トレエとニアヴのいる渋谷のスクランブル交差点は見るも無残な有様になっていた。
道路に面したビルの窓ガラスは割られ、看板も叩き壊されている。
それは戦いの余波によるものではない。
渋谷の代表的なエリアである交差点を破壊している犯人は、外から見て一番目立つビルの、一番目立つ喫茶店内にいた。
「あぁははは! 魔人警察も来ないとは素晴らしい!(破壊音)たまらないね!
ホットのドリップコーヒーとアイスのマキアートを同時に飲むとこんな味がするのか!(機械の配線がはじけ飛ぶ音)
クライムアクションゲームの百倍は楽しい!(耳障りな引き裂く音)」
悪魔、ニアヴ・E・ブレインは、せっかくだからと現実世界では中々できない悪魔的行為に励んでいた。
対してニアヴの相方である天使、トレエ・A・ハートは仏頂面で、近くにある信号機の上に座り込んでいた。
余り物な彼女たちが最初にとった行動は、派手に暴れて、〈運命の機織り達〉をおびき寄せるという待ちの姿勢だった。
その間、暇だからという理由でニアヴは暴れ始めてしまったので、トレエが警戒している形である。
(鏡の世界だから外に影響はない。誰かに迷惑をかけるような罪悪ではないけど……やっぱり理解できないわ)
意味のない破壊行為の何が面白いのか。熱心に周囲を警戒しつつもトレエはそう思っていた。
そこでようやく、糸霧竜也と白詰ゆきが遠くから現れた。
しかめっ面をしていたトレエは、道路の向こうからやってくる敵チームを発見すると、青いスマートフォンの通話口に話しかけた。
『報告、来たわ』
ニアヴの破壊が止まる。
やっと静かになった交差点で、トレエは近づいてきた竜也とゆきに言った。
『ごめんなさい。私は止めたのよ?
でもスクランブルをごちゃ混ぜにするって聞かなくて……』
開口一番、気の抜けた謝罪をするトレエ。
しかしゆきはトレエへ応えず、竜也に言った。
「信号機の上に天使が見えます。竜也さんは?」
「……やっぱりか。見えない」
竜也は必要とあらば無辜の人を殺せる。殺さなければトラブルが拡大するなら殺す。
ゆきに関しても、必要がなかったから殺さずに済んだだけで、必要があったなら殺していた。
もちろんこれは悪の行為ではないが、善行でもないだろう。余裕があれば人助けぐらいはするが、なければしない。
善いことも悪いこともする自分はいいとこ中立で――内面も加味されるなら悪と判定されるだろう、と竜也は考えていた。
比べてゆきは善人だ。
あの日の研究所。
さんざんぱら痛め付けられ、続いて現れた正体不明の竜也へ、真っ先に”逃げて”と言うようなお人好しが善人でなかったらなんだという話だ。
暮らしていく中でも、良い子だった記憶はあっても悪い子だった記憶はない。
だから自分に天使が見えないのも、ゆきには見えるのも、竜也の予想通りだった。
逆にゆきにとっては、自分は天使が見える自信はなく、竜也は見えて当然と感じていたので、この結果は結構な驚きだったのだが。
善人にしか聞こえない天使の声とは違い、今度は竜也にもゆきにも聞こえる声がした。
「第一問。通常、悪魔が生まれるにはどのような処理が行われるか」
ニアヴはビルの上階から窓ガラスを割って飛び出し、路面へと降り立った。
片手には紙製のコーヒーカップを持ち、ワイシャツの胸ポケットには、黄色いスマートフォンが入っていた。
「第二問。お前たちは天使が見える善人か否か」
信号機の上にいたトレエは背中の鞘から【弔悪】を引き抜くと投擲した。白銀の剣が竜也へ向かう。
「天使が剣を投げました!」
「問題なし」
竜也に【弔悪】は見えなかったが、伸びてくる不運の糸はいつも通り視認できた。
糸霧竜也の魔人能力【運命の糸切り鋏】は不運の糸を視認し、切断できる。
何が飛んできたのかさえ竜也自身はわかっていなかったが、正面から伸びてきた不運の糸なら対処は容易だ。
彼は左手に持った短剣で不運の糸を断ち切った。
【弔悪】は不可視の壁で弾かれたようにコンクリートへ転がった。
竜也はトレエへ攻撃ができない。【弔悪】の刃と己の剣を交わすこともできないだろう。
だが変わらず”不運”は切れる。知れたのは大きな収穫だった。
善人以外に観測不能・干渉不可能、それでいて悪への攻撃は可能な【観善】【弔悪】の天使へ竜也は何もできないが、彼が切るのは天使ではない。
現実世界に起こる”不運”だ。そのロジックを以て、彼は天使からさえも身を守れる。
希望を見出した竜也に、ニアヴは笑いながら言った。
「第三問。天使と悪魔と同時に戦ったことはあるかい。あーは」
<現世からの余り物>タッグと<運命の機織り達>タッグは対峙した。
奇妙な問いを畳みかけてきたニアヴに、竜也は簡潔に回答する。
「一、知らん。二、答えない。三、ない。これじゃ不服かい」
そう言いつつ、彼は空いた右手を背中に隠して、指を後ろへ向ける。ゆきは小さく頷いた。
ニアヴはコーヒーを一口飲んで、カップを背中に回してから言う。
「第一問の答えは、蛆虫に似たリサイクル装置に罪人の魂を大量に食わせて製造される、だ。私は違うが」
ニアヴは腰を低くしてクラウチングスタートに似た態勢をとった。
「第二問は糸霧の目線が、いま飛び上がったはずのハートに向いていないのに、白詰が注意を向けている点から明らかだ」
ゆきの視界にしか映っていないが、トレエは【弔悪】を回収し、ニアヴの言う通り上へ上へと飛んで行っていた。
ニアヴはチーターのように前へ跳んだ。
応ずる竜也は前に出て、ゆきは逆に後ろへ下がる。
竜也は不運の糸を切った。結果、ニアヴが伸ばした手は不可視の≪壁≫にぶつかる。
竜也は左腰の長剣を引き抜き、ニアヴが前に出していた片腕と両脚の関節をなぞるように斬った。
「そして第三問! その勇敢な目! 戦ったことはないが――勝ち筋があり、それを切り開こうとしている、だ!」
ニアヴは後ろに回していた手を振りぬいた。カップに入っていたコーヒーが竜也の顔面に至近距離でぶちまけられる。
「生温い」
だがコーヒーがかかるよりも竜也が短剣で不運の糸を切る方が早かった。
ショートレンジだが、不意打ちでもなんでもない。
黒い液体は空中で弾かれたように散る。しずく一滴すら竜也に触れなかった。
「飲んでないのに温度がわかるのか。ならしょうがない。もっと熱い拳を――」
けれど、ニアヴが傷を回復させる数秒の間に、竜也とゆきは後方へとどんどんと距離をとっていった。
「連れないな。誘っているのか?」
ニアヴは一歩踏み出したが、二歩目は踏み出せなかった。
彼女は、ありえない飛び散り方をした道路のコーヒーを踏み、ありえない摩擦係数のなさに滑って転んだのだ。
当然の帰結として、悪魔は猛烈な勢いで後頭部を道路へ打ち付けた。
倒れたニアヴはしばらく無言だったが、胸ポケットからスマートフォンを取り出して通話した。
「報告。【無限葉の白詰草】はこっちから攻撃しなくても発動する」
『本当? 作戦が最初から練り直しじゃない』
「別に。そんなものだろう」
ニアヴは拗ねたように言った。
試合前に渡された<運命の機織り達>のプロフィールを見て、最初に思い付いた作戦は失敗した。
”害を与えようとした者に不運を押し付ける? なら害を与えようとしなければいいじゃない!”
