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瀬野さんが涙を流す。
頬を伝って流れ落ちる涙が瀬野さんの胸元に吸い込まれていくのを俺はただ見つめていた。

「お願いだか、ら」
「瀬野さん…?」
「これ以上、僕の中に入ってこ、ないで…」

その言葉にどんな意味があるのか、俺には分からない。
俺が瀬野さんの中に入っていく――瀬野さんの、心の中に?
俺の言葉や行動が瀬野さんを惑わせるくらいの影響力があるというんだろうか。

瀬野さんは誰にでも同じように接する。誰にでも優しく、平等に。
そして、誰にでも同じように笑う。まるで人形のように、綺麗に。
それは誰もが瀬野さんにとって同じだからだ。自分以外の人は『他人』という一括りにされている。友達も知り合いも通りすがりの人も皆、同じなんだ。
俺もそうだと思っていた。少しは親しくしていても、少しは頼りにされていても所詮は同じ『他人』だと。
だけど、そうじゃない?俺は瀬野さんの中に入っていける?
もしかしたら瀬野さんを変える事が出来る…?

…いや、それは自意識過剰だろ。
変えたいとは思っている。だけど、俺が変えられるかは話が別だ。
それでも、瀬野さんが俺の所為で泣いているのには変わりない。
泣かせたくないのに――俺は瀬野さんの頬に手を伸ばした。

「触らな、いで」

その手はその頬に触れる事なく、瀬野さんに振り払われた。
力はなかった。でも、俺にとっては凄く衝撃的で振り払われた手が痛む。
そして、それ以上に心がずきりと痛んだ。

「な、んで…?」
「瀬野さん…」
「何で僕なんか…。伊吹く、んにはもっと可愛い女の子がに、あうよ…」

瀬野さんが涙に声を詰まらせながら、言葉を紡いだ。
必死に笑おうとしている。無理をしているのが分かる。
それは見ていて痛々しくて、俺は瀬野さんを抱き締めたくなった。
どうせ泣くなら俺の胸で泣いて欲しいなんて…、俺にはそんな事を思う権利もないけれど。

「でも、俺はあんたが良いです」
「どう、して…」
「理由なんかないです。瀬野さんが好きなんです。俺は自分に嘘をつくような真似はしたくない。…あんたがそれをどう思おうと」
「こま、る…っ」
「どうして困るんですか?」

ずっと疑問に思っていた。俺の気持ちを告げたら瀬野さんは困る。それは分かっていたけれど、でもそれは何故?
だって、俺を好きじゃないなら断れば良いだけだ。好きだと言われても、友達でいたいならそう言えば良い。
顔も見たくないと思うなら、そう言えば良いじゃないか。
俺はそれを望んでなくても、瀬野さんがそうしたいならそう言えば良い事だ。
困る事なんて――返事に悩む事なんてないような気がする。
それなのに困ると言ったのは、少しは俺を想ってくれてるからなんだろうか。

「どうしてって…。言ったら僕が困るって言ったじゃないか。伊吹君だって分かってるんでしょ?」
「はい、分かっていたつもりですけど…。でも、分からないというか…、俺を受け入れられないなら『ごめんなさい』で済む話じゃないですか?」
「……………」
「でも、『困る』んですよね?どうして困るんですか?」

瀬野さんは俺の言葉に、目を泳がせた。
困っている――それは俺の気持ちに、じゃなく俺の問いかけに困っているように見えた。
何を言ったら良いのか、迷っている?それはどうして?
暫くして瀬野さんが発した言葉は俺がずっと聞きたかった事を聞くチャンスになった。

「忘れられない人がいるんだ」

忘れられない人――みさきさんだ。瀬野さんの左手の指輪の人だ。
ずっと聞きたかった、その人が瀬野さんとどんな関係なのか、どうして今ここにはいないのか。
全部知りたかったんだ。瀬野さんはその人をどんな風に愛していたのか、瀬野さんが人形のようになってしまったのはその人の所為なのか。

「…知ってます」
「…え?」
「みさきさんですよね?」
「………っ…」
「その人は瀬野さんにとってどういう関係の人だったんですか?」
「どうし、て…」

みさきさんの名を口にすると、瀬野さんは息を飲んだ。
どうして知っているんだ――きっとそう言いたかったに違いない。
だけど、その問いかけに答えず、俺は言葉を続けた。

