もしも願いが叶うなら、俺は何を望むだろうか。そう自分に問いかけてみてもすぐに思いつく答えはない。
昔から夢のない子供だった。「将来なりたいものは?」と聞かれる度に公務員と答えたが、本当に公務員になりたいと思ったことは一度もなかった。
それがそのまま大きくなって、やはり夢のない大人になった。普通の大人ということだが。
先程の問いを少し卑近にしてみよう。もしも2億円宝くじが当たったら、使い道は何がいいか。それならば俺にも答えられる。
貯金して生活費にする。何かが欲しいということはなく、やる気が出ないので退職したい。2億あればまあ大丈夫だろうとは思う。あるいはマンション経営を始めるのもいいかもしれない。他の仕事をするなら不労所得が入るものがいい。
そんな益体のないことを考えているのは部長の説教が長いからだ。
「――わかっているのかね屋釘君」
「はい。誠に申し訳ありませんでした。これからは我が社の誇りに傷を付けぬよう一層の注意を払います」
神妙な顔、わかった振りで頭を45度下げる。
集中してはいなかったが話の内容は頭に入っていた。
要は警備対象者となるのは立場のある人だから安全面以外の配慮も求めるという話である。いまさら言われるまでもなく俺もそれなりに気を付けてはいるし、それでもやはり対象の安全が最優先ということに変わりはない。
問題の案件は偶発的な事故であり必要な犠牲だった。襲撃者から今回の警備対象者、フルーツパーラー銀座万疋屋の社長さんを庇った際、彼の頭を押さえるように伏せさせたらヅラが外れてしまったのだ。
命よりもヅラをと守れというのは承服できない。再び同じ状況になったとしても俺は同じように対象を守るだろう。
反省はしていない。
そしてここで部長に反抗してもしょうがないのだ。
部長だってそんなことはわかっている。怒っているのは万疋屋の社長だ。
得意先の万疋屋に対して黒服警備保障としては俺に処罰を与えるというポーズが必要なのだ。
弊社の如き零細企業はどうしても取引先に強く出られない。割を食うのがサラリーマンである。
「君には直ちに一週間の謹慎を命じる」
しかしそんなもんだと思っているからその命令は俺にとって精神的な痛手とはならず、「これで長い連勤も終わったな」という以上の感想はなかった。
◆ ◆ ◆
真昼間から家路につく。
本当に長い連勤だった。数えてみれば丁度三十連勤だ。その間は会社かホテルに宿泊していたから家に帰るのは丸一か月ぶりになる。
うすうす感づいてはいたが黒服警備保障はただの零細企業であるだけでなくブラック企業でもあるのかもしれない。
真剣に転職を考えるべきだろうか。しかし当てがあるわけでもない。
そもそも魔人は雇用の上で不利である。魔人であることを明かして生きるなら、体を張るきつい仕事に就くというのはかなりいい方で、大抵の場合は犯罪者かホームレスにしかなれない。
能力を活かした仕事に就くだとか、キャラを活かしたユーチューバーになるだとかは人格と努力と幸運を備えたごく一部の上澄みだけが至る道だ。
魔人であることを隠して生きるというのが逆説的に魔人らしい「普通の生き方」だ。俺がそうしなかったのは――大した理由があるわけではないが。
――ウワーッ!
不意にざわめきが耳に飛び込んだ。悲鳴交じりの歓声といった様子。危険性は感じない。
騒ぎの元を探せば公園の一角に人だかりができている。
黒髪、くすんだ金髪、帽子。様々な頭が後ろ姿を向けてごちゃごちゃとした暗い色の塊になっている。
その最奥、不気味な頭が突き出して唯一こちらを向いていた。
赤と白の縞模様の帽子。顔は鼻、頬、唇を赤く、目の下は水滴型に青く、それ以外を白く塗り分けている。
ピエロだ。やたらに背が高い。
更にその頭を越える高さで何かが鈍い光を放った。
「鎌?」
何本かの草刈り鎌が規則的に弧を描き宙を舞っている。
全体は隠れてしまっているが何事かはわかった。
クラブジャグリングだ。
ジャグリング用のクラブは紡錘形に膨らんだベリーから細長い棒状のハンドルが延びる構造になっていて、基本的にはハンドルが持ち手と決まっている。そもそも片側しか持たないものなのだ。
だから技術さえ習得できれば手に触れない側は刃物であろうが火を点けようが構わないということなのだろう。
その技術を身に付けるというのが難しいことなのだ。素直にすごいと思う。
――ウワーッ!
