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「今なのね!」  意識を別に向けたワルドの隙を見て、ティファニアが自身にかけられた魔法を解いた。  強い風が落ち葉を舞い上げ、ワルドの視界を塞ぐ。砂埃と木の葉の嵐の中、姿を現したのはシャルロットの使い魔のシルフィードであった。  6メイルに届く巨体に備わる両腕で目の前のワルドを突き飛ばし、エルザの背後に居た遍在にも手を伸ばす。  だが、全てが思った通りになるほど世の中と言うものは甘くは無い。 「馬鹿が!逆らうなと言ったというのに!!」  青い鱗に包まれたシルフィードの手を軽やかに避けて、ワルドが魔法の詠唱を始める。その矛先はシルフィードではなく、遠巻きに見ていたタルブ村の人々であった。 「ちっこいの!あんたも働くのね!」  ワルドの体に手が届かないと分かると、シルフィードは真っ先にシエスタを両腕で包み込んで保護し、エルザを叱咤する。  小さな体はその声に応えようと、膝立ちの体を倒れこませるのと同時に頭を下げて、帽子の下から鈍い光沢を放つフリントロック式の短銃を取り出した。  火打石が作る火花が火薬に引火し、急速に燃焼を始める。  熱と衝撃と圧縮された空気に押し出された鉛の塊が、大きな音を響かせて宙を走った。  額に穴を開けて、ワルドの遍在が姿が空気に溶け込むように消えていく。 「こんなこともあろうかと、アニエスに無理言って調達してもらって良かったわ……」  慣れない銃の扱いに手首と肩を痛めて表情を歪ませたエルザが、そのまま地面に横たわった。  舞い上がった砂と木の葉が落ち着いて、地面に降り注ぐ。見晴らしの良くなった景色の向こうで、覚束無い足取りのシャルロットが普段より肌の白さを一割ほど増した顔を横に振っていた。 「今のは、わたし。貴女のは、ここに当たっている」  指差した先にあるシャルロットの杖の先端が僅かに欠けている。どうやら、ほぼ同時に遍在へ攻撃を仕掛けたらしい。しかし、結果は同じとは行かなかったようだ。  素人が都合よく狙った場所に弾を当てられるほど、銃の扱いというものは簡単では無いと言うことだ。 「うそぉ、結構頑張ったのに……」  一発限りの役目を果たした銃を捨てて、エルザは倒れたまま足を押さえて苦笑いを浮かべる。  その傍に寄って、シャルロットは助け起こそうと伸ばした手を固めた。 「足が……」 「不覚を取っただけよ。今は忘れて。それより、ワルドの本体を」  足元を凝視するシャルロットを留めて、エルザは意識をシルフィードに突き飛ばされたワルドに向けた。  血に染まった塊。それは、ピクリとも動いていなかった。 「気絶しちゃってるのね。真っ赤でちょっと気持ち悪いのね」 「元々無理をしていたみたいだし、限界だったのよ。そうすると、遍在も無理に攻撃しなくても勝手に消えたのかも知れない。今更言っても仕方の無いことだけど。……それより、面倒臭いことになったわね」  目を空に向けたエルザは、ワルドが消えても存在し続ける竜騎士隊の存在になんともいえない表情になる。  指揮官であるワルドが気絶してしまった為、あれを止める手段がなくなってしまった。かといって、無理矢理ワルドの意識を引き戻したとしても、説得は効かないだろうし、そもそも失血と疲労で目を覚ますかどうかさえ怪しい。  懸念はそれ一つではなく、目を下に向けた先にある自分を見る無数の視線もまた、エルザの心を多少なりとも揺らす原因だった。 「長閑で過ごしやすい村だったんだけどね……、ま、村自体なくなっちゃったわけだし、丁度いいのかも」  吸血鬼と知っても平然としていられる人間は多くない。最近は受け入れてくれる人物が多かったから誤解しがちだが、吸血鬼が人を食べる種族であることに違いはないのだ。