窓のない、狭い会議室で赤ワインを飲む黒髪ポニーテールの女がいた。
四角いミーティングテーブルとパイプ椅子二脚が置かれただけの簡素な部屋には、不釣り合いな女だった。
足を組み、ワイングラスを揺らしているその女は金色の瞳をしていた。
彼女はグラスを持つ側とは逆の手にスマートフォンを持ち、通話をしている。
黄色いスマートフォンのスピーカーから、素朴で美しい声が聞こえてきた。
『確認したいんだけど、ニアヴ』
「あーは」
『私はあなたと組むしかないの?』
「そうだ」
『でもあなたは私が見えない』
「悪属性だからな。天使が見えないなぞ当然だろう」
金眼の女、ニアヴには向かいのパイプ椅子に座るワンピースの少女が見えていなかった。
もしもこの部屋に善人がいれば見えただろう。
短く白い髪に、蒼い瞳。きめ細やかで美しい肌。背中に括られた白銀の剣。手に持った青いスマートフォン。
最後に、背中から生えた穢れなき天使の羽根。そのすべてを備えた一人の少女に感銘を受けたはずだ。
だが、ニアヴには見えない。
なぜならば。
『悪属性どころではないでしょう。それに、そもそも、ニアヴあなた、悪魔じゃない!』
「そうだ。本物の*クソ*悪魔が天使トレエ・A・ハートの相方というわけだ。あぁはははは!」
トレエが天使であるように、ニアヴは悪魔だった。
比喩でもなんでもなく、彼女たちは天使と悪魔である。
善を悪を象徴する、不滅の、超常的存在。
神話的敵対者だ。
あまりに馬鹿げた邂逅に、悪魔ニアヴはのたうつように爆笑している。
対してトレエは、悍ましいものと直面したようにニアヴを睨みつけていた。
ニアヴ・E・ブレインとトレエ・A・ハート。
のちに【現世からの余り物】タッグと称することになる、このチーム最初の敵は互いのパートナーだった。
それは、このタッグが最弱以下の、参戦すら危うい状態であることを意味していた。
彼女たちが即座に殺し合いにならないのは理由がある。
その理由は会議室の外、廊下にある立て札に書かれていた。
≪炎のパートナーマッチング≫。
彼女たちの現状そのものが、彼女たちの決裂を防いでいた。
≪炎のパートナーマッチング≫とは、タッグバトルだと言っているのに火で参加しようとする
アホ……ボッチ……いや勇者たちに実施された救済策だ。
一人で参加申請をした勇者たちそれぞれにマッチングを行い、タッグを組ませることで選手に仕立て上げる。
イグニッション・ユニオン大会運営による、一種のパートナー斡旋だった。
つまり≪炎のパートナーマッチング≫に参加しているニアヴとトレエには、一人ででも大会に参加する目的がある。
さらに、切実な事情もあった。
≪炎のパートナーマッチング≫を続けるのは、もはやニアヴとトレエだけなのだ。
他の勇者は全員組み終わったか棄権している。
相手が悪魔/天使だからと跳ね除けるわけにはいかなかった。
……今日は大会前日の夕方である。
選り好みしている場合ではなかった。
あらゆる意味でギリギリで最後のチャンスだった。
ニアヴはグラスの中のワインを一気飲みすると、スマホを介して見えない天使に言う。
「まぁ落ち着けよ天使トレエ。いやハート。もはや選択肢はない。建設的な話をしよう。
お互いの条件をすり合わせようじゃないか」
『……いいわ。条件とは?』
「いろいろだ。動機とか。……私の動機は血沸き肉躍る殺し合い。そして幾ばくかの金だ。シンプルだろう?」
『何か悍ましい企みはないの?』
「ないよ。悪魔がいつも邪悪な計画を練っているとは限らない。今回は被害者さ。
……余り物には福がある、という慣用句を元人間として素朴に信じていたのだが、それも今日までになりそうだ」
最後の一言だけはひどく真面目な、憤慨した口調だった。
しかしニアヴはすぐにころっと表情を変えて、今度はニヤニヤと笑う。。
トレエにはニアヴが何を考えているかよくわからなかった。
不気味に感じつつも、天使は会話を続ける。
『私の、参戦動機ね。一言でいえば使命よ』
「ふーん、これは世界を左右しない戦いだぞ?」
『そして人々を救いもしないわ。でも、今は言葉にできなくても感じるの。
私が大会に参加して、優勝すれば善いことがあるって。
ほら、私は頑張るには充分な理由でしょ?』
「使命、使命か」
天使の使命とは、一種の天啓である。
具体的な根拠も明確な確証もなく、天使はときおり直感するのだ。
これを行えば善いことがある、と。
定命の者には理解できなくとも、その直感は正しく。
ゆえに天使はその天啓を使命と呼び、実現のために邁進する。
ニアヴは悪魔としてそれを知っていた。
元人間としては、何言ってんだこいつ? という印象は拭えないが。
