1 鬼神に臨むは隠の忍
●約四十年前、森の中の洋館にて
夢を見ていた。最近の夢だ。
僕と彼女が、新居を構えてから数十年、幾度となく送り込まれた伯父さんからの刺客。
そのうちの一組の記憶。
四十年ほど前のことだったと思う。
無数の暗殺者、退魔師、怪異狩りと比べても、特段に苦戦したわけではない相手。
それでもどこか、記憶の片隅に引っかかっている、そんな経験だ。
昼と夜の交じり合う、黄昏時。
烏の鳴きかわす夕餉の頃に、その闖入者は現れた。
死角を縫うように忍ぶ動きは、真正面から捻じ伏せる鬼やバッテンフォールの術師とは明確に異なる術理だ。
濡れた刃が百合子の腕を掠める。
毒。
並の相手であれば、皮膚一枚切り裂けば自由を奪い――死に至らしめるのだろう。
だが、百合子は『鬼神』。
天元ともいうべき世の基盤すら突き破る、『最強』を体現するもの。
だから、無傷。
その毒刃は、透き通るほど白い肌に数寸とも食い込むことはない。
不意打ちを意に介することもなく、百合子は無造作に腕を振るった。
蠅でも払うような挙作。
だがそれは、直撃すれば常人を容易く肉塊にせしめる砲弾の威力を帯びている。
僕でも、まともに受ければ数mは吹き飛ばされることだろう。
その、彼女にしてみれば牽制――そして、客観的には必殺としか言いようのない一撃を。
――魔人能力『人遁・身ノ城』。
十代にしか見えない少年忍者は、真正面から受け止めた。
「ほう」
魔人能力だろう。僕以外で、百合子の攻撃を受けて無事な相手は数十年ぶりだ。
だが、それよりも僕の目を引いたのは。
絶対の一撃を止めた魔人ではなく。
そのまばゆい活躍の陰を縫う――
――陰、忍、隠、疾。
影から飛び出すように、壮年の男が現れた。
術式ではない。魔術、呪詛ではない。魔人能力ではない。
呪詛、チャクラ、異能の類であれば、百合子の洞察がその起こりを読み取るはずだ。
それがないということは――徹頭徹尾、ただの体術。
あるいは、ただ相手の意識の隙をついただけの隠形術。
そんなもので、戦闘態勢にある百合子と僕の不意を突けるとは、驚きだった。
壮年の刺客が刀を振るう。
チャクラの発動はない。
魔人能力の干渉はない。
天与天賦の才能もない。
魔術呪術による身体改造もない。
ほんの少しだけ速く踏み込み。
ほんの少しだけ静かに動き。
ほんの少しだけ死角を取り。
ほんの少しだけ定石を外す。
そんな、凡人でもできる「ほんの少し」を幾重にも積み重ねて、鬼の首へと至る刃。
研鑽練磨のその果て、人の身で届く至高の斬撃が白い少女鬼の首筋へと吸い込まれ――
その柔らかい瑞々しさすら見て取れる皮膚の表面で、止められた。
彼女の強靭さは、天与のもの。常動のもの。
防御術式の類のように、不意さえ打てば貫通できるものではない。
「まあ、悪くはなかったのう。名乗れ。首代わりに名で勘弁してやるとしよう」
今の攻防で、圧倒的な実力差を理解したのだろう。
「不忍池忍軍、下忍。不忍池 守破離衛」
絶対の防御で百合子の攻撃を受け止めた少年と。
「不忍池忍軍、中忍。”追い忍”の、白烏」
研ぎ澄まされた隠形で刀を百合子の首に届かせた壮年の刺客は、刀を収めた。
僕の記憶に刻まれたのは、百合子の一撃を止めた少年よりも、壮年の刺客の剣撃。
凡庸な一閃のはずだった。
僕ならもっと鋭くできる。
僕ならもっと強くできる。
僕ならもっと速くできる。
なのに、あの瞬間、百合子の首を狙った剣閃に目を奪われたのは、なぜだったのか。
夢を見ていた。最近の夢だ。
ほんの、瞬きをするほど、つい、昨日のような――。
2 無双の兵の悩み事
●現在。元『呪いの殺戮人形が潜む呪われた洋館』にて
「起きんかクロ! またレムレムしおって、じゃから昨夜はいい加減にして寝ろというたのじゃ!」
「夕べはお楽しみでございましたね。シーツを洗う方の身にもなっていただきたいですこのラブラブ夫婦めでございます。いいぞもっとやれでござ」
多少デリカシー回路がバグった使用人の呪詛人形、ファイの言動に斜め四十五度のチョップで修正を入れると、僕は一つ大きく伸びをした。
どうやら、居間のソファーで居眠りをしていたようだ。
あの『結婚式』ならともかく、伯父さんから送られてくる刺客を夢に見るなんて、久しぶりだ。
僕らにとって、当代最強を名乗る人間が襲い掛かってくることは日常茶飯事。
その中の一つを思い出すなんて、何でもない日のランチがフラッシュバックするようなものだ。
「それより、クロ、いつもの頼む。面倒をかけるが」
見れば、百合子は洗面器に湯をはって、指先を浸していた。
タイマーが鳴る。彼女の準備ができた証だ。
「まさか! 百合子のお洒落に役立てるなら喜んで! 終わったら言ってくれ!」
魔人能力――『独断専行唯我独尊』発動。
対象定義――『百合子の手の爪』。
魔人能力、個人の認識によって世界のルールを捻じ曲げる異能力。
僕、クロムウェル・バッテンフォールのそれは「対象を『斬れるモノ』に変える力」だ。
これにより「なににも傷つけることができない」彼女の爪を、「加工できる」ように再定義する。
百合子がしているのは、最近彼女がはまっているネイルアートだ。
爪を整え、ベースを塗ったりして、爪をキャンパスに、鮮やかな色彩を描くお洒落である。
僕は百合子のそのままの爪、桜の花びらみたいにほの赤い貝殻のような形もたまらなく愛らしくて大好きなのだけれど、彼女が自分の好きなように無心で爪を彩っている様子は、見ているだけで僕も幸せになるのだ。
僕の魔人能力は本来、僕、クロムウェル・バッテンフォールが『斬るべきモノ』を自分で決めるために覚醒したものだ。
だが、結果としてその能力は対象を『世の中で当然斬れるべきモノ』に変える力となった。つまり、『斬る』主体が僕でなくてもいい。