今度は悲鳴の割合が多い。それまでの幾何学的な調和のとれた軌道が崩れ、鎌が一層高く投げ上げられた。全部で5本か。
ミスではないだろう。クライマックスだ。
次の瞬間には鎌が落下し、すとん、すとん、と小気味よい音が立て続けに響く。
そして先ほどよりも大きな歓声と拍手。
5本の鎌それぞれがパフォーマーの体すれすれを掠めて地面に突き立った、のだと思う。
ここからでも回転する鎌が派手な頭の正面と両脇のほんの数ミリ外して落ちるのが見えた。
やがて拍手も収まり、観客たちは一人また一人と立ち去って行ったが、ピエロは笑顔で手を振りながらその場を動こうとしない。俺もその場に残っていた。
他の人間が全て離れたのを確認してから俺はピエロに近づいた。
もしかして、とは思ったが。近くで見るとやはりそうらしい。
「お前、忍か?」
ピエロは目を見開き、口も大きく開き、頭の横で両手の平もパッと開いた。
『驚いた!』
ピエロは開いたままの左手を口の前に持っていき、右手ではこちらを指さす。
『そういう君は!』
両腕を上に伸ばし、半円を描くように左右に広げる。広い、という意味か?
『寛君!』
ということだろうか。ピエロは一言も喋っていない。意味は俺の推測だ。
しかしどうやら、幼馴染の大道寺忍に違いないようだった。
◆ ◆ ◆
男二人で昼間から並んでベンチに座っているとやはり不審者に見えるのだろう。
俺一人なら休憩中のサラリーマンか、悪くてもリストラされたことを家族に隠して出勤する振りをした行き場のない無職にしか見えないだろうが、忍の姿は単純に不気味だ。
たまにスマホを見ながら傍を通る奴もいるがこちらに気づくと露骨に距離を空けていく。
「本当に大道芸人になったんだな――」
こいつの事は幼稚園のころから知っている。俺と違って夢のある子供だった。毎日毎日、俺の知る限り一日も休まずにジャグリングとパントマイムの練習をしていた。
夢を叶えてすごいな、良かったな、とかそんなことを言うべきだろうか。
「――いや、しかし、久しぶりだな」
祝福は口に出しづらい。
気恥ずかしいというのもあるが、俺にはそうする資格もないという気がしていた。
俺はそもそも忍の夢を応援していたわけでもなかった。
もちろん失敗を願っていたわけでもない。
高校までは練習しているところを見物していたし、その頃はまだ「頑張れよ」とかなんとかちょっとした声掛けもしていた。
逆に言えばその程度の事しかしていない。手伝いとか協力とか具体的に役立つことはしていなかった。
それに高校を卒業してからは全く疎遠になっていたのもある。忍が本格的にパフォーマーとして活動すると聞いてはいたが、連絡は取っていなかったし演技を見に行くこともなかった。
何の目的もなく大学に行った俺とは進路以前に生き方が違う。
夢を叶える努力というものをしたことがない俺が今更訳知り顔に祝福するというのは、かなり奇妙なことだという気がする。
俺たちは幼馴染で、友達だった。それでも同志や仲間とは絶対に言えない。
冷静に考えて、俺が変に意識し過ぎなのだろうとは思う。この気持ちは俺の一方的な罪悪感とか劣等感とかによるもので、忍の方は気にしていないだろう。
むしろこうして黙っている間にも「大道芸人になってから初めて会ったのにおめでとうも言ってくれないのかよ」くらいの事は考えているかもしれない。
やはり言うべきなのだろうとは思う。
「俺の方は普通だよ。普通の会社で普通の業務をしている。普通のサラリーマンだ。ああ、今は謹慎喰らって帰るところだけど」
しかし、俺の口から出たのはそんな無駄話だった。
へらへらと笑う振りをして忍の顔を見る。
こいつはこいつで喋らないな。それがいつもの事ではあるが。
ピエロメイクからは表情が読み取りづらい。しかし忍の方も何か言いあぐねている様子に見えた。
唇や頬がぴくりと動き、また止まるというのを何度か繰り返している。
その視線はこちらではなく下を向いて、腹の前で忙しなく動かす手元に落ちている。