なにかあれば、その境界が浮き彫りになる。それは、避けようのない事実であった。 「でも……」  それだけでこんな目を向けられる謂れは無いはずだと、納得のいかないシャルロットは否定の言葉をかけようとする。しかし、エルザは自嘲気味に笑って首を振った。 「今回は仕方ないわ。ちょっと強引だけど、見ようによってはわたしの責任もゼロじゃないもの。これも、吸血鬼に生まれたわたしが受け入れるべき運命って奴よ」  まったく気にしていないかのように、言葉の最後には鼻で軽く笑ったエルザは、聞こえてくる泣き声に表情を消した。  首の無くなった胴体の横で、物言わぬ男の頭部を抱き締めた女性が傍目も気にせず、生まれたばかりの赤子のように一心不乱に泣いている。  愛する人を奪われる気持ちは、エルザにも理解出来ることだ。単純に捕食者と獲物の関係でしかなかった以前と違って、今は感情移入が出来てしまう。  きっと、恨まれるだろう。殺したいほどに。  もしかしたら、彼女自身は理不尽な運命を受け入れて割り切った答えを出してくれるかもしれない。そうなったときでも、仲間内から犠牲を出してしまった他の村人達の心にはしこりが残るだろう。それは、もう避け様の無いことだ。  無用な争いを避けるのなら、ここで引くことが正しい選択なのだと、エルザは過去の経験から理解をしていた。 「わたしは元々根無し草だから、問題は無いわ。それよりも、ティファニアをなんとかしてあげないと。あの子もここに残すのは無理だろうから、新しい住居を探して。……って、そういえば、あの子は何処に居るのよ!?」  今頃になって、エルザはシルフィードがティファニアの代役だったことを思い出し、辺りを見回した。  それらしい人影は、群集の中には無い。いや、その中に居たのなら、シルフィードが代役を務めることなんて出来はしなかったのだから当然だ。  なら、見えないところに居るのかと体勢を変えたエルザを、シャルロットが肩を押さえて止めた。 「彼女なら、キュルケ達が匿ってる。村の人々は貴族には手を出せないから。それよりも、今は貴女の傷のほうが大事」  シャルロットの瞳に、エルザの足首に付けられた傷が映る。  ぱっくりと割れた肌から、血が次々と流れ落ちている。足先は安定せず、力の入り方も歪なのが簡単に見て取れた。  杖を構え、シャルロットは水の魔法である“治癒”をかける。  淡い色の青い光が、エルザの足元を覆った。 「そっか。貴族なんて偉ぶっててムカつくだけだったけど、そうやって人助けのために立場を利用するって手もあるのね……。あっ、傷は止血する程度でいいわよ。お姉ちゃんも風邪がまだ治ってないみたいだから、無理をしちゃダメ」 「シルフィも風邪治ってないのね!っくしゅん!」  いつの間にかぐったりとして動かないシエスタを抱えたシルフィードが、エルザの言葉を聞いてくしゃみをした。  鼻水が飛んで、気絶しているワルドに降りかかった。 「あー、汚いのねー」  自分でやっておいて、それを言うのか。と心の中で突っ込みを入れたエルザは、足元の痛みが消えてきたのを感じて、青い顔で“治癒”を続けるシャルロットの杖を軽く叩いた。 「もういいわよ。後は自然に治るのを待ちましょう」 「でも、まだ……」 「きちんと治るまで続ける暇は無いわ。あれを何とかしなくちゃいけないからね」  エルザの視線の向こうで、ワルドがやられたことを悟った竜騎士隊が本格的な攻撃行動に移ろうとしていた。  森の周囲に火を射掛け、逃げ場を無くした上で村人ごとエルザ達を殲滅するつもりらしい。  民間人の虐殺は本来なら御法度だが、今回は免罪符がある。竜騎士隊の隊長を倒すような敵が紛れていたという言い訳があれば、タルブ村の人々は単なる避難民の集団ではなく、戦力を保有した敵対勢力に早変わりだ。