◇
基本中の基本。
白く覆うこと。
顔ではなく、両手を。
手袋をするのが好ましい。
それだけで、観客の注目は両手に集まる。
顔は必ずしも白く塗る必要はない。
ただし、顔と両手以外は目立たない色にまとめること。
基本を応用するなら、
わざと目立つ箇所を作ってやることだ。
つまり白と黒のコントラストである。
全身だけではなく周囲の環境すら用いてあたかもその場にい無いものまで表現する芸をパントマイムという。
◆
初恋の相手を聞かれたら、そんなものいないと俺は答える。
しかし、大道寺にとっては彼女がそうだったに違いない。
それは高3の夏休み明けの出来事だった。
厳密に言えば、以前から彼女を目にすることはあった。だが、意識して見たのはあの時が初めてだ。なにせその人は芸能人で、芸歴も結構長い。
俺と大道寺 忍が出会ったのは幼稚園のときだから、もしかしたら既に当時から何度も視界に入っていたのだろうか。
それでも、舞台の上に立つ阿僧祇なゆは、テレビ画面越しの存在とはまるで違って見えた。
荘厳で美しく、華麗でミステリアスな姿は、恰も舞台の上で演じる役そのものだった。
まさに俺たちは目を奪われたのだ。
「いや、だからって初戦の相手が彼女だとは思わなかった」
公園のベンチ。俺はスマホを見て、思いを口に出す。
最強の二人を決める大会、イグニッション・ユニオン。その第一回戦の対戦カードが提示された。胸に去来するのは、郷愁に似たほんの少しの感覚と、大きめの恐怖。
幻想企画。
それが俺と大道寺 忍のコンビ、マイリーマンズの対戦相手だった。そして、幻想企画の片割れこそが、俺たちの青春の一部とも言える存在。
63歳現役アイドル、阿僧祇なゆ。
肩書きだけ聞けば思わず笑ってしまうかもしれないが、それが伊達ではないことは俺も大道寺もよく知っている。
『良かったね寛くん。大ファンだったもんね』
俺の友人は隣に腰掛け、うんうんと無言で頷くばかり。それでも、身振り手振りだけで、言わんとする内容は自ずと伝わってくる。
それにしても相変わらずどうでも良いことばかり覚えているヤツだ。だから俺も声に出して反論する。
「そんなこと言ったら、お前の方がよっぽど入れ込んでただろ。色々集めてたじゃん、グッズとかさあ」
『ええっ!?な、何言ってるんだよ。そんなわけないじゃないか』
無理に否定しようとするあたり余計に怪しい。
当時から思っていたが、もしかすると、こいつは俺なんかよりずっと前から阿僧祇なゆのファンだったんじゃないか?と思わせるようなフシがある。
あの時だってそうだ。
「ああ…それにしても、お前の誘いで行ったんだっけ?阿僧祇なゆ主演のミュージカル?」
俺は記憶を辿るフリをして友人に尋ねる。
実際はハッキリと覚えている。目も眩むような九月。俺たちは学校をサボってミュージカルの舞台を見に行った。
案の定、友人は無言で有弁に頷いた。
『そう、『オペラ座の怪人』だよ!あのときの阿僧祇なゆの演技は本物だったと思うよ』
「ああ、凄かったな。阿僧祇なゆの怪人役」
『うん、怪人役ね…!』
怪人役。そう、怪人役。
阿僧祇なゆは10年くらい前、オペラ座の怪人で怪人役をやった。それがあまりにもハマり役だったので、俺も大道寺もその怪演ぶりに魅せられてしまった。
あんなテノール声よく出せたものだといまだに思う。
音域広すぎて、ヒロイン役の人、怖くて泣いてたもんな。思い出すだけでも恐ろしい。
その恐怖のアイドルが今回の対戦相手だ。
阿僧祇なゆが森羅万象を問答無用でサイボーグ化させるビームを放つことはそれなりに有名である。つい最近も複数の福沢諭吉達が喫茶店から逃げ出したというニュースが世間を賑わせた。意味がわからないので十中十で彼女の仕業だろう。八九どころではない。
彼女の、かの悪名高いビームを俺は無効化出来るだろうか?つまり、俺の魔人能力『普通の生き方』で?
答えはイエスだ。
俺は魔人能力による損害を被らない。
隣に腰掛ける友人を一瞥する。
俺が話しかけなければ、友人から口を開くことはない。当たり前だ。こいつは滅多に言葉を発さない。演じる側が口を開けば、それはパントマイムではなくなってしまう。
それでも、もっとその口から話してくれても良いんじゃないかと思う。
俺はミュージカルの有名な一小節を口ずさむ。
「The phantom of the Opera is there - Inside my mind…」
(オペラ座の怪人は、私の心の中に…)
嘆息して、再びスマホの画面を見つめる。
肌触りの悪い静寂を拭うため、間を持たせるため、そして何の気無しに、友人に尋ねた。
「なあ、阿僧祇なゆは良いとしてさ。この黒いネコの人、詳しく知ってるか?」
スマホの阿僧祇なゆの隣に写っているのは、紳士服を着た猫みたいな頭の人。
大道寺はそれを見て無言で頷いた。
◆
「レディ、これが対戦相手かな?」
都内のビル三階の一室で、猫の撫でられたような声がした。
猫の頭をした人が、スマートフォンの画面を眺めて発した声だ。
対する黒いゴシック服の淑女は、優雅に珈琲の匂いを嗅いでいる。
「優勝賞金5億円って、福沢諭吉が5億人出来るって意味よね…」
淑女、阿僧祇なゆは麗しげに言い放つと、頭頂部のハッチを開いて珈琲液を注ぎ込んだ。白い湯気が香り高く立ち上がる。
「待って。ちょっと待って、レディ。何企んでんの!?吾輩そんなこと聞いてないよ」
「だって言ってないもの」
阿僧祇なゆは悪そうな顔をした。隣でソファに座っていた福沢諭吉達数人が驚愕しながらバナナを食べている。
「そんな、阿僧祇さん。ぼくたち福沢諭吉が5億人もいたらバナナが足りないですよ」
「まずなんでお前らは吾輩のバナナを食べてるのかな」
クロスケは勝手に事務所に居着いた福沢諭吉達にキレそうになっていた。
有限会社幻想企画プロダクション。彼らがバナナを食べてるのはその事務所内である。一階のレッスン室では所属アイドル達が歌や踊りのレッスンをしている。
「大丈夫ですよクロスケP。ぼくたちバイト始めたんで」
「そうよクロスケP。ついでに寿司も頼んだわ。みんなで一緒に食べましょう」
阿僧祇なゆはクロスケPのスマホ画面を覗き込みながら言った。美しい銀髪がするりと垂れる。
そのとき、寿司の出前が到着した。
配達員はバイト中の福沢諭吉だ。
「ちわーす。ウンターイーツです寿司の配達にきましたよ」
「ああ、これはどうも」
特上寿司10人前だ。クロスケの大好物、炙りはまちも4貫入っている。
「しめて13620円になります」
「じゃあこいつら適当に二人連れて行って」
「!?」
こうして福沢諭吉のうち二人が宅配サービスに連行され、代わりに樋口一葉と野口英世と380円がクロスケに手渡された。
「貴方が私のマスターか」
「お招きに与り推参つかまりました。不肖野口英世。これよりお側に侍らせていただきます」
「380円です」
クロスケは頭を抱えた。
「そんなことより猫さん。イグニッション・ユニオンの対戦相手についてどう思うかしら?」
淑女が猫の頭頂部のハッチに炙りはまちを入れて言う。猫は少々機嫌を取り戻すと、思案顔をして頭を掻いた。
「どうもこうも、吾輩はこの男に見覚えがあるよ。まあ長いこと生きてると縁にも恵まれるってことなのかなあ」
「あら、私は知らないわ。どんな人かしら」
「動画で見せた方が早いかな」
カチリと音がすると、クロスケの両眼がニャンと光った。そうして机の上に結ばれた像から浮かび上がってきたのは、プロジェクションされた動画である。
両眼のプロジェクターが映し出す映像がジリジリと流れる。
「この動画を見たまえレディ。彼らもまた一流の表現者というわけだよ。そして、今回の戦いは数え切れないほどの観客による衆人環視。ならば我々は同じ舞台に立つ人間として、より高度な表現に挑戦してみないかい?」
クロスケが目を光らせて言った。
◇
パントマイムの表現に限界はない。
人間の感性に限界がないように。
演じる人と観る人がいれば、そこに表現は成立する。
技法さえ拘らなければ、この世に存在するあらゆる物を見せることは簡単だ。
では、"ない"ものを表現することは可能だろうか?