手を握り、開き、そしてだぶだぶの袖からくしゃくしゃに丸めた紙を取り出して、また仕舞っている、さっきからそれを繰り返している。俺はとっくに気づいている。
人に頼みごとをしたいが遠慮してなかなか言い出せない、学生時代に何度か見せた様子そのままだった。
こういう時、こっちから聞いてやらないとこいつは結局何も言わない。
「なあ――」
声を掛けようとして言葉に詰まり、その時それは起こった。
「屋釘寛だな?」
明らかに敵意を含んだ声。
数メートルの距離を置いて、目出し帽にスタジアムジャンパー姿の異様に太った男が俺を睨んでいた。
本物の不審者が出ちまったな、と俺は思った。
◆ ◆ ◆
俺は逃げた。
明らかに俺を狙っていたし、他の誰かを巻き込むことは避けたかった。
狙い通りに不審者は俺を追って走り出し、忍は呆気に取られて固まっていた。
相手は何者だろうか。業務上の都合で人を襲う様なヤバい奴から恨みを買う心当たりは結構ある。
しかし相手は俺の名前を知っていた。弊社では職員が警備中に本名を名乗ることはない。俺の場合は「スマイル」というコードネームが使われる。
本名を探れる情報網を持った敵。社内に内通者がいる可能性を示していた。
「やっぱ辞めるか……? 宝くじ買って……」
振り返る。無駄口をたたく余裕はあまりなさそうだ。
かなりの距離を走ったが敵は常に目視できる距離にいる。撒ききれない。
敵の走り方はフォームがなっていないし足の動きも遅い。だが地面を滑るように移動してくる。
いや、実際に滑っているのだ。
敵がジャンパーの内側から取り出した黄色い物体を前方に投げ、それを踏む。
バナナの皮だ。
滑って転ぶということはなく、相手はむしろバナナの皮を利用して加速している。
それを繰り返して俺を追っている。わかってはいるがこの距離ではそれを防げない。
逃げ切れない以上は別の手段で対応するしかない。警察でも頼るか、俺自身が迎え撃つか。
俺は後者を選ぶ。
理由は二つ。
一つはやはり俺の名前が知られていたこと。内通者がいるにせよ、それ以外の方法で情報を抜き出したにせよ、警備会社としてはかなりまずい失態だ。
この件を警察に預ければその辺りの情報が明るみに出る。黒服警備保障にとって痛手になるだろう。
正直会社がダメージを受けるのは別にいいし、なんなら潰れても構わないと普段から思っているのだが、こうも急なのは流石に困る。
せめて俺が転職してからにしてほしい。
二つ目は俺が警察に苦手意識を持っているということ。誓って俺自身に犯罪歴はない。
しかし向こうは魔人を犯罪者予備軍として認識している。そして今回は実際のところ、警察が来るまでに俺自身が正当防衛以上の事をしないで済むという自信もなかった。
バナナの皮を利用しているとはいえ、敵は基本的には無様な走り方をしている。それでも引き離せないという事実が相手の身体能力の高さを示していた。
おそらく魔人だ。
走るうちに目の前に現れた小さな公園に駆け込む。
先ほど忍がいた場所とは違い、地面にはいくつかの遊具が撤去された跡が残っている。
バナナの皮による加速力は侮れないが、スリップを利用したそれはどうしても直線的な動きになる。
開けていて人がいないここは迎え撃つのに丁度いい。
振り向きざまに警戒棒を引き抜き、最小限の動きで薙ぎ払う。
すぐそばまで接近していた相手を強かに打ち付け――。
――防がれた。
手に返った感触は固くもなく柔らかくもなく、しかし人を打った感触とも違っていた。
跳び下がった敵の両手にはそれぞれ巨大なフルーツがあった。右手には硬質な刺で覆われた緑の果実。左手には滑らかな球形の黄色い果実。ジャンパーの下にこんなものまで隠していたか。
即ち、フルーツの王様、ドリアン。そして最大の柑橘類、ザボン。
ザボンの皮下には厚さ2センチメートルにも及ぶスポンジ質、アルベドが備わり、さらに丸みを帯びた形状は衝撃を受け流すのに向いている。俺の攻撃に耐えたのはこちらか。
