第一回戦第一試合 裸繰埜闇裂練道
採用する幕間SS
なし
試合内容
裸繰埜闇裂練道は波止場の係船柱に腰掛けたまま、二本目の煙草に火を付けた。
ゆっくりと吐き出された紫煙が、明滅する街灯に照らされゆるやかに立ち昇って行く。
視線の先には墨を流したが如き黒々とした水面が、
幾つかの廃船と共に音も無くうねりを繰り返していた。
暗澹たる雰囲気を湛えた海の寄せては返す様は、何か巨大な怪物の蠕動を思わせる。
敗者戦第一試合の開始から既に十分が経とうとしていた。
このマップへ転送されから、練道は殆ど移動せず煙を吸っている。
索敵する意思が無いからだ。
対戦相手の名は医死仮面……パンフレットの情報が確かなら医師にして暗殺者。
そして『仮面武闘會』の一員。
気配を消して闇に乗じ、虚を突く技術に長けた暗殺者を探し回るより、
待ちに徹して誘い込む方が面倒は少ないと考えていた。
故に練道は見通しの良い波止場で隙を晒している訳である。
問題は何時まで経っても相手が仕掛けて来ない場合だが、
練道に迷いは無かった。敵は既に己を捕捉している。
港に漂う、ほんの僅かな薄く粘っこい空気……これは、殺気だ。
幾千幾万の修羅場を潜って来た練道がそれを読み違える事は有り得ない。
極限まで薄められた殺気と、それに気付いてもなお居場所を悟らせぬ隠密技術が、
敵の確かな実力を練道に伝えていた。
二指で挟んだ煙草の灰を、親指で弾いて落とした、その瞬間。
微かな風切り音に反応し上体を反らした練道の鼻先を、
極細の針が凄まじい速度で掠めた。指から煙草が零れ落ちる。
並の使い手ならば為す術も無く瞬殺されているであろう刹那、
練道は針の飛んできた方向とは逆に首を捻っていた。聞こえた音は1つでは無かったのだ。
そして正しく練道の視覚は、己に向かって飛び来る白い網を捉えていた。
反らした体を更に後方へ倒し、バック転の要領で網を交わしたその先には、
既に三本の針が投げ放たれている。
練道が事も無げにそれを掴み取ったと同時に、先程の煙草が地に触れていた。
「暗殺者にしては随分真っ当な奇襲だな」
練道は相対する医死仮面に向けて言った。
中世ヨーロッパの医師を思わせる鳥の頭を模した仮面と、ゆったりしたローブにマント。
事前の情報通りの恰好である。
「今のはどういうからくりだ?」
「それを話すと思うのか?」
合成音声のような甲高い声だった。
同時に間合いを詰める医死仮面。右手にはメスが握られている。
「ふん」
練道も同じく足を踏み出した。接近戦なら望む所である。
緩やかで隙の無い歩法からメスによる鋭い突きが繰り出された。
左手を添えながら最小限の体捌きでそれをかわし、引き込みながら右の裏拳を放つ。
顔面に迫る右拳を左手で受け止め、同時に引き込まれる勢いを利用し、
練道の脇腹めがけ左膝を突き出した。
これを右膝で受け止めた練道は、医死仮面の右手を掴んだままの左手を素早く捻った。
「!?」
医死仮面の体が宙を舞う。片足で踏ん張りが効かなくなった隙を狙い、
合気の応用技で医死仮面を投げ飛ばしたのだ。
空中で反転する医死仮面に掴まれていた右手を強引に引き抜き、
その頭が地面に触れる直前を狙って突きを繰り出さんとする練道。
「シィッ!」
その右手は回転する勢いを利用した医死仮面の蹴りを防がねばならなかった。
医死仮面は左手一本で受け身を取りつつ、己の右手を掴んでいる練道の手首に足刀を見舞う。
反動で体を捻りながら後転した医死仮面のマントを、
練道のかち上げるような背足蹴りが切り裂いた。
「(好機!)」
反転しつつ立ち上がった医死仮面はそのまま勢いを殺さず、
足を振り上げている筈の練道目がけてメスを薙ぐ。しかし――
練道は既に地に足をつけて踏み込み、左拳を脇腹に打ち込まんと構えていた。
「(迅――!)」
「シッ!」
鋭く吐き出された呼気と共に拳が医死仮面の体にめり込む。
呻き声と共に医死仮面が三メートル程横滑りし、
その衣装の中から注射器や縫合糸、鉗子といった手術道具が零れ落ちた。
「トランクでも仕込んでいたか?」
「……」
