1 ハゲワシばかりが高く翔ぶ
 パントマイムとは、追想に似ている。
 そこにもうないものを、あたかもここにあるかのように、触れて、味わう行為だ。
 さしたる意味はない。苦い記憶であるならばなおさらだ。
 だが、それでも、頭に浮かんでしまうものはある。
 俺にとってそれは、23年前の、あの日曜日の出会いということになるのだろう。
 1998年。
 大人たちは、あぶくのように弾けた景気を取り戻そうと右往左往し、若者たちは世紀末の予言を、期待と不安とともに話題に上らせていた、そんな時代だったらしい。
 だが、その頃の俺はまだ幼く、家の中の小さな世界だけが全てで、つまりは、その小さな世界の柱である父親が腐ってしまったことで、どうしようもないくそったれな年だったという記憶しかない。
 3日ほどにわたる夏の揺り戻しのような暑さが過ぎ、秋の陽気が戻ってきた日曜日。
 休日は憂鬱だった。
 家に一日中親父がいる。
 物心ついたばかりの頃は、父親が家にいるのは嬉しかった。
 俺にもそんな頃もあった。
 それが変わったのは、伯父が逮捕されてからだ。
 罪状は公共の場における魔人能力乱用の罪。
 そもそも魔人は雇用の上で不利である。
 それに加え、バブル崩壊直後の世情で、魔人であった伯父が職に付くことは難しかった。
 窮境の中で能力を幾度となく暴発させ、伯父は犯罪者となった。
 それから、父親は荒れた。
 酒と賭博に浸り、家族に暴言を吐いた。
 暴力を振るわなかったのは、ただ、借りている安アパートでは、物音が隣に筒抜けだからだったのだろう。世間体と貧乏に、辛うじて俺の身体的な安全は支えられていた。
 昔から夢のない子どもだった。
 その原因はと聞かれれば、この頃の生育環境の影響かもしれない。
「その後ろテイエムオオアラシがじわ、じわ、やや掛かり気味か。その後ろからグラスワンダー、早くも盛り返している。的場均との信頼の絆。そして――」
 親父がパック酒片手に見ている競馬の実況を背に、家を出る。
 誰も、何も言わない。俺も、何も言わない。
「二番手はランニングゲイルだ。そしてビックサンデーだ。エルコンドルパサー、しかしその外からはグラスワンダーが早めに出てきた大ケヤキの向こう側――」
 まとわりつくようなアルコールの臭いを振り払うように、扉を乱暴に閉じた。
 最低だ。まだ小学校に入ってすらいない子どもの自分にすら、この世の中のろくでもなさは理解できた。伯父は悪人ではなかった。
 父も、かつては、誠実に「普通の生き方」をしていたはずだった。
 それが、泡のように弾け飛んだ。
 死肉漁りのハゲワシのようなやつらばかりが空を飛び、正直者は地を這いつくばる。
 これが、現実なのだと、幼心に俺は理解した。
 もう少し、俺が年を重ねていれば、親を見限って、自分で何かを手にすることも考えられたのだろう。だが、まだその頃の俺は、与えられたものを握ることしかできない甘ったれだった。
 親が、子に与える機能を失って、自分から何も掴みとることのできない俺の手は、ただ空っぽになった。
 何もない。何を掴めばいいのかもわからない。
 太陽は眩しく、夏日の日差しは容赦なく、じりじりと首筋を焼いた。
 とりあえず、日陰に行こう。
 それだけの理由で飛び込んだ、公園に、そいつはいた。
 そいつは一人だった。
 それ自体は別におかしくはない。家でゲームができない子が、外で遊ぶと親に伝えて携帯ゲーム機で遊ぶなんて、珍しいことではなかった。
 けれど、そいつは何も持っていなかった。
 何も持たないまま、一人で、何やら動いている。
 少し膝を曲げて立ち、両手を上に。
 腕を下ろしながら、左手を前、右手を後ろへ。
 両手はなにかを支えるようにぷるぷると震えている。
 内側に縮もうとするなにかを押し広げるように。
 ふっ、と。
 両方の手の緊張が弾けた。
 視線は真っすぐ遠く先へ。
 そしてそいつはすぐさま横に走り出すと、また別の場所で同じ動きを繰り返した。
 なんとなく、俺は、そいつが何をしているのかがわかった。
 弓だ。
 想像の矢を、想像の弓につがえて、想像の敵に撃っている。
 見えない敵と、見えない弓矢で戦っているのだ。
 ごっこ遊びなら、特別なことじゃない。
 誰だってやる。俺もやったことがある。
 けれど、一人で、なりきるための玩具の一つ、枝の一本すらなく、その世界にのめりこんでいるそいつが、当時の俺にはなぜか新鮮だった。
 何もない手で。何も与えられない中で。
 それでも、そこに「ある」のだと言い張る。
 そんな姿が、羨ましく見えたのかもしれない。
 だから、夢なんてない、可愛げもない子どもだった俺は、何を思ったのか、そいつに話しかけてしまった。
「ゆみや、かっこいいな」
 そいつは、弾かれたように体を硬直させると、しばらくこちらをじっくりと見つめた。
 たっぷり十ほども数えられるくらいの時間の後。
 そいつは、見えたのか、と聞いてきた。
「おれも、もってるからな。みえないぶき」
 適当な答えだった。
 なのに、瞬間、そいつの表情が、輝いた。
 ああ、こいつは、いいやつなんだろう。そう思った。
 そして、その日、俺とそいつ――屋釘 寛と、大道寺 忍は、みえない剣と、みえない弓で、見えない敵軍を薙ぎ倒すヒーローになった。
 ハゲワシばかりが高く飛ぶくそったれな空を、その瞬間だけは真っ二つにできた。
 夕方、帰り道、武器に名前をつけようという話になった。
 山の向こうの敵まで撃ち抜く矢。
 伝せつのま弓、ウィングアロー。
 一振りで周囲の見えない敵を全て切り裂く剣。
 伝せつのせい剣、グラスワンダー。
 適当に、テレビから聞こえて耳に残ったかっこよさそうなものを付けた。
 忍は本当に満足そうに頷いていた。
 そこにないものを、二人だけが信じて、確かにあるものだと決めた。
 空っぽの手が握りしめた、ガラスのように透明な奇跡。
 まったく、皮肉な名前をつけたものだ。
chapter1:”el condor pasa” end
2 特別な一週間
 夢を、見ていたようだ。
 この一週間は、夢見が悪かった。
 原因はイグニッション・ユニオン1回戦、対戦相手である『幻想企画』の片割れ、クロスケの魔人能力『ラーニングメソッド』だ。
 手ほどきをした相手に、過去の教え子の「伸びしろ」を分与する異能だという。
 あの戦いの中で、俺はほんの少しだけ、クロスケの技を盗んだ――教わった。
 それを媒介に、クロスケが蓄積した、過去の教え子たちの「伸びしろ」が、ほんの短い間に、俺の中に注ぎ込まれたのである。
