、血判へと『引き寄せ』られているのだ。
「お気に入りなんだろ。お返しだ」
――『トップを狙え / Aim for the TOP:LEVEL1』解除。
トウマがバットを振り抜くと、苦無は真っすぐに打ち返される。
投擲者である、ぱりなへと。ピッチャー返しである。
が、
打ち返された苦無がぱりなへと突き刺さるその直前、三階の吹き抜けから、別の手裏剣がトウマへと降り注いだ。
白烏。『ぱりなリサーチ事務所』の、もう一人の刺客だ。
「っ!」
――魔人能力発動『トップを狙え / Aim for the TOP:LEVEL1』
振り抜かれたトウマの金属バット目掛けて、不自然な軌道で投擲物が吸い寄せられた。
白烏が投げて、トウマの急所を狙った手裏剣と。
そして、トウマ自身がバットで打ち返して、今まさにぱりなに向かって命中しようとしていたデコレーション苦無とが、である。
(不失正鵠!)
今の攻防は、ぱりなと白烏の間で事前に取り決めていた、効果測定だった。
トウマの能力による射撃・投射攻撃の弾き返しは攻防一体の厄介な挙動だが、弾き返しが相手に着弾するまでは、『引き寄せ』の効果は解除しなければいけない。
血判による『引き寄せ』は、射程範囲の投擲物、落下物に無差別に効果を発揮する。
自分に危害を加えようとしているものも、自分が攻撃に使用する意図のものも、区別をしない。それが、今の応酬で判明した。
だから打ち返しの瞬間に別の射撃、投擲を繰り出せば、今のように、打ち返しによる反撃は封じることができる。それは、白烏の卓越した先読みと手裏剣術があってこそできる、綱渡りのような対策ではあるのだが。
(さあ、ナミたん、隠れたままでいいのかな?)
選択肢を一つ潰されたからだろうか。
ここで、トウマの戦術が変わった。
「一筋縄じゃいかねえよな!」
トウマは、腰のポーチから何かを取り出すと、周囲に無造作にばらまいた。
カード。ぱりなの忍者として鍛えた視覚が、その一枚一枚に血判が押されているのを見てとる。2回戦、『ハーフ&ハーフ日本支部』相手に使ったのと同じものだろう。
そして、牽制のためにぱりなと白烏が放つ手裏剣、苦無を、バットではなく、地面に投げたカードに『引き寄せ』、防御しだしたのだ。
一枚ではない。二枚、三枚、五枚、十枚、数えきれない。
不規則に配置された血判カードが、不規則に『引き寄せ』を発動する様は、もはやミサイルに対するチャフのようなものだ。
(また防戦。何狙い? ナミたんはまだ隠れてる。ここで決着をつけるにしては戦術が消極的すぎるし)
思考と動きを切り離すのは、昔とった杵柄、ぱりなの十八番だ。
相手の戦術を推測しながらも、肉体はその場での最適解を無意識に選択し、体現する。
ぱりなの踏み込みに合わせ、白烏の手裏剣が止まる。
いいタイミングだ。これ以上近づけば、軌道を『引き寄せ』られて、白烏の手裏剣がぱりなの背に突き刺さる危険性が高い。
「ところでさ、こういう地形――『天牢』っていうんだろ」
漆原 トウマを攻略するのに、射撃、投擲は決め手にならない。
その魔人能力による防御をかいくぐるには、明確な意思による近接、白兵あるのみ。
「素人相手だからって、侮ったか? 忍者」
一足一刀の間合いまであとわずか。
そこで、トウマが不敵に笑った。
意識をトウマから離し、視線を巡らせる。天井。違和感なし。壁。異変なし。
床――濡れている。
階段から伸びた水の帯が、1Fからあがってくるエレベータの陰から伝うように、床を濡らし、トウマの足元まで伸びている。
(やっぱ、罠だし!)
天牢。三方が塞がり、狭い道が一本である地形。
忍びがおびき寄せられることを忌む、罠が仕掛けやすい場だ。
オリーブ広場から、トウマは少しずつ後退し、ぱりなを、立体的な回避の困難な、東の別棟へと続く手狭な通路へと追い込んでいたのである。
「ナミタ!」
――魔人能力『涙を飲んで生きる/Summer Rain Diver』解除。
トウマの足元の水が爆ぜた。
――否、時雨 ナミタの能力によって『吸水性』を付与され、粘度の低い液性となるほど水を吸わされた物体――無数の鉄片が水を撒き散らしつつ、弾け、降り注いだのだ。
ただナミタが能力を解除しただけならば、全周囲に鉄片は撒き散らされ、トウマも重傷を追うはずのところだ。しかし、それをしないためのトウマの『トップを狙え / Aim for the TOP:LEVEL1』。
ぱりなの背後に配置された血判カードに『引き寄せ』ることで、全ての鉄片がぱりなだけを襲うように仕向けたのである。
「トウマ!」
1Fと2Fを繋ぐエスカレーターから、ナミタが姿を表した。
「さすが、ってトコか」
無数の鉄片を浴びたはずのぱりなは、息荒く身を屈めながらも、軽傷だった。
(――間一髪!)
ナミタによるスライム化解除のタイミングは完璧だった。避けようはなかった。
だから、『避けずに受け止めた』のだ。
魔人能力『手裏に秘するがしのぶの華よ』。
手裏剣を放つ素振りをすることで、不可視の手裏剣を繰り出すぱりなの異能。
その手裏剣は、振るう速度が速いほど鋭さが増し、モーションが大きいほど巨大になる。
その大きさは、小は手裏に隠せる程度から、大は人一人がすっぽり隠れることができるサイズまで、自由自在である。
この能力を地面に繰り出し、不可視の手裏剣を盾としてその陰に隠れることで、鉄片をしのいだのだ。
腕に擦過傷。一部流血あり。だが、折れてはいない。
「退散っと!」
ぱりなは身をかがめた状態から、即座に後退した。
もはやあの通路は、『ダフトパンク!!』の領域だ。
血判のカードが撒かれ、また、床には鉄片がスライム化から戻ったときに分離した水で充分に濡れている。
トウマ、ナミタの能力が十全に発揮できる場所に、わざわざ攻め入る道理はない。
――そう思うことこそ、「当然」だろう。
だが、その「当然」こそが、忍者の奇策の付け込みうる隙である。
ぼふうっ。
通路が、薄煙に包まれた。
「げほっ、吸うな! ヤバい!」
トウマが叫ぶ。息を吸うリスクを冒してまでの警告が合理的かは疑問があるが、彼らしい好ましさだと、ぱりなは思った。
天狗櫟の術。
かつては和紙と卵の殻に、焔硝、生姜、塩、山椒などを詰めた目つぶし煙幕である。
当然に今はより効率的な視覚阻害、催涙機能を高めた調合が為されている。
様々な流派の忍術に共通する煙幕弾を利用した遁術だった。
「トウマ!」
「わかってる!」
本来ならば、あの地形ならば数分は混乱を引き起こすはずの特性の煙。
だが、まるで換気扇が回ったかのように、その煙は不自然な動きで、床へと吸い込まれていく。
トウマの、血判だ。
どうやら、投擲物や射撃だけでなく、煙もまた対象として成立するということらしい。
(応用性高杉さんチの晋作クンだし! でも!)
