「……邪魔だ、死ね」
ぐちゃっ、と音を発て、怪物が肉塊に変わる。
「コイツ等の狙いはお前か」
襲い掛かる脅威を唯の独りで殲滅した黒装束の男は、虚ろな眼をして座り込む少女の顎に手を添え、上を向かせる。
「ぁ……」
呆けたまま、されるがままの少女を見て、男は問い掛けた。
「お前はなんだ?」
「わた……し……?」
「お前は《ワーディング》内で倒れたが、受けた傷は《リザレクト》で治療されている。……お前は何者だ、『茅原千草』」
落ちていたノートを拾い上げ、名前の書かれた欄を押し付けるように見せる。
「かや……はら……ちぐさ……。……わた……しの、なま……え……?」
「……ふん。成る程な。お前にはまだ、“自分が無い”のか」
男は立ち上がり、少女に手を伸ばす。
「来い、茅原千草。お前の中にお前が出来るまで、道を作ってやろう」
少女は虚ろな眼で見上げたまま、男の手を取った――

◇◆◇◆

UGN支部の、清潔感のあるロビー。
備え付けのソファ。
そこに、二人は座って話していた。
尤も、今話しているのは気弱そうな少年で、少女は『心此処に在らず』といった感じである。
「――さん?――や原さん?茅原さん?……大丈夫ですか?」
心配そうに少年――加賀谷秋人が話を中断して声をかける。
「――ぁ、い、いえっ、大丈夫です。す、すみません、加賀谷君。少しぼうっとしていました」
少女――茅原千草は、はっ、とするように一瞬だけ目を見開いて、慌てて微笑んだ。
それを見た加賀谷は頭を下げる。
「僕の方こそすみません。茅原さんの体調が優れていないのに、歩美さんとのことの相談に乗ってもらってしまって……」
「そ、そんな頭下げなくていいんですよっ、加賀谷君!? 私は別に、気分が悪いとかじゃ……」
「……本当ですか……?」
恐る恐る、といったように加賀谷は顔を上げる。
その後、一度微笑んで、茅原の手を取る。
「それなら良かったです。でも話はこれくらいにします。茅原さん、貴女の顔色が少し悪いのは本当ですから」
ありがとうございました、と茅原に礼を言って、加賀谷は支部を出て行く。
それを手を振って見送った後、茅原も支部を一度出て、上にある自分の部屋に戻った。

◇◆◇◆

――がちゃん。
玄関の扉を閉めて靴を脱いで部屋に上がる。
いつもはきちんと揃える靴を今日は脱いだままにして、茅原は奥にあるベッドに座った。
――どうして今“あの人”との出会いを思い出すのか。
過去の無い少女の中の、最初の記憶。それがフラッシュバックする。
「……今日、まだ会ってないから、かな……?」
呟き、顔を赤く染めて、ぶんぶん、と頭を横に振る。
これではまるで恋人みたいじゃないか、と否定しながら。
『……一緒に居ると、安心できるんですよね。でも危なっかしいので、僕が護らなきゃ、とも思います』
先程話していた加賀谷の言葉が頭に響く。
『それが僕の動く理由になってたりして、そういう意味で、彼女は僕の恩人なのかなって。そう思うんですよ』
加賀谷の声が響く中に、一人の顔が浮かぶ。いつも冷静で本心を出さず自分にも周りにも厳しく、冷酷と取られることの多い、一人の男の顔が。
「鳴神さん……」
茅原は倒れ込むようにして背中からベッドに寝転がった。