医死仮面は答えず、裂けたマントを翻すと迷いの無い動きで走り、廃船に飛び乗った。
仮面の鼻を一瞬練道に向けてから、医死仮面は船体へ身を隠した。
「誘いか」
すぐに後を追わなかったのは、己の左足に刺さった針の存在に気付いていたからだ。
足の甲に突き立ったそれを引き抜くと、練道は凶暴な笑みを浮かべた。
針の刺さった位置は経穴から数ミリ程ずれいているだけだ。
もし医死仮面の狙い通りの位置ならば、練道の左足はその機能を失っていただろう。
あの攻防の最中に針を飛ばす余力を残していた事。
完全に入ると確信した打撃のポイントをずらしてダメージを軽減した事。
いずれも試合前に見たDVDの映像から予測していた実力を上回る芸当である。
「やるじゃないか」
足元に転がった注射器を拾い上げて、練道は呟いた。
「だが面倒は御免だな」
■ ■ ■ ■
廃船の一室で、医死仮面は体の状態をチェックしていた。
打撃を受けた脇腹はスーツケースが盾となった事もあり、打撲程度で済んでいた。
奇襲に使用したアスクレピオスの杖は既に回収済みである。
医死仮面は杖を固定して発射装置に糸を巻き付け、敵に気付かれぬよう適当な突起等を選んで
引っ掛けつつ反対側に回り込み、タイミングを見計らって糸を引き毒針を射出したのだ。
「(……兼石次郎、か)」
裏社会の住人ならば知らぬ者は居ないと言える程のビッグネームである。
毒針と投網の同時攻撃を難なく回避したあの反応。
実際に手を合わせてみて、医死仮面は聞き及んでいた伝説の数々が虚構でない事を確信した。
技のキレ、鋭さ、重さ、判断力……どれを取っても自分と同じか、
あるいは上回っているだろう。
「(しかも奴は恐らく、まだ本気を出していない)」
超一流の医者としての、そして暗殺者としての勘であった。
医死仮面はそれでもよい、と胸中で思う。
「(本気を出さないつもりなら、出さないまま死んで貰うだけだ)」
彼は暗殺者であって武道家では無い。どんな手段を使おうと、どんな経緯を辿ろうと、
最後に殺せばそれで良い。
既に仕込みは完了している。後は詰めを誤らぬよう事を運ぶだけだ。
医療器具の幾つかは失ったが、行動に支障は無い。
医死仮面はすっくと立ち上がった。同時に感じる、微かな振動。
本当に猪突猛進の男だ。
仮面の下の口角を僅かに上げ、医死仮面は音も無く船室を後にした。
■ ■ ■ ■
「(体が重いな)」
船に飛び移った練道は、己の身体に違和感を感じていた。
その原因が先程受けた針にある事は明白である。
恐らく麻痺毒かそれに近い薬物が塗られていたのだ。
「(だが問題は無い)」
一つ息を吐いて、練道はゆっくりと歩を進める。
船首から操舵室を横目に左舷デッキへ……その細長い通路に、医死仮面は立っていた。
先程の交戦時には持っていなかった、蛇が巻き付いた意匠の杖を手にしている。
持ち手には不気味な髑髏が嵌め込まれていた。
練道は一瞬の躊躇いも無く踏み込んだ。狙うは早期決着である。
一度の戦闘で、練道は医死仮面の実力をほぼ見切っていた。
その上で格闘戦に置いて遅れを取る事は無いと判断し、
医死仮面もおおよそ同じ様な認識を抱いていた。
牽制として突き出したメスを身を沈めてかわし、踏み込みながらの追い突き……崩拳。
全ては計画通りであった。拳が当たる直前に後方へ跳び、ダメージを吸収した事も。
同時に左手に握られた縫合糸を引き、罠を作動させた事も。
「!!」
完全な死角から放たれた投網に対し、咄嗟に手刀を返した反応は見事。
二人の居る通路は狭く、前方には医死仮面。この状況下では網自体を掃うしかない。
練道の膂力ならば、投網程度を切断する事は造作も無い。
だがその行動も計算の内である。
手刀で切断された糸はたった四、五本のみであった。
端に鈎針が仕掛けられた投網は練道の全身に絡みつく。
「糸かッ!」
「御明察」
もがく練道に医死仮面が迫る。網目に手をかけ満身の力を込めても破れない。
練道は脱出を諦め、医死仮面の攻撃に備えた。体の動きは制限されるが、まだ闘える。
