樹のおしまいを地に知らしめよ
——『工程・棗椰子』の運転状況は正常です。完了までにかかる時間は90秒を予定しています。終了の際は機器の接続を維持したまま——
合成音声が反響している背後では技術者達が忙しなく動き回っている。
広々とした空間の中で三種の制服を着た者達がひしめき合う。
白衣の技術者、黒い鎧に全身を包んだ兵士、そしてただ一人場違いに装飾的、非機能的な椅子に身体を預け、動き回る気配を見せない老年の男。
男は名をハロルド=ウォルティスと言った。
彼の下に若い技術者が訪れ、持っていた紙束を手渡す。
「我が王、先程新たに身柄を確保した男のブレイン・スクリーニングが完了いたしました!」
「大義だったな。ナニ、魔人能力は『推定有罪生命樹』、全力で殴った相手の家族構成が判明する能力……コレは戦闘を見ていてもわからないはずだ。打ち合った相手の殆どが拳の一撃で首から上を吹き飛ばされていたものな」
「処遇は如何致しましょう」
「兵士でいい。純粋な身体能力が高い」
新たな成果に満足げな顔をするハロルドであったが、部下は残念そうな顔をして先を読むように促した。
「僭越ながら王、能力欄のみの判断では性急かと。次の頁をご覧下さい」
「【当人にはインセスト・タブーへの並々ならぬ関心があり、姉、妹がいると判断した相手へと暴力を振るう際には嫉妬によりインパクトの瞬間、無意識に全身のリミッターを外している。ここまでの戦闘で頭部を著しく損傷した敵対者はその全員が姉或いは妹を持つことが判明済。条件を満たさない相手には非魔人の平均的成人男性と同等の威力で正拳を打ち込んでいたのだが、相手の耐久力の低さもあり、偶然一撃で決着がついた模様】
とてもではないが使えないな。退場した『追尾ソレノドン』の方が見所もあった」
「では引き続き技術班で解析を進めてもよろしいでしょうか?」
「ああ、存分に情報をかき集めてくれ。兵力が重要なのは言うまでもないが、私達は今情報を求めている」
若い男は礼をして白衣の群れへと戻って行った。
王は首を伸ばして彼が去っていく先を眺める。
並べられた鋼鉄の机の上にはモニタが所狭しと積み上げられ、多くの技術者が足を止める場所に何本も設置されているのは、人間一人を収めた巨大なシリンダー。
シリンダー側面に表示される計器は色鮮やかに光を放ち、蓋上部のスピーカーは驚くほど情緒的な合成音声を流している。
——『工程・無花果』の運転状況は正常です。完了までにかかる時間は300秒を予定しています。終了の際は機器の接続を維持したまま——
片方の眼窩と腹部にチューブを通されたシリンダー内部の人間は一様にのたくるが、胴も四肢も注意深く固定されており身体ばかりを大きくしたチャドクガの幼虫のようだ。
体の揺れに応じて身を刺すチューブで内臓と眼底を傷つけ、苦痛は募るばかりだと理解した者達は次第に動きを弱め、抵抗のポーズとして身を捩るだけになる。
——『工程・柘榴』の運転状況は正常です。完了までにかかる時間は510秒を予定しています。終了の際は機器の接続を維持したまま——
計器が一様に青く強い光を発し、シリンダー内に吊るされた人々が硬直する。
——全工程の完了を確認しました。容器洗浄のために実験有機体を排出します。続けて実験を行う場合には付属のコンソールからコマンドを入力して下さい——
母の如く優しい口調で合成音声が告げる。
責め苦を受けていた者達はボードに縛り付けられた後、技術班が用意したキャスターで他の部屋へと去った。
ハロルドの目は既に彼らを見ておらず、天井に据えられたモニタ、映し出される無数の映像群の一つを興味深げに眺めていた。
狼の人形を胸から覗かせた婦警が降り注ぐ星を避けながら星屑に埋もれた扉を探し出す。
そのような映像の何が彼を楽しませているのだろうか。
☆
『九九九,九九九が英雄を照らす』
ハロルド=ウォルティスの魔人能力である。
彼が触れた形而下の物、関わった形而上の事物に任意である一つの価値基準が植え付けられる。
その基準は「死亡者数」。
