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長い間、寝顔を見ていた気がする。
あれから瀬野さんは安心したのか、疲れたのか直ぐに眠ってしまった。
俺は瀬野さんをベッドに運び、ずっとその傍にいた。
どうしてなのか、眠くはならなかった。ずっと見ていたかったんだ、傍らで眠るこの人の顔を、ずっと。
瀬野さんはやっと本当の事を言ってくれた。ずっと心の奥底に仕舞っていた本当の気持ちを。
みさきさんに置いていかれた事、置いていかれたくなかった、一緒に連れていって欲しかった、そうすればずっと幸せだったのに、と。
きっとみさきさんは置いていったつもりなんかない。瀬野さんの気持ちを考えて、連れていく事なんか出来なかったんだ。
無償の愛――それを瀬野さんに注ぐ事が出来たみさきさんは、本当に素敵な女性だったんだろう。
だけど、瀬野さんにはそれを受け入れる事が出来なかった。
瀬野さんは本当にみさきさんを愛していたんだろう。こんなに長い間想い続け、置いていかれたという事実を悲しみ、他人を拒絶しまうほどに。
瀬野さんは純粋なんだ。自分にはこの人だと決めたなら、その人しか受け入れられなくなるほど純粋な人なんだ。
今の世の中に、そう出来る人がどれだけいるんだろう。普通だったら、好きな人に振られたら次へ、死んでしまった人の事だっていつかは忘れ、自分の幸せを求めるだろう。
だけど、瀬野さんはそれをしなかった、出来なかったんだ。
好きになった人をいつまでも想い続ける、それがけして報われなくても――そんな事が出来る人はそういないと思う。
だからなんだろうか、俺はほんの少しだけ迷いがあった。
みさきさんから瀬野さんを奪って良いのか、あんな純粋な人からその想いを奪って良いのか。
本当は俺が忘れさせるなんて、大それた事を思ってる訳じゃない。忘れられないなら、それでも良いと思っている。
だけど、傍にいたい。代わりでも良いんだ、瀬野さんの傍にいれるなら。
だけどそう思う事すら、俺は間違っているんじゃないだろか。
瀬野さんを幸せにしたい。心からそう思う。
だけど、瀬野さんを幸せに出来るのはみさきさんだけなんじゃないだろうか。
勿論こんな事、今更瀬野さんに言える筈がない。俺は瀬野さんと生きようと言ったんだから。
そう決めたんだから、絶対に言わない。だけどこれから先、常にこんな迷いが付き纏うような、そんな気がした。
そっと瀬野さんの傍を離れる。
寝室から抜け出してリビングに行くと、カーテンを締め忘れた窓から眩しいくらいの朝日が差し込んでいた。
眩しさに手を翳す。少しずつ視界がクリアになっていくと…、そこには一人の女性が佇んでいた。
誰もいない筈だった、この家には俺と瀬野さん以外、誰も。
他に人の気配なんかしなかったし、俺が来てから誰かが訪れた様子はない。
俺に背を向けて佇んでいる女性、白いワンピースに長い黒髪――俺は何故かその人がみさきさんだと思った。
幽霊なんか信じていない、見た事もない、だけど不思議なほどその人がみさきさんである事に納得している自分がいた。
「みさきさん…ですか?」
そっと名前を呼ぶと、彼女は俺に振り向いた。
その顔はホラー映画に出てくるような恐ろしいものではなく、綺麗な顔をした女性だった。
まるで生きている人間と変わらない、本当にそこに存在しているようだ。
よく幽霊は足がないというけれど、その人は足までしっかりと見えている。
本当にみさきさんなのか…?でも、じゃなかったらこの人がここに佇んでいる事はあり得ない。
俺は一晩中起きていたし、人が入ってきた形跡なんてなかったから。
「…みさきさん、ですよね?」
もう一度問いかける。だけど、彼女は返事をしない。
ただ微笑むだけ。否定も肯定もしない彼女に、俺はその人をみさきさんだと思い込む事にした。
怖いとは思わなかった。みさきさんじゃなかったら、逆に怖いだろう。
「…もしかして、瀬野さんを連れていくために出てきたんですか」
今更瀬野さんを連れていこうとしているのか。…俺が現れたから?
今までは瀬野さんの心にはいつもみさきさんがいた。だけど、そんな瀬野さんの想いを脅かす存在である俺が現れたから、瀬野さんを連れていこうとしているんだろうか。
だけど俺の問いかけに、彼女は困ったように少しだけ顔を歪める。
「俺は…瀬野さんを幸せにします。俺と瀬野さんは必ず幸せになります」
「瀬野さんに貴女の事を無理矢理忘れさせようとしてるんじゃないんです。忘れられないならそれで良いと思います」
「だけど、俺は瀬野さんといたい。貴女の事も含めて、俺は瀬野さんを愛していきます」
「俺だって貴女の事は忘れません。ずっと心の中にいると思います、瀬野さんを愛する者同士として」
「だから…、」
だから…何なんだろう?成仏して下さい、と言うのは違う気がする。
一人でベラベラと喋って、俺は何が言いたいのかよく分からなかった。
彼女は何も言わない、幽霊って喋れないのか…?
俺が言葉を失うと、彼女は優しく満面の笑みを見せた。
そして、唇が動く。
あ り が と う。
そう唇が動いた、声は出ていなかったけれど。
唇を閉じた彼女の優しい微笑みを見た時、強い朝日が差し込んで俺は思わず目を閉じた。
それから俺が目を開くまで数秒もかからなかったと思う。目を開くと、視界にはいつもと同じ瀬野さんの家の居間が広がっていて彼女の姿はどこにもなかった。
何だったんだろう…。夢でも見ていたんだろうか…。それとも、俺が見た都合の良い幻…?
いや、違う。あれは本物だ。本物のみさきさんだ、と俺は何故か確信していた。
俺にありがとう、と言ってくれた。俺を認めてくれたんだろうか。
それとも、俺の迷いを叱咤するために出てきたのかもしれない。
そうだとすると、礼を言うのは俺の方だ。
みさきさんに会った事で、俺は不思議なくらい迷いがなくなっていた。
彼女は俺の背中を押してくれたんだ――迷う事なんかない、幸せになって、と。
俺が都合の良いように捉えてるんじゃない。あの微笑み、言葉、それがみさきさんが許してくれた事を物語っている。
ありがとう、みさきさん。
俺は瀬野さんを必ず幸せにします。約束します。
だから、いつまでも見守っていて下さい、瀬野さんと俺の事を。
いつか再会出来る、その日まで。
「伊吹君…っ」
瀬野さんが慌てたように寝室から出てきたのは、その数分後の事だった。
酷く焦っていた瀬野さんは、俺の姿を見つけるなり安心したように微笑んだ。
「帰ったのかと思った…。あれ?変だね。ずっと一人だったのに…、一人でいるくらい何でもない事な、のに…っ」
「瀬野さん…」
瀬野さんは微笑んだままのその顔で、涙を一筋流した。
そんな瀬野さんを俺は強く抱き締める。強く強く、離れていかないように。
「一人じゃ、もう駄目みたいだ…。おかしい、ね…」
「…おかしくなんかない」
「一人にし、ないで…っ」
「俺はずっとあんたの傍にいます」
やっと心からそう言えた。
俺はやっと心から瀬野さんを抱き締める事が出来た。
みさきさんのおかげで。
最終更新:2011年12月04日 01:13