そんな練道の考えを見透かした様に、医死仮面は杖を突き出した。髑髏が嗤っている。
その眼窩から白いガスが噴射され、練道の顔を覆った。
「ぐっ、ぬうッ!」
身を捩り煙を振り払おうとする練道。しかし空しい努力も束の間、
次の瞬間100キロを超える巨体が宙に浮いていた。横腹に激痛。
ガスを目隠しに側面へ回った医死仮面の中段足刀をまともに喰らったのだ。
網に絡まったままの練道は船室内へ吹っ飛ばされた。
医死仮面は素早くガスを噴出し続ける杖を部屋の中に投げ込み、水密扉を閉め、
更に扉の取っ手を糸で完全に固定した。
「これにて詰みだ」
医死仮面の甲高い合成音声が、闇の中に響いた。
練道は全く医死仮面の計算通りに動いていた。彼は事前に縫合糸で網を作り、
その上から漁船内に捨て置かれていた投網を被せたのだ。
張力一トンを超える縫合糸は並大抵の事では切れない。
不利と解っている接近戦を挑んだのも、闘いの中で麻酔針を打ち込んだのも、
程々の所で退散したのも全て計画の内である。
医死仮面は予め練道の性格を分析し、その上で弱点を見抜いていた。
己の強さに対する絶対的な自信、それ故の愚直さを。
そして医死仮面の予想通り、練道は罠に嵌まった。
それはあたかも、一回戦をなぞるかの様に……。
■ ■ ■ ■
10分後……
船室の屋根に登り聴診器を押し当てていた医死仮面は、ひらりと飛び降りた。
室内の音を聴いていたのは、網から脱出した練道が壁や床を破壊して
脱出していないかどうかを探る為である。内視鏡(監視カメラ)による映像は、
一切の光源が無い室内では用を成さない。
麻酔ガスをまともに浴びてそれだけの力が発揮出来るとは考えにくいが、相手は魔人。
それも兼石次郎である。用心に越した事は無い。
が、部屋を封鎖して二分も経った頃には、何の物音もしなくなった。
医死仮面は糸を外し、水密扉のバルブを回して扉を開けた。
室内から真っ白なガスが靄の様に漂い出た。
医死仮面は躊躇う事無く部屋に侵入する。仮面は防毒マスクの役割も果たすのだ。
医死仮面は部屋の中央で立て膝をついて顔を伏せる練道を発見した。
その様子を注意深く見つめていると、練道の頭がゆっくりと持ち上がった。
その眼差しははっきりと医死仮面の姿を捉えている。
「呆れた男だ。まだ意識があるか」
医死仮面は懐から鍼を取り出して言った。確かに驚嘆すべき精神力、肉体強度だ。
だがいずれ結果は同じ。鍼で経穴を穿てば、人間である以上死は免れぬ。
止めを刺さんと振り被った医死仮面は、しかしその動作を止めた。
練道が右手を突き出していた。その手に何か握っている。医死仮面は目を凝らした。
医者にとってはあまりに見覚えのある形状……それは、注射器だった。
「それは……」
「そうだ……お前の注射器だ。あの時、一つ拾わせて貰った」
医死仮面が正拳を受けた際に落ちた、あの注射器だ。
暗殺者は不審気に問う。
「それがどうした?それを注射した所で形勢は変わらない。そもそも注射の隙を、
この私が見逃すと思うのか?それが毒物では無いという確信はあるのか?」
「いいや」
練道は答える。医死仮面の心が僅かに揺れた。
その眼の色は、あまりにも迷いが無かった。
「だがこの中身が覚醒剤である可能性も、それに近い薬物である可能性も零ではない。
お前の攻勢をかい潜って注射出来る可能性もな。このまま死ぬよりは余程良い」
「………」
ぐい、と左拳を突き出す練道。逆手に持った注射器を構える。
「さあ、お前はどうする?伸るか反るか、好きな方を選べ」
練道がそう言い終わる前に、医死仮面は行動を起こしていた。
急所目がけて四本の鍼を一気に飛ばす。
それを両腕でガードする練道。
「(まだ余力があるか!)」
医死仮面は一切の逡巡を捨て跳躍した。
両腕は辛うじて動く様だが、体はそうは行くまい。
ならば至近距離からのメスによる投擲で腕ごと首を切断する迄。
一回戦で見せた金縛りの様な術――能力か技術かの判断はつかないが――で麻痺させ、
その注射器を刺そうとしたとしても問題は無い。私はその射程距離圏外から攻撃出来る!