能力の対象となった物にまつわるあらゆる死の総計を普遍的な価値の量として定めてしまう。
価値の質は自由に付け替えることが可能。
例えば事故の多い車、争いの素になる金銭一般に対し「この車は素晴らしい」「金銭など存在するべきではない」などの印象を含ませられる。
様々な文化圏において、「世界を支える、世界そのものである樹」の伝承は事欠かない。
だからだろうか。
国も地域も文化も問わず、誰ともなしに、「それ」のことを、世界樹と呼ぶようになったのは。——初回B 天より伸びよさかしまの樹
全くその通り。
言及されたように、「世界樹」は時代も国も超えて普遍的な概念へと化していた。
しかし、それは実在する物では決して無かった
王国にて軍事クーデタを謀り、将軍から一国の王へと転身したハロルドの偉業。
彼は「自国に隠された世界樹の種を守るため」という大義名分を創出、他国との戦争に乗り出した。
初めは誰もが疑いを挟んでいた。
王の私兵が名目に従い殺戮を実行するまでは。
王は自らの異能を用いることで死者の数を世界樹実在への信憑性へと変換した。
やがて遠く離れた他国民までもが世界樹の実在を疑わなくなった。
そうして世界樹は芽生えた。
自らの認識を現実へと反映させる魔人能力に覚醒した者が無意識にでも作り上げたのだろう。
幾人の魔人が生んだのか、種は一粒では無かった。
木々は絡み合いながら生長し、時にはヤドリギのように樹上に根を張った。
その根が国土中を這い回り、破壊していく時にもハロルドは戦争を止めなかった。
民が根を駆除して欲しいと懇願しても聞かず、同様の事態を恐れた隣国からの伐採要請も断固無視した。
彼の王国では世界樹を支配した者には無限の富と永遠の命を授けられると言い伝えられていたのだ。
戦は気が付けば樹を防衛する王の勢力とそれ以外の全ての争いになっていた。
樹は要塞として優秀だった。
樹液や花や果実があれば、兵糧に困ることもない。
想像以上に長引いた戦は、ある時突如終幕を迎えた。
王率いる軍隊と国民が登って生活していた世界樹、敵味方の血を吸いさらに多くの幹が絡み合う世界樹は、倒壊した。
人為的な伐採、何者かによる工作ではなく、文字通り天を衝く高さまで成長した、そのアンバランスな形状ゆえに。
ハロルドと、彼に従っていた一部の人間は奇跡的に生存した。
しかし地に足をつけて暮らしていた全ての者、倒壊時に樹から振り落とされた全ての者は死に絶えた。
宇宙の高さから超重量の樹冠が大地へと突き刺さったのだ。
その威力は恐竜の時代を終わらせた隕石に等しい。
王もさすがにこの時には狼狽えた。
人類とその他多くの絶滅に王手をかけたのであるから当然である。
このポストアポカリプスで富や命を求めても何の意味も無いだろう。
しかし奇蹟が起きる。
一世界の生物のほぼ全てを殺戮した世界樹は、過去、未来、並行世界にまで通じる絶対普遍の信憑性を獲得したのだ。
それも、この倒れて上下が逆さまになったハロルド王の世界樹が他所の世界へ通じたのである。
『常識強制』に覚醒したカチュア=マノーですらも消し去ることのできない非常識的な大樹、その普遍性は世界一つを犠牲に築き上げられたものだった。
技術体系、言語、歴史の異なる様々な世界との接続を確認したハロルドは、再び戦争を開始する。
世界樹を支配することで無限の富と永遠の命を手に入れられるという伝承に誤りは無かった。富となる資源も、永遠の命を保障する技術も、全て奪い取ればよかった。
☆
異世界へ通じる枝ごとに、入場人数の制限を設ける。
科学、軍事技術の進歩していない世界から侵略を行う。
時には異世界人の間に不和を引き起こすことで中枢へ到達する人数を絞る。
始めの内は大人数が内部を通れないような細い枝以外を伐採したり、極めて強力な軍事技術を持つ国相手には時に軟弱な姿勢で接したりと苦労も絶えなかったが、様々な技術や知識、魔人能力の収集に勤しむうちに展望が生まれた。
人数制限は空間の遮断や魂魄センサーで行えるようになったし、並大抵の軍事国相手でも脅かされない戦闘力を従えることもできた。