この世に存在しない物。見えない壁や、凸凹一つない完全な球体。あるいは「無」や幻影は?
結論から言うと、それも可能だ。演者と観客との間で認識が共有されている限りは。
だが、これらは全て観客側にとっての話である。演者にとってはまた別の話だ。
彼らが夢の中にいる間、演者は、いかに現実から逃れるかに挑戦し続けなければならない。
では、過去なら?
◆
イグニッション・ユニオン第一回戦当日。
俺と大道寺の二人、「マイリーマンズ」は池袋西口を出たところの公園にいた。
大会運営の事前通達では、場所は池袋としか指定されていない。俺たちが百貨店のある有名な東口に来なかったことに大した理由があるわけではない。
ただ、戦いが鏡の世界で行われること。
なら、出入り口も鏡だと予想されること。
そして、池袋西口公園に日本最大級の劇場、帝都芸術劇場が隣接していること。
そういった諸々の要素を考慮した上での、漠然とした判断だ。
帝都芸術劇場の入り口部分は鏡張りになっているため、出入り口にはうってつけと言える。
「思い出すなあ。オペラ座の怪人を見に行ったときのこと」
俺は友人に話しかけて気持ちを落ち着かせる。
そんなに人はいないと思っていたが、公園内には既に多くの観衆たちが応援に駆けつけていた。
中には福沢諭吉、樋口一葉(樋口一葉!?)や野口英世(野口英世!?)、そして380円(小銭!?)までいる。
「頑張りや」
「自分らのこと応援しとるで」
「お、おお。おお」
福沢諭吉や380円たちに大阪弁で応援された俺は緊張を隠せないでいた。こいつら大阪出身だったのか…?
とはいえ、俺が緊張しているかどうかはそこまで問題ではない。問題は如何にしてあの阿僧祇なゆに立ち向かうかだ。
あの二人組、「幻想企画」に勝つこと自体は簡単だ。
大道寺にはパントマイムの能力『Q』がある。この能力はパントマイムで表現したものを大道寺以外の他人が言い当てたとき、それが実体化するというものだ。
パントマイムの表現に限界はない。表現者と観測者の関係性が成り立つ限り、この世のありとあるものを創造できる。
言ってしまえば、戦いが始まった瞬間『Q』の能力で太陽でも作り出してしまえばそれだけで俺たちの勝利が確定する。核爆弾や毒ガス、睡眠ガスなど何でもいい。
兎に角無差別攻撃であればいい。
幻想企画だけでなく大道寺まで巻き込んでしまうだろうが、俺には能力『普通の生き方』がある。俺は魔人能力による損害を受けない。
無差別攻撃の中、俺だけが生き残ることができる。
この無効化能力には弱点があり、意識外からの攻撃が無効化されるが、それも俺が大道寺がパントマイムを誰よりも早く言い当てれば良い話だ
ただ、大道寺とも打ち合わせはしたが、この方法は積極的に採るべきではない。優勝賞金一人当たり2億5000万に対して、その後の人生で背負うリスクが釣り合わないからだ。
この大会でこの手段を採ることは、つまり大道寺がその気になれば世界を滅ぼせる能力を持っていると、全世界に対して発信することと同義だ。
国や変な組織に狙われるようになるかもしれないし、まず間違いなく周りの住民たちからも攻撃されるだろう。一般人の魔人への当たりはキツい。
それに、この方法を選択しないもう一つの理由がある。それは俺たちが「マイリーマンズ」で、対戦相手が「幻想企画」ということだ。これは大道寺にとって、優勝賞金以上に夢を掴むチャンスでもある。
勝つか負けるか、だけではない。
名を挙げる。観客を魅せる。問題はそれを如何にやるかだ。
「———屋釘君!屋釘君!」
「っはい、!?申し訳ありませんでした」
聞き覚えのある声に、反射的に謝罪の言葉を口にしてしまう。
緊張していた脳は、いつのまにか近くに寄ってきていた知り合いが誰なのかもすぐに認識できなかった。
「はは、謝る場面かね君」
「は?ぶ、部長!?」
(株)黒服警備保障、弊社の部長がそこにいた。仕事着の黒スーツを着たまま、額から汗を流している。
「たまたま近くに来ていてね。屋釘君、イグニッション・ユニオンの大会に出るんだな!」
「は、はあまあ。そういうことです」
「いやいい。今の君は謹慎中、つまり業務時間外だ!畏まる必要はない。ただ、せめて私からも応援させてくれ。頑張りたまえよ!」
部長から応援されても、微妙な感情しか湧かないのが正直なところだ。万疋屋社長との件もある。こちらはどの面下げて出て来やがったと言える立場なんだぞ。
『良かったね、寛くん』
友人の笑顔に、俺は黙って頷いた。
まあ、万疋屋社長との件も、俺の方から不問にしたし、それに別に部長に責があるわけでもない。
第一、言い訳まで用意して、汗水垂らして応援に駆けつけてくれた知人に対して、心ない対応をするほど俺は子供でもない。
緊張もほぐれた気がする。
静かな高揚。高3の夏明け。劇場の幕が上がる直前の気分を思い出す。
「大型トレーラーが突っ込んでくるぞおおおお」
その時、ライブ用ステージを搭載した超大型トレーラーが俺たち目掛けて突っ込んできた。
◆
まだイグニッション・ユニオンの試合も始まってないというのに、白昼の池袋西口公園では轢殺トレーラーから逃げ回る二人の男の姿が目撃された。
「ああああああああ」
『ああああああああ』
マイリーマンズの大道寺忍と屋釘寛だ。ここ十年してなかった全力ダッシュで走っている。
一方、トレーラーの運転手はクロスケ。トレーラーに搭載されたアイドルステージでスタンバイしているのは阿僧祇なゆだ。
『えっなにこれ!?勝負は!?』
「黙って走れ大道寺!こいつらはあわよくば俺たちを試合前に轢殺するつもりなんだ」
二人のアラサー男は後方から追い上げてくる池袋暴走トレーラーから全力で逃げる。だが、トレーラーの運転手は口笛を吹き、サングラスまで掛けている始末だ。
