夢には賞味期限がある。
 過ぎてしまうと美味しくいただけない。

 自覚したのは先日。新人アイドルステージのライブ会場。
 見たのは圧倒的なポテンシャルの差。

 他事務所のグループの子たち。
 そして喝采する群衆の一部分になった私。

 私も新人アイドルだ。
 アイドルになったキッカケは、応募してたまたま今の事務所に採用されたから。
 だからステージでデビューするのに、別に華々しいスタートを切れると思っていたわけではない。

 しかし、同じ立場の彼女たちは見事にそれを掴み取った。

 努力は怠ってない。
 才能もあると思ってる。顔だけと言われたこともあるが、プロデューサーは顔も才能だと言ってくれた。
 条件はみんな同じ。

 でも多分、あの子たちは私と違って全力を出し切った。
 スタートラインでよーいドン。走り出せなかった私は、二度と自分の夢のことで悔しがったり、喜んだりできないのだろう。

 あの子達は私よりも年下。
 その日は私の誕生日だった。





「あら、アナタ…」

 オフの日の昼下がり。ショッピングに来ていた青海はのんは、道で女性に呼び止められた。

 視界に入り込む、揺らめく銀髪に目を惹きつけられる。
 立ち止まってしまうほど美しい。
 少しして、その銀髪が車椅子の女性だと気付いた。

「わ、私ですか…?」
「そう、アナタよ。はのんさんじゃない、アナタ」

 黒いドレスを纏った女性が笑いかける。屈託なく。
 青海はのんは、それが誰なのかをすぐに理解した。年齢不詳の表情は、動画でもよく見た顔だった。

 サングラスを掛けているが間違いない、目の前にいるのは、大ベテランアイドル、阿僧祇なゆだ。
 はのんの大先輩にあたる人物。こんな道端でたまたま出くわせるランクの有名人ではない。

「きゃあ、本当に青海はのんだわ。私アナタのファンなのよ。ねえ、こちらに来てちょっと手伝ってくださらない」
「ファン?えっ、何かお困りですか…?あの、どうしてアナタのような人が私のことを…」

 はのんは、内心の驚きを隠せないでいた。
 阿僧祇なゆ。アイドル界の生ける伝説。関わったら最後。全身をサイボーグ化させる代わりに、歌唱力やMC力を向上してくれると言われる、アイドル界の妖怪伝説。
 一方で、その可憐さ、美しさにはアイドル活動45年を経て一切の陰りがない。
 ただ一つ。彼女は人を魅了する存在である。それだけは確かだ。

 そして、はのんをファンだと公言したこと。阿僧祇なゆの口ぶりは、以前から青海はのんのことを知っていたかのようだった。
 青海はのんもまたアイドルである。つい先日、コンサートライブ会場でデビューしたばかりの新人だ。
 はのんは瞬時、思考する。彼女が自分のことを知り得た機会は、ただの一度しか存在しない。

「人の顔を覚えるのは得意なのよ。ちょっとしたコツがあるの。まだ名乗っていなかったわね。私は阿僧祇なゆ、アイドルよ。まあ立ち話もなんだし、お茶でもしながら話しましょう」
「ご謙遜を。貴方ほどのアイドルを知らないはずありません。しかし、お茶とは…デビューしたばかりの素人を知っていただいていたのは光栄ですが、私のような者にお相手が務まるでしょうか……」

 阿僧祇なゆの細く儚い両手が青海はのんの手を掴む。

「あら、ワタシの言うことが聞けないのかしら」

 そして白い歯。彼女の表情には非難の色も、咎めるような角度もない。ただ緩くウェーブがかった銀髪が、許しがたいほど絶妙に揺らめくだけである。

「こらこら、レディ。お嬢さんが困っているじゃあないか。また若いアイドルに手を出そうと言うんじゃないだろうね」

 音もない第三者の声。
 白いベテランアイドルの手の甲の上に、黒い猫の手が乗った。
 ふらつく風にでも隠れていたのか。紳士服を着た長身の猫が、阿僧祇なゆの背後に立っている。あるいは、はじめからそこにいたのか。もう片方の手にはステッキが握られている。
 いずれにしてもその黒猫は、猫の頭をした人型の紳士だった。