驚いたのは、世界樹を傷つける手段を持つ世界が想像以上に少なかったということだ。
世界樹の種が育った基底世界では一般的に利用される金属を精錬して先を尖らせ、火薬等の推進力を付けただけでも小さな傷を付けて樹液を採取することは難しくなかった。
しかしどうやら他の世界の金属では硬度が頼りないらしく、幹を登るまでに食料が底を突くような事態も多くみられた。
探索のために乗り込む人々が空腹で死にかけることも多かったので、世界樹中枢、根の先端に至るまでにリタイアした者達に恭順を誓わせ、隠し通路の洞に居住区を設けたのはよい工夫だったと思う。
年々大きくなっていく世界樹はデッドスペースも増えるばかりだったので、十分な空間は用意することができた。
食料培養施設、金属や半導体等の加工場、エネルギー、水、電波等のインフラ整備、世界樹と王をシンボルとして崇める教育、教導施設、医療用施設、当初基底世界から移住した私と国民の少人数でも自分たちの分だけは賄えたが、人数が増えるとそれも難しい。
監視と指導は担当しつつ、住人達に任せてみた所思いの外上手く行き、居住環境は随分と向上した。
彼らは時に私が目を付けた探索者へ、物資や休憩所の手配を行い、巡礼を助ける。
そして「神の声」として私の命令ならば何でも聞き入れる。
侵略先から奪ってきた資源の一部を分け与えるだけでよく働く彼らは、まさに世界樹の作った富、果実だ。
しかし中枢にたどり着く力量もなければ居住にも向かない、賊のような輩も目に付くようになってきた。
彼らは剪定されなくてはいけない。
そのため開発されたのが『工程・棗椰子』。
人格や生い立ちを忘失させ、架空の内容を吹き込む鹵獲技術だ。
週に一度私の兵が世界樹内を巡回し、恭順の意志がない不逞の輩を捕えては機械へとぶち込んで探索者の戦闘力を推し量る捨て駒へと変えている。
この技術は改良することで中枢にたどり着いた者、有用と認められた探索者の意志を塗り替えるためにも転用される。
『工程・無花果』と『工程・柘榴』について。
『工程・無花果』は捕獲した者の属する世界に関する知識体系の吸出しを行い、『工程・柘榴』は世界樹内から出た途端死ぬ呪いと思考盗聴の術をかけるための技術だ。
ああ、カチュア。
君が来てくれたならば支配はより盤石になる。
君をシリンダーから出した後に、私は君を后として迎えよう。
恥ずかしながらこれまでは戦にかかりきりで女体について全く知らないんだ。
だけど君の身体は必ず私を満足させてくれることだと思う。
ああ、カチュア、カチュア…
そうだ、この老体ではコトの最中に脳貧血や心臓麻痺も起こしかねないね。
先程完成した念願の技術を、今から早速試すことにするよ………
——『工程・林檎』の運転を開始します。——
★
「なんでアタシがケーサツなんぞに追われなきゃいけないのさー……溜息も涙も止まらないわ! っはー…」
白と黒の柱が交互に並ぶ部屋で息を切らして怒りに駆られているのは、涙と鼻水と涎と汗と……顔から出せる汁を網羅している若い女だ。
「脚も腕もパンっパンに膨れ上がっちゃってるし。なんなんだよもう…」
彼女の目前には何処かへと続く扉が、彼女の背後には八面六臂の像が佇んでいる。
そう、ここは試練・女教皇の教導に他ならない。
しかし何故像はアルカイックな笑みをギラギラと発しながらも大人しく憩っているのか。
見れば女は腕が異様にパンプアップしている。
その太ましい腕でもって像を見事教導したと、つまりそういうことだろうか。
ビキビキと音を立てながら女は腕を素早く動かした。
それは像に止めを刺すための動作…
ではない。
ボールペンを握って何かをひたすらに書きなぐっている。
肩にかけた画版には二冊のノートが乗せられており、両手それぞれで持ったペンが独立した生き物のように紙上を暴れ回っている。
左手の動きが止まり、そちら側のノートが手元から転げ落ちた。
女の目はそれを追うが、右手は尚も動き続けている。
