夕暮れの街並み。その影は色濃く、路地裏の闇を一層強く引き立てる。
雑居ビルの間隙を、追う者が2人、追われる者が1人。
「待ちやがれクソガキ!」
「あははっ! やなこった!」
「はぁ、はぁ、あのガキ魔人か? バッタみたいに跳ね回りやがるッス!」
「虫呼ばわりとは失礼な奴だな! どう見てもきゅーとな黒ウサギだろ!」
黒ウサギを自称した少女の名は跳丘コクト。黒いウサギのフードパーカーを身に纏い、異常な跳躍機動で追手2人を軽やかに躱し続けている。というかその気になれば簡単に振り切れるので既に舐めプモードに移行している。
コクトは路地から非常階段、三角飛びでビルの壁面、窓枠を伝い縦横無尽に逃げ回る。その小さな身体からは想像もできないようなジャンプ力。彼女が魔人であることは明らかであった。
「くっそ! コレじゃマジで逃げられっちまうぞ!」
「大丈夫ッス兄貴! マサとハッシーがガキの逃走経路をしっかりマークしてる。既に先回りしているはずッス」
「生意気なメスガキがよぉ、絶対ブチ犯す!」
果たして、増援の2人が向こう正面からコクトに駆け寄る。狭い路地で挟撃の形となる。
「おっと、やばやば」
「お嬢ちゃん! これでチェックメイトです!」
―—パニック・バニー!
コクトは男2人の向かって来る進路上に手をかざす。2人がその路面を踏んだ瞬間、重力が強く掛かる感覚と共に、その身体は派手に宙を舞いコクトの頭上を飛び越した。
「おわああ!!」
「はい、おつかれー☆」
パニック・バニー。手をかざした足場をジャンプ台にする能力。罠と化した床を踏み抜いた男2人は大きく跳ね飛ばされてコクトの背後を追走していたもう2人と激突した。
「じゃねー、バイバーイ!」
捨て台詞と共に逃走するコクトだが、振り向いた瞬間、正面に1人の男が立ちはだかる。
「あ……」
スキンヘッドとツーポイントのサングラスが特徴の長身の男。黒地に白ストライブのジャケットを羽織った、控えめに言っても堅気の人間じゃない風体の男が、眼下の少女を睨みつける。
「あはっ、だーりんわざわざ迎えに来てくれたんだ。愛されてる〜」
「……おいバカ。何か申し開きはあるか?」
「あのね😢ミコ兄、怖い男の人たちが追いかけてくるの☆」
―—ゴッ!!!―—
はにかみ笑顔に鉄拳制裁。げんこつをもらったコクトが涙ぐむ。
「っ痛~、ミコ兄……今結構マジだったろ……」
「やらかした内容によってはこんなもんじゃ済まさねーぞてめぇ」
「ちょっと『修行』してただけだってばさー」
「今度はそのブリーフケースか……。俺が話付けてくるから寄越せ」
「ちぇーっ」
彼女の目標は盗賊一味『ブラックラビット』の再興。その修行を兼ねて、ちょくちょくガラの悪い連中相手に盗みを働いたりいたずらを繰り返している。元『ブラックラビット』、ミコ兄こと裾野 美琴は、今は亡きリーダー跳丘トマルの忘れ形見、跳丘コクトの後見人として、彼女の起こしたトラブルの後始末に悩まされていた。
美琴はブリーフケースを片手に、コクトを追っていた総勢4人の男たちの方へ歩き出す。そして懐から封筒を取り出し、深々と頭を垂れる。
「申し訳ありません。うちのバカが迷惑かけました。ケースは迷惑料と病院代をつけてお返し致しますので、なにとぞお許しください」
追手のリーダーと思われる男が、頭を押さえながらゆっくりと起き上がる。
「ふ……ふざけてんのかテメェ、こちとらはいそうですかと引き下がれると思っているのかよ!」
「そこを何とか。うちの珈琲屋のサービス券もお付けしますんで」
「珈琲屋だとぉ……?」
そのフレーズに男の1人が反応する。風の噂で聞いたことがある。スキンヘッドの珈琲屋。裏社会で最近名前が売れ出した情報屋だ。同じ裏社会の住人となると多少はこちらの素性も当たりをつけられているかもしれない。更にブリーフケースの中身を見られているとすれば厄介なことにもなりかねない。