 それはまるで、俊敏にその地へ降り立ったかのようだった。
 降り立った黒猫紳士は、まるで微笑みかけるような表情で、青海はのんに話しかける。

「やあはじめまして、青海はのんさん。連れが失礼なことをしようとして申し訳ない。吾輩が代わりに謝らせていただく」
「あ、貴方は……」

 特徴的な猫のような外見。
 それでいて紳士的な態度を崩さない佇まい。
 あとなんか臭い。

 とうとつに、車椅子のベテランアイドルが不機嫌な視線を黒猫に向ける。

「あら、手を出すだなんて人聞きの悪い。それにいつも若い娘にちょっかいかけてるのはどちらかしら?いつか奥さんに言ってやるわよ。はのんさん!コイツはアナタみたいな歳の若いのが好みなのよ!」
「ちょっ…それは反則でしょ!!まだ自己紹介の途中なんだから!」

 黒猫は慌てふためく様子で弁明をする。
 しかし気を取り直したのか、再度はのんを振り返った。
 まるで絵本から飛び出したような姿、光景。

「アナタのこと知ってます」
「おや、それは光栄だね」
「アレですよね、いつも阿僧祇なゆのライブで爆発とかに巻き込まれてる猫の人」

 黒猫紳士はズッコケた。

「ち、違うぞお嬢さん!私はクロスケ。まっくろくろすけのクロスケだ。黒猫のクロスケ」

 車椅子のベテランアイドルが嬉しそうに笑みを浮かべた。





「それで、手伝って欲しいことというのはね、アナタにもこの頑固な猫を説得して欲しいのよ。はのんさん」

 結局、3人はお茶をすることになった。
 店内で阿僧祇なゆは、青海はのんに対して開口一番そう言い放った。
 純喫茶『なまもの』。店の一部がサイボーグ化した店内は、店の一部がサイボーグ化している以外は純喫茶だ。

「説得…ですか?それはなんのことでしょう?」

 黒猫紳士のクロスケ。話題の渦中にある当の本人は、すまし顔でコーヒーを嗅いでいる。

「悪いが、吾輩はレディの意見に反対だよ。それより青海はのんさん、せっかくだしお話しようじゃないか」

 そう言ってクロスケは頭頂部のハッチを開き、そこへコーヒー液を注ぎ込む。白い湯気が頭頂部のハッチから立ち上がる。

「えっ」
「うむ…今日の豆はキリマンジャロのエメラルドマウンテンか。ブラジル産も30%ほど混ざってるね。お嬢さん、コーヒーは?」
「いえ。私、カフェインのことを見下しているので…」
「………」
「………」

 会話に困ったクロスケが微笑みかけるように愛想笑いする。その口元に銃口がチラリと覗いた。
 すると、阿僧祇なゆも頭頂部のハッチを開き、コーヒー液を注ぎ込んでいく。

「はのんさん、この猫は猫みたいな顔をしてるけどね、こう見えてウチの事務所のプロデューサーなの」
「そうなんですか。とてもそうは見えませんね」
「ハハハ、事務所の子たちにもよく若く見えると言われるよ」

 はのんも試しにメロンソーダを頭から被ってみたがベタベタになっただけだった。
 彼女は自信を喪失していた。こうしてベテランアイドルとそのプロデューサーに出会えたのも、奇遇ではあるが、あまり良いことのように思えない。
 むしろ気まずいくらいだ。今日は晴れだというのに。

「そんな顔したら駄目よはのんさん。それがアナタを誘った本当の理由でもあるの。アイドルがそんな表情をしてちゃ皆まで同じ表情になるわ」
「レディ、お嬢さんに対していきなり不躾すぎやしないかい?」

 クロスケは阿僧祇なゆに向かって言う。
 なゆの眼は、青海はのんの方を向いていた。儚いほどの銀色をしている。

「はのんさん、アナタのこと覚えてるわ。確か何かのライブに参加してたわよね?きっとそうだわ」

 はのんは、答える代わりに無言で頷く。
 そして苦い記憶を思い出していた。

 青海はのんは新人アイドルである。
 数日前、新人ばかりを集めたライブ、アイドルステージでデビューした。

 だが、自分がデビューしたのだという意識を、彼女はどうしても持つことができなかった。
 それ以上に、その場で、魅せ衝けられたからだ。他事務所の双子ユニット<<one-on-one!>>に、見事なまでに。