ぱりなは物陰に隠していた水風船と苦無とを立て続けに投擲した。
煙を引き寄せていた血判にそれらが命中し、はじけてカードを濡らす。
「くッ!」
煙の吸収速度が目に見えて低下する。
ぱりなが投擲した水風船の中身は、濃度の高い酸素系漂白剤。
血の染みに対しては、水と比べて遥かに高い分解度を誇るものだ。その後に苦無が立て続けに命中して摩擦が発生すれば、トウマの能力の起点である血判は形を保てなくなる。
「男のコはあんま気にしないだろうけど。妾には、血のシミの落とし方とか、必須技能だし!」
煙幕術による混乱、そして、『ダフトパンク!!』の戦術の根幹を為す重要な要素、血判の無効化という手段を取られて、わずかに二人が浮足立つ。
その隙を縫うように、三方を囲まれた狭い通路、忍びにおける忌み地、死地である『天牢』を、烏が舞った。
それは、壁を、天井を、地面を、足場として駆けまわり翻弄する立体歩法。
「トウマ!」
トウマによって、ぎりぎりのところで煙幕の外に蹴り出されたナミタが叫んだ。
薄煙の中、3Fから駆け下りた白烏の動きの軌跡だけが、縦横無尽にトウマを囲む。
様々な角度からすれ違いざまに繰り出される仕込み杖の剣閃を金属バットで受けながら、トウマの足は通路の中央へと貼り付けられていた。
縦横奥行、相手を捕らえる籠を編むかの如き不規則な軌跡で敵を縛り、動きを封じて決殺とする。
かつて、”追い忍”白烏の代名詞でもあった、『忍ばずとも、相手に見えていても防ぎえぬ』、閉所でのみ使用可能な、確殺の技。
――不忍術・烏籠。
一世の最強であった、不忍池 守破離衛を、仕留めた技であった。
ぱりなの胸中に、複雑なものが混じる。
煙幕に乗じて技を繰り出したのは、もちろん戦術として必要だからだろう。
だが、同時に、白烏の、父を殺したというぱりなへの引け目、悔悟、――この技を直視させたくないという想いをも感じて、ぱりなは、一抹の寂しさを覚えた。
ぱりなにとって、もはや、父の仇は個人ではない。
守破離衛を殺したのは因習であり、歴史であり、それを討つがための、『忍び里働き方改革』である。
けれど、白烏にとっては変わらず、彼がぱりなの父の仇であり、ぱりなに協力することは贖罪であり、その奥義は、直視させるに忍びない、外道の剣なのだろう。
そうではない。そうではないと、ぱりなは思っている。
だが、白烏の中では、『そう』なのだ。
斬。
かくて、白刃が籠の中を両断し、トウマの首を刎ねる、その刹那。
半透明に膨れあがって伸びた、ナミタの腕が、トウマを掴んだ。
時雨 ナミタは触れたモノに『吸水性』を付与する。
それは、水を吸って肥大化した状態でも変わりない。
そして、
――魔人能力『涙を飲んで生きる/Summer Rain Diver』解除。
肥大化した手が急速にしぼみ、同時に、手のひらから水が噴出してトウマの体を濡らす。
白烏の白刃がトウマの首に到達したのは、その直後だった。
撥ねられた首。だが、白烏の手に、首の骨を断つ固い感触はなし。
寒天を切ったような感覚。
そして、半透明に透けて宙を舞ったトウマの首は、彼の肩口に押された血判に『引き寄せ』られ、まるで逆回しのように水を噴き出して接合面から接着、再生した。
スライム化から解除された瞬間に繋がっていれば、元の状態に復元されることを利用した疑似的な蘇生。2回戦から見せている、『ダフトパンク!!』のコンビネーション技だ。
「ナミタ! 噴射!」
白烏とぱりなを視界に入れながら、ナミタが背にした高圧噴射器を向けたのは、敵ではなく、南側の壁。そこにあるのは、ATMやジュエリー店、カフェ……
ここでようやく、ぱりなは、『ダフトパンク!!』の、ここでの目的を理解した。
やはり、彼らの意図は、ここでぱりな達を倒すことではなかった。
防戦を中心とし、相手を罠にかけ、隙を見つけ出そうとしたのは――
「爺や! 逸らして!」
だが、白烏の反応より、ナミタの動きがわずかに速い。
高圧洗浄機の35リットルタンクから、高速高圧で液体が噴出され――そして、その勢いを維持したまま、
――魔人能力『涙を飲んで生きる/Summer Rain Diver』解除。
ナミタの能力でスライム化されたその液体は、水と、そして、『吸水性』を付与される前の、メタルラック、金属トレーといった家具の実体を取り戻して、壁を破壊していく。
ヴィーナスフォート1Fには、お値段以上の値打ちで有名なホームセンターが店舗を構えている。そこで、適当な家具を「弾丸」として、スライム化し、高圧洗浄機に装填していたのだろう。おそらくは、転送直後の仕込みの一つ。
高圧射出の勢い、『吸水化』解除による収縮の反動、そして、苦無へのチャフとしてばらまいたタイミングで同時に設置していた血判カードを対象にしたトウマの『引き寄せ』による加速。その全てが合わさり、壁を破壊、人が通れるだけの『通路』を作り出す。
どこへの通路?