男がリーダーに密かに耳打ちする。ここは話に乗るフリをして4人で一気に抑え込むのが得策と。
「ちっ、分かったよ珈琲屋。ピースフルに行こう。そいつをこっちに寄越して消えな。それでめでたく手打ちだ」
ピースフル。目の前の人物を拘束する暗号だ。暗号符丁に反応した残りの男たちも平静を装い、一気に飛び掛かる準備をする。コイツを抑えて人質にすれば、黒ウサギのガキも大人しく抵抗をやめるだろう。
「申し訳ない。今後、こういうことが無いよう、よく言い聞かせますんで……」
美琴が男たちに近寄り、ブリーフケースを渡す素振りを見せる。男たちは美琴の歩調を測り、襲い掛かるタイミングを見定める。3歩、2歩、1歩―—
「今だッ!!」
男たちが一斉に飛び出す。1番前の男が、レスリング張りのタックルを決めようと足元を狙ったが、その両腕は空を切る。
後続の男達も、続けて拘束を試みるが、ゆらゆらと揺らめくような美琴の動きを捕らえ切れない。いや、何かがおかしい。揺らめいているのは珈琲屋の男だけではない。景色が、世界が揺らめいている。
「な……何れすか?これは……」
「何か身体がふわっふわとして……うおっと」
「おいてめえ、俺に寄っかかるんりゃねえ!」
「仕方ねーっひょ!足元が覚束ねーんれすから!」
男達は舌っ足らずでわめき、明らかな千鳥足でなおも美琴を捕まえようとする。しかし、簡単に足を引っかけられ、雪崩るように転んでしまった。
「てっ、てめーも魔人らのかよ!」
「だからどーした。殺気が見え見えなんだよ。ド素人が」
美琴が毒づく。穏便に済ませようかと思ってはいたが、向こうがえらくやる気だったので、こちらもあらかじめ仕掛けていた。
美琴の魔人能力、『八塩折酔戦陣』は、間合いに入った者を無差別に酩酊させる結界陣。その強力な力の反動は自分自身にも及び、体を蝕む。美琴はほろ酔い気分で倒れ伏した男達を冷たく見下ろす。
「俺はピースフルな平和主義者だからな。命までは取らねえし、このバッグは返してやるさ。だがな、大の大人4人がかりでたかがクソガキ一人を追い立て、その内1人は追いかけながらナニをオッ勃ててるクソロリコン野郎なのが大いに気に入らねえな!」
美琴はそう吐き捨て、1人の男の股間を強く蹴り付ける。悶絶する男の悲鳴が路地裏に響く。
「オラッ! 死ねよタンカス共がよ!」
明らかに今言った発言を翻しているが、酔った美琴は気付いてない。脇腹、背中、頭と更に数発、追撃を入れる。
その後も起き上がれない男達を1人ずつ、泣きが入るまでしこたま蹴り飛ばしてやった。これもまた、酔った勢いと言うやつだ。
物陰から様子を見ていたコクトが美琴に駆け寄り、伸びた4人の様子を伺う。
「うわ、えっぐ。流石酔っ払い喧嘩王」
「うるせーぞチビコロ。誰か来りゅ前にさっさと撤収すっぞオラ〜。せっきょーの続き覚悟しとけよ」
「もー、ミコ兄も大分回ってんじゃん。アタシが肩貸してあげるよ」
「離れろやぁ。自分で歩けるっちゅ~の」
美琴も魔人能力の反動で呂律が回らなくなりつつある。既に結界陣は解いているが、その後もしばらく酔いは残り続けるからだ。珈琲屋と黒ウサギは騒ぎが起きる前に、倒れ伏した男たちの脇にブリーフケースと金の入った封筒を置いて、路地裏を後にした。
◆ ◆ ◆ ◆
郊外の店舗付き住宅を借り受け、二年前にオープンした「裾野珈琲店」。美琴自ら豆を厳選し、シティローストで豊かな香りとコクを最大限に引き出した、オリジナルブレンドのコーヒーと、黒いウサギの焼き目が可愛い、ホイップパンケーキが評判の隠れた名店だ。