「なゆさん、クロスケさん。こうして会ったのもなにかの縁だと思いますが…実は私、アイドルを続けていく自信はないんです」
「……ふむ、どうやら本格的に話を聞く必要がありそうだね」

 黒猫紳士は、まるで微笑みかけるような表情で青海はのんに微笑みかける。微笑んでいるのだ。

「話したまえ。私たち老人は、お嬢さんのような美しい人の話によく耳を傾けるものだよ。若い子と話すのは楽しいからね。少しだけだがアドバイスも出来るだろう」

 そう言うと、黒猫は一輪の白い花をはのんに差し出した。薔薇かと思われたそれは、紙ナプキンを折って作られたものである。
 たった今の一瞬で折ったものだ。

「言ったろう?こう見えて手先は器用なんだ」
「えっ?そんなこと言ってましたっけ」
「………」

 クロスケが曖昧な顔をすると、阿僧祇なゆはクロスケから紙製の薔薇を取り上げた。

「あっ」

 阿僧祇なゆのか細い両手が青白く光輝く。
 ウィーン!ガシャン!と、メカニカルな起動音が鳴った。すると、紙製の一輪の薔薇が、いつのまにか金属製の造花の花束に変わっていた。

「えっ!」
「プレゼントよ。受け取って」

 はのんは金属の花束へと変じた物体を受け取る。おそらく鉛製なのだろう。はのんが感じたのはめちゃくちゃな重量だった。
 花束はライトが仕込まれているのか、花弁が色とりどりに光っている。

「『おもちゃ箱』。私の能力。その光はね、夢の力を変換しているのよ。その光こそアナタがまだアイドルを諦めていない証拠」
「お嬢さん…どうだろう?何故そんな憂鬱な顔をしているのか、吾輩たちに話してくれないかね」

 青海はのんは聞いたことがあった。阿僧祇なゆには生物や無生物を問わず、等価交換の原則を無視して全てをサイボーグ化させる力があることを。ライブでも何度も使用している。
 一個軍隊が、彼女のライブの前に屈して平和にさせられる有名な映像がある。それは時折ドキュメンタリーでも流れている。
 だが、初めてこの目で目にするそれは、力というよりは、彼女の抱える願いそのもののように、はのんは感じた。

 はのんは二人に語りはじめた。先日のライブ会場での、<<one-on-one!>>の勇姿を。

 それは"熱量"と言うほかなかった。

 ライブ会場で、圧倒されたのだ。
 同じデビューステージである筈の<<one-on-one>>の歌唱力に——ダンスに——パフォーマンスに——そして何より、その熱さに。
 そして、はのんの心は折れた。

 阿僧祇なゆが自分のことを知っているということは、あの場に彼女もいたということだろう。

 そして、はのんは知っていた。目の前にいる阿僧祇なゆが所属している事務所こそ、自分の心を完膚なきまでに打ちのめした<<one-on-one>>の双子が所属する事務所と同じ、幻想企画プロダクションであることを。

「私がアイドルになったキッカケは、応募してたまたま今の事務所に採用されたから、それだけなんです。絶対にアイドルになってやろうなんて思ってなかった。だけど、私よりも年下のあの子達は、私なんかよりもずっと熱い夢を持ってこの仕事に接していた。私、昔から何かに熱中するのことができないんですよね」
「そんなことはないさ…」

 クロスケは頭にコーヒーを注ぎながら言った。
 頭頂部のハッチからは3時を示すカッコウが出たり入ったりしている。

「……」
「そうだね。気になるなら教えてあげよう。吾輩の教え子の彼女たち、<<one-on-one>>のことを。君も業界に属しているなら、レディの『おもちゃ箱』と同じくらい、吾輩の能力のことは聞いたことがあるだろう?」

