※注意事項元号表記は西暦を補足するが、月日は旧暦のまま。
※注意事項生年について直接の資料は無いが(没年-死亡年齢+1(数え年の調整))で算出した。
※注意事項出典は幕府史料>藩史料>地域史料>その他の順で優先する。
※注意事項兄弟、子息など、改名などで判らず重複する可能性はある。
※注意事項現代語訳の間違い誤記等の存在は否定できない。
【呼称】十蔵(
新訂寛政重修諸家譜)、左近将監藤原貞清(
干城録)
【生年】文禄3年(1594年)(逆算)
【没年】寛文12年9月12日(1672年)(
新訂寛政重修諸家譜)
【寿命】79歳(
新訂寛政重修諸家譜)
【知行】1500石(
新訂寛政重修諸家譜)
【官位】従五位下左近将監(
新訂寛政重修諸家譜)
【役職】大番、御腰物持、御徒頭、御目付、水口城在番、江戸北町奉行(
新訂寛政重修諸家譜)
【属性】旗本(
新訂寛政重修諸家譜)
【実父】石谷清定 (五郎大夫)(
新訂寛政重修諸家譜)
【実母】今川家家臣久嶋與平の娘(
新訂寛政重修諸家譜)
【義父】
【妻室】板倉内膳正重昌の養女(
新訂寛政重修諸家譜)
【後妻】
【兄弟】石谷清平、野間与五右衛門政次の妻、久嶋權右衛門の妻、石谷清正、石谷貞清(
新訂寛政重修諸家譜)
【子息】石谷武清、都筑彌左衛門爲基の妻、本多百助信賢(孫十郎。本多百助信次の養子となる)(
新訂寛政重修諸家譜)
【養子】
【法名】土入(
新訂寛政重修諸家譜)
【略歴】
武蔵国多東和泉村で生まれる。(
寛永諸家系図伝)
慶長14年(1609年)、16歳の時に徳川秀忠に召出され大番となる。(
新訂寛政重修諸家譜)
慶長18年(1613年)、18歳の時、 辻忠兵衛久吉に「武功を挙げる気質ではない」と惜しまれた時、石谷貞清は憤り、「どうしてそのような事を言うのか。未来の事は判らないだろう」と応じた。是に対し辻忠兵衛久吉は、「武辺を心がける者は命を惜しむものだ。石谷貞清の友人はみな命を軽く見るものばかりなので、どうでもいい時に命を落とすであろう。武功を挙げる機会が来ても、その頃には命は無く残念な事になるだろう。」と答えた。石谷貞清はこの後心を改めたという。(
干城録)
慶長19年(1614年)、大坂冬の陣の際、兄の所領の土民7~8人を従士とし、騎兵に混じって従軍した。(
干城録)
元和元年(1615年)、大坂夏の陣では土岐山城守定義の指揮下で江戸城の守備をするように命じられたが、命令を破り徳川秀忠の行軍に徒歩侍として付き従った。(
新訂寛政重修諸家譜)
元和元年(1615年)、徳川秀忠の駕篭を追いかけていた際、家僕1人に具足櫃を持たせて居たという。(
干城録)
元和元年(1615年)、石谷貞清は、駿府で徳川秀忠の軍勢に追いつき、かねてから親しい近習の士に会い、「江戸の守備に残された事が悔しく推参した。重い法令を破ったため処刑されれても悔しくは無い。徳川秀忠に参上を伝えて欲しい。」と願ったが、「主君は法令を堅守させる。どうして許すものか。もしこんな事を許したら、命令を無視して後に付き従ってくる者がたくさん現れるであろう。それで処刑が行われればよくない事である。」と諭すものが多かった。(
干城録)
元和元年(1615年)、浜松まで付従った際、徳川秀忠より名前を尋ねられた。(
干城録)
