ゼロの奇妙な使い魔 まとめ

4 土色の愛情 後編

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 三度、月が空を横断した頃。
 ホル・ホースとエルザの二人は、やっとのことで山道を抜けて開けた場所に出た。
 一面の草原に細い小川、遠くにはまだ青い麦の畑も見える。
 人が居る証だ。
「よ、よおおぉぉしっ!とうとうガリアを抜けたぞ!長い道のりだったが、シャルロットの嬢ちゃんから逃げ切ったぜええっ!」
 両手を握り締めて高く吼えたホル・ホースの横で、エルザは白けた目を向けている。
「お兄ちゃんが途中で倒れなければ、もっと早く山から下りれたのに……」
 誰のせいだと思っている。とは口にせず、ホル・ホースはエルザを抱き上げて人のいそうな方向へと足を向けた。
 目の前を流れる川を越える頃には畑だけでなく、民家も見えるようになっていた。町というよりは村だろう。森に住む妖魔たちから身を守るように、家が密集して建っている。
 特にこれといった名物も無さそうな、貧相な姿に上手い酒は期待できそうにないと肩を落とすホル・ホースだったが、村の中に入る頃には元気を取り戻していた。
「ようし、まずは腹ごしらえだ!メシにするぞ!」
 山の中では食えるかどうかも分からない野草や動物の生肉を食っていたホル・ホースの舌は、いま、猛烈に普通の食事を求めていた。
 布の中でエルザもそれに従うように、おー、と声を上げる。
 村は10分も歩けば縦断出来るような小さなものだが、人の数は多い。
 子供が道を走り回り、大人たちは藁束を抱えて村の中を闊歩していた。商人の姿が少ないということは、交易はあまり盛んではないということだろう。
 村の中で生産したものは村の中で消耗する。完全自給型の手本のような村だ。
 道行く人々の好奇の視線を受けながら歩くホル・ホースが酒場に着いたのは、ちょうど太陽が真上に昇ったときだった。
 ハルケギニアの酒場は、二階以上を宿として開放している場合が多い。荷物を部屋に置いて食事のために外出するということは、平和で安全な土地でもなければすることは出来ない。そのため、荷物から離れずに食事を取れるようにと、二つを一体化させているのだ。
 だが、この町の酒場は宿を兼業している様子はなかった。
 “緑の苔”亭の看板を視界に入れて、鳴りっ放しの腹を押さえたホル・ホースが羽扉に手をかける。
「邪魔するぜ」
 そう告げて店内に入ったホル・ホースの目には、あまり広くないフロアにテーブルが三つ、ポツリと置かれただけの光景が映った。
 繁盛していないことは一目で分かる。埃っぽい店内は、およそ人の寄り付くところではないだろう。
「……いらっしゃい」
 カウンターの上で頬杖をついていた女が、エルザを抱えたホル・ホースを見て、気だるげに声をかけた。
 年は三十の中頃だろうか。化粧の匂いもなければ、男の気配も無い。何かワケありで店を構えているような様子だった。
「邪魔したな」
 踵を返してホル・ホースは店を出た。
 どう見ても、美味い飯が食えそうな店ではない。
 看板の名前通り苔が生えてるんじゃないのか、と思って別の店を探すべく歩き出そうとするホル・ホースを、慌てた声が呼び止めた。
「ちょっと待ちな!なんだい、人の店を見ていきなり帰るなんて。いくらなんでも、あんまりじゃないのかい!」
 カウンターから身を乗り出した女がテーブルを叩いて大声を張り上げている。
 帽子を深く被ったホル・ホースが呆れた様子でもう一度店内に足を踏み入れると、女は客に向けるとは思えないような鋭い目で睨みつけてきた。
 客商売をする気があるのだろうか、と疑問に思う。
「そう思うなら、もうちょっと見栄えを良くしろよ。どう見ても、飯が食えそうな店には見えねえぞ」
 ホル・ホースが店の端に指を向けると、そこには幾つかの獲物を捕らえた跡のある大きな蜘蛛の巣が堂々と張っていた。中央にはエルザの手ほどもある、巨大な蜘蛛がどっしりと構えている。