決まっている。
ヴィーナスフォート2F、噴水広場。
時雨 ナミタが全力を出すために必要な水が潤沢に確保できる場所。
彼らの目的は、最初から、そこへの安全な通路を作り出すことだったのだ。
彼らが噴水を目指すことはぱりなたちも予想済みだ。
だから、そこに向かう正規のルートには、幾つか罠を仕掛けてあった。
だが、たった今、『ダフトパンク!!』が作り出した『通路』に、そんなものはない。
トウマとナミタは全速力で駆け出した。
白烏の『烏籠』を床面スライム化で阻害しなかったのは、走り出すタイミングを誤ってトウマの足の止めることを避ける意図だったのだろう。
(序盤戦は、譲っちゃったか)
二人を追った、ぱりなと白烏を出迎えたのは、全長3mほどの、スライム状の巨体。
魔人能力、『涙を飲んで生きる/Summer Rain Diver』の真価の一つ、時雨 ナミタ自身の『吸水性』を高めたことによる、巨人化だった。
4.濁りなき涙の巨人
チーム『ダフトパンク!!』にとって、そしてチームの参謀役であるトウマにとっても、ナミタの巨大化は、切り札の一つだった。
単純に視覚的な迫力があるから、という意味ではない。
まず、タフネス。
水の塊に打撃も射撃もほとんど意味をなさない。
爆破レベルか、あるいは巨大な刃物による斬撃ならば意味を持つだろうが、それすら、トウマの『血判』を仕込むことで無効化できる。
次に、質量。3m級であれば、その水量はおよそ0.5t。それだけの重さの存在が叩きつけられれば、単純な破壊力だけでも尋常なものではない。
さらに、仮にその攻撃で傷を負わせることができなくても、巨人ナミタの体が相手を掠めただけで、『涙を飲んで生きる/Summer Rain Diver』は発動し、相手に『吸水性』を強制付与することができる。
その上で、能力解除時の大量の水の放出。
これにより、仮に巨人ナミタがここまでに一度でも相手に触れていれば、相手をスライム化して弱体化(それは、一撃で相手を倒せることを意味する)でき、仮に相手に触れられておらずとも、床を満遍なく濡らし、足場のスライム化で敵の妨害ができる。
あらゆる意味で強力なジョーカーだ。
だが、だからこそ、相手にとってもまた、ナミタの巨大化は警戒対象となる。
3回戦のような不意打ちならともかく、最初からそれを覚悟している相手に対して、不用意なナミタの巨人化は、トウマへの集中攻撃を誘発する危険性が高い。
前回は、ナミタに『LEVEL2』で無意識の視線と注目を『引き寄せ』て、囮役をさせたが、それも、初手で予想外の巨人化をして相手の冷静さを奪ったからこそできること。
相手が『無意識の視線の誘導』というこちらの手札を把握している以上、『意識的に』トウマを狙えばよいだけの話だ。
そして、それでもなお、ナミタの巨大化を選んだということは、『ダフトパンク!!』が、その問題への対処を終えたからに他ならない。
スライム状の巨体がゆらりと動きだす。
巨人ナミタの自我は、吸収した水の量に応じて希薄化する。
3m体であれば、まだ機敏に戦術的な行動が取れる。
白烏は再び姿を消した。
ぱりなが前面に立って注意を引き付け、白烏が後方支援に回る。
巨人ナミタに触れられたらその時点で終わりであることを、ぱりなも認識しているようだ。距離を取り、再び苦無や、手近なものを片端からトウマへと投げつけてくる。
だが、それは全て、巨人ナミタの体によって庇われた。
そのまま滑るようにスライム状の巨体がぱりなへと押し寄せ――
再び、3Fから手裏剣が降り注いだ。
白烏の支援射撃。だが、この牽制は経験済みだ。
当然、トウマもそれを読んで、『引き寄せ』による回避を試みる。
今度起点としている血判カードは、1Fに設置しているものだ。
噴水広場が戦場になると予測し、転送直後、階下のインテリア小売店に仕込んだものだった。
トウマの能力の効果範囲は、20m以内。階をまたいでも充分に行使できる。
これこそ、巨人ナミタに対し、トウマを狙って勝利しようとする相手への対策。
これで、先ほどされたような、酸素系漂白剤による洗浄は効かない。
2Fでナミタが床を水浸しにした時のための仕込みでもあったが、相手が血判を無効化する手段を持っている以上、思わぬ二次的な効用があったといえる。
これで、巨人ナミタはトウマを気にせず攻撃に回ることができる。
その、はずだった。
突如巨人ナミタが振り返り、トウマにその巨腕を振るった。
「なっ!?」
何が起きた?
それをトウマが理解したのは、頭上で、ナミタが差し出した半透明の腕に突き刺さる、鉄杭を見たからだった。
その先には縄が繋がり、3階から顔をのぞかせる白烏の手へと続いている。
縄鏢。中国拳法で使われる武器だったような気がするが、こういったものも使うのか。
これは、『トップを狙え / Aim for the TOP:LEVEL1』では防げない。
ナミタは、トウマより早くそのことに気付き、彼を庇ったのだ。
二度、三度。
縄が踊り、トウマを狙う攻撃が繰り出される。
それをかばう巨人ナミタをかいくぐるように、ぱりなが接近した。
(くそっ。どうする? ぱりなの接近はチャンスだ。ナミタを向かわせるか――)
だが、それでは三階からの攻撃に、トウマが無防備となる。
おそらく、ナミタは、トウマを危険に晒す作戦を選ばないだろう。
(なら、せめて――!)
魔人能力発動――『トップを狙え / Aim for the TOP:LEVEL2』。
わずかにでもぱりなと白烏、二人の動きを鈍らせるため、トウマは能力を行使する。
「っ!?」
ぱりなの動きが明確に鋭さを欠く。
これは、刃山 椿への影響よりも遥かに強いものだった。
予想外だが、これはトウマにとってはありがたい誤算だ。
「ナミタ! こっちだ!!」
巨人ナミタとトウマは、3階からの投擲攻撃の射線を断ち切るべく、吹き抜けからの死角に移動した。
噴水から距離を取らされたことは痛いが、今、ぱりなと白烏は分断されている。むしろ、今こそ好機――そう考えたとき。
「青!」
と、ぱりなの声が、吹き抜けを越えて広場に響き渡った。
そして、トウマにとって予想していないことが起きた。
戦場が、水で、満ちたのだ。
真上から。そして、足元から、水が溢れてくる。
「な――!?」
足元の水は、ぱりなが、六女神の噴水の縁を能力で切り裂き、2Fの床に浸水させたもの。
そして、真上からの水は、2Fの天井――3Fの床が崩落し、真上から、巨人ナミタに、凄まじい勢いで降り注いだものだった。
本来ならば、『ダフトパンク!!』にとって、水はあらゆる戦術の起点である。
戦場が水びたしになることは、有利でしかない。
ただし今、この、ナミタが巨人化している状況では、話が違った。
(まずい! ナミタの『吸水性』の限界を、越える!)
ナミタの『涙を飲んで生きる/Summer Rain Diver』は、触れたものに、等しく『吸水性』を与える能力だ。
決して、都合よく相手に不利益を、味方に利益を与える能力ではない。
そう見えるように応用しているのは、一重に、ナミタが適切なタイミングで能力の発動と解除を使い分けているからだ。
つまり、自分に『吸水性』を与えるナミタの巨人化は、水を吸い過ぎれば、自重に耐えきれず、ペットボトルに詰められるような液体状になるリスクとも背中合わせである。
これまでの経験で、トウマは、人型と自我を保つことができるナミタの吸水限界が、全長10mの巨大化――体長6倍、水量換算にして、およそ12,400リットルの吸水が限界であることを、把握していた。
あの、黒服を追い返した始まりの日、初めてナミタが巨人化したときの大きさが、ナミタが制御できる限界であるということだ。
12,400リットル。
大量のようで、実のところ25mプールの水量の2%程度に過ぎない。
これ以上の吸水をすれば、トウマは人の輪郭を保てなくなり、かつ、自我の希薄化と精神の消耗も著しいものとなる。
ナミタの吸水限界は、存外に早く訪れる。その弱点を今、突かれたのだ。
ナミタの体は見る間に水を吸い、膨れ上がっていく。
苦しむように、体の輪郭を震わせながら巨人ナミタは、二度、三度と床を叩く。
亀裂が生じ、床がみしみしと軋んでいく。
(どうする――吸水速度が思ったより速い――ナミタはまともに動けるか?)
