Kingdom of Nubia(英語)
مملكة النوبة(アラビア語)
国旗
国章
国の評語:神、王、法は我等と共にあり
国歌:ソロモン王歌
公用語 |
英語 アラビア語 アムハラ語 |
首都 |
ハルツーム |
最大の都市 |
オムドゥルマン |
国王 ソロモン朝 アナム・アッ=タールトゥ2世 首相 社会君主党 イブン・サルダール 面積 1,812,000km² 人口 90,805,023人 変遷 独立 1956年1月1日 |
通貨 |
ヌビア・ディナール |
GDP |
1150億ドル |
概要
ヌビア王国(ヌビアおうこく、英語:Kingdom of Nubia)は、アフリカ北東部に位置する君主制国家。人口9080万人を擁し、ナイル川上流~中流に渡る国土を持つ。首都はハルツーム(カルトゥームとも)。名前に反して、主要民族であるヌビア人は多くがアラブ人に同化している。コプト正教を国是とするが、北部で信仰が盛んなイスラム教も保護対象となっている。
古代ヌビア諸王国時代
かつてナイル川流域北部はヌビアと呼ばれ、北に栄えた古代エジプトの影響を強く受けた地域である。古代エジプトの諸王朝は、勢力が強まるとナイル川沿いに南下して金や象牙の交易拠点を作り支配領域を広げ、国力が衰退すると撤退することを繰り返した。そうした中、紀元前2200年頃に、南部から移動してきた黒人の集団がこの地域にクシュ王国と呼ばれるはじめての王国を建国した。この王国は中王国時代のエジプトの影響を受けながら勢力を拡大していった。その後、エジプトが新王国時代に入るとトトメス1世がクシュを滅亡させた。
紀元前900年ごろ、ナパタを都としてクシュは再興し、やがて衰退したエジプトに攻め入ってエジプト第25王朝を建国した。第25王朝はアッシリアに敗れヌビアへと撤退したが、ヌビアの支配権は保持し続けた。紀元前6世紀半ばにクシュは首都をさらに南のメロエへと遷都し、以後この王国はメロエ王国の名で知られることとなった。メロエは牧畜とソルガムの農耕を主産業とし、さらに鉄の産地としても知られた。
キリスト教化
4世紀ごろ、メロエはエチオピア高原のアクスム王国によって滅ぼされ、その故地は北からノバティア王国、マクリア王国、アルワ王国の三王国に分かれた。三国ともに5世紀頃にキリスト教を受容し、以後キリスト教を信仰し続けた。
イスラームの流入
1505年にはイスラム教のフンジ・スルターン国が建国されてキリスト教勢力は消滅した。1596年には西のダルフールにおいてもイスラム教のダルフール・スルターン国が建国され、この地方は完全にイスラム化された。
1821年エジプトのムハンマド・アリー朝のイスマーイール・パシャにより後のヌビア北部が征服された。一方で南部にはエチオピア帝国が支配を広げた。1840年、エジプト副王領そのものがロンドン条約によってイギリスの保護下に置かれる。1874年、ダルフール・スルターン国を滅亡させる。
1883年に北部でムハンマド・アフマドをマフディー指導者とするマフディーの乱がおこり、1885年には、エジプト/イギリス軍のチャールズ・ゴードンを、ハルツームで戦死させ、マフディー国家が建設された。
1898年イギリスのホレイショ・キッチナー率いる英埃軍がオムダーマンの戦い(オムドゥルマンの戦い)などでマフディー国家を制圧した。しかし、この十余年のマフディー国家の支配下で進出していたフランスのマルシャン部隊とイギリス軍がファショダ村で衝突し、ファショダ事件がおこった。この事件は、イギリスの南下政策とフランスの東進政策が背景にあったが、本国政府同士で話し合い、スーダンとモロッコの利権を交換することで解決をみた。
英埃領時代
1899年から南北ヌビアがエジプトとイギリスの両国による共同統治下に置かれた。
1924年以降北部を中心に独立運動が続けられた為、1924年以降は南北を分断して統治する手法を採用し、マラリアなどの予防の名目で8度以北の者が南、10度以南の者が北に行くことはどちらも違法とされた。
独立