医死仮面は三メートルの距離からメスを振り被った。練道と視線が交錯する。
その表情は決意か、諦観か、絶望か――否。
練道は、静かに嗤っていた。
――――『永劫』。
硬直する医死仮面。明瞭な意識の中、彼は勝利を確信した。
当たり前の様に立ち上がった練道の右正拳が、己の胸骨を砕くまでは―――。
■ ■ ■ ■
「何故だ」
扉を打ち破り、鉄製の手すりに叩きつけられた医死仮面が問う。
ゆっくりと船室から姿を現した練道には無論、その問いの意味は理解していた。
固く握られた左拳を突き出し、緩やかに開いていく。
零れ落ちたのは、四枚の赤い固まり。
「……爪、を」
「そうだ」
麻酔ガスに対抗するため、網から脱出した練道は自分の爪を剥がし、
激痛による覚醒を促した。親指を残したのは医死仮面にそれを悟らせない為である。
無論それだけでは無く、ガスを吸わない為に呼吸は最小限に保ち、
極力体を動かさぬ様努めた。
壁を破壊しての脱出も考慮したが、それに対し医死仮面が何の用意もしていないとは考え難かった。
医死仮面は手すりに掴まりながらよろよろと立ち上がる。
「いつから……ゴホッ!……いつからこんな事を考えていた?」
「お前にあの部屋へ蹴り入れられてからだ」
「では……あの注射器は何だ」
「何かの役に立つかも知れんと拾って置いた。それだけだ」
「……あれが麻酔ガスではなく毒ガスならどうするつもりだった?」
「その時は壁でも床でも破って脱出するまでだ。動きが阻害されなければどうとでもなる」
「フ……フフフフ……」
医死仮面は身を屈めて笑った。途中で激しく咳き込み、顎先から鮮血が滴り落ちる。
咳音を混ぜながらも、医死仮面は話しを続けた。
「まさかあの兼石次郎が……こんな回りくどい戦法を取るとはな。当てが外れた」
「お前も自分の半分も生きていない小娘に負けてみろ。価値観の一つも変わるぞ」
「………」
「そもそも俺は大会の趣旨を理解していなかった。死んでも生き返るというのなら、
これはもう生死を賭けた殺し合いではなく、遊戯の範疇だ。
遊戯ならばまず楽しむ事が本筋。だからあの小娘の手口を真似た。
中々の趣向だっただろう」
「クク……」
医死仮面はその問いには答えなかった。
「……私の動きを止めた技……何故あれを最初に使わなかった」
「ああ……お前の能力が解らなかったからだ。一回戦の映像を見ただけでは、
あの急激に身体機能が向上する技が能力なのか技術なのか、判別が付かなかったのでな。
奥の手は残しておきたかった。それはお前も同じだろう?」
「……何もかもお見通しと言うわけか」
互いが互いの能力を警戒する余り、知らず勝機を逃していたという事だ。
医死仮面は再び皮肉に笑った。練道も冷ややかに笑う。
「最後の質問だ。何故止めを刺さない?」
「はッ!お前がそれを言うか!」
練道が口角を捻じ曲げた。
「何の為にお前の長いお喋りに付き合ってやったと思ってる?回復は済んだか?