巨大化が進む中、一か八かの攻勢に転ずるか。
それで、『吸水』が進み過ぎて――仮に、ナミタが、『涙を飲んで生きる/Summer Rain Diver』が解除できないほど自我が拡散したら、どうなるか。
意識喪失による敗北とされはしないか。
そもそも、鏡面世界から戻ればそれは回復するのか。
様々な可能性が頭を巡る。焦りが募る。選択の時間は少ない。
その中で、トウマは声を絞り出した。
「ナミタ! 戻れ――!!」
そう口にするのと、3Fの崩落した穴から、弧を描いて金属塊が降ってくるのが、同時。
またも、縄鏢による攻撃か。
体が縮みゆく中、ナミタはトウマをその一撃から庇い――
「ぐぁぁぁああああああああああ……っ! ぅあああああああああああああああ!!!!」
元の姿に戻ったナミタは、激しい苦悶の声を上げた。
不規則に体を痙攣させ、その後、震えながら体を縮こませる。
溢れるほどの水を床に吐き出して、元の人の姿へと戻ったナミタの肩口は、痛々しく抉り取られていた。肉と骨が剥き出しになり、血がしぶく。
トウマは改めて、3Fからぶら下がり、引き上げられていく金属塊を見た。
それは、縄鏢ではない。
縄にぶらさげられた、バケツだった。
『涙を飲んで生きる/Summer Rain Diver』によってスライム化した物体は、能力解除時に元通りに再構築される。これにより、切り離されても、トウマの『トップを狙え / Aim for the TOP:LEVEL1』で再接合することで、疑似的な再生が行える。
だが、それは、『スライム化した状態で一続きになっている』ことが条件だ。
バケツで肉体の一部を汲み取られた状態で能力を解除すれば、その部分は当然に傷として残る。
抉られたのが頭部でなかったのは不幸中の幸いか。仮にそうであればここで戦いは終わっていた。
「……ぐぁ……ご……めん、トウマ……っっっっ!!」
「いい。意識、保てるか」
「大……丈夫……ちょっとだけ、時間もらえれ……れば……傷……ごまかせる」
傷口に手を当てながら、ナミタが弱々しく呟いた。
見れば、傷口の部分だけが、スライム化し、足元に広がった水を吸って少しずつ埋まっていっている。
思えば、これまでにもナミタは、床の一部だけをスライム化するような、局所への能力行使を行うこともあった。全身ではなく、肉体の一部に『吸水』させることで、感覚を希薄化させようとしているのかもしれない。
だが、大丈夫なはずはない。
肩の筋肉を、骨ごとむしり取られたのだ。鋭利な刃物で斬られたのとは訳が違う。
それでも、ナミタは歯を食いしばり、前を向いていた。
あのダムで夕日を眺めた、泣き虫の面影は、そこにはなかった。
「――わかった。任せとけ」
「……無茶は、しないで。僕らは、二人で、『ダフ――っっ!」
押し寄せてきたのだろう痛みの波に、ナミタの言葉が途切れる。
トウマは、ナミタの言葉に答えなかった。
5.human after all
トウマの思考が加速する。
ナミタは倒れ伏し、魔人能力を使った回復に専念している。
支援を期待することは難しい。
対して、ぱりなは軽傷。白烏はほぼ無傷。
半径20m内に存在する血判は、金属バットに一つと、今立っている地点の直下、1Fに、複数枚。2Fにも、噴水広場を中心に幾つか。
『引き寄せ』により、飛び道具で削り殺されることはない。
縄鏢による攻撃も、事前にわかっていれば、致命傷はなんとか避けられるだろう。
それは相手もわかっているはず。
であれば、相手の最適解は、二人同時に、接近戦に持ち込むこと。
それに対して、『トップを狙え / Aim for the TOP:LEVEL2』――無意識の視線と動作の『引き寄せ』だけでは足りない。
刃山 椿を『LEVEL2』で制することができたのは、それが不意打ちだったからに加え、ロジックが理解されていなかったからで、かつ、二対一だったからだ。
今回は、数はむしろこちらが不利。おまけに、相手は『無意識の動きを引き寄せる』というロジックを看破し、かつ一度その影響を受けている。
当然、普段の動きと比べれば精彩さは半減するだろうが、それでも、動きの鈍ったとはいえ達人の忍者二人。素人のトウマを殺すには充分な腕前のはずだ。
吹き抜けの方から、ターザンめいて縄を使い、老忍者が降りてくる。
どうする。
視界を迫る老忍者が占めていく中、トウマはその体越しに、ぱりなのひどく目立つ染めた髪とブレザーを一瞥した。
ぱりなも白烏も、トウマから見て半径20m以内。両者とも、『トップを狙え / Aim for the TOP』の射程圏内。
足元に、デコ苦無が刺さる。
ぱりなが支援し、白烏がトドメを刺す目算。
ナミタの回復はまだ。時間が足りない。
漆原 トウマが、『トップを狙え / Aim for the TOP』の応用を、『LEVEL2』までしか行えない限りにおいて、『ダフトパンク!!』はここで敗北する。
ならば今。
その前提を、覆す。
トウマの『トップを狙え / Aim for the TOP』は、意識のない運動を引き寄せる。
そこには、落下物、投射物、生物の反射的行動や無意識の動作などが含まれる。そのため、生物の意識的な行動に対しては発動しない。
――これまで、漆原トウマは、『意識のない運動』を、次のように認識していた。
人の手を離れた、自分から見て動いているものは、『意識のない運動』である。
これにより、『トップを狙え / Aim for the TOP』は、落下物、投射物を対象とするようになった。
これが、始まりだ。
実際、実戦では2回戦まで、ほとんどがこの定義による能力行使であった。
しかし、能力覚醒後、応用を繰り返す中で、トウマは、この能力に新たな可能性を見た。
つまり、他者の動きの中でも、トウマから見て『動作』として成立していて、動作者の無意識によるものは『意識のない運動』である、という認識である。
これによる応用が3回戦で実戦向きの能力として花開き、視線や、鍛錬により無意識レベルにまで落とし込まれた動作をも対象とするようになった。
そして今。
トウマは、その先へ、手を伸ばす。
これまで、トウマは、「自分から見て動いているもの」――つまり、相対的な運動のみを、『意識のない運動』と定義してきた。
しかし、考えてみれば、人が、ただ立っていること。
それすら、運動である。
これまで、水使いであるナミタと戦い続けて理解した。
物体の自然な姿は、重力に従い、水が地に広がる様。
人が直立していることは、生きていることは、それだけで、無数の運動の成果である。
そのことに、トウマは気付いていなかった。
