─────君は上がるだけの私の足を地につけるファム・ファタール

 いつものように煙草に火を付ける。
 ゆっくりと吸い込んで吐き出していく、こんなものは呼吸と同じだ。
 吸い込むものに幾分かの成分が混じり合っているだけで。
 細切れの煙草の葉っぱ―――シャグのブレンドはいつも通りで、ラムとチョコの香りが不思議なフレーバーを生んでくれた。
 背の高い女、ガートルード・ビアリストックは考えている。
 なにがどうなってこうなっているのか、これからどうするのか。
 気だるげで生気のない目が真っすぐ一点を見つめている。
(……本当に、人生というものはままならない。シェイクスピアの筋書きなどいらないほどに)
 頭をかきむしってやりたい気分だった。
 さっきから煙草を持たない方の手でタクティカル・トマホークをいじくっている。
 それはまだ血に濡れていない。
 なのに彼女の前には二つの死体が並んでいて、まぶたを閉じ忘れて死んだ間抜けの瞳は天井や壁を見ていた。
「……」
 死体のそばにしゃがみ込んでいる女がいる。
 名前を問われれば八百九十九と名乗る。
 ガートルード・ビアリストックにとっての同僚であり、公的なパートナーでかり、なんとも言えない女だった。
 ガートルードからみて、この九十九という女は厄介で、直感的に相いれないと思えた相手だ。
 恐らく、相手も自分の事をそう思っているんだろうと内心であたりを付けていた。
 仕事に支障が出ない範囲で適当に、そう思っていたのだが。
 ───時は一年前に戻る。
 部屋には二人の女と一人の男がいた。
 その女の片方がガートルードであることは説明するまでもないだろう。
「私にあれを指導しろと?」
「そうだ」
「知らなかったなマルセル。うちがバビロン式のパブリックオフィスになってたなんて」
 白人の男、ガートルードの組織の幹部は彼女の言葉に薄ら笑いを浮かべていた。
「お前は暗殺チームの一員だ。夜にはびこる会社も同じようにチーム分けをしてる」
「他の奴らの顔も知らないのにチームだとは思えないね」
「そこのの顔は知ってる、問題はないだろう?」
 机に組んだ足を置く男はなんてことないように言葉を続ける。
 それがガートルードの神経を逆撫でることを知っていながらだ。
「ツクモ・ヤオ。はるか東の国からの客人だ。裏社会もポリティカル・コレクトネスの時代らしい。それに中国人のガキだって使いよう……」
「マルセル、そいつの名前は日本人の名前だ」
「知らなかったな、お前は思った以上に進んでいたらしい」
「人種や国籍はアイデンティティのひとつだ。日本人はそういう意識が薄いが」
「……だからなんだって言うんだ」
「いやなに、アイデンティティの意識が薄いものはこんな言葉が投げられる……『植民地生まれは皆罪人だ、泣いてマリア様のケツにキスをしろ』」
 それから「あぁ」と言葉を区切り。
「『お前はキリストのケツの方が好みだったか? グレイヴ・ディガーとお前らはよく似ている、なんせ穴を掘るのが大好きなんだから!』」
「いい加減その口を閉じねぇと脳天にクソの穴をもうひとつこさえることになるぞ」
 男の手に銃、女の手にはタトゥー。
 男が狙いを定め、女の手から火が吹き出す。
 お互いの攻撃が交差する、はずだった。
「やーめーてー」
 部屋の隅でそれを見ていた女、八百九十九がその場で跳ねた。
 次の瞬間、お互いの獲物がまっすぐ下に落ちた。
 ゴッ、と鈍い音が二つ机に到達して、女の火で木製のそれが焼け始めた。
「……喧嘩しちゃヤ〜」
 間の抜けたような声とあどけない笑顔でそんなことを言っている。
 なかなかに綺麗な発音の言葉だった。
「……君も魔人かい?」
 ガートルードは九十九の方に顔を向けた、その日初めてしっかりと彼女の顔を見た。
 九十九の視線もまたガートルードの方に向けられていた。
 黒い瞳、ガートルードの濁った目とは違って生気がある。
 なのにその奥が見えず、まるで夜の海を見つめているような気分にさせられる。
 黒い色のためだろうか、それとも彼女自身の性質なのか。
(これはなかなかどうして……日本人でこの目をするか)
 そんなガートルードの思案をよそに九十九は口元に弧を作って言葉を投げる。
「私は八百九十九、よろしくね」
「ガートルード・ビアリストック」
「綺麗なブロンドだね」
「……日本人はルッキズムが酷いと聞いたが真実らしい」
「大袈裟だなぁ……アナタが思うほど、世の中狭くないよ?」
「大袈裟や大仰は申し訳ないな、格式高いクイーンズ……いや、BBC式イングリッシュなものでね。君のは植民地言葉の英語かな、口が腐るぞ?」
 減らず口。
 机が燃え、男の右腕が焼けそうになってるのに気付いてガートルードの方から話を打ち切った。
「……とにかく、お前たちふたりには一緒に行動してもらう。アジア人はお前の家に住むことになってる。24/7で殺しを教えろ」
「……不承不承。行くぞツクモ」
 それから二人の共同生活が始まった。
 そこでガートルードが感じたのはどうしようもない二者間の差異だった。
「化粧をするのがお前の仕事か? 化粧品メーカーに営業でもかけてこい」
「甘味類で満たされる人生がお好みなのか?」
「私の家に男を連れ込んでファックしたら繋がったまます巻きにしてテムズ川に沈めてあげよう」
 ストレスも相まって彼女にはわざとそういう言葉を選んだ。
 そして彼女もまた同じだけの数の言葉を返した。