 そのとき、店内に刀を持った男たちが乱入した。

「者ども出会え出会え。1万円様のお通りだぞこの下郎めらがあ」

 福沢諭吉だ。福沢諭吉の大群が純喫茶になだれ込んできた。





 突如乱入した福沢諭吉たちの大群。彼らは一様に帯刀しており、中には槍を携えている者さえいた。

「ちょっと困りますお客様。人は人の上に人を作らないんじゃなかったんですか」

 困り果てた店主が福沢諭吉の首魁らしき諭吉に詰め寄る。しかし、それを見た諭吉は激昂して抜刀してしまった。

「貴様、学歴を言ってみろ」
「えっ…早稲…あっいえ、慶應、慶應です」
「良かろう。これをくれてやる」

 諭吉は懐から一万円を店主に渡した。賄賂だ。

「すげえっ肖像がもう渋沢栄一になっている」
「我ら諭吉党。天下平等のためにお客様の皆様には犠牲になってもらおう」

 諭吉たちは青海はのん達のところへ詰め寄ってきた。

「こんちには諸君。では学歴を聞こうか」
「えっえっどうしよう。警察とか呼んだほうがいいのかな」

 はのんは突然の事態に当惑していた。
 この狂った世界では何が起こるか分からないのが常識とはいえ、まさか福沢諭吉が大挙して押し寄せるとは夢にも思わなかったからだ。出来れば彼らとは紙幣の姿でお会いしたかった。
 しかし、目の前にいる福沢諭吉達は人間の姿をしている。

 それにしても、福沢諭吉がこの世にそう何人も同時に存在できるはずがない。十中八九、何者かの魔神能力によるものだろう。

 このとき、クロスケはいきなりキレた。

「いい加減にしてくれ給えよ。吾輩は愉しくお茶をしているところなんだぞ」
「なんだと貴様、学歴を申してみよ」

 次の瞬間、福沢諭吉のうち一体の両腕が切断されていた。
 はのんは見た。クロスケが福沢諭吉の持っている刀を奪い、瞬時に両腕を切り裂いた場面を。

「なにぃ〜」
「悪ふざけに付き合うのも考えものだな。はのんさん。ついでだから、このまま吾輩の能力の解説をしよう『ラーニングメソッド』の妙技を」

 クロスケは刀の柄で諭吉の顔面を叩く。諭吉は呻きながら床に倒れ伏した。

「吾輩は自分及び自分が教えた生徒の経験を蓄積できる。生徒に教えれば生徒は努力次第で同じだけの力量を身につけることができる。才能は関係ない。それは例えばこんな風に」

 いつの間にか刀の刃の部分が別の諭吉の首筋に突き刺さっていた。今の会話をミスリーディングとして、気付かれぬ間に投げ放っていたのだ。

 そして、諭吉たちの視界からクロスケの姿が消えた。はのんの視界からも消えていた。
 クロスケは目に見えないほどの速度で駆け抜けたのだ。

 呻く間もなく、諭吉たちは一人残らず黒猫紳士の手で首を捻じ折られていた。

「例えばこんな風に、過去に教えたアイドルの身体能力すらも私の中に蓄積できる。才能があるほど、多様な生徒を教えるほど、吾輩は有利になるわけだ」
「そんな、じゃあ<<one-on-one>>の子たちがデビューなのにあれだけ魅力的な立ち回りができたのも」
「そう。ある種吾輩の能力のお陰とも言えるね。だけど、それは決して吾輩の成果ではないよ」

 黒猫は田舎のおじいちゃんのように優しげな表情をしていた。

「私の『ラーニングメソッド』が出来るのはあくまでポテンシャルの継承のみ。きっちりモノにできるかは、結局のところ生徒の努力次第だ。伸ばしたいパラメータを伸ばせて、覚えたいスキルを覚えられる、と言い換えてもいいかな」
「それでも、それはコピーにすぎないんじゃないでしょうか」

 そのとき、両腕を切断された福沢諭吉が立ち上がった。

「ぎゃあああなんだこの腕は。俺の両腕の切断面から金属や配線が飛び出ている」

 福沢諭吉の両腕の切断面からはサイボーグ特有の機械的な構造が見えていた。配線から静電気が走ったりもしている。
 阿僧祇なゆはやおら立ち上がると車椅子に変形した。そして福沢諭吉に近づくと、嬉しそうに頬を撫でた。

