第一話/高橋ルカ


 それは、世界樹と呼ばれていた。
 十数年も前のことだ。

 今となってはもう、そう呼ぶやつはどこにもいない。
 当然だ。誰だって、自分の生活だとか、ほんのささやかな願いすらも、平気でぶち壊してくるクソみたいな存在を、そんなご大層な名で呼びたくはないだろう?



 日差しが強く照り付ける、暑い夏の日だった。
 その日、おれは柄にもなく浮かれていた。
 オンボロトラックでの8時間もの夜間強行軍もまったく苦にならなかった。
 なにせおれがここ数年心のなかでじっくり温めてきた夢が、ついに叶うときが来たからだ。
 長い長い踏切待ちのむこう側にようやく覗かせたその姿に、おれの心は踊った。

 庭付きの1LDK。埼玉県の郊外、一戸建て賃貸。
 そう。念願の一人暮らしだ。

「やあやあ、きみが高橋ルカくんだね? どうも、西野です」

 約束の時間どおり、玄関で手を振りつつ出迎えてくれた若い女性が、隣の区画に住んでいる大家さんだった。
 おれよりも、ひとまわり背が低い。
 電話ごしに聞いていたガラス玉のようにコロコロと透きとおった声色と、そこから思い描いていたよりもずっとあどけなく可愛らしい――悪くいえば子供っぽい表情に、おれは不覚にも、どきりとした。

 いま思い返せば、これはほんとうに不覚だった。
 だが言い訳をさせてもらうと、これは仕方のないことだと思う。
 なんといっても、おれはとことん浮かれていたのだ。

 想像してみてほしい。
 ずっとおあずけを食らってよだれを垂らしていた犬に、とびきりのごちそうを次から次へと与えてみたさまを。
 そこからのおれは、彼女が説明するせっかくの案内もほとんど聞いちゃいなかった。

 見ろ、このぴかぴかのダイニングキッチンを。
 鍋をコンロの火からおろして、うしろを振り向けばそこに食卓がある。
 なんと機能的なことか。
 地べたに座って、クソ親父とせせこましく額をつき合わす必要もない。

 次に洋室だ。間取りを見たときから、ここを居住空間とするイメージトレーニングは毎夜欠かさなかった。
 実際フローリングに横になってみると、おれの頭からつま先までぜんぶが何にも邪魔されることなくまっすぐに収まった。
 この自由そのものというべき感覚、ガキのころ以来ひさしく忘れていたものだ。
 涙が出そうになった。

 風呂もすごい。
 信じられるか? 最近の風呂はボタンをひとつ押すだけで、浴槽にたっぷり湯を沸かすところまで全自動でやってくれるんだそうだ。
 温度調節だって自由自在だ!
 さすがに足を伸ばせる広さとまではいかないが、じゅうぶん過ぎる。

 ああ、そしてこのトイレだ。
 水洗! そうだ、これこそが文明、ナイルの恵みだ! 人類の叡智というやつだ!
 どう使うのかは知らないが、ウォシュレットまでついている!
 ビデってなんのことだ!

 これがすべて、おれのものだ。
 ここが、おれの世界だ。

 あとはそう、足りないものがあるとすれば――ときどき、ときどきでいい。おれのこの世界をたずねてきて、一緒の時間をしばし過ごしてくれる人だろうか。

「……はい、カギは確かにお渡ししたからね。それじゃあ、わからないことがあったらなんでも聞いて」

 だから、玄関先で別れようとした矢先、おれは即座に聞いた。

「はい! 西野さんの下のなまえは、西野ナニさんっていうんですか!」
「ええ……すごいグイグイ来るね少年。若いなあ……」

 苦笑いしつつも、彼女はこたえてくれた。

「カナタだよ。西野カナタ。これからよろしくね、ルカくん」

 そのいたずらな笑顔を見て、おれは確信した。
 これから夢のような生活が始まるのだと。

 おれは想像する。
 バルコニーからのどかに照らす朝日で目覚める新しい生活のはじまりを。
 そして隣で安らかに寝息を立てる、もうひとりの……

「それにしても変わってるよね、ルカくん。若いのに庭付きの一軒家だなんて。アパートやマンションなら、こんな不便な場所じゃなく、もっと都心の近くに借りられたんじゃない?」