「可愛さの天井が見えた人は大変だね」
「流動食みたいな人生がお好みならあご砕いて病院に行くといいよ?」
「枯れ井戸に蜘蛛の巣かけた人の嫉妬は醜いなぁ」
 一触即発。
 お互いにいい加減慣れろと言いたくもなった。
 しかしそれでも決定的な決裂を迎えなかったのはお互いがお互いの性質を了解したことと、九十九の人懐っこさ。
 それからガートルードにとって二つの大きな好ましい点があったからだ。
「……素晴らしい」
 初めて九十九が暗殺を決行した日、ガートルードは現場でそう呟いた。
 訓練の時から思っていたが彼女には天性の才能があるように思えた。
 人を殺すことの忌避感が薄い、それは倫理観の薄さとも言い換えられる。
 愛らしく周囲に好意を振りまき、男を漁るために使われていた彼女の魅力は人の心の隙間に入り込むのに適していた。
 その日は酒場で標的に近付き、部屋に上がり込んで殺した。
 生まれたままの姿でいるを気にする素振りもなく、ベッドの上の下着に股がったままの九十九。
 返り血を浴び、硝煙が登る拳銃を握っていつものように口元に弧を描いて笑っていた。
 血濡れの手で髪をかきあげる姿は残酷なまでに美しく見えた。
 そして、もう一つ。
 殺しの才能よりもそちらの方がガートルードにとっては重要だった。
「一つ決めろ、そのうえでとことんこだわれ」
 ある日、ジントニックを傾けながら九十九にそう話したことがある。
「裏社会にいる人間は二種類。何もかもがどうでも良くなって自分をそこに捨てたものと、自ら選んでそこに飛び込んだものだ」
 前者と後者の間にある溝をガートルードは知っていた。
「流れやヤケクソでここに来るものは永遠に自分のケツを持てない。最後の最後で一線を超える決断が取るための哲学がないのだよ」
 ガートルード自身の生活、良くいえば削ぎ落とした、悪くいえば色味のない生活もそんなこだわりの上に成り立っていた。
 好んだものだけを選びとって零れたものを踏み締めて歩く。
 なんとなく、彼女にもそれを感じていた。
 毎月の頭に買い込む大量の飴。
 いつも同じブランドの同じ商品、ごく稀に新味なりなんなりが混じるが食べ終わる前に飽きが来てしまう。
 そういう時は大抵もじもじと恥ずかしそうに包み紙に一旦戻したり、近くにひっかけた男がいればその人に渡してしまう。
 いつもと違う、己と決めたものと違う事柄に対してどうしようもない違和感を抱いている。
 そしてその違和感を許容できずにいるからガートルードは彼女にはそう言ったのだ。
「じゃあ、アタシはカワイイにこだわる」
 さも当然。
 太陽は明日も昇り、しかもそれは東側から、それくらいの感覚の返答がやってきた。
「ふっ……あっはっはっはっは!」
 その時、ガートルードは初めて九十九の前で声を上げて笑った。
 腹を抱えるように、グラスからジントニックをこぼしそうになりながら。
 そうしてひとしきり笑ってから再びグラスに口をつける。
「いや悪い。そうかそうか、それが君か」
「そう、これが八百九十九だよ。ただ可愛くて綺麗で素敵な女の子」
「あと十年経ってもそれを言えるならもっと君のことを認められる気がするよ、キトゥン」
「アタシのあだ名?」
「あぁ、そう呼ぶことにする。仕事の時に本名で呼ぶのもなんだろう」
「キティーの方が可愛い」
 またそれだ。
 だが、それでいい。
 ガートルード・ビアリストックの持つ世界と八百九十九の持つ世界が違うもので一向に構わない。
 お互いの痛みを知らなくてもお互いを知ることは出来るのだから。
 理解することは出来るのだから。
 だから、二人の中は急速に縮まっていくこととなる。
「ガートルードさんのことはなんて呼べばいい?」
「メリージェーン」
 その日はクスクスと笑いあって夜を明かした。
 閑話休題、時は戻る。あるいは時が進んで。
 二人の女が二つの死体の前にいるあの夕暮れのところまで飛んで。
「どういうことだ……?」
 死体が死体になる前の肩書きは『組織の一員』であり二人からすれば仲間と捉えてもいい関係の者だ。
 その二人が死んでいる、正しくいえば殺されそうになったので殺した。
 連絡員としてよこされ仕事の内容を伝えるはずだったものが書類の代わりに拳銃を取りだしたのだから二人も多少驚いた。
 ただ、暗殺者は暗殺に内包される奇襲や騙し討ちを専門にするものでは無い。
 人を殺すことに長ける、だから二人は今も生きているのだ。
「ガートルードさん、こっちの方マルセルに連絡してからここに来てる」
「マルセル? マルセル・エルドガード?」
「うん……ほかのは……うーん? 知らない名前だなぁ」
「貸してみろ」
 死体の指でも指紋認証は可能らしい。
 いい時代だ、電子の鍵は力づくで開けることは出来ないが頭を捻ると同時に鍵を捻ることができる。
「ロックをスワイプだけにして両方とも拝借しろ」
「あい」
 その時、ガートルードの端末が振動する。
「取ってもらえるか? 右のポケットだ」
「……ボスから」
「手間が省ける。ハロー、ボス」
「ご気分どうかな、ガートルード」
「最悪だね、信じられるかい? 郵便局員が持ってきた小包の中身がわかるかな……TNTだよボス」
「残念なことに小包がTNTだったことを喜んだ方がいい。包みの中にいたのが悪魔でなかったんだからね」
「……ボス、その言葉の出処は君の喉でいいのかな?」
「端的に言おう、君たちに裏切りの疑いがあるとのことだ」
「……メッセンジャーは?」