さあ、見せてみろ……奥の手を」
「……全く、呆れた男だ」
医死仮面が呟く。直後、その体が大きく隆起した。
『ワンミニット・エクスタシー』……内気功、ドーピング、そして脳内麻薬。
その三つが齎す物は、劇的な身体能力の強化である。
筋肉は肥大し、感覚が研ぎ澄まされる。
その強化された聴覚が確かに捉えた、独り言の様な練道の一言。
「阿呆」
瞬間、医死仮面の動きは停止した。
兼石が待っていたのは、己の回復などでは無く……。
考えられたのはそこまでだった。練道の右上段回し蹴りが、
意識ごと医死仮面の首を刈り取った。
■ ■ ■ ■
「ぐ、ッはぁ!」
それは凡そ考えられぬ出来事であった。練道の左脇腹に、医死仮面の右拳が埋まっている。
右上段は確実に医死仮面の頸椎を叩き折った。
真横に九〇度以上の角度で曲がった首を見てもそれは明らかだ。
そんな状態にも拘らず、医死仮面は強烈な反撃を仕掛けて来たのである。
「ゲホッ、ぐッ、ガブッ……」
口からどす黒い血が溢れ出た。折れた肋骨が内臓に刺さったか。
医死仮面を見ると、己の髪の毛を掴み、
不自然な角度に曲がった首を強引に戻していていた。ベキボキと鈍い音が響く。
「少々、甘く見ていたか」
右上段による一撃を耐え、更に間を置かず反撃を行うなど全く想像の埒外だった。
仮面の端から止め処なく血を流しつつ、医死仮面がメスを構える。
「シィイイイイアアアッ!!」
鋭い呼吸音と共に、雷光の如きスピードで医死仮面が迫る。
先程までとは比べ物にならないスピードだ。
「呼ォオオオオ!!」
練道も気合いを入れ、構えた。メスによる突きが五月雨の様に降り注ぐ。
烏兎、人中、天突、水月。釣鐘、関元、伏兎、甲利。
その全てが正確に急所を狙っていた。更に四肢による攻撃も交えている。
練道は完全に防戦一方となっていた。
かろうじて急所は外しているものの、練道の身体は瞬く間に血に染まって行った。
「く、お、おおおおお!」
隙とすら呼べぬ攻撃の間断を突き、練道の右拳が繰り出され――あっさりと掴まれた。
極限まで研ぎ澄まされた医死仮面の感覚は、
練道の突きですらスローモーションに映っていた。
そこへ振り下ろされたメスを左手で抑えるが、恐るべき膂力でじりじりと押し返される。
狙いは頸動脈だ。練道は上体を反らし後退するが、すぐに壁にぶつかった。
「ぬぅッ!」
咄嗟に右足を振り上げ、医死仮面の左足甲を踏み砕く。だが力は些かも緩まない。
刃先が動脈に食い込む。体はこれ以上反らせない。追い詰められた練道が取った行動は。
「おォおおッらアアアアぁアあ!!」
前に出る事であった。頭突きである。
そして必然、頸動脈は切り裂かれて水鉄砲の様に鮮血が噴き出た。
予期せぬ攻撃に虚を突かれた医死仮面はまともに喰らったものの、
仮面越しでは大したダメージは無い。練道の狙いは別にあった。
「グゥッ!」
頭突きを喰らい仰け反った医死仮面が前を向いた時点で、練道の攻撃は完了していた。
即ち、自身の血液による目潰しである。
医死仮面が被っている仮面は中世の医師が実際に身に付けていた物を模している。
故に感染症などを防ぐ為に密閉性が高く、それ自体が防毒マスクの働きもする。
つまり通常の仮面の様に目の部分に穴が空いている訳では無く、
代わりに強化ガラスが嵌め込まれている。一度血などが付着すれば簡単には落ちない。
遂に生じた決定的な隙を、練道が見逃す筈も無かった。
「轟ォオオオオオッ!!」
医死仮面の左肩口へ一本拳の一閃。その激痛は足を砕かれる痛みすら比較にならない。
練道の右腕が自由となった。一瞬風切り音を立てて息を吸い込んだ練道は、
噴き出す血など構い無しに猛烈な連撃を医死仮面に叩きこむ。叩きこむ。叩きこむ!
「ごっ、ぐ、は、あ、ああああああ!!」
それは暗殺者としての執念だろうか。
最早骨という骨が砕けていると言える体で、
医死仮面は形振り構わず練道に掴みかかった。
「ッだッらァ!!」
それを退かず、逆に踏み込み、甲板を踏み抜く震脚と共に繰り出された頂肘が、
医死仮面の水月を貫いた。
人形の如く吹き飛ばされた医死仮面は、鉄柵を突き破り、海へと落下し、そして――
轟音と共に、高々と水柱が噴き上がった。
「ハァッ、ハァッ、ぐッ、あの、野郎……最後の最後で、俺を、道連れに……ゲホッ!」
首を抑えながらその場に座り込む練道。
そして水柱が収まった頃、例のアナウンスが脳内に流れた。
『医死仮面選手の死亡が確認されました。敗者戦第一回戦第一試合は兼石次郎選手の勝利となります。
なお、転送ゲートが開くまで今暫く待機して頂きます様、お願いを申し上げます』
しかしその声は最早殆ど聞こえていなかった。出血による意識障害が起こり始めていた。
「ハァッ、医死、仮面……覚えておくぞ、……その名前……ぐッ……」
壁に預けた上体がズルズルと横倒しになり、遂に練道は倒れ伏した。
最後に見上げた星空が、地上の争いなどとは無関係に美しく輝いていた。
最終更新:2011年10月28日 10:37