だから、認識を基底とする魔人能力もまた、それを能力の対象としてこなかった。
それくらい、それらの運動は『無意識』なのだ。
故に。だからこそ。『トップを狙え / Aim for the TOP』は、その運動をも、餌食とできる。
ぴしり、と。背骨に近いところで、何かが軋む音がする。
その、人体として当然のアラートを、漆原 トウマは無視する。
たらり、と。鼻孔を鉄の香りが支配し、たちまちに液体が塞ぐ。
その、世界からの糾弾のダメージを、漆原 トウマは黙殺する。
魔人能力とは世界の認識に干渉する能力。
自らのエゴで世界の摂理原理を捻じ曲げ浸食する能力。
人が重力下で自立できるのは何故か。
それは、無数の『意識のない運動』の成果である。
例えば、迷路性反射運動。
例えば、体性反射運動。
例えば、頸筋性反射運動。
例えば、視覚性反射運動。
落下した際の着陸一つとっても、これだけの意識のない反射運動が関与している。
そして、その一つ一つを『意識して』行っている人間など、世の中には存在しない。
故に。漆原 トウマの新たなる力は、そうした『生の前提』すら、侵食する。
「――『トップを狙え / Aim for the TOP:LEVEL3』」
敢えて口にすることで、それに手が届くのだという、自己暗示。
それが、世界を改変する、トリガーだった。
滑るようにトウマへと近づいていた白烏が、がくり、と、糸の切れたマリオネットめいて地面に崩れ落ちた。その後ろで、ぱりなもまた、だらりと力を失い、倒れている。
できた。
成立した。
これで、相手は、無力。
あとは、バットを振り下ろせば、勝利だ。
そう、思った瞬間。
ぷつり。
漆原 トウマの体もまた、地面へた、倒れ込んだ。
能力の制御を誤って、自分もまた対象に巻き込んでしまった?
否、そうではない。
これは、単純な『能力行使の反動』だ。
これまで使ってこなかった応用で世界法則を捻じ伏せた、その無理が、物理的な損傷として肉体に跳ね返っているのだ。
これまでも、LEVEL1の行使と比べて、LEVEL2の行使は、消耗がわずかに大きかった。LEVEL2とLEVEL3では、認識にかける無理が段違いだったということなのだろう。何せ、動かないようにする体の働きをこそ、運動であると強弁して発動しているのだから。
噴水広場には、4人が倒れ伏している。
誰かが立ち上がり、トドメを刺せば、戦いが終わる。
――違う。
トウマは、冷え切った意識で、その前提を否定した。
体が動かずとも。思考は生きている。認識は生きている。
血判はまだ、階下に幾つも敷設されている。
それはつまり、トウマの魔人能力は、使用できるということだ。
『LEVEL3』までの行使で、『トップを狙え / Aim for the TOP』に、対象を直接殺す方法はない。
それが、どうした。
世界は、血に縛られている。
たしかに、『意思のある行動』で一時的に、跳ねのけることはできるだろう。
だが、常に気を張っていようとも。
人は、常に全てを意識下に置くことなどできない。
仮に人が自分の心身を制御できたとしても。
世界には、目に見えない、人以外のものについても、意識の介在しない運動に満ちているのだから。
なんて皮肉。
トウマは、この能力はほんのささやかな、嫌がらせにしか使えない弱能力だと思っていた。
それはそのまま、この能力のオリジン、血の呪縛が、『意識さえすれば跳ねのけられる』程度のものだと思っていたことと、裏表だ。
だが、どうだ。
考えるほどに。突き詰めるほどに。
この力は、自分を縛るものは、これほどまでに絶対的だった。
ならば今、引き寄せるべきはなんだ?
大気の振動? それもありうる。
だが、より解像度を上げろ。
目には見えない運動。
目の前にあるのに、誰も存在を意識してすらいないもの。
無意識の運動は、その『何もないはずの空間』にこそ満ちている。
大気中の0.00005%を占める、水素。
その「意識のない運動」を、血判という、一点に『引き寄せ』ればどうなるか。
この能力の効果は半径20m。だが、常に空気は循環する。
この鏡面世界の大気の0.00005%の水素原子を、一点に収束。
その原子核を反応させる。
「――『トップを狙え / Aim for the TOP――」
核融合。
まだ、科学技術では安定的な運用が成立していない、爆発的なエネルギーの創出。
できる。
確信があった。
この力があれば、自分は無敵だ。
トップを狙え? 否。漆原トウマこそが、世界の頂点になる。
そうすれば。
この、法則を受け入れれば。これだけの力を使えれば。
もう、ナミタは傷つかない。
あの泣き虫だった相棒に、輝かしい栄誉を贈ることができるだろう。
『けど、もしも、その先に無理やり手を伸ばすなら』
『キミも、人からはみ出した、怪物になる』
いつか、誰かがそんなことを言っていたような気がする。
もう、その相手が誰だったかも思い出せない。
「――LEVEL――」
痛みの感覚が消えていく。
ダメージが癒えたわけではない。それを感じる感覚すら死んでいっているのだと、なぜか理解できた。
自分の中の『何か』が作り変えられていく。
1F、白烏とぱりなが倒れている位置の間にある、血判に、『LEVEL4』――意思などあろうはずもない、原子核運動の引き寄せというコマンドを打ち込みはじめる。
できる。できる。できるのだ。
これで、終わる。これで、終える。
だから――たとえ、取り返しがつかないことになっても、構わない。
その、覚悟を。
「――トウマ、やめるんだ」
聞き慣れた声が、静かに制した。
ナミタが、身を震わせながら、それでも体を引きずって、トウマに寄り添っていた。
「トウマが、何をしようとしてるのか、知らないけど。トウマがそんな顔をしてまで取る策が、正しいはずない」
彼にとって珍しい、有無を言わせない断言だった。
「さっきの、『LEVEL3』だって、そうだ。使った瞬間、トウマ、鼻血出して、血、吐いてたろ。もう、ダメだ。アレは使わせない」
「ふざけるな。負けろって、いうのかよ」
「ふざるなはこっちのセリフだ。相棒だろ」
まだ傷の痛みはあるのだろう。ナミタの声は震えている。
けれど、そこには、強い意思が込められていた。
「相手はずぶ濡れ。僕が触れれば、勝てる」
「でも、もう、立てないだろうが。『LEVEL3』を解除すれば、相手は動き出す」
刻一刻と、『LEVEL3』の維持だけで、体力が消耗していく。
白烏とぱりなを地面に縛り付けられる時間は、もう長くない。
「トウマの力は、縛るものじゃない。飛べる力だ」
トウマには、ナミタが何を言っているか、理解できなかった。