だからこうして、『斬れるモノ』となった自分の爪を、百合子は本来刃が立たないはずの爪切りなどで整えることができる。
僕と出会うまでは力任せに伸びた爪を処理していたそうだが、今は細かくアレンジできるのだと彼女は喜んでいた。
鼻歌混じりで爪と向き合っている彼女は本当に美しい。可愛い。可憐だ。ラブ。僕の数百年の人生経験で培った語彙力ではとても表現しきれない尊みが溢れて画像リプを貼り付ける限界感想おじさんになってしまう。
「……できれば、削って整えたりもしたいんじゃが」
「ごめんね、僕の能力じゃ『斬るモノ』にするだけで精一杯だから」
「ぐぬぬ。そのような殊勝な顔をしおって……許さざるを得なかろうが! よい! わらわの爪はやすりなどかけなくてもつるつるのつやつやじゃ!」
危ない。ちょっと興奮が爆発して意識がどこかに飛びかけた。
視線だけでこちらの思考を停止させるとかどんな無差別呪詛か。いや祝福か。うちの嫁が呪詛なはずがない。ゴッデスブレスミー。
「聞いておるかー? 今回はちょっと上級編で、たらしこみネイルに挑戦してみようと思うのじゃが、これはな、ぼやけのニュアンスを出すのに――」
熱っぽくネイルアートのなんたるかについて語る百合子。
僕はその内容の半分も理解できないけれど、一生懸命な彼女の顔を見ているだけでたまらない。うちの嫁がマジ天使。
「よし、終わったぞ、待たせたの」
「おつかれさま」
魔人能力――『独断専行唯我独尊』――定義、解除。
「それで、旦那様、奥様。大変まったりなラブラブ日常の一幕の中恐縮ですが、そろそろ、先日私が御提案いたしました、『【我ら夫婦こそ天上天下超最強】ワクワク☆ナンバーワン百合子とマスタークロムウェルのテッペン防衛戦大結婚式【文句があるならきやがれ】』大作戦がはじまるわけですが」
「名前、変わっておらぬかえ?」
「……『【我ら夫婦こそアルティメット超最強】爆裂☆エクストリーム百合子とプロフェッショナルクロムウェルの名人位防衛大結婚式【永遠はあるよ】』大作戦、その一戦目が近づいております」
僕らに仕える自律型御奉仕特化呪詛人形、ファイはもう作戦名が適当なのを隠しもしていない。
人形ってボケ倒しもできるんだなあ。
ともあれ、ファイの言うとおり、僕ら夫婦の結婚百周年を祝う二度目の結婚式を大々的に開くための下準備の舞台、『イグニッション・ユニオン』の一回戦は、刻一刻と近づいていた。
対戦相手が決まり、対戦場所を知らされて、僕にはここ数日、頭を悩ませていることがあった。
僕たちがこの戦いに挑む目的は二つ。
大会の戦いを通じて、友達を作ること。
そして、大会で最強であることを示し、その「最強の名」を求める挑戦者を――二度目の結婚式の参加者として――募ることだ。
そのどちらを達成するためにも、僕らは「本気で」闘うことはできない。
たとえば一回戦の戦場は「秋葉原」だという。
東京の一地区、1km弱四方。
せいぜいが0.4~0.5㎢といったところ。
狭すぎる。
魔人能力で展開した鏡面空間ということで、環境破壊は気にせず戦えるのは事実だ。
だが、こんな手狭な所では、百合子の本気の拳一発で、戦場ごと相手は消し飛んでしまうだろう。
『天才』――格闘技のチャンピオンに喧嘩を売る人間はいても。
『天災』――火山から流れてくる火砕流に単身で立ち向かう馬鹿はいない。
僕と百合子の持つ力は、『天才』ではなく、『天災』に属するものだ。
だから、百合子と自分が『天災』ではなく、『天才』止まりであると偽装しなければ、この大会に参加する目的は達成できない。
傲慢な話だと自覚はしている。
それでも、人の輪郭を持つものとして、人と触れあいたい。
その方法を、僕も彼女も、戦いしか知らない。
そんなふうに育ってしまったから。
そういう意味で、数年に一度、当代有数の暗殺者を差し向けてくる百合子の伯父さんには感謝していた。当然、僕ら二人が全力で闘えるような相手なんていないけれど、それでも、一芸に秀でた相手と真剣に向き合うのは、貴重な人との交流だったからだ。
「どうしたクロ。浮かぬ顔をして。まさかおぬし、わらわ達がどこの誰とも知れぬ魔人どもに、遅れを取るとでも思うてか」
「違うよ百合子! そうじゃない。むしろ、僕と百合子が強すぎることを心配していたのさ」
僕はファイの無差別転移能力を利用して集めさせた、一回戦対戦相手の資料を百合子に見せた。
ぱりなリサーチ事務所。
この国の裏社会における、背約粛清で名をはせた不忍池忍軍の出身者のタッグ。
それは、つい先日――四十年ほど前に、百合子が一蹴した忍者の組織だ。
しかも、片方は、あの日の刺客と同じ人間だという。
「懐かしいのう。わらわの拳を受け止めた童子――しゅばりえ? とか言ったか、アレはおらんようだが」
白烏。あのとき、僕と同じくらいの見た目だったから、おそらく今はすでに老人だろう。
ちょっとだけ心が痛む。
僕らと彼らの間に、あまりにも残酷なハンデが存在していたからだ。
あの日から、僕も、百合子も、最盛期の肉体のまま、技量を修練で高めている。
それは、不老の体あってのことだ。
対して、あの壮年の忍びは、もちろん多くの経験は重ねたろうが、老いて、衰えているのだろう。
そうやって、人間は、僕らを残して老いていく。
そうやって、人間は、僕をら残して置いていく。
「むう。眉根が寄っておるぞ。煩い事があれば言え。おぬしはわらわのモノであるからして、おぬしの悩みも苦しみもわらわの共有物じゃと言うておろうが」
心の底で首をもたげた負の感情を、小首を傾げた百合子の表情が吹き散らす。
そうだ。僕にはこんなに素敵な最高のパートナーがいる。
僕のあんぽんたん! それ以外、それ以上の何を求めるというんだろう!