そのままおもむろに膝を曲げ、間のページを掴むようにして落としものを拾った。
ノートの表紙にはこのように記されている。
≪召喚術師オジーン、性具『世界樹』を求め行く 作:瑞野 靑乃≫
上半身を地面から垂直に保ちながらの器用な上下運動、その間にも右手はページを繰り、白紙を埋めていく。
「オイオイせっかく書き上げたんだから大事にしてくれないと困るよ」
男声が響いた。
その出所は女の唇。
見ればしっかり喉仏を持っている。
白のデニムに紺のパーカー、ワインレッドのスニーカー、中世的な服装だけで性別を見抜くことはできないが、黄緑色のネイルや桜色のリップで身を飾っていることから女性的な趣味であることは確実である。
彼は女装趣味の青年であった。
「はあ? どうせもう出版社に持ち込むこともできないのに拾っただけでも感謝してよね…」
前言を撤回、すぐさま同じ口で女の声が口論を始めようとしている。
彼は声帯模写に堪能な人格分裂者である。
「気を落とすなよ指名手配犯くん。俺達を追っている女警察官ってば頭は悪そうだが結構キュートだったぜ? こんな試練がまだまだ続くっていうのなら、さっさと棄権してランデブーにしけこむのも悪くない」
「何が楽しくて公権力の横暴にナンパで対抗するっていうの? 思想犯罪者として捕まったらなんか怖い感じのテロリストとかと一緒の房に入れられるかもしれないのよ!? アタシみたいなモヤシ作家じゃそんな奴らの欲望の捌け口にされるに違いないでしょ!」
「ゴリラみたいな腕してるくせに…」
「ゴリラみたいに毛深くは無いし! この腕は一時的に筋肉が張ってるだけで腕力が特別強いわけじゃないってば! 知ってるくせになんで無駄に喧嘩売ってくるの!!!」
「この世に生まれた喜びを噛み締めるために、母親と全力で会話をしたいだけさ。それと一応補足しておくと一度世界樹に立ち入ったならば無事に脱出することは基本的に不可能…つまりテロリストの慰み者にはならないから安心するといい」
「あ、確かにそんな話があったけどあれ本当だったんだ。ド忘れしたまま来ちゃったけどどうしよう」
「過ぎたことは諦めるしかないだろう?」
「それもそうね。でも婦警に捕まるのはカンベンだわ」
指名手配犯で一児の母とその子供を演じる声帯模写が達者なゴリラのような腕の女装趣味人格分裂者(職業作家)は一人納得して座り込んだ。
三度目の正直が通用するかどうかは別として、彼についての説明をしよう。
★
瑞野靑乃は苦悩していた。筆が進まない。
職業作家なんて、生半可なモチベーションと付け焼刃の技術でやっていけるわけがないことは理解していた。
それでも一作目は四苦八苦しつつ周囲の協力を得ることでなんとかなったのだ。
賞を貰い、印税が入り、ファンレターが届いた。
大手メディアでも取り上げられ、芸能人や配信者が推薦をしたことで、さらに多くの読者の目に付き、映像化も決定した。
産む苦しみを忘れて自分は天才だと思い上がり、編集者が次回作の話をしに来た時にもビッグマウスで応対した。
しかし今、プロット設計の段階から行き詰まっている。
突飛な世界像を生み出したは良いものの、そこに暮らす人々の生活感、思考様式をどうも上手く書ける気がしない。
そうして練り上げた複数の登場人物を書き分けられる気もしない。
机の上で受賞時に貰った盾と一緒に立てかけてある作家としての原点、ある意味では今書きたい物語の原典を靑乃は見つめた。
≪ブルーノの冒険≫、奇想天外な世界を逞しく生き抜き、さらに未知を求めて冒険する主人公ブルーノと、彼の周囲で引き起こされる笑いあり涙ありの大長編である。
奇矯な人となりでありながら、老若男女に好かれる魅力的な主人公、架空の出来事でありながらも色鮮やかに描かれる歴史と事件。
手を貸してもらったこともあったが、最終的には自力で書き上げたのだと自負する作品だ。しかし今同じものを作り上げる自信が微塵も湧かない。
魅力的な世界を、登場人物を物語として出力したいというその願望は、何を考えたのか神を微笑ませた。