『私は引くわけにはいかないわ。その、悪魔に嫌悪感はあるけどね。
でもこれは公平な闘技大会なわけだし。最善を尽くすには天使も悪魔も、人間も変わらないこととは思っているわ』
ニアヴは邪悪に喉で笑う。トレエは、この悪魔と組む意欲が激減していった。
それはニアヴも同じだった。
老獪な天使は、誠実さをあえて狡猾に活かす。
そして隙のない導き手となり、戦士となるのだ。
だがニアヴは、この会話でほぼ完璧にトレエの来歴を見抜いた。
「(ハートはもしかしたら生後一桁かもしれないレベルの、新米天使だ。間違いない)」
善属性であれば善行しかせず、悪属性であれば悪行しかしないと。
完全な善でも悪でもない、人間という生き物だって最善を追うことぐらいはできるだろうと。
そう思い込んでいるどうしようもない甘ちゃんだった。
ある程度笑ってから、溜息を吐いてニアヴは言った。
「使命なら他の天使はどうした。わざわざ相性最悪の悪魔と組まんでもいいだろう」
天使という生き物は、何事であろうと善きことに繋がると感じれば自己犠牲を厭わない。
同じ天使が使命を得たならば、善意を以て全力で協力するのが、種族単位で当然なのだ。
新米天使が初めて得た天啓だろうと、使命は使命。
だからトレエが一人だけで使命を果たしに来ているのは妙な話だった。
『その使命は、天使は私一人じゃないと意味がないのよ』
「なぜだ?」
『そう感じるの。天使長にも相談したけど、ならば一人で行くべきだって言われたわ。
使命は信じるものだって』
「ああはいはい。なんかこう定命の者には理解できない深遠なアレな」
ニアヴは使命について問い質すのをやめて、流した。
人間の感覚がバリバリ残っているニアヴからすれば、どう聞いてもクソカルト電波話である。
いや天使の生態から考えると後から辻褄が合うのだろうが。
『……本当は善き人間と組むつもりだったのよ。
でも、みんな私のことがよくわからないからって断って……同じ善に属する者同士なのにどうして?』
「どうしてって……」
まったく面識のない羽根の生えた不審な化け物に、
[私の直感だと私が勝つといいことがあるの。だから私と一緒に見世物になって殺し合いして]
と頼まれた。どうする?
……それで快諾するのは同じ天使か、天使並みの極善バカだけだ。
属性が善であれば、自分の都合を一切放棄して、特に確証もない善という概念に身を捧げるのが当然だとでも思っているのだろうか。
だがニアヴは突っ込まない。使命について、この天使は譲歩しないのはわかりきっているからだ。
「まぁ、理解はした。ホントだぞ? とりあえず利害は対立していないようだ」
『そうね。使命は果たしたいし、悪魔の討伐を少し待つこともできるわ』
話はまとまった。
「じゃあ組もうじゃないか――私は天使を認めるぞ。トレエ・A・ハート」
『でも組んだとしても――私は悪魔を認めないわ。ニアヴ・E・ブレイン』
ニアヴは手慰みに持っていた空のグラスを握りつぶした。
……訂正。まとまっていなかった。
「あーもう、この頭の固いビッチめ!」
『ビッ――何?』
「大会は2対2だよな? 3対1じゃないよな? さしもの私も
3人に責められっぱなしじゃ身体が持つかわからないぞ。あぁははは!」
ニアヴは向かいの席に座っているだろう、不可視の天使を歪んだ目つきで見据える。
悪魔はスマホのマイクに煽るように語り掛けた。
「ちゃんと、協力するしかないんだよ、天使ちゃん」
『……天使は悪を、悪と知りながら協力してはならないのよ』
「使命! 使命! 私を認めないで組むなんて無理筋!」
『う、うう……』
「使命放棄しちゃう天使の名前はなんて言うのかなー?」
『あ、あなたこそなぜ他の悪魔と組んでこなかったのかしら!? その悪しき性格のせい!?』
「悪しき性格を忌避する悪魔なんぞいるわけねぇだろ。私が孤高だからだが?」
地獄の帝王との直接契約で悪魔に転生したニアヴは地獄で浮いた存在だ。
忌避こそされてはいないが、背後にいる帝王の影で完全に恐れられている。
だから彼女は、適当な悪魔を相棒にして参加するのは最初から諦めていた。
別にコネを使って他の悪魔を無理やり下僕にすることが嫌なわけでもないのだが
(虎の威を借りる狐を全身全霊で実行するのが悪魔という生き物である)。
ニアヴは闘争を愉しみにきているのだ。
虐げられることに怯えて、腑抜けた面した奴を仲間にして暴れても全然楽しくない。
「あとは、そうだな。私が一人で参戦するしかなかったのは、
賞金を独り占めするつもりしかないあたりが影響してるのかもしれんな」
『呆れた。強欲の罪に塗れているわね』
