ブルグント=フランス戦争
| 参戦戦力 |
| ブルグント騎士団 |
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自由の星 |
| ブルターニュ |
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フランス国 |
フランス人大反乱
197X年、ブルグントでこれまでにないほど巨大なフランス人の反乱が巻き起こった。フランス人の長老的存在であり、また最大の地下組織である「自由の星」のリーダーであったジャン・ムーランがパリにおいて蜂起すると、抑圧対象とされていたフランス人の多くは一斉に騎士団に対して反旗を翻した。もちろん武器などはなかったため彼らは与えられていたハンマーなどの工具や鎌などの農具で戦い、あとはフランス政府が参戦するのを待つのみであった。
フランス政府の動向
しかしムーラン達地下組織の思惑と異なり、フランス政府の行動は非常に遅かった。特にブルターニュの州自治を認める事実上の敗北から混乱を極めていたフランス政府ではそもそもエルベ以東を諦める動きが活発化しており、モーリス・パポン首相もラウル・サラン主席も領土奪還、即ちブルグントとの戦争には完全に奥手であり、ブルグントは資源の不足によりいつか自壊するだろうという観測でただ待ち続けるだけであった。(ブルグントは実際孤立化しているようにしか見えなかったため何の根拠もない理論というわけでもなかったが、一方で張り巡らされたブルターニュ経由などの裏ルートの存在を見抜ききれていなかった。)しかしその一方でフランス国民は対ブルグントに非常に弱腰な政府を非難し始めており、フランス人の反乱から遅れること数ヶ月、大規模なストライキとデモに屈してパポンは辞職。サラン主席は議会が選出したジョルジュ・ポンピドゥーの首相就任の承認を拒否し続けていたがやがて圧力に屈して妥協せざるを得なかった。
ポンピドゥー政権はブルグントでの反乱に対する大規模な支援を可決、これに応じてブルグント騎士団ではフランスに対する攻撃が決定され、ブルグント=フランス戦争が始まるところとなった。
自由の星の壊滅
フランス政府に介入を決断させ、またフランス政府があてにしていたフランス人地下組織「自由の星」であったが、周囲のフランス人が蜂起したためにブルグントにとっては規模こそ大きいもののこれまで幾度となく鎮圧してきた反乱と大差ないものであった。
自由の星はフランス政府が介入を決定するまでに反乱のピークは越えてしまっていた。特にフランスとの戦争を見計らったように自由の星でブルグントのスパイだったポール・トゥヴィエの反乱が起きるとその混乱の中でムーランが殺害され、自由の星は組織としての体を失った。
その後騎士団のスパイとして名誉ブルグント人(※)であるクリスティアン・ド・マジエールは自由の星の再結成を宣言し、かつての重要メンバーや有志をかき集めると罠にかけ、全員を処刑した。
ここに自由の星は壊滅した。
フランス政府の混乱
フランスとブルグントは直接的な戦闘に入った。しかし完全に行動を読み違えたフランス政府内部では即時休戦を求める声が大きくなり、サランも公式にブルグント統治領を承認する代わりに講和を結ぶべきと発言した。
しかしポンピドゥーがその内容での講和に悩んでいると、突然ブルターニュがフランス政府に対して宣戦を布告。フランスは結局二国を相手して戦うこととなってしまった。
完全に不意を突かれたフランスはブルターニュの奇襲に抵抗できず、やがてブルターニュ領内をブルグント軍が通過する形でセーヌ川のラインは容易く突破されることとなってしまった。
戦争の終焉
ポンピドゥーは行動の遅延を自身の責任として辞任し、議会は主席に全権を委任した。
その上で政府はブルグントに対して講和を提案し、ブルターニュの独立とブルグントの承認による同時講和を提案した。
しかしブルグントはこの講和を拒否。その後対仏戦争の中では初の大規模攻勢がリヨン近郊に行われるとわずか数時間でフランス軍は壊滅した。結果政府は勝ち目がないと判断し、すぐに抵抗を諦め、領土の割譲を視野に入れた講和会議を開始することとなった。
マルセイユ講和会議
マルセイユにおいてブルグント騎士団、ブルターニュ政府とフランス政府は講和会議を行った。その中でブルグント、ブルターニュ両国は領土を要求し、またブルターニュは独立を要求した。
既にフランス政府はこれに抵抗する術を持っておらず、この条件をほぼそのまま承認した。
ここにフランス政府は殆どの領土を失うこととなった。
その後
講和条約締結の直後、ヒムラー総長が死亡していた事実が報道された。いつ死んだのか、なぜ死んだのかすら不明だったがそれと同時にハイドリヒ副総長が総長へ就任したことが宣言された。
最終更新:2022年10月30日 22:06