【プロローグ】
【臨】
少女は、どのような言葉も口にしなかった。
父の亡骸を前にして。それでも、目を逸らさなかった。
ただ、ひとしずく、頬を伝うものがあり。
そこに忍ぶ想いに、男は、彼女を守ると決めた。
自分の手に、その資格がないのだとしても。
命を賭してすら、己が許されることがないのだとしても。
【兵】
森の中を、女は走る。
影から影を伝うように。
乱れる呼吸を押さえつけるように。
こうなることは最初からわかっていた。
現代においても、否、現代においてこそ、忍びの掟は厳格で、絶対だ。
女は優秀な忍びであり、そしてその結果、多くを知り過ぎた。
だから、彼女がこの稼業を辞めようとすれば、口封じに追手が差し向けられるのは自明の理だった。
女を追い立てているのは、抜け忍狩り。
追い忍と呼ばれる者。
機密の保持のため、忍びの中でもより技量の高い者が選ばれる汚れ仕事だ。
女の頭に、最悪の想像がよぎる。
忍びの中においてなお、最悪と言われる存在。
追い忍代行で名を馳せた忍び衆。
――不忍池忍軍。
忍びならぬものを不するが故に、不忍の名を負った、追い忍の里。
その鋼の規律は内部にも徹底され、先代の長すら、掟に抵触したとして処されたという。
もしや、今自分を追っているのは、その「最悪」ではないか?
湧き上がる恐怖を、後悔を、振り払うように女は首を振る。
こうなることをわかっていて、それでも女は里を抜けたのだ。
忍びは、ただの諜報員ではない。
内閣情報調査室、警察庁警備局、法務省公安調査庁、防衛省情報本部。
国内にも様々な情報機関は存在するが、そうした組織に所属する情報員、工作員と、忍者は決定的に違う。
忍者とは、業ではなく、道なのだ。
生き方を、常人とは違えることなのだ。
だから、人としての情に流されてはならない。
人としての幸せなど求めてはならない。
人でなく、一つの機構として、振舞わねばならない。
ならば、なぜ、自分は人という種に生まれてしまったのか?
一たび生まれた疑問に、女は答えを出せなかった。折り合いをつけられなかった。
その種は芽吹き、育ち、いつしか、忍びとしての彼女にひびを入れてしまった。
だから、逃げ出した。
自分は人だと。
忍びという職務ではなく、人という種こそ自分の本質だと決めた。
その決断を、やり直すことはできない。やり直す気もない。
鋭敏に研ぎ澄まされた聴覚が、背後に迫る足音を捉える。
追い忍ならば当然に、無足忍の心得はあるはずだ。
にも関わらずその足音を聞き取れるということは、すぐ背後まで追いつかれたということに他ならない。
倒れ込むように身を投げ出し、体を丸めて三度地面を転がる。
髪が数本引き抜かれる痛み。相手の攻撃が頭を掠めたのだろう。
猫めいた挙動で態勢を立て直し、屈んだ状態から背後を確認する。
仕掛けてきた相手には見覚えがあった。
同じ忍び里の同僚。
忍者として将来を嘱望されながら、自己顕示欲の強い性格に難ありとして、女に出世の道を奪われた男だった。
余計な言葉は交わさない。
忍び同士の戦に、会話は不要。
何かを口にするならば、意味ある情報を求めるとき。
あるいは、言葉そのものが戦いの布石であるときのみ。
顕示欲。嫉妬。攻撃衝動。
追手の相手の表情から、女はおおまかな状況を理解した。
追い忍は、身内が刺客を出す場合と、情に流されぬよう、第三の忍軍から刺客が派遣される場合がある。
先ほど女が危惧した「不忍」の追い忍は、後者だ。
手の内がわかっている者同士では、情に流され、千日手となることも少なくない。
成功率が高いのは外部の刺客である。
それでもなお男が刺客として追ってきたということは、個人的な意趣返しのつもりだろう。出世争いで負けた腹いせ、あるいは、より鬱屈した欲望か。
焦りに跳ねる鼓動を呼吸で御して周囲を伺う。
目の前の男の他に、抑えた気配が、一つ、二つ、三つ、片手では数えられぬほど。
技量は不明。だが、忍びとしての心得のある人間が十名程度潜んでいることは確か。
そして、目の前には、女とほぼ互角の力量を持つ男が短刀を構えている。
絶体絶命。
忍者とは、奇道奇策にて力量差を覆すものだ。
弓馬を極めた誉れある武士を影で殺すものだ。
しかし、相手が同等の戦術を持つ忍者であり、数で圧倒されているこの状況を、一人でひっくり返す奇道など、女は持ちあわせていなかった。
ならばせめて。
最期まで、人として、在る。
手裏にしこんだ棒剣を構え、女は自分に残された時間を覚悟した。
そして――
しゃん、しゃん、しゃん
死を前に研ぎ澄まされた聴覚が、奇妙な音を聞いた。
【闘】
しゃん、しゃん、しゃん、しゃん
それは、金属が擦れる音だ。
ならば、人が近づいているのか?