 旧式のパソコンに最新のOSを無理やりインストールした状態に近い。
 あくまで受け継いだのは「伸びしろ」だが、それによって、些細な経験ですら、技量向上のきっかけとなった。そしてそのたびに、心身の「成長痛」がこの身を苛んだ。
 当然、本音を言えば仕事どころではなかった。
 1号業務(施設警備)や3号業務(運搬警備)に回れればよかったのだが、そんな配慮は我が黒服警備保障にはなかったらしい。次の対戦日程に有休を合わせる条件として、俺はさんざんにこきつかわれた。やはり、黒服警備保障はただの零細企業ではなく、ブラック企業でもあるのだろう。
 なんでも、あの戦いぶりを見て俺を名指しにした依頼が増えたらしい。
 まったく、迷惑な話である。
 まあ、そういった依頼主の中には、ろくな危険もなく、単に俺の話を面白半分で聞きたがるだけの者もいて楽ができたため、結果的には良し悪しではあった。
 まあ、ともあれ、そんな『ラーニングメソッド』の負荷は寝ている時にこそ、強く現れた。それが、夢見の悪さだった。
 体を起こして頭を振る。
 すると、台所の方から、とん、とん、とん、とリズミカルな音が聞こえてきた。
 忍だろうか。一回戦の後から、忍は俺の安アパートに泊まっていた。
 意図はよくわからないが、どうせ仕事で空けがちな家だ。問題はない。
 ただ、家に帰れば、人がいる。出迎えてくれる相手がいる。
 それもまた、この一週間が少しだけ特別だった理由の一つだった。
 居候、二杯目からはそっと出し、という。もしや、殊勝にも朝食の用意の一つでもしようということだろうか。
 気を使うことはない、と言おうと寝室から居間に顔を出し、
 そこにいたのは、部屋の隅の木人椿と格闘する忍の姿だった。
 ブルースリーの映画か何かで見たことがあるのだが、あれは本当に効率的な訓練なのだろうか。真っ当な格闘技の稽古を受けたことがない俺には、ぴんとこないものだった。まあ、忍はパントマイムの専門家。形から入ることこそ、こいつらしいのかもしれない。
「まあ、そうだよな」
 忍があの恰好のまま台所で包丁を振るっている様子は想像がつかない。
 というか、そんな姿は正直ホラーのような気もする。
「中国拳法の道場だな」
 そう俺が口にした瞬間、手狭なアパートの内装が一転する。
 壁紙のはげかけた壁面は、練習用の木剣が立てかけられたものへ。
 古い畳は、磨き上げられた木床へ。
 忍の魔人能力『Q』。
 忍がパントマイムで表現した物を他人が言い当てた場合、それが実体化する能力だ。
 忍はそのトリガーとなる動作を行うが、そこから「何を見出すか」は、言い当てる側――俺に、最終的な裁量が委ねられている。
 もしここで俺が、(揶揄するような意味を込めて)「夏休みの盆踊りだな」とでも言えば(口が裂けても忍の努力を馬鹿にするようなそんなセリフは言わないが)、たちまち部屋の中には祭りの櫓が立ち、太鼓やちょうちんなどが実体化したことだろう。
 忍はこちらに気がつくと、
「ぁ」
 と、呼吸にも似た声をあげた。
 それを引きがねに『Q』は解除され、中国拳法道場は、見慣れた安アパートへと戻る。
『おはよう、寛君!』
 とばかりに一礼した。朝から元気なやつだ。
 昔から、忍は朝に強かった。
 学校で飼っていた生き物の世話や、夏休みのラジオ体操。
 いつも真っ先に早く起きて一生懸命だった。
 そして、ある時から、早朝、登校前にパントマイムの練習を始めるようになり――
 そのあたりから、俺と、忍は、疎遠になり始めたのだと思う。
 忍が夢を見つけた頃。
 俺の伯父の話が遅ればせながらクラスに広まって、あることないこと、くだらない言葉が級友の間を飛び交い始めた頃だ。
 俺の事情でのいじめに巻き込むのは面倒なので、学校では忍と話すことがなくなり、そしてあの「見えない武器」での戦いの日々も、いつの間にか終わってしまった。
 忍は「見えないもの」を、俺だけではなく、世界中と共有しようとする、パントマイムという夢を見つけたのだ。
 屋釘 寛は、夢のない子どもだった。
 大道寺 忍は、夢を見つけた子どもだった。
 これはきっと、それだけの話だ。
 パントマイムとは、隔意に似ている。
 形はなく、見えなくても、「そこにある」と思った時点で生まれるもの。
 透明な壁に阻まれる男の演目は、パントマイムでもよくあるモチーフである。
「おはよう」
 口元をつり上げ、頬を緊張させる。
 笑っている相手に対して、人の怒りは持続しない。悪感情は抱きにくい。
 あの頃から染みついた処世術だった。
 忍は少し困ったように首を傾げると、ちゃぶ台を指し示した。
 そこには、ラップのかけてある白飯と味噌汁、そして、納豆のパックと冷ややっこ。
 どうやら、用意はしてくれていたらしい。
 ともあれ、今日はいよいよ、イグニッション・ユニオン2回戦本番だ。
 あれから、勤務時間の合間を縫って、相手の対戦映像の分析、そして何より、パントマイムについての打ち合わせを行った。
 忍が演じたものを、いかに素早く読み取って口にするか。それが、俺たち『マイリーマンズ』の戦略の核であるからだ。
 複雑な動作は、その場でとっさに見せられても、俺が何であるかを理解できないかもしれない。だから、事前に打ち合わせを繰り返し、能力の発動をスムーズにしようとした。
 基本戦術は、1回戦と同じ。
 俺が前に立ち、忍が状況に合わせて『Q』で様々なものを作り出して相手をかく乱。
 敵側の二人のうちどちらかを、俺が隙を見て叩く。
「朝飯、助かった」
 俺の呼びかけに小さく頷くと、忍はまた、木人椿相手の練習を始めた。
 『ラーニングメソッド』の影響もあり、俺と忍の白兵戦の実力差はさらに広がった。
 1回戦は、忍が阿僧祇なゆの能力でサイボーグ化したこともあって『やる気満々、パワー全開』によって、最低限戦えるラインまで持ってこられた。しかし、生身の状態でそれをやったところで、戦力にはならないだろう。
 攻撃は、俺に任せてくれればいい。どちらかというと防御技術を磨いてほしい。
 そう思ったのだが、忍は頑なに、木人椿を相手にした攻撃の練習を繰り返した。
 結局、俺は忍に、守りの練習をするように言うことができなかった。
 結果的には、それで戦術の幅は広がったのだが。
 それでも、忍が前に出るのは危険だ。この策はできるだけ使わないに越したことはない。
「勝つぞ」
 忍は、振り返らぬまま、ぐっ、と力こぶを作るポーズを見せた。
 全然、筋肉は盛り上がったりはしていなかった。
