第二話/“マスター”
10メートルは登っただろうか。
時折風がおれに向けて吹き付けるが、それで頭が冷える、などということは全くない。
おれの怒りは絶賛沸騰中だ。
ただし手足まで怒りにつられてはいけない。
ここから先は落ちれば死の領域だ。
慎重に突起を探し、足場を確保する。
無ければ手持ちの道具で樹皮を刻む。
数メートル先に太い枝が見えている。
あそこまで行けば一息つけそうだ。
そう考えながらおれは、少し上の、縦に入ったでかい亀裂に右手を掛けた。
続いて左足を掛ける場所を見つける。左手を上に伸ばす。右足を引っ張る。
そして再び右手を動かそうとして、亀裂から抜けないことに気が付いた。
最初は、引き抜いた反動で後ろに倒れやしないかと冷や冷やしていた。
それなので慎重に、力を加減して指を抜こうとした。
しかしその加減がまずかったのか、逆に手は奥に入り込んでいく。
手首まで入り切ってしまったところでおれは左手を樹から離した。
この状態なら落ちることはないだろう。
宙ぶらりんなままおれは腰のベルトを漁る。
プランはこうだ。
まず樹に杭を打つ。そしてそこにロープをくくり、自分の体と結び付ける。
それから右手の周りの樹皮を削り取る。
最初に必要なのはドリルか。
と、取り出したとき、右腕は肘のあたりまで樹に潜り込んでいた。
さすがに、おかしくないか?
その亀裂は、指が掛かる程度の隙間しかなかったはずだ。
おれは本能的な危機感を覚え、まだロープを結んでいないことも気にせず、もがいた。
すると、腕は見る見るうちに樹に取り込まれていく。
ついには、おれの体全部がその亀裂へと吸い込まれていった。
直後、広い空間に放り出され、おれは床に伏せた。
「おや、外から人が来るのは久しぶりだね」
声に気付いて目を上げると、ぽつんと置かれた丸テーブルの前に座った初老の男が、優雅にコーヒーをたしなんでいた。
周りの空間は、樹皮の壁に囲まれており、高い天井から蔦が垂れ下がっている。
聞くまでもないが、一応目の前の男に確認した。
「ここは?」
「君も入り口を通ってきたのだろう? ここは世界樹の中だ」
おれは男の樹の呼び方に対して、顔をしかめた。
まだそう呼ぶ奴がいたなんて。
怒りが声に出ないよう努めて、おれは男に言った。
「そう、ですか。おくつろぎのところ、お邪魔しました。では」
おれは傍らに一緒に倒れていたチェーンソーを担いで、後ろの壁に大きな丸い穴を開けた。
こんな所で油を売っている場合ではないのだ。
早く、うちに帰らないと。
「まあまあ、そう焦るな」
のんきな声が後ろから聞こえてきた。
が、焦るなというのは無理な相談だった。
「な、なんで……」
おれは目を疑った。
出てきた方の壁に穴を開けたんだから、その先は外に通じているのが道理だ。
それなのに、穴の向こうは、こちらと同じように樹の中の空間が広がっているだけだった。
「だから言っただろう、焦ってもどうにもならん」
男の声は、この不条理な事態にも乱れることはなかった。
ここは男の話を聞くしかない。
おれが振り返ると、男はさっきまで無かったはずのポットで、さっきまで無かったはずの2つ目のカップにコーヒーを注いでいた。
「どうだ、ここはじっくりと、お茶でもしながら話さないか」
おれは男の対面に腰かけた。
男をにらみつけ、まずは気になっていることを聞く。
「ここが『破壊樹』の中って、どういうことですか?」
『破壊樹』という名を強調しながら、おれは尋ねた。
男はコーヒーをひとくち飲み、「嘆かわしい」とでも言いたげな表情で答えた。
「そうせっつくな。まずは自己紹介といこう」
男の礼儀正しい態度におれは己を恥じた――
「私のことは“マスター”とでも呼んでくれ」
――のは一瞬だった。
「分かった、おっさん」
「おっ……!」
それで十分だろう。『じじい』でなかっただけ感謝してほしい。
はっきり言って、何の自己紹介にもなっていない。
「おれは高橋ルカ、芸術家だ」
どうだ、これが正しい自己紹介というものだ。
敬語? 敬語ってのは『敬う』語って意味だぞ?