「瀬野さん、答えて下さい」
「……………」
「あんた、俺に『男同士で気持ち悪い』とか『ごめんなさい』じゃなくて『困る』って言ったんです」
「…うん」
「それに対する返事が『忘れられない人がいる』なら、俺には聞く権利がありますよね?じゃないと、俺は納得出来ません」
「…そ、そんな事言われても、」
「答えて下さい。みさきさんという人はあんたにとってどんな人だったんですか?」

そうだ、俺には聞く権利がある。
俺ははっきりと瀬野さんに好きだと言った。そして、瀬野さんの答えは『忘れられない人がいる』だった。
嫌いだとか気持ち悪いだとか…、そう言われたなら、俺は納得して諦めないといけない。
でも、違った。忘れられない人がいる――だったら、その人がどんな人なのか聞いても良いだろう。
じゃないと、諦められる訳がないじゃないか。どんな人なのかも分からないのに。
…俺が忘れさせる事が出来るかもしれないのに。

「…伊吹君には関係ないよ」
「そんな事言われて、納得出来ると思いますか?」
「…納得してもらわないと困る」
「言ったでしょう、あんたが困っても俺はあんたが好きなんです。あんたが言わないなら、俺は諦めませんから」
「どうして…」
「どんな人か分からない人に、あんたを渡したくないです。忘れられないなら、俺が忘れさせてあげますから…」

そう言った瞬間、乾いた音が響いて頬に痛みを感じた。
殴られたんだ。その事には特に怒りは感じない。そんな予感がしたからだ。
瀬野さんは俺を殴った手をもう片方の手で抑えて、僅かに身体を震わせていた。
俺を殴った事に、瀬野さんの方が驚いているように見えた。

「か、んたんに言わないで、そんな事。美咲を忘れさせ、るなんて」
「……………」
「僕は美咲を忘れない。そうだ、忘れられないんじゃない、忘れないんだ。一生忘れたりしない」
「…『忘れない』?」
「そう、だよ。僕は一生変わらない。変わりたくない。美咲じゃないなら、誰もいらない。美咲が、美咲の事だけが好きなんだ」

それは初めて聞いた瀬野さんの本音だった。瀬野さんの本当の気持ち。
だけど、それは自分に言い聞かせているようにも聞こえる。
震える身体を両手で抱き締めて、苦しそうに息を吐き出して――明らかに無理をしている瀬野さんは見ていて痛々しかった。

「無理をしているように見えます」
「無理なんかしてない!簡単に言わないで、何も知らないくせに!!」

その言葉に、今度は俺が怒りを感じ、それを抑えきれなくなった。
瀬野さんが再び腕を振り上げる。その腕を掴んで、俺は瀬野さんの身体を床に押し倒した。
もうどうしても我慢出来なかった。こんな事したってどうにもならない、それでも。

確かに俺は何も知らない。だけど。瀬野さんだって俺を全然分かっていない。
俺がどんな気持ちで好きだって言ったのか…、何も分かっていない。

「いた、い…っ」
「簡単になんか言ってない!俺の気持ちを簡単に思ってるのはあんたの方だ!」
「いぶ、きく…っ」
「あんたが言わないのに、俺に分かる訳ないでしょう!俺は知りたい、そう言っているだけです。それがどうして分からないんだ!」

どうして分かってくれないんだ。好きだと、だからあんたの事が知りたいんだって言ってるだけなのに。
俺の気持ちが受け入れられないなら、それは仕方がない。それでも諦めるために知りたいだけなのに。
それすらもこの人はしてくれない。
俺の気持ちは行き場がない、消し去る事すら出来ないんだ。
だったら…。

「…今ここであんたを抱けば、少しは考えてくれますか」

自分でも信じられないような言葉が口から零れた。
瀬野さんも信じられない、と言いたげに目を見開く。
どうすれば良いのか、もうよく分からない。行き場のないこの想いをどうすれば良いのか…。
それでも抑える事なんか出来なくて。
瀬野さんの頬を指先で撫でる。白い頬は冷たく、震えていた。

「考えてくれなくても、あんたの中に傷を残せますね。あんたは一生俺の事を忘れられなくなる」
「そ、んな、やめ…」
「あんたが俺の願いを聞いてくれないなら、俺も聞きません」
「伊吹君…!」

瀬野さんのシャツを両手をかける。一気に引き裂くと、簡単にボタンが飛び散った。
瀬野さんが怯えるような目で俺を見る。それを見るのが辛くて、俺は目を閉じて瀬野さんの肌に口付けた。
目を閉じる瞬間、最後に見たのは瀬野さんの銀色の指輪だった。
それを瀬野さんの指から外させるためなら、俺はどんな事でも出来るのに。


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最終更新:2010年03月21日 20:10