金盞花が萎れた。
洋名はマリーゴールド。
イカリソウは花開く。
わたくしの名前だ。
そう、わたくしは花。
目立つ花です、美しい花です、名の通りに船の錨に似た花なのです。
本来なら四季の内の春に従うのがわたくしで、夏の盛りの太陽に照らされると萎れて仕舞うのが世の常なのでしょうが、生憎とわたくし人の姿も備えているのです。
上から数え御髪は十万とあまり。背筋に向けたこれらは滴れるように艶があると評判です。
眉は一筋と一筋、合わせて二筋。丈に合わせ、水を与え整えることを怠ったことはありません。
ぱちりと開くとよくお褒めいただく目の玉もきちんとその下に一つと一つ、合わせて一対。
無論その下には――、ええい、なんでしょうこの紹介はいったい全体わたくしは誰に向けて幸いにも当たり前なら通常人類普遍の身体的特徴を言い連ねているのでしょうか。
割愛いたしましょう。ジリジリと焼け付きを与えてくる陽の光にうんざりしたというのもありますから。
とにかく、わたくしはめはなみみくちかおの立ち、手は一対、足も一対、指の数、五臓六腑にあまりも欠けもありはせず。
強いて人の形に足すところがあるとすれば、とこさきの花が一輪――といったところでありましょうか。
いいえ、いえ、どこに余りあるかと問われましても答えられませぬがよわの花。
これでも殿方に迫られましたなら、袂か裾か、たくし上げてもどこにあるかをお見せせねばいけないのが宮仕えの苦しさなのです。人の形をしていても人ではないものの弱みとでもうそぶいておきましょうか?
まぁ、わたくしおかみはもちろん、時の政府にもお仕えしているわけではないのですが。
無位無官といかないのは上の姉様を飛び越えて、上の上のあねさま、上の上の上の大姉様までいかずばなのです。
えぇ、わたくしどもの家業は秘密が多いのですが、わたくし下っ端も下っ端です。
今はしがない――おっといけないこれは秘密ということで。えぇ、兎にも角にもわたくしども秘すればこその花なのです。
それでもお答えできることがあるとすれば、わたくしども謎多き麗しの花の精たちが枯れずの花を象徴としていただいているとはいえ、切り取り愛でようとは思わぬが大吉かと存じます。
花が先か、人が先か、不幸にもわたくし存じ上げませぬが、ひとたびこのなりから花を落とそうものなら、みるみるうちに花はしおれ盛りをなくし、遺された人の形もまたぱたりと斃れて命を失ってしまいます。
とはいえ数寄者のうちには、わたくしたちの仲間を捕えては四季三百六十五日を選ばずに咲き誇る勇姿を愛でようとする不届き千万な輩もいるそうです。
とは言え、この話を聞いた九割九分九厘の方々は戯れにでもお花を摘まれようとは思われますまい。
「だいじょうぶ? 錨草」
くす
どこか、懐かしい声を聞いてぱっと振り返ると、そこには生まれて初めて会った御仁が日傘を片手に立っていました。
人の身も持たない同胞相手と洒落込んで、感傷に浸るうちに思わず心の声が漏れてしまったのでしょうか?
彼であり彼女でもある金盞花の亡骸に軽く頭を下げてからわたくし威儀を正すべく立ち上がります。手を付くこと、いたしません。もたれかかろうとも手の届くところには緑の生垣、痛みをもって跳ね返されてしまうことでしょう。
「失礼しました。つまべに」様、道中弔いの儀を見つけ、しばし佇んでおりました」
ええ、はい、そうなのです。わたくしが何をしているのかを客観的に述べるとするのなら道端に置かれた植木鉢に話しかけていたといういささか少女趣味の奇行ということになってしまうのでしょうか。
久方ぶりに会った爪紅様は往時のままでした。いいえ、むしろついこの間盛りを迎えたストレチリア のように大変に元気であるように思いました。握手ついでにさんざんに振り回されたものですから、きゃつの元気も相当なものです。
いいえ、彼奴のことはいいのです、爪紅様です。身の丈はわたくしと比して頭半分ほど低く、あの時と変わりはありません。
けれど、どこか身に纏う空気が重くなった気がしてなりませんでした。
それと目に見える変化としては、なぜか頭の横に能面を引っかけていたのですが、ご伴侶さまを亡くして以来、少々心境の変化があったからなのかもしれません。
まぁそれはともかく。
立ち上がってなお、煉瓦舗装の道の片路を埋めていたことに気づいたわたくしは、帽子を取り、少し道を譲る遠慮しいへと姿勢を変えました。じっ、としたのは数秒か目を伏せて一礼します。
「あらため、錨草です。道すがら、冠る名前を略すことをお許しください」
あ、今、くらっとしたのは陽光に中ったからではありませんよ。あ。
にこ
寂しげで、どこか遠くにいるような声が囁き漏れたのは気のせいでしょうか?