「うおおおあの鏡だ!帝都芸術劇場のガラス面に飛び込むんだ!」
『だめだよ間に合わない!』
屋釘は振り向いてトレーラーに積まれたアイドルステージに佇む一輪のベテランアイドルを確認する。無言だ!無表情で屋釘たちを凝視している!絶対の殺意。リアクションなどない。
「なんで!?」
このままでは、上級国民されてしまう——
屋釘が泣きそうになったとき、大道寺が屋釘の肩を叩いた。
見ると、大道寺は走りながらも、両掌を屋釘に向け、仕切りに壁を叩いているようなポーズを取っているではないか。
屋釘も吊られて同じ仕草をする。
「はっ?見えない壁…あっ!違う!鏡だ!鏡!」
その瞬間、二人の目の前に鏡が出現した。
「飛び込めえええええ」
二人は鏡に飛び込む。
不思議なことに体は鏡面を通過して、隣り合う別の世界へと肉体が移動した。
間一髪、大型トレーラーも鏡をぶち破りながら鏡の世界へと突入した。
「よっしゃ試合開始いいい」
二人は「鏡の世界」に出ると、すぐさま横方向にローリングする。
大型トレーラーは二人の間隔を丁度通過するように過ぎ去り、しばらく走ったあと停止した。
『ここが、鏡の世界なの…』
「マジか!こいつらマジか!死ぬかと思ったんだけどマジ!」
「やあ諸君。御機嫌如何かな」
停止した大型トレーラーの運転席から、涼しげな猫が顔を覗かせる。
その姿は屋釘がスマートフォンの画像で見た紳士服ではなく、金の刺繍入りの赤い燕尾服に、エメラルドのループタイだ。
「見てくれたまえ、勝負服だ。これを着るのは何年振りかな。手入れを怠らなくて良かった」
「言ってる場合かよ!試合前に人を殺そうとしてんじゃねーぞ!通報するぞマジ!」
「吾輩は女の子には優しいが、男の子にはそうでもない」
猫は変顔をした。
屋釘はキレそうになったが、もうすでにだいぶキレてたし、口調も学生時代の頃に戻ってたし、これが全世界に放送されてると思うと恥ずかしいのでちょっと冷静になった。
一方、大道寺はクロスケを見ると、帽子を脱いで一礼した。それを見たクロスケも嬉しそうに微笑んで一礼した。
「挨拶してる場合かよ!!ってそうか、知り合いだったんだっけ?お二人さん」
大道寺は無言で頷く。
黒猫はニャンと鳴いた。
「さて、君たちもご覧の方々も、まとめて幻想企画の夢のひとときへご招待しようか」
クロスケはそういうと、右手で指を鳴らす。その合図を受けたのか、トレーラーに積まれたステージに佇んでいた車椅子の阿僧祇なゆが人型に変型した。
アイドルは二の足で舞台に立つ。
そして、顔を見上げると、とびきりの笑顔で三人の観客たちに向かって叫んだ。
「みんなーーーーー元気ーーーー!?」
拳を天に突き上げる。
拡声器を通した声が鏡の池袋全域にこだまする。機材からは大音量のミュージックが流れ始め、阿僧祇なゆの全身からはビームが照射され始めた。
『元気ーーーー!!』
大道寺が元気よく拳を天に突き上げる。
それを見た屋釘も気持ち拳を天に突き上げた。
「はい。元気です」
元気に挨拶をした屋釘を見届けたクロスケは満足げに頷くと、大型トレーラーのハンドルを切り返した。全長何十メートルもの超巨大轢殺トレーラーが、いとも容易くUターンする。
「えっ…なにそのドラテク…ちょっ待っ」
「虐殺ショーの始まりだぁ!」
轢殺トレーラーが再び二人に突っ込んできた!
「ああああああああ」
『ああああああああ』
トレーラーのステージ部分からは絶え間なくビームが照射されている。周囲の背景がサイボーグ化し、池袋が発展してゆく。
阿僧祇なゆはアイドルステージでダンスをしている。懸命に腕を振り、立ち回り、ビームを照射している。
「ハイパーお葬式タイム!」
池袋の建物という建物、果ては空にまでビームは届き、その姿を変えていく。
そうして現れ出たのは、戦闘地形全体を囲む、巨大な鯨幕だった。
「ダメだ!阿僧祇なゆの生ライブを観てたら…轢殺される!」
『寛くん!こっちだよ』
大道寺がすかさず地面に座り込み、何かを開くような動作をする。
屋釘もまた同じ動作をして大道寺のメッセージの意味を考える。
「マンホール…開く…あっ!ドアだ!ドア」
すると、ドアが出現した。地面に水平に接しており、屋釘からしたらそれはドアというよりは穴なのだが、扉も付いているし、間違いなくドアだ。
『入って!』
「これどこに通じてんの!?」
大道寺が水平なドアに飛び込む。屋釘も同じくドアに飛び込んだ。ドアの扉が閉まると、丁度トレーラーが通過する。
「ふんふんふふーん」
一方、クロスケはトレーラーの運転席で鼻歌を歌っている。
「そろそろまじめに戦うかあ」
すると、いきなり背後でガチャリと音がした。
振り向くと、いきなり背後にドアが出現している。まるでパントマイムの表現に限界などないと言わんばかり。
「えっ」
開いたドアの向こう側には大道寺と屋釘が立っていた。
ドアの向こうの大道寺は、クロスケに向かって投げるような動作をした。屋釘も同じく投げる動作をして、短い一言を口にする。
「縄」
瞬間、クロスケの体に投げ縄が巻きついていた。縄の先端は屋釘が握っている。
「ふんっ」
屋釘が縄で引き寄せると、クロスケは勢いよくドアの中に引き摺り込まれた。
反対に、大道寺と屋釘はドアから飛び出し、轢殺トレーラーの運転席に収まる。
クロスケは地面に出現したドアから飛び出てきた。目の前には轢殺トレーラーがバック走で迫ってくる。
「痛てて…えっ何、何が起こったの、えっ?」
「じゃあ今度は俺が代わりに言わせてもらうぜ、お猫さんよお。虐殺ショーの始まりだコラァ」
屋釘はかなり怒っていた。
◇
パントマイムで何かを消し去ることは可能か?