「ならいるか? ハート。賞金。使い道ないだろ。現世に身体ないし。私は自前のがあるが』
『それは、そうなんだけど……』
「都合が一致してるなぁ。いやぁ、運がいい! そんな巡り合わせを粗末にする天使に教えてあげたいところだ」
ニアヴの言い方は腹立たしいものだったが、正しい部分もあった。
トレエは己の心に問いかけ、覚悟を決めることにした。
『決めたわ。私はあなたと”ちゃんと”協力しましょう。勝つために最善を尽くし、助け合いもしましょう』
「あーは」
『その上で! ……いい? 私は、あなたを、ニアヴを、改心させるわ』
「………なんだって?」
『元人間なのよね。なら、その魂は悪に染まっていても、悪だけで構成されているのではない。
人間なら、改悛の余地があると思うの。慈悲と導きにおいて、悪に改心を促すのは天使の立派な責務なのよ!』
「という言い訳か?」
『私は言い訳なんて虚飾の罪に塗れてはいないわ。本気よ』
「ニアヴ・E・ブレインが帝王様を裏切る……? ありえないな。考えたこともない。だが、その徒労の建前が必要なら仕方がないか」
『嘘じゃないって言ってるでしょう。もう』
これがトレエのできる最大限の譲歩であることはニアヴにもわかった。
たしかに、隔意を抱かれたまま背中を預けるのに比べたらよっぽどマシだ。
どうせ自分が天使の勧誘に乗らなければ良いだけだ、とニアヴは考える。
「いいだろう。私は改心などしないが、勝負や優勝に邪魔にならない限り、好きにするがいい。
これで契約は成立だ。私の<命>をお前に預けよう」
ニアヴは指を鳴らした。空中に契約書が出現し、続いて燃焼して消え去る。
悪魔の能力が発動した証だった。【死に損ないの契約者(バッドコープス)】
相手に<命>を預けることで、実質的に不滅になる悪魔の契約である。
もはやニアヴは斬られても燃やされても宇宙空間に放り出されても無傷であり続け、
契約を結んだ相手の元に戻ってくる。
結ばれた契約をトレエは破棄できない。ニアヴ側からのみ解除が許されている。
天使が悪魔を蛇蝎のごとく嫌うのは、この能力が理由でもあった。
『まさか、悪魔と契約することになるなんて……邪悪を現世に繋ぎとめる楔役なんて嫌だわ』
「優勝したら解除してやるさ」
『それなら我慢できるかも』
「なに? ……優勝できなかったらとか考えないのか?」
『私たちが協力すればできて当然でしょう。むしろ少し卑怯なくらいだわ』
「卑怯? 卑怯だと?」
ニアヴはトレエの発言に愕然とした。
『ただの事実として、私も、あなたも現世の理から外れて強力でしょう?
人の研鑽は尊いものだから、踏みにじるような真似は避けたいけど――』
「なんだお前、やっぱり虚飾の罪に塗れてるじゃないか」
『え?』
ニアヴはスマートフォンの通話を切って、胸ポケットに入れ。
続いて一切の遠慮なくミーティングテーブルを蹴り上げた。
ミーティングテーブルは天井に衝突し、粉々になる。
テーブルと天井と電灯の破片が降り注ぐ雨の中、ニアヴは床を踏み抜いて前へ飛び出した。
悪魔の強靭な筋力によって、ニアヴはトレエが座っているだろうパイプ椅子まで迫る。
ニアヴが何もない空間を手で握りつぶすのと、ニアヴの首が断ち切られたのは同時だった。
一瞬の出来事だった。
白いワイシャツの中に納まった首から濁流のごとく噴き出す鮮血。
だがニアヴの腕は乱れなく動く。
首無しは、自身の頭を片手でキャッチした。
「オーケー。わかった。テストしてわかった。まるでダメだ」
噴き出し続ける鮮血が、ジュルジュルと蠢き、断面同士を連結する。
ニアヴは千切れた頭を首の上に乗せた。
肌と肉がぴったりとくっつき、あっという間に彼女は無傷の姿になった。
無傷といっても、ニアヴの白いワイシャツは血に濡れ、壁と床にも赤黒い液体が飛散していたが。
さらに会議室は見るも無残に散らかり、電灯が割れたせいで真っ暗になってしまっていた。
その薄暗い窓のない部屋でニアヴは言った。
「全然ダメ。完全にダメ。なにが”最強の二人を決める”だ。
最強でも人でもないのに」
ニアヴのスマートフォンに着信が入る。悪魔は電話に出た。
『なんのつもり?』
「わかったろう。私はお前の心臓をえぐり取れたぞ」
トレエは素直な天使である。
ニアヴがトレエを見えていなかったとしても、相手が悪魔であろうとも。
椅子に座って、真正面から向き合って、目を見て話しているに決まっているのだ。
だから身長の誤差が少々あるかもしれないが、左胸がどこにあるかなどニアヴは簡単に推測できた。
『でもニアヴは私に触れないでしょう?』
「ああ、そうだな。だが人間ならどうだ? ぬけぬけと気を抜くのか?