で白詰ゆきをスルーし、糸霧竜也だけを狙うのは、思い返せば安直な発想だったと言える。
むしろまだ幸運な部類だ。トレエをあそこで下げなかったら、トレエもまた不運に巻き込まれただろう。
天使が一回や二回のアンラッキーで死ぬとも思えないが、一つの傷が勝負を分けるかもしれないのだ。
ニアヴは肩で身体を支えて倒立すると、全身の力をバネのように使い起き上がった。
「今どこにいる?」
『南に百メートル。犬の銅像を通り過ぎたわ。あ、あの犬、天国で見覚えがある。
やっぱり! 善き者はちゃんと現世でも評価されるのね』
トレエの天国トークを聞き流しながらニアヴは思考する。
(百メートル? 近いな。魔人の身体能力なら倍以上は行けてもおかしくないはずだが――効果範囲か?
いや、それなら接触する前の、私かハートに不運の兆候が出ていないと妙だ)
遠くでかすかに雷が轟く。ニアヴは舌打ちした。
ここは鏡の世界の渋谷だ。急な天候の変化は発生しない。
空を見上げれば、半分が白い雲で覆われていた。
「流れが悪いな」
渋谷駅近く、ハチ公像の前でジリジリと警戒しながらも達也とゆきは渋谷のスクランブル交差点から距離をとっていた。
「竜也さん。本当に天使を探さなくていいんですか?」
「構わない。能力を発動しながら探すのは難しいだろ」
ゆきの目元には一筋の涙の跡があった。
ゆきが何を考えてゆき自身に精神的ストレスをかけているか、竜也は知らなかった。
問うつもりもない。ゆきの覚悟の侮辱になる。だが、それが何であろうと思考であり、想像だ。
天使を探しながら心の中の想いに集中するのは難しいし、中途半端になるだろう。なら専念してもらった方がいい
白詰ゆきの魔人能力、不運を周囲に押し付ける【無限葉の白詰草】は、想像だけで発動が可能だ。
今のところは作戦通りだ。
渋谷に入った瞬間からゆきは能力の発動に集中しつつ、広い渋谷の中を移動して<現世からの余り物>タッグに接触。
能力と相性を確認して、一当てしたら離脱。
あとは竜也が不運を断ち切り、ゆきを守り。そして悪魔から距離を取り続ける。
ニアヴは追いかけざるおえない。
【無限葉の白詰草】が天使を効果範囲に捉えたら敗北につながるからだ。
追いかけて来ないならそれも良い。
竜也はニアヴに一太刀入れたのに対しこちらは本当の意味で無傷だ。判定勝ちどんと来いである。
まぁ見た感じの性格上これはないだろうし、竜也もそこまで粘るつもりはない。
加えて接触してわかったこともある。
「天使の攻撃でも糸が切れるってわかったからな。遠くからの攻撃なら防げるし……目の前まで来ればゆきが気づけるだろう」
「それは任せてください」
(ま、天使がどこにいるかってのはもうわかってるんだが)
頭上だ。
竜也がトレエ・A・ハートと組んでいるならそうする。
飛行というアドバンテージとアタッカーを組ませるなら、基本はそれだ。位置を常時把握でき、情報的に優位に立てる。
【無限葉の白詰草】が任意発動できるのはすでにバレている以上、効果が届かなさそうな遥か上空にいるだろう。
だがゆきには伝えない。天使が読唇術を使えたら――というのは流石にパラノイア気味の懸念だが、
ゆきがとっさに上空を見たら”真上に天使がいるのに気づいていること”に気づかれてしまう。
この状態がベストなのだ。後はこちらが右往左往する様子をしばらく見せた後、適当な高層ビルに入って登れば――天使を不運に捉えられる。
だが戦略的に必要とはいえ、ゆきに己の考えを黙っている心苦しさからか、竜也は言った。
「あいつらは思ったよりも頭脳派みたいだ。俺から離れるなよ」
「はい!」
「そう言われるとぉ!」
遠くからニアヴが走りながら叫ぶ。
だがその道中、渋谷に腐るほど設置された看板の一つが突風にあおられてニアヴへと飛んでくる。
ニアヴはその看板を片腕で弾いたが、衝撃に耐えきれず彼女の腕は根本から千切れた。
けれど、片腕になってもニアヴは動揺を知らない。
彼女は前方へ飛びこみ、アスファルトに片手をつくと、身体を半前転させ、竜也とゆき二人ともへ両足のキックを放った。
正面からの曲芸じみた攻撃。竜也はゆきを抱えつつ最低限の動きで避ける。
ニアヴは反対側の路面に危なげなく着地した。
続いて千切れた部分から出ていた血液が蠢き、腕を作り、そして完全に回復する。
「引き離したくなるな。――原案! 白詰を追跡してマウントを取れ。糸霧とは私がやる」
「なんだ?」
と竜也は訝しむが、ニアヴの言葉に返答が来る。
『マウント? というかいいの? 逆じゃなくて』
トレエの声だった。ここに来るまでに胸ポケットのスマートフォンのスピーカー機能をオンにしたのだ
これで手に携帯を持たなくても会話できる。相手にも筒抜けになるのが欠点だが、仕方がない。
ニアヴはつらつらと答える。
「ああ、ああ、だいたいわかった。【無限葉の白詰草】は倍々ゲームで”距離”と”威力”が上昇してる。
加えて白詰ゆきは善人だ。覿面にハートへ刺さってる。放置厳禁」
最初は転んだだけだったが、次は身体の一部分を持っていかれるレベルの不運が起こった。
明らかに不運のグレードが上がっている。
ゆきに近づかれたのに不運が起こらず、離れてから不運に見舞われたことから効果範囲が持続的に広がっているのも推理可能だ。
加えてニアヴには見えていた。
ゆきはニアヴに視線を向けているが心あらずと言った様子で、瞳は潤んでいる。
「そして涙だ。ポイントは感情! だからお前の出番だ。覿面に心へ刺してやれ」
『……決定案。私はゆきを追いかけてお話。あなたは竜也を食い止める。一区切りついたら合流。いいかしら?』
「オーキードーキー。ファッキンエンジェル」
『しれっと私を侮辱してもわかるのよ?』
「頭脳派……?」
ゆきは困惑したように呟いた。
天使と悪魔は、敵の目の前で聞こえるように作戦を議論して決めていた。
……これがトレエとニアヴの武器。密接なコミュニケーションである。
その場で案を提示し、評価し修正し、決定する一連の手順。
蓄積がないから現場でなんとかするの理想論。
彼女たちは連携や戦いに必要なことを、その場で全部、やるつもりである。
対して竜也ははっきりと顔を顰めていた。
まさか、一番ありえないと思っていたソレをするのか?
「ゆきに、天使を突っ込ませるつもりか?」
『3、2、1、今!』
トレエの掛け声と同時にニアヴはまるで威嚇する熊のごとく、予想外に戸惑う竜也へ覆いかぶさろうとした。