それも可能だ。「ない」演技をすればいい。
無を表現するのと同じだ。
では、質問を戻そう。
「過去」を表現することは可能だろうか?
それは出来ない。
観客にとっては君の過去などどうでも良いし、舞台の芸には関係のないことだ。
言い換えれば、演技で過去を消し去ることも出来ない。君の演技こそ、過去そのものだから。
自分が積み上げてきたものは、忘れたと思っても、人生のある場面で、不意に暗幕の内から姿を表す。
過去は消し去れない。
吾輩の私見が君の役に立てば良いのだが。
◆
例えばの話、誰かが俺の人生を覗き見ているとして、それが途中の場面からだったとしても。
もうほとんどの観客がとっくに気が付いているだろうが、大道寺忍は実際にはこの世に存在しない。
架空の人物だ。
彼は俺にとってのイマジナリーフレンド、つまり妄想である。彼は同志や仲間でなく、友人だ。それはつまり、イマジナリーパートナーとかそんな言葉は無いから、そう言い表すしか無いことを意味する。
俺には幼稚園児の頃から友人の姿が見えていた。そいつは俺にだけ語りかけ、俺とだけ交流し、夢を語り、遊んだ。
重要なのは、俺と友人との間に、確かな間主観性が成立しているということ。友人は固有の心と魔人能力を持ち、それはいつしか『パントマイムで全てを表現する』能力となって、彼自身の姿を客観的にも成立させた。
大道寺は、大道寺自身の能力で生み出されたパントマイムだ。
だから、大道寺忍は滅多に言葉を話さない。
あいつが言葉を話すと、あいつ自身が消失するから。
俺自身の観測から生まれた存在だとしても、彼自身は一個の人格を持った意思に他ならない。大道寺にも大道寺の生活がある。
高校以降は疎遠になっていたから、きっとこいつは殆ど一言も言葉を喋ることなく、身振り手振りだけで生きてきたのだろう。
少なくとも、俺は本気でそう信じている。
「The phantom of the Opera is there - Inside my mind…」
(オペラ座の怪人は、私の心の中に…)
俺はミュージカルの有名な一小節を口ずさむ。
そしてギアをバックにする。超大型トレーラーは、生意気な黒猫の真上を通過した。
「さて、次は阿僧祇なゆか。ライブ聴きてえな」
「Sing, my Angel of Music!」
(歌え、私のエンジェルオブミュージック!)
急にオペラ座の怪人のセリフが聞こえた。
運転席の窓を見ると、どうやったのか、黒猫紳士が車体にへばりついている。
「…どうやった?」
「馬を調教したことはあるかね?吾輩はある」
黒猫、クロスケはステッキを構え、優雅な口調で、答えにならない答えを返してくる。そしてそのまま、俺の反応を無視して語り始めた。
「吾輩の能力は『ラーニングメソッド』。教えた生徒のポテンシャルを次に教える生徒にも引き継がせる。本来の才能の限界を無視してね。この能力には裏技があってね。生徒のポテンシャルは吾輩自身にも引き継がれる」
俺は返事をしない。あまり敵の能力解説に耳を傾けるべきではないからだ。それ自体が能力発動のトリガーである可能性も十分あり得る。
だからハンドルを握ってない方の手で、銃を構える仕草を黒猫に向けた。
クロスケは一瞬怪訝な顔つきをするが、それでも語りをやめない。間違いなく、何かを狙っている。
「わかるかね?つまり馬も吾輩の生徒だ。馬を調教したということは、吾輩も馬と同じ速度で走れるようになったということだ。理解したかい?あらゆる生得条件は意味をなさない」
馬並みの速さ。こいつの話はモノの例えであり、実際に能力が適用されるのは馬に限られないだろう。迫り来るトレーラーから気付かれぬ間に車体にへばりつく身体能力は、例えば野生の豹とかそう言った猫科動物にありがちそうだ。
俺は銃を構えた動作のまま、撃つ真似をする。
「ところで、君の相方は何処だね?レディの方へ向かったのではないようだが…」
「いいや、ずっとここにいるぜ、見えてないのかよ」
クロスケが存在しない銃弾の視線を追う。間違いなくこいつは大道寺の能力を把握している。
だから、そのパントマイムが何なのかを言い当てる瞬間を警戒しているにちがいない。
だが、肝心なところに頭が回ってない。
「不思議か?」
「?」
「でもよぉ〜。パントマイムの観客は俺たち3人だけじゃねえんだぜ」
俺は再び銃を撃つ仕草をする。
背後の死角に隠れている大道寺も同じ仕草をする。
「!」
次の瞬間、画面向こうの観客たちが一斉に言い放っただろう。「銃を撃った」と。
発砲音。
カン!と金属と金属の弾け合う音がした。
『Q』の能力はパントマイムで言い当てた物を実体化させる。言い当てるのは何も俺でなくて良い。
そして、大道寺のパントマイムは今、世界中の人間が画面を通して見ている。
だが。
気がついた時には、既に抜き身の刀身が俺の肩に突き刺さっていた。
クロスケの持っていたステッキ。仕込み刀が既に抜き払われて、弾丸と車体を切り裂いて、俺の肩にまで届いていた。
「痛ッッぃーっ」
「剣を握ったことはあるかね?吾輩はある」
クロスケが真っ直ぐこちらを見据えている。
こいつは銃を撃たれた瞬間、弾丸の軌道を読んで、それよりも速く弾丸を切り裂いたのか。
「そのパントマイムで弾を撃つなら、せめて着弾してから実体化させるべきだったな。もっと愉しもう。このひとときを」
俺は怪我した方の肩を拭う。
こいつには見えてないが、大道寺も同じ動作をする。
「ああ…強いなアンタ。でも良いのかよ、そんなところにいて。滑らないか?」
「滑る?さっきのトレーラーで轢こうとしたのが不快だったなら謝るが…」
「違うよ。油塗れだからな。だから拭いてるんだよ」
「なっ…」
車内に脂が撒かれる。
俺も大道寺も、ヌルヌルになる。
当然、クロスケの野郎も油塗れだ。
クロスケは滑って車体から落ちていった。
「はあ…なんだあの黒猫。なんで弾丸より速く刀身を振れるんだ。化け物じゃないのか。一体誰を教えたらそんなことが出来るようになるんだ」
『大丈夫?寛くん?』
「大丈夫だ。腕も問題なく動くし、傷も見た目より浅い」
大道寺が姿を現して俺を心配する。
まるでわざと狙ったかのように傷は浅い。
もっと場を盛り上げようとでも言うつもりか。
俺は友人を見る。
こいつが第三者の目に見えなかったのは単純だ。
至極単純。「その場にいない」という演技をすれば良いだけだ。無の表現。パントマイムは無を表現出来る。
それが「無」であると指摘してやる必要はない。なぜなら「無」は無だからだ。何処にも存在しない。当然、無には言葉も存在しない。
ただ、相互の認識が一致していて、「大道寺が無を表現しようとしている」と心中で当てることが出来れば、その場から大道寺は消滅する。
もし小説だとしたら、まるで不自然な行間を挟みこまれていることだろう。
それでも、俺にとっての友人であるところの大道寺忍は、例え実態が無くなったとしても、俺には見えている。イマジナリーフレンドとして。
だから、大道寺がこの世から消失している間は、俺にだけ、大道寺の姿が見えるようになる。
万疋屋社長との一件でも使用した手だ。
姿を現すときは、わざわざ大道寺が言葉を話す必要はない。俺が大道寺に話しかけてやれば良い。
「なんだよ、今がお前の人生で一番良い時だろ。そんな心配そうな顔すんな」
いっそのこと、俺も会社を辞めてやろうか。本気でそう思う。もし部長が無理難題を押し付けるような電話でもしてくれたら、このままノリと勢いで退職願が出来るのに。
俺は思い出す。高3の夏明けの出来事を。
と、その時。いきなり車が停止した。
「は?なんだ、おい。どうなってんだ」
『寛くん、見て。外を』
疑問の答えはすぐに明らかになった。
俺たちが猫と遊んでいる間、すでに池袋の街全体がサイボーグ化してしまっていたのだ。このトレーラーごと。
今、目の前にあるのは、池袋などでは無かった。
そこには未だかつて人類が見たことのない、超大規模なライブステージ会場が聳え立っていた。
俺たちが見上げる数百段の階段の先には阿僧祇なゆが仁王立ちしている。まるでかかってこいと言わんばかりに。
そして、バックには何故か白黒の鯨幕がライブステージに見合うデカさで垂れ下がっており、そのさらに上部には、俺と大道寺の遺影が飾られていた。
「今からお葬式を始めます。イエイ!」
『ヒイイイイこのままじゃライブが始まっちゃうよ』
どう見ても始まっちゃうのはライブではなくお葬式なのだが、俺たちはまだ生存しているのでこのお葬式を止めに行かないといけない。
もしかしてこいつら、俺たちが今の時点で死んでたら、このままマイリーマンズのお葬式を強行するつもりだったのか…?