「いやさ、あたしだって掃除はしてるんだよ?でも、虫がどうにも苦手でさ。蜘蛛やムカデが居るとどうしてもねえ……」
 女が視線を店の一角に視線を向けたのを追って首を動かすと、ホル・ホースはおぞましい光景に出くわした。
 テーブルの下、日陰に隠れた場所に蠢く大量の虫。
 ホル・ホースは思わず女の胸倉を掴んで引き寄せた。
「テメエ、あれを知らずに椅子に腰掛けたら、とんでもないことになるじゃねえか!店主としてなんとかしとけよ!」
 椅子に座った瞬間、テーブルの下から這い出てくる虫たちに下半身を覆われる姿が脳裏を過ぎって、ホル・ホースが全身に鳥肌を立てて怒鳴った。
「なんとかなるなら、あたしだってそうしたいよ。でも、虫嫌いは治んないのよ。この通り、お手上げさ」
 あっはっは、と本当に気にしているのか疑問に思うほど余裕な表情で両手をヒラヒラと振る女に、ホル・ホースは開いた口が塞がらなくなった。
「それでよく、人に帰るな、なんて声をかけられるもんだなあ、オイ!」
「そこはほら、あたしにも生活があるし。タダでさえ貴重な客に逃げられたら、明日の飯にもありつけなくなっちゃうわけで」
 そこで言葉を止めた女は、ホル・ホースの抱いた布の塊が小さく動くのを目敏く見て口元を歪めた。
「ほら、あんたが大声ばかり上げるから、子供がむずがってるじゃないか」
 女の手が伸びて布を剥がす。
 それを止めようとホル・ホースが動くよりも早く、姿を現したエルザが女に無邪気な笑みを向けた。
「こんにちは、汚いお店のおばちゃん」
 辛辣な言葉に、女が目を細める。
「ふ、ふぅん。中々面白いお嬢ちゃんじゃないか」
 乗り出した体をカウンターの内側に戻して、女が細身の体に似合わない大きな胸の前で腕を組んだ。
「よし、気に入った!安くしとくから、メシ食ってきな!」
 飯屋の立場とは思えない横柄な物言いだった。
 やはりこの女、客商売を勘違いしているのかもしれない。
「なにが、メシ食ってきな!だ!こんな汚ねえ店のメシなんて食えるか!」
「そうよ。せめてテーブルの上の埃だけでも何とかして欲しいわ」
 二人の物言いに眉を顰めた女は首を大げさに縦に振ると、おもむろにカウンターの下に手を突っ込んで何かを握り締める。
 次の瞬間、銀色の刃が鋭くテーブルに突き刺さり、積もった埃を舞い上げた。
 カウンターの材木に亀裂が走り、高い音が店中に響き渡る。
「……食って、いくね?」
 包丁を逆手に握り締めてテーブルを突き刺した女が、殺気の籠もった目で二人を見た。
 食わなきゃ殺す。そういう目だった。
「お、OK!いいだろう。ここで飯を食う」
 何故だか、ここ最近、会う女全てに殺気を向けられている気がしたホル・ホースは、その影にシャルロットの姿を見て首を何度も縦に振った。
 エルザも同じように首を振って同意を示す。
 この二人を見て、一体誰が凄腕の暗殺者と人々から恐れられる吸血鬼だなんて思うのか。
 情けないにも程があると本人達も自覚するところだが、逆らえないものは逆らえないと諦めて、ホル・ホースはエルザを膝に乗せて、埃の積もった席に着いた。
 店主の女が厨房に姿を消した後、エルザは体を覆っていた布を脱いで、フリルが沢山あしらわれた一張羅の白いドレス姿を晒した。
 店の中は日が当たらない。店のつくりそのものが薄暗いように出来ているのだろう。店長もそうなら、店の作りも客商売には向いていないらしい。
 明るい店内は客足を伸ばす第一歩だというのに。
 カウンターの埃をエルザが先住魔法で生み出した風で吹き飛ばした頃、店内に食欲をそそる香ばしい匂いが立ち込めた。
 肉を焼く音、野菜を刻む音、ぐつぐつと煮える鍋の音。それらが店の奥にある厨房から聞こえてくる。
 香辛料は値が張るはずなのだが、鼻につく匂いには肉や野菜だけでは生まれることの無い刺激的な香ばしさが混ざっている。