1945年、コプト正教会系のヌビア民族同盟が独立運動を主導し、1954年自治政府が発足。1956年1月1日にソロモン朝のハイレ・セラシエ1世を迎え、ヌビア王国(英語: Kingdom of Nubia)として独立。ハイレ・セラシエはアラブ風のアズィーズ・アッ=タールトゥ(アズィーズ1世)の名を冠した。
その後数十年の間にハルツームに移された皇室はアラブ文化と同化し、現在の王であるアナム2世はアラビア語で教育を受けた。国王は多様な宗教が存在するヌビアの精神的支柱として、重要な役割を占めている。
政治
ヌビア王国の三権は一院制議会、内閣、最高裁判所の三つからなる。議会は一院制の国民議会(360議席)で、全議席の80%を小選挙区制、20%を比例代表制で選出する。行政府では首相が拒否権を持ち、議会で審議された内容について棄却・再提出を求める事ができる。また、国王は儀礼上の最終決定権を保有しており、象徴君主制の形式となっている。
ヌビアの政党政治はヘゲモニー制への傾向が強く、独立以来4年間の右派連合政権を除いて社会君主党が与党であり続けている。
インフラ
名称 |
分類 |
位置 |
掛け金 |
国道 |
道路 |
ハルツーム-アディスアベバ ハルツーム-ポートスーダン アディスアベバ-ポートスーダン ゴンダール-アディスアベバ |
計350万 |
ポートスーダン港 |
港湾 |
ポートスーダン |
50万 |
ポートスーダン国際空港 |
空港 |
ポートスーダン |
100万 |
ハルツーム国際空港 |
空港 |
ハルツーム |
100万 |
アディスアベバ第一空港 |
空港 |
アディスアベバ |
50万 |
国内貿易センター |
貿易センター |
オムドゥルマン |
50万 |
国内貿易センター |
貿易センター |
アディスアベバ |
50万 |
国外貿易センター |
貿易センター |
ポートスーダン |
100万 |
ポートスーダン
ポートスーダン(英語:Port Sudan、アラビア語:بور سودان)は、ヌビア紅海州の州都であり、人口459,101人(2005年1月)の都市である。紅海に面し、ヌビアにとって重要な港湾都市となっている。それまでこの地方の主要港湾であったスワーキン港がサンゴ礁の発達などで商船の出入りが困難だったことからそれに変わる港湾として1906年に建設された。また、1906年にイギリスが敷設した紅海とナイル川とを結ぶスーダン鉄道の終点ともなっている。この鉄道は、ナイル川沿岸の豊かな農場から輸出市場へトウモロコシ、綿などを輸送するために使われた。市内にはポートスーダン新国際空港が存在する。ポートスーダンは、その素晴らしいダイビングとビーチのために観光客の間で知られている。また、紅海を挟んでサウジアラビアのジッダに向かう出発点ともなる。
都市
都市名 |
分類 |
ハルツーム |
大都市(首都) |
オムドゥルマン |
大都市 |
バフリ |
中都市 |
アディスアベバ |
中都市 |
ポートスーダン |
小都市 |
ゴンダール |
小都市 |
首都・ハルツーム
人口規模は100万を超えるが、近隣のバフリ(الخرطوم بحري al-kharṭūm baḥrī)とオムドゥルマン(أم درمان ’umm durmān)(西郊)とで都市圏を形成しており、合わせて400万以上の居住者がいる。人口増加が著しく、 2025年に794万人、2050年に1600万人、2075年に3068万人、2100年の人口予測では5659万人を数える世界6位の超巨大都市となる予測が出ている。独立後、ソロモン朝の王宮が建設され、ヌビアの文化的・宗教的・政治的中心地となった。
産業
第一次産業
名称 |
本社所在地 |
消費 |
生産物 |
掛金 |
ヘグリグ油田 |
- |
- |
原油4 |
600万 |
ハッサイ金鉱 |
- |
- |
金2 |
400万 |
ハルツーム穀倉地帯 |
ハルツーム |
- |
穀物1 |
200万 |
第二次産業
名称 |
本社所在地 |
消費 |
生産物 |
掛金 |
ハルツーム工業地域 |
ハルツーム |
- |
衣類1 |
200万 |
第三次産業
ランドマーク・造船所
軍
陸軍
海軍
空軍
最終更新:2021年04月18日 11:36