元和元年(1615年)、舞坂に到着した際に、徳川秀忠が「これまで側を離れず付従っていた者に十蔵という者が居るが、これは誰だ?」と訊ねられた。御側の者が、彼は石谷九十郎の弟ですと答えた。(兄の石谷友之助清正が九十郎を称したかは寛永諸家系図伝にも記載が無く不明だが、原文のまま記載する。)石谷貞清は「この度の従軍を許してもらえなかった事が悔しく、此処まで参上しました。」と徳川秀忠に伝えた所、徳川秀忠は頷いただけだった。(
干城録)
元和元年(1615年)、京都に到着した際、この行動に感心した徳川秀忠より黄金三枚を賜った。(
新訂寛政重修諸家譜)
元和元年(1615年)、伏見に到着した後、老中が石谷貞清を呼び出した。石谷貞清は命令違反の処罰を受けるのであろうと思っていたが、命令違反を犯しても従軍した奇特さを評価されて黄金3枚を賜った。(
干城録)
元和元年(1615年)、合戦では徳川秀忠本陣にて斥候を務めた。(
新訂寛政重修諸家譜)
元和元年5月7日(1615年)、前橋旧蔵聞く書には、大阪城に火がついた際、石谷貞清は徳川家康に従っていたと記録がある。(
干城録)
元和元年5月8日(1615年)、大阪城が陥落した日の夜は雨が激しかった。石谷貞清は永井直勝の陣屋に居たが心もとなく思い、徳川秀忠の寝所に近侍し、むしろや畳を持って雨を防いでいた。徳川秀忠はこれを怪しく思い、灯り障子を開けて名を尋ねることが2回あった。(
干城録)
元和2年1月9日(1617年)、上総国金剛寺村、上総国山邊郡に300石の領地を与えられ、御腰物持を務めた。(
新訂寛政重修諸家譜)
東金への御遊猟より帰る際に石谷貞清は篭の側に付き従っていたが、徳川秀忠の意に反する事があり恐怖しながら付き添っていた。新宿に着いた際に、石谷貞清が宿にて風呂屋に入ろうとした所、老中より召出しがあった。老中からは「先ほどの罪を反省し謹慎蟄居せよ。」と言われたが、石谷貞清は「それは徳川秀忠の命令なのか、老中の考えなのか。」と問い返した。老中は「主命では無いが、先の状況を察するに謹慎蟄居するべきである。」と答えたので、石谷貞清は「しかしなるほど、小身の者が蟄居謹慎してしまったら、誰が見つけ出してくれるのか。」と言って、結局老中の命令に従わなかった。翌日の移動時には徳川秀忠の駕篭のすぐ脇から離れて、駕篭の先にて付き従った。この日ある池に白鳥が降り立った際に、徳川秀忠がそれを鉄砲で撃ち止めた。石谷貞清は裸になって池に飛び込み、大森半七もそれに続いたが、石谷貞清の方が白鳥を捕らえて徳川秀忠に差出した。その後、鹿狩をしようといって板橋に移動した時、徳川秀忠より石谷貞清に対して刀を持てとの命令が下り、御刀の役を務めたが、この時より徳川秀忠の機嫌が直った。徳川秀忠には、この頃御鷹野に出る際に御刀の役を勤めさせる厳選された麾下の士10人がいたが、石谷貞清はこの内の1人であった。(
干城録)
諸侯に確執が起きて反乱が発生しようかという際に、旗本の中で武勇の者を遣わし宥めたら良かろうと評定した結果、久世三左衛門広宣か石谷貞清を除いてはその任に耐える者は居ないだろうとの話になり、先ずは石谷貞清を召出した。年寄衆は石谷貞清に向かい「このような命令を与えるには誰が良いだろうか?」と、その考えを訊ねたので、石谷貞清は「久世広宣が適任であろう」と答えた。人々もそうであろうと思い、また、「もう1人追加するとしたら誰か」と聞いた。石谷貞清は「決めがたいので答えられない」と答えたが、「強いて答えるなら誰か」と言われるので、「久世広宣の副使となるのは石谷貞清しかいない」と自ら答えた。人々は最初からそう思っていたので、良く自ら言い出したと石谷貞清を評価し、その両名が仰せを承り使いを務めた所、無事確執は止んだ。(