chapter2:”special week” end
3 青雲、天高く
「望洋興嘆。ねえ、爺や。また妾ら、もりすぎコンビと正面衝突してる風味じゃね?」
「伊達に「最強の二人」を決める大会ではないということでしょうな」
「あのピエロっちの能力、なんでもありじゃんよう。爆弾作ったり、床べたべたにしたり、自己バフもあり? リーマン兄さんの方も金城鉄壁ですけど。なんかほとんど無敵じゃん。『幻想企画』もめちゃくちゃやってたのに無傷て!」
 都内のマンションの一室、興信所「ぱりなリサーチ事務所」の事務所にて、女子高生忍者所長、不忍池 ぱりなは、ごろごろとソファーの上で回転し、勢いあまって床に落下した。
「むぎゅ」
「はしたない恰好をするからですぞ。東京タワーからの落下でなくてよかったですな」
 ぱりなに仕える老忍者、白烏は、床に転がる主人を猫か何かのようにつまみ上げると、ひょいと事務所長の椅子に座らせた。
「それな。落下ダメも致命傷だしやめてもろて。てか地面に落ちたらリングアウト負けじゃね? 333mの高さから紐なしバンジーとか、放下行もびっくり!」
 放下行。高所から命綱やパラシュートなしで飛び降り、受け身を取らせる、古流忍術の荒行である。
 服毒を強要して死の危険と引き換えに身体の抵抗力を高める附子行、天に伸びる柱を身一つで登らせる登仙行と並んで、ぱりなが『忍び里働き方改革』で真っ先に廃止した危険な修行だった。
「てゆーか、爺や。あの、リーマン兄さんの方の体術――」
「お気づきになりましたか」
「あの人の勤め先、黒服警備保障だっけ。ちょい、調べてもろて?」
「そう仰られるかと思いました。こちらに」
「先読み精明強幹! やっぱ爺やしか勝たんわー」
「恐悦至極。普通におほめいただければ、さらに嬉しいのですがのう」
 白烏から手渡された資料に目を通したところで、ぱりなの表情が曇る。
「……うへえ、廃忘怪顛。そう来たかー……」
「どうなさいますかな、お嬢様」
 返ってくるであろう回答は理解している。
 それでも、白烏は敢えて主に問うた。
 それが、彼の役目である。
 この少女が優しさに惑わぬよう、追い込む汚れ役こそ、この老人が自らに任じているところだった。
「そりゃ、もちろん。戦って、勝つ。でもって――『忍び里働き方改革』は、完遂する。妾の、不忍池 ぱりなの名にかけて、取りこぼしたり、アフターフォローをいい加減にしたり、しないんだから!」
 打てば響くような答え。
 青雲天高く、志に限りなし。
 その在り様を、老人は眩しく思う。
 いつか彼女が、見えざる天井に苦しむ時が来るとしても、それでもこの真っすぐな勢いを、抱き続けてほしいと願う。
 それが、老人の誓い。
 彼女の父の命を奪い、そして一時、まだ幼い彼女に道を踏み外させかけた、贖いだった。
4 空の聖戦
「晴天高い芝公園、かつての首都のシンボルにして情報発信の最先端、333mの塔の高みから、最優を叫ぶはどちらのタッグか! 火と火を重ねて炎を燃やせ! イグニッション・ユニオン!」
 イグニッション・ユニオン本戦2回戦当日。
 東京都港区芝公園、日本電波塔――通称「東京タワー」。
 航空機の安全のため、昼間障害認識として、鮮やかなオレンジと白の二色に塗り分けられた電波塔。
 およそ51年間、自立式鉄塔としては日本一の高さを誇り続けた、東京のシンボルだった建造物である。
 その下で、『ぱりなリサーチ事務所』と、俺たち『マイリーマンズ』は向かい合う。
 女子高生と、老人。
 どう見ても、最強を決める大会の参加者には見えない。
 だが、1回戦の映像を見る限り、少なくとも老人の方は間違いない手練れであることは判明済みだ。女子高生の方は、何らかの不可視の飛び道具を使うようだということしかわからない。
 情報はこれだけ。
 恐ろしいことに、この二人は1回戦においてほとんど戦術の手札を開示していないのだ。
 手の内の読めない不気味な刺客。
 それに対して、強力さと弱点が裏表の俺たちが、どう喰らいつくか。
 これは、そういう戦いだ。
 くいくいと、忍が俺の袖を引く。
 大の大人がやる素振りではないが、ピエロの恰好でずんぐりむっくりしたこいつがやると、妙な愛嬌があるから不思議なものだ。
 忍は自分の眉間に指を当てると眉のあたりを左右外側に広げるような動作をした。
 どうやら、俺の緊張ははた目にも明らかなものだったらしい。
 意識してみれば鼓動も随分早くなっていた。自分では気付かないものだ。
 言葉で指摘されても、素直に受け取ることはできなかっただろう。
 忍のプロ根性と無口さに感謝しつつ、俺は深呼吸をした。
 パントマイムとは、狙撃に似ている。
 狙いすましたその演技は、どんな堅固な城壁をもかいくぐり、目的を撃ち抜く。
 少なくとも、今の俺には、何よりも効果的なアドバイスだった。
「それでは、これより、『ぱりなリサーチ事務所』VS『マイリーマンズ』の試合を開始します!」
 高らかな宣言と歓声、拍手。
 そして、次の瞬間、世界が遍く反転した。
 ◆  ◆  ◆
 そして舞台の幕が開く。
 舞台の名は東京タワー。
 演ずるは道化、警備員、女子高生、老忍者。
 鏡の世界に勝者は二人。
 “無敵”を示す時は今。
 ◆  ◆  ◆
 反転する。逆転する。鏡鳴する。鏡感する。
 世界が歪み、全てがさかさまの世界へと、俺たち四人は放り込まれた。
 目の前に、女子高生と老人はいない。
 どうやら、別々の場所に転送されたらしい。
 そういえば、イグニッション・ユニオンのスポンサーには、東京タワーの運営やテナントも含まれていたはずだ。
 そう考えると、二組の初期位置を離して、中継でタワーの内装を多く、長く見せるために、会敵まで時間を稼ぐ戦略なのかもしれない。
 俺たちが今いるのは、メインデッキ2階。
 そこで、まったく人の気配がないということは、『ぱりなリサーチ事務所』はタワーの根本のビル、フットタウンだろうか。だとすると、会敵にはまだ時間がある。
 そうであれば好都合。
 想定していた策の一つが使える。
 俺は、用意していた特殊警戒棒を伸ばすと、「そこ」へ、力いっぱい振り下ろした。
 ◆  ◆  ◆
 会敵したのは、メインデッキ1階。
「不遑枚挙! 爺や、すご! めっちゃアートだし!」
 女子高生のはしゃいだ声が響く。
 姿は見えない。彼女が隠れているからではない。
 俺たちがいるのは、「東京タワーといえば」で有名な蝋人形館だ。
 マリリンモンロー、エリザベステーラー、ガンジーから杉原千畝まで。