「リヴァプールからの便箋」
「委細承知した」
 通話が切れる一瞬前、ガートルードは自分を見上げる九十九の視線に気付いた。
 いつかと同じ底の見えない目、口元には弧。
 餌を待つ雛、というよりはあまりにも。
 あまりにも人間的だ。
「ボス」
「なにかな、遺言以外は聞こう」
「九十九はどうする」
「現場判断でいい。他には?」
「動いてるのは頭か指か」
「指だね」
「ならいい……ポストコードはホテルかな?」
「悪いが六時間後には寝てしまうから気を付けて」
 通話が切れる。
 ガートルードは息を吐き、腹立たしげに死体を蹴った。
「ツクモ」
「なに?」
「私たちは裏切り者の汚名を付けられるらしい」
 特に驚いた様子はなかった。
 先程の会話の内容をある程度察していたのだろう。
「お前は」
「ガートルードさんと一緒」
 立ち上がった彼女はやはり人懐っこいような気の抜けたような、そんな顔でガートルードに向き合った。
「パートナーだから」
「……いい子だキトゥン。今から行くのはマルセルのオフィスだ」
 机の上に置いた車のキーを投げる。
 この家はもう捨てなければいけない、タトゥーが動き、火が吹き出して壁を焼く。
「なんでマルセル?」
「裏切りについての報告をしたのはマルセルだ。ボスに直接ものを言える人間でリヴァプールにいるのは彼だけだからね」
「オフィスにいるかな?」
「いるさ。マルセルはこれを皮切りに我々の元に悪党が大挙する……そらきた」
 九十九の持つ端末のひとつが動き出す。
 発信元はマルセルだ。
「この連絡への返事がなければマルセルのプランはBに切り替わる」
 発信が止まった。
 と、同時に二人は窓から外へと飛び出した。
 外には男たち、手には銃器。
 出るのが遅ければ家に鉛玉が飛び込むところだったろう。
 特にそれに驚くところはない。
 一、二、三……数は五人。
「練度の低い兵隊だ。キトゥン、片付けるぞ」
 初めに動いたのはガートルードだった。
 タクティカル・トマホークの一撃が敵の喉元にくい込み、血を吹き出させる。
 続いてそのまま手近なひとりへ。
 相手も銃を構えていたがその銃口が大きく下がる。
 九十九の魔人能力である。
 よける間もなく刃が叩き込まれ、血の泡を吹く。
 彼女の方はというとガートルードを止めようと狙ったものの頭部を正確に撃ち抜いていた。
「よそ見は禁物だ」
 ガートルードの斧が敵の手首を叩く。
 骨で刃が一旦止まり、また振り上がる。
 スイッチ。
 手の中で斧が回り、前方に向くのが刃からピックへと切り替わる。
 ピックが狙ったのは首、の後ろ。
 杭になっているそこをひっかけて動きを制御し、後ろへと相手を流す。
「キトゥン、手首だ」
「あい」
 たん、と足を踏み込めば能力が発動する。
 狙うは手首、両断し損なったそこへと力が入力される。
 蓄積された傷にピンポイントの力の入力。
 手首が不自然な形に曲がるのに時間はかからず。 
 痛みに動きを止めた男は次に狙われているのが自分の首だとは気付けなかった。
 死神の手は早い。
 ガートルードは背後から首筋に斧を叩きつけた。
 残るは一人。
 このタイミングで男は思い違いをした。
 この二人を相手にして連絡を取る時間があるなどという勘違い。
 一時退却が可能な状況という希望を見いだしてしまう楽観視。
「『壊れやすい恋(ゲット・ロウ)』」
 男は跪く。
「『可燃性の愛(ゲット・ハイ)』」
 そして、吹き出た火が顔を焼いた。
 悲鳴ひとつあげることが出来ず男は死んでいったのだ。
「……タイヤがやられてる」
「じゃあ、どうする? 歩いていくの?」
「そんなわけあるか、こいつらの車を拝借する。マスターキーはここにあるからな」
 斧に着いた血を蒸発させ、ガートルードは笑って見せた。

「ボスは頭じゃなく指が動いていると言っていたよ」
「それどういう意味? 口より手を動かせって……」
「……ボスなりの好意だ。今回の襲撃はボスの指示じゃあない、この問題についてはマルセルに一任してる」
 もう日も暮れて夜になった道に車を走らせながら言葉をかわす。
 こちらの車を尾行しているらしい車もちらほら見え始めた。
 いつ仕掛けるのか向こうも考えていることだろう。
 なのでまだ、刺激も攻撃もしない。
 襲う時は獣のように、処理は迅速に行われるべきだ。
 それがプロというものなのだから。
「ボスの通話が最後通知ではなく、あまつさえ私たちにマルセルが糸を引いていることを教えるためのものだとしたら」
「ボスってとっても優しい!」
「……それもそうだが、ボスはボスでマルセルに対して不信感があるんだろう。それが確かなら、これは暗殺の指示と同じだ」
 マルセルが自分たちを狙う理由が明らかになればその不信感も拭えるだろうか、それは分からない。
 しかしなにか自分たちのあずかり知らぬところで動きがある。
 それは知りすぎてはいけないことで一介の暗殺者が知るには重すぎることかもしれない。
 そうでなくても、今の彼女たちの最優先は事前に汚辱をそそぐということだ。
「キトゥン、シートベルト外したまえ。撃っていいよ」
「はいはーい」
 助手席の窓を開けて九十九が身を乗り出す。
 ぐにゃりと体を捻り、引き金が引かれる。
 二重関節、八百九十九の持つ体質の名前である。
 新体操や雑技団に必須ともいわれる体質で関節の可動域が人よりも広い。