「大道寺まずは二人で阿僧祇なゆを止めるぞ。まずは俺が先頭で突っ込む」
「オラアアアアアア」
もう本当に頼むからアンタはアイドルらしくライブをしてくれ、と言いたくなるくらいの阿僧祇なゆのフライング・クロスCHOPが俺の頚椎に綺麗に決まった。
何でこの人は数百段の階段から飛び降りれんだ。
『寛くーーーん!』
「オラアアアアアア」
返す刀で阿僧祇なゆが大道寺にシャイニング・ウィザードを炸裂させる。別名閃光魔術。
『ぐはああああああ』
「大道寺ーーーー!」
阿僧祇なゆは気が付いていたに違いない。
俺たち二人をまとめてボコボコにすれば、ドン引きした観客達が絶句するのを含めて、誰もパントマイムの回答をする者がいなくなることを。
きっとそうに違いない。そうだと言ってくれ。
ねえ…?
「ストップ!レディ!打ち合わせと違うよ!レディ!」
「オラアアアアアア」
あまりの惨状にクロスケが止めに入る。何でこの人激走するトレーラーから転落して無事なの。
そのクロスケも阿僧祇なゆに巻き込まれてチョークスリーパーホールドを決められていた。
「しめた!阿僧祇なゆはクロスケを巻き込むことに夢中で、俺たちにプロレス技を仕掛ける暇がない!」
『寛くん!乗って!』
大道寺が空気椅子をする。
それが何かすぐに気が付いたおれは、となりに座る真似をして、シートベルトを締めた。
「よし!轢き逃げアタックだ!」
『いっけええええええ』
いつのまにか俺たちはト◯タの車に乗っていた。
そのままト◯タは全速力で発進して、もみあう幻想企画の二人へ突っ込む。
クロスケの方は既に意識が落ちかけていたが、とりあえずさっきのお返しだ。
俺たちの乗ったト◯タにブレーキはついてない。付けてないからな。
全速力のト◯タは幻想企画の二人を跳ね飛ばした。
クロスケの首がちぎれ飛び、その猫の被り物の下の素顔が露わになる。
「福沢諭吉でした⭐︎」
「偽物だったーーー!」
不味い!これは罠だ!
クロスケと思われたのは福沢諭吉だった。
「グググ…その福沢諭吉は今さっき私のポケットマネーから作り出した福沢諭吉よ」
「アンタは本物なの!?」
血塗れの阿僧祇なゆがギリギリで立ち上がる。すごく罪悪感が湧いてくるので今すぐ死んで欲しい。
だが、これでこのふざけた空気の元凶であるアイドルを封じることが出来た。
俺はステージを見回す。
「探さなくても吾輩はここにいるよ」
本物のクロスケが階段を登ってくる。
その手には抜き身の刀。あとあちこち擦り傷だらけだ。
「ウチの相方と遊んでくれてありがとう。ようやく真面目に戦えるよ」
「ああ、リベンジマッチといこうぜ」
俺は黙る。
クロスケも黙る。
ここは舞台の上。演者に余計な言葉はいらない。
これはパントマイムだ。
俺は高3の夏明けのことを思い出す。
あのオペラ座の怪人の帰りのことを。
黒猫が抜き身の刀をこちらに投げる。
思わず、俺はそれを手に取ってしまう。
この剣を使えと言うことか?
だが、どうやって?