「ばかね。まだ気づいてないの。アナタたちは今朝そこの猫の財布から抜き取った一万円にワタシの『おもちゃ箱』のおもちゃビームを照射して作った諭吉ロイドなのよ」
「そんな、嘘だ、嘘だあああああ」

 福沢諭吉たちは泣きながら一人残らず喫茶店から出て行ってしまった。

「えっ!?ちょっマジで!?待って、吾輩の諭吉たちぃぃぃぃぃ」

 クロスケも諭吉を追いかけようとしたが、阿僧祇なゆに止められてしまった。

「諦めなさい、猫さん。知ってるでしょ。私の『おもちゃ箱』で変えられたものは二度と元の姿には戻らないのよ。それに、今の諭吉たちはプリセットされた音声を発信してあたかも意思があるかのように見せているだけで、実際には本人達に心はないから倫理的にも無問題よ」
「ああそんな…コンプライアンス的にもOKだなんてそんな…」

 青海はのんはただ黙って、クロスケが泣き止む30秒くらいの間を、スマホの動画で撮影しているしかなかった。

「うう…」
「大丈夫ですか、クロスケさん。それで、貴方の能力は先人たちの努力の単なるコピーに過ぎないんじゃないですか」

 はのんはクロスケに詰めながらもハンカチを差し出す。はのん自身、<<one-on-one>>のプロデューサーであるクロスケから、質問の答えを聞きたかった。

「大丈夫…慣れてるから大丈夫…すぐ立ち上がれるから…大丈夫」
「じゃあ早く質問に答えてくれませんか」
「優しいね、お嬢さん…あのね、これは吾輩の持論だけどね。吾輩の能力は、人の短所を埋め合わせるためのものなんだ」

 クロスケの言葉に、はのんは頷く。
 彼女とて努力を怠っていたわけではない。
 本人も才能があると思っている。

 ただ、熱量。夢に値するほどの熱が欲しかった。
 だから彼女は、しきりに急かしてまで引き出したクロスケの言葉に、頷いた。

 彼女の真面目な態度に、数万円を失ったクロスケも徐々に立ち直りつつあった。

「オリジナリティなんてのはね、結局のところ、選択肢の話でしかないのさ。人が努力をするのは選択肢を増やすためだ。それは人生の選択肢を増やすことに他ならない。誰しも選択肢は多い方が良いだろう?私の能力ならそれが出来るようになる」
「それは…そうですね」
「出来ないことをアイデンティティにしてしまうと、人は行き詰まる。だけど人には得意不得意はあるものさ。どうしようもない才能というのはあるものだよ。だけど、そこを埋めることさえできれば」

 人懐こい笑い方が興きた。
 はのんも微笑んだ。

「あとは、長所を伸ばすなんてのはね、本人の自主性に任せてしまえばいいと、吾輩は思うよ」

 結局のところ、はのんがアイドルをすることになったきっかけは、"たまたま"である。
 偶然応募したら、偶然受かった。
 だから、華々しいデビューを飾れるとは思っていたわけではない。

 はのんの握っている鉛の花束が、夢に呼応して金色に輝く。

 クロスケは安心した様子を見せると、瞬時にテーブルの上に立った。
 そして、帽子を脱ぐような恭しい仕草で、聴衆たちに向かってお辞儀をする。

 そして、高らかに宣言する。

「レディース、andジェントルメン、皆々様もどうかお立ち合い!ご安心ください!この店を襲った悪しき福沢諭吉はたった今この場を去りました!私の財布がすっからかんになるというトラブルは有りましたが、もうご安心です!」

 黒猫紳士がステッキをテーブルで突く。すると、ステッキに仕込まれていた刃が姿を表した。
 コーヒーカップを宙に放り投げる。円弧を描いたそれは、刃の切先でピタリと止まった。

 次々とコーヒーカップを放り投げる。
 それは一切溢れることなく。
 一段、二段、三段。
 切先の上に、垂直にコーヒーカップが積み上がってゆく。

 猫が刃を振るうと、コーヒーカップはストンとテーブルの上に降り立った。

 聴衆から拍手喝采が起こる。

「申し遅れました。吾輩、クロスケと申します。貴方達の熱狂と興奮のため、此度、担当アイドルの阿僧祇なゆと共に、闘技大会——イグニッション・ユニオンへの参加を表明します!!」