干城録)
元和4年5月(1618年)、相模国愛甲郡に200石を加増される。(
新訂寛政重修諸家譜)
元和8年4月(1622年)、徳川秀忠が日光社参の際に急遽宇都宮から帰還する事があり、徒歩で供を務めた。(
新訂寛政重修諸家譜)
元和8年4月(1622年)、徳川秀忠が日光社参の際に故ありて急遽下野国宇都宮から帰還する事があった。この時書院番の某と石谷貞清が徳川秀忠の馬の左右にあった。極めて逸物であったので鐙にあわせて馳せて付き従ったが、某は大手御門の所で力尽きた。石谷貞清は少しも怯まず玄関まで同行したので、とても関心され褒賞を賜った。(
干城録)
寛永2年7月27日(1625年)、領地の朱印状を賜わる。(
新訂寛政重修諸家譜)
寛永9年7月5日(1632年)、御徒頭となる。(
新訂寛政重修諸家譜)
御徒組の徒士の家に鶴が降りた際に、薪割りの男が木片を投げた所、それが当たって鶴が死んでしまった。驚いて騒ぎになったが生き返らなかった。その問題の報告を受けたので、組頭がその者を捕らえて、その家の主人を軟禁し、急ぎ石谷貞清の所へ報告に来た。石谷貞清はこの日他所に招かれており夜遅くに帰宅したが、この世の終わりかというような顔で組頭は待っていた。石谷貞清は声を掛け、「鶴は死んで落ちたのか?」と言ったが、組頭は「いいえ、殺してしまいました。」と答えた。石谷貞清は声を張上げて「死んで空から落ちたというのなら、毒などに当たったのかもしれない。明日登城して報告しよう。」と言ったので、組頭はその真意を察して落ち着いた。そうして翌日、石谷貞清は前述のように報告し、問題無く事は済んだ。その上、鶴は毒に当たったという理由で食べるには危険なので、その鶴は下賜され、組の某に与えたので、人々はこの処置に感心しあった。(
干城録)
寛永10年4月16日(1633年)、御目付となる。(
新訂寛政重修諸家譜)
寛永10年8月(1633年)、徳川家光が品川に御出でになり麾下の士の乗馬を御覧になった際に、石谷貞清は命令を受けてこの指揮を行った。(
干城録)
寛永10年8月26日(1633年)、洪水により被害を受けた畿内の堤防の検分調査を行った。(
新訂寛政重修諸家譜)
寛永10年12月26日(1634年)、甲斐国山梨郡、八代郡に1000石の加増を賜り、合計1500石の知行となった。(
新訂寛政重修諸家譜)
寛永11年4月(1634年)、徳川家光の御遊猟の供を務めた。(
干城録)
寛永11年6月(1634年)、徳川家光の上洛の際に供を務めた。(
干城録)
寛永12月10月(1635年)、徳川家光の御遊猟の供を務めた際に、獲物の鳥を賜った。(
干城録)
寛永13年2月25日(1636年)、東福門院和子の病気に関連して、京都に赴き御使いを務めた。(
新訂寛政重修諸家譜)
寛永13年6月26日(1636年)、新たに寛永銭を鋳造する事となり、命令を受けて東海道に赴き近江国坂本に到った。(
新訂寛政重修諸家譜)
寛永14年10月(1637年)、松倉豊後守の領地である領地肥前国高来郡にてキリシタンの賊徒が蜂起し、有馬原の旧城に籠城したと報告があったため、板倉内膳正重昌が御使に任命され、石谷貞清は御目付として遣わされた。この時同地に到達したら、有馬玄蕃頭豊氏、立花飛騨守宗茂、鍋嶋信濃守勝茂などの兵を集めて賊徒を誅伐せよ、もし兵が足りなければ細川越中守忠利、松平筑前守忠之の兵も集兵せよとの命令を受け、その夜江戸を発って同地に赴いた。(