次の瞬間。
全身に冷や汗が流れる。
目の前の敵の気迫に押されたからというわけではない。敵の行動が読めないからというわけでもない。
理解したからだ。
目の前の猫が何を言いたいのか。
「初めて本物の剣を握ったのは10歳のとき。怪我をした父親の代わりに、舞台に出た」
猫は語り始める。
パントマイムは語らない。だが、猫は語る。
「剣を握った瞬間、それをどう扱えば良いのか1秒とかからず理解できた。自分はただ剣を振るえるのだという現実がそこにあった」
剣を握った瞬間、理解できてしまった。
つまりこいつの能力は、才能ある人間が技能を習得するのに掛けた時間を、別の人間にも補償してしまうのだと。
ただ、この猫の場合、剣の技術を修めるのにかかった時間が0秒だったというだけの話だ。
「既に君も剣の達人に既になっている」
俺の能力は『普通の生き方』。
それが魔人能力だと理解さえ出来れば、俺はその能力の損害を被らない。
だが——
敵は、剣を持ったその瞬間から、剣の達人だった男だ。
それを理解した時には、つまり既に俺は理解してしまっている。
剣の使い方を。
俺は走り出す。
剣を構えて。どう扱えば良いのかは既に理解してしまっていた。
「指南してやろう」
だから分かっていた。
目の前の敵が、俺がどう動くのかを完全に理解しているのだと言うことを。
俺は刀を振るう。
刃はコンマ数ミリでかわされる。
「君の動きは、半世紀以上前の吾輩の動きだ」
黒猫の掌打が俺の手首に当たる。
握っていた筈の剣は取り落とされ、それは床に落ちる前に黒猫に奪われる。
「吾輩の動きは、半世紀以上研鑽を重ねた君の動きだ」
今までの冗談が全部嘘だったんじゃないかと思うくらい、冷たい刃が俺の首筋に振り下ろされた。
ずっとあの日のことを思い出す。
高3の夏明けの日、オペラ座の怪人を見に行った日のことを。
キラキラ輝く大道寺の眼。ずっとこのままじゃいけないと思っていた。
俺も夢を持てばいつか大人になれるのだと勘違いしていた。そんな少年時代だった。
だから、あいつが本気で大道芸人を目指しているのだと、その瞳を見て理解したとき、俺はこのままじゃいけないと思ったんだ。
大人にならなきゃな。そう思った。
帰りの公園のベンチで、スポーツドリンクを渡した時に言ったんだ。
「今まで俺の友達でいてくれてありがとう」と。
あいつは心から笑ってくれた。
それで、あいつも言ったんだ。「それは僕の方の台詞だよ。今までありがとう」と。
これで良かったのだと思った。
アイツはいなくなってしまうけど、その時はまだアイツのことは、結局、俺だけにしか見えない存在だとしか考えてなかった。
それが、どうしてああなった。
ずっとあの日のことを思い出すんだ。
アイツは何を思ってそんな言葉を言ったんだ。
その日、俺は家に帰れなかった。
自宅の場所が、思い出せない。
俺には今まで生きてきた人生があったはずなのに。思い出せなかったんだ。自分の人生を。
家の場所、家族。なにもかも。
思い出せるのは、アイツと遊んだ記憶だけ。
泣きながら街中を走った。
あれだけ嫌いだった学校に行こうとしても、どれだけ走り回っても、学校の場所すら思い出せなかった。
俺は、大道寺忍をイマジナリーフレンドだと本気で信じてる。
だけどそれはアイツが頭の中で作った設定で——本当は、俺がそうだったんだ。
俺が大道寺の妄想だったんだ。
イマジナリーフレンドは俺だったんだ。
俺はこの世の何処にも実在しなかった。
俺はただ、『普通の生き方』がしたかっただけなのに。
◇
さて、大道寺くんと言ったかな?こんな老猫の長い話に付き合ってくれてありがとう。
君はきっといいパフォーマーになれるよ。
やはり路上パフォーマンスをしている若者は良いな。話しかけてみるものだ。
アドバイスが欲しければいつでも連絡をしてくれ。
そうそう、君の話してた友人のことだけどね。
彼はきっと、君のことを恨んではいないんじゃないかな。
どんな演技でも過去は消し去ることが出来ないけどね、だからこそ、そう言ったことにはちゃんと向き合うべきだと思うよ。
まあこれは、それが出来なかった老人の祈りのようなものだと思ってくれ。
ああ、動画はネットに上げても良いかい?これも趣味でね。
◆
初めて寛くんが見えたのは、幼稚園児の時。
それが僕だけにしか見えないのだと分かったのは、3ヶ月後。
子供にはよくあることらしく、周りもそこまで気にしてなかったけど、その後の人生でも引き続き、寛くんは僕に話しかけてくれた。
多分、話し相手が欲しかったんだと思う。
テレビの向こうのアイドルは、決して僕の相手まではしてくれないから。
だからこんな能力を身につけたのかもしれない。誰かのリアクションがあって初めて成立する能力。最初に実体化させたのも、寛くんだった。
寛くんは、僕にしか見えてないことを知らなかった。それどころか、僕の方を幻だと勘違いしているみたいだった。多分、僕の頭の中の、そういう設定なのだろう。
だから、いつしか寛くんのために家も学校も用意していた。実体化さえすれば、実態があるのだから、周りも受け入れざるを得ない。
高3の夏休み、寛くんと学校をサボって劇を見に行った。
オペラ座の怪人。仮面の下にコンプレックスを隠した男の物語。
これは僕自身なのだと思った。
だから、このままじゃいけないと思った。
大人にならないといけないと思った。
その帰り道、寛くんは言ったんだ。「今まで俺の友達でいてくれてありがとう」と。
僕は心から笑って、それで、言った。「それは僕の方の台詞だよ。今までありがとう」と。
これで良かったのだと思った。
寛くんはいなくなってしまうけど、それで良かったのだと。
だけど、次の日も寛くんは僕の前に現れた。
「おい…見ろよ。俺たちの学校が、無くなっちまった」寛くんはそう言った。
過去は消し去れない。
寛くんが魔人能力に目覚めたと知ったのは暫くしてからだ。『普通の生き方』。彼は魔人能力による損害を被らない。
魔人能力の都合の良い部分だけを享受する。
僕の能力の良いところだけを。
彼は晴れて人間になって、そこで僕らの青春は終わった。寛くんは夢を叶えて、普通の生き方を手に入れた。
その後の僕らの人生は、イグニッション・ユニオンで交わるまで、ずっとすれ違ったままだ。
『普通の生き方』は彼の願いそのものだ。
じゃあ、『Q』は何かわかる?