家に戻る頃には既に美琴の酔いも醒め、トラブルメーカーの黒ウサギが密かにくすねた「戦利品」について問い詰めていた。
「おいコクトてめぇ。これはどういうことだ?」
コクトがその手に持っていたもの。それは、一枚の名刺。そこに刻まれている名前は、財界のビッグネームとして名高い、C3ステーション社長兼総合プロデューサー、鷹岡集一郎。
「アタシアイツらが話してるのをこっそり聞いたんだ。この名刺が、あのイグニッション・ユニオンの招待状代わりになるんだって!」
「今テレビやネットで宣伝してるあれか。2対2の魔人同士の闘技大会ってヤツ」
「そう! あれの優勝賞金知ってるでしょ? もしかしたらこれが5億円に化けるかもしれないんだよ!」
「なるほどな。やけに中身の無いブリーフケースだとは思ったが、そんなものが入ってたとはなぁ……」
「これは出るしかないっしょ! アタシとだーりんの連携力なら、5億円なんてもう手に入れたようなもんだよ!」
―—ゴッ!!!―—
「あ痛ッ!」
再びのげんこつ。黒ウサギの持ってきた厄介事の大きさにため息が出る。
「バカのくせに無駄に親父ゆずりの手癖の悪さを発揮しやがって。今頃向こうさん方、ここを燃やす算段をしてやがるぞ。早く身を隠さねーと」
「えー? なんでさ」
「あの手の連中の執念深さを舐めてんじゃねぇぞ。チンピラを追い払うくらいならどうとでもなるが、バックにこれだけの大物がいれば話は別だ。ああ、酔った勢いで調子に乗るんじゃなかったぜ」
その時美琴のスマホが突然鳴り響いた。見慣れない番号からの通知。このタイミングでの着信は嫌な予感しかしなかったが、無視すればもっと悪い結果にもなりかねない。美琴は苦虫を噛み潰した様な表情で着信に応答する。
「はい……」
「裾野美琴さんの携帯電話でお間違いないでしょうか?」
「ええ、そうですが……」
「初めまして、私、C3ステーションという会社の、鷹岡という者なのですが……」
美琴の心臓が早鐘を打つ。簡単にこの携帯の番号を掴まれ、しかもまさか社長自ら動いて来るとは。既に逃げることも困難な状況なのかもしれない。
「鷹岡さん、申し訳ない。こんな状況じゃ言い訳にもならないことは百も承知だが、名刺の件に関しては、ちょっとした手違いで……」
「ああ、そんなに警戒しないでください。その名刺は、もう貴方のものです」
「は……?」
「その名刺は、貴方に譲る。と言ったのです」
「何だとぉ……?」
「いやね、あの名刺はどういうわけか、最強を目指すにふさわしい二人の下へ届くようなシロモノとなっておりましてね。貴方がたはその資格を手にしつつある、ということです」
「なるほど。命が惜しくばあんたが主宰するあのふざけたイベントに参加しろと……いや、ちょっと待て、今二人って言ったよな。まさかあんた、コクトも巻き込むつもりか?」
「先ほども言ったでしょう。その名刺は、もう貴方のものだと。『最強の二人』を目指すのも、そのままその名刺を燃やすのもあなた方の勝手だ」
「……」
「我々は『イグニッション・ユニオン』において、広く強者を集めています。ただしそれは強制されるものではない。なぜなら、本当に『最強』を証明せしめんとする二人ならば、そもそもエントリーに躊躇などするはずもない。我々は、そう考えております」
「なるほど。それはご立派なこった」
「まあ、結果的にあの四人は貧乏くじを引く羽目になりましたが、こちらとしては、あなた方に手を出すつもりは、一切ありません。そこはお約束しましょう」
「そうして頂けると、有難いね」
もちろん相手の言い分をまるごと信用してはいないが、ひとまず鷹岡の話に合わせておく。最悪逃げることになっても、この様子ならばある程度の時間は稼げそうだ。
「願わくば、あなた方がこの究極のエンターテイメントの盛り上げ役となって頂けることを、期待しております。元怪盗、『ブラックラビット』の裾野美琴さん」