干城録)
寛永14年11月9日(1637年)、島原の乱が発生したため、命令を受けて上使板倉内膳正重昌の副使となり同地に赴いた。(
新訂寛政重修諸家譜)
寛永14年12月6日(1638年)、風波に遮られてこの日嶋原に着陣した。(
干城録)
寛永14年12月20日(1638年)、暁頃に先ず賊兵の様子を見てみようと、板倉重昌と石谷貞清は相談し、鍋島勝茂、立花宗茂に内容を伝え、少し鉄砲を撃ち掛けたところ、立花宗茂の兵が思いのほか外城近くに進軍したので、城中から激しく鉄砲を撃ち掛けられたので、寄せ手に戦死者が多数出た。石谷貞清は軍勢を制して、最初から城攻めにするわけではないと兵を整え、石火矢を用意し、近いうちに総攻めにしよう、と命令を下した。(
干城録)
寛永15年1月1日(1638年)、攻城戦の時に賊徒が鉄砲を使用して防御したため、友軍に戦傷者が多く発生し敗走した。板倉重昌と供に馬を巡らせて諸卒を督戦したが、進軍が停滞したため自ら塀を乗越えて城内に突入しようとした。この時に板倉重昌は鉄砲に当たり戦死した。石谷貞清も奮戦したが、槍を切り折られ甲冑指物も損傷し負傷もしたため撤退した。この日石谷貞清の従士3人が戦死し、全軍においても戦傷者が多数発生した。友軍の損害が大きかったため敵の夜襲を想定し、石谷貞清は負傷に耐えて諸陣を巡見し、不慮の自体が発生しないように警戒厳重にし、細川越中守忠利、松平(黒田)右衛門佐忠之、松平(嶋津)大隅守家久達に援軍の依頼を出し、その上で江戸に合戦の戦況を報告した。(
新訂寛政重修諸家譜)
寛永15年1月1日(1638年)、軍備は総て整ったとの報告があったので、東雲の頃から諸軍一斉に攻め込んだ。賊兵も弓、鉄砲で激しく防御したので、寄せ手は乱れ撤退しようとした。板倉重昌、石谷貞清は馬を乗廻して督戦したが、進軍しかねる形勢であった。やがて両人は三ノ丸と出丸の間の5~6間ほど南の方の堀に取り付き城内に乗入れようとしたところ、鉄砲が雨よりも激しく、石もまた多く投げつけられたので、ついに板倉重昌は鉄砲に撃たれ、石に押し潰されて死んでしまった。石谷貞清は携えていた鑓を斬り折られ、賊徒の攻撃で鑓疵を受けたが、家臣の湯浅角大夫が助けに来て、鑓でその賊徒を突き落とした。城中からは激しく鉄砲を撃ち掛けられたので、湯浅角大夫はこのために深手を受けて戦死した。こんな次第で石谷貞清はなお諸軍を督戦したものの、取って返して戦う者は居なかった。賊兵は石谷貞清の指していた幟を取ろうとして争いあっていた。このような激しい戦いに、石谷貞清は兜は砕け、鎧は千切れ、手傷をも受けてはいたが、従士の助けによって、かろうじて自分の陣地に帰る事ができた。この時左右より鉄砲を放たれ大変であったが、巧妙に撤退した手腕を、人は皆は美称した。この戦いで石谷貞清の家人で戦死する者は3人、負傷する者は多かった。このように石谷貞清は手傷を受けてはいたが、夜襲の可能性を考慮し、傷に耐えて4回諸軍の陣を見廻った。(
干城録)