 後天的な訓練によってさらにその範囲は広がるとされており、実際九十九の関節の可動域はかなり広い。
 そしてその柔らかな肉体は銃の反動の吸収に勝れているらしく、不自然や不完全な姿勢でも問題なく銃を扱える。
「ガートルードさんのくれた銃使いやすいね」
「君の体にあった銃だったのは幸運だね」
「オートクチュールだ」
「それはちょっと違うが?」
 合わせて作ったものでは無い。
「……あと何台?」
「いや、もう終わってる」
「いい子だ」
 ハンドルを切れば車は港の方のそばに入り込む。
 港湾都市であるリヴァプール、マルセルのオフィスはそんな土地の港のそばにある。
 彼が海の向こうから来たからだ。
「……『俺がルールだ(ディス・マイヤード)』」
 その声は二人の耳には届かないものだったが、そう唱えたことは理解できた。
 ガートルードが感じた違和感、車の制御がきいていない。
「アタシが止め……」
「違う、今ここでするべきなのはツクモ……」
 ハンドルを握っていない方の手でツクモの体を抱く。
 ハンドルを握っている手もすぐに離され、代わりにドアを開けた。
「この車を捨てることだ」
 二人同時に車から飛び出す。
 九十九の下敷きになるように落ちたガートルードは体を強かに打ち付けた。
 肺の中の空気が一気に放り出されるような錯覚と頭に急速に血が上る感覚、チカチカと明滅し頭痛を伴った苦しみが発露した。
「ガートルードさん……」
「状況を考えろ、抱きつくな……」
「そういうつもりじゃないけど……?」
 九十九が手に力を入れたのは意思表示だ。
 自分たちの敵が近くにいるという意思表示。
 事実、ガートルードも体を起こしてやっと確認することが出来た、宿敵がそこにいるということを。
「マルセル」
「よぉファッキン・ガールズ」
「手間が省けた、私たちを狙うのをやめろ。女に相手にされないからって酷いぞ君」
「そうだそうだーキモいぞ」
 九十九が銃を構え、引き金を引く。
 が、その弾丸はマルセルの体に命中しなかった。
「『俺がルールだ』」
 弾が不自然に曲がる。
 そしてブーメランのように旋回したかと思うと九十九の体に吸い込まれた。
「な……っ、あぁ……! ひぃ、うっ……!」
 どろりと赤い色が零れる。
 九十九の腹に空いた穴からだ、彼女の持つ熱そのものが流れ出ているのだ。
「悪いな、魔人能力だよ。俺の……」
 言葉が終わるよりも早くガートルードが斧が振るう。
 かわすマルセル、左の拳が肝臓を皮膚や筋肉の上から叩く。
「っ、君の指定した地点内にある道具の機能を制御する。だが……『こういう』機構を持たないのや人間は対象外、だろう?」
「よく知ってるな……だが、だからどうだという話だぜ」
 とん、と一方マルセルが離れる。
 両の手にはブラスナックル、金属製のそれが街灯の光を反射していた。
 マルセルは根っからのサディストであった、ブラスナックル越しに人の骨を砕き苦しませるのが好きな男なのだ。
「暗殺者殺しの夜になるぜ」
「言うじゃないか植民地生まれ」
「お前は俺の計画にハマって死ぬことになる」
 ぴくりとガートルードの片眉が上がる。
「やっぱりそうかい?」
「あぁ、組織の情報ってのはいい金になる」
 その言葉の後に彼は彼女たちの組織と敵対する組織の者の名を挙げた。
 なるほど、そうかそうかと首を振る。
 マルセルは忘れている。
 自分の敵が一人でないことを。
「……録音完了。やっぱり意識してない機械は制御出来ないみたいだね」
 クスクスと血溜まりを作りながら九十九が笑う。
 ガートルードは彼女の方を振り向くことも無く笑った。
 きっとそうしているだろうと思っていたからだ。
 この女は悪魔だ、天真爛漫さや愛らしさという子供のような姿の中に大人の強かさと苛烈さを持つ。
 甘いガスのような女だ。
「よく聞け植民地生まれ。君がリヴァプールを選んだのは運命だ。血は抗えないな、魂がこの土地に縛られている」
 サムズアップされた手、その親指がガートルードの首筋に当たる。
「分かるかい? この奴隷貿易の街は君の肌によく合うんだよ」
 立つ中指、殺しの時間が始まる。
「この街のポップスではなく我が街のパンクで教える『ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン』勝利の女神は我々のケツにキスをするのさ」
「……言ってろ組織の犬が」
 ぱたぱたとぬるい雨が降り始め、二人の獲物が交差する。
 状況は一進一退、お互いに致命傷となる一撃を受けずに攻撃をいなしあう。
 一撃の重みという意味ではガートルードの方に軍配が上がるものの、手数と蓄積出来る痛みの強さという意味ではマルセルに軍配が上がる。
 打て、殺せ、斬れ、殺せ、刺せ、殺せ。
 目の前の人間を肉の塊に変えてやろう、21gなどとケチくさいことも言わず血も肉も骨も皮も全部、髪の毛も歯も預金残高もすべて無に返して差し上げよう。
「ツクモ」
 そう呟くが早いかマルセルの放ったアッパーの速度が落ちる。
 首に向かうタクティカル・トマホーク、これでチェックメイトか、そう思われた。
 が、そうもいかぬ理由がある。
「!」
 捉えた。
 マルセルの奥、街灯のそばにいつの間にかいる人影。
 その手には大きなカバンがあり、その口を閉じる金具が光った。
「『壊れやすい恋』!」
 ガートルードの膝が折れる。
 頭の位置が低くなり、さきほどまでガートルードの頭部のあった位置に何かが通過する。
(弾丸……!)