 古今東西、分野も様々な有名人の蝋人形が展示されている中で、俺たちは相手方の接近を待ち構えていた。
「爺や見てよ! 拷問の蝋人形とかマジ牛頭馬頭! ベルセルクで見た奴!!」
 能天気な声が少しずつ近づいてくる。
 観光気分か、と言ってやりたくなるが、忍び足で近寄られるよりはよほどいい。
 俺は、後ろで息をひそめている忍に、ついてくるように身振りで伝えようとして、
 ――忽然と、老人が忍の足元に潜んでいた。
 一瞬で警戒棒を伸ばすと、抜き打ちで振り払う。
 しかし、その攻撃は予測していたか、老人は杖でそれを逸らそうと合わせてくる。
 ならば――
『しかし我流なのかな? 吾輩には粗削りに思える。こういう技は使えるかね?』
 老人の仕込み杖と警戒棒がかち合い、軌道を変えられるその直前、俺は警戒棒を右手から左手に投げ渡し、杖による受けをかいくぐるようにして振り抜いた。
 池袋で、あの猫顔の剣士から『学ばされた』技。
 『ラーニングメソッド』により、今ではすっかり身についた技巧だった。
 忍から距離を取ると、老人は紙一重で俺の反撃を回避する。
 その上で、跳び去り際に苦無を投擲、俺の服の裾を掠めた。なんて身のこなしだ。
 やられた。あの観光客めいた言動は囮。
 老人を隠密で先行させ、女子高生が後から、わざとこれみよがしに声を張り上げて近づくことで、接敵のタイミングを見誤らせてきたのだ。
 1回戦で敵と戦わずにネイル談義していたあの娘のノリなら、普通に戦場で観光しかねないとは思った。が、そこも含めてもブラフだとすれば――どこまで計算済みだったのか。
 ともあれ、忍を優先的に狙っているのは、俺たちのことを「わかっている」戦術だ。
 さらに厄介なのはこの老人が先行してきたこと。
 1回戦の映像で予想していたが、この老人は、魔人ではない。
 裂けたスーツの裾を一瞥する。
 俺の魔人能力『普通の生き方』は、魔人能力による損害を一切無効化する。
 それは、俺の肉体のみならず持ち物にも影響し、また、直接攻撃系の魔人能力による損害以外にも、魔人能力の影響を受けた攻撃による損害だと俺が認識、判断したものに対して、例外なく発動するものだ。
 今の攻防で、『普通の生き方』は発動しなかった。
 つまりは、この老人、ただの忍び足で、俺と忍、二人の魔人に気付かれず近づき、堂々と渡り合ったということになる。
 つまり、1回戦の時のような力押しはできないということだ。
 老人が懐から何かを取り出し、地面に叩きつける。
 ぼふっ。
 くぐもった音。足元から広がる煙幕。
 やはり――俺たちの連携を崩すなら、視界阻害が最もシンプルだ。
 間に合うか。
 振り返ると、忍は既にパントマイムを始めていた。
 右腕は強い力で引っ張り上げられるようにまっすぐ真上に伸ばされ。
 片足が地から離れ、もう一方の足がつま先でバランスをとっている。
 そう。それは、再会の日、万疋屋の社長の逆恨みから俺を救ってくれた――
「風が吹いてる」
 忍のパントマイムを俺が言い当てることで、魔人能力『Q』が発動する。
 屋内であるにも関わらず吹いた一陣の強風が、煙幕を吹き散らした。
 だが、それだけでは忍のパントマイムは終わらない。
 空を仰ぎ、日の光を避けるようにした後、両手の親指と人差し指で作った円を目の前に。
「サングラスだ」
 具象化されたそれを受け取り、俺は即座に目の前にかざす。
 同時に、閃光が弾けた。煙幕と光による視覚への連続攻撃。
 見て、言い当てるという忍の能力、『Q』の弱点をよくわかっている。
 戦術の切り替えが速いのも厄介だ。
 忍の能力はおよそあらゆる事が可能だが、二段階の手順が必要なため即応性が低い。
 そこを、畳みかけることで老人は突いてきている。
 さらに、『普通の生き方』による絶対防御が通じないことで、相手の搦め手と、忍を狙われることに加えて、俺自身に対する攻撃をも警戒しなければならない。
 これが、1回戦よりもさらに不利な点だった。
 だが、1回戦と比べて、明確にこちらが有利な点もある。
 それは――
 聞こえる。
 それは、とある音響技師が持っていた『伸びしろ』。
 聴こえる。
 それは、とある歌手が持っていた『伸びしろ』。
 見える。
 それは、とある映像編集者が持っていた『伸びしろ』。
 わかる。
 それは、とあるアクション俳優が持っていた『伸びしろ』。
 動ける。
 それは、とあるスタントマンが持っていた『伸びしろ』。
 稀代の総合芸能プロデューサー、クロスケが次世代へと継承してきたものが、『ラーニングメソッド』で俺に引き継がれた能力が、看破する。
 「それ」が大気を切り裂くところを。
 「それ」が飛んできた方向を。
 「それ」が蝋人形を斬り裂いて飛来する軌跡を、理解させる。
 俺は、忍を地面に伏せさせた。
 警備における対射撃の基本動作。
 そのままに警戒棒で「それ」を受け止める。
 手に伝わる衝撃。不可視ではあるが、物理的実体を持った何かが飛来し、それを俺の能力が打ち消したのだ。
 俺の魔人能力『普通の生き方』は、意識した攻撃、認識できる損害を無効化する。
 よって、不可視の攻撃は、最大の弱点のはずではあった。
 一週間前の俺ならば、成すすべもなくやられていたことだろう。
 だが、今は違う。
 それが「見えないだけで物理的な法則下にある」攻撃が飛んでくるのであれば、俺の中の『伸びしろ』が、十二分に反応してくれる。
 それが、1回戦と比べて、俺たちが得たアドバンテージの一つ目だった。
「銅頭鉄額! この大会、妾の能力、不発過ぎだし!」
 ハリウッドスターの蝋人形の向こうから、不可視の斬撃を使う女子高生――不忍池 ぱりながやってきた。
5 即妙の矢
 障害物の多い蝋人形館で戦うことを提案したのは、寛君の方だった。
 クロスケさんの『ラーニングメソッド』によって強化された今の寛君なら、障害物が周囲にあれば、それを切り裂く様子を見聞きすることで、不可視の攻撃の方向とタイミングを判断して無効化できるのだという。
 半信半疑ではあったけれど、実際に目の当たりにすると、寛君は確実に強くなっていた。
 僕を庇いながらおじいさんの仕込み杖と打ち合い、物陰から飛んでくる見えない攻撃を受け止める。時折投げられ、地面に突き刺さる派手なビーズで飾られたナイフ……苦無? を警戒する。
 目の前にある、寛君の遠い背中。
 彼はいつも、手を伸ばしても届かない、見えない壁の向こうにいる。
 一人で戦って、傷ついて、僕を後ろに遠ざけて守っている。
 小学生の頃からずっと。今もまだ、こうして僕は庇われている。