寛永15年1月1日(1638年)、この日、板倉重昌の子である板倉主水佑は父の弔い戦をしようと思ったが、士卒を多く討たれて思い通りにならなかった。石谷貞清に頼み諸軍に加勢を頼んだが、負傷者が多くどこも承諾しなかったので、むなしく思い留まった。(兵家茶話には、板倉主水佑が弔い戦をしようと石谷貞清に願出た所、石谷貞清は承諾したと言って、細川忠利の陣から突き出した柵を引き除けて、思う存分戦って敵の首を取り、一揆衆を城内に追い込んだと記しているが、2月28日の戦いを混同した物であろう。)このような状況であったので、寄せ手の戦死負傷が多かったため、細川越中守忠利、松平筑前守忠之などに急いで援軍を差し向けるように指示を下した。また、この様子を江戸に報告した。(
干城録)
寛永15年2月26日(1638年)、三浦志摩守、村越七郎左衛門が御使として嶋原に着陣した。石谷貞清は両人を伴い船に乗り、海に出て城の様子を偵察し、戸田左門氏鉄のところに行って、「今日、海上より城を偵察したところ、賊徒が海岸に出てきて海草を取っていた。これは兵糧が尽きたのでないだろうか。また本丸に引っ込んでいる様子であったので、近いうちに総攻めをしよう」と言った。(
干城録)
寛永15年2月27日(1638年)、夜、榊原飛騨守職直が本丸に討ち入り賊徒を撃殺し、榊原左衛門佐職信も乗り込んで火を放ったので、諸軍は一斉に攻めかかった。石谷貞清はその際、戸田氏鉄のところに居て離れていたので、この様子を見て馳せ参じた頃には賊徒は本丸に入り、程なく夜になってしまったので、敵には遭わなかった。(
干城録)
寛永15年2月27日(1638年)、諸軍が敵城に攻入った。(
新訂寛政重修諸家譜)
寛永15年2月28日(1638年)、暁天、板倉主水佑と石谷貞清は伴に、細川忠利の陣の方から進んで柵を破り、たくさんの賊徒をことごとく平定した。(
干城録)
寛永15年2月28日(1638年)、石谷貞清は板倉主水佑重矩と供に城に突入し、この日賊軍は平定された。(
新訂寛政重修諸家譜)
寛永15年3月5日(1638年)、石谷貞清は島原より江戸に帰還し、使用した甲冑指物等を御覧に入れた。その後、島原の乱における軍令違反を咎められ、蟄居処分となった。(
新訂寛政重修諸家譜)
このような状況で、ある時、老中は石谷貞清を招き、「この度の板倉重昌の戦死は石谷貞清が逸り過ぎたせいでは無いかと聞いたが、どういうことか」と、訊ねられたので、石谷貞清は「私の采配が悪いとは言うが、松平信綱、戸田氏鉄を派遣したと聞いた以上、急いで城を攻め落とさないとならなかったのです。その両人は戦後の仕置きをするために派遣された、と聞いたので、冷静で居られるわけが無い。ひたすら年内に城を攻略しないとならないと思っていたが、その甲斐無く元旦の戦いで板倉重昌を戦死させてしまった。かれは戦死という冥加を叶える事は出来たが、石谷貞清は生き長らえて、みっともなくもこんな事を言われるのは悔しいことです。」と、言った所、この後この謹慎処分が解除されたという。(
干城録)
寛永15年12月30日(1639年)、蟄居処分を解かれた。(
新訂寛政重修諸家譜)
寛永18年12月15日(1642年)、与力10騎、同心50人を預けられた。(
新訂寛政重修諸家譜)
正保2年9月23日(1645年)、命令により近江国水口城を守備した。(
新訂寛政重修諸家譜)
慶安2年(1649年)、畿内の洪水調査のための同地に赴いた。(
干城録)
慶安3年閏10月10日(1650年)、洪水被害の調査のため、畿内及び近江国・伊勢国などを巡見した。(
新訂寛政重修諸家譜)
慶安4年6月18日(1651年)、に江戸北町奉行に就任した。(
新訂寛政重修諸家譜)