見え見えの攻撃ゆえ、竜也の短剣により不運の糸が断ち切られる。
当然のようにニアヴは弾かれた――が一切気にせずに前へと進み続ける。
不運でなくなったのだから不運を通すはずもない概念的な≪壁≫を、ニアヴは力任せに抱きしめる。
竜也はゆきを庇うように前へ出て、そんな隙だらけのニアヴを脳天から腰のあたりまで真っ二つに断ち切るが、彼女は死なない。
ニアヴは二つの歪んだ笑顔で喋る。
「「ああ、太くてウマナミなのね。真っ二つになっちゃいそう! ――馬刺しにしてやる」」
「やめとけよ。馬は食うより賭けた方がいい。おっと、ちょっとおっさんぽかったか?」
(ふざけんな、なんだこの化け物)
竜也は軽口とは裏腹に冷や汗を垂らした。相手の能力や最初の動きは想定内だったが、以後の有り様は予想以上にイカレていた。
こんなのに付き合ってられるか。こんな奴らの作戦に乗ってたまるかと、竜也は後ろにいるはずの白詰へ、逃げるぞ、と告げようとして。
竜也が口を開く前に、ヘルメットの直下、彼の眉間に強烈な一撃が入った。
「な、はっ――!?」
揺れる竜也の視界に映ったのは、落ちていくのは。
「……スマー、トフォン?」
「今度の不意打ちは当たったか?」
ニアヴが胸ポケットに差し込んでいるのとは別の、予備のスマートフォンだった。
ニアヴのズボンのポケットには二台の黄色いスマートフォンが入っていて、いま一台消費したのである。
悪魔は嘯く。
「スマホは投擲武器、みんな知っているぞ」
真っ二つにされた身体を繋ぎ合わせたニアヴは、脳が揺れたダメージによってふらつく竜也の腕を掴んで地面に引き倒した。
「っ――」
倒れた竜也の胸にめがけて、ニアヴの貫手が迫り、防刃仕様のチョッキの中に仕込まれた金属板をひん曲げた。
が、人体を貫くには至らなかった。
「ぐっ!?」
防具が働いたとはいえ、突きの衝撃は竜也へダメージを与える。
彼はたまらず吐血するが、正気を取り戻し、ニアヴを蹴り飛ばしてからゴロゴロと道路を転がり、立ち上がった。
竜也は口元の血をコートの袖で拭いつつ、あたりを見回す。
ゆきがいなくなっていた。いるのは対峙するニアヴのみ。
「まんまと分断されたか。……だが、そんなに相方を信じているのか、お前」
天使の命さえ取られなければ不滅だというのに、まさかトレエの命を奪い得るゆきを追跡させるとは――と。
そんな竜也の言葉にニアヴはスマートフォンのスピーカー機能をOFFにして、胸ポケットにしまってから言った。
「んー、や。ぜんぜん信じてない」
『ゆき、待って』
ゆきは、空を飛ぶトレエに追いかけられていた。
竜也がニアヴと戦っている間に、急降下してきた天使に近づかれたゆきは、その場から逃げ出したのだ。
最後に見たのはニアヴに腕を掴まれる竜也だったが、ゆきは信じた。竜也は負けないと。
そして、まだ試合は続いている以上、その信頼は裏切られなかった。
あとは竜也が来るまで逃げ切ればいい。
ゆきは渋谷駅の高架下、車道をひたすら南に走るが、トレエは低空飛行を軽やかに行い追跡を続ける。
このままでは追いつかれると思ったゆきは攪乱するような動きで右折した。
彼女は、渋谷中央街、と書かれたアーケードがある歩道へ向かう。
『待ってちょうだい。……あら?』
高いビルと高いビルの間に挟まれた場所へトレエが差し掛かった頃、いきなり突風が吹いた。
そのせいか、道を挟む両方のビルの窓ガラスが割れ、鋭い破片がトレエへ降り注ぐ。
天使は空を制する鳥のように軌道を自由に変えて避けた。
続いて、どこぞの遊興施設から飛んできたのだろうか。
カラオケだのゲームだの書かれた巨大な看板が、前方から飛んできたが、トレエはそれを【弔悪】で斬り裂いた。
『モノが斬れる……』
善も悪もないただのモノであれば【弔悪】では斬れず、トレエの身体も通り抜けるはずだ。
つまり不運にも飛来してきたこの看板は、ゆきの影響下にある。
トレエが手元を見てみれば、先ほど降ってきたガラスの破片が掠ったのだろうか。
手の甲に一筋の傷ができていた。出血もしている。
……善人が能力で起こした不運だ。
天使に無力なはずの竜也が”不運”という事象を切って、天使からの攻撃を防御可能なことと、反対のことが起こっている。
この不運こそが善人の能力だから、トレエは不運な物理現象をすべて喰らってしまうのだ。
(やっぱりこの分担は間違っているんじゃ――いえ、提案はニアヴでも決めたのは私ね)
トレエは追いかけているゆきへ言う。
『少し聞きたいのだけれど』
「……」
『曇ってきたわ。あなたの力?』
「……」
空の大部分は白い雲で覆われていた。
ゆきはトレエの問いに答えない。
向こうのやりたいことはわかっている。
ゆきの感情を乱して、【無限葉の白詰草】を防ぐ、ないし軽減するつもりだ。
敵の思惑に乗ってやる必要はない。
ゆきは天使から逃げつつ想像する。
竜也に置いて行かれる未来を。見捨てられる状況を。
ここで負けてしまったら、ああ、本当にそうなってしまう。
それが怖くて恐ろしくてだから勝たなきゃいけなくて――。
天使は優しい声で言った。
『ねぇ、あなたは善い人よ? なのにどうして悪人の竜也と組んだの?』
「……はぁ?」
ゆきは足を止めて振り返って――正気に戻る。
(なにやってるの私は!)
しかしトレエはゆきに白銀の剣を振るわなかった。
むしろ天使は、ゆきとある程度離れた場所に降り立つ。
少女と天使は向かい合った。
(近づいてこない……?)
ゆきは試しにトレエへ一歩近づいてみた
トレエは同じく一歩後ろへ下がった。
ゆきはにっこりと笑った。
「あなたは”話す”としか言ってませんでしたよね。そうでした」
『……』
「前提を間違えてました。逃げるのは私じゃなくて、あなたでしたね」
ゆきはトレエに向かって走り出した。
トレエは羽ばたくとゆきから離れる。
しかし、離れ過ぎはしない。愚直に話せる距離を保つつもりのようだった。
そのトレエに、優勢となったゆきは言った。
「さっきは、なんでしたっけ。誰が、悪人ですって?」
『竜也よ。糸霧竜也――ほかにいないでしょ』
悪びれることなくトレエは言った。
渋谷中央街の歩道でぐるぐると追いかけまわされているのに、恐怖一つ感じさせない表情だった。
元から逃げようと思えばどこまでも逃げられる余裕がそうさせるのだろうか、とゆきは考える。