だが、足音はしない。ただ、金属が擦れる音だけが、森の奥からやってくる。
迫る音からすれば、距離は相当に近い。だが、足音はない。
忍びか? であれば、無足忍の技量の高さに納得できる。
だが、ありえない。忍びだとすれば、身に着けるものの音まで消すのが当然だ。
しのびの心得に、三無忍あり。
曰く、一に無足忍。忍びは足音を無にせねばならぬ。
曰く、一に無息忍。忍びは息音を無にせねばならぬ。
曰く、一に無臭忍。忍びは体臭を無にせねばならぬ。
その全てを具備しながら、全く無遠慮に、身に着けたものの音を隠さない。
忍びの理想の歩法を体現しながら、最も初歩的な禁忌を犯している。
なんて矛盾。なんて異常。なんて愚行。
追手の男たちも、怪訝そうに音の方向を警戒している。
少なくとも、男たちの仲間ではないらしい。
忍び里にほど近い、人里離れたこの森に、この奇妙な音。
一体、何者――?
「っしゃー! 発見したし! よろよろー!」
能天気な声が、一触即発の鉄火場に響いた。
思考が、停止する。
常にあらゆる奇策を想定し、その中でも冷静な判断を瞬時に弾きだす歴戦の忍びである女と、それに拮抗する経験を積んだ追手の男。
その二人の戦術思考をして、この状況の理解を、ほんの一瞬だけ脳が拒絶した。
明るく染められ、緩く巻かれたミディアムロングの髪。
着崩されたブレザー制服。
手にしたスマートフォンは無数のビーズでデコレーションされ、肩から下げられた鞄には無数のマスコットつきキーホルダーがぶら下げられている。
音を立てていたのは、このキーホルダーの金具だ。
そこにいたのは、女子高生であった。
ギャルっぽい、女子高生であった。
せめて武器でも隠し持っていたのならば、擬態の類と理解できただろう。
だが、その女子高生は、武器になるものを何も手にしていなかった。
武器を手にしたものが戦場に立てば、必ずそれをいつでも取り出せるような重心の偏り、あるいは意識からくる視線の動きのクセが発生する。
しかし、突然現れた女子高生には、その様子が皆無だったのだ。
今にも命のやりとりが始まる、その鉄火場に、完全な丸腰。
場違いという言葉すらまだ生ぬるい。
「――何奴――」
本来ならば忍びに不要な誰何の声を上げた男を、女は愚かと断ずることはできなかった。
明らかに異質なものを前にして、当然の反応である。
だが、その「当然」こそが、忍者の奇策の付け込みうる隙なのだ。
(お嬢様。座標報告。壬乾、丑巽、酉乾三、卯兌、乙兌双、辰乾、子坎三 央離。都合十三にて)
抜け忍びの女の鋭敏な聴覚が、女子高生のデコスマホから微かに響いた音を捉えた。
一部の忍び衆の用いる、十二支八卦を用いた座標報告。
ならばこの女子高生もまた――忍びということか。
「委細承知っ☆」
意識の虚を縫うように、女子高生の手が、十三回、精確に、大気を切り裂いた。
【者】
女子高生の手には、最後まで何も握られていなかった。
すぐ傍にいた女が、忍びとしての類まれな動体視力で視認したのだから間違いない。
だが、その手の振るわれた先には、苦無、手裏剣、鎖鎌、吹き矢――様々な得物を弾き飛ばされ、両断された追手たちがいた。
「畢竟、このおねーさんは妾ら――「ぱりなリサーチ事務所」が預かれりー。おっさんらは撤退要請。よろ?」
女子高生は、抜け忍の女を庇うように立つと、場違いな明るさで言い放った。
ぱりな、リサーチ、事務所。
聞いたことがない。名前からするに、探偵事務所や、興信所の類だろうか。
「やれ」
しかし、謎の投擲による攻防で逆に冷静さを取り戻したのか、男の号令一つで木々の影から追手たちが動き出した。
全くわけのわからない存在から、明確な敵対存在へと、女子高生に対する認識解像度が上がったことによる即座のマインドセット。合理的な判断だと、女は感心した。
交渉の余地なし。
女子高生が何をしたのかはわからないが、武器を一つ跳ばしただけで、忍者が戦意を喪失するはずがない。
無数の剣を手の裏に隠し持ち、使い分けることこそ忍びの華であるのだから。
「爺や。準備完了?」
(十全に)
胸ポケットにいれたデコスマホとの言葉少ない応答。
この女子高生の先ほどの動き、何も握ってはいなかったが間違いなく手裏剣術。
忍びの技だった。
であるならば――この少女にもまた、まだ、手の裏に隠し持った、忍びの華がある。
「――『手裏に秘するがしのぶの華よ』」