 少し掠めたか熱いものが頭からにじんで顔に落ちてきていた。
「紹介しておいてやるぜ、やつはドジソン。お前らと同じ暗殺チームだが……お前、チームのやつの顔も知らないんだってな」
 また金具が光る、弾丸が来る。
(まずいぞ、今の状況は非常にまずい!)
 マルセルの『俺がルールだ』が発動する、すでに発射のタイミングに合わせて機能している。
 不可解なほどの軌道を描いてガートルードと九十九の体に弾丸が命中する。
「ツクモ!」
「だ、じょ……!」
 退却はない、だが一度立て直さねばずるずると相手の攻勢が続く。
 その先にあるもののことなど考えたくもない。
 ドジソンがカバンを捨てた。
 次の瞬間、その手は地面に触れる。
「……アラベスク文様」
 地面に模様が浮かぶ、絨毯に描かれるようなそれであった。
 ……次に訪れたのは地面の揺らぎ、地震というよりもその模様の浮かんだ場所だけがずれたような感覚、思わずガートルードの体勢が崩れた。
「……所詮、この程度だ」
 腹に打ち込まれる拳、臓器そのものが上にせり上がった。
 ガートルードの体が浮き上がり、口からは上がってきた中身が放出される。
 それでも意識も武器も手放さなかったのは喜ぶべきことだっただろう。
 次の瞬間、九十九もガートルードを同じように吹っ飛んだのだから。
 先ほどよりも強い地面の違和感。
 まるでテーブルクロスをひっくり返したかのような、それこそ絨毯をそのままはぎ取られたような。
 地面の表面が薄い布のようになって浮き上がり、そのままガートルードたちを横に飛ばしてしまったのだ。
 海に落ちなかっただけよかったものの、二人は海端のパブまで転がっていく。
 ドジソンがまたカバンを拾い上げる。
 また銃弾がくる。
「ツクモ!」
 彼女の体を引っ張って中に転がり込むのが早いか店内に銃弾が叩き込まれた。
 中にいた無関係な客や店員は犠牲になる。
 が、それを気にするものはそこにいなかった。
 長い長い掃射が続く、敵はガートルードや九十九のことなど見てはいなかった。
 砕ける棚の酒瓶、机のグラス、椅子やカウンターが砕けていくのを耳で感じながらそれでもガートルードは九十九を引っ張っていく。
 彼女を死なせるわけにはいかないと本能が叫んでいた。
 敵がこちらに来るのを少しでも遅らせるために反撃する振りをして店に火を付けた。
 ゆっくりと店内が火に包まれていくものの、ガートルードは店内のトイレにまで到達した。
「生きてるかい?」
「……なん、と……か……」
 息も絶え絶えといった雰囲気である。
 九十九の体に弾丸が打ち込まれてそれなりの時間が経っていた。
「……銃弾を取り出して傷口を焼き潰す。我慢してくれ」
 指先に火、彼女の傷口に触れる。
 それが正しいのかは分からない、それでもただそうすべきと思ったから。
「いたい……いた、い……!」
「あまり大きな声を出すな……服でも噛んでいてくれ」
 言うが早いか肩に噛みつかれた。
 布越しに彼女の歯が当たる、肉に突き刺さるのではないかと思うほどの力だ。
 ガートルードの首を抱くように必死に腕を回し、九十九は生にしがみついている。
「いい子だ」
 ただ、ガートルードはそう言うしかなかった。
「なぁツクモ、お前もう日本に……」
「……あいつら殺そう」
 肩から歯が離れる。
 九十九は笑っていた、いつものように底の見えない目と弧を描いた口元で。
 殺そう、と確かめるようにもう一度。
「きっと、楽しいよ。すっごく素敵できゅんってしちゃう」
 するりと自分の体に触れる手の位置が変わっていく。
 気付けばガートルードが九十九を見上げている。
「ガートルードさん、アタシ頑張るから見てて」
 体に穴を開けられて血を流してもなおもそういう。
 子供のように無邪気に笑い、大人のように淫靡に笑う。
 終末を背にしてもなお強がるわけでもなく、当然のように普段通りに。
 その時になってガートルードはやっと理解した。
 あの日、初めて九十九が仕事をこなした日のことだ。
 血に濡れる彼女を美しいとすら思えた理由を理解した。
 ニュートンも知らない引力の存在を承知したのである。
「……あぁ、殺そう。そのためにはやるべきことがある」
 自身の武器である斧を彼女に渡し、自分が拳銃を受け取る。
 元はと言えば銃はガートルードのものだ。
(まったく、一瞬でも逃がしてやろうなどと思ったのは焼きが回った証拠か)
 この女を離すつもりなんて毛頭ない。
 八百九十九といればガートルード・ビアリストックは滅びないのだから。
「そうだ、録音したやつボスに送る?」
 トイレの水道で口をゆすいでいる時にそう告げられて首を横に振る。
 マルセルの能力はその機械の作動を意識している時に限られる。
 今ならばボスの元に裏切りの証拠を送ることが出来る。
 なのだが、いまのマルセルはドジソンの攻撃の補助に能力を使用している。
 もしも能力の効果範囲内の機械の動作を認識し、操作することが出来たなら音声データの消去を行われる可能性がある。
 九十九のスマートフォンに音声データが残っているのを考えるとあくまで誰かの操作を上書きするような特性があるのかもしれない。