何を、突然、観念的なことを言い出すのか。
「トウマはアキさんじゃない。翼もない。ワーコンドルでもない。だけど。だから。『キミだけの力だからこそ』飛べる。アキさんの翼は、自分自身しか飛べないけど。トウマの力は、――僕だって、ここまで――『世界の頂上』に、連れて行ってくれたじゃないか」
ナミタは、本気だった。勝負を諦めて、概念的なことを語っているのではない。
思いついた作戦を伝えるため、そして、それが目の前にいる敵に気取られないように、口にしているのだと、トウマは気が付いた。
「信頼してるよ、相棒」
「尊敬するよ、親友」
魔人能力、『涙を飲んで生きる/Summer Rain Diver』発動。
ナミタは起き上がることができない。
だが、この状態でも、床に触れることはできる。
噴水が決壊し、3Fから水がどぼどぼと降り注ぎ、たっぷりと広く浅く水をたたえた、この床に『吸水性』を与えることはできる。
そして、今ナミタとトウマ、そして『ぱりなリサーチ事務所』が倒れ伏しているのは、巨人ナミタが『吸水性』の限界に苦しみ、トン単位の拳を打ち付けて脆くなった床である。
それが、スライム状となり、強度を減じたら、何が起きるか。
即ち、崩落。
床が限界を迎えるのと、トウマが『LEVEL3』を維持できなくなるのが同時だった。
4人は重力のまま落下する。
自由落下である。
その運動には意思がない。
つまり、『トップを狙え / Aim for the TOP:LEVEL1』の対象に他ならない。
そして、トウマとナミタは、肩を組んだまま、『飛んだ』。
2Fに配置した血判の『引き寄せ』を逐次切り替え、1Fに配置した血判で軌道をコントロールし、自由落下運動を制御することで、飛行を可能としたのだ。
対する、ぱりなと白烏の動きは迅速だった。
それぞれ鍵縄を取り出して、壁に、天井にひっかけて、自由を取り戻す。
「トウマ!」
「わかってる!」
「爺や!」
「承知」
先に1Fに降り立ったぱりなが、二度、三度と腕を振るう。
その振るった先で、白烏が『空中を駆けあがった』。
2回戦、東京タワーで見たのと同じ。
壁に見えない手裏剣を突き刺して足場とする、疑似的な空中歩行術。
不忍池 ぱりなの『手裏に秘するがしのぶの華よ』。
漆原 トウマの『トップを狙え / Aim for the TOP』。
決着は、双方の能力による、空中戦に持ち込まれた。
白烏の疲労の色は濃い。
寄る年波に加え、千変万化、一撃即死の能力を持つ『ダフトパンク!!』との長期戦は確実に、非魔人である老忍者の神経を削っていた。
トウマとナミタは満身創痍。
方や明確な外傷、方や無理な能力行使による極限の疲弊。
地面に立って走る体力すら残されていない。
地形は自由に飛行できるトウマとナミタに有利。
対する白烏の切り札は、閉所により真価を発揮するもの。
触れるだけで敵の肉体を崩しうるナミタの、運動能力という欠点を、トウマが血判を利用した空中機動戦術で補う。
火は一つのみでは炎に非ず。
即ち『イグニッション・ユニオン』の掲げた通りの動きだ。
だが、それは、『ぱりなリサーチ事務所』もまた、同じこと。
白烏の隙を探るように旋回している中で、トウマは、『何か』に激突した。
そこには何もない。そのはずなのに、前へ進めない。見えない壁が、まるでそこにあるように――。
違う。『捕まった』のだ。
不忍池ぱりなの、『不可視の刃』。
ショッピングモールの壁に突き立てることで白烏の足場を作りながら、同時に、天井に垂直に突き立てることで、トウマたちの行動を制限する壁も作り出していたのである。
絶好の機。相手を閉所へと追い込み、そして白烏の手には愛用の仕込み杖がある。
ならば、繰り出すべき技は、決まっている。
だが、そこで、一瞬だけ、白烏は、眼下の、ぱりなを見た。
一呼吸にも満たぬためらい。『その技』を、何も遮るものなしに、彼女に見せてよいのかという、彼の抱えてきた悔悟の重み。
それを、吹き飛ばすように、
「”追い忍”白烏! 我が父の友! 我が術の師よ! 許す! 赦す! 全てゆるす! 故に! 今こそ、妾の前にて! その技、遍く、詳らかにせよ!」
ぱりなが、叫んだ。
老人の瞳が、僅かに見開かれた。
「――御意」
その短い返答に、どれだけの想いが、込められたものか。
老忍者が加速する。数十年の間、魂を縛っていた、枷を外されたように。
”老い忍”でなく、”追い忍”であった、かつての輝きを、取り戻すように。
不可視の足場を蹴って、烏の白翼が、海にも空にも染まず翔ける。
階下では、ぱりなが大きく腕を振るい、足場を、壁を、布設していく。
今、トウマとナミタがいるのは、自由な空中ではない。
見えざる壁に閉ざされた、『天牢』。
即ち、玻璃の壁で編み上げられた、白の烏の、狩場であった。
――不忍術・烏籠。
その日、不忍池 ぱりなは、初めて、その技の全てを、直視した。
伝聞ではなく。煙越しでなく。闇夜にまぎれた姿ではなく。
自らが尊敬し、そして、一時は憎みもした男が、生涯を通して磨いた技。
父を忍びとしてではなく、人として終わらせた、介錯の剣。
それを、目に焼き付けた。
其は、武人の剣にあらず。
真正面から力で斬るのではない。間隙を通す技。
相手の最も脆い部分を見出し、あるいは作りだし、そこに全ての力を注ぐ、技術の精華。
それが、魔人と人、老いと若きという差を、不利を、逆転させ、両断する。
「御免」
かくて、『老い忍』の仕込み杖は、二人の青年の首を過たず断ち切った。
トウマが『引き寄せ』の効果を発揮できる血判は、同時に一つ。
それは、スライム化と『引き寄せ』による疑似蘇生ができるのは、一人だけであることを意味する。
漆原 トウマは、それをためらいなく、時雨 ナミタに使った。
勝敗など関係なく、そうするのが当然であるというかのように。
目の前に転がったトウマの首。
その穏やかな表情に、ぱりなは、膝を突き、己のブレザーをかけてカメラから隠した。
「――結局『人間』だったよ。キミは、ちゃんとね」
かつて、『怪物』と呼ばれかけた女から、『怪物』になる直前で踏みとどまった青年への、敬意の言葉だった。
6.熱狂の青
鏡面から、解放される。
巨大ショッピングモール、ヴィーナスフォートを取り囲む海は、夕日に焼けてたぎるような赤に染まっていた。
あの日の、静まりかえったダム湖の水面のように。
漆原 トウマは、ぼんやりと相棒の横顔を見つめた。
時雨 ナミタは、泣いていた。
だが、その瞳は遠くを見つめ、悲しみや悔しさといった感情と無縁に見えた。
ただ、濁りのない涙だった。
詫びるべきか。
だとすれば、何を? 相手の策を読み切れなかった甘さを?