◇◆◇◆

――出会いから数日、あの人は『私』とずっと一緒だった。
『私』はまだ私ではなくて、凄く不安定だった。
肉体は今とさほど変わらなかったけれど、精神はまるで幼児のようで、会話もろくにできなかった。
――でも。それでもあの人は一緒に居てくれた。
『私』が前を歩くあの人を追いかけようとして転ぶと、あの人は立ち止まって『私』を見て、追い付くまで待ってくれた。
『私』が弱音を吐くと、決まってあの人は怖い顔をしてこう言った。
『お前には考える頭も、物を掴む腕も、立ち上がる足もある。お前のことはお前がなんとかしろ』
そう言った後は『私』を一度も見ずにどんどん前に行ってしまうので、『私』は歩くしかなかった。
――さらに数週間が経って、私が今の私になった頃。
あの人はもう、私を待ってはくれなくなった。
何故ならそれは、私が私になったからだった。
あの人に褒めてもらったことは一度もない。あるのは叱られた記憶だけだ。
――でも、何故叱られるのかはわかる。
あの人は私にできないことは絶対にやらせなかった。
私にできなくてあの人にできることは、全部あの人だけでやった。
そういう時あの人は、私には何も知らせない。
あの人が私を叱るのは、私がちゃんとやればできるのにできなかった時と、私ができないことをやろうとして失敗した時だけだった。
――次第に叱る時以外で、あの人が私に話しかけることがなくなった。
そのことで一度、聞いたことがある。
『私のこと、嫌いですか?』と。
あの人は表情を変えず、私の顔を見ないで言った。
『好意も敵意も持ったことはない。どんな答えを望んでいるのかは知らないが、友情もなければ同族意識もない。私はお前に対して、興味を抱いたこともない』
――涙が溢れた。
返す言葉は思い付かず、私は必死に何かを言おうとして、嗚咽を洩らした。
そこであの人はやっと私を見て、叱る時の顔で言った。
『いいか、茅原千草。最初は確かに伽藍で支えなければいけなかったが、今のお前にそれは必要ない。お前は既に、茅原千草という一人の人間だ』
思えばこの時、わけがわからないままでも縋りつくことは可能だっただろう。
けれどそれでは、何も変わらなかった。
あの人の表情は変わらない。変えることができない。
――変えることができる人を、私は知らない。