 カナタさんの問いかけが、おれの妄想を早々に断ち切った。
 ええっと、と軽くよどみかけた言葉をグッと飲み込み、できる限りのかっこうをつけて、きっぱりと言い直す。

「……おれ、芸術家なんです」
「へええ。ゲージュツ! なおさら珍しいや。絵を描くの?」
「いや、彫刻です。木彫りの像や家具に使う装飾なんかを作ったり……それで作業する場所が、どうしても必要だったんです」
「ああ、そういうことか」

 カナタさんはトラックの荷台に残っていた、おれの相棒に目をつけたようだった。

「チェーンソーだよね、あれ。ずっと気になってたんだ。ずいぶん大きいね」
「ああ……もうだいぶ古い型ですけどね。おれ、実家でも木を切る仕事をしてたんです。そのときからずっと使ってたやつです」
「すごいじゃない! かっこいい。男の仕事ってカンジ?」
「……そんないいモンじゃないですよ」

 うかつな発言だった。
 脳裏にいやな思い出が蘇る。
 消えろ。首を振る。
 そうだ、おれはもう、あの野蛮な世界とは縁を断ち切ったんだ。

「とにかく! おれはもう芸術ひとすじでやってくって決めたんです。あ、でも、ちょっとした木の工作なんかもできますから、もしなにか必要なものがあったら言ってください!」
「そうだなあ……あ、もしかして、本棚なんかも作れる?」
「できます!」
「それはぜひお願いしたいな! 寝室にほしかったんだよねえ……じゃあ、こうしよう」

 カナタさんは、胸の前で小さくパンと手をたたいた。

「部屋を見てもらうついでに、今日はウチでご飯食べていきなよ。来たばっかりで、なんの準備もないでしょう? ごちそうするよ、ルカくん」

 そのときのおれは、どれだけ間抜けな面をさらしていたかわからない。
 一緒に夕食だって?
 今日出会ったばかりのおれを? 寝室に?
 これはもう、合意形成とみて間違いないのではないか?
 いや、落ち着け。よく考えろ。
 童貞特有の短絡的な思考回路を捨てろ。
 そのせいでおまえはどれだけ痛い目にあってきたのか忘れたのか。
 彼女にとっておれは、そこらへんの子犬ぐらいにしか見られていないだけだろう。
 だいたいカナタさんだってすでに男がいるかもしれない。
 どころか結婚している可能性だって……

「人とちゃんと話すのも久しぶりでねえ。このあたり、暮らしやすいのはいいんだけど、ちょっと寂しいんだよね」

 ああ、はい。はいはい。なるほど。
 寂しいですって。
 これはもう決まりですね。間違いない。
 しかし初対面の男といきなりなんて、いわゆる世間の道義的にはどうなのか?
 いやいや、そんな前時代的な価値観は犬にでも食わせてしまえ。
 おれは決してそういうだらしないというか、ふしだらな女性が嫌いとか、悪いとか言っているわけじゃない。
 むしろ大歓迎……

「……ん、ちょっと揺れてるね」

 最初に気がついたのはカナタさんだった。
 立ち止まってみるとたしかに、地面の底からスニーカーごしにかすかな振動が伝わってきた。
 地震にしては長いな、と思った。
 それどころか、時間がたつにつれますます強くなっていく揺れはあまりにも不自然で、間近に迫りくるなんらかの異常事態を予感させた。

「もしかして……ちょっとヤバイ? これ……」
「なにかにつかまった方がいいです! カナタさん……こっちへ!」

 手を伸ばしかけたときだった。
 コンクリートの道路に、大きなひび割れが走った。
 そいつが痛々しくかさぶたのように盛り上がると、まるで風にうねる海面のように、足元で大波がうごめいたのが見えた。
 そのあと急激に地面が傾いたかと思うと、この世のものとは思えない轟音とともに背後からやってきた衝撃に、おれたち二人は背中からふっ飛ばされ、固い道路にころがされた。