「ありがとう、百合子。気にしていたのは、僕らと相手との実力差さ。不忍池の忍者と僕らの格付けは、この前の闘いでもう済んでいるからね」
「……ふむ。あの日のように一瞬で蹂躙しては、友情も芽生えぬ、『最強』に挑戦しようという馬鹿も熱が冷める。そういうことか」
相変わらず百合子は聡い。
僕への想いが絡まない限りにおいて、彼女の洞察力は未来予知か読心力に近い。
「ならば、クロ。わらわを『斬れ』」
そして彼女は、僕の考えていたことを見透かしたように微笑んだ。
罪悪感に心が痛む。
いかに僕ら二人の目的とはいえ、それをしてしまうことは、彼女の楽しみを削ぐことになる。
けれどそれが、目的を達成するための最適解であることも事実だった。
彼女はそんな僕の迷いを全て受け止めて、許してくれたのだ。
僕は、手刀を構えると、彼女の細い首に触れるように押しあてた。
「ごめんね」
「違うな。わらわを慰めんとするなら、「ありがとう」じゃ」
「――ありがとう! 百合子! 愛してる!」
魔人能力――『独断専行唯我独尊』発動。
対象定義――『■■■』。
3 敗闘の追憶
夢を見ていた。ひどく昔の夢だ。
かつての主と自分が、まだ二人忍であった頃。
それは、シンプルな暗殺依頼。
とある鬼と、不老の剣士を殺せというもの。
結果は敗北。
なんの刃も通さぬ皮膚を持つ鬼と。
なんの鎧をもってしても阻めぬ刀を振るう剣士。
不壊の盾と必殺の矛を前に、『希代の追い忍』として名を馳せた二人は敗走した。
なぜ、斬れなかったと、夢の中の相棒が言う。
相棒は役目を為した。無敵の鬼の拳を受け止めた。
それなのに、貴様は、何を為したのかと男を糾弾する。
夢だ。悪夢だ。
本当の相棒は――後の男の主は、男を責めたりはしない。
任務に失敗した時はおろか、――最期のときにすら、主――不忍池 守破離衛――”御館様”は、笑って男を受け入れた。
耐えがたい悪夢。
許しがたい過去。
白烏は、夢の中の自分の手を見る。
皺のない、壮年期のそれを否定する。
違う。そうではない。皺を刻め。痩せ細れ。
手が、早回しで老いていく。
そうだ。それでいい。これが自分。今の自分だ。
いつの間にか手にしていた仕込み杖から刃を抜き、己の腹に突き立てる。
そして、ひどく昔の悪夢は覚めた。
4 弱者の詭道忍び術
「なにこの二人。巍然屹立なんですけど。盛り過ぎじゃね?」
「……残念ながら徹頭徹尾真実にございます」
「うへえ。轍鮒之急」
興信所「ぱりなリサーチ事務所」の事務所は、都内のマンションの一室にある。
小さな応接のソファーで、女子高生忍者所長、不忍池 ぱりなは、ぐったりとのけぞっていた。
「このかわいい女の子は、斬っても斬れない、毒も効かない、眼球に銃弾打ち込んでも跳ね返して魔人能力も一発看破してパンチ一つで山を砕くスーパーガールで? 金髪着流しお兄さんの方は、世の中にあるものなんでも斬っちゃう超絶スゴ腕剣士? ないわー、ブクロの新作プリでもそんなに盛れないし」
「初戦から難敵でございますな」
ぱりなに仕える老忍者、白烏は、忍軍の手のものが集めた資料を読み返す。
『ぱりなリサーチ事務所』のPRのために出場した闘技大会「イグニッション・ユニオン」の初戦。
対戦相手『【二度目の結婚式来賓募集中】鬼と元怪物狩りのスーパーミラクル☆ラブラブラブリー夫婦【友達も募集中。是非来てね】』の、クロムウェル・バッテンフォールと、百合子は、かつて白烏が若かりし頃に任務で暗殺を試みた対象だった。
そして、つい最近に撮られたという写真を見る。
四十年近く昔に相対したときと変わらぬ若さの二人。
百合子は鬼という種族特性による不老。
クロムウェル・バッテンフォールは、退魔の一族の秘術による肉体改造での不老という。
「……爺や、寝不足?」
「年を食うと眠りが浅いのが当然になりましてなあ」
ごまかしながらも、老忍者は、ぱりなの見立てに感心した。
この若い主は、妙なところで人の機微に鋭い。
実際、かつての敗北の相手である、無敵の鬼と魔剣士が次の相手と知り、白烏はここ数日、過去の忍務失敗を夢に見ては、うなされていた。
だが、それはあくまで、白烏の個人的な事情だ。
孫も同然の今代の主、ぱりなに心配させるようなものではない。
自分は彼女を守る側になる。
それが、亡き先代当主、不忍池 守破離衛への、白烏の誓いだった。
「ふうん。……わ、見てよ爺や、ゆりりぃ、最近ネイルハマってるって! ネイ友になれっかも!」
「お嬢様、真面目になされ。勝手に敵に愛称など付けられますな。情が移りますぞ。情は侮りに通ず。忍びの三病厳に戒むべしで――」
「忍びの三病、一に恐怖、二に侮り、三に過ぎたる思案也っしょ。侮り回避で逆にビビってバイブス萎縮震慄とか、削足適履じゃね? こういう趣味が大逆転の秘策になることもあるかもしれないんだし――うわ、マジ!? このクロムウェルってイケメン、制服フェチっぽいって! レベル高杉晋作クンかよー! 妾ストライクゾーンだったり?」
「いや、それはないかと」
「冷静か! ま、そうだよねー、どの資料見ても奥さんラブだし。かー! 二人の世界か! 二人以外視界に入ってないってか!! リア充祝福しろ!」
およそ、基礎能力の高さにあっては、今回の大会参加者随一と言える二人だ。
真正面からぶつかり合うタイプの魔人ではない、ぱりなと、そもそも非魔人である白烏が、無策で勝機を見出せる相手ではない。
何らかの策を講じて二対一に持ち込んだとしても勝てないだろう。
そもそも、百合子を傷つける手段を、白烏たちは持ち合わせていない。
ぱりなの魔人能力、『手裏に秘するがしのぶの華よ』は強力だが、最大威力で行使しても、百合子の皮膚に傷一つつけられないだろう。
一方で、クロムウェルの肉体は、百合子ほど規格外ではない。
二人の屋敷に、SMプレイセットが搬入され、使用された形跡があるとの情報がある。
SMとは、痛みを媒介にしたコミュニケーションだ。被虐の側に痛み(と同時に快楽)が発生しなければ成立しえない。
百合子の肉体に市販のSMセット程度で痛みが生じることはないことから、おそらく被虐側はクロムウェル。つまり、一般人向けのSMセットで痛覚が生じるプレイが発生する程度に、彼の肉体は「普通」であるということだ。
だが、彼には卓越した戦闘技巧がある。一度戦闘モードになった彼を傷つけようとするのは至難の業だ。
彼は、物体はおろか概念をも『斬れるモノ』とする能力により、絶対の攻撃力と、害為すものを『斬る』ことで無力化する、最優の防御力を誇る。
いずれにせよ、白烏とぱりなの二人だけで、無力化することは難しいだろう。
であれば、勝ち筋はただ一つ。
クロムウェル・バッテンフォールに、百合子を、斬らせる。
だが、そんなことができるか?
妻を溺愛するあの男が、卓越した剣技を誇るあの魔剣士が、錯誤で最愛の女を斬る?
