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伊吹君が僕を好きかもしれない。
さゆりちゃんと東堂君との会話で生まれた仮定は、僕にとっては到底信じられるものではなかった。
そんなまさか…。でも、あの時の伊吹君は確かに変だったし、あの時は意味が分からなかった言葉。
あの言葉は僕を好きだから言った言葉だとしたら?
僕は伊吹君に好きだと言われたら困るし、さゆりちゃんに振られたのにあまり落ち込んでなかったのは、他に好きな人が出来たからだとしたら…。

…いや、やっぱり考えすぎだ。きっと何か別の理由があったんだ。
そうじゃないとおかしいじゃないか。…男同士だし。
同性間の恋愛に偏見がある訳じゃない、個人の自由だと思う。
だけど、伊吹君はさゆりちゃんという可愛い女の子を好きだったんだから。
それはもう過去の事かもしれないけれど、それでも次に好きになるのも女の子だろう。
だから、大丈夫。

そう思うのに、何だか不安で。
そんな訳はないと思うのは、何だか自分に言い聞かせているような気がする。
大丈夫だと思う事で、伊吹君の不自然な行動や言動を考えなくても良いようにしている。
それは…、もし本当だったら困るから――どうして?もしそれが本当でも、断れば良いだけなのに。
伊吹君を拒むのが怖いから?…拒めないから?

僕は大混乱中で、暫くの間伊吹君には会わない方が良いと思った。
会っても昼間みたいな変な態度を取ってしまいそうだし、時間を置いたら分かる事があるかもしれないし…。
きくいち以外の繋がりなんてない人だから、僕がきくいちに行かなければ会う事もない。そう思っていたのに。

伊吹君が再び僕の家を訪れたのは、その日の夜の事だった。
伊吹君は普段と変わらない真っ直ぐ視線を僕に向けて、僕の前に立っていた。

「伊吹君…」
「こんばんは、瀬野さん」
「どう、したの?」
「さゆりさんがこれ、返して来いって」

そう言って、差し出してきた伊吹君の掌には僕が置いていった七百円が乗っていた。
僕が一口も食べずに店を出た、醤油ラーメンの代金だ。
でも、注文はしたんだし、きくいちに落ち度があって食べなかった訳じゃないし…。
僕が受け取れずにいると、伊吹君は僕の手首を掴んだ。
何をするんだ。僕はびくり、と身体を強ばらせながら、伊吹君を見た。
伊吹君は僕の掌にお金を乗せて、手首を離す。

ただそれだけの事でドキドキして、何もなくてほっとしている…。
それは僕からしても不自然で、だから伊吹君に会いたくなかったのに…。

「受け取れないよ、だって注文はしたんだから」
「さゆりさんが言ってましたよ、『店長だったら、食べてもいない客からお金は受け取れないよって言う』って。俺もそう思います」
「でも、」
「悪いと思うなら、その七百円持ってまた店に来て下さい」

何を言っても、伊吹君は聞いてくれなそうだ。仕方なく、僕はそのお金を受け取る事にした。
伊吹君はいつも通りだった。むしろ、僕の方がおかしい。
僕は伊吹君の真っ直ぐな瞳に耐えられなくて、目を逸らした。

「…上がってく?お茶でも入れるよ」
「はい、話したい事があるんで」
「は、なし」
「はい、もう分かってるかもしれないけど」

伊吹君の顔を見る事が出来ないなら帰ってもらえば良いのに、僕は家に招き入れようとしていた。
そして、伊吹君は話がある、とそう言った。
僕がもう分かってるかもしれない話――それは僕が考えていた『そんなまさか』なんだろうか。
全く別の事かもしれない、そう願いながら僕は伊吹君を居間に招き入れた。

「ど、どうぞ」
「どうも…」

伊吹君にこうしてウーロン茶を出すのは何度目だろう。
その何度かあった中で、こんなに緊張しているのは初めてだ。
伊吹君は何を言うつもりなんだろう。それは僕が聞いても大丈夫なんだろうか。
聞かない方が良いかもしれない――頭の中で警告音が鳴る。

「さゆりさんと東堂から聞きました、相談したらしいですね」
「うん…」
「相談して分かったんですよね、あの時の事」
「わ、分からないよ。全然分からない」
「…分からない振りをしてるだけでしょう。どうして分からない振りをするんですか?」
「振りなんかしてない、分からないんだ。さゆりちゃんが言った事が本当なら尚更、どうして伊吹君があんな事したのか…」

だって、伊吹君が僕を好きな筈なんかない。だとしたら、どうしてあんな事をしたのか分からないんだ。
思い当たらないんだ、…他の理由が。

「難しく考えすぎですよ。さゆりさんが言った事で当たってます」
「違う、そんな訳な…」
「俺は下心があって、あんたを抱き締めたんです」
「し、下心って、」
「だからつまり、俺はあんたの事が――」
「言わないで!」

僕は伊吹君の言葉を強く遮った。
幾ら僕が鈍感でも、ここまで言われたら理解出来る。
だからこそ、言わないで欲しかった。言わないで欲しい理由は一つ。伊吹君が言っていた通り、僕が困るからだ。
伊吹君だって分かってる筈だ。僕が困ると言ったのは伊吹君の方なんだから。
それなのに、伊吹君は僕を睨みつけるように眉を潜めた。

「い、言ったら僕が困るって言ったの、伊吹君じゃないか。その通りだよ、困るから言わないで」
「…あんたがもう知ってるんなら、意味なくないですか?」
「そんな事ない。伊吹君が言わなければ、今まで通りに戻れるよ。友達みたいに…」
「俺はあんたを友達だとは思った事ないです」
「ひ、酷いよ。僕は友達だって思ってた。これからも友達だって思いたいんだ。だから、言わないで」

僕は必死だった、伊吹君に言わせないようにしようと必死で言い訳を考えていた。
伊吹君に言った通り僕が知ってしまった以上、言われても言われなくてもあまり意味がないのかもしれない。
だけど、言葉があるのとないのとではやっぱり違う気がする。
今だったら、何もなかった事に出来る気がする。何も知らずに、伊吹君に接していた頃に戻れる気がするんだ。

「でも、俺は言いたいです」
「ど、うして…。だって僕が困るからって…」
「それはあんたが知らなかったからです。知っているなら隠す必要もないし、どうせなら言葉にしたいです」
「でも、僕は…」
「困るのは分かってます。でも、俺は言いたいです、あんたを困らせても」

伊吹君が真っ直ぐで澄んだ瞳で僕を見る。
僕はもうその視線から、目を逸らす事が出来なかった。

「好きなんです、あんたの事」

伊吹君はついに決定的な言葉を口にした。真っ直ぐに僕の目を見つめたまま。
どくん、と鼓動が高鳴る。
本当は分かっていたんだ。伊吹君が言った通り、分からない振りをしていただけで。
だけど、伊吹君の言葉で気が付いた事がある。
気が付けば、涙が出てきた。ぽろり、と頬を伝って流れ落ちる涙は止まらなかった。

「お願い、だか、ら」
「瀬野さん…?」
「これ以上、僕の中に入ってこ、ないで…」

僕は伊吹君の事が好きなんだ、伊吹君が言った言葉と同じ意味で。
その感情に気が付く事に僕は本能で怖がっていたんだ。
それは、僕がけして抱いてはいけない感情だから。


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最終更新:2010年03月20日 18:15