このおっさんにはタメ語で十分だ。
「そうか、よろしくルカ君。ところでコーヒーは苦手かね?」
おっさんはおれが手を付けてないカップを見て言った。
別に苦手というわけではない。
ただ得体の知れない人物から出されたものに手を出したくなかっただけだ。
おっさんは、おれが黙っているのを肯定と取ったか、次の瞬間信じられない行動に出た。
『虚空からカップを取り出し』、『コーヒーが入っていたはずのポットから紅茶を注いだ』。
「なっ……?」
絶句するおれを見て、おっさんは言った。
「これは、私が世界樹に入ったときに身についた能力だ」
「のう……りょく……?」
「ああ、今までこの樹の中で何十人かの人間に会ったが、皆、それぞれ違った不思議な能力を持っていた。私は自分の能力を『即席ツ茶店』と名付けた」
「それは……」
「君にもおそらく発現しているはずだ」
おれは自分の両手を見つめ、首を振った。
覚えがない。きっと自分にはそんな能力は身についていないだろうし、そもそも必要ない。
「分かった、もううんざりだ。こんな樹……そろそろ出口を教えてくれ!」
もう、冷静を装う余裕はなかった。
おれは帰らなきゃいけないんだ。
机を叩き、おっさんに顔を寄せる。
見ろ! この怒りの形相を!
早く教えないとどうなるか、分かってるんだろうな!
「……無いよ」
そうだそうやって素直に吐けば……無い?
「この30年間、私も出口を探し続けた。だが、私も、そして今まで会った者たちも、誰も出口を見つけられなかった」
おれは、頭が真っ白になった。
「少しは落ち着いたかね?」
「ああ」
数十分の間、おれは部屋のあちこちに穴を開けまくった。
きっと最初に刃を向けた先が間違っていたのだ。そう思おうとした。
しかしどの方角の壁をくりぬいても、外への道は開かれなかった。
とうとうおれは諦め、おっさんのコーヒーを飲むことにした。薄い。
「おっさん、30年って数え間違いじゃないのか?」
頭が冷えてくると、今度はおっさんの言葉が気になってきた。
「いや?」
「だって、破壊樹がこの世に現れたのは十数年前だぞ?」
しばし、沈黙が走る。
「……そうか。この樹の中では空間だけでなく、時間まで歪んでいるのか」
おっさんは納得したように一人うなずく。
時間が歪む? 一体どういうことだよ……。
いや、今の頭の状態では受け入れられそうにないから、聞きはしないが。
「ふむ、落ち着いたとはいえ、大分ショックを受けているようだな。よし、私がいいところに連れていってやろう」
闇の中、淡い緑の光が群れをなし、共鳴している。
ここは光るキノコの群生地だった。
「すごい……」
言葉では表し切れない。だが、インスピレーションは湧いてきやがる。
くうっ、今すぐにでも! 周りの木材を削りだして、作品にしたい!
だが、この場所でおれの作業する音が響けば、雰囲気はぶちこわしだ。
だから、いつでも現像できるよう、この光景を目に焼き付けよう。
ほら、また新たなインスピレーション……が……
なん、だ……これ……?
「その男から離れなさい!」
おれが『新たなインスピレーション』にめまいを感じた瞬間、上の方から女の人の声がした。
どこかで聞いたことのあるような、ないような、声だった。
思い出そうとしていると、声の方向から何か光るものが飛んできた。
ナイフだった。
「なっ……!」
「ルカ君、大丈夫か!?」
おっさんが声を張り上げる。
お互い、足元しか見えていない。
「こっちだ、おっさん!」
おれは、叫びながらおっさんを誘導する。
今おれの感じた『インスピレーション』、それが正しいなら……
「ここだ! ここの壁を……」
くりぬく! そしてそのすぐ先の床もだ!
「な、なにをしてるんだ?」
「分かんねえ……分かんねえけど、『分かる』んだ!」
「どういうことだね!?」
「おっさん! コーヒーの入ったポットを出してくれ! アツアツの奴!」
おっさんはわけも分からず、だが言われた通りに従う。
おれはコーヒーを床に開けた穴に思いっきり注ぎ込んだ。
「キャッ!」
上から、さっきの女の人の悲鳴が聞こえた。
足音が遠ざかっていく。女の人は去ったようだ。
そして信じたくないが、『やはり』だった。
「ここの床の下は、こっち側の部屋の上に繋がっている」
空間が歪んでいる。そのことが今は手に取るように分かる。
「ルカ君?」
「そして……なんてこったよ! この樹は……!」
おれに発現した能力、それは確かにさっきまで望んでいた力だった。
だが、この事実をどう受け止めればいい?
この樹は……そんな……!
「うごヴぇぇぇぇぇぇえぇぇぇ!!!」
「ルカ君!」
おれは盛大に吐いた。
それは「ここから出たい」という願いの強さからか、あるいは彫刻家としての感性からだったのか。
おれに与えられた能力は、『一部から、全体像をつかむ』という能力。
そしてこの破壊樹……いや、世界樹の全体を捉えたおれは、信じられない結論に達する。
「この樹の……『中』のほうが、『世界』だったなんて!」
それは、世界樹と呼ばれていた。
十数年も前のことだ。
今となっては、なぜそう呼ばれていたか、誰も思い出せなかった。
「帰ら……なくちゃ……」
カナタさん……あの笑顔を思い浮かべながら、おれは意識を手放した。
誰かおれを、『ここ』から出してくれ。
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最終更新:2020年08月02日 20:45