そんな状況を、自分たちは、作り出せるのか。
「……うーん。無理くね?」
ここまでの白烏の考えを、ぱりなは一言で否定した。
「いや、爺やの策は忍び的に妥当なんだけど……その。やっぱさ。めっちゃ比翼連理の二人に同士討ちさせるのが本命ってのは、厳しいかなー」
「何か策がおありで?」
白烏の問いに、ぱりなは悪戯っ子めいた笑顔を浮かべる。
「勝率、二割。けど、妾と爺やなら、いけるっしょ!」
5 一切皆空 衆生之理
「曇天重く立ち込める秋葉原、サブカルチャーの聖地から、己が主役だと叫ぶのはどちらのタッグか! 火と火を重ねて炎を燃やせ! イグニッション・ユニオン!」
イグニッション・ユニオン本戦一回戦当日。
東京都千代田区外神田中央通り。
JR秋葉原駅の西を東西に伸びる大通りで、『ぱりなリサーチ事務所』と、僕ら『【二度目の結婚式来賓募集中】鬼と元怪物狩りのスーパーミラクル☆ラブラブラブリー夫婦【友達も募集中。是非来てね】』は向かい合う。
響くアナウンスと、遠巻きに取り巻く観客たちを、百合子はもの珍しげに見渡した。
「なんじゃ、ずいぶん盛り上がっているではないか。人間の民草も闘争に昂る野性は持ち合わせているということか、善哉善哉!」
「百合子は美しいからね! 目にするだけでも盛り上がるというものさ!」
「ふふん、当然のことよ。じゃが、女子たちがクロを見て黄色い声をあげるのは少し気にくわん。本来なら見る権利すら一秒も許さん」
頬を膨らせる百合子。
それは、普段の彼女とは少し違う反応だった。
いつもの百合子ならば、不服を口にするより先に僕を抱きしめるなり、あるいは僕を見る女の子たちに飛び掛かる(そして僕に止められる)なりするはずだ。
やはり、『独断専行唯我独尊』で彼女の心性の一部を切除した影響が出ているようだ。
僕が『斬れるモノ』と定義して切り捨てた彼女の精神は『闘争心』。
彼女の魔人能力『鬼神』の源泉。
古今無双の鬼、『武帝』の血脈として百合子が身に宿す、絶対性の核だ。
今の彼女は、本能的な戦闘衝動と、それに起因する自分の絶対性への確信を一時的に失っている。
感情の類は環境からの刺激に対する反応として常に発生するから、時間が立てばやがて復活するが、僕の能力で斬ることで、一日程度それを抑え込むことはできる。
これでようやく、『天災』級の能力を『天才』程度に留めおくことができるはずだ。
彼女は芸術的なまでに手加減が得意だが、興が乗る――闘争心に酔うと、その加減をふとした拍子に手離すことがある。それを防ぐための措置だった。
これでようやく、百合子の実力は、魔人傭兵隊二個大隊程度まで押さえ込めているはず。
うっかり全力を出しても、秋葉原の半分程度が消し飛ぶだけで済むだろう。
対戦相手を見る。
不敵な笑みでストレッチをしている女子高生と、小柄な老人。
老人の方には、いつかの壮年の忍者剣士の面影がある。同一人物なのだろう。
小さくなったなあ、というのが、まず浮かんだ感想だった。
この前に戦ったときには、僕とさして変わらない身長だったはずだ。
いや、身長だけの問題ではないのだろう。
まとう覇気、戦闘者としての圧、そういったものが、かつてと比べるべくもなかった。
一切皆空。
幼いころの家庭教師の一人、東方の術師の言葉を思い出した。
世の中にうつろわぬものは何一つなく、それが世に生きる衆生に平等な理であると。
「それでは、これより、『ぱりなリサーチ事務所』VS『【二度目の結婚式来賓募集中】鬼と元怪物狩りのスーパーミラクル☆ラブラブラブリー夫婦【友達も募集中。是非来てね】』の試合を開始します!」
高らかな宣言と歓声、拍手。
そして、次の瞬間、世界が遍く反転した。
6 鏡陣剣戟、不老と老と
反転する。逆転する。鏡鳴する。鏡感する。
世界が歪み、全てがさかさまの世界へと、僕ら四人は放り込まれた。
イグニッション・ユニオン運営サイドに所属する魔人――鏡助というらしい。明らかに偽名だ――の能力『虚堂懸鏡』によって生み出された、鏡面空間。鏡助の認めた知性体しか入ることができず、ここで起こったどんな破壊も、現実世界に影響することはないという。一種の仮想空間だ。
周囲を見渡す。
建物、街並は鏡写しで反転したそのまま。
あれほどごったがえしていた観客たちは忽然と消えている。
観客たちが着ていた服、手にしていたカメラやスマホが地面に落ちたりはしていない。
駐車されていた乗用車は、消えているものと、残っているものがある。
おそらくは、この空間が生み出されたその瞬間に、『招待』されていない知性体が触れていたもの、あるいは、自分の一部と認識していたものは、複製されないという仕組みなのかもしれない。
「御機嫌如何! 妾は不忍池 ぱりな。クロやん、ゆりりぃ、よろ!」
沈黙を破ったのは相手方の黄色い声だ。
無駄にテンションの高い女子高生忍者が構えたのは、色とりどりのストーンでびっしりとデコレーションされた苦無だった。
正直、わけがわからない。忍者の道具なんて、目立たないようにしてなんぼ、というもののはずだ。
あんなに派手派手にしては暗器の意義を否定するようなものだろう。
「……む。かわいいではないか」
「お、ゆりりぃ生類わかりみの民? 最高! やっぱアイテムは飾ってなんぼだし!」
「傾いた忍者もおったものよの!」
まず動いたのは、女性陣だった。
ぱりなが投擲したデコ苦無を、百合子は踏み込みながら首の動きだけで紙一重で避け――
がすっ
確実に苦無を避けたはずの百合子。
しかし、鈍い音を立てて、ほんのわずかに百合子の首がのけぞった。
「ほう、魔人。具象化系か」
「金城鉄壁!」
にたり。
凄絶な笑み。
鏡像の秋葉原の気温が、氷点下まで下がったような錯覚。
「アレはわらわの玩具じゃ。おぬしには爺をやる」
「あの子が僕に攻撃しない限り、互いの獲物には手を出さない。それでいいかい?」
「よい!」
応えるや否や、百合子はビル街の奥に消えていく女子高生を追っていった。
奇しくも、男同士、女同士の一対一。
僕らの能力はコンビネーションを前提としない。
一方で、忍者は個々の弱みを連携で補うことが多い。
僕らにとって戦いやすい展開ではあった。
後方から伸びる白刃。老忍、白烏の不意打ちだ。
派手な女子高生と百合子の攻防にほんのわずか意識を向けた隙の隠形。
魔人能力ではない。ただの忍び足だ。
単純だからこそ、魔人能力など超自然の異能の発生を感知する術式での看破が難しい。
鞘に収まったままの呪刀【黒雨】でその刃を逸らす。
足元に違和感。
受けに回った踏み込み足に、まきびしが刺さっている。