 しばらくのあいだ、おれたちは頭を守りつつ地にうずくまることしかできなかった。
 永遠に続くかと思われた地震がようやくおさまってから、おそるおそる立ち上がって衝撃の震源地たる背後を振り返る。

 おれはこのときの光景を一生忘れないだろう。
 ついさっきまでおれたちがいた、庭付き1LDKの新居は、もう、そこにはなかった。

「あ……ああ……そんな」

 カナタさんが膝から崩れ落ちるのが見えた。

「まさか、おい。嘘だろ。なあ、嘘だと言ってくれ……」

 おれも、うわごとのようにつぶやくしかできなかった。
 そこに存在していたのは――途方もなく巨大な、ただ一本の、樹だった。


 それは、かつて世界樹と呼ばれていた。
 いまは違う。
 おれたち人類は、そいつのことを、最大限の憎しみと侮蔑を込めてこう呼んでいる。


「破壊樹……!」


 始まりは、アフリカのどこだかで発見されたという、一本の樹だった。
 なんでも、前日まではたしかにツル植物やシダが生い茂る平凡な熱帯雨林だったはずのそこに、突如として、周りの木々を軽く足先で蹴飛ばすほどの巨大な広葉樹が生えていたのだという。

 一夜にして出現したとはとても信じられない、まさに世界を支えているといっても大げさではないその立派な――ご立派すぎる姿に、見るもの誰もかれもが恐れおののき、また同時にある種の感動を覚えざるを得なかった。
 砂嵐まみれのテレビにかじりついて空撮映像を見ていた、ガキのころのおれでさえそうだった。

 おりしも世間では地球温暖化だとか、オゾン層だなんだで環境破壊の深刻さが叫ばれていた頃だった。
 このままでは百年もたたないうちに人類は地球に住めなくなる、とかなんとか。
 その日たまたま社会科教師にそう脅されて暗い気分になっていたおれにとって、大自然の生命力に満ちあふれた神秘的なその存在――「世界樹」は、救世主にすら見えた。
 クソ親父にいたっては、これでウチもひと儲け狙えるだの、のんきなことまで言い始める始末だった。

 それが途方もない勘違いだと気づくまでに、そう時間はかからなかった。
 地球上のあちこちで、場所を選ばず、堰を切ったようにそいつらが現れ始めたのだ。
 環境破壊に立ち向かう救世主? 冗談じゃない。
 やつらこそ、破壊そのものだった。

 ジャングルの奥深くではなく、人が住む町に、地の底から何の前触れもなく巨大な木が生えてきたとしたら、いったいどんなことが起きるだろうか?
 想像に難くはないだろう。
 アメリカ西海岸に200メートル級のやつが出現したときには、たしか数万人単位で人が死んだ。
 被害が小さいものまで含めれば、そいつら世界樹あらため「破壊樹」による災害はここ十年で千件近くにのぼったはずだ。

 だがそれでもおれは、その新しい現実を、どこか自分とは関係のない別の世界での出来ごとだと思っていたのかもしれない。
 いままさに、おれ自身が被災者となり――おれの夢そのものが、見事にぶっ壊されるまでは。

「……くん。ルカくん! ちょっと、大丈夫?」

 目の前でひらひらと小さな手のひらがおどっていた。
 カナタさんの呼びかけを受けて、おれはようやく我にかえった。

「消防署には連絡したから。もう7、8分もしたら来てくれるって。それにしても……」

 おれたち二人はほとんど茫然自失といったかっこうで、その惨状をながめた。

「ひどい、災難だね……」

 それは世界的な規模からすれば比較して小さいものではあっただろうが、一人の人間が抱え込むにしては大きすぎた。
 おれの住むはずだった家が――94.8平米の区画が、そっくりそのままごつごつとした巨大な樹の幹と根に置き換えられてしまっていた。
 不幸中の幸いといっていいのだろうか。
 このあたりは道路が広いうえに空地も多いから、カナタさんの家を含め、他にまわりで甚大な被害は生じていないようだった。
 だがそれは逆に、なんでおれだけが、というぶつけようのないゆがんだ思いを強く抱かせる結果となった。