「どうやら、錨草はわたしに御用向きの様子、でも少し元気がないみたい。お茶もついでにお話をしましょう」
戯言も睦言も、寝言とばかりに切って捨てんとばかり、くるぅりときびすを返すとついておいでとばかり、手を差しました。どうやら少しばかり子ども扱いされてしまうようです。
でも、わたくし、ここで突っぱねるのもいささか子どもっぽい。
握り。ひんやりとした手のひらに驚く心臓に喝を入れながら、わたくしは爪紅様のお宅へと招かれようとすることにいたしました。
あぁそれと。
少しばかり名残を惜しんで背を見ると、あれと小首をかしげることになったのですが、それはまぁよいのでしょう。
捨て置かれたはずの植木鉢の中身はしっかりと咲き誇っていました。
ガラスに水滴が垂れ、滴り落ちる。コップを持ち上げると木製のテーブルにギザギザの輪を作るところが見えました。
冷涼な喉越しと心なしか涼やかなLEDの電灯にふと一息をつきます。ええ、光と水とCO2、揃っていれば働けるのが我らです。
縁側からびゅうと吹く風が風鈴を騒がしく打ち鳴らし、たまらず席を立った対面席の爪紅様の背を追うのも束の間。
目の前のガラス鉢では、緋の衣をひるがえす琉金がぱしゃりと跳ね、しぶきが顔にかかりました。
さて。顔を濡らしたことをどうこう言い募るつもりはありませんね。
少し不躾とは思いましたが、鉢を少し脇に寄せることにいたします。少しでも爪紅様のご尊顔が目に入るように、少しでも爪紅様の瞳にわたくしが映り込むように。
爪紅様が音を立てずに着座して、目論見が達成されたことをわたくしはすぐに知るのでした。
おおっと、時にここからの話については少々掻い摘むことになってしまいますが、ご容赦ください。
いつぞやのお仕事の際しては将棋指しどもの遊びごとに付き合うのも飽き飽きしたわたくしであるということ。
大なりて、大なりて、最大なる姉様のおひとりたる風露様にさんざっぱらに振り回され楽しかったこと。
タイムマシンの使用許可が下りた際に随伴とはいえ同行が許され、大変珍しい経験を前に魂が打ち震えたこと。
ああそれと、わたくし斯様に厳めしい心の声を発していますが、実のところ普段はフランクですのよ、ほほほ……。
と、まぁ、わたくしに関しての話は尽きる気配もなかったのですが、それをにこにこと聞いてくださる爪紅様に対して話を持ちかけねばならないのです、少々気兼ねはいたしますが、ええい南無三。
「南無八幡大菩薩。願わくばこの矢外させたもうな!」
「那須与一かな? 錨草」
はい?
はっ、とうとう心に思った言葉が漏れてしまったようです。しかも全く脈絡がないのです、どういたしましょう。
ちな、この言葉は源平合戦の屋島の戦いの折に弓の名手である那須与一がかの有名な扇の的を射中てる際に願をかけて発した言葉の一部なのです。原文はもっと長いのですが、今この場で言っても詮無きことですね。
とは言え、わたくし誓いの言葉を飲み込むことは致しません。
ぐっとわたくし、自慢のまなこを見開いて気分は那須与一、視線を矢に見立て打ち放ちます。
どうですか!? おおう……胸を押さえ、どうと倒れ伏す爪紅様……などということは全くもってありません。爪紅様は視線をしかりと受け止め、見つめ返してくださいました。そうです、我らは子どもじみたやり取りは卒業したのですから!
