【白雪姫は、真っ赤に焼けた掌で横面を叩かれる】

 あの日、私は本当の意味で正義という言葉を知ったんだと思う。その時になってやっと悟るなんて情けないって思ったよ。
 正義ってね、口に出して言うと案外恥ずかしいものなんだ。唇の動きは三つで合っているのに触れ合わない、だからかな?
 だってだって男の子の専売特許だったし、クラスの連中だってもう言わなくなったし。

 だけど、私は今日も正義の名を叫ぶ。……叫ばなければいけないんだ。



 あの日を、あの時を、忘れたことはない。
 誰もいない駅、いやアイツがいた雪の日だ。私は、朽ちた駅の構内で迎えが来るのを待っていた。
 その日は近づくにつれてもう少しでお父さんに会えると思うと、どうしてか憂鬱になっていた。会ってみれば、そんなことはないのにどうしてか不思議。
 駅名を示す、錆びついた表示板が気になって手袋ごしに擦ってみた。濡れてしまったことを後悔する。ちょっと考えてみれば当然のことだったからなおさらだ。錆の赤っ茶けた色が手袋を汚すことは幸いなくて、毛糸の繊維に乗っかったくらいだ。この色なら混じることはないなってそう思ったんだ。
 だからさ、真っ赤なマフラーたなびかせ元気に走れるんだ。颯爽としていてカッコいいって奇常ちゃんは言ってくれたからそれに応えたい! 
 そうだよ。それだけは、汚したくはないんだから。

 「こんばんわ」 
 でも。夜の中、待っていたのはそいつも同じだった。
 真っ赤なダッフルコート、その下にはどこかの制服。まったく聞き覚えのない声――。
 顔は見えない。ちらりとしただけで色づきの良い膝裏から腿にかけて――がよく見える。 
 要は線路からぷいと目を背けているわけで、青いプラスチック製の椅子も濡れているのを知った上で、私とおんなじなのか? 立ったまま座ろうとしていない。

 何かがおかしいと思った。
 けれど、それがなにかを探す暇はなくて慌てて挨拶を返す。
 「こ、こんばんわ」
 「そ」
 一音、それだけが寒風と共に駅の構内を駆け巡る。私の脳内を駆け巡る。
 そうだ、なんでこの人は初対面の私に挨拶なんてしたんだ? 声も聞いた覚えはないし、顔を覗き込むのも失礼だ。
 慌てて鏡を探す。早く列車が来てくれたらいいのに。
 とん、とんと靴は霜の降りた地面を叩く。寒気に負けないよう、体を動かしておきたかったというのもあるけれど、そいつに気取られないよう少しでも距離を離しておきたかった。

 私の体温は少し下がっていたんだ。理由を教えてあげようか?
 ……そいつは裸足だった。この寒いのに? 雪の中を歩き続けてきたの?
 そしてね、季節外れなことに蝶が何頭かやってきていたんだ。わけがわからない?
 安心して、私にもわからないから。だけどね、思ったんだ、ああコイツは魔人だって。
 今は、私も魔人だからこういう言い方は慣れないけれど、私にとってそいつはいつだって絶対的な怪物であり続けていた。
 それこそ人間に対する魔人への恐怖のように、心に焼き付いていた。 

 「そうそ……、うん。大丈夫よ、誰も死なないわ(・・・・・)。みぃんな、私たちの中で生き続けるの。素敵でしょう?」
 「死ぬ前に殺すなんて粋なことをするのね、姉さん」 
 「だいじょうぶ。××町の人たちは死ぬことになっているからいずれゆっくり死んでいってもらうわ……」 
 「一体何をしたんでしょうね、あの人たち」「さ」
 言っていることはさっぱりわからなかったけれど、独り言にしてはあまりに意味が通り過ぎていた。
 あの先に誰かいるのかしらと思って、その人を目線から外しながら追ってみるのだけれどそこにやっぱり誰もいなくてぞっとする。××町っていうともう、ここだ。
 『悪』、お父さんが口を尖らせて言う言葉、いつかきっと私も正反対の『正義』になりたいと思っていた。

 けれど、先延ばしに先延ばしにしていたことも確かだ。
 その時の選択を私は後悔と思っていないけれど、ふがいなかったことも情けなかったことも確かで、結局私は間を取ってそれから泣かないことにしている。

 「行きがけの駄賃……違ったかしら?」
 「違わないわ、姉さん。私はこの子の名前と顔を覚えてる。拳条(けんじょう)さん家の朱桃(しゅもも)ちゃん、だっけ。『ね』、なんで逃げるの?」  
 確定的だった。後ろを見ずに駆けだしていた。
 ぱきぱきと踏み砕いていったことを覚えている。足がもつれてしまって転びそうになったことを知っている。
 だけどね、自分の手で踏ん張ったんだ。階段を駆け上がるまでの僅かな距離、蝶にぶつかりながら走り抜けたんだ。
 どうしてだろう、心が痛かったんだ。跳ね上がった心臓があちこちにぶつかって体が軋みを上げる気がしたんだ。
 心が痛ければ、体も痛む。それは逃げ出すことに対して? わかんない。