 だからせめて、役に立てることを探したのだ。
 精一杯、彼の視界の片隅でパントマイムを繰り返す。
 道化のように。道化そのものとして。
「くっついて離れない蝋人形」
「爆弾」
「トラバサミ」
 寛君の言葉に応じて、意味のないパントマイムが、世界を捻じ曲げる武器になる。
 言い当てられることで、二人の共有認識が、常識を塗り替えていく。
 だが、高校生の女の子とおじいさんの動きは速い。
 寛君が小声で口にし終わるその瞬間、その単語に反応しているのか、瞬間的に張り付いた上着を脱ぎ、爆発から身を伏せ、足元に苦無を噛ませてトラバサミの付け根をつっかえ棒にして対処していく。
 実体化した罠の設置パターンは、僕が適当に考えたものではない。
 護衛の専門家である寛君が研修で叩き込まれたトラップスキルに基づく実戦的なものだと聞いている。警備会社がそんなことを教えるのはどうかと思ったけれど、寛君のアドバイスは実際に理に適っているものだった。
 だがそれを、あらかじめ知っているかのように、二人は回避していく。
 まるで、こういった罠の対処が日常であるような慣れた対応だった。
 僕の『Q』は効いていない。
 高校生の女の子の見えない刃も、全て寛君がかき消してくれている。
 後は、前で打ち合っているおじいさんと、寛君の単純なぶつかり合いになっていた。
「爺や! 座標報告。珊瑚獅、金剛蠍、玻璃秤、緑柱双、緑柱乙、紅玉蟹、瑪瑙蠍、蒼玉乙、玻璃魚!」
「承知」
 薙ぎ払い、避け、受け止め、突く。
 ほんの少しずつ、互いに小さな傷を受けつつ、致命傷はない。
 息が上がって、よろよろとしているのはおじいさんの方。
 寛君は、じりじりと相手を押して、追い詰めている。
 打ち合わせの場所まで、もう一息だ。
 相手がよろめいたその隙を見て、寛君が打ち込んだ、その瞬間、
「っ!」
 寛君が体勢を崩した。足元には、派手にデコレーションされた苦無。
 決して大きくはないが、地面に突き刺さったそれにつまずいたらしい。
 ただ、それだけ。こんな単純なミスを、何度も繰り返す彼ではない。
 低い体勢から、視界に充分に足元の障害物を入れつつ、荒い息を突くおじいさんを追い詰め――
 今度こそ、デコ苦無を避けたはずの足が、「何もないところ」でつまずいた。
 瞬間、老人の刃が一閃。寛君の肩口を深く切り裂いた。
「見えない――刃」
 寛君の言葉は、僕への警告だった。
 ようやく、僕は状況を理解する。
 今、僕たちの立っている場所の周りには、いくつもの「見えない刃」が突き立てられているのだ。大きさはわからないが、僕らが歩いていて、足をつまずかせるには充分なサイズの物体に、囲まれているのだ。
 女子高生の女の子の能力が「見えない刃を飛ばすこと」だとは、1回戦の映像からわかっていた。
 それによる直接攻撃は、今の寛君には通じない。
 飛んでくる空気の音、周囲のものが切り裂かれる様子で、「今、それが飛んでくる」ということを意識できるからだ。
 だが、すでに地面に向かって投げられ、突き刺さった透明な刃は、音を立てないし、何も実体のあるものを切り裂かない。つまり――意識できない。
 意識できない魔人能力が原因で発生する損害――つまずきを、寛君の『普通の生き方』は、無効化できない。
 なまじ目立つデコ苦無があるから、最初に足をつまずかせた時に、それが原因だと思ってしまった。そして、それにばかり注意を取られて、「警戒している」と安心したせいで、「見えない刃」につまずいて、大きく体勢を崩してしまった。
 おじいさんが息を斬らせてよろめいたように見えていたのは、見えない刃を迂回するためだったのだろう。
 魔人能力は寛君には効かない。その思い込みからきた、油断だった。
「っ!」
 何もないところでおじいさんが跳躍して後ろに下がり、じぐざぐに動く。
 一体、どれだけの数の「見えない刃」が敷設されているのだろう。
 ブラフかもしれない。実際には「見えない刃」には回数制限があって、本当はもう、足をつまずかせる障害物なんてないのかもしれない。
 けれど、あのおじいさんが「そういう素振り」をしたことで、こちらはそれが「ある」前提で警戒をしないといけない。
 パントマイムによる攻撃。明らかに僕を意識した動きだった。
 女の子の「見えない刃」を飛ばす能力、それは、障害物の多い場所で対処すれば怖くないシンプルな直接攻撃能力だと思っていた。けれど、それは想像以上に応用の効く、当意即妙の飛び道具だったのだ。
 寛君は、大きく息をつく。
 まずい状態だ。
 寛君の『普通の生き方』は、見えないものでも「そこにある」と意識したものであれば、魔人能力の損害を受けない。つまり「見えない刃」が「そこにある」と思い続ければ、寛君は、それにつまずくことはない。
 だが、僕は、そうじゃない。
 僕を守り続けながら、「作戦の地点」までおじいさんか女の子を誘導する。
 それは至難の業だ。
 寛君が僕を守り続けている限り、僕たちは勝てない。
 夢に手が届かない。あの日の、寛君の笑顔を、取り戻せない。
 だから、僕は、一歩、前へ出た。
 彼の後ろから、前へ。
 守られる位置から、守れる位置へ。
 ◆  ◆  ◆
 本当に小さな子どもの頃、僕は、寛君と一緒に、ショーを見に行った。
 寛君の家庭の事情を伝えると、母さんは二人分の子ども用チケットを用意してくれた。
 父さんがいなくなってから、初めてのわがままだった。
 寛君の両親の了解を取るのは大変だったろうけれど、その事を聞いても、母さんは何も言わずに微笑んでいた。
 ヒーローショーに行った。
 アイドルのライブにも行った。
 サーカスにも行った。
 大道芸も見に行った。
 東京タワーのふもと、芝公園で見たパントマイムを、寛君はもう覚えていないのだろう。
 伯父さんのことでみんなの言葉に傷ついて、学校では、お面みたいな笑顔しかしなくなった寛君が、光と音の中で、いろいろなパフォーマンスに、確かに、心の底から溢れ出すように、笑っていた。本当に、今でも鮮明に思い出せる横顔だ。
 たぶん、その時に僕の夢は決まったのだ。
 口下手な僕が、「見えないもの」で彼と繋がった僕が、彼を笑わせるためにできること。
 それが、パントマイムだと思った。
 練習を繰り返した。毎日打ち込んだ。
 寛君は、どんどん作り笑いが巧くなって、周りから距離を取っていった。
 僕は、何と言えばいいのかわからなかった。
 だって、言葉はいつも、寛君を傷つけた。
 クラスメートの悪口も、先生たちの職員室での陰口も、親たちの噂話も。