踊るように、円弧を描くように、女子高生が大きく腕を振るった。
大気を斬るように。世界を切り取るように。
瞬間、ぽっかりと、空が切り取られた。
違う。錯覚だ。
視界を覆い、空を隠していた森の木々が、高い位置で横薙ぎに切り倒された。
折れた枝が、幹が、その下で隠れていた追手たちへと降ってきたのだ。
やはり、女子高生が「何かを投げた」ようには見えない。
暗器の類ではない。物理的な因果ではこの状況を説明しえない。
魔人能力。
認識によって世界を捻じ曲げる超常の力。
かまいたちを発生させるか、対象を断絶させるものか。
この女子高生の力は、おそらくそういった「斬撃」に属するものだろう。
切り落とされた枝、幹、葉といった落下物に追手たちが気を取られた、その時。
周囲から、無数の人影が押し寄せてきた。
抜け忍である女の知り合いでもない。
男が率いる追手の増援ではない。
第三勢力。――おそらくは、女子高生が引き連れてきた手勢。
身のこなしでわかる。忍者。
しかも、統率の取れた忍び里の精鋭たちだ。
してやられた。
これが、女子高生が、完璧な隠形、三無忍を体現できる技量をもちながら、あえてキーホルダーの金具がたてる音を隠しもしなかった理由。
あえて騒がしく近づくことで自分一人にのみ注意を引き付け、後に続く味方の隠形を完璧にするための囮となったのだ。
忍び同士の戦に、会話は不要。
何かを口にするならば、意味ある情報を求めるとき。
あるいは、言葉そのものが戦いの布石であるときのみ。
ならば、第一声のわざとらしく明るい大声も、突拍子もないギャル語も。
すべては、忍ばずして、味方の存在を隠すための布石。
不忍の、忍。
「っ!!」
次々と制圧されていく追手たち。
その中にありながら、追手の統率役であった男は、投げられる網を、縄を掻い潜り、抜け忍の女を目指して駆けた。
「なぜ! おまえは――! おまえばかり――!!!」
もはや敗北を悟ったからであろう。
忍びとしての術理に反して、吐き出すように叫ぶ。
分身めいた不規則な軌道で捕縛を避け、女に――そして彼女を庇う女子高生に、肉薄する。
「――今更、まともな、人間になど――おまえだけが――!!」
女子高生の動きが、わずかに鈍った。
「瞠目結舌……っ」
男の短刀が、女子高生忍者の手を掠め、赤い雫が白の肌に浮かぶ。
「……おっさんもかよう」
だが、そこまで。
まるで鋭い刀に断たれたように、短刀の切先が宙を舞った。
「廉頗負荊。妾が助けられんのは、抜け忍の人と、うちの社員だけだし」
女子高生の謝罪が、男の耳には届いたのか。
ぐらり、と姿勢を崩し、男が地面に倒れ込む。
その背後には、手にした杖で男を打ち据えた姿勢のまま残心する、白髪の老人がいた。
「お嬢様。まずは御身を第一に」
「感恩戴徳、爺や」
どこか寂しげに、女子高生は笑った。
【皆】
「うおおおおお、申し訳ございません、お嬢様あああああ、この爺が不甲斐ないばかりに! このような! お嬢様の玉の肌に傷を! 血を!」
「維摩一黙、爺や。無駄に血圧上昇でぶち倒れるとか笑えないし」
抜け忍の女は、かしましいやりとりを繰り返す老人と女子高生をぼんやりと眺めていた。
女子高生の名は、不忍池ぱりな。
老人の名は、白烏。
この女子高生、不忍池ぱりなは、かつて追い忍の里として名を馳せた、不忍池忍軍の、現棟梁だという。
古い忍び里でありながら、表の世界で興信所の資格を取って活動しつつ、忍び業界の離職トラブル――抜け忍の保護にあたっているのだと、ぱりなは言った。
「やっぱホワイト企業しか勝たん! この少子化で人材の使いつぶしとか朽木糞牆だし!」
そう力説するぱりなに、女は呆気にとられ、言葉を失った。
「忍者ってば、常識ひっくり返して活躍してきたしょ? なのに伝統とか慣習とかでブラック化って、わかりみ浅くてむしろ濡れんわ」
忍びとは、生き方だと思っていた。
そう生まれたら、そう死ななければならない。
そんな、不可避な宿業だとすら感じていた。
だから、抜け忍となることに、命すら賭けるつもりでいた。
半ば、第二の生を諦めていたのだとも言えるかもしれない。
「だから、『忍び里働き方改革』ってわけ!」
だが、忍者とて、人なのだ。
そのため、人として自然な感情を押し殺さずとも、よいのだ。
そう、この少女は主張している。そのように、世界を変えようとしている。
(なぜ! おまえは――! おまえばかり――!!!)