 怒りだった。
 最大限の怒りをこめて、おれはやつをにらみつけた。

「とりあえず今夜はウチに泊まってもらうとして、それからどうしようね……」

 さっきまでのおれだったら、その言葉を聞いたとたん、馬鹿な脳みそがまた妄想の小躍りを始めていたかもしれない。
 だが、このときに限ってはそれどころではなかった。
 あまりにも理不尽な仕打ちに、腹の底からふつふつと怒りがこみあげてきていたし、なにより、傍若無人に空に張りめぐらされた枝葉の上に、そいつを見とめてしまったからだ。

「いや、大丈夫です……お気遣いどうもっす。んじゃ、いったんおれは帰ります」
「へ? 帰るって……どこに?」
「決まってるでしょう」

 おれは頭上を指さした。
 つられて見上げたカナタさんも、そこで気づいたようだった。

「おれん()ですよ」

 それはある種の奇跡だったのだろう。
 あれだけの破壊活動があったにもかかわらず、繊細な力学が何重にも折り重なった結果か、おれの1LDK一戸建ては、その誇らしいシルエットをけなげにもそっくりそのまま保ったまま、はるか頭上――目測で地上およそ5、60メートルの枝の上に鎮座していた。

 カナタさんは樹上の一軒家とおれの顔とを交互に見て、口をぱくぱくさせた。
 たぶん、冗談でしょ? とか、マジ? とか言いたかったんだろう。
 だがおれのこの目を見て、声にする前にわかってくれたようだ。

 おれは「マジ」だ。
 マジにムカついている。
 本当に、人生でいちばんに腹が立っている。

 硬直するカナタさんを尻目に、横倒しに吹き飛ばされていたトラックから、おれの得物を回収した。
 マキタ製の旧式チェーンソーをはすに背負う。
 斧やナタ、ノミにノコギリといった工具は腰のベルトに。
 高所作業用の道具もいくつか、それにロープなんかもある。
 じゅうぶんだ。

「ちょ、ちょっとちょっと! 落ち着いてよ、ルカくん。どう見たってこんなの立ち入り禁止でしょう。ケガじゃ済まないよ。消防署の人も、もうすぐに来るだろうから、落ち着いて、ね?」
「おれの家ですよ。なんでおれが立ち入り禁止にならないといけないんですか。消防署だって、カナタさんにだって、そんな言う権利ないですよ」
「え? あれ? えっと、一応あたしの所有物件なんだけど……?」

 そうだ。これはおれの戦いだ。
 おれが生きることそのものが戦いだ。
 ましてや破壊することしかできないてめえら恥知らずの侵略的外来種どもなんぞに、おれの夢を奪われてなるものか。

 住んでやる。
 覚悟しろ。
 二度とこんなナメた真似ができないくらい、徹底的に住みつくしてやる。

「七時までにはもどります。カナタさん、今日の夕食なんですか?」
「え、カレー……の予定……」
「甘めにしといてください。おれ、辛すぎるのだめなんで」

 それからはもう振り返らなかった。
 背後からは、消防車とパトカーのサイレンに混じって、
「……これ、あたしまでなんか罪とか責任問われたりするんじゃないの……?」
というつぶやきも風に乗って聞こえてきたが、とにかく、振り返らなかった。

 おれは帰宅への一歩を踏み出した。
 そんなおれを、破壊樹はじっと居丈高に見下していた。

 やつの忌々しい木陰に立ち入ると、夏の強い日差しがすっとやわらぐのがわかった。
 その心地よい涼しさが、おれには、腹立たしくて腹立たしくてしょうがなかった。

 まずは帰ったら風呂だ。
 そう思った。



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最終更新:2020年08月23日 01:01