 だから当たり前のことに気づいてしまった。そんな気がした。
 だけど。違ってた。

 五〇メートルのグラウンドを知っていて、転んだ痛みは知っていた。
 勢いよく踏み出した靴の裏がなにかを踏みつける感触と、ばちりと弾ける不快な音、続いて作用に続く反作用。
 膝の皿が不揃いな段差に打ち付けられる、同じように弧を描く何かを掴もうとして丸まった右手も同じように打ち砕かれてしまう。
 終わった後だから言える。まるで皮の中で水風船がはじけたような気がしたよ。

 熱と痛みは骨を伝わって頭を支配する。心は痛いと言う思いで支配される。辛うじて、骨が折れたのかもしれないってことがわかった。
 それと、それもわかったんだ。背後から何者かが、あいつが近づいてくるってことも。
 一切の足音をさせないまま、影が覆いかぶさってくるんだ。
 消えかけの蛍光灯が余程いい仕事をしたのか、それとも私の恐れがなせることかわからなかったけど。
 うずくまる私の何倍も、それこそ階段の横幅を占領するくらいの広さの暗闇がかかっていたことは確かだった。

 頭が鷲掴みにされて持ち上げられる。ぶちぶちと幾本かの髪の毛が千切れる音を耳より先に脳に叩き込まれて夢見心地を許さない。
 叫ぼうとした口は小さな拳に塞がれて呼吸さえ苦しくさせる。痛い痛い痛い。
 すべてが痛みに満ちていた。無数の手が私の身体を持ち上げる浮遊感は、高揚感とは程遠くてただ不気味だった。
 「綺麗な髪だから有象無象と一緒にするのは惜しいと思います。これだから過疎地は始末に負えません」
 「きれいなおめめね。くり抜いて、私たちを飾り立てる玉(ぎょく)としましょう。おてては……折れてしまったから必要な分だけいただいていきましょう」
 「……そちらをお先に」 

 拘束された全身の中で、殊更に掲げるようにして右手が持ち上げられた。
 折れてねじ曲がった指先が痛々しくて熟熟とした気持ち悪い熱と共に肉を腐らせていくような気がした。  
 バチリという音、それは薬指が永遠に切り離された記しだった。
 痛みは吐き気に似ている。やっと、理不尽に遭っているんだとわかった。べりべりと剥がされていく肌の色は紅い。
 「丈夫で、色も形もよくて、ひょっとすると食べてしまいたくなるわ。そうだわ、私の物にしましょう」
 「姉さん、もうそっちは間に合ってなかった? それとも足りなかった?」
 「薬指って二本あるんでしょう? ならいいじゃない、いいでしょ? 『ね』」
 「じゃあ左も――」

 もう、私はこの指に指輪をはめられないんだぞ……どうしてくれるんだ。お父さんに自慢してやることが出来ないんだぞ……どうしてくれるんだ!
 「どうしてくれるんだ!」
 叫びを聞かせてやるだけの魔人能力なんていらない。だからこれは錯覚。
 必要なのはこいつらをぶちのめすだけの力、腕が一本折れたくらい笑い飛ばせるような絶対的な力が必要だ。力だけじゃない、数も必要だ、きっと手が足りない。
 悪が多すぎる、目に余る、手が足りない!
 「ん?」
 そいつの横面をはたく感覚はしなかった。殴り飛ばす音、それだけが響いていた。 

 その瞬間に私は魔人になっていた。新しい力の名前はもう決まってある。
 『ハンドレッドハンド』、私のために新しい腕は百本ある。不可視でないのはきっと返り血が欲しかったからだ。
 折れて砕けた腕を庇って、泣きながら腕組みをする。胸を張れ、お前は、私は、拳条朱桃は正しいことをしている!

 「私が――正義だ!」 
 掠れながらも言えたんだ。魔人覚醒に伴う全能感は普段言えないことを言わせてくれる。
 実際、百本も腕があれば何でもできる。紅く、透けてて、大きくて、それは輝いているように見えたんだ。精神は肉体を置き去りにする、痛みなんていらないと思わせる。

 だけど。だけどだけどだけど!
 「やれやれ……ひどいことをするのね。お嬢さん」
 「顔が潰れてしまったわ、お転婆ですこと。まぁいいわ、時間切れよ。帰りましょうか」

 早く大人になりたいと思った。頭をぽんぽんと叩く仕草はお父さんだけの特権だった、上を見上げるのは私の憧れだけだった。
 幸い背は高い方だったけれど、馬鹿にされたくなかった、早く早く正義をやりたかった。
 だから痛快、と言えただろうか。背の高さでは勝てても奇常ちゃんには勝てる気がしないように。年上の女の影を上回っていたのだから。

 そっか、首切るとかすれば勝てるよね。だけどね。
 ……アイツには、顔が無かった。
 ぽっかりとそこに闇が当てはめられたように、首から上が無くなっていても問題なく生きてる、動いてる、喋ってる。
 呆然とする私を他所に、私を包む巨大な影は健在で――、頼もしい新しい腕で振り払ったなにかが空を走って、余波は冷たい風となって柔らかい肌を撫ぜる。
 「私は、何を見てるんだ!?」