殲滅するのに躊躇する理由は無くなる。  恐らく、エルザやティファニアが居なければ、こうして避難民が危機に陥ることはなかっただろう。それもまた、エルザの感じている責任の一端であった。 「お姉ちゃん。こっちの戦力はどれくらい確保出来ると思う?」  空の竜騎士隊を相手に勝負をするとしたら、全戦力を持っての奇襲だろう。数を半分に減らせれば、撤退してくれる可能性が生まれてくる。  しかし、それも竜騎士を相手に出来る力があった場合の話だ。  質問の答えにあまり期待せず、エルザはシャルロットの返答を待った。 「キュルケたちは、まだ体調が戻ってない。多分、戦力にはならない」 「じゃ、今動けるのは、実質わたしとシルフィードくらいか」 「わたしも……」 「お姉ちゃんは、わたしの傷を塞ぐので精一杯だったみたいだし。ね?」  一瞬、自分も戦えると言いかけたシャルロットの言葉を、見透かしたエルザが遮った。 「風邪引きさんは大人しく寝てなさい。後は……、大人の仕事よ」  ヒヒ、と誰かの笑い方を真似て、エルザは治ってばかりの違和感の残る足で立ち上がる。  吸血鬼の基準で言えば、立派に子供のクセに。  シャルロットはそう言いかけて、唐突に吹いた風に捲れ上がったエルザのスカートの中身に口を噤んだ。  大人だ。これ以上ないほどに。  ぽっ、と頬を赤くして、シャルロットは未だに毛糸パンツを常用する自分の子供っぷりを再確認した。 「さて、格好付けたものの、特に作戦は浮かんでなかったり」  シャルロットが何故顔を赤くしたのかサッパリ理解できないまま、空を見上げたエルザは袋小路に等しい状況に眉根を寄せる。  そのとき、竜騎士達の舞う空を、シルフィードよりも一回り以上も大きい風竜が横切った。 「攻撃!攻撃ーッ!!」  馬の蹄が大地を叩く音が森の中に響き、老齢な男性の号令が轟く。  森を焼き、村人達に攻撃を加えようと高度を下げていた竜騎士隊に、魔法の矢が次々と襲い掛かった。  竜騎士達はそれを回避しようとするが、回避運動を阻むように器用に飛び回る風竜によって進路を奪われ、次々と撃ち落されていく。加えられる攻撃の中には、数メイルに及ぶ岩の塊まであって、竜の強靭な肉体ごと竜騎士を押し潰していた。 「カステルモール……!やっと来たのね、あのバカ!!」  竜騎士隊を翻弄する風竜の背に乗った男の姿に、エルザは歓声に似た声を上げた。  何事かと不安そうに辺りを見回す村人達の所に、森を抜けてきた騎馬が徽章を下げた胸を張って名乗りを上げる。村人の中には、その顔を見知っていて既に事の次第を理解し始めた者も居た。 「我はアストン!トリステイン王家より伯爵の位を与えられ、この地を領有することを許された者である!我が臣民の為、騎馬を率いて参った次第。コレより避難を開始する。我が騎士の指示に従って、速やかに移動せよ!」  次々と森の中に飛び込んでくる騎馬と掲げられたトリステインの旗を見て、村人達が歓声と安堵の息を漏らした。  助けが来たのだ。 「ヤーハアッ!」 「うわっ、もうちょっと優しくしてくれよ!」 「この程度で音を上げてんじゃねえ!てめー、ホントにキンタマついてんのか?」  タルブ伯の騎馬隊に混じって、才人を後ろに乗せた妙に陽気な男がエルザの前に現れる。  砂色の帽子に奇妙な格好。それは、逃げる為の足を手に入れるため、馬の調達に出たはずのホル・ホースであった。 「おにぃーちゃーん!!」 「ん?よう、エルほぐぅ!?」  つい先程でアキレス腱が切れていたのもなんのその。ホル・ホースの姿を見た瞬間に、エルザはその胸目掛けて飛び込んでいた。  脇腹に突き刺さる幼女。そして、落馬。  