Phantomime of the Opera -オペラ座の友人の隣にいるから、
Qなんだよ。
◆
舞台の上で、屋釘寛の生首がどうと転がった。
赤々とした血が床を濡らす。
それでも、大道寺忍は言葉を話さない。
「さて、残るは一人」
屋釘を討った黒猫が言いかけて、そこで止まる。
ステージ背後の鯨幕が風で揺れた。
「はっ」
はは、と笑い声が漏れ出す。
クロスケが大道寺を見ると、道化師は声を出して哄笑していた。
「はははははは!ははは!ははは!」
道化師が笑う。声を出して笑う。
床の血が消え、転がった死体までも忽然と姿を消す。
「ふ」
クロスケもまた笑う。
これが彼の演技だとしたら、それは大したものである。彼はそう考える。
やはり、半年前、路上パフォーマンスをしていた大道寺忍に話しかけて、顔見知りになっておいて良かったと、本気で考える。
鯨幕が
そっと揺れた。
黒猫は静かに振り返る。
風を受けた巨大な鯨幕が揺れるばかり。そこには何もない。
何も。何の痕跡も。
鯨幕が揺れる。
黒猫は思い出す。大道寺と話した、パントマイムについての私見を。
パントマイムとは、白と黒のコントラスト。
白い部分には自ずと人の注目が集まる。
そこに注視させるのが基本だ。
大道寺忍の顔は白く塗られている。
屋釘寛の着ていた服は——
黒。
鯨幕が揺れる。
揺れたその隙間から、何かが投げ込まれる。
黒猫は投げ込まれた物体を見る。
それは株式会社黒服警備保障の社員証であり、屋釘寛がこの世に存在した証である。
また、鯨幕の隙間から何かが投げ込まれる。
それは金属製特殊警棒。屋釘寛が携帯していた警戒棒である。
投げ込まれる。
投げ込まれる。次々と。
いつしか、目に見えない"それ"はクロスケに向けてありとあらゆる痕跡を投げ放ちながら、どんどんと近づいてきていた。
何もないところから、免許証や時計、ネクタイなどが投げ込まれる。
そして、コーヒー缶。
屋釘寛は生前、「大道寺忍が自分にしか見えなくなる」状況に遭遇している。
彼はそれを、大道寺忍が無を演じることで、本来自分にしか見えない状態に立ち返っているのだと信じていた。
だが、真実は逆である。大道寺忍が誰の目からも消え去るところまでは当たっているが、屋釘の目にしか見えなくなるのは、誰にも認識できなくなった大道寺忍を認識できるのが、彼を自分の幻だと信じることしかできなかった屋釘だったというだけ。成立していない間主観性でのみ成立するバグ。
言わば屋釘は大道寺がいないときだけ、彼を自分の妄想と出来たに過ぎない。
では、屋釘寛をパントマイムで「いない」ようにすることは可能か。
不可能である。屋釘には『普通の生き方』があるため、彼は魔人能力による損害を被らない。
彼の存在の消失は、彼自身の最も恐怖するところである。
だがそれも、彼が死ぬまでの話。
クロスケは振り返る。
大道寺忍の姿が何処にもない。
しまった。猫は思う。
いるのだ。
そこに屋釘寛がいる。
屋釘寛の『普通の生き方』は、死後に残る能力ではない。
だから、大道寺忍は死後の屋釘寛を表現できる。
それは「無」だから。
クロスケは逡巡する。鯨幕が揺れたのは偶然だ。だが、そこで妙な想像力を働かせるべきで無かった。
いない筈の存在さえ、
いると思ってしまえば。
いる。
スポーツドリンクの缶が、クロスケの胸に当たる。
次の瞬間、今まで何処にあったのか、オペラ座のシャンデリアが落下してきて、ガラスの砕ける音とともにクロスケの体を押しつぶした。
◆
時刻と場所は、試合開始前の幻想企画プロダクション事務所での会議に戻る。
クロスケは、両眼のプロジェクターで、大道寺忍の動画を流していた。
「この動画を見たまえレディ。彼らもまた一流の表現者というわけだよ」
「やっぱり目にプロジェクター入れといて正解だったわね」
阿僧祇なゆが嬉しそうに微笑む。
両眼のプロジェクターから映し出されたのは、半裸のお坊さんが武士にしばかれている映像だった。
半裸のお坊さんは鞭でしばかれながら視聴者に向かって語りかける。
『あなたは霊を信じますか?』
「何これ」
「間違えた」
クロスケがスマートフォンを弄ると、プロジェクターに映し出された映像が早送りされる。半裸のお坊さんは武士に高速で鞭でしばかれている。
「ねえ猫さん。真面目にやって欲しいんだけど」
「待ってくれレディ。最近の携帯って操作が難しいんだ」
「最近の携帯は『最近の携帯』って言わないわ。ていうか猫さんってこんな趣味あったの」
「違うんだ。ここからが良いところだから」
「何一つ良く無いわ」
半裸のお坊さんが武士にしばかれながら霊の実在を語る動画は、既に半分くらいに差し掛かっていた。
『つまり霊は実在するのです』
「猫さん、仏教って輪廻転生よね?死んだら生まれ変わるのに、霊なんているわけないじゃない?」
「いいや、そうでも無いさ、レディ。いない筈の存在がいる、だから幽霊なんだよ。逆説的だが、幽霊の存在を否定する仏教というのは、幽霊がいると思われせるのに最も都合がいいのさ。待って、レディ。帰らないで。ここからが良い場面だ」
阿僧祇なゆが帰ろうとすると、ちょうど動画の端からいきなり道化師が現れた。
道化師が手を両手をぶんぶんと上下させている。
「見てごらん、彼だよ」
クロスケが動画を指差す。武士が何事かを道化師に言うと、道化師の両手から水の入ったバケツが出現した。そのバケツを武士に手渡している。
阿僧祇なゆは興味なさげにそれを見ていた。
「幽霊ねぇ…そういえばちょっと前にも幽霊のミュージカルをしたわよねぇ。オペラ座の怪人ってやつ」
「10年以上前のことを普通『ちょっと前』とは言わないよレディ。それに、オペラ座の怪人は幽霊じゃないし、今度の舞台でレディが演るのは、オペラ座の怪人じゃないだろ」
クロスケはスマートフォンの画面を切り替える。2分後、帰ろうとする阿僧祇なゆの前に、画面が映し出された。
プロジェクターに映った画面には『ミュージカル耳なし芳一』とデカデカと映し出されていた。
◇
ああ、そうだそうだ。大道寺くん。
ついでだからこれも聞いていってくれたまえ。
耳なし芳一というのを知っているかね。
耳なし芳一は平家の怨霊から身を守るために、全身にお経を書いた芳一というお坊さんが、耳にお経を書き忘れたために、最後には耳を持っていかれるというお話なんだ。
え?知ってる?ああ、そう。
吾輩は半年後に耳なし芳一の舞台をしようと考えていてね。良ければ君もどうかな?
でも耳なし芳一が耳を持っていかれたのにはちゃんと理由があってね。
仏教には輪廻転生があるから、幽霊なんて本当はいないんだ。
だから、本来いない筈の幽霊たちには、仏教は極めて都合が悪い。仏教があるから『いない筈の』幽霊は存在できるけど、だけどやはり仏教が真実だとした場合、幽霊にとって仏教は都合が悪いのさ。
ダブルスタンダードなんだよ。
だから幽霊には、仏教を無視する積極的な理由があるわけだね。だから芳一は身体中にお経を書いたのさ。
だけど、そもそもの話。芳一は盲目だったけど、平家の怨霊の言葉は聞こえたんだ。
そして、人間の体にはどれだけお経を書こうとしても、書けない部分がある。
分かるだろ?耳の穴さ。
芳一は霊の声に、耳を奪われてしまったのさ。
待って、寝ないでお願い。老人の話は長いから。
「いたぞー、阿僧祇なゆにいつも巻き込まれてる人だー」
待って警察さん!!違うんです!私は阿僧祇なゆにいつも巻き込まれてますけど、今日は違うんです!オフの日なんです!!
単に長話してたら若者が寝ちゃっただけなんです!!今日は違うんです!!
◆
シャンデリアの墜落した舞台の上。立ち上がった阿僧祇なゆは、いつのまにか全身にお経が書かれた純白の衣装にドレスチェンジしていた。
『な、なんだ、このミュージックは!?』
パントマイムによりこの世の何処からも姿を消したファントム達が驚き戸惑う。
それは阿僧祇なゆの大ファンであるマイリーマンズも聞いたことのない新曲だった。
『そういやこいつまだ歌っても無かったな』
ファントムは絶望した。
「さて老若男女お立ち合い!阿僧祇なゆのゲリラライブ!!ミュージック、スタート!!」
摩訶般若波羅蜜大明咒經 feat.オペラ座の怪人
うた 阿僧祇なゆ
作詞 インド人
作曲 お坊さん
編曲 鳩摩羅什
摩訶般若波羅蜜大明咒經。それは分かりやすく説明するとプラジュニャーパーラミター・フリダヤのことである。
『般若心経だ!般若心経を唱えやがった!』
『しかもfeat.オペラ座の怪人だ!生意気な!』
荘厳なBGMとともに、阿僧祇なゆは座禅を組み、ひたすらプラジュニャーパーラミター・フリダヤを唱え始める。
派手なダンスパフォーマンスは必要ない。只管打坐こそが今この場で最も必要なアイドルパフォーマンスだ。
I am your 觀世音菩薩…
(エンジェル・オブ・ミュージック)
come to me 觀世音菩薩…
(エンジェル・オブ・ミュージック)
CHRISTINE!