瑞野靑乃はその日魔人となり、表向きにはミリオンセラーを連発する大作家の領域へと若干22歳にしながら足を踏み入れることになる。
主人公のキャラクターがどの作品も似通っているという批判を受けることもあるが、その執筆速度と次々に生み出される斬新な世界観、今までにないような新キャラクターを前にすれば、実力不足と貶めることは誰にもできなかった。
歯車に狂いが生じ始めたのは201作目の≪α・Zとミルキーレディー≫執筆後からだった。
挑戦的な作品という評価もあったが、不健全な作品であるという批判が多かった。
おかげで202作目の≪高層ビル『世界樹』を下れ! ポストマン・メルク≫は無難な作風に押し止めざるを得ず、不評とは言わないが売り上げは落ちる。
203作目≪一人暮らしゴダンは新居を世界樹から取り戻す≫はその結果を受けて本来の作風に戻すよう心掛けたので、ファンもぼちぼち戻ってきた。
問題の204作目≪オティヌスvsファントムルージュ≫、これは靑乃からすれば一度減った読者を取り戻すための一手、普段以上に意欲的な新作に過ぎない。
しかし読んだら体調が悪くなるという意味不明の悪評を立てられた上に出版社が政府から厳重な注意と警告を受け、自主回収、発禁の扱いとなり靑乃に対しても編集者からの叱責があった。
以降、これまでと変わった内容を書いた訳でも無いのに面白半分で「不謹慎」というような批判が増えた。
それをきっかけに政府関係者が公的な場で作品内容に口を出すこともあった。
作品は「娯楽作品の度を越えて露悪的である」と表現された。
好意的な読者は減り、他人の感想の聞きかじりを批判目的で歪曲、流布する者もこの頃にはかなり増える。
編集部内で新作の出版を止めるように訴える声もあった。
以前は意図的に無視されていた情報。
作家、瑞野靑乃が魔人であるという噂も広まった。
非魔人がこのスピードで新作を生み出すわけがない。
事実ではあるし否定はしないが、生活圏内で避けられる、嫌がらせを受けることが日常茶飯事となる。
寝不足、不注意、ストレス、自暴自棄。
どれが祟ったものか書き上げられた215作目≪革命戦士ベルヴェルク≫で主人公が批判、打倒した政府は現実の政府に通じる所が散見された。
当然編集部内で印刷は差し止められ政府へと通報、裁判所は当作品の発表を「国家擾乱の罪」に該当すると判断、瑞野靑乃を政治犯として指名手配し国府州警察に出動を命じる。
こうして靑乃は追われる身となった。
★
『十万億土の宣夜説』
「登場人物が勝手に動き出す」という創作に関する言い回しを実現させ、筆者を制動する自動書記。
或いは登場人物に主権を移譲し、作者は彼らの物語を享受することで作品に仕上げるという関係性の交換。
一度設定やプロットを大まかに作り筆さえ握れば物語は始動する。
これが瑞野靑乃へ絶頂と没落をもたらした力の正体だ。
物語が終わるまで中断する事無く書き進めなくてはいけないという制約はあったが、ペンを利き手以外の口や足で握る、音声認識を用いた口述筆記を行う、というような対策でも満たされるのでこれまでの活動に支障はない。
指名手配されたあの日、靑乃は既に次回作≪召喚術師オジーン、性具『世界樹』を求め行く≫の執筆に取り掛かっていた。
しかし家の外に集まる警察車両を眺めて不意に自らの失態を悟り、
「自分を主人公にした現実体験をいつか原稿にして持ち込もうか」
と娑婆での暮らしを諦めていた。
しかし、普段使っていたボールペンに暫く触れなくなると思うと寂しくなってつい手に取っていた。
そうして気が付けば肩から提げた画版の上で≪オジーン≫ではない小説を並行して描き進めていたのだ
いつの間にか警察車両はどこかに消えて、立っているのは自宅からずっと遠い場所という有様。
頭の中に「そのまま正面方向へまっすぐ走れ」と響く声に従うと、世界樹の真下へと出た。
背後に一人やたらと食い下がる婦警がいたが、枝の中に駆け込むとその足音もずっと遠くに離れたようだった。
「無事でよかった。銃持ち出された時にはヒヤヒヤしたぜ」
意識を取り戻した時に聞こえた声だ。