ドリアンの凶悪さは言うまでもない。
攻めのドリアンと守りのザボン。この二つが本当の武器と見て間違いないだろう。
バナナの皮、ドリアン、ザボン。これらを扱う技術を持つ男。おそらくその正体は――。
「お前が誰かわかったぞ――」
右手で警戒棒のグリップを握ったまま、左手でシャフトを持ち縦に構える。
槍ほどの長さはないが杖術の動きで扱うことはできる。
両手での操作は力を籠めやすく、動きに細かい変化を付けることもできる。盾としては小ぶりなザボンでは受けにくいだろう。
正面から戦って倒せないとは思わない。
しかし敵の能力がまだわからない。
だからもっと楽な手段を取ることにした。
「――お前はこれが何かわかるか?」
警戒棒を体に引きつけ、先端を相手ではなくやや後ろに傾ける。
答えはない。
当然だ。戦闘中に喋るのはそうする理由があるからだ。
注意を向けるためだったり、情報を得るためだったり、場合によっては魔人能力のトリガーにもなる。
状況によっては応じて駆け引きをすることもあるが、今目の前のこいつにはそうする理由がない。
だから、俺は自分で答えた。
「傘だよ。それから風が吹いてる。傘で受ければ人間が浮き上がるほど強い風だ。手で押さえなきゃ帽子も吹き飛ぶ」
右腕は強い力で引っ張り上げられるようにまっすぐ真上に伸ばされた。
片足が地から離れ、もう一方の足がつま先でバランスをとっている。
左手は被った帽子を押さえている。赤と白の縞模様の。
そうだ。そうしているのは俺じゃない。
忍だ。
忍は俺を心配したのか少し遅れて追いかけてくれていた。
俺には振り返るたびに目立つ姿が見えていたが、敵の方は後ろを向く余裕がなかったらしい。
傘のパントマイムは以前見たことがあった。忍は俺の構えから察して演じてみせた。あとは俺がそれを口に出せば忍の魔人能力によって現実となる。
言葉通りの風が吹く。
嵐と言った方が正確か。それでも傘を持っていない以上、俺も敵も飛ばされやしない。
だが敵の両手はフルーツで塞がれている。
飛んでいく目出し帽を押さえることはできない。
「思った通りだな! フルーツパーラー銀座万疋屋の社長さんよ!」
「……!」
目出し帽の下から現れた姿は先日の護衛対象。
俺に恨みを持ちこうして昼間から出歩いている元凶。
俺への謹慎処分は彼の怒りを鎮めるためだ。
具体的にどのようにするか話が通っているならば、この日この時間帯に黒服警備保障の近辺で俺を見つけることは十分可能。あるいは会社を見張って社屋を出たところからつけていたか。
俺の名前も彼の立場から責任を問えば聞き出せるだろう。
かくして襲撃者の正体は白日に曝された。
それだけではない。
「しっかり押さえないとそれも飛ぶぜ!」
「おのれ屋釘!」
万疋屋社長は歯噛みして俺を睨み付ける。
先日の件以外に俺とこいつに接点はない。恨む理由は俺のせいでヅラが取れてしまったこと、馬鹿馬鹿しいがその一点だ。
奴はそれだけヅラにこだわっている。
忍のパントマイムにヅラの描写はない。この強風でも飛ばされるかは微妙なところだが、向こうはそんなこと知りはしない。
俺が発言した通りに風が起きて帽子が飛ばされたのだ。ヅラについても同様の事が起こると考えるはずだ。
予想通り、万疋屋社長は左手のザボンを手放しヅラを守った。
「このままでは済まさんぞ!」
敵が怒りの形相でドリアンを振りかぶる。
ドリアンが空を裂く音が嵐の中でなお響く。
フルーツの王様、ドリアン。産地では落下による死亡事故の例もある。
生物の命を奪いうる自然の脅威。それが魔人の手で振るわれる。
それは知っている。その上で正面から戦って倒せないとは思わない。
単純に俺の方が速く、強い。
敵はドリアンを振りかぶっている。俺は既に警戒棒を振り下ろしている。
棒の先端が敵の右肩を捉えていた。そのまま懐に飛び込み、柄で胸を打つ。
「……ッ!?」
息を漏らすような声なき悲鳴を上げて、万疋屋社長はドリアンを取り落した。