痛みはないが、体内に刻印された呪詛が起動する。
どうやら、毒が仕込まれていたらしい。
ヒュドラの抜け殻。コカトリスの嘴。体内に埋め込まれた呪物による中和術式が数秒で解毒する。
牽制の一閃は沈み込むような動きで回避された。小柄さを活かした立ち回り。
腕の腱くらいは断つつもりだったが、思ったよりは動く印象だ。
突然視界が煙で覆われる。
煙幕。
さすが忍者、手を変え品を変えよく動く。
だが、それは悪手だ。
魔人能力――『独断専行唯我独尊』発動。
対象定義――『煙幕』。
斬。
呪刀【黒雨】が煙を薙ぐ。
途端に、周囲を包む煙は忽然と消え去った。
魔人能力――『独断専行唯我独尊』――定義、解除。
僕の魔人能力『独断専行唯我独尊』は、対象を『斬れるモノ』にすることだ。
そして、『斬れる』とは、僕にとって、『殺せる』ということ。
故に、僕に仇なすモノは、斬った瞬間にその加害性を喪失する。
この特性により、僕は火炎放射や毒ガス、煙幕といった流体について、斬った残骸でデメリットを負うことがない。先の「結婚式」で幾度となく僕らを守ってくれた副作用だ。
この特性は理解していなかったのだろう。
無防備な態勢で距離を取ろうとする老忍者――白烏に、僕は刃を振り下ろした。
魔人能力――『独断専行唯我独尊』発動。
対象定義――『闘争心』。
刺突。
刃は臓器や血管の間を縫い通すように。
一切の物理的損傷なしに、ただ、『斬れるモノ』として定義した感情だけを切除する。
魔人能力――『独断専行唯我独尊』――定義、解除。
「っ!」
わずかな呻き。
だが、老人の動きはさして鈍らなかった。
彼の戦闘の動機に、『闘争心』は大きな割合を占めていないようだった。
思考が冴え冴えとしていくのが自覚できる。
百合子と、ファイと、賑やかに騒いでいる「僕」ではなく。
傲慢で、残忍で、己から人としての真っ当な生を奪った一族を呪う「俺」の意識が首をもたげる。
百合子とファイは、僕にとって、「俺」という刃を抜き身のままにしないための鞘なのだろうと、冷えて研ぎ澄まされていく意識の中で思った。
遊びのない思索が回転する。
どの程度の攻防で決着すれば、相手に恨みの念を与えず好意的な印象を与えるか。
どの程度の演出をすれば、この戦いを見ている馬鹿たちが、「最強」に目をくらませた熱情のまま、俺たちの「二度目の結婚式」に押し寄せてくるか。
圧倒的な実力で勝ちもせず。
しかして、負けもせず。
手裏剣、仕込み銃撃、火薬玉の爆音からのビル壁面を足場にした三次元機動。
それらをいなしながら、俺はプランを構築する。
老忍者の手札は、豊富な暗器と身の軽さ。
だが、真正面から力押しをするだけの膂力はない。
常にこちらを攪乱し、こちらの集中力が最低の時に、己の集中を最大にして斬りかかる。シンプルで、嫌らしい戦術だった。
だが、それも全て、凡人の身体能力の範囲でのこと。
四撃で戦闘の動機となる感情を切除。
動きを鈍らせたところを、五の峰打ちで意識を断つ。
筋書きは、決まった。
「”追い忍”の白烏、だったか」
斬りかかりつつ呼びかけたのは、一瞬で決着をつけないための間つなぎが五割、あとは、もう俺にとっては少なくなってしまった人間の知り合い――ただ命を狙われたというだけの関係だが――に対する人恋しさが五割という理由だった。
「口調が、変わりましたな。そちらの方が、『稀代の天才怪物狩り』らしい。
――わしの名などに意味はありませぬよ。貴方様と同様に」
なるほど。
伊達に「リサーチ事務所」を名乗っていない。
俺の過去についても、きっちり調査済みということらしい。
クロムウェル・バッテンフォールに、個人としての名前はない。
俺を生み出したのは、スウェーデンにおいて、神々の庭に捧げる勇士――無双の怪物狩りの魂を輩出することを一族の使命としてきた、Vattenfall――神河に英魂を流す血脈。
ラグナロクで神の尖兵となる魂を生み出すべく、世界各地から霊的素養のある一族の血を取り込み、まるで競走馬を生み出すように血脈改良と人体改造にいそしんだ、外法の家だ。
そのバッテンフォールの一族が、英国のエクソシストの名家、クロムウェル家からとりこんだ血によって生まれたのが、俺だ。
英国語圏の姓、クロムウェルと、スウェーデン語圏の姓、バッテンフォールが併記された命名。クロムウェル・バッテンフォールとは単に血統と製造元を示すためだけの機械的な呼称なのである。
個を認められず、使い潰す前提のものに、どうして個としての名をつけようか。
そして多分、目の前の老人も、「そういうもの」なのだ。
感傷を、迫りくる鎖分銅とともに切り捨てる。
共感などできない。外れものは外れものであるからこそ、個々が孤々だ。
わかりあいようがない。わかったように見えてもそれは錯覚に過ぎない。
真正面からの鍔迫り合い。
やはり、かつての力強さとは比べるべくもない。
が、押し合うことはせず、老忍者は仕込み杖を手離すと、しゃがみこむ勢いのまま身を独楽のように回転させた。
靴の足先から白刃が伸びる。
しかし、攻撃に転じたその瞬間こそ、身体能力の差が如実に現れる。
空中に避けてその勢いのまま軸足を一閃した。
魔人能力――『独断専行唯我独尊』発動。
対象定義――『嗜虐心』。
動き、鈍らず。
魔人能力――『独断専行唯我独尊』――定義、解除。
まあ、そうだろう。だが、予想外の行動を誘発しがちな感情は優先的に斬るに限る。
無傷の斬撃、だが、確実に自らの内面に生じた変化を、老忍者は自覚しているはずだ。
距離を取ろうとする。追い打ちも可能だが、ここで会話をした方が、戦闘に緩急がつくだろう。このまま仕留めては「何が起きたのか」を、観客が理解出来ない可能性が高い。
「相棒は変わったんだな。守破離衛だったか。『仲間を庇う時にだけ無敵になる』魔人能力者。成長した彼なら、百合子とだって張り合えたかもしれないが」
返事は期待していなかった。
忍者とは、不要な会話をしないものだ。こと戦闘にあっては特に。
「ぱりな様は、守破離衛様の、御息女にて」
だから、素直に返ってきた答えが、俺には意外だった。
余裕? そんなはずがない。彼我の実力差は充分に理解できているはずだ。
ならば、ここで会話をすることが、戦況に有利になると判断しての反応?
これだけの戦力差がありながら、この老人はまだ勝機を見失っていないということか。
面白い。
「なるほど。少し面影があった。親子二代と組む、忠義だな」
「――忠義など」
ずっと無表情だった老人の眉が、ほんの僅かに動いた。
この反応――であれば、彼の『核』は、これか?