なんと、靑乃自身の口が勝手に動いている。
「ごきげんよう、マイマザー。この呼び方違和感があるからアオノって呼んでいい?」
「いやアンタ誰よ」
「息子の名前を忘れるなよビッチ! や、うん、そうだな、腹痛めて俺を生んだお袋はオマエと別にいる。それでもオマエが俺を生んだことには変わりないんだぜ?」
「…まさかブルーノ?」
「イエス! 覚えていてくれて安心したよ」
靑乃にとってのブルーノは既に完成された主人公の姿でもあった。
作品ごとに主人公を変えてはいたが、常にブルーノを意識して書いてしまう自分がいた。
しかし自分がブルーノになりたいと靑乃が思ったことは一度もない。
今更ながら注記するが瑞野靑乃は歴とした女性である。
現在は、肉体の主導権とともに肉体もお互いのものに変異する。
「アオノの右手が今書いてるのは新作≪瑞野靑乃の冒険 作:ブルーノ≫だ。残念ながら俺の処女作は左手のお下劣作品に捧げた訳だがな」
ブルーノが靑乃に説明する。
彼女がブルーノと化したのは、彼女の能力が書かれる対象とは別に作者を必要としていたからだということ、作者役として白羽の矢が立ったのがブルーノだということ、このブルーノは1作目のブルーノ本人ではなくて、靑乃が作ってきた主人公を統合した存在だということ…
彼は靑乃の全作品の主人公の記憶を有しており、その知識は警察の追跡を振りまき、トラップ部屋を見事切り抜けるには十分だった。
そして辿り着いたのが現在地、女教皇の教導。
彼は光線の法則を間一髪で見抜き回避。すかさずその場で土下座。
作家・瑞野靑乃と主人公・ブルーノは確信していた。
八面六臂の像は≪覚醒者ハーヴィ≫に登場した武装僧林の防衛シンボルだ。
寺に出入りする僧兵は五体投地の姿勢で身体検査を受ける慣習があり、それを見守り不測の事態に対処する番人として祀られていたのがこの像に他ならない。
「あの光線は≪次元戦争フロプト≫のやつだな」
「掌の模様に気付かなかったら危なかったわ」
靑乃・ブルーノは、右手が像の外見を記す文字列の中に違和感を受け、自らの記述より優先して像の行動を書き終えることでその正体に思い至った。
異世界に対する知識、限定的、疑似的な予知能力、『十万億土の宣夜説』はこの局面で単なる自動書記を超えた新たな特性に芽生え始めている。
しかし両手で継続して長時間の執筆を続ける初めての体験に靑乃の両腕が悲鳴を上げ始めてもいた。
土下座姿勢での執筆が致命的だったのだろう、腱がおかしなことになっている。
地べたに尻をつけたまま赤く腫れあがった筋を揉み解すが、現在進行形で酷使されているので焼石に水のはず、であった。
「この右手どうにかできないかなブルーノ。スマホは部屋に置いてきたから口述筆記もできないし…って急に止まった!!? なんで??」
「丁度思いついた仮説があるから試してみた。主人公には創意工夫が試されるもんだからな」
「完結するまで止まらないはずなんだけどね。どうやったの?」
「アオノ、今はオマエも主人公だ。それにふさわしく自分で考えてみるってのも大切じゃないか?」
「…分かった、自分の力のことでもあるし、自分で考える」
「それでこそだぜマイマザー!」
休憩、体力の回復は先へ進むという決意のためにも必須だった。
そして親子の語らいも。
「アオノ、オマエがまた主人公から作家に戻った時に書いてもらいたい話を思いついた。世界樹が存在しない世界だ」
「ええ!? そんなの不可能だよ」
「俺の処女作と《ポストマン・メルク》は惜しいこといってた。少なくとも植物じゃなかったしな」
「そっか。確かにそんなもの書けたらワクワクするね」
「俺だって下ネタギャグの一発屋で終わるつもりはない。一枚噛ませてもらう」
「じゃ、生き残らないと」
「ああ、そうしよう」
二人は立ち上がり、扉へと進む。
両先生の次回作にご期待ください。
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最終更新:2020年08月02日 20:43