 トイレの中に煙が流れ込んできた、そろそろ出ないといけないだろう。
 ガートルードはタバコに火をつけた。
「ガートルードさん」
「ん?」 
「一本ちょうだい」
「体に悪いぞ」
「もしも今日死ぬんだとしたら、最期くらい不健康なことしたくて」
 ケースから手巻きのタバコを一つ取り出して渡す。
 作法なども分からない九十九は機嫌良さそうに自分がくわえた煙草の先端をガートルードのタバコに当てた。
「? あれ……」
「ドラマの見過ぎだ……いいかい……」
 吸い方を教えてもう一度、今度はガートルードの方から。
 ラムとチョコレートの香りが外からの煙と混ざる。
「マルセルを抑えろ、あのクソは私が殺そう」
「分かった、他には?」
「マルセルを私の100インチ以内に」
「ヤード・ポンド法は国際条約で禁止されてまーす」
 無遠慮に九十九の足がトイレの戸を蹴り破る。
 フロアは既に火の海でお互いに口を塞いで出ていった。
 目の前には敵が二人。
 予定通り九十九はマルセルに、ガートルードはドジソンの方へ。
「アジア人、お前は今なら許してやってもいい。俺が呼び出した時に好きにファックさせるならな」
「やだ、全然きゅんってしないもん。顔も性格も悪いし。おつー」
「死ね」
 マルセルがステップを踏んで距離を詰める。
 先制のジャブ、問題なく命中。
 そして本命のストレートを顎に向かって放つ……のだが。
「……!」
 腕が下がる、九十九の能力が発動している。
 そして踏み込みが行われたということは近距離戦ではそれ相応の意味を持つ。
 九十九のタクティカル・トマホークがマルセルの肩に打ち込まれた。
 ガートルード程上手くはやれない。
 肩の骨に刃が止められた、使うべきはピックの方だった。
 しかし悪くは無い、十分戦える。
 そもそもガートルードから教えられたのは銃の扱い方だけではない、人の殺し方を教えられたのだ。
「こちらはこちらでやろうか、デスペラードくん?」
「『ルイスのキャロル』……鞄銃」
 再びカバンの金具が光る。
 そこに現れたのは銃口、だがガートルードも無策ではない。
 一瞬のうちに火を吹き出させ金具を溶かしてしまったのだから。
「……二つのものの特性を合わせる、かな? 機構や機能の可能性もあるけど」
 ガートルードのプロだ。
 暗殺対象に魔人がいたことだってあるのだから、これくらいの観察と考察はできる。
「分かったから……なんだと……」
「手品が分かったなら手品はただの子供だましだよ」
 引き金を引く、鞄がドジソンの顔の前。
 硬い音ともに銃弾が鞄の上で止まる。
 が、それで終わらせるガートルードでは無い。
「硬く柔らか……硬らかってとこかな?」
 一撃、鞄ごと相手の顔を蹴りつける。
 靴越しに伝わる感触はぬいぐるみを踏んづけたかのようで、その性質を理解する。
 鞄を蹴る足が離れる、ガートルードの体が宙で回る。
 うつ伏せに倒れて狙いを定め遠慮なく引き金を引けば相手の膝に赤い花が咲く。
「ビンゴ」
 マルセルは九十九に気を取られて能力の発動が遅れている。
 一度放たれた弾丸は操作できないのならこちらに利があるだろう。
(ツクモが殺されるとは思わないが、負担はお互いに軽くあるべきだ『壊れやすい恋』の恩恵を受けられない……あれに頼りきりということもないけど、なるべく早期に終わらせる)
 タトゥーがガートルードの体表上を動く、今は二つとも腹の辺りに。
 ボンっ、と二つの火が爆発しガートルードの体を浮き上がらせ半ば自動的に体勢を立て直ささた。
(銃を使うのは決め所だけだ)
 一方の九十九はまだマルセルに有効な一手を加えられていない。
 タクティカル・トマホークとブラスナックルの闘争、この状況を作っているのはお互いの武器の相性や九十九の未熟のせいではなく、マルセルの技術ゆえだ。
 並大抵の相手ならばガートルードの訓練を受けた九十九が遅れをとるとも考えにくい。
 もっと言えば、マルセルの能力は九十九に影響しないのに対し九十九の能力はマルセルに影響する。
 その有利があってもなお、膠着が続いているのだ。
「ミエミエだぜ中国人!」
「日本人!」
 踏み込みを起点に発動する以上、足運びに注意することである程度の予測はできる。
 打ち出す拳を落とす圧力を誘い、本命を叩き込むのだ。
「ぎ……ぅ」
 横振りの一撃が九十九の頬を叩く。
 深く拳がめり込み骨を砕いた。
 赤黒く染まる肌、それでもなお目の色と口元の笑みは変わらず。
「ははぁ……!」
「フリークが」
 九十九はマルセルにへばりつくように戦う。
 煙が払われてもまた空間に満ちてまとわりつくように、九十九はマルセルから離れない。
 ガートルードに任せられた、他でもないガートルード・ビアリストックにだ。
 良いところを見せると言ったのだ、だから絶対に折れないし曲げない。
「……」
 マルセルと九十九、ドジソンとガートルード、お互いがお互いに様子を確認した。
 それが詰めの合図だった。
「『壊れやすい恋』」
 九十九は斧を振り上げて『壊れやすい恋』を発動、加速をつけて斧を振り下ろす。