魔人能力――『独断専行唯我独尊』発動。
対象定義――『義務感』。
清銀鋼の鞘との二刀流で、パルクールめいた動きを見せる、老忍者を追い立てる。
人間の知覚は、横方向の動きと比べ、縦方向の動きに鈍い。
その感覚的なズレを縫い、老人は剣閃をかいくぐる。
見事。――ただの人間のなしうる動きにおいては、だが。
都合五手詰、鞘での打突が、老忍者の『義務感』を斬る。
魔人能力――『独断専行唯我独尊』――定義、解除。
これまでの二閃と比べ、確実に効いた手応え。
「――対象の『感情』をも斬る能力。おそろしゅうございますな」
「織り込み済みだろう? 俺達の手札は、伯父上から聞いているはずだ。四十年前の依頼のときに」
震える膝で、それでも老忍者は立ち上がった。
「――三十七年にございます。貴方には、詳しく覚えておく必要もない記憶でしょうが」
三十七年。
それは、長い時間なのだろう。
あの壮年の忍びがこんなに小さく老いて。
あの少年の忍びが子を為し、僕らの前に立ちはだかるほどの時間。
その間、俺はずっと、百合子と戦い続けてきた。この肉体は老いを止めていた。
その間、彼はずっと、忍びとして戦い続けてきたのだ。押し寄せる老いを受け止めて。
足をひきずりながら、なお飛び回る老忍者は、俺が取りこぼした「人としての生」の象徴だ。
今の自分に後悔はない。
力と愛する妻を手に入れる契機となったこの「永遠の肉体」には感謝すらしている。
けれど、胸に刺さる痛みはある。
足りず、求めて、渇望する衝動。
刻一刻と減っていく寿命というタイムリミットの中で、それでもと足掻く熱。
それが、魔人ですらない凡人と、魔人ですら敵わない天災を真正面から打ち合わせている。
よくやった、という想いが浮かぶ。けれど、それは侮辱だろう。
もういいだろう、という労いが浮かぶ。それもまた侮慢だろう。
ともあれこの老人は充分戦った。
戦いも頃合いだ。
この程度苦戦すれば、未来の挑戦者たちに希望を持たせるには充分だろう。
魔人能力――『独断専行唯我独尊』発動。
対象定義――『恐怖感』。
それは、せめて恐れなく意識を断つための布石。
そして、窮鼠猫を噛むの故事を体現させぬためのダメ押し。
斬。
小柄な老人の体がよろめく。
魔人能力――『独断専行唯我独尊』――定義、解除。
肉体的には無傷でも、衝動的な『闘争心』を、嗜好的な『嗜虐心』を、理性的な『義務感』を、そして、生理的な『恐怖感』を切除した。
彼に戦闘の動機は、肉体を動かす原動力は、ほとんど残っていないはずだ。
あとは、一撃。
命を奪わず、『意識』を断つだけで、この試合は終わる。
俺は、黒刀を振り上げ、峰を返すと、うずくまった老人の首筋を目掛けて振り下ろし――
その場から跳びのいた。
頬に熱が走る。
痒み――顎につたう汗――否、血。
視覚は何の飛来も認識していない。
であれば、魔人能力か。
虚空を切り裂いた不可視の刃。
百合子にそんな能力はない。
目の前の老人が非魔人であることは、ファイの調査で確定している。
であれば――、相手タッグのもう一人、不忍池 ぱりなの攻撃。
無力化した老人を後目に、俺は傷口の深さから看破した攻撃者の方向へと向き直る。
こちらに背を向けた、女子高生制服の少女。
無防備。百合子との攻防の隙をついて一瞬だけこちらに攻撃をしたのか。
少女が俺に攻撃してきた時点で、百合子との1vs1の約束は破棄。
思考するより先に、自らを傷つけた対象に対して、俺の肉体と魔人能力が反応する。
魔人能力――『独断専行唯我独尊』発動。
対象定義――『意識』。
振り向き様の抜き撃ちの斬撃で、女子高生制服の少女の『意識』を切除する――。
「ぁ」
神速の斬を止めたのは、鈴が鳴るような、可憐な声。
違う。
これは違う。
その女子高生制服の少女は。
その、ギャルっぽい恰好をした少女は。
俺僕の、クロムウェル・バッテンフォールの妻、百合子だった。
7 千の麗句の列記でさえも
完全に斬撃の態勢に入っていた刀身を、膝を突くようにして身を沈ませ、刀身をアスファルトにすべり込ませるようにして百合子から逸らす。
危ないところだった。
百合子を傷つけることができるのは、この戦場でおよそ僕の能力だけ。同士打ちこそ、最も警戒しなければいけない失策だったというのに――
いや、違う。問題は、そんなことじゃない。
百合子だ。
問題は、百合子だ。
僕の妻が。無垢な幼さと、老練な妖艶さを危ういほど精緻なバランスで両立した地球上で最高の美の黄金比を誇るその神の最高傑作が。着ているのだ。
――女子高生の、制服を。
似合うかなーとは思っていた。いや、それは確信を越えて天啓めいていた。彼女のその均整の取れたスレンダーな肢体は当然のように和服が最高に似合うのだけれど、同時に、見た目の年齢相応の今代の女子の象徴である高校の制服の清楚な様がまた普段のギャップもあいまって、元々の幼さを残しつつ妖艶でスーパーラブリーキュートな顔立ちを数倍にも引き立てるのではないかとここ二十年ほど思い続けてはいた。正直に言えば従者であるファイに頼んで、数年前彼女のサイズにぴったりな、有名デザイナーが手がけたことで有名な某お嬢様高校の制服を取り寄せ、ぜひこれを来ていたさせてはいただけないかと頼み込もうと思ったこともあった。今でもその制服はクローゼットの奥の奥にある。ちなみに僕のクローゼットの方だ。知らない人間が見たら僕に女装癖があるように見えるだろうがだってしょうがないじゃないか! だってもし百合子にこの制服を来てプレイしたいとお願いしたとして、「えー? その齢で制服フェチ? ないわーのじゃー」とか言われた日には、多分僕は一生その日の事を心の傷として刻み続けることになるだろう。正直ないわと君が言うから、七月六日はフェチ記念日。字足らず。いや、問題はそんな言い訳じゃない。全ては過去のことだ。今、現在の話をしよう。これからの制服の話をしよう。ジャストナウ、エンドフューチャー。ずっとクローゼットの制服を見ながら想像していたのなんて目じゃない最高妄想の数百倍、いや、数百乗美しい。まさに螺旋が天元で突破して銀河の果てまで突撃ラブハート。ちょっと待て百合子。その表情はなんだろう。ちょっと恥じらうような上目遣いでうわ、無理、マジ無理、頬を赤らめて……っていうかメイクもさっきまでと違うよねいつのまに化粧したの、え、いいんですか神よ。いや、今更神なんて信じていないけどこの世界の創造主に相当するなんか様、こんな完全可憐生命体を完成させてしまったらこれ以上生命進化体系の進歩はありえなくなってしまうのでは? 好きです一目ぼれです結婚してください。してたわ。
思考がまとまらない。