ほかにも、私だ。トレエにもわかったはずだ。あっけなく頭を取られた私を見ただろう。私は不滅か?」
『それは私が天使だからよ』
天使が持つ性質。【観善】
善人でなければ彼女の姿は見えず、声は聞こえず、触れられない。
そして善人が振るう武器か能力でなければ彼女を傷つけることはできない。
同時に、すべての天使は【弔悪】と呼ばれる、天使と同じ性質を持ちながら悪属性のものを
断ち切ることが可能な<剣>を持っている。
天使の超常的膂力と【弔悪】が合わされば悪魔だって斬れるだろうとトレエは言った。
ニアヴは大げさに演技めいて天を仰いだ。
「ああ、鈍いなぁ! 理由ありきの無敵の天使。理由ありきの不滅の悪魔。アンフェアな、人外スペックごり押しの戦術。
元人間として断言する。こんなもの、どうぞ乗り越えてください人間様と言ってるようなものだ。
自覚しろよ本物の*ファッキン*天使! スマホを使わなきゃまともに会話もできない欠陥生物!」
天使の声は聖なるものだから、善人しか聞こえない。
ゆえに天使が万人に声を届けるのは、聖なる声をただの音に変える仕組みが必要だった。
現代の天使が使うその仕組みは、声を電気信号に変える携帯電話なのである。
あとついでにメールとかもできる。
けれど結局は不便で不都合でしかない。
敵にだけ不可視ならば長所だが、【観善】の効果を受けるのはニアヴも一緒である以上、欠点でもあった。
『なら暴力など振るわず最初から言えば良いのに……なぜそうまで下劣なの?』
「そこまで下がらないとお前と会話できないからさ。私ばっかり上へ上へ、アガっていっちゃぁ置いてけぼりだろう?」
「傲慢な!」
「あぁはは、独りよがりは嫌いか? いや、今好きって言ったのか? どっちだ」
トレエは羽根を使って飛行すると、スマートフォンの画面に照らされているニアヴに近づいた。
トレエの清浄な蒼い瞳と、ニアヴのギラついた金色の瞳が間近に迫る。
だが、ここまで近づいてなお、ニアヴにはトレエが見えていなかった。
『……ええ、わかったわ。私達がチームとして弱い、ということともう一つ。
悪魔とは、いえ、ニアヴとは、本当に極悪なのね』
「なんだと思っていたのやら。環境活動家とか?」
問題は山積み。戦術の蓄積はなし。時間も信頼もなし。
極悪と極善では通じ合えるものもない。
互いに合意し、契約したが、それも頼りない一本の糸のようなものだった。
「ああ、そうだとも。私達は余り物で、底辺で、信頼関係すら崩壊してる弱くて弱いコンビだ
では……そんな最弱が勝つにはどうしたらいい?」
『修行とか?』
「そんなドM御用達は別の奴らに任せよう。私たちは違う戦術を採用する。
悪魔でもなく天使でもなく。定命の者が喝采するやり方だ」
『悪魔の手法は私が無理だし、天使の手法はニアヴが無理だからいいと思うわ。で、それは?』
「そう! 私が大好きで、お前が喜ぶその戦術とは!」
【現世からの余り物】タッグは天使と悪魔のタッグだ。
二人は大会のギリギリに顔合わせをし、致し方なく組んだ極善と極悪のコンビである。
その浮世離れしたタッグの戦術は、あまりにも王道で、そして奇妙なものだった。
「私たちが振るう武器とは、”密接なコミュニケーション”だ!」
『……ニアヴ。それって何かのジョーク?』
「そこは、その通りね、って乗れよ。ハート」
『えーと、ごめんなさい……?』
……とにもかくにも、参戦である。