 周囲に響めきが起こる。
 阿僧祇なゆは聴衆たちに向け、嬉しそうに一礼した。
 そして、はのんにも礼をする。

「はのんさん、手伝ってくれてありがとう。アナタのお陰よ。彼を説得することが出来たわ」
「何をされたかったのか。なんとなく分かりました。流石ですね。貴女はずっと憧れです」

 そう憧れである。
 青海はのんにとって、阿僧祇なゆは追い求めるべき偶像だった。
 その憧れが、身内を説得してまで引きこみたかった大会。イグニッション・ユニオン。
 その目的も理解できる。

 すると、阿僧祇なゆは手を伸ばしてはのんの両肩を掴んだ。

「ダメよ。同業者が同業者のことを"憧れ"なんて言っちゃ。だからもっと笑いなさい」

 なゆは、はのんにマイクを渡す。
 なゆが全身におもちゃビームのオーラを纏い、あたり一面に照射していく。店内が、純喫茶が即席のアイドルステージへと変じてゆく。

 青海はのんはマイクを握りしめる。
 この日、彼女は"初めて"スタートラインに降り立った。

「あの…皆さん…私、青海はのんと言います!!この前のライブでは全然目立たなかったけど……」





 アイドルになったキッカケは、応募してたまたま今の事務所に採用されたから。
 だからステージでデビューするのに、別に華々しいスタートを切れると思っていたわけではない。

 でも、私が事務所へ応募のメールを送るか迷いながら、お菓子を食べて、動画を見て、バイトに励んだり、勉強していたあの数年間、あの子達は夢のために踏み出すことを全力で考えていたのだろう。

 この日、私はあの日のライブのことを、初めて悔しいと思うことができた。





 その後、泣きながらマイクパフォーマンスをしていた青海はのんは、所属する事務所のプロデューサーに無事に保護された。
 その場に阿僧祇なゆとクロスケの姿はすでになかった。

 ベテランアイドルとプロデューサーは、堂々と帰り道を歩いていた。

「レディ、君の思惑通りと言ったところかな?」
「あら、なんのことかしら?」
「しらばっくれないでくれ。あの子を利用して、私にハッパを掛けようとしただろう?」
「それで、私の思惑は上手くいったかしら?」

 プロデューサーはベテランアイドルを一瞥すると、肩をすくめた。

「まんまと。私の『ラーニングメソッド』は、彼女の悔しいという気持ちを覚えたよ」
「そう、それは良かったわ。あの子、前のライブでずっと浮かない顔してたから」
「それはレディの言う通りだね。彼女に出会えてよかったよ。久しぶりに熱くなってしまった。負けだ。参加するよ、イグニッション・ユニオンに」

 今度はベテランアイドルが肩をすくめる。

「でも猫さん。アナタ、どうして彼女に言わなかったのかしら?」
「おや、なにをだい?」
「アナタの剣のことよ。『ラーニングメソッド』は蓄積したポテンシャルが才能に溢れるほど、後進が有利になるのでしょう?」

 黒猫は不敵に笑う。

「ああ、そうだね」
「じゃあ、初めて剣を握ったその瞬間から、剣の達人だった。そういう人間の場合、『ラーニングメソッド』はどう作用するのかしら?」
「レディ、どうしようもない才能というのはあるものだよ」

 二人同時に肩をすくめる。

「問題は、そのどうしようもない才能の持ち主で、生まれついての剣の達人が、アナタということでしょ!そこはアナタのオリジナルじゃない!」
「これも昔から何度も言ってるけどね、レディ。天才には凡人の心は分からないものだよ。凡人に天才の気持ちが分からないようにね」
「それでもコピーと言われて否定しないなんて。"闘技場の小公子"とまで謳われた獅童功一が!今では猫頭のサイボーグ!究極の名前負けとはこのことね」

 黒猫が淑女に非難がましい目を向ける。

「それは君にだけは言われたくないな、レディ」

 その後二人は純喫茶の店主から賠償金5億円を請求された。
最終更新:2021年04月25日 23:10