 叫びは打ち消される。コンテナを積んだ貨車が風を切りながら金切り音を上げる。
 錆びついた金属音が火花を伴ってやってくる。
 「三等客車より寝心地は悪いと思うけど、お暇させていただくわ」 
 「さ・よ・う・な・ら」
 首のない女はひらりと箱のひとつに飛び乗ると、途端鉄の貨車は動き出そうとする。

 今は考えるな。考えると逃がす!  
 悪を逃がすな、その一心で壊れた膝を動かして追いすがると考える。間違った、一手遅れた。
 私にはもう立派な腕が百本もあるじゃないか。
 「させない! 『ハンドレッドハンド』!!!」
 一手遅れようが、差し引き九十九本の腕が取り返すだろう。そう信じていたのに、本当はなにもかも手遅れだったんだ。

 「がつん」「あげるわ」
 赫赫と燃える拳は闇に遮られる。
 おどけた声が妙に耳に障った。そう言えば、あの巨大な影を忘れていた。
 蠢くなにかを見渡すには、涙がきっと邪魔になる。泣かずにはいられなかったんだ。
 「お父……さん?」

 闇から切り離された顔、見知った顔が抜けて、落ちた。
 大好きだった掌がなくなっても、固く閉じられた瞼が私の泣き顔を写すことがなくなっても忘れない。
 それは、間違いなく私の憧れたお父さん、日夜悪と戦っている警察官、大きな掌だったあの人に他ならなった。
 走り去っていく鉄の塊。どうして、あんなに早いんだ。せめて貴様らの棺桶になってしまえ、意味のない精一杯の呪詛を吐き出す。

 でも、ここにいてくれる。まだ、ここにいてくれる、そのことを信じて決死で呼びかける。
 半身が千切られて、千切られた先は見たくなくて、一抱えにするほどに小さくなって、それでも息を吐いてくれた。
 軽くなっていた胴からは心臓を抜き取られていたらしい、だけどもう幾ばくも無い命を、肺に込められたわずかな空気を吐き出してくれた。
 「朱桃……お前の……信じる道をいき……な――」
 最期の言葉は吐く息とともに。生きていた人は死んでいた。

 「―――――!!!!!!!」
 言葉にならない叫び、それは頭より先に魂が叫んでいたということだろう。 

 そして、その日、あの町は滅んだ。悲鳴が訃報の代わりだった。
 電報よりも電話よりも、生の音のほうがずっと早いってその時になってはじめて知ったんだ。
 目撃者も生存者も誰一人いなかったけれど、お父さんは勇敢に戦ってそして死んでいったと私はそう信じている。



 ここは闇の中。
 閉じられた空間で、誰一人見る者はなくとものそのそと蠢く何者かがあった。
 ぎっこんばったんと跳ね飛ばされる妄想をして、でも足下がぎっちぎちに詰まってれば問題ないわと思い直す。
 寝心地はとっても悪かったけど。

 自動車のサスペンションが懐かしい。ここは未舗装を走るカボチャの馬車か、妹は戯れに思うが、笑って打ち消す。
 一緒にいてくれるのは意地悪な義理の姉さんなんかじゃない、血だけじゃない肉でも心でも繋がった正真正銘の二心同体だ。
 「姉さん、愛しているわ」
 「どうしたの弓ちゃんねぼすけなの……? もちろんよ」
 「死ぬときは、一緒ですよ」
 「うん、そうね……。でも、がんばって生きましょうか……」

 目覚まし時計がけたたましい。ニワトリを詰め込んでおけばいいかと思った。
 目覚めに、王子様のキスなんていらない。
 私たちは生きている。

 屍姦趣味(ネクロフィリア)の変態に恋い焦がれるわけはなかったから。
 ガラスの棺なんてこっちから願い下げだと思う。

 臨海学校の伝手で手に入れた名簿を上から下へ手早く見る。
 ふたつ、よっつ、目を通すなら何人分がいいかしら? ある名前で目が留まる。 
 そっか、白雪姫の夢を見たのはこのせいか。私たちって案外少女趣味。

 「拳条朱桃ちゃん、そっかー、来てたのか―」
 懐かしい名前をなぞっていると姉さんから訊かれたので答える。
 とてもいいお父さんだったから、娘さんも覚えていたの。そう答えると興味をなくしたのか、再び可愛らしい寝息を立てくれた。
 これで起きているのは私だけだ、姉さんも聞かなかったととぼけてくれるだろう。
 「『正義』、正義ねー。なるほどー」
 頭の悪い子、そう言って赤い斜線を引く。頭のてっぺんは気になったケド。
 ん、すべては姉さんのお気に召すまま、赤は虹色のひとつだからきっと欲しがることでしょう。

 晒と弓、ふたりはとっても欲張りだ。生きるために腕二本、足二本、心臓ひとつで満足できないのだから。
 そんな裸繰埜を号するひとつ、巨大な怪物を動かす無数の心臓のそのまたひとつ。古びた心臓は鼓動を立てて、「正義」を為した男の、生の名残を示していた。   
最終更新:2017年08月07日 09:46