正直イラッとした。喋っている内容もイラッとする。
悪魔と組んでいる天使に言われたくないが、それ以上に。
「取り消して。竜也さんは悪い人なんかじゃないです」
『でも私が見えていないわ。……ああ、もしかして騙されているの? 竜也は善人に偽装するのが上手いとか』
「あああああああああ」
『……違ったらごめんなさい。侮辱するつもりはないのよ? ただ――知りたくて』
「侮辱するつもりはない? その口で??」
なお、本当にトレエには竜也を侮辱するつもりはない。
彼女は見たままを言っているに過ぎない。
なぜか竜也にはトレエは見えていないし、ゆきには見えている。
それが奇妙に思えるのだ。
自分だって悪魔と組むにはかなりの葛藤があったというのに――。
善と悪は相容れないはずだ。であれば竜也とゆきを繋ぐものは何であろうか。
ゆきはトレエを睨みつける。
不安と悲しみで一杯にしていたはずの精神が、見当違いの天使によって義憤に満ちていく。
自分の痛みなら我慢できる――とは言わない。
痛めつけられるのは苦しい、悲しい、耐えられない。
白詰ゆきは知っている。
その上で、トレエの言葉もまた我慢できない。したくない。
「私は! 彼に助けられたのよ! 助けられ続けているのよ! 私たちのことも知らないで――勝手なことを言わないでください!」
『助ける?』
トレエは心底理解できないという顔をした。
『悪が?』
「あぁははははは!!」
ニアヴは両手を左右に大きく広げた。
「不運が止まったぞ!」
空は雲で隙間なく覆い隠されているが、薄灰色の小康状態で安定していた。
渋谷に張り巡らされた不運の糸は格段に減少した。
ゆきの【無限葉の白詰草】が軽減された証だった。
不利な要素ばかりだが、竜也は冷静だ。
正確には冷静さを取り戻した。
このハードなシチュエーション自体が、仕事人としての彼をベストな状態にしたのだ。
笑うニアヴを後目に、竜也は短剣で、ひしゃげたチョッキの肩の部分を切り離す。ゴミのような有様になった防刃チョッキは地面へ落ちた。
もう役に立たない。歪んで動きづらいし、防具としての機能は死んだも同然だ。
なら捨てる。
タンクトップの上から、前を開いたコートを着た状態になった竜也は左手に短剣を、右手に長剣を構えて焦らずニアヴを待ち受ける。
そんな竜也へニアヴは言う。
「さっきはああ言ったが、あれでも私のパートナーだし、天使だし、名前にハートってついてるしうまくやるに決まって……。
いやダメだな。いつシクるかわからん。ここでお前を殺した方が良い気がしてきた」
悪魔は、対峙する竜也に向かって歩き出した。
続いておもむろにニアヴは加速し――彼女と竜也は今度こそ、真正面から戦闘を開始した。
ニアヴはヒット&アウェイで彼を翻弄する。
蹴り主体で攻撃し、不運の糸を切られたと判断すれば深追いはせず距離を取り、竜也の死角死角へと移動する。
それでいていきなり自分の身を剣に断ち切らせて、その状態のまま蹴りを放ってくるのだから始末が悪い。
竜也はニアヴと戦いつつも、逃げる隙をうかがう。
ニアヴとの戦いは完全に罰ゲームだ。
彼女はただの障害に過ぎない。
いくら殺しても意味がなく、殺されるから価値がない。
この悪魔をどう避けて、どうトレエを捕まえるか、ゆきを守るか。
要点はそれだけ。
目の前の女は、ただの邪魔者だ。
「私は楽しいぞ?」
ニアヴは竜也の考えを読んだのか、そんなことを言った。
その目はギラギラと金色に輝いている。
「とてもとても楽しい。殺し合うのは楽しい。戦うのは楽しい。闘争は喜びだ」
悪魔は首を大きく傾けた。道化のように。あるいは化け物のように。
「お前もそう思うだろう? 思わない? そう。――なら思い知らせてやろうか!!」
至近距離でのサマーソルトキックを短剣の柄で逸らしつつ、竜也は眉を顰めた。
攻勢は苛烈になるばかり。
やすやすと逃がしてくれる気はなさそうだ。
(仕方ない、別の方法を取ろう)
もともと自分はどちらかというと喋る方だし――と竜也は口を開いた。
「もしかしたら逆かもしれないぞ」
「あーは?」
「ゆきが、トレエを追い詰めているから不運をまき散らさなくなったってのはどうだ」
「……」
ギリギリの命のやり取りを続けつつ竜也は揺さぶりをかける。
ニアヴはあいまいな様子で唸った。
効果があると見た竜也はさらに続けて言った。
「お前はまったく天使を信じてないんだろ? 俺はゆきを信じてるぞ、どうするんだ」
ニアヴは邪悪に喉で笑った。
「信じてるぅ? どうするぅ? ……ふん、糸霧竜也。お前、相方の参戦理由を知ってるか?」
竜也は少し迷ったが、隙を作りだすため会話を続けた。
「恩返し……とか言ってたかな」
ニアヴは即答した。
「違うね。お前はああいう少女の熱情をわかっていない」
「むしろお前にゆきの何がわかっているんだ」
言い返した竜也に新米悪魔は含み笑いをする。
「あーは。これでは負けるわけにはいかないな? ……そうそう、トレエがなんだとか言ってたが、
私はハートの参戦理由を知っているぞ。クソみたいな理由さ。だが私は知っている――」
ニアヴはだらりと、両腕を下げた。
天使を信じていないのに、なぜトレエにゆきを任せたのか。
竜也への回答ともなる言葉を、ニアヴは皮肉げに言った。
「―――いまこのときだけは、信頼できなくても相棒だからだ」
同じ頃、トレエは真摯にゆきへ言った。
『あなたが恩義で彼と参加したというのは理解したわ。なら、白詰ゆき。あなた、竜也の動機を知っているかしら?』
「動機……?」
悪が人助けをしたという話に戸惑っていたトレエが、次に発した問いへゆきは答えた。
「恩を返したい、と言った私に付き合ってくれているからです、よ!!」
ゆきはトレエを捕まえようとするが、するりと天使はゆきの手から逃れた。今のは惜しかった。
羽ばたくトレエはゆきの言葉を否定する。
『違うわ。あの人は悪い人だから、きっとあなたが泣くような理由よ。それがどれだけ優しいものでもね』
そして"そこ"が、所業も魂も善寄りの中立である竜也を、判定:悪に傾けている原因である。
だがトレエはその状況を正確に把握していない。そうなのだろう、と感じているだけだ。
天使の極めて感覚的な言い草に、ゆきは声を荒げる。
「まだ言うの――!!」
『言うわ。私は天使だもの。善に報い、使命を果たさないと。ああ、私が悪魔と組んでいる理由も言わないと不公平?