「……あの世で流動食しか食えなくしておいてやる」
 マルセルはそれを見た上でさらに深くステップイン、顎に向かって拳を打ち込みにかかる。
「爆ぜ蠢く……爆ぜめく」
 ドジソンはカバンの中に入っていた小さなブリキの玩具を投げた、それがひとりでに動き出す。
「『可燃性の愛』」
 ガートルードは火に濡れた拳をドジソンの顔に向かって伸ばす。
 命をかけた一撃の交差。
 到達したのはドジソンとマルセル。
 ガートルードの腹部のそばで玩具が爆ぜて肉と皮と血とをグチャグチャにして弾き飛ばす。
 マルセルの下から打ち上げるような拳は九十九の顎を射抜きその体を後ろに仰け反らせた。
 だが、無傷ではすまなかった。
「んんんむううううううう!」
 口と鼻が火に焼かれる、呼吸をするための穴は顔から失われる。
 ついでとでも言うようにガートルードの指が目の中に吸い込まれていきドジソンの世界は闇に閉じられた。
 いずれ死ぬ人間どものうち一番目に死んだのはこの新顔のドジソンだった。
 マルセルもまた、先程と同じ位置に今度はタクティカル・トマホークの刃が突き立てられる。
 九十九は倒れながらも能力を維持する。
 刃がどんどんと食い込み、その骨ごと両断せんと圧をかけているのだ。
「……このガキ」
「私のパートナーに……!」
 マルセル相手に銃は使えない。
 近付こうとガートルードは足の裏から爆発を生み出して進むが、ドジソンから受けた痛みはアドレナリンでも消しきれず体を地面に預けた。
 それを見て男は笑う。
 勝利を確信した。
「……仲良くあの世に送っておいてやる、俺が組織を食い終わったらそれなりの墓を立ててやるさ」
「……お前は分かっていない。その子は……」
 朦朧とする意識の中でガートルードが言葉を発する、それはマルセルの言葉に返すための言葉というよりも自分自身に確認するような声色で。
「私のパートナーは……小包に入る悪魔だ」
 マルセルは肩の斧を取り除くよりも先に九十九を除くことを選んだ。
 ゆっくりと近づき、拳を振り上げ。
 そして、見た。
 九十九の顔を、その目を。
 相変わらず笑みを浮かべる真性の悪性を見たのだ。
 生まれながらの歪み、この女の性根の底を覗いてしまった。
 一瞬の体の硬直、それを見逃さず。
「『壊れやすい恋』」
 八百九十九の足は二本あった。
 片方は斧に対して使うもの、もう片方はマルセルの頭に。
「お辞儀をして、私の女王様が通るんだから」
 ね、と視線をガートルードに向けた。
 彼女も九十九を見ていた、だがそれは心配や不安があったからでは無い。
 きっと成し遂げると信じていたからだ。
 ガートルード後からだけでは届かなかった。
 爆発の推進力だけではあと一歩。
 だが九十九の一手がその背を押し確かに近付けた。
 ……押されたのはマルセルの背だったが。
 ともかく崖っぷちギリギリの際の背を確かに。
「良いとこ見せたでしょ?」
「100インチ」
 およそ8フィートと3インチ、国際基準におけるおよそ2.5メートル。
「ねぇ、ガートルード」
「ファースト・ジョイント」
 右手人差し指の第一関節にガートルードの二つのタトゥーが集まる。
 絡み合う二匹の龍のように巻きついて指を黒く染めていく。
「今度は貴方の番」
「ワンス・イグニッション!」
 爆ぜた。
 ガートルードの火は発現する体表の範囲を広げれば広げるほど威力が弱くなったり、射程が狭くなる。
 水鉄砲は口が小さい方がよく飛ぶ。
 それゆえ、発現場所を第一関節に限り、さらに二つのタトゥーを一度の攻撃に使用することで火力と射程の両立を図る。
 マルセルを殺す銃は機械ではなくこの体ひとつ。
 重なった火は炎となり、その色も赤から青、白へと変わる。
 皮を肉を骨をその奥にある脳すらも焼き切るバーナーだ。
「……あ」
 脳を射抜かれ、マルセルの体が落ちていく。
 それを見届け、ガートルードも瞼を下ろした。
 が、すぐに開かされることになる。
 体が起こされる感覚、それに伴って起こる痛み。
 九十九が自分の体を抱いている。
「ガートルード……! かっこよかった! すごくて、キラキラしてて、それで……キュンってした!」
「君のおかげだよ、君がいたからだ。やっぱりそうだった、君はファム・ファタールだったんだ。誰もを破滅に追い込む女神だった」
 途切れ途切れの意識の中話す言葉は噛み合わなかったけれどそれでも二人の心は満たされていた。
「貴方は破滅しないよ、アタシがさせないもん!」
「君は私のかけがえのないパートナーで、素敵なお姫様だ」
「大好きガートルード!」
「離さないよツクモ」
 脳内物質のトリップによって生まれる快楽と高揚感、それにつられて吐き出される狂ったような笑い声。
 それをリヴァプールの海風がさらっていくのだ。
 きっとこの喜びは海の向こうの国にも届くのだろう。

 気付けば二人がいたのはホテルの一室で、一体どうやってそこにたどり着いたのかは分からないが報告やらなにやらはもう既に終えてしまったらしい。
 組織のものの能力で治療を受けてはいるものの必要最低限だった。