慶安4年8月16日(1651年)、従五位下左近将監に叙任された。(
新訂寛政重修諸家譜)
慶安4年(1651年)、油井正雪、丸橋忠弥等の反乱計画が判明した際、石谷貞清は騎兵を連れて丸橋忠弥を捕らえた。油井正雪は駿河において自殺した。(
干城録)
万治2年1月28日(1659年)、職を辞す。(
新訂寛政重修諸家譜)
万治2年7月27日(1659年)、致仕。養老料として廩米600俵を賜る。(
新訂寛政重修諸家譜)
【備考】
板倉内膳正重昌の養女(牧野駿河守家臣槇定繁の娘。)(
新訂寛政重修諸家譜)※板倉氏の項。
石谷貞清の子孫は代々雲松山泉龍寺を菩提寺とした。(
新訂寛政重修諸家譜)
【呼称】三大夫(
新訂寛政重修諸家譜)
【生年】慶安2年(1649年)(逆算)
【没年】元禄2年8月5日(1689年)(
新訂寛政重修諸家譜)
【寿命】41歳(
新訂寛政重修諸家譜)
【知行】
【官位】
【役職】
【属性】旗本(
新訂寛政重修諸家譜)
【実父】石谷武清(
新訂寛政重修諸家譜)
【実母】
【義父】
【妻室】榊原左衛門職信の娘(
新訂寛政重修諸家譜)
【後妻】稲垣信濃守家臣稲垣十左衛門重章の娘(
新訂寛政重修諸家譜)
【兄弟】石谷清成、佐野内蔵丞政信の妻、喜多見重政(喜多見五郎左衛門重恒の養子となる)、内藤十之丞忠廣の妻、高木貞右衛門爲治の妻(義妹)、京極伊織高沖の妻(義妹)、稲垣信濃守家臣稲垣十左衛門重治の妻(義妹)(
新訂寛政重修諸家譜)
【子息】石谷榮清、高木貞右衛門爲治の妻(石谷武清の養女となる)、京極伊織高沖の妻(石谷武清の養女となる)、稲垣信濃守家臣稲垣十左衛門重治の妻(石谷武清の養女となる)(
新訂寛政重修諸家譜)
【養子】
【法名】
【略歴】
万治2年8月13日(1659年)、11歳の時に徳川家綱に御目見。(
新訂寛政重修諸家譜)
【備考】
家督相続前に死没した。石谷清成死没時(元禄2年8月5日(1689年))に息子の石谷榮清は8歳(生年、延宝9年(1681年))と幼く、石谷清成の父である石谷武清が孫達を養子として引き取ったようである。(図書助論考)
【呼称】鉄之助、因幡守、長門守、大和守(
寛政譜以降旗本家百科事典)
【生年】
【没年】
【寿命】
【知行】2500石(上総国、下総国、下野国、遠江国)(
寛政譜以降旗本家百科事典)
【官位】諸大夫(因幡守?)(
寛政譜以降旗本家百科事典)
【役職】小普請、書院番、使番、火事場見廻、目付、大阪町奉行、普請奉行、勘定奉行、江戸北町奉行、御留守居次席扱い、一橋家老、講武所奉行、西ノ丸留守居、講武所奉行(
寛政譜以降旗本家百科事典)
【属性】旗本(
寛政譜以降旗本家百科事典)
【実父】石谷直清(
寛政譜以降旗本家百科事典)
【実母】
【義父】
【妻室】
【後妻】
【兄弟】
【子息】石谷鉄之丞(
寛政譜以降旗本家百科事典)
【養子】
【法名】
【略歴】
文化14年8月4日(1817年)、父である石谷直清の家督相続。小普請となる。(
寛政譜以降旗本家百科事典)
天保2年3月23日(1831年)、書院番となる。(
寛政譜以降旗本家百科事典)
天保8年1月11日(1837年)使番となる。(
寛政譜以降旗本家百科事典)
天保8年(1837年)9月10日、布衣を許される。(
寛政譜以降旗本家百科事典)
天保14年2月19日(1843年)、火事場見廻を兼務する。(
寛政譜以降旗本家百科事典)
天保15年9月10日(1844年)、目付となる。(