 意外に金持ちなのだろうか。などと勝手な推測を立てたとき、店の置くから店主が顔を出して笑みを見せた。
「あんた達、辛いのと甘いの、どっちが好みだい?」
 味付けの参考だろう。
 ホル・ホースは迷いなく辛くして欲しいと頼んだ。
「あ、わたしは甘いのがいい。辛いのはちょっと苦手だから」
「辛いのと甘いのね。もうちょっと待ってな」
 店主が再び厨房へと姿を消す。
 暫くすると、また別種の香ばしい匂いが漂い始める。
 舌につく甘い香りと、少し鼻を刺激する辛味を感じさせる匂いだ。
 足をパタパタと動かして待ちきれない様子のエルザに、ホル・ホースは金色の髪を軽く撫で付けて落ち着かせる。
 手に感じる滑らかな感触を楽しんでいる途中、妙な物足りなさを感じた。
「そう言えば、髪、短いな」
 エルザの頭を撫でていたホル・ホースが唐突に呟いた。
 不思議そうに上を向いて視線を合わせたエルザが、自分の髪に手を当てて首を傾ける。
「短いの、嫌い?」
「どっちかっつーと、長いほうが好みだ」
 ホル・ホースの答えを聞いてエルザが前髪を弄り始める。
「そっか。長いほうがいいのか」
 誰に言うでもなく、口の中で言葉を籠もらせたエルザに目を向けて、ホル・ホースはヒヒと笑った。
「なんだあ、オレの好みに合わせようってのか?止めとけ止めとけ。どの道、テメーの体じゃ好きも嫌いもねーよ」
 そういってまたエルザの頭を撫で始めたホル・ホースに、エルザは頬を膨らませて、自分を抱く腕に噛み付いた。
「痛でえ!なにすんだ!って、また血を吸うんじゃねえ!月に一回の約束だろうが!何回吸う気だこのガキ!!」
 撫でる手を止めて引き剥がしにかかるホル・ホースに、前回と同じように腕にしがみ付いたエルザは離れず、そのままチュウチュウと血を吸い続ける。
 体から少しずつ力が抜けていくのを感じたホル・ホースが、引き剥がすのを諦めてエルザの脳天に手刀を繰り出そうとしたとき、店の奥から大皿を抱えた女が姿を現した。
「待たせたね。って、その様子じゃ待ってるって程でもなかったか。しかし、仲のいい親子だねえ」
 皿をカウンターにでんと置いた女が、まだ腕に噛み付いているエルザとホル・ホースを交互に見て笑みを深めた。
「誰が親子だ!オレはそんな年じゃねえぞ!!」
「うんうん。お兄ちゃんはね、山村に居たわたしを拾ってくれたのよ。あ、でも、お世話になってたおじいちゃんに何も言わずに出てっちゃったから、誘拐になるのかな?」
 ホル・ホースの腕から口を離したエルザの言葉に、女の目が疑り深いものになった。
「……あんた、犯罪者かい?」
「違う!断じて違うぞ!っていうか、このガキの言うことを鵜呑みにするんじゃねえ!こいつの性格の悪さは、さっきの挨拶で分かってるだろうが!」
「でも、犯罪者は皆そうやって否定するよねえ」
 つい最近どこかで聞いた言葉に、ホル・ホースは握り締めた拳を小刻みに震わせて口をひん曲げた。
「て、テメーもシャルロットと同じこと言うのか?なんで、オレの周りの女ってのは、こう気の強いやつばかりなんだよおぉ!」
 カウンターの上に拳を叩きつけて泣きそうな顔になるホル・ホースを笑みを浮かべて見た店主は、奥に移動して料理の乗った皿を両手に抱えて戻ってくると、それをテーブルに置くついでにホル・ホースの耳元に顔を寄せた。
「で、なに?そのシャルロットってのは、アンタのコレかい?ん?」
 握った左手の小指を立ててホル・ホースの頬に押し付ける。
 また何をおかしな事を言い出しやがった、とホル・ホースが文句を言うよりも早く、下から皿に乗っていたスプーン手にした幼女が吼えた。
「そんなんじゃないわ!あの女はわたし達の命を付け狙う敵よ!数日前、あの女が作り出した氷の雨を潜り抜けて、遥かガリアの首都リュティスから命からがら逃げ出して来たんだから!勘違いしないで!」
 エルザの声に圧倒されてカウンターの向こうに女店主が体を戻すと、エルザは興奮気味に鼻を鳴らして近くの皿を手に取った。