……私はニアヴの動機を知っているの。彼女は欲望でしか動いていない。でもそこに冒涜や企みはなくて。だから――』
トレエは祈るように剣を持った両手を胸の前に合わせた。
『―――いまこのときだけは、わかりあえなくても友達なの』
糸霧竜也と白詰ゆきは運命的な出会いと、五年もの時をかけて信頼を育んでいる。
二人の本当の参戦理由だって、互いを思いやったあたたかい代物だ。
でも、二人は思い合ってはいても、通じ合ってはいない。
それはニアヴ・E・ブレインとトレエ・A・ハートのタッグには、致命的な隙だった。
あえて言葉にしない綺麗だが不完全な<運命の機織り達>に対するは、不格好だが完全な<現世の余り物>。
あえて言葉にしたからこそ、天使と悪魔は手を組めたのだ。
「っ?」
竜也は不思議に思いつつ、無防備になったニアヴの首を断ち切った。
続いて、落ちていく悪魔の頭を長剣で切り刻む。
頭を念入りに潰した。
回復するまで数秒しかないが、数秒もあれば十分だ。
竜也はハチ公像前から離脱した。
……走る竜也の背後から肉が吹き飛んだような音がした。
彼は振り向く。
彼の視線の先では、首のないニアヴが己の胸を貫いていた。
身体を貫通している手の上には鼓動する臓器があり――彼女は、己の心臓を握りつぶした。
ニアヴの構成物が、髪も肌も服もスマートフォンですら、血液に変わる。
飛沫を上げて道路に落ちて広がる血だまり。竜也は顔をひきつらせた。
「……しまった。それがあった」
戦いはトレエとゆきが走り回っていた渋谷中央街に収束する。
トレエを追いかけていたゆきの肩に手が乗せられた。
ゆきが驚いて振り向く前に。
「boo」
渋谷中央街の路地裏の影から現れた、悪魔の蹴りがゆきの腹へ叩き込まれた。
「かはっ」と声を出してゆきは吹き飛び、道路へと転がった。
『ニアヴ!』とトレエはスマートフォンを取り出して、携帯越しに悪魔へ声を掛けるが、ニアヴは反応しなかった。
ニアヴはスマホのスピーカー機能を切ったままだった。
ニアヴ・E・ブレインの能力【死に損ないの契約者】はただ不滅であるだけの能力ではない。
悪魔は契約者を逃さないために、契約した相手の傍にリスポーンできるのだ。
自殺で発動するこの能力が、ニアヴがトレエとゆきの傍に現れたカラクリである。
だが、そのままゆきを簡単に殺せるかというと、そうでもない。
ゆきもまた強力な魔人である。ニアヴの蹴り一撃では殺せなかったし、条件は揃った。
ニアヴはゆきへ害を与えた。もはや精神のストレスなど関係ない。
ゆきの頭、帽子の下に隠されたクローバーから、不可視にして不運の糸束が一斉にニアヴへ纏わりつく。
ニアヴが一歩踏み出したと同時、突風に飛ばされてきた電飾看板がニアヴの身体に衝突する。
骨と肉がひしゃげるが、ニアヴは笑ったまま、ゆきへ一歩進む。
まだ無事だったビルの窓ガラスがいっせいに割れ、ニアヴに降り注ぐが、彼女はさらに一歩進む。
重力加速度でガラスの破片はニアヴの肉体を切り裂く。
しかし血を噴き出しながらも、ニアヴは一歩進む。
腹部への一撃でゆきは呼吸困難に陥りながら、這うようにニアヴから離れる。
だが、ニアヴの歩みの方が早い。これではすぐに追いつかれてしまう。
(怖い、痛い、嫌だ、負けたくない――足手まといになりたくない)
強烈なストレスが、【無限葉の白詰草】を成長させる。
範囲を倍に、威力を倍に。
空は曇天となり、落雷をニアヴへ落とす。
ドンッ! と渋谷中央街のただ一点に稲妻が落ち、トレエはたまらず飛行し、ニアヴとゆきから距離を取った
落雷を受けてもニアヴは笑う。
「あーーはーーー」
口から内臓が焼けた白い煙を一息で吐き出し、進む。
(もう……ダメ……?)
「ゆきぃ!!」
「竜也さ、……」
竜也の声にゆきは顔を上げる。急速に曇り、雷さえ落ちたのだ。どこにゆきがいるかは竜也にもすぐわかった。
全速力で彼はゆきの姿が見えるところまで来たがしかし――距離が遠い。竜也がいるのは車道であり、ゆきとニアヴがいるのは奥まった歩道だった。
この位置関係では、竜也は間に合わない。