(――今更、まともな、人間に――)
(瞠目結舌……おっさんもかよう)
(廉頗負荊。妾が助けられんのは、抜け忍の人と、うちの社員だけだし)
あの時の不可解なやりとり、彼女が動きを鈍らせた理由も、合点がいった。
追手の男に、忍道の束縛から逃げようとする女を妬み、「まともな人間」への憧れがあったとするのならば。
それは本来、不忍池 ぱりなが救いたいと願う存在、そのものだったからだろう。
「うち――不忍池忍軍は、『ぱりなリサーチ事務所』として生まれ変わったの。おけ? サビ残休出一切なし! 福利厚生制度完備! 守秘義務の範囲内で離転職の自由も確保! 今は個人事業だけど、お金を集めて知名度上げて、夢はでっかく法人化だし!」
「でしたらお嬢様。社長を目指すならまずは、そのじぇいけい? ぎゃる? 言葉をおやめになってはいかがかと」
「忍装七方出の最後っていえばJKだし。忍者の正式服装でそ」
「……七方出の第七装は常形であって、JKではございませぬぞ……」
「妾らの年齢の正装は制服だし! 常形はJK! かしこま?」
忍び世界への宣戦布告にも等しいやりとりにも関わらず、そのあまりの牧歌的な様に、女はくすりと笑いを漏らした。
それを目ざとく見つけ、ぱりなはデコスマホを構えて女ににじりよる。
「あ、お姉さん、笑った! いいじゃんありじゃん羞月閉花ですわー。 友プ撮る? 入社の証明写真代わり!」
入社? 自分が? どこに?
戸惑う女に、ぱりなは、なれなれしく肩を組みながら答えた。
「決まってるじゃん。ぱりなリサーチ事務所は、経験者採用も大歓迎! おねーさんは後ろ盾が出来て追手から身を守れる。妾らは、ゼロから研修せずに優秀な人材をゲット! win-winってやつ!」
だが、自分のような外れものを匿っては、ぱりなの組織が迷惑を被るのではないか。
そんな懸念を先回りするように、白烏と名乗った翁が、からからと笑う。
「……お嬢様はすでに、貴女のような抜け忍を、何人も引き入れておりまする。心配御無用。我ら、不忍池の衆、生半可な追手に遅れを取る鍛え方はしておりませぬ故」
不忍池の忍び。
抜け忍狩りを本分とし、忍びの中でなお恐れられた最悪の忍びたち。
それが今、忍びの在り方を変えようと嘯くのか。
そんなことが、できると、本気で思っているというのか。
「本当に、できると、思っているのですか」
女は、ぱりなに問うた。
忍びという在り方がこの国に根差してから、長い時が過ぎた。
その間、変わらずにあり続けた因習を、宿業を、あなたは一代で覆せる気なのか、と。
その不躾な問いに、後見人であろう白烏翁は何も言わなかった。
おそらくは、彼もまた、少なからずそのような意見を持っているのだろう。
長く忍びの世界に身を置いているものほどに浮かび上がる、自然な疑問だ。
「当然!」
だが、不忍池ぱりなは、言葉に詰まることはない。
自然体の、どこか間違ったギャル口調で、それでも持論をためらうことなく口にする。
「妾の名前は不忍池ぱりな。守破離だなんてまどろっこしい。
守るの一字は蹴っ飛ばし、”破”りて”離”す革命の”名”の女だし!」
明らかに愚かな、それでも、永遠を信じたいと思わせる、真夏の夜の宴を思わせる言葉だった。
【陣】
タッグ名:ぱりなリサーチ事務所
構成メンバー:不忍池ぱりな(しのばずいけ・ぱりな)、白烏(しろがらす)
参戦目的:自社のPR及び経営資金の獲得
【烈】
少女は、どのような言葉も口にしなかった。
父の亡骸を前にして。それでも、目を逸らさなかった。
ただ、ひとしずく、頬を伝うものがあり。
そこに忍ぶ想いに、男は、彼女を守ると決めた。
自分の手に、その資格がないのだとしても。
命を賭してすら、己が許されることがないのだとしても。
【在】
「――御館様。お嬢様は、この爺が、何に代えてでも――」
【前】