絶対的な「可憐」という概念の原典たる光景に、讃える言葉が脳裏を埋め尽くす。
足りない。幾百、幾千の美辞麗句でも、この姿には釣り合わない。
だからか。
それに対する反応が、僕には許されなかった。
きっと彼女もそうだったのだろう。
僕の、何よりも雄弁な視線を受けて、その溢れる愛に浸っていた。
だからか。
それに対する反応が、彼女にも許されなかった。
その、二人の世界というまばゆい輝きの陰を縫う――
――陰、忍、隠、疾。
影から飛び出すように、老いた男が現れた。
術式ではない。魔術、呪詛ではない。魔人能力ではない。
――徹頭徹尾、ただの体術、ただ相手の意識の隙をついただけの隠形術。
老練の刺客が刀を振るう。
チャクラの発動はない。
魔人能力の干渉はない。
天与天賦の才能もない。
魔術呪術による身体改造もない。
ほんの少しだけ速く踏み込み。
――三十七年あれば人は老いる。
ほんの少しだけ静かに動き。
――三十七年あれば人は衰える。
ほんの少しだけ死角を取り。
――三十七年あれば人は鈍る。
ほんの少しだけ定石を外す。
――その『老い』と向き合い続けた凡夫の三十七年が。
そんな、凡人でもできる「ほんの少し」を幾重にも積み重ねて、鬼の首へと至る刃。
研鑽練磨のその果て、人の身で届く至高の斬撃が白い少女鬼の首筋へと吸い込まれ、
――今、不老なる『天災』の三十七年を凌駕する。
『斬れるモノ』だと『定義』されたままだった百合子の『意識』を断った。
二人の恋、二人の愛。
それを断ち切ろうというのなら、我らは鬼でも悪魔でも神でもねじ伏せて見せよう。
そう思っていた。そうできるだけの力もあった。
『独断専行唯我独尊』の定義解除が遅れたのは、百合子の美に見惚れたから。
僕らは、互いの愛に、敗れたのだ。
決して、他のものに負けたのではない。
けれど、僕は、トドメとなった斬撃を、女子高生制服の百合子の次に、美しいと思った。
その挙作に心打たれ――能力定義の解除が数瞬だけ、遅れてしまったのも事実だった。
僕ならもっと鋭くできる。
僕ならもっと強くできる。
僕ならもっと速くできる。
なのに、その軌跡に、あの日、目を奪われたのは、なぜだったのか。
三十七年を経て、僕はようやくその理由に思い当たった。
多分それは、線香花火のまたたきに心惹かれるのと同じ。
限られた時間の中で、衰えていく肉体に抗って、それでも磨かれた儚いものへの感嘆だ。
彼は魔人ではない。ただ人として生まれ、あらゆる異能神秘と無縁だった。
弱かった。が、強く在らねばならなかった。だから耐え、成った。
なにが、よくやっただ。なにが、もういいだろうだ。
異能がなかろうが、肉体が老いようが、それが「弱さ」だと誰が決めるのだ。
決めるのは、僕ではなかった。決めるのは、彼自身なのだ。
クロムウェル・バッテンフォールがずっと昔にたどってきた道。忘れていた熱。
僕が、『天災』級の力と――僕なりの幸せと引き換えに失った、「当然」への敬意。
百合子以外の存在に心を熱くしたのは、数十年ぶりのことだった。
戦闘終了を告げるサイレンが鳴り響く。
イグニッション・ユニオンは、タッグのいずれかが戦闘不能になった時点で決着。
百合子が気絶した以上、僕らの敗北だ。
僕は最後に、気になっていたことを、老忍者に聞いた。
「……あなたの相棒――守破離衛くんは、今?」
「死にました。否」
噛みしめるように、彼はそう、口にした。
「わしが、斬りました。この手で。この刀で」
「そっか」
資料には、彼が戦うのは、相棒である少女の夢を叶えるためだとあった。
そのために、この老人は、彼女の親を殺した刀を振るうということか。
『闘争心』は斬り捨てた。
『嗜虐心』は斬り分けた。
『義務感』は斬り払った。
『恐怖感』は斬り飛ばした。
それでも、目の前の老人は、あの見事な斬撃を繰り出した。
ならば、彼を動かすものは何か。
事ここに来て、僕はようやく、彼を支える柱を理解した。
もう勝敗は決まった。
だから、この斬撃は、僕の完全な八つ当たりだ。
『独断専行唯我独尊』――定義、規定。
対象――『悔悟』。
一閃。
呪刀【黒雨】によって、肉体を支えていた想いを断たれ、老人はアスファルトに伏した。
感情は斬っても、やがてすぐに元に戻る。
だが、まあ。
今宵くらい、彼が悔悟に駆られて悪夢を見ることだけは、ないだろう。
8 化生の在り方、化粧のあり方
後日、僕は、どうして百合子が不忍池 ぱりなの女子高生制服を着ていたのかの経緯を、『イグニッション・ユニオン』の録画映像で理解した。
~ ~ ~
「ちょい待って! ゆりりぃ、その爪!」
「ふ。そうよ。武器など持たずとも、わらわの爪こそ世の秘剣名刀にならぶ――」
「たらしこみネイルじゃん!! うわ紅粉青蛾! 紫陽花モチーフ? 光彩陸離! 自前?」
「……わか、るのか? おぬし!! というか、小娘、そのネイル……」
「へへ。ばれた! 妾、ぶきっちょだからさあ。たらしこみも気になるんだけどマーブルで妥協。これだと、ミスっても味になるし?」
「なにをいう! マーブルも偶然のよさ、一期一会の美しさがあるだろう!」
「!! え? おねーさん神? 天使?」
「いや、鬼じゃが」
~ ~ ~
「ふむ、主も一族の期待を背負ってのう」
「まーね。でも、妾はまだ、ママ上が生きてる分全然春風駘蕩だって」
「……しかしおぬしは、飛び出さずに、血の柵に向きあっておるのじゃろ」
「あはは、妾には、ゆりりぃみたいに全部ぶった切れる力もないしねー」
~ ~ ~
「ところで……、その、ぱりな。その、JK服……ブレザー、セーラー、学生制服の類というのは、やはり、主のように乳がでかくなければ「映え」ぬものなのか?」
「は?」
「わらわはこの体を美しいと思うておる。無駄のない均整の取れた体つきは、特に和装を着こなすにはうってつけ、世の大多数の女子の美貌を遥かに凌駕していると自負しておる。が」
「……クロは、……わらわのだーりんは、タンスの中に”せーらーふく”を隠しておきながら、もう、何年もの間、わらわに着ろと言ってはくれぬのじゃ……」
「簡明率直、それってただ、恥ずくて言い出せないだけじゃね?」
「わらわとクロの間にそのような他人行儀などあろうものか!」
「おけまる。んじゃ、着てみようよ。妾の服、貸したげるし。妾は下体操服だからもーまんたい! はよはよ! なんならメイクも超盛るし!」
「あ!! カメラさん、乙女の着替えシーンとか中継したら絶対許さないかんね!!」
~ ~ ~
完全に、バトルそっちのけで意気投合していたのである。
しまった。『闘争心』を切除したことがこんな形で裏目に出るとは思わなかったよ!