そんなわけで我ら、いいえ。わたくしひとりですね。
達成感に打ち震えるはそこそこにして、爪紅様に対し淡々と要件を伝えていくことにいたします。
いわく。
一.「イグニッション・ユニオン」なる闘技大会が開かれること。
二.付随して「山乃端一人」が殺害されたこと。
三.闘技大会には「鏡の世界」を作り出す転校生が介入していること。
無論、五億円の賞金などにも触れさせていただきましたが、我々の共通認識としては大意ではないということは自明であったため、論点は以上の三つに絞られました。
「山乃端一人」、「鏡の世界」、どちらも上の上の上の姉様にとっては興味の惹かれる事象であった、それだけで下の下の下の妹であるわたくし「錨草」が働くには十全です、つまりはそういうことなのです。
「ははぁ、四季の総元締め様たちもやはり年頃の乙女らしいところをお見せになるのね」
つまりは何事にも興味津々で移り気で勝手気まま――、外見がうら若く、麗しく、乙女かどうかはさておいて女性らしくあるかの方々に向けて、爪紅様は困ったような、嬉しいような、万感の籠った言葉を吐き出しました。
わたくしが直接お会いしたのは下でお仕事をさせていただきました秋の「風露」様のみですが、それでも大変にファンキーかつファンタスティックな方であることは魂に焼き付いております。
とまれ、上の上の上の思惑について思慮を深めても意味はなく、とどのつまり我々に拒否権はないということでした。もちろん、それ以前の問題として渦中の闘技大会とやらに出場できるかという問題は残っているわけですが……。
「そして、武闘派……いや、武闘型と名高い・・・・・・に声がかかったと……ふむ。
で。ねぇ、錨草? 好奇心の色は知っているよね、ではこの色は何の色だと思いますか?」
爪紅様は言います。そうして言うか、言うも終わらずかのうちに爪紅様は目の色を変えました。
爪紅様の瞳の奥には緑の光が宿っていました。言葉と前後して一変、させたのです。そう、それは今までの瞳の色がまるで外界から差し込む光を遮るカーテンの色に過ぎなかったとでもいうように……。
わたしは爪紅。
登下校の小学生の友でもあったホウセンカの花を象徴する女。
鏡台に伏して、可憐な寝息を立てる錨草の頬にぷつり、ぷつりと血の珠を落としていく。
「紅。あなたの血も赤いのですね?」
もちろん、それはわたしの血だ。わたしたちには等しく例外なく赤い血が流れている。
それが人と花の両義から成る私たちの本領でもあるのだから。
血の珠はごく小さいもので、わたしは爪の腹を使って丹念にそれを潰していった。
頬紅は口紅ほどには赤くなってはいけないから。
ハンカチで余分をぬぐい、絆創膏で紅色が漏れ出るのを閉じる。
「紅。なにをしたのですか?」
この子はわかっていてもこういうことを聞く。私が喋れないのをいいことに。
朱総の付いた鏡台の鏡にはすやすやと寝息を立てる錨草、それに私自身、そして私の口から漏れ出た緑色の炎、長々と引く煙の尾を追っていくと、やがてドレスめいた輪郭を宿す少女が形を成す。
スダマチカだ。火の精で、その前は木の精。さらにその前は人であった少女。私からの愛称はチカちゃん。
ちなみに、さらにさらにその前は知らないのだという。
なお、私には今も昔も自分が純粋な人であったという記憶はなかったりする。
「紅。黙っているのですか? ああ、喋れないんですね、うふふふ」
そう、私が喋らないのは何も私が急に唖になったとかそういうわけではなく、単に彼女が私の口をふさいでいるから、それだけの理由だ。噛めない麩菓子が口中を占拠している感覚、とか言えば余人にもわかりやすいだろうか。
それから錨草について。あの内心が穏やかではない子が急に黙った理由は自分の美しさに見とれるあまり、鏡を見て気絶してしまったからだったりする。
そのやり取りはあまりにも騒々しいものであったため割愛させていただく。
どうやらわたしの化粧師としての腕ないし、わたしの血の美容的価値は計り知れないものであったらしい。
もっとも、それ以前にこの子の見目が良かったという当たり前の事実を忘れてはいけない。わたしなぞを慕ってくれるあまりこの子は自分の価値を割り引いて考える。
(この子は美しいよ。きっと万人が振り返るだろう)
あぁ残念、本人もチカちゃんも聞こえない、いくらでも歯の浮く言葉を言い立てられそうなのに月並みな言葉しか出ては来やしなかった。
ああ、ぼんよりとした寒天のような存在感、半実体半霊体のエクトプラズムが視界を占拠している。
けれど、獰猛に歯を立ててやれば噛み切れるなんてやわな妄想はやめよう。
「紅、どうするのですか? 元より私はお兄様と一緒ですから。私はどっちでもいいですよ、うふふふ」
するすると私の体の中にチカちゃんが戻っていく。私は喋れるようになった。
自分で言葉を発して決めろと言うことだろう。彼女は例の大会に出るも出ないもどっちでもいいし、極論なにもかもどうでもいいのだ。
チカちゃんは私の中にいることで最愛を独り占めにできるのだから。彼女は存在するだけで満足している。
「チカちゃん、わたしは行くよ。行くだけ行ってみるよ、あの人に悪いからね。だから付き合って」
ごめんね、錨草。
わたしは一人ではどこにも行けない、ふたりでいなきゃダメなんだ。
だから三人目のあなたは置いていく。
そう、心の中で謝りながら私は私の側頭部に立てかけた泥眼の能面に手を掛けた。
生きている錨草と同じ鏡像の上に、見たくて見たくないものを映し出すために。
わたしは爪紅。
爪紅とはホウセンカの別名であり、その花の汁を使って爪を赤く染め上げたことを由来とする。
ホウセンカには別名がまだあり、それをほねぬきという。その由来は――。
だけど、わたしは由来を曲解する。
わたしの夫、チカちゃんのお兄様、ふたりの最愛の人は死んで、骨しか残らなかった。
つまりは――そういうことだ。私は骨の半分以上を夫からもらった。