阿僧祇なゆが天使の美声で観世菩薩を招来せしめる。それはオペラ座の怪人がクリスティーヌの前についに姿を現す場面と重なり、一体となる。
『ダメだ…このパフォーマンスは…俺たちには眩し過ぎる!』
行深般若波羅蜜時
照見五陰空 度一切苦厄
舍利弗色空故無惱壞相
(歌え 私のために)
受空故無受相 想空故無知相
行空故無作相 識空故無覺相
the Phantomime of the Opera is there -
inside your mind...
何以故
(クリスティーヌ)
舍利弗非色異空
非空異色 色即是空 空即是色…
(エンジェル・オブ・ミュージック)
受想行識亦如是
(醜さは顔にはないわ)
舍利弗是諸法空相
不生不滅 不垢不淨 不增不減 是空法
(けがれは心の中よ)
非過去非未來非現在
是故空中 無色無受想行識 無眼耳鼻舌身意
(さようなら裏切りの友)
無色聲香味觸法 無眼界乃至無意識界
無無明亦無無明盡 乃至無老死無老死盡
(こいつを殺すぞさあ)
the Phantomime of the Opera is there -
inside your mind...
無苦集滅道 無智亦無得 以無所得故…
菩薩依般若波羅蜜故
心無罜礙
無罜礙故無有恐怖 離一切顛倒夢想苦惱
究竟涅槃
三世諸佛依般若波羅蜜故
得阿耨多羅三藐三菩提
故知般若波羅蜜是大明咒
無上明咒 無等等明咒
My spirit and your voice, in one combined
能除一切苦真實不虛故說般若波羅蜜咒即說咒曰
竭帝竭帝 波羅竭帝 波羅僧竭帝 菩提僧莎呵摩
(エンジェル・オブ・ミュージック)
それはお経と呼ぶ他なかった。
オペラ座の怪人がクリスティーヌに仏法を解き、そして全ては空である。
耳なし芳一もまた空であり、平家の怨霊すらも空である。
いわんや、「無」となったマイリーマンズをや、である。
『小癪なああああああシャンデリアを落としてやる』
今まさにファントムが阿僧祇なゆに襲い掛からんとする。それもまた空である!
だが、この場では唯一消し去れないものがあった。それは仲間との絆だ。
『ああっこの阿僧祇なゆの只管打坐は…』
ファントムは気付いた。阿僧祇なゆが先程からしている只管打坐(ただひたすら座禅をすること)は、伝説のアイドルグループAK47のセンター、只管打坐アイドルの黙照禅清美の結跏趺坐と同じであると。
ファントムは気付いた。阿僧祇なゆの只管打坐は、クロスケの能力により、黙照禅清美のポテンシャルが阿僧祇なゆに引き継がれ、努力により身につけたものだと。
剣の才能如きは例え0秒で身につけることが出来ても、仏の道に才能などない。
ただ、ひたすらに求道を続けたかどうかであると。ファントムは死して大悟したのだ。
『お前結構アイドル詳しいのな』
相方のファントムは腕を組んで言った。
その時、阿僧祇なゆの両眼がくわと開かれた。
「そこだああああおもちゃビーム!!」
阿僧祇なゆは結跏趺坐のまま、全身からビームを解き放つ。それは真球を描き、アイドルステージを、池袋の全てを包んでゆく。
ビームに包まれ、存在なきファントムと化していた大道寺忍は、いつのまにかニワトリのおもちゃになっていた。
そして、その口からはニワトリの機械音声が絶え間なく流れ続ける。
『ば、馬鹿な…これは!』
夢の時間の終わり。
絶え間なく朝を告げるおもちゃとなった大道寺に、もはやパントマイムを実体化させることは叶わない。
どれだけ声を止めようと思っても、夢を持っている限り、彼はなき続けるからだ。
もう一人のファンも、シャンデリアも跡形もなく消え去っていた。そこには倒れ伏すクロスケだけがいた。
Sing, 訶般若波羅蜜大明咒經 ,my Angel of Music!
Aah…
He's there,
the Phantomime of the Opera...
全ては空となる。福沢諭吉が泣き続けるニワトリのおもちゃを抱えると、ふらふらと舞台の端まで歩いて行く
「良いライブでした。おさらば」
福沢諭吉はニワトリのおもちゃを抱えたまま、舞台から飛び降りた。ニワトリのおもちゃは粉々に砕け散った。
◆
幽霊になったり、存在が消滅したり。豁然大悟したり。
一時はどうなることかと思ったが、どうやら大会運営も参加者が戦闘中に大悟する程度のことは想定しているようで、俺は無事に肉体を伴って鏡から出てくることができた。
「ああああああああ」
『ああああああああ』
それは友人も同じだったようで。なんか最後の方はニワトリにされてた気がするが、無事に道化師の姿で鏡から出てくることができた。
「ああああああああ」
『ああああああああ』
暫くの間、恐怖で転げ回っていたが、380円にひしと抱きしめられてなんとか落ち着くことができた。
「もういいっ!良くやった!…お前らは良くやったんだ…!」
「3…80円さん…!」
俺は泣いた。
そこへ部長も駆けつけてくれた。
「ラーメン屋やろう!俺仕事辞めるから…!俺たち4人で、ラーメン屋やろう!なあ!」
部長はよく分からないことをしきりに言っていたが、とりあえず考えさせてくださいとだけ答えた。
転職しようとは思うが、まあ部長とラーメン屋をやるのは嫌だ。
脱サラして前職の上司がまた上司になるとか地獄だぞ。冷静になってくれ。
だが、部長が結構愉快な人だと分かったのはそんなに悪くないことかもしれない。転職はさせてもらうけど。
俺には俺の人生がある。
そこへ悪名高い幻想企画が近づいてきた。
『ああ、どうも。お世話になりました』
大道寺がペコリと頭を下げる。俺も阿僧祇なゆにガンを飛ばされ、しぶしぶ頭を下げた。
そして、阿僧祇なゆは柔和な顔をして俺に言った。
「てめーはあとで殺す」
「なんで!?」
どうも阿僧祇なゆ的には俺が相方の見せ場を奪ったのがお気に召さなかったらしく、俺は知らぬ間に目をつけられてしまったらしい。
「それで、夢のひとときはどうだったかね?」
クロスケが俺たちに話しかける。
俺は心からの笑顔で答えた。
「ああ、それなりに楽しかったですよ」
なあ、大親友。