そう言って、鷹岡は電話を切った。美琴は何度目かの深いため息をつく。
「ひとまず夜逃げは無しだ。この名刺はこっちの好きにしろとさ」
「イエスッ! コレで『イグニッション・ユニオン』にエントリー出来る!」
「何を馬鹿なことを言ってやがる。こんな物騒なモンは速攻燃やすに限る」
「は? ミコ兄正気か? ソレもしかしたら5億円になるかも知れないんだよ?」
「なる訳ねーだろ。こんな見え透いた罠に掛かる方がどうかしてる。お前くらいバカならまだしも」
「何ソレ。ミコ兄そんなつまんない事言うヤツじゃなかったじゃん!」
「何だとぉ……?」
「少なくともパパと組んでた時のミコ兄は、罠があろうとお構いなしだった! スリルは人生のスパイスだってカッコいいこと言ってたよね!」
「そうだな。だがその結果無茶をし過ぎてトマルは死んだ。あんな綱渡りみたいな生き方はもう出来ないし、何よりお前にはもっと真っ当な人生を……」
「ふざけんなッ!」
コクトが吼える。その目に涙を溜めている姿を見て、美琴は微かな動揺をみせる。
「ミコ兄がアタシの事を思ってくれてるのは感謝してるよ。ミコ兄がいなきゃ、多分アタシの人生、もっとめちゃくちゃになってた。でも、パパが居なくなってから、ミコ兄一度も笑ったことないじゃん!」
「……!」
美琴の脳髄に電撃が奔る。確かにこの少女の言うとおりだった。コクトをトマルの二の舞にさせないため、平穏で真っ当な日常を作り上げようとした。そして、自分の中の笑顔がいつの間にか失われていたことに、今初めて気付いたのだ。
「コクト……」
「何が真っ当な人生だ! アタシはミコ兄の笑顔を取り戻したい! ソレが叶わない真っ当な人生なんて、こっちから願い下げだ!」
「……お前、まさかその為に『ブラックラビット』の再興を目論んで……」
「そうだよ! アタシは『ブラックラビット』を再興する。そして、あらゆる危険な儲け話に飛び込むスリリングな日々の中、ミコ兄が心から笑って居られる場所を作ってあげたいんだ!」
少女の無軌道な行動も、かつての怪盗一味の復活の夢も、全てはその為だった。美琴がコクトの将来を案じていたのと同様に、コクトもまた、美琴の事を心配し続けていたのだ。
「このバカ、言わせて置けば……」
「アタシは罠だろうと関係ない。怪盗一味『ブラックラビット』の新リーダーとして、この儲け話に乗ってやる! 裾野美琴! お前はどうする!?」
美琴はいつものように半ギレしながらコクトを叱りつけようとする。だが、それはもう出来ない。気付かされてしまった。思い知ってしまった。自分がスリルを糧にしなければ生きていけない人種だということを。
そして一瞬でも想像してしまった。かつての盟友と同じ目をしたこの少女と共に、刺激的な日常を取り戻す光景を。怪盗一味『ブラックラビット』として、再び宵闇を駆け抜ける景色を。ああ、何て愚かで、魅力的な白昼夢。
――トマル。悪ぃな。やっぱ俺、人の親なんて柄じゃなかったみたいだわ。
―—お前の娘のコクト、多分すげえ怪盗になるぜ。だってよぉ……
―—お前とそっくり過ぎるんだよ。また夢を見たくなっちまうくらいに。
しばしの沈黙ののち、美琴はゆっくりと口を開く。
「コソ泥風情が粋がるんじゃねぇよ。仕方ねぇ、俺が怪盗ならではの戦い方ってやつを実戦形式で教えてやるさ」
「ミコ兄!」
「5億円、奪いに行くぜ。スリルは人生のスパイスだ」
黒いウサギの止まっていた時が動き出す。一人の少女を闇に呑み込んで。
大きな高揚感と、拭いきれない罪悪感。その二つを心に秘めて、裾野美琴はブラックラビットの新たなリーダーとなった目の前の少女を、この身に変えても守り抜く決意をした。