 猛然と料理を口にかき込み始めた幼女に溜息を漏らして、女は次の料理を取りに厨房へと戻っていく。
 ホル・ホースは肩を竦めてテーブルに目を向けると、見たことのない料理を乗せた皿の一つに手を伸ばして呟いた。
「モテる男は辛いねえ」
「がうっ」
 口元にソースをつけたまま、エルザの犬歯がホル・ホースの腕に突き刺さった。
「ぐわっ!?痛てえな、コラ!」
 腕の痛みに叫びを上げるホル・ホースに、エルザは口を尖らせて一度ホル・ホースを睨みつけた後、また料理を口にし始めた。
 二度も噛まれて穴だらけになった腕にハンカチを巻きつけて、ホル・ホースは涙目でエルザの頭を撫で回す。
 少し強い力で頭を撫でられて首が安定しないために、食事の手を止めたエルザはされるがままになって頬を膨らませた。
 エルザは考え方はともかく、感情面は子供なのだろう。
 ホル・ホースを気に入っているのは確かだ。
 手に入れた玩具をシャルロットに取り上げられてしまうのではないか、という感情からくる嫉妬心。なかなか可愛いものである。
 見た目に反して自分よりも年を食った少女を前にして、ホル・ホースに出来ることと言えば、苦笑を隠すために帽子を深く被ることくらいしかない。
「あんた、そっち方面の犯罪者だったのかい」
 また皿を手にして戻ってきた店主をホル・ホースはジロリと睨んで、エルザの頭越しに料理の皿を奪い取って食べ始めた。
 手を振って謝る店主を横目に、木を切り抜いて作ったスプーンで料理を口に運ぶ。
 じっくりと火を通した鳥の肉と野菜、それに塩味に似た辛さを感じさせる妙にとろみのあるスープが絡みつく。
 どこか、覚えのある味だった。
 皿をテーブルに置いて、どこで食べたかと思いを馳せるホル・ホースを前に、店主はカウンターに肘を乗せて興味深そうに尋ねて来た。
「あんたたち、ガリアから、しかも、首都から来たって言ってたよね。まあ、深い事情までは聞かないけど、こんなトリステインの片田舎に、何か用でもあるのかい?」
 ホル・ホースの膝の上で、小さな口を一生懸命に動かすエルザの動きが止まった。
 皿をテーブルに戻して、料理の油でべたべたになった口を拭いて、女の顔をじっと見つめると、恐る恐る口を開く。
「ここ、トリステインなの?ゲルマニア、じゃなくて?」
 その言葉にすこし呆けた女は、くっと笑ってホル・ホースの肩を叩いた。
「あんた、まさか方向音痴かい?ここはトリステインのタルブ村。ゲルマニアに行くならもっと東じゃないと。何でガリアの国境からトリステインに来るのさ。あはははっ」
 腹を抱えて笑い出した女に、ホル・ホースは帽子を脱いで顔を隠した。
 位置関係としては、トリステインもゲルマニアもガリアとは隣接している。共に北側に存在しており、トリステインはゲルマニアとも隣接している。
 国境の越え方によっては、ゲルマニアとトリステインを行き違うこともまったくないとも言い切れない。
 しかし、それは非正規の方法で国境を超える場合だけだ。
 ホル・ホースとエルザが密入国者だとは知らない店主に、それを察することは無理な相談である。
「やっぱり、山越えなんてするべきじゃなかったのよ」
 胸元で呟くエルザの頬を両手で引っ張って黙らせると、ホル・ホースは溜息をついてポケットに手を当てた。
 別にシャルロットから逃げられれば、ゲルマニアでもトリステインでもどちらでも構わないのだが、トリステインは貴族が他の国よりも偉ぶっていて邪魔臭そうなのだ。ゲルマニアは比較的大らかな気風があると聞いて、そちらに行こうと考えていた程度のこと。
 ともあれ、路銀が十分ならどこに行っても大して違わないだろうと、ホル・ホースは別のポケットにも手を伸ばした。
 上着の内側に手を入れ、次に帽子の中に手を入れた。
 全身から汗が流れ出る。
「……ヤバイ」
 呟いたホル・ホースに、エルザと店主の視線が集まる。
 確かに入れたはずだ。いや、入れっぱなしのはずだ。ジョゼフのおっさんから貰った金をタンマリ詰め込んだ財布を、