【月喰みと、膨れ上がった人魚のために】

 夜が音だというのなら、きっとそんな悲鳴がするに決まっていた。
 願いは、静寂に掻き消される。
 夜は、闇。黒の帳はあまりにも深く重くて分厚くて――。

 切り裂くには音の速さでは足りない。 
 ざりざりざりざり。完全に光を絶たれた中では、にじり寄るなにかを目にすることさえできなかった。
 もしかしたらそれは幸いなことなのかもしれないけれど。

  里見晶 は、生ぬるい液体を認識する。それがさっきまでおのれの身体の一部であったことに気づく。
 涙腺がもっとゆるみそうになって。それを拭う。 
 もうアイツに、なにもくれてやるもんかってそう思った。

 助けてと叫ぼうとしてやっぱりやめた。
 応える声はもちろんしない。反響音、残響音、それだってしない。
 空を切り、手繰る感触はひどく虚しかった。それ以上に再びあれに触れたくはなかった。
 足下を叩くその音だけは慣れ親しんだ木造の床であることに気づいている。踏み抜いてやろうとしたら、生暖かく気色の悪い感触に跳ね返された。

 あれは肉だ。
 里見晶は肉に包囲されているのだ。包囲はじわじわと狭められ、絞め殺そうとしているのか。
 ぴたりと手を体に沿わせて精一杯体を小さくする。息をこらすことしか出来なくて、情けなかった。
 喉を潤す水をどれだけ希っただろう。噎せ返るような血の匂いのせいで鼻はもう馬鹿になっている。

 あれから何日が経ったんだろ?
 臨海学校の下見と洒落込んだ家出は第一日目で無惨な挫折を遂げたことになる。
 幸い、食べ物に不自由することは無いのだろう。この中途半端に頑丈な体と、それなりに健全な精神はそれをがっつかせなかったけど。

 なにをバカなことをしたんだとあの時の自分を叱ってやりたい。
 生臭い。一口噛んで催した吐き気。袴を汚すことすら構わずぶち撒ける。
 好奇心から口に容れた肉の欠片の、筋を噛む感触をおぼえている。結局、あの時の味を里見晶は終生味わうことは無かった。   

 「おじい……」
 心には思っても、せめて言うまいとしていた言葉がこぼれる。
 里見無人流剣術継承者「 里見権蔵 」の孫娘、里見晶。
 「鬼よ里見よ、月夜に遊ぶ。命惜しけりゃ歩くな見るな、さもなきゃ頭(こうべ)も落ちる」とわらべに唄われたのも今は昔、その末裔の末裔を見た首どもは嘲るのだろうか。
 けれど、大河は狭まったところで血のごとき水は涸れたわけではありえぬ。より一層、激流のごとき勢いを得て、見よ!

 鋼が黒を割いた。途端、差し込む月の光さえ眩しく見えて晶はぎゅっと目をつむる。
 けれど、厚みを帯びたその曲線は瞼一枚の距離を透かし、月光を集め、彼女の虹彩に届けるような配慮の無さに満ち満ちていた。
 紙一枚ほどの距離を置いて、ピタリと止まる。

 続いて、鞘に納める音。聞き覚えのある声。清潔感の無い着流しの男。
 「や、晶ちゃん。よく眠れたかいな?」
 「衛星小父さん……?」
 体のバネだけを使って飛び起きる。足下がぐちゅりと音を立てる。剥き出しの肉は、精肉店でよく見るそれとは勝手が全く違う。
 膿の吹き出しそうな色と爛れ、一刻も早く離れようと飛びのいた。懐かしい砂浜に足を取られそうになりたたらを踏む。

 「助けていただいてありがとうございましたっ! ボク、何日くらいいなくなってました?」

 里見の人間に冗談は通じぬ。存在自体が冗談のようなものだから。真面目一徹の晶も他聞に漏れぬといったところだろうか。
 権蔵の爺などは 酔狂だけで生きているようなものである。
 この、里見の者なども方言で親しみを演出しているが、二重の意味で怪しいものである。衛星と呼ばれた男は興味なさげに核心について触れる。

 「そーかい。あー、『 裸繰埜 』だよ」
 「らくりの……?」
 「(おっと、こりゃあいけねぇいけねぇ。爺さんも過保護で困るや。ったく、これだから最近の箱入りはやんなっちゃうねぇ。)
 すまんすまん、忘れてや。少なくともジサマにはオフレコで頼むにゃ」
 ごま塩の頭をボリボリと掻きながら、男はぶつぶつと呟きながら言葉をつなげる。