曲がりなりにも警備員が護衛対象より弱いわけが無いだろう。
「もうしないなら警察には突き出さないが――」
膝から崩れ落ちた彼を見下ろす。
見上げる彼の目は怒りと屈辱に燃えていた。
「死ね」
低い呟きは俺に聞かせたいわけでもなかったのだろう。
それは彼が支配する物への号令だった。
地面に転がるドリアンが宙に浮いた。ザボンも。やや離れたバナナの皮もだ。
それだけではない。
不自然なまでに膨らんだジャンパーの下からリンゴが、モモが、ブドウが、キウイが、ビワが、メロンが、マンゴーが。
飛び出した無数のフルーツが殺人的な速度で一直線に俺へと向かう。
あり得ない。
フルーツパーラー銀座万疋屋の社長がフルーツを扱う技術に長けている。それは理解できる範疇であり、むしろ当然のことだろう。
だが手も触れずにフルーツを操るなど技術でできる事ではない。
現実的にあり得ないことが起こっている。ならばそれはまず間違いなく魔人能力によるものだ。
それさえわかれば問題ない。
全てのフルーツが殺到し、衝突し、砕け散った。
それだけだ。
俺は一切の傷を負っていないし、俺のスーツには染みの一つも付いていない。
それが俺の力。
魔人能力では俺の「普通の生き方」に何一つとして損害を与えられない。
この嵐もそうだ。風に吹かれている感触はあるが俺にとって悪い出来事は絶対に運んで来ない。
風はドリアンの悪臭だけを攫って行った。
◆ ◆ ◆
「何でついて来たんだよ」
忍は何も言わず頭を掻いた。
「まあ、いいよ。助かった。ありがとう」
ベンチに座る忍の横顔は、メイクの下で少しはにかんでいる様にも見えた。
家に帰らず元居た公園に戻ってきていた。
気を失った万疋屋社長は放置した。表沙汰にするにはやはり俺もやりすぎたし、力の差がわかれば向こうも今後は簡単に手を出せないだろう。
そもそも彼は規模は小さいが腕はまあまあ確かな弊社の得意先だ。
先日も襲撃者は現れたし、向こうには護衛が必要と判断する理由があるのだろう。
俺が今回の件を報告すれば弊社も含めて真っ当な企業の多くは護衛を請け負わなくなるはずだ。
そして向こうも今回の件を黙っていれば俺の行動を咎める者は誰もいない。
お互いに黙ってなかったことにすれば、それが一番面倒がないと判断した。
もう俺個人は進んで彼の護衛をしようとは思わないし、彼も別の人間を指名するだろうけど、会社としては問題ない。
この話はそれで終わりだ。
今は忍と言葉を交わす方が大事だった。
「お前、俺に用があるんだろ」
座る前に自販機で買っておいた缶コーヒーを投げ渡す。
忍はそれを片手で受け止め、頭上に投げ、空を仰ぐ額で受け止めた。
そういえば、学生時代にはこんなことも何度かしていた。今思い出した。昔はコーヒーではなくスポーツドリンクだったか。
忍は缶を額から手に落とす。袖には例の紙が覗いている。
「何なんだよ、これ」
言うと同時にそれをさっと取り上げる。抵抗はされない。
こいつ、こうなるのを待ってやがったな。
「……ふうん。イグニッション・ユニオンね」
それは派手な色遣いで刷られたチラシだった。“無敵の二人”を決めるため闘技大会。優勝賞金5億円。
「5億円、か」
二人で分けても2億5千万円。2億円宝くじより5千万多い。
金は、必要なのだろう。
大道芸人の稼ぎなどわからないが儲かるとはとても思えない。
忍は大道芸人になる夢を叶えた。だが大道芸人で居続けるにはまだ足りない。こいつの夢はまだ終わっていないのだ。
以前はそれについて何もしなかった。今度はそれを助けられるかもしれない。
やはり同志とは言えないが、それでも、もしかしたら、対等な仲間として。
「一人2億5千万でいいんだよな?」
俺は真顔で尋ねた。人の夢に関わることでは俺は絶対に嗤わない。笑った振りもしないと決めている。
頷く忍の方はやはり笑顔らしく見えた。こいつの場合は振りではない。
昔からそういう奴だと知っている。