(二人で幸せに……どんな手を使っても……私がやらないと……)
そしてゆきは思い出す。天使トレエの発言を。
――――違うわ。あの人は悪い人だから、きっとあなたが泣くような理由よ。それがどれだけ優しいものでもね――――
「竜也、さん!!」
ゆきは這いながら叫ぶ。息が苦しくてたまらない。
「私、本当はあなたに恩を返したいなんて、綺麗な理由で参加したんじゃないんです。
本当は見捨てられたくなくて、置いていかれたくなくて! こ、この大会ならきっと……! 力になれるって!」
ニアヴはここで初めて眉を顰めた。妙だ。この展開は妙だ。
だがニアヴの疑問など気づかず、竜也はゆきに走りながら叫び返す。
「見捨てたりなんてしない! 置いていくなんてそんな――いや。そういうことか!」
突然のゆきの告解を聞いて、糸霧は理解した。
―――――違うね。お前はああいう少女の熱情をわかっていない――――――
白詰ゆきの起死回生の一手を。そして覚悟を。
だから竜也も、イグニッション・ユニオンへ参加した本当の動機を告白した。
「そうだ。違う。嘘を言った。本当は、万が一俺が死んだときにゆきへ賞金を、遺産を残すためだ。
黙っていてすまない!」
竜也の告白は、ゆきの想像以上に優しく、哀しいものだった。
遺産?死ぬ?
竜也さんが、シヌ?
それは見捨てられるよりも恐ろしい未来だった。
この、追い詰められている状況すら吹っ飛ぶほどの悪夢だった。
置いて行かれる、この世界にたった一人で。
そうだ。彼は危険な仕事をしているのだ。
出会いが鮮明で、あまりに爽快で、幸せで、だから想像できていなかった。
彼はいつ死んでもおかしくないのだ。
ここで負けたらどうなるのだろう。
ゆきのためと言って、この大会とは比較にもならない、危険な仕事をするのだろうか。
それはなんて、恐ろしい。
だから白詰ゆきは恐怖する。白詰草は絶望する。
帽子の中のクローバーは七つ生えそろい、いのちが輝くように大きくなった。
続いて曇天の空は、この世のモノとは思えぬ漆黒の渦巻きへと変化した。
バケツをひっくり返したような豪雨、そして―――。
「そんなことあるか?」
―――呆然と呟いたニアヴへ、空は七回連続で雷を落とした。
☘
クローバーの葉が増える理由を知っているだろうか。
傷だ。
葉の基となる部分が傷つくことで葉が分かれ、葉が増える。
だから、私は私を傷つける。クローバーは葉が増えるごとに良い意味と価値を持つようになるから。
三つ葉より四つ葉、四つ葉より五つ葉。五つ葉よりも、さらによりも……七つ葉。
彼と二人で幸せになるために。
私は私を絶望させよう。
🍀
まるで渋谷全体が洗濯機の中に放り込まれたような有様だった。
ニアヴがスクランブル交差点でやっていた破壊行為など比較にならない。
ゆき以外に三人も生き物がいるだろう? なら不運の中に叩き込まないと。
そう言わんばかりの暴風雨にして大災害だった。
道路は捲れ、強風によって瓦礫や破片が舞う。
未来的で、雑然としながらも人が暮らす街だった渋谷は、その雑然ささえも吹き飛ばされていた。
そんな大荒れ模様の空に、トレエはいた。
ニアヴに落ちた雷から距離を取っているうちに、風で飛ばされてしまった。
いきなりの天候の変化に彼女は戸惑う。台風のごとき雷雨に視界がきかない。
『これは……』
トレエは自分の両手を見た。濡れている。
トレエ・A・ハートは雨粒をすべて受けている。
『……っ!!』
ぞわっ、とトレエは鳥肌が立った。
突風にあおられる、どうにかバランスをとる。
飛来物が迫ってくる。どうにか剣で切り伏せる。
ガラスの破片が飛んでくる。どうにか羽根と腕で急所は庇う。
そして雷が飛んでくる。
もはや一寸先も見えない中で、トレエはスマートフォンで電話を掛ける。
『出て、出て……』
そして……電話が通じる。
『ニアヴ!』
「ハートォオオオ!! 相手が善人だからってヒント与えてるんじゃない!」
開口一番怒鳴られて、トレエは驚いた。
『ええええ? 私が何かした??』
「何かしたじゃ、ああもう いや私もしたな! 言っちゃった!