自分の能力を把握しきれなかった未熟を?
どれも違う気がする。
チーム『ダフトパンク!!』は、全力で戦った。
そして、負けたのだ。
血判による原子核運動の『引き寄せ』――『トップを狙え / Aim for the TOP:LEVEL4』は、漆原 トウマが背負える範疇を越えていた。
仮に、あの力を制御、行使できれば、『ぱりなリサーチ事務所』の二人を一瞬で焼き尽くすこともできただろう。
しかし、そうなれば、おそらくトウマの力を求めて様々な組織の思惑が錯綜し、まともな生活を送ることはできなくなったに違いない。個人の力による核融合の安定運用には、それだけの意味がある。
そして、何より。その力を行使するということは、漆原 トウマに流れる血の呪縛が、世界を支配する物理法則に等しい拘束力を持つことを認める、敗北宣言に他ならない。
だから、『トップを狙え / Aim for the TOP』は、この戦いが始まったときに使えていた、LEVEL2までのまででいい。
ほんの少し、意識しない行動が流されてしまうような。そんなちょっとした引力の方がいい。
「ありがとうな、ナミタ」
「なに、急に」
「いろいろだよ」
『LEVEL4』の行使を止めたとき、ナミタはきっと、そんなトウマの思考など、気付いていなかっただろう。
ただ、トウマの痛みを表情から読み取って、やめた方がいいと伝えただけ。
思えば、肝心なところでナミタは、本質を掴むことに長けていた。
1回戦、忘れっぽい天使リンの性質を看破し。
2回戦、兄が見ていることによるトウマの気の張り方を見破り。
3回戦、『闇の王と骨の従者』の心臓の動きの違和感を見逃さなかった。
それは常に逆境にあった彼が、その中でなお、立ち上がることを諦めなかったからこそ培われた眼力だったのだろう。
何が、「『LEVEL4』さえあれば、ナミタを危険に晒さずにいられる」だ。
その泣き癖で誤解しがちだった。
けれどきっと、ずっと、トウマはナミタにこそ、守られていた。
「ねえ、トウマ」
ナミタは、海を見ながら口を開いた。
「僕たち、ここまで来た。素人の子どもが、すごい人たちと渡り合って、『トップ』を狙って……もう少しのところまできた。たぶん、それは、すごいことで、満足するべきことで……」
トウマのスマホが着信を告げる。母親だ。
まったく、タイミングがいいことだと、トウマは思った。
なんだかんだと言いつつ、兄の試合を全て見ていた母親のことだ。
きっと、この決勝戦も見ていたのだろう。
そして、今、ナミタが口にしたようなことを言って「満足して帰ってこい」と伝えようというのだ。
悪意はないのだろう。親心というやつなのかもしれない。
「でも、僕は、あの町には帰らない。もう少しで、手が届きそうだったんだ。なら――『トップ』を、手に入れないと」
ナミタは、目元を乱暴に拭い、トウマへと向き直った。
「———キミも来るだろ、トウマ」
あの、ダムで起きた、くそったれの始まりの日の再演。
ただ、手を差し伸べてきた側と、呼びかけられた側だけが、反転していた。
「もう、大会は終わっちまったぞ」
「うん」
「別に、俺らは裏稼業にコネがあるわけでもない」
「うん」
「どうやって食ってくかのアテもないだろ」
「うん」
トウマは、スマホを一瞥した。
母親の着信は、止んでいた。
留守番電話、一件。
そこに残されているであろう忠告通り、帰省するのが真っ当な生き方だろう。
「それでも、君は、『トップを狙え』る選択をする、だろ?」
「もちろん!」
トウマは、あの日のナミタと同じように答えた。
二人は、賞金と比べれば微々たるファイトマネーで買ったバイクにまたがると、エンジンをかけた。
行き先は未定。ただ、ここではない明日へ。
留守番電話の音声データを漆原 トウマが聞くことは、しばらくないだろう。
それが、漆原 トウマが、血の呪縛から飛び出すための、第一歩だ。
二人が、この夏を先取りした蒸し暑い日のことを、忘れることはないだろう。
時雨ナミタが、漆原トウマの抱える痛みを知り、尊敬が信頼に変わった日。
漆原トウマが、時雨ナミタの宿した強さを知り、信頼が尊敬に変わった日。
そして、平凡な停滞から、一歩を踏み出した、熱狂の青の、はじまりの日。
かくて、真夏の海岸を、熱狂の青が行く。
兄のような翼などなくとも、飛べるのだと知ってしまったから。青年はもう止まらない。
涙を飲み干してもなお消えぬ渇きを知ってしまったから。青年はもう止まれない。
雨晒しのような停滞と、退屈を打ち砕く夕暮れの風に、強く背中を押されて。
無軌道で騒がしい、溢れ出しそうな涙を置き去りにして。
「あ、やべ」
「どうしたの?」
「……ぱりなに、帽子返すの忘れてた」
「今度返しなよ」
「また、会う用事でも?」
「リベンジ、しないの?」
「なるほど! そんときでいいか!」
真夏の海岸を、熱狂の青が行く。
◆ ◆ ◆
時雨ナミタ。
無職、18歳、身長164㎝。
糸目で小柄、栗毛のミディアムショート、いつも泣いているので常に目尻が腫れている。
漆原トウマを信頼している。
転んで倒れてばかりだった時雨ナミタは、今度こそ顔をあげて前を向いて走り出した。
漆原トウマ。
高校3年生、18歳、身長181㎝。
気怠げな目に細身で長身、黒髪のセンター分けツーブロック、地味なラウンド型の黒眼鏡をかける。
時雨ナミタを尊敬している。
いつも走り出す背中ばかり見送ってきた。今、漆原トウマも熱情のままに駆けだした。
◆ ◆ ◆
"Encore!"
"Encore! One more time!"
"Encore! Please!"
The audience asked “DAFT PUNK” to perform an encore.
OK. Next number――
This is the first Live show of the greatest star TEAM "DAFT PUNK !!"
You know their bright future.
To be continued.