現れて早々、ホル・ホースは気絶した。 「わああぁぁあ!?お兄ちゃんが白目剥いた!!」 「何やってんだい、アンタ」  騎乗する馬の後ろにジェシカを乗せたマチルダが、呆れ顔でホル・ホースの現れた方向から姿を見せる。その後ろには、足を縄で縛られたコルベールとウェールズを引き摺っている地下水も居た。 「そっちこそ……、なにそれ?」  何故ウェールズとコルベールが酷い扱いを受けているのか。そして、何故抵抗しないのか。  引き摺っている間に何度も顔を打ち付けたらしく、顔面を荒地に変えている二人を指差したエルザに、マチルダは遠い目で応えた。 「ちょっと記憶を失ってもらってるだけさ。ん?よく考えてみたら、ティファニアに頼めば一発だったね。いやぁ、忘れてた忘れてた」  口調が平坦で、感情が篭っていない。  ガタガタ震えるジェシカの様子から察するに、なにか一悶着あったらしい。ぞわっと背筋に走る冷たいものに、エルザは追求するべき話題ではないと悟って、別の方向へ意識を向けた。 「シエスタ!?シエスタっ!」 「気絶してるだけ。心配ない」 「心配ないって……、何があったんだよ?」  馬から下りた才人がシルフィードの手の中に倒れているシエスタに飛びつき、ぐったりとした様子に不安気な顔になる。その傍にシャルロットも立ち、傷の有無を確認しながら才人に言葉をかけていた。 「……事情は、後で話す」 「なんで?」 「多分、その方がいいから」  そう言いながら、シャルロットは一瞬だけ視線を外に散らした。  エルザやマチルダ達、それに、横入りした自分にも不信な目が向けられている。村人達の間に芽生えた不穏な空気は、事態が変化したからといって消えるものではないようだ。  この事を直情的な才人に伝えたらどうなるか。想像するまでも無い。  シャルロットの選択を才人は不思議に思いながら、後で絶対に話すように念を押して追求することを諦めた。  どうせ面倒なことになるのだから、適当に誤魔化そう。  説明責任を放り捨てようとしているシャルロットの内心に気付けるはずも無く、才人はいつも通りに感情の読み取り辛いシャルロットの目を見て、勝手に頷いていた。 「こっちも、そろそろ終わりかしら」  魔法と竜騎士が飛び交う空の様子を眺めて、エルザは率直な感想を口にした。  空を飛び交っていた竜騎士の数は、あっという間に数を減らして片手で数える程になっている。カステルモールに機動性を封じられ、高度を取ることも出来なくなった竜騎士隊のなんと脆いことか。撤退することも叶わず、間もなく全滅することは傍目から見ても明らかだ。  わざわざ薬の配達をエルザに押し付けてまで領主を呼びに行ったカステルモールの判断は正しかったと言える。制空権を握るのに欠かせない竜騎士隊の全滅は、アルビオン軍にとって大きな痛手となることだろう。  戦局は、圧倒的不利を予測されるトリステインの一方的な敗北とはいかないかもしれない。  それが良い事か悪い事か、判断するのは遠い未来の歴史家だろう。  ただ、現代の、それもトリステインに生きる人々の目から見れば、それは良いことなのだと思えた。  騎士の一人の手を借りて、布に包んだ遺体を嗚咽を漏らしながら土の下に埋める。  そんな光景は、僅かだが少なくなるはずだから。 「柄にも無く、ちょっと感傷的になってるわね。これ以上変なこと考える前に、ちゃっちゃと移動しちゃいましょ」  気絶したままのホル・ホースを馬に乗せ直して、エルザはその懐に入り込むように騎乗する。 「お姉ちゃんも、わたし達と一緒に行く?」  訊ねたエルザに、シャルロットは首を横に振った。 「友達が待ってるから」 「そう?じゃあ、またね。お姉ちゃん」 「また」  小さく手を振り、シャルロットはシエスタを両腕に抱えた才人と一緒にキュルケ達の下に向かう。