寛政譜以降旗本家百科事典)
嘉永2年12月24日(1850年)、堺奉行となる。(
寛政譜以降旗本家百科事典)
嘉永2年12月25日(1850年)、諸大夫となる。(
寛政譜以降旗本家百科事典)
嘉永5年5月19日(1852年)、大阪町奉行となる。(
寛政譜以降旗本家百科事典)
嘉永75月20日(1854年)、普請奉行となる。(
寛政譜以降旗本家百科事典)
安政2年8月9日(1855年)、勘定奉行となる。(
寛政譜以降旗本家百科事典)
安政5年5月24日(1858年)、江戸北町奉行となる。(
寛政譜以降旗本家百科事典)
安政5年(1858年)、安政の大獄では五手掛として処断に関与。(
寛政譜以降旗本家百科事典)
安政6年(1859年)、安政の大獄では五手掛として処断に関与。(
寛政譜以降旗本家百科事典)
安政6年12月28日(1860年)、御留守居次席扱いとなる。(
寛政譜以降旗本家百科事典)
文久2年6月5日(1862年)、一橋家老を兼務する。(
寛政譜以降旗本家百科事典)
文久2年8月20日(1862年)、講武所奉行となる。(
寛政譜以降旗本家百科事典)
文久2年閏8月25日(1862年)、西ノ丸留守居となる。(
寛政譜以降旗本家百科事典)
文久2年(1862年)12月23日、江戸北町奉行時代に、飯泉喜内の取調べ中に問題があったとして隠居、謹慎を命じられる。(
寛政譜以降旗本家百科事典)
文久3年1月14日(1863年)、謹慎を解除される。(
寛政譜以降旗本家百科事典)
元治2年1月20日(1865年)、 再び講武所奉行となる。(
寛政譜以降旗本家百科事典)
慶応元年閏5月16日(1865年)、隠居手当てとして300俵を賜る。(
寛政譜以降旗本家百科事典)
慶応2年11月18日(1866年)、御役御免。(
寛政譜以降旗本家百科事典)
【備考】
井伊直弼とは親交があったと言われる。安政5年(1858年)に始まったとされる安政の大獄では、井伊直弼に反抗的な幕府官僚が排除されている。石谷穆清は、この時期に重要な江戸北町奉行に就任し行政や司法を預かり、寺社奉行松平宗秀、勘定奉行池田頼方、大目付久貝正典、目付神保長興などと伴に五手掛として安政の大獄における一連の処断(主な受刑者として吉田松陰、飯泉喜内、橋本左内など)に関わったとされる。井伊直弼側の人物と見られる一方で橋本左内などの処分に関して流罪を主張するなど、井伊直弼に対して必ずしも従順であったわけではない様子が見て取れる。安政7年3月3日(1860年)に井伊直弼が桜田門外の変で暗殺された後、文久2年6月5日(1862年)に南紀派の井伊直弼と対立していた側の一橋家老を僅かな期間ながら勤めており、文久2年に行われた文久の改革で安政の大獄の処断に関わった者が処分されているが、この際も文久2年12月23日(1862年)に隠居謹慎が命じられたものの、文久3年1月14日(1863年)には謹慎が解除されている。この時に息子である石谷鉄之丞に恙無く家督相続が行われており、石谷鉄之丞は文久3年1月19日(1863年)に諸大夫(従五位下安芸守?)に任じされている事から、処分は形式的なものに過ぎなかったものと考えられる。また石谷穆清は、ペリー来航に伴い危機感を覚えた江戸幕府による、軍備の西洋式の近代化のため安政3年(1856年)に正式に発足された、講武所奉行を務めている。(図書助論考)
最終更新:2015年12月11日 12:29