いやまてどうするマジで嘘だろこんなことある? 噛み合わないにもほどがあって噛み合って何事?」
ニアヴは、己とトレエの不協和音が最悪の形で噴出した結果こうなったと考えていた。
しかし存外、ニアヴとトレエのミスというわけでもない。
きっかけは天使と悪魔かもしれないが、この逆転はゆきと竜也が自らの意志で作り出したものだ。
人間は不完全であるゆえに、想いはすれ違い、ゆえに育まれ――こうして爆発力を発揮する。
モンスターはたいてい、こんな筋書きで人間に敗北するのかもしれない。
だがここにいるのは名無しのモンスターではなく、ニアヴ・E・ブレインとトレエ・A・ハートだ。
狡猾な悪魔と、使命に燃える天使は諦めずに言葉を尽くす。
『いい、聞いてニアヴ。報告。この雨一粒一粒が私を濡らしている』
「なんだと? 濡れるのが不運? 私が電気分解されて吹き飛んでる横でずいぶんと優しげな――」
『これは涙よ。ゆきの涙』
「涙……能力と連動……可視化された不運か! はっ、さしずめ≪クローバーの涙≫といったところか?」
『涙は不運の象徴だから、濡れすぎると手遅れになる。涙に溶けてしまうわ。……くっ』
ピシャーンと雷の音がする。
「おい?」
『ごめんなさい。真横から雷が来たから。
ビルの避雷針にぶつけて避けてるけどそう何度もやりすごせなさそう。
雲の上に避難するわ』
そろそろ不運も、理不尽さを当然の権利のように行使し始めたらしい。
びくともしていなかったビル群へ次々と罅が入り、倒壊し始めてきた。
建物を利用するのも限界だ、というトレエをニアヴは制止した。
「いや待て、それはだめだ。どうせ雲から上に向かって雷が昇るだけだ。建物がなくなるから詰むぞ。
上も下もダメ……とりあえず合流するぞ」
竜也は豪雨の中、両手の短剣で怒涛のように襲ってくる不運の糸を切りながら進んでいた。
長剣は捨てた。長物だと取り回しがきかないし、腰に備え付け直す余裕もない。
かつて七枚すべて生えた【無限葉の白詰草】の中を進んだことがあったが……
規模も不運の数もそして威力も、完全に前回を上回っていた。
竜也が日々対処し、ゆきも制御できるようになっていたから気づいていなかったが。
【無限葉の白詰草】は、”成長”していた。
苗木から大木へ至る、植物のように。
不運の糸を切る、切る、切る、切る。
「全力で切らないと処理しきれないな」
……ゆきの覚悟に竜也も応えた。起こったのはそれだけだ。
これは合理的な作戦でもある。
トレエを捕まえられるか捕まえられないか。この試合は結局、そこに帰結する。
であれば、自由自在に空を飛び回る天使を斃す最善は、渋谷全域を覆う不運の糸雨だ。
竜也には不運が見える。竜也は不運を断ち切れる。向こうにはできない。
だから不運の糸を切り続けて、待てば勝てるはず―――。
竜也は降り注ぐ雨の中で座り込むゆきの元までたどり着いた。
目に光がない。心を完全に”絶望”でいっぱいにしているようだった。
直前までゆきに迫っていたニアヴの姿もない。
全身が黒焦げになった彼女は暴風によって吹き飛ばされた。
そう、ここで、絶望し続けているゆきの傍で不運を切り続ければ勝てる。
デメリットと言えば。
「俺が情けなくて甲斐性なしな程度か。今更だな」
土砂降りのような雨が、ゆきと竜也を濡らしている。
……竜也だってわかっていた。
これは涙だ。
痛みの涙。不幸の涙。絶望の涙。
白詰ゆきは泣いている。
ならば止めるか?