「ご苦労だったね、この部屋は明後日まで君たちが使っていい。料金はこちらで持つことになってるからルームサービスでもなんでも好きに使うといい」
「……ツクモ、ボスが話してる顔を上げろ」
「いま可愛くない顔してるからヤだ」
 その頃にはもうとっくにいつもの二人に戻っていた。
 九十九は深く椅子に腰かけ、解いた髪で顔を隠していた。
 頬骨が折れたのを気にしているらしい。
「僕は構わないよガートルード」
「いや、ボスそういうのは良くない。まったく……この国とこの仕事のやり方を覚えたと思ったが日本由来のルッキズムは抜けてないらしい」
 頭に手を置いて顔を上げさせようとすると無言で反抗される。
 能力を使われた手が重たい。
「お前の可愛さは外面だけの事じゃない、魂が可愛いんだから気にするな」
 効果てきめん。
 明るい顔がガートルードの方を向いた。
「……まるで魔法だな。ここまで君に懐くとは」
「……ん? いや、待ってくれボス。これは別に変なことはなくだね」
「いや構わないよ……席を外す。今回の報酬についてはまた……」
 ボスが部屋を出る、ガートルードの視線がそれを追いかけていた。
「……ツクモ」
「怒られることした?」
「いや、いい……それと」
「?」
「私のことは今後ガートルードさんではなく、ガートと呼ぶように」
 それは彼女の愛称でそれを呼ぶのは家族だけだ。
 その呼び名を彼女に教え、許した。
「……じゃあアタシもアタシの話しようかな」
「ん?」
「ガートちゃんだけだとフェアじゃないし」
 別にいいがと言ったが相手がそれを許さなかった。
「八百九十九って本名じゃないの」
「は?」
「これ偽名」
 そういえば彼女のパスポートなどを見た事がない。
 いや、見たとしてもそれは組織が作った偽物だろう。
「……マジ?」
「あはは、いつもの英語じゃなくなったー」
「ん、んん……で、君の本名を教えてくれるのかな?」
「うん」
「なんで急にそんなことを言うんだい?」
「アタシを離さないとガートちゃんが言ったから、アタシもガートちゃんを離さないように」
 自分が引き金を引いていたらしい。
 まぁ、それでもいいかと思っている自分がいるのも分かっているのだけれど。
「アタシの名前はね───」
 その名前を聞いてガートルードは頷いた。
「そうか……やっと、君に出会えたんだな」
「うん、よろしくねガートちゃん」
 この日、二人のこだわりに追加があった。
 ガートルード・ビアリストックは八百九十九にこだわり、八百九十九はガートルード・ビアリストックにこだわることとなったのだ。

 それから時が経ち、二人は日本のホテルのベッドに寝転んでいた。
 九十九からすれば生まれた国に帰ってきた訳だが特に感慨深い様子はない。
 それよりも疲れた顔をしたガートルードに絡むほうが大事らしい。
 つまりいつも通りだ。
「ねーどっか遊びに行こーよー」
「ファーストクラスとはいえイギリスから日本は十二時間のフライトなんだ休ませて欲しい……」
「さっきからそればっかり……ガートとゃんアタシのこと好きじゃないんだ」
「そんな言い方しないでくれよキトゥン。なんのために指輪を……君、指輪はどうした?」
「旅行カバンの中」
 九十九の手を握ったガートルードの目が開かれる。
「なんで付けない! 付けてないと君はムラムラと人を誘いたくなるだろう!」
「人のことサキュバスみたいに言わないで」
「サキュバスの方がまだマシだ!」
 カバンをひっくり返そうと思ったあたりで九十九が体にまとわりついてくる。
「ねぇ、ガートちゃん遊びに行こうよーご飯も食べたいしさ、まだお昼だよ? お寿司食べよ」
「……君なぁ」
 そうやってズルズルと引きずり込まれていつもの彼女のペースになる。
 底の見えない目と弧を描く口元。
 もう何度も見つめてきた表情だ。
「仕方ないな……」
 ふたつの影が絡み合う、そろそろ外に出ないとと思っていてもなかなかそうもいかない。
 こんなことをするために日本に来た訳では無いのだが。
 きっかけは九十九が言い出したことだ。
 最強のふたりを決めるなら自分たちが出ないでどうすると。
 『殺し屋に休みはない。仕事があるかないかだけである』というのがガートルードの言い分だが九十九が手を回して休みを取り付けてしまった。
 大会に出るついでに日本観光だ。
「勝てるかな」
「地元負け知らずが泣いて帰る、なんていうのはよくある話さ」
 そうは言うがお互いがお互いのために勝ちたいのも確かだ。
「寿司を食いに行くか……」
「わーい」
「……そういえば君はこの街の生まれか?」
「んーん、生まれは関西だよ」
「育ちは?」
「新宿の歌舞伎町」
「住んでたのは」
「渋谷」
「……君は原宿ガールだと思ってたのに」
 にやにやとした笑みが返される。
「なんで?」
「あそこはカワイイの街じゃないのか?」
「ふふー」
 ガートルード・ビアリストックと八百九十九、『アップダウンコネクション・フロム・ロンドン』の戦いは緩やかに始まるのだった。

─────アナタは落ちるだけのアタシを上げるメリージェーン。
最終更新:2021年04月25日 13:08