ノロノロと動き出したシルフィードも、歩いてそれを追いかけた。 「……。それじゃ、わたし達も行きましょうか」 「行くのはいいけど、コイツはどうするのさ。どうしてここに居るのだとか、どうやって生き延びたのかとか、知りたいことは多いけど……、ここに捨てて行くのかい?」  まるで手足のように乗っている馬の足を使って、完全に存在を忘れられていたワルドを突付いたマチルダの言葉に、あ、とエルザが抜けた声を出した。 「そういえば、死んだわけじゃなかったわね。どうしよう……、トドメ刺しとこうかしら?それとも、憲兵にでも突き出せば報奨金が貰えたりするのかな?一応、裏切り者なわけだし」  爵位持ちの国家反逆者だ。金一封どころか、大金が転がり込んできても不思議ではない。ただし、これから戦となると戦費を少しでも確保しようと、ケチって適当な勲章だけで誤魔化される可能性もあるが。  心情的にはトドメを刺したいが、金も魅力的。欲の皮が突っ張っていると言われそうではあるが、エルザ達のお財布事情はそれほど厳しいものなのだ。  頭上で最後の竜騎士が撃墜されて落下していく姿を背景に、心情と金勘定とを天秤で吊るしてうーんと唸る幼女というシュールな光景。足下には血塗れのワルド、背中を預けるのは気絶したホル・ホースと、普通に考えてありえない異様な雰囲気がそこにはあった。  しかし、そんな空気に気付いていないのか、黒髪の女性がワルドに視線を向けながらエルザに近付いた。 「お願いが、あります」  殺された夫を土に埋めたばかりの女性が、小さく頭を下げる。  埋葬が終わって、花を沿え、短い祈りの言葉まで済ませた後のようだ。  崩れていた場の空気が、重く詰まった。 「……吸血鬼にお願いなんて、してもいいの?」  エルザの口から、突き放すような言葉が自然と出てくる。  ビクリと肩を震わせた女性は、下げた頭を恐る恐る上げると、怯えの見える瞳でエルザを見詰め、それから背後に居るマチルダやコルベール達に目を向けた。 「そちらの方々が、魔法学院の教員であるということは窺ってます。貴族様のご友人であるなら、信用が出来ると……、その……」  どう話せばいいのか迷うように口元を触って、女性は声を震わせる。 「知り合い程度だし、わたしが偉いわけじゃないわ。さっさと続きを話して」  ここで話を中断されても困ると、エルザが先を促す。すると、女性は一つ頷いて、意を決したように話を始めた。 「夫は、勇ましい人間でした。それこそ、村が襲われたときには棒切れを手に飛び出していくような人です。……だから、きっと村の人たちの避難が遅れれば、時間を得る為に一人で恐ろしい竜騎士に向かって行った事でしょう」  タダの夫の自慢話か、それとも、それほどの人間を失ったことを責めているのか。経緯を考えれば、後者が事実だろう。ただ言いたい言葉をオブラートに包んでいるから、それほど強い感情を感じられないだけで。  無意識に女性の言葉を刺々しいものだと捉えて、エルザは無言で耳を傾ける。 「夫が戦わずに済んだのは、襲われることを早くに教えてくださる方が居たからで、先に足止めを引き受けてくださった方が居たからです。その人たちが居なければ、わたしの夫はもっと早くに死んでいたと思います」  女性は、視線を地下水に、そしてマチルダとコルベールに向けて、まだ憎しみや恨みの色が残る目をエルザに向けた。 「だからといって、全てを許せるわけではありません。でも、わたしだけじゃなく、村の皆が同じように、あなた方の世話になったことくらいは理解出来ます。危険を教えてくれた。恐ろしい敵に立ち向かってくれた。高価な薬を分けてくれた。そして、今もこうして、領主様をお連れ下さったことで、わたし達は命を繋ぎました。