 だから、口下手な僕は、なおさら何も寛君に伝えられなかった。
 そして、その分、パントマイムにのめりこんだ。
 伝えたい。伝わってほしい。
 あの日と同じように。あの日、見えないものを、二人で共有できた日のように。
 言葉ではなく、この身振りで。あの日のように笑ってほしい。
 たぶん、それが僕の『覚醒理由』。
 その源泉は、「パントマイムは全てを表現できる」という認識による世界歪曲ではなく。
『ゆみや、かっこいいな』
 あの23年前の秋の日、「言い当ててもらったから、真実になった」という経験の再現。
 だから。この力は。
 寛君に守られるためじゃなく、彼を守るためにこそ、使わないといけないのだ。
 ◆  ◆  ◆
 僕が何をするのか、寛君はすぐに気付いたようだった。
 できれば使うな、と言われていたパントマイム。
 けれど、足元に見えない障害物が散らばった状態で。
 あと、数mだけ、おじいさんを後退させることができればチェックメイトになる。
 この状況で、女の子の攻撃を警戒しながら、反撃する。
 その条件で僕が思いつく手は、これだけだった。
 木人椿で練習した型通りに激しく手を動かし、拳法の構えを取る。
 視線は真っすぐに相手を突き刺すように。
 表情筋に精一杯の力を込めて、ひときわ体を大きく震わせる。
 僕は、大道寺 忍は、魔人としてはひ弱な存在だ。喧嘩だって弱い。
 けれど、僕の『Q』は、パントマイムは、言い当てられたものを、状態を、現実化する。
 寛君の言葉が、ただの「動作」を「真実」に変える。
「――やっちまえ、ブルース・リー」
 全身に力が漲る。
 ブルース・リー。往年のアクション俳優。武術のヒーロー。
 ほんの一瞬だけ、僕の体が「そういうもの」になる。
 ブルース・リーといえば、何を思い浮かべるだろうか。
 華麗なヌンチャクさばき? それもある。
 目にも止まらぬ連打? それもある。
 けれど、何より僕の記憶に刻まれているのは、
 ――ロケットのような、跳び蹴りだ。
 地面を蹴る。数mの距離を、「ブルース・リー」の脚は軽々と跳びこえる。
 間にどんな障害物があろうとも。その龍の跳び蹴りは、何物にも阻まれない。
「っ!!」
 おじいさんが、真正面から攻撃を受け止めた。杖が折れ、腕を砕いた感覚が伝わってくる。ごめんなさいおじいさん。早く終わらせて、痛みはすぐに消しますので、許してください。
 僕の巨体の重量と、ブルース・リーの跳び蹴りの勢いで、華奢なおじいさんの体は軽々と吹き飛ばされ、デッキの壁に叩きつけられた。
「爺や!!」
 女の子が駆け寄ってくる。
 好都合。そして、ごめんね。
 僕は、くるりと空中で一回転しながら後ろに下がり、残心すると、大きく息を吸って、
「ホワチャアアアアアアアアアアアア!!」
 大声で、叫んだ。
 瞬間、デッキの様子が一転した。
 蝋人形館は影も形もなく消え去り、おじいさんと女の子の立っていたデッキの床も消えてなくなる。そして、彼らの頭上の天井も消失し、上からカフェの機材や神棚、デザインポストに椅子やテーブル、圧倒的な質量が降り注ぐ。
 魔人能力『Q』で実体化したものは、僕が言葉を発すると消滅する。
 そして、「僕が作った床」に立っていた『ぱりなリサーチ事務所』の二人は、高さ150mの位置から落下した。
chapter5:”wing arrow” end
6 透明な奇跡
 俺たちが忍の能力で、わざわざ「東京タワー蝋人形館」なんて面倒なものを実体化したのには、幾つかの理由がある。
 まず、障害物の多い空間であれば、女子高生、不忍池 ぱりなの「見えない刃」を疑似的な可視化できるため。
 そして、本命が、最初から「決め手」として想定していた「リングアウト勝ち」の布石、「あらかじめ壊しておいて、『Q』で実体化した床」を目立たなくするためだった。
 ぱっと見た目では区別がつかないが、「魔人能力の気配」を察知しうる相手であれば気付かれる可能性はある。それを潰すために「空間全体を魔人能力の生成物で塗り替える」手段に出たのだ。
 あとは、蝋人形館だったら「東京タワー」にあることに違和感を持たれないと期待したから。まあ、仮にも「リサーチ事務所」を名乗る相手だ。ここの蝋人形館が8年前に閉館になったことくらい知っていたかもしれないが。
 ともあれ、これで終わり。
 150mの高さではさしもの魔人もひとたまりもないし、そもそもが地面についた時点でリングアウトということになるだろう。
 しかし。
 決着を告げるサイレンは、鳴らない。
 前回は、クロスケの頭を穿った後、ほどなくして響いた、あの音がしない。
 ということは――つまり。
「――『手裏に秘するがしのぶの華よ』」
 ぽっかりと空いた床の下から、声がした。
 足元の透明床から声の方向を伺う。
 そこには、女子高生――不忍池 ぱりなと、お付の爺や――白烏が、「空中に立っていた」。
 ぱりなの「見えない刃」だ。
 最大サイズはわからなかったが、人が立てるほどの大きさにもできるらしい。
 落下しながら下の鉄柱に「見えない刃」を突き立て、足場にしたのだろう。
 命綱などない高所を、まったく臆することなく登ってくる。
 俺が就職した直後、「研修」の手本と称して、天まで伸びる剥き出しの柱を軽々と登って行った部長を思い出す。
 あんなことをできる人間が、そうほいほいいてたまるか。
 だが、目の前にある以上、納得せざるを得ない。あの二人は、うちの部長と同等か、それ以上のバケモノであると。
 ほどなくして、二人は軽々とメインデッキまで戻ってきた。
 圧倒的な不利だった。
 伏せ札は使い果たした。
 対して、まだデッキの床には、無数の「見えない刃」が障害物として突き立っている。
 俺は深手を受け、「ブルースリー」の効果を発揮した後、発声で『Q』を解除した忍は、反動で全身の筋肉をずたずたにして一歩も動けない。
 せめて、床の「見えない刃」さえなければ。
 俺だけは足元を意識し続ければ『普通の生き方』で動けるが、それでは忍を守れない。
 俺は、忍を一瞥した。
 何か。俺には浮かばない、一手が、ないか。
 忍はしばし目を泳がせたあと、一つ、静かに頷いた。
『手は、あるよ』
 そう、言うかのように。
 忍は、震える片膝を立てて、腰に左の手を支えると、親指と人差し指で輪を作る。
 右手をその左手の輪に添えると、右手で額の汗を拭うように、右腕を振り上げた。
 意味するものはわかる。
 だが、それで、どうやってこの状況を打開するのか?