7.忍びなれども
『イグニッション・ユニオン』、優勝。
決勝戦の血みどろの戦いにより、『ぱりなリサーチ事務所』の一般イメージアップ戦略には、残念ながらあまり繋がらなかった。
しかし、得たものは大きかった。
1回戦、2回戦で紡がれた、最強夫婦と黒服警備保障とのコネクション。
そして、懸案であった、不忍池忍軍と敵対する古参ブラック忍び里との冷戦状態も、3回戦の仙道ソウスケの策略によって、敵対勢力の炙り出し及びその壊滅にまで繋がった。
おそらく、この結果もまた、仙道ソウスケの手のひらの上なのだろう。
ここで恩を売れば、ぱりながソウスケの告発をせず、コトミを陰から守るように動くはず、という計算だろうか。全く、食えない男である。
さらに、大会終了後のセレモニーで、似た境遇にあった『闇の王と骨の従者』とぱりなは意気投合、3年周期で更新される暴力団指定の解除がされ次第、業務提携をすることも内々に約束した。
得た賞金も、所員の待遇改善、新規人員確保に活用される予定である。法人化の手続きも、着々と進みつつある。
かくて、ぱりなリサーチ事務所は、表社会における足掛かりを確かに掴んだのである。
とはいえ、世にブラック裏稼業の種は尽きまじ。
まだしばらく、不忍池 ぱりなに安息の日が訪れることはないだろう。
「……結局、『手裏に秘するがしのぶの華よ』は、あまり、武器としてはお使いになられませんでしたな」
「畢竟、相性問題もあるし? それに、あれ、妾の黒歴史のシンボルみたいなところあるっしょ。活躍しなけりゃ、それに越したことはないっていうか……お、『ダフパン』の続報きてるじゃん! メッティーやるう!」
ぱりなは、『ダフトパンク!!』の二人のその後を記した報告書に目を通すと、満足げに目を細めた。
「そっか、トウやんもナミたんも、元気でやってるんだね。善哉!」
「……仮に、漆原 トウマが、見立て通り、『原子運動の引き寄せ』に至った場合、おそらく多くの組織が彼の確保のために暗躍したでしょう。そうなればいつか彼はうちに助けを求めざるを得なくなり――結果として、組織の強化につながった可能性もありますな」
「ありがとうね、爺や。爺やが、『怪物』としての妾を代弁してくれるから、妾は、なんちゃって『人間』やっていられるんだし」
「なんの。ワシなどおらんでも、お嬢様はうまくやっていけます」
「へへー、爺や馬鹿ー」
「ほっほっほっ」
手裏に秘するがしのぶの華。
その名のとおり、不忍池 ぱりなは、かつて研ぎすまし数多の血を吸った不可視の玻璃の刃を、できる限り、人の命を断つ武器としては秘して振るったのだ。
それが、忍びとして正しいことか、全力で殺し技を振るわぬことで、相手に礼を失することになるのか、そこは、白烏の断ずるところではない。
けれど、彼女らしい振る舞いだと、白烏は思った。
「覚えてる? 爺や」
「何をですかな?」
「しのぶれど――ってヤツ」
「さあ、忘れてしまいましたなあ」
嘘だった。
それは、かつて、無私の忍びとして『完成』した、玻璃那姫へと、白烏がかけた言葉。
しのぶれど いろにでにけり わがこいは ものやおもうと ひとのとうまで
隠しても、にじみでるのが人の意思。恋ならざりし故意の常。
なるほど、全てが無意識の技、合理の下に自動的なればそれは最適解を貫く無私の機構。
けれどそれは人にあらず。忍びなれども畢竟、人は人。
完璧に透明な刃は、人が持つには純粋すぎる。
玻璃の怪物。なるほど最強。なんとつまらぬあり方か。
それでは、いつか。
合理の果て、自らの守るべきものすら、この手で斬ることとなりましょう。
どこかの老いぼれのような誤りを、貴女はなさらぬように。
しのぶれどなお、いろに出る。
そんな、心の華を、持ちませい。
――そんな、解釈も滅茶苦茶なことを、口にした。
それから、あらゆる瑕疵を断罪する無私の忍び、玻璃那姫は死に。
女子高生忍者、『忍び里働き方改革』を掲げる、不忍池 ぱりなが生まれた。
きっと彼女がいなければ、そして、彼女の父親を手にかけていなければ、白烏がこんな考えに至ることはなかった。ただ、己を殺し、人としての懊悩を内に燻らせ、いつか忍務の果てに命を落としていただろう。
だが、自覚した、今だからこそ白烏は胸を張って己の意思を肯定できる。
彼女の意見に、共鳴できる。
たとえこの血に濡れた手に、資格がないとしても。
硝子が割れて、烏が墜ちた。そこから、全てが始まった。
これは終わりではなく、まだ始まりの途中だ。
「ま、いいけど。それより爺や、最近年休取ってる? 忍務ばかりは言語道断だし!」
「承知。忍びだからと、世を謳歌してはならぬ道理なし、ですな」
「そう! だって、妾の名前が、そのスローガンだし!」
この老い先短い身でも、役に立てることがあるならば。
せめて、彼女が人として生きられるように、身を尽くすこととしよう。
「「――忍びなれども、日々是好日!」」
二人は、顔を見合わせて笑った。
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火と火を重ねて炎となせ。
その煽り文句に集った火群は、無数の幻燈を描き、消えていった。
きっと人々は、ほどなくしてそれを忘れていくことだろう。
だが、一度灯された炎は、燻り続ける。
生まれた輝きは、それぞれの場所で闇を照らし続ける。
これは、点火、火と火と炎の、はじまりの物語。
優勝者だけではない。
この催しに参加した、都合26の炎、それが何を燃やし、何を照らすのか。
それは、点火とは別の、新たに語られるべき、別のストーリーである。
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「しのぶれど いろにでにけり わがこいは――か」
不忍池 ぱりなは、一人、夜空を見上げて呟いた。
いつかの白烏の説得。
あれは、本当にひどいものだった。
歌の解釈はでたらめ。理屈も通っていない。
しかも、そもそも。忍んでも想いが溢れてしまっているのは、忍びを貫こうとしながら、人としての情を捨てきれずにいたのは、白烏の方ではないか。
掟のままに忍びとして主人を殺し。
それでいて、悔悟の想いが溢れ出す。
なんて、人間臭い、黒の烏になりきれぬ、愚直な人。
正直に言えば、説得の内容など、どうでもよかった。
涙を、鼻水を拭いもせず、遥か年下の女に、精一杯の言葉を捻り出す、その姿で、充分だった。
その姿に、『玻璃の怪物』は、人間へと、戻ることができたのだ。
「お嬢様、風呂上りの夜風は体に毒ですぞ」
「りょ!」
いつか、そのことを、感謝の想いを、素直に、伝えることができるだろうか。
何かのふりをかなぐり捨て、自分の言葉で、あの日のことを。
「ありがとう! 爺や!」
そう、ちょうど、こんな風に――。