だから……」  胸の内にある葛藤を抱えたまま、女性はその場で頭を垂れた。 「ありがとうございました」  五秒、十秒と、頭を下げたままの女性に、エルザは表情を何度も変えて、声も無く三度口を動かした後、ふん、と鼻で笑った。 「こっちはこっちの都合で動いてただけなんだから、礼を言うのは間違ってるわよ」 「あっ、はい。その、す、すみません」  言われた言葉を付き返すようなエルザのセリフに、女性は体を小さくして謝罪すると、そそくさと立ち去ろうとする。  その背中に、エルザは困った顔で声をかけた。 「ちょっと、本題を聞いてないわよ!頼みがあったんじゃないの?」 「そ、そうでした!」  案外そそっかしいのか、再び戻ってきた女性はワルドの傍に立って、血塗れの顔を覗きこむように眺めた。  ぐっと握られた拳は、夫を殺された恨みによるものか。渦巻く感情は、エルザに対するものよりも大きいはずだ。  それでも、瀕死の人間に手を上げることなく、女性はエルザに願いを告げた。 「法で……、出来ることなら、この男は法の下に裁かれるようにしてください。恨みをそのままぶつけるよりも、その方がきっと、夫への手向けの花には相応しいと思いますから」 「随分とえぐい事を考えるねえ……」  エルザの背後で、マチルダの唇が愉悦に歪んだ。  爵位を持ちながら国家に牙を剥いた男が、捕まった後にどうなるか。それを考えれば、この場でトドメを刺される方がワルドにとっては幸運だろう。まして、戦争を仕掛けてきた敵国の人間だ。死罪を前提に繰り返される取調べという名の拷問は、果たしてどれほどのものか。考えるだけでも背筋が寒くなる。  それを見越した上で、この女はトリステインの役人に突き出せと言っているのだ。 「この子から父を奪った、酬いです」  マチルダの呟きに、女性は悲しげに下腹部を摩る。  見た目には分からないが、妊娠をしているらしい。なら、夫を失った悲しみや憎しみは、エルザ達が考えている以上のものだろう。  驚きに固まったエルザにお辞儀をして、女性は避難を始めている群衆の中に消えていく。何かを言われることを避けているかのような早さだった。 「……子供の為か」 「本当のところは個人的な復讐ってところか。直接手を下せば、色々と困ったことになる。旦那が死んだばかりなのに、随分と打算的なことで……」  母は強し、ってことかね?  馬を進めてエルザの前に出たマチルダは、そう言って杖を一振りすると、作り出したゴーレムでワルドを担ぎ上げる。背の低い馬に似た土人形が、その背にワルドを乗せた。 「ぼーっとしてないで、行くよ」 「う、うん……」  うわのそらのエルザを置いて、マチルダは馬を走らせる。その後にウェールズとコルベールを引き摺った地下水も続き、もげる、とか、禿げる、とかいった叫びが響いた。  徐々に森の中から人が少なくなり、移動する人々の背中ばかり見えるようになる。カステルモールの乗る風竜は警戒の為か、未だに頭上で旋回しているが、竜騎士達が飛びまわっていた時と比べれば随分と静かになりつつあった。森にかけられた炎も、気付かない内に消火されていたようで、色の無い煙が鼻に染みるような臭いを残している。 「母か……」  呟いた後、ふと、頬が濡れていることにエルザは気付いた。  最初は雨を染み込ませた土が竜騎士達の放った炎で水分を放出したのかと思ったが、それにしては蒸した感覚はまるで無い。それに、濡れるほどの水蒸気なら、霧が出てもおかしくは無いだろう。空気中の水分が多いからと、一滴だけ滴を作るのはおかしな話だ。 「……なんだ、涙か」  顎先にまで滑り落ちた滴を手の平で受け止めて、エルザは単調な声で呟いた。  僅かな間だけ玉となって太陽の光を反射していたそれは、手袋の布地に吸い込まれていく。 