 忍は何も言わない。
 それはパントマイムとしての鉄則。
 そして、俺とこいつの間の暗黙のルール。
 忍は真っすぐに俺を見ている。
 間違いない。こいつは、これで、俺が、この状況を打開できると信じている。
 ならば、俺もまた、俺なんかを信じてくれる、こいつを信じよう。
 これだけではどう考えても足りない。
 だったら、きっと、忍には次の手札が存在する。
 それに、俺は全てを賭けよう。
「――”剣”だ」
 ほんの少しだけ、忍の表情が強張ったのが、真っ白な化粧越しにわかった。
 不発? そうではない。
 確かに俺の手の中には、しっかりとした質量を持った実体としての剣がある。
 俺はそれを構えると、忍の次のパントマイムを待った。
 忍は意を決したように、動き出す。
『覚えているかな、寛君』
 そう、呼びかけるように。
 少し膝を曲げて立ち、両手を上に。
 腕を下ろしながら、左手を前、右手を後ろへ。
 両手はなにかを支えるようにぷるぷると震えている。
 内側に縮もうとするなにかを押し広げるように。
 そこまで見て、俺は気が付いた。
 1998年、10月11日。
 よく晴れた秋の日。
 たった一人で、公園にいた少年。
 ならば、俺の手にあるのは、ただの剣ではない。
 忍が差し出した、この剣は。
『おれも、もってるからな。みえないぶき』
 23年前の、俺の声が聞こえた。
 一振りで周囲の見えない敵を全て切り裂く剣。
 たとえ辺りに「見えない刃」が散らばろうとも、その全てを薙ぎ払う刃。
 もしも、これが、その剣であったならば。
 確かに、現状を打破する切り札になる。
 だから。
 この剣を『Q』が具現化した時点で、勝負は、決まっていた。
「――『透明な奇跡』」
 俺は、あの頃、二人の間でだけ本当だった、「伝せつのせい剣」の名を口にした。
chapter6:”glass wonder” end
7 貴種の光背
 その試合の直後、屋釘 寛の勤務先である黒服警備保障に、一本の電話があった。
 屋釘の上司である部長はナンバーディスプレイでその番号を確認すると、おもむろに受話器を取った。
「御機嫌如何! くろやん元気しとる?」
「お久しゅうございますな。不忍池の姫君」
「そんな堅苦しいのなし! ぱりなでいいって」
「……して、本日は何の御用で?」
 部長の手元の端末に、一つのメールが送信された。
 アドレスを教えた記憶はなかったが、そこは「リサーチ済み」とのことらしい。
 送信主は「ぱりなリサーチ事務所」。
 そこには、新人教育のカリキュラムと、今回彼女たちが戦った相手、屋釘 寛の、ここ一年間の勤務実績の記録が綴じられていた。
 電話口から、若い女性の声とは打って変わった老人の声が聞こえてくる。
「服部忍軍抜け忍、服部 黒雀。「より人間らしい」あり方を求めて影の世界から抜けた貴様が、まさか忍びの苦行を表の警備員に課し、あまつさえブラック労働の片棒とはのう」
 不忍池ぱりなの側近、白烏の声。
 聞き間違えるはずもない。部長にとっては、かつての商売敵の声だからだ。
 黒服警備保障、警備第四部部長にして、会社設立の立役者、服部 黒雀。
 かつて、「ぱりなリサーチ事務所」の手を借りて表の世界へと亡命した抜け忍であり、彼の忍び育成のノウハウこそが、戦闘の素人であった屋釘 寛を短期間の間に有数の戦士へと鍛え上げた秘密だったのだ。
 高所から命綱やパラシュートなしで飛び降り、受け身を取らせる、放下行。
 服毒を強要して死の危険と引き換えに身体の抵抗力を高める附子行。
 天に登る柱を身一つで登らせる登仙行。
 そんなものが、並の警備会社の研修であるはずがない。
 だが、矢釘をイグニッション・ユニオンで敵と渡り合える戦士たらしめた理由は同時に、矢釘の手の内が、ぱりなや白烏にとっては明らかである事も意味していた。
 だからこそ、二人は変幻自在のはずの『Q』による攻撃に、忍者特有の癖を嗅ぎ取り、対処できたのだ。
「労働基準法35条1項『使用者は、労働者に対して、毎週少くとも一回の休日を与えなければならない。』労働基準法35条2項では『前項の規定は、四週間を通じ四日以上の休日を与える使用者については適用しない。』。30連勤はもう申し開きのしようもないっしょ。――あの、屋釘って人の経歴は調べたけど。行き場のない子を、それをいい事に追い込むんじゃ、ブラック忍び里と変わらないし」
「私を、斬りますか」
 その言葉に、ぱりなはしばし沈黙し、ゆっくりと一つ大きな息をした。
「二度はないから。――妾を、『怪物』にしないでほしいし」
 ぱりなに、そしてその脇に立つ老忍者の息遣いに殺意はない。
 だが、この言葉を違えれば、間違いなくこの手練れの忍は、かつての「追い忍」の真髄を見せることだろう。
「対戦相手のためにわざわざここを訪れ、かつて助けた愚かな抜け忍のために、一度機会を与える。お優しくなりましたな。この国の忍び里全てを震撼させた、不可視の忍姫、玻璃の怪物、――玻璃那姫ともあろうお方が」
 部長――服部 黒雀は、そう言うと、手元の端末を操作し、ぱりなにメールを送付した。
「おけまる。じゃね、くろやん」
「ええ、さようなら。ばりな様。貴女が、その能天気なJKのふりをかなぐり捨てるような”悪”が、現れないことを祈っていますよ」
8 無垢なる世界
 イグニッション・ユニオン。
 2回戦。東京タワー。
 俺たち、『マイリーマンズ』は、敗北した。
 忍の『Q』は、パントマイムで表現した物を他人が言い当てたとき、それが実体化する。
 つまり、俺が「剣」と言い当て、それが具現化した時点で、それは正真正銘、ただの何の変哲もない剣でしかなかったのだ。
 その後で、俺が何を思い出しても。
 あの日の思い出のせい剣の銘を口にしても。
 形を取ってしまったものは、後からは変わらない。
 そもそも忍の『Q』には、無限の可能性があった。
 なんでも斬れる剣も。