いいや、止めない。止めてなるものか。
彼女は自分のために泣いている。竜也のために泣いている。
二人の幸福のために泣いている。
――だから止めない。止めさせない。
糸霧竜也はゆきの前に立ち、彼女に背を向けると黙々と不運の糸を切り続けた。
トレエが降り立ち、ニアヴがリスポーンして合流した場所はスクランブル交差点だった。
道路の範囲が広く、ニアヴがすでに破壊の限りを尽くしていたので、何かが理不尽に壊れて襲い掛かってくることも比較的少ない場所だ。
そこでトレエとニアヴはスマートフォンを持ち、通話しながら背中合わせに立つ。
上下左右どこから不運がやってくるかわかったものではないからだ。
暴力的な不運を避けて、耐えて、必死に話し合い――光明となる”ソレ”を言ったのはトレエだった。
『――原案。思い出して、あなたが言ったことよ。これは三対一じゃなくて二対二』
スマートフォンの向こう側から聞こえてきたトレエの声に、ニアヴは記憶を掘り返す。
呆れかえるほどに二人で重ねた言葉のうちの一つを思い出し、ニアヴは目を大きく開いた。
「三対一じゃ身体が持たない。なるほど」
『この嵐の中じゃ、彼らはきっと動いていない。最初があなたで、決め手が私』
「決定案。女三人寄れば姦しく、エンゲージは一回で充分!」
『承知したわ。……不運を乗り越える方法をヴァルハラにいる英雄に聞いておけばよかった』
「何を言っている? 方法も何も、今やってるだろ」
雨の中にいるゆき、その傍に立ち、切る竜也。
淡々と不運を処理し続ける終わりのない作業。
そこに変化が訪れる。
ピンッ、と糸霧の頭上に今までとは違う不運の糸が張り詰めた。
彼は即座に、糸の先を見上げる。
空から雨と一緒に、悪魔が降ってきていた。
「フォオオオリングダウゥウウウウンンン!! エンゲェェェェジィ―――」
竜也は冷静に、ニアヴから伸びる不運の糸を切った。
上空で透明な天井に弾かれたニアヴは、五体を衝撃でバラバラにしながら道路に飛び散った。
「竜也さん!」
直後、絶望しきって脱力していたはずのゆきが叫ぶ。竜也は動こうとしたがすでに遅かった。
ズン、と背後から鋭いナニカが突き入れられた。竜也の胸の中心に穴が開いている。
だが、竜也には穴しか見えない。ゆえにそれは天使の剣、【弔悪】だった。
『――――協力必殺技、聖魔涙突槍』
ずるずると復元し始めているニアヴの身体の一部、ワイシャツの胸ポケットからトレエの声が竜也に届く。
これこそ、密接なコミュニケーションを武器とする<現世の余り物>最後の秘策だった。
天使と悪魔はひたすらコミュニケーションを取り――付け焼刃の協力必殺技を行使する。
付け焼刃ゆえにしたことは単純だ。
トレエは必死の思いで竜也とゆきの頭上にたどり着いた後、ニアヴに通話する。
続いてニアヴはトレエの傍にリスポーンし、そのまま落下。
トレエは落ちていく長身のニアヴの背中に隠れ――直前に離脱。
ニアヴの不運の糸が切られたと同時に、羽ばたき、竜也の背後に回り込んで背中から【弔悪】を槍のように突く。
十全の環境なら竜也はなんなく対処できただろうが――怒涛のように襲い来る不運の糸雨が、彼の処理能力を大きく奪っていた。
そう、糸霧竜也は白詰ゆきの不運を受け止められるが……それ以上は、無理があったのだ。
『あなたたちは凄かったわ。でも今回は言葉一つ分、私たちの勝ち』
服も髪も濡れて薄汚れ、傷だらけの天使は【弔悪】を竜也から引き抜いた。
バタリと竜也は倒れる。
その倒れた竜也にゆきは近寄る。
「竜也……さん」
「ああ、ゆき……悪いな」
ゆきは首を左右に振って否定した。
「悪くなんかない、です」
「そう、でもない……」
竜也は苦笑する。
自分が本心を告げたら、ゆきは世界をこんなにも涙で濡らした。
糸霧竜也は、一番大事にしているお人好しの女の子に傷つけることでしか報いられない。
他ならぬ竜也自身が、己を悪い男だと思っていたのだ。誰よりも。
当然、天秤は悪に振り切れる。自分の手でそちらに引っ張っていたのだから。
だが……もうやめだ。
ゆきには別の報い方を考えよう――と竜也はちらりとトレエがいるあたりへ視線をやってから、自分を見つめるゆきへ微笑んだ。
「今度は不運を切る前にお前の涙を切るよ。
それは、必要だ……」
竜也は力のない動きで、ゆきの帽子の中に軽く手を差し込んで撫でるように動かした。
プチリと、七つ葉のクローバーの根本が千切れた音がしたあと、竜也は目を閉じ、完全に脱力した。
<運命の機織り達>、糸霧竜也は戦闘不能になった。
決着はついた。
雨は嘘のように止んだ。
ゆきは顔を上げて立ち上がる。
雲の切れ目から光が複数差し込んできた。
不運の豪雨によって渋谷は半壊していたが、所々から光の筋が差し込む廃墟の街は、どこか神話のようでいて、鮮やかだった。
クローバーの涙は止まったのだ。
ようやっと五体満足に回復したニアヴとボロボロのトレエに、ゆきは言った。
「今度は!! こうはいきません!」
少女の強い決意を感じさせる目に、ニアヴは笑って言った。
「おう」
「今度は、善いとか、悪いとか! 関係なく、私はっ……私の! 好きな人を守って見せます!!幸福にしてみせます!」
もう竜也の仕事にだってついていってしまおう、それがいい。
天使に言われて、こうなって、本当の気持ちを伝えあって、ゆきは気づいた。
善人とか悪人以前に……あの人はしょうがない人だ。
そんなしょうがない人が、白詰ゆきが大好きな人だった。
ゆきの宣言に、ニアヴは片眉をぴくりと反応させ、トレエは手を叩いた。
『そういうことだったのね、愛! やっと竜也とゆきの関係が腑に落ちたわ!』
戦闘終了に伴い、敗北したゆきの姿が消え始めたころにニアヴは頬を指で掻いた。
「あー……白詰、忘れてるかもしれないが。これ、全国中継されてるぞ?」
「……?……!!!!!!」
指摘されてゆきは初めて自分がしでかしたポカに気づいた。
白詰ゆきは全世界に向けて公開告白をぶちかましていた。
いや、竜也に置いて行かれるのが怖いと本心を告げた時点でもはや告白同然だったが。
今度は完全に、言い訳できないほどに、恋愛的な意味での告白だった。
夏休み明け、希望崎学園でどんな目に合うか、いやそもそも明日から竜也にどんな顔をして会えばいいのか―――。
「―――――!!!」
白詰ゆきは声にならない悲鳴を上げながら鏡の中の世界から現実世界へと戻っていった。
『ねぇ、ニアヴ。なんで最後にゆきはあんな悲鳴を上げたの?』
「さぁね。人間風に言うなら、言葉にするだけ野暮ってものじゃないか?」