◇◆◇◆

寝転んだベッドの上で、茅原はいつしか涙を流していた。
「何も……できないのかな……っ」
茅原がUGNに所属している理由は、所属することによって鳴神の手伝いができると思ったのと、いつか認めてもらえるかも知れないという期待からだった。
最初の出会いから一年以上経つ今でも、それは叶っていない。
「……そろそろ、帰ってきたかな……?」
ごしごし、と目を擦り涙を拭いて、茅原は支部へと降りる。
「ああもう、この書類どこで書こうかなぁ……向こうに支部長、こっちに鳴神さん。どっちも近寄りたくないしなぁ……あ、茅原さんお疲れ様です」
「お疲れ様です、篠原さん。鳴神さん、帰ってきてますか?」
「あ、ええ。でも今報告終えて『待機』を始めたばかりみたいですから、近寄らない方がいいですよ。それじゃ、失礼します」
「はい、篠原さんも頑張り過ぎて倒れないで下さいね」
廊下で擦れ違い様にエージェントと二、三言葉を交わし、茅原はロビーに入る。
鳴神はいつものように顔に本を乗せ、ソファに寝転がっていた。
何故か少しほっとしたような顔をして、茅原は起こさないように鳴神の傍に座る。
「……私に何か用か、茅原」
「ひゃあっぁう!? お、起きてたんですかっ!?」
――ぱたん。
鳴神は本を閉じ体を起こして、ソファからずれ落ちて尻餅をついた茅原を見る。
「あー、うー、そ、そのぉ……お、お疲れ様です」
急に寂しくなった等と言えるはずもなく、しどろもどろになりながら微笑みを返すと、鳴神はそれを鼻で笑い、もう一度寝転がった。
「あうっ……笑うなんて酷いです、鳴神さん。え、えーと……そ、そうだっ、明日、出掛けてもいいですか?」
「勝手に行け。私に了解を取る必要はない」
「そ、そうですよねっ。で、では、行って来ますっ。……あ、う、こ、ここに座ってていいですか?」
慌てて這い上がるようにしてソファを軽く叩く。
「好きにしろ」
「あ、ありがとうございます」
――かちっ、かちっ、かちっ、かちっ。
時計の音が空しく響く。会話はない。いたたまれない。
「ぁ、あのっ、鳴神さん?」
「……なんだ?」
露骨に嫌悪感を含ませた声で鳴神が返す。
茅原は冷や汗を掻きながら、必死に続ける。
「どうしてあの時、私を助けたんですか? 見捨てたり、UGNで保護したり、何でもできたはずです」
「……何故今それを聞く?」
――ぱたん。
体を起こし、鳴神は茅原を見る。
「……聞きたくなったのが今だからです」
冷たい視線を送る鳴神と、叱られている子供のように涙目になっている茅原。
しばらく、静かな睨み合いが続く。
「……ふん。私はお前を助けたつもりはない。私は私の為にしか動かない。何故か? それは、動く必要がないからだ。他人の助け等をして何になる?」
「そ、それはその……そうすることで、その人の負担が軽くなって……楽になると思います」
「それは只の自己満足に過ぎないぞ、茅原千草。他人を助けることで自分の居る位置をその者よりも上に見ている自尊行為だ」
「っ……違いますっ!」
叫ぶような茅原の声が支部のロビーに響く。
立ち上がった茅原の正面に鳴神は立ち、本をポケットに仕舞いながら見下ろす。
「何が違うのか言ってみろ。『私はお前の助けをしてやっている』、『私がいなければ何もできない』と自分を持ち上げているのだろう?」
「違います! 私は一度だってそんな風に思ったことはありません!……私は何もできないから、せめて他の人を手伝えたらいいな、と……」
「ならばお前は足が不自由だがリハビリすれば歩けるようになる者に、車椅子を渡すと言うのか? 『私はこれを渡すことしかできない』と」
熱くなり声を荒げる茅原に対し、鳴神はいつも通りの冷ややかな声音でそれに応える。
「……っ、私は……っ、だって……」
「私の言っている意味がわからない馬鹿は、『FHのガキ』だけで充分だ。……ふん、寝ることも邪魔されるとはな」
――ばさっ。
何も言えずに居る茅原に視線も向けず、鳴神は支部から出て行こうとする。
「……っ!」
反射的に駆け出して、鳴神の腕を掴む。
「どうしてそんなに、冷たい言葉ばかり選ぶんですか……っ」
両目の端から涙を零し、あるだけの力で、逃がさないとばかりに腕を掴む。
「どうしてそんなに、嫌われようとするんですか……っ!」
少女は目の前に居る男に連れられて、他人を退け、断ち切り続けた者の行く末を何度も見てきた。
「どうして貴方は自分から絆(ロイス)を切ろうとするんですか……っ……それを失くせばどうなるか、貴方は私より知ってるはずなのにっ!」
それは問い掛けというよりも、慟哭だった。
慟哭する少女を引き剥がし、男はまた歩き出す。
だが何度引き剥がされても少女は男にしがみ付いた。
何度も何度もそれは繰り返され、男は溜め息をついて路地に入る。
「私が私をどうしようと、お前には関係ないだろう。離せ、茅原」
「嫌ですっ……関係、あります……っ」
「ほう、それはなんだ?」
「鳴神さんは昔……私にはもう支えは要らないと言いました。でもそれは間違いです」
小柄な少女は長身の男を見上げ、きっ、と強く睨みつける。
「私は支えがなければ立てません……でも、『車椅子』(からだのささえ)は要りません。『介助者』(こころのささえ)が欲しいんです……っ」
涙を拭いて、微笑みながら少女は続ける。
「鳴神さんは私の、『お父さん』であり『先生』であり『大切な人』であり『護りたいもの』なんです。貴方が居なければ、今の私は居ません」
それは力強い意志を持った言葉だった。
「……勝手に言っていろ」
「……勝手にします。何があっても、私は鳴神さんを信じます。他の人が何を言っても、惑わされたりしません」
少女は男の瞳の中に先程とは違うものを見て、腕を離す。
そして小さく礼をした。
「先に帰ります。支部の方々にも迷惑をかけてしまったと思いますので……。邪魔をしてすみませんでした」
茅原が駆け足でその場を去った後、路地に残った鳴神は自分の右手を見つめて口を開く。
「あれをあそこまで依存させたのは私、ということか。やはり少し過保護すぎたようだ。……ならば責任を取るしかない、か」
民家の壁に拳をぶつける。僅かな《ワーディング》の気配と共に、ぴしっ、とひび割れる壁を見つめ、冷酷な殺戮者は空を仰いだ。
「私には『欲望』(ねがい)がある。そろそろ終わらせよう、蓬莱人形。……その為に、繋がりを切る必要がある」
――ばさっ。
コートを翻し、道を引き返しながら、ぎりっ、と歯を噛み締める。
「私は全てを裏切り、欺き、高みに登る。全て貴様の計画通りに進ませるつもりはないぞ、アルフレッド・J・コードウェルよ」

◇◆◇◆

――数日後。
いつものようにソファで寝ていた鳴神は、近づいてくる気配で起きた。
だが、それが誰かわかった彼はもう一度意識を閉ざす。
その光景は、度々目撃されるようになっていた。
今日も少女は男の隣に座って本を読む。
小さな子供が、わざわざ親の近くまで絵本を持ってきて開くのと同じように――

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最終更新:2011年04月15日 14:01