 絶対に壊れない盾も。
 およそ超常的なものだって、言い当てれば実体化する。
 だが、俺は、魔人だ。
 魔人は、自分の揺ぎないエゴによって世界を変える狂人だ。
 俺は、『普通の生き方』をもって、常識を捻じ曲げる男だ。
 夢のない子どもだった。それがそのまま、大人になった。それが『普通の生き方』の覚醒理由で――その結果、『Q』の――忍の無限の可能性を活かせなかった。
 あとの戦況は、語るまでもない。一方的な敗戦だった。
 もうほんの少しだけ早く、「剣」と口にする前に、あの日のことを思い出せたとしたら。
 俺たちは勝つことができただろう。
 きっと、忍は信じていたのだ。
 あのパントマイムで、すぐに俺があの日のことを思い出せるのだと。
 けれど、俺には、できなかった。その想いに、応えられなかった。
 元の世界へと戻った俺は、忍に詫びるつもりだった。
 詫びて、もう二度と忍の前には姿を表さないつもりだった。
 だが。
「ごめ゛ん゛ね゛え゛え゛え゛え゛え゛え゛」
 真っ先に口を開いたのは、忍の方だった。
 再会してからずっと話さなかった忍は、涙声で、訥々と語り続けた。
 パントマイムを志したきっかけ。
 俺を、笑わせたかったこと。
 皆の言葉に傷つく俺を見て、何も口にできなくなったこと。
 俺の作り笑いを見るたびに泣きそうになっていたこと。
 出会った日のように一緒に笑いたくて、イグニッション・ユニオンに誘ったこと。
 金などもうどうでもいいこと。
 もしも自分が意地を張らずに話し合っていれば、もっとうまく戦えたかもしれないこと。
 拍子抜けしてしまう。
 十年以上のわだかまりが、霧散していく。
 なんということはない。
 俺の感じていた隔意には、最初から実体なんてなかった。
 互いに、そこから先に近寄れないという素振りから、まるでそこに厳然とあるように感じていただけの、パントマイムの大壁。
 それは、口を開き、言葉を交わせばたちまちに消えてしまう、幻のようなものだった。
 阿僧祇なゆが、1回戦敗戦後にファイヤーラッコTVで叫んだことを思い出す。
『コンビなんだから! ちゃんと! 話をしなさい!』
 なんということはない。あれは、相棒のクロスケだけではなく。
 俺たちというコンビにも向けられていた言葉だったのだ。
 まったく、年の功というやつには恐れいる。
 しばらく泣いて、泣いて、泣き止むまで、たっぷり一時間はかかった。
 まだ時折ひっくひっくとしゃくりあげる忍に、俺は自販機で買っておいたスポーツドリンクを投げ渡した。
 涙で化粧が半分以上落ちかけたひどい顔で、それでも忍はピエロらしくそれを片手で受け止め、頭上に投げ、空を仰ぐ額で受け止めた。
 あの頃と、そして、再会した日と同じように。
「……ありがとう、寛君」
「ところで、だ。今、会社からメールが届いてだな」
 俺は、スマホを忍へと投げ渡した。ジャグリングの要領でくるりと鮮やかにそれを受け取めると、忍はその画面を見て、驚いたようにこちらを見た。
 まあ、そうだろうな。どういう風吹き回しか、俺の方が聞きたいくらいだ。
「今まで消化しきれなかった有給、この際だからまとめて使えだと。……俺はしばらく暇人ってわけだ」
 何かを期待するように、忍はこちらを見てくる。
 今までであれば互いに言葉を待って、じれた俺が何か言い出すことになっていただろう。
 だが、それでは、取りこぼすものがあるのだと、今の俺たちは知っている。
「俺は、まだ、遊び足りないんだが。忍は、どうだ?」
 所在なくぴくりと動いていた忍の唇と頬が、止まる。
 視線が、下から、こちらへ向けられる。
 腹の前でせわしなく動いていた手は、静かに、強く、握りしめられた。
「僕も――また、寛君と、舞台に立ちたい」
 忍がはっきりと言葉にした、本当に久しぶりの、わがまま。
 ずっと、忍は、俺の前で意味のある言葉を発さなかった。
 言葉が、どれだけ俺を傷つけてきたか、間近で見ていたからだろう。
 俺を気遣って、慮って、勝手に罪悪感を抱いて、遠ざけて。
 まったく。どこまでも、俺たちは、似たもの同士だったのだ。
「ああ。当然だ」
 俺たちは幼馴染で、友達だった。
 そんなつながりだけでは越えられない、見えない壁を、俺たちは、互いの行動で、自分から作り出してしまっていた。
 けれど、もう、ためらわない。
 命を賭けてぶつかって、俺たちは同時に負けて転んで、泥にまみれた。
「だって、俺たちは――」
 そして、今は。俺たちは、口を開くことで、言葉を交わすことで、無言の隔意が生み出した壁を、消し去った。
「――同志で、仲間だろう」
 俺たちは、笑った。
 声もなく、静かに。繕うのではなく、溢れ出すように。
 パントマイムとは、表情に似ている。
 そこに存在しない、実体のない感情を、体の動きで表現する。
 互いの共通認識を信じて、そこにあるのだと信じ合う行為だ。
 その笑顔が描くつながりを、今、俺たちは、信じることができた。
 たしかに俺たちは敗北し、2億5千万円の夢は消えてしまった。
 この世界は無垢なんかではなく。
 明日からも魔人は排斥され、遠ざけられ、その中で俺たちは生きるのだろう。
 だが、得たものは確かにあったのだ。
 サラリーマンとは、給与を対価とするものである。
 ならば、俺らは、マイリーマンズは、その歩いてきた道行きこそを対価だと言い張ろう。
 だが、たとえ誰の目にも見えずとも。
 空虚なごっこ芝居だと笑われても。
 それは、俺とこいつの間には、確かにある、透明な奇跡なのだから。
chapter8:”agnes world” end
 ◆   ◆   ◆
 1998年10月11日 第49回 毎日王冠。
 2番人気であった競走馬グラスワンダーは、そのレースで1番人気であったサイレンススズカをぎりぎりまで脅かすも後半失速。
 着順は5位ではあったが、観る者に鮮烈な印象を残したという。