「なんで、泣いているのかしら?」  右目の次は、左目だ。  落ちた滴は汚れたドレスの上に染みを作り、しかし、黒い色がそれを隠してしまう。  一度落ち始めた涙は勢いを増して、すぐにエルザの頬に道を作った。  指先も震え始めて、手綱を握っていられなくなった。 「なによ、これ。次々と……」  止まらない涙に辟易として、ぐっと力を入れて瞼を閉じる。  しかし、蛇口の栓を締めるのとは違って、溢れる涙は止まることを知らない。 「こ、このっ、なんで、もうっ!」  頭を振り、手で目元を擦って、止まらない涙を何とか止めようとする。だが、その行動は逆に心臓の鼓動を速め、喉の奥を乾かしていった。 「うぅ、ふぐ……、なんでよう……、泣く理由なんて無いのに!」  感情が昂っているのは分かる。問題は、そうなった理由が分からないのだ。  どこかに泣く要素があっただろうか。  人が死んだこと?  散々人を殺してきた自分が、そんなことを気にするはずが無い。  女性が泣いていたから?  他人の涙に心揺さ振られる自分ではない。  吸血鬼であることで否定されたから?  そんなことは、もう割り切っている。何も感じないと言えば嘘になるが、泣くようなことではない。  じゃあ、いったい何なのだろうか。  答えの出てこない問いかけが頭の中で駆け回り、冷静な自分を遠く引き離す。  気付いたときにはもう、エルザは泣くことしか出来なかった。 「う、うぁ、わああぁぁぁぁぁ!ごめんなさい……!ごめん、なさい。わたしが……、わたしが……!うあぁぁああぁああああぁぁぁ……」  何故、謝っているのか。誰に謝っているのか。  口にしている言葉さえ理解していないエルザは、唐突に上下に揺れた体を支えようと、体を覆った何かにしがみ付いた。  いつの間にか、馬が走っている。手綱を誰かが握っていて、固まって歩く人々を華麗に追い抜いていた。  誰だろう。  自分の後ろには一人しか居ないことを分かっていて、エルザはしがみ付いたまま顔を上げようとした。  つばの広い帽子のせいで、視界が塞がる。  邪魔臭いそれを放り捨てて、その先にある見慣れた顔にエルザは、一瞬呆けたように表情を変えて泣くことを止めていた。 「なんで泣いてるかは知らねえが、オレの胸でよかったら貸してやるぜ。ただし、いつか利子付きで返してもらうけどな」  ヒヒ、といつものように笑って言うホル・ホースは、そのままエルザの頭を抱えて自分の硬い胸板に押し付けた。  いつかというのは、多分、エルザが成長して男性として楽しめる胸になった頃のことだろう。 「うん、借りるね……?うぅ、ふ、あああああああぁぁぁぁぁっ!!」  押し付けられた顔を自分で更に強く押し付けて、エルザは再び泣き始めた。  いつか。果たして、そのいつかが訪れる日まで、ホル・ホースの寿命が持つかどうか。今際の際まで待ってもらう必要があるかもしれない。  妙に冷静な頭の中で、エルザは薄れる現実感の中、遠い未来に思いを馳せた。  互いの寿命の差から必ず訪れる日まで、本当に一緒に居られるのだろうか?一緒に居たとしたら、二人はどんな関係だろうか?  家族か、恋人か、それとも……、他人か。今のままの関係を維持しているかもしれない。  この借りを返し終わるまで、しっかりと見張って貰わなければ。  死が二人を別つまで。  縁起でもない話ではあるが、なんとも魅力的なフレーズに思わず頬が緩んだ。  でも、涙は止まらない。それどころか、一層に増して溢れ出していた。  恥も臆面もなく、エルザは体力の続く限り泣き続ける。  いつか、眠りが誘うまで。  ずっと。

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