というか! 僕の性癖が全国中継フルオープンリーチなんですが!!
うあああああ、恥ずか死い! 僕の嫁が可愛くて死ねない!! うああああああ!!
ともあれ、不忍池 ぱりなは、どういうわけかうちの夜の営み事情を知っていて、さらに僕が百合子にベタ惚れで、女子高生制服なんて着せた日には思考停止になるとわかっていた。そして、彼女に仕える白烏翁は彼女の指示で、百合子のアキバ道中生着替えが完了するまでの時間を、死ぬ気で稼いでいたということらしい。
もしも僕がもう少し早く我に返って、『独断専行唯我独尊』の定義解除を速やかに行えていたら、勝負は僕らの勝ちだったろう。十数回に一度の勝ちを拾われた形、力量差を事前情報収集によるアドバンテージで覆された結果だった。
「ということで、騙し討ちとかまじめんご。ごめんなさいのぱりな。ネイル好きなのはマジよりのマジだしゆりりぃのたらしこみにバイブスあげみだったのもほんとだから!」
後日、不忍池 ぱりなは、我が家に高級そうな菓子折りを持って謝りにきた。
意外にも、百合子は彼女を歓迎した。
ブラフで負けたことは、あまり気にしていないらしかった。
「え? ゆりりぃ結婚百周年? やば! えー、60年でダイヤ婚式だからさ、100年とかマジ、ヒヒイロカネ婚とかアダマンタイト婚とかじゃね?」
「日緋色金か! それはいいな!」
「えー、妾、ヒヒイロ婚のパーティとか初めてだし! 絶対呼んでよね!」
「おお! おお! よいぞよいぞ。思う存分に果たし合おう!」
「果たし合い!? 殴り前提!? いやー、妾は普通にパリってんのがいいなあ。カラオケとか、ドキドキ過去写真紹介とか? 二人の惚気話もめっちゃ聞きたいし、あとはせっかくだから馴染みのカフェからお取り寄せしよ!」
「……? 殴り合わぬのか?」
「むしろなんで殴り合うのさー! みんなで祝うんでしょ! 殴り合ってダチになるのはあるけど、ダチになったあとで殴り合うのはなんか違うっしょ」
「ダチ……ともだち…… ……友達!?」
「ちゃうの? いや、確かに騙し討ちはしたけど、ゆりりぃとはネイルの趣味も合うし、割と境遇も他人事じゃないってーか、もし、ゆりりぃがヤじゃなければだけど」
「否もあろうか!!」
「おけまる! 妾らネイ友ってことで! ゆりりぃLINEやってる?」
「おう! 当然よ! めるかり? もいんすた? も、万全じゃ!」
「おけまるー。じゃ今度、ギャルっぽいメイクも教えるし!」
百合子とぱりなが妙な盛り上がりをしている中で、ほんの少しだけ穏やかな顔をしている白烏翁に、僕はちょっぴり胸を撫でおろした。
そんな賑やかな闖入者が去り、屋敷は再び、僕と百合子、ファイの三人だけになる。
いつもの日常だ。
「負けたのう」
「負けたねえ」
「負けてしまわれましたね」
確かめるように、全員が口にする。
けれど、誰の言葉にも、悲壮感や悔やむような気持ちはなかった。
「ごめんね」
「違うな。わらわを慰めんとするなら、「ありがとう」じゃ。選択を誤ったことを詫びるな。その選択と共にあったわらわに感謝せよ。自己への無根拠の肯定。それが、鬼という化生のあり方。それを娶ったおぬしの道ぞ、クロ」
彼女は僕を、クロと呼んでくれる。
クロムウェルという血統でなく。
バッテンフォールという製造元でなく。
僕個人を示す、親愛の呼び名として、クロと。
それで充分。いや、十二分。
かつては呪いもした、この不自然な体がくれたものは、おつりがくるほどの僥倖だ。
人としての生には敬意を。そして、今の自分の歪んだ生に感謝を。
それが、燻り続けていた人への未練に対し、三十七年越しの再戦で僕が得た答えだった。
「――ありがとう。百合子」
こうして、「友達をつくる」「二度目の結婚式を参列者でいっぱいにする」ことを目的にした、僕らの計画は、失敗に終わった。
「時に、旦那様。奥様。二度目の結婚式の会場として確保した無人島ですが」
「キャンセルじゃ。あんなざまじゃ、ろくに人も来んじゃろう。悔しいが別の手管を考えて――」
「いえ。むしろ、狭すぎです。キャパシティオーバーです。人多杉です」
「……へ?」
目を丸くする僕らに、ファイは淡々と手元の資料を読み上げた。
「旦那様と奥様がラブラブ自滅で一回戦敗退したのを、奥様の伯父様が、お二人の弱体化と自分に都合のいいように解釈し、今がチャンスと各地の退魔組織、魔人傭兵、裏社会のヒットマンに、手あたり次第に接触しまくっています。おそらく、来月にはお二人の命を狙う刺客たちが詰めかけて、東京と銘打ちながら別県に存在する某夢の国もびっくりの大賑わいになることでしょう」
なるほど。
めげない伯父さんのやりそうなことだ。
けれど、そういうことならば、結果オーライ。
最強争奪戦という華々しさはないけれど、僕らの二度目の結婚式が、賑やかになることには変わりない。
「うむ、まじでよき! じゃ! なら、当日の化粧と装いは、当世JK風にするとしようかの! ちょうど、教わるあて――友人もできたことだしの」
最後は、少しだけ照れるようにして、百合子は言った。
ああ、なんだ。
結局、目的は、どちら達成できていたみたいだ。
だったら、あと、僕が言うべきことは、これしかないだろう。
「ねえ、百合子」
「なんじゃ、クロ」
僕は真正面から彼女の澄んだ瞳を見据え、全身全霊を込めて、言葉を紡いだ。
「今夜、制服、着てくれないかな」
「……遅いわ、ばかもの」
9 夕暮れ、からすがなく前に
勝利というには綱渡り。
勝者というには頼りなし。
それが忍びの歩く道。黒を白へと塗り替えようと、ホワイト企業を目指そうと。
忍びの道は獣道。足おぼつかぬ茨道。
「ねえ、爺や」
「なんですかな、お嬢様」
「今日の爺や、なんか、いいね。テンション意気軒高って感じ」
「――そうですかのう」
「あー、爺や」
「どうかされましたか、お嬢様」
「爺やが命張ってくれたから、妾もゆりりぃに集中できたし。――ありがと」
「……」
「? 爺や?」
「いえ。さあ、お急ぎを、お嬢様。もう日も暮れてまいりました。もたもたしていると、からすがないてしまいますからのう」
戦い終わって日が暮れて。
からすは鳴くや泣かざるや。
二人忍の背負う名は、ぱりなリサーチ事務所なり。
JK忍びと老い忍の道、明日は晴れ間か雷鳴か――。