 「まー、ここいら一帯は死んどるかーの。あとはジサマと合流してぃ――か?」
 男の胸が貫かれていた。それは新鮮に脈打つ心臓を掴み取っていた。それは、肉腫に覆われた、腕のようなものだった。
 現実感のない光景に心は遊離しても身体は現実を欲したのか、辿っていくと暗闇から伸びていた。
 衛星の瞳がその運動を許す限りと動き回り、晶を見るとぐるりと明後日に向かい、遥か上空へと跳ねあがる。 
 「ひ――!」

 あれは死者のまなこだ。祖父と共に何度となく見た。
 心臓が残っているかと胸元に手を当てて、恐怖に慄くあまりに鼓動が遅くなっていることを感じる。
 幸いにも刀は取り上げられていなかった。ぶぅんと振り回される得体の知れないなにかを眼前に見据え、迎え撃たんとする。
 砂浜に顔の正面から突き刺さった、衛星だったものから目を背けながら。鋭利な断面に頼もしいものを感じてしまっていたから、それは必然であったのだろう。

 ――親の顔よりも見た剛剣に阻まれた。唐突に、割り込まれた。
 時に弧月に喩えられる剣跡は、その感嘆を言葉遊びとあざ笑うように悍ましき肉手を叩き落とし斬り落とし踏み落としていた。
 間近にした晶の眼をすれば一としか表現しえぬ三つの動作を行い、また掻き消える。昔話の豪傑がそのまま抜け出たような、その姿。
 晶が倦み、嫌いながらもその後ろ姿を望むしかなかった、里見権蔵その人であった。

 「おじい――!」 
 「もう死んでた(・・・・・・)。晶、命が惜しくばそこを一歩も動くんじゃねえ」
 その呼びかけは悲鳴に似ていたが、安堵もあった。
 時代劇の斬られ役に似たその中年の胴体は出来の悪い特撮のように、よたよた二歩三歩と歩くや 残った臓腑と肉片を撒き散らすようにして爆ぜた。
 ぴしゃりと、さっきまで彼の中に流れていた血潮が頬にかかる。熱く感じたのはおそらく晶の身体が極限まで冷え切っているからだろう。

 当然、権蔵は飛沫を微塵たりとも受けてはいない。彼は忌々し気に闇夜を見張り、放言する。
 「死ぬ前に殺せねぇとは俺も焼きが回ったな。おい餓鬼ども、いい加減出てこい」
 闇に慣れ切った晶の目には見事な名月に照らされなお、見えない燻り続ける黒煙のようなものしか見えなかった。
 けれど、地を這うなにものかがそこに“ある”のだろう。

 「あははっ。姉さん姉さん、鬼さんがなにか言ってるよ」
 「かくれんぼといこうかしら、ここには何人連れてきたかしら、弓? 捕まえきるまでは終わらないわ、面倒くさいわ、困ったわ」
 「里見発見伝とはこのことかしら、姉さん。私は読んだことないケド」
 「すぐ火っかとなるからじゃないのかしら。お爺さん、切れ味が悪くてよ」
 とても綺麗な音がした。意味は通る、百人中百人が年若い少女のものと認識するだろう。 
 だけど、晶はその音を声とはけして呼ばない。それを認めてはいけないと、魂からそう感じたからだ。

 片方は柔らかな真綿、もう片方はよく光る針。
 調べは正反対でも、首を絞める、血を抜き取る、つまりは人を殺す。用途において何ら変わりはない、そう主張するようだった。
 わかりきっている。命のやり取りを為していないそちらでも処女な晶にとってもうひとつだけ分かることがあった。そこにけして隠し切れない憤激が含まれていたことが。

 けれど。
 月下に照らされ冷やされてなお、地獄の邏卒さえ怯え逃げ出す憤怒を宿す、音に聞こえし里見権蔵。里見晶は筋骨溢れるその背を疑ったことはなかった。
 だから、なぜ音の主は逃げ出さないのか? 晶は疑問に思うほかなかったのである。 

 「たかが国のひとつ、脅して堂に入っているお爺さんが『裸繰埜』に喧嘩を売った。これほどの屈辱があるでしょうか?」
 「 折牙(オルガ)ちゃん を三回も殺した恨みです。国のひとつでも滅ぼしてから出直してきてください」

 一方的な会話の合間に闇夜からぼとぼとと、よくわからない鉄と潮の香り、腐臭さえ織り交ぜになった肉が打ち出されるも、権蔵はさぞ下らないものを振り払うかのように斬り払っていった。
 「くだらん。声はすれども形は見えず、それで斬れんとでも思ったか。俺は忙しいんだよ、そんな些事になどかかずらっておれるか」
 「やあ晶ちゃん、君は君のお爺さんのせいでまた巻き込まれたと思ってるならそれは正解だからね?」    
 「でも、大魚を釣り上げるための餌にしたのも確かだわ弓、そうでしょ?」

 「裸繰埜(らくりの)」という集団がある。
 一握りの人間が血と血を掛け合わせ続け、混じり合うところに一族を為した人界の修羅が「里見」であるならば。
 「裸繰埜」はすべての人類の流血に合わせ、歩みを続けてきた地獄そのものである。

 きっと賭けてよい。
 もし、里見晶が「敵」の、つまりは裸繰埜鵺岬(らくりのやみさき)・晒(さらす)と裸繰埜矢岬(らくりのやみさき)・弓(ゆみ)の姉妹のすべてを目にする機会があったなら、彼女は人間という存在の尊厳を保つべく喉に刃を当てることだろう。
 生きている標本室、五〇憶年の進化の体系のすべてがたったふたりの人間のエゴの元に動かされている。ごたまぜにされた人体や生物が単純な肉塊に還元されることに、冒涜という言葉で飾り切れない嫌悪と不快を感じたことだろうから。

 しかしこの男に臆する謂れはなかった。けれど、里見権蔵なる男は食えないモノが嫌いだった。彼奴(きゃつ)は偏食家である。
 気に入ったものは絶滅するまで狩り殺すが、その逆も然り。
 「そいつは単なる肉の壁じゃねえな。ったく、これだから食材は困る」
 その一刀は権蔵にとっても意外だったのだろう。波を模して呑み込もうとする肉色の壁は胃壁か、内臓をそのままに思わせた。
 半ばから太刀が入り、苦痛に目も鼻もないその身をよじらせどろりとした液体を撒き散らしながらも、完全には断ち切られていない。
 「海鼠(ナマコ)を参考にしました。骨片入りの肉は斬りにくいでしょ?」
 「人ばかり相手にしてきたのが祟りましたね、里見の鬼さん」 

 返答は不要、背後に立ちあがった里見晶をしてそう思った。
 もし、文人がこの場にあれば善悪の彼岸を越えて、己の生死さえ厭わずに剣の鬼を讃え血に沈むことだろう。
 夜にあって、己こそが陽光であると言い立てて戯言と思わせぬ。
 齢七十過ぎて衰えぬ剣気の持ち主は、はじめて月の切っ先の如く嗤った。 



 結局……、戦いは四半刻に渡って続いた。
 里見権蔵は正体不明を相手に陣取って、一歩も引くことはなかった。
 さしもの彼も一度だけゼイという息を吐いたことこそあったが、それ以外で危地と言えたのは足元から這い寄っていたイモガイの射出毒くらいのものである。

 二度三度、海嘯のように打ち寄せる肉の波は以て全てを切り捨てた。
 虻や蜂、といった小虫どもも念入りに撃ち落した。
 里見晶は時折、自分の方に向けて飛散する肉と、肉と呼んでよいかもわからない何かの相手をするだけでよかった。

 自作の刀に篝火を纏わせる余裕も生まれると、波打ち際を埋めつくしていた暗闇が晴れていくようにさえ思われた。
 いや、それは目に見えて小さくなっているのだ。
 姉を呼ぶ方の音色は焦りを露わとし、それを咎める姉と呼ばれる方はのほほんと妹をたしなめている。
 きっと、それだけが共感できる彼女たちの言葉だ。

 「まぁ、少ない里見を一人は殺せたし、欲張るのはやめておきましょうね」
 「五〇トンでは足りませんか、姉さん?」
 「損切るのも鉄則よ。大事なコレクションは連れてきてなかったし、きっとこんなものだわ」
 ざざ、と波に紛れるようにして音が聞こえる。
 見通せない靄に包まれ、汚染された海の色が元の墨色に戻っていった。
 権蔵は果断なく周囲を見渡すと、目釘が緩んだ刀をようやく元鞘に鳴らした。

 「勝った……?」
 晶は結局、月光にも陽光にも程遠く頼りない炎しか出せなかった。
 目に見えない異形を相手に、振り抜けなかったことを悔いた。正義を為せる相手を見つけたのに、権蔵の背に隠れ続けることを恥じた。
 戦いの高揚に身を委ねてしまいたかった。けれど、なによりも大きいのは怯えでしかなくて、誇りなき怯えはさらに心の影を大きくする。

 「骸を間違う阿呆は里見にいねぇ。……、逃がしてやったが」
 血袋が起き上がる戦場を経験していなかった衛星をなじるは筋違いだろう。
 権蔵は衛星だったものを拾い上げ無理やりに両眼を閉じさせると、穏やかな顔になったので絹布に包んで放ろうとし、やめる。
 「女に冷え首を取らせることもねぇわな……。鬼も十八番茶も出花。晶、精々が乳繰り合って子でも為しておけ。曽孫の顔くらい見てみたい」

 晶にかけるにしては珍しく温かい言葉とは裏腹に冷え切った音階を聞き返す暇もないまま権蔵はすたすたと歩みを進める。 
 (戦か、長丁場になるかもしれねぇな。)
 里見権蔵は無鉄砲というほどに、近代兵器の類を相手にしないがこと魔人能力の類を相手に無策で挑むほどには愚かではなかった。
 消えることのない憤怒と冷徹な計算のもとに、一足飛びに首を狩れる相手か算段を立てる。
 「手管を選んでる場合じゃねえ……、ババアに相談するか」
 里見の血が絶えることがないとされる謂れは幾つもかある、その一つ二つみっつよつが里見権蔵その人であることは言うまでも無いだろう。
 里見は、消えない。絶えない。途切れない。

 慌てて、駆け出す晶を背に権蔵はそう確信した。
 泣きながら呵々と笑うその顔を孫娘に見せないように歩を早め、堂と首級を掲げた。
 「衛星よ、手前は里見の誉である! 少しだけ寝てろ。里見殺しは直ぐにでも送ってやらあな」
 権蔵は、絶え間ない怒りをぶつけるに足る遊び相手が久々、いいや弥栄に現れたそのことを笑っていた。怒り、泣きながらも笑って愉しんでさえいた。
 気づけば衰えを見せる気配さえ見せない健脚は、地を蹴り上げていた。
 喜怒哀楽のすべてを宿すその表情は、まるで少年期に返ったかのようだったという。 



 一方、裸繰埜の姉妹は重い肉を脱ぎ捨て悠々と大海を泳いでいた。
 それでも骨肉は常人に比べて何倍も重いのだけれど。五〇トンからの肉塊に比べれば何十分の一かのダイエットに成功したことに変わりはない。
 その裸身を見て、陶然と溜息を漏らす女性は多いだろう。その理屈を誰もが知りたがった。

 撫ぜてみたくなる肌の色が何万というモザイク模様だと知ったとして一体何割が抗うこと出来ようか。
 継ぎ接ぎの、醜いフランケンシュタインの花嫁はもう古い。
 きっと、間近でしげしげと見てもそれは人魚(メロウ)の鱗に等しいと思う、きらきらと輝いているからだ。

 水平線の彼方では悪鬼の目も届かない、月は沈んだ夜明けは近い。
 赤からきっと藍色へ。虹色を織りなすみだれ髪は陽光のいたずらだろうか。
 いいえ、それも違う。きっと十万から成る髪の毛はその由来を一本一本異ならせている。

 そして、人魚は客船に拾われる。
 肉を食われるのが真逆であると王子を気取った誰かは知らない。八百年を生きる道理は人魚にこそあるのだと最期まで気づかなかった。
 すべてが人魚(セイレーン)の歌声に誘われ、せめて掻き消そうと悲鳴を上げる。そのことは、人魚姫の話のバリエーションに人知れず加えられた。

 それから。
 その船はマリー・セレストの年の離れた妹などという大層な名前がマスコミによって献上され、しばらく世間を賑わせた後、世間からひそやかに消える。
 この事について紙面を割く機会もいつか訪れるだろう。
 だけど、それには時を同じくしなければいけない。つまりは、唯一の生存者である彼女とともに語るしかない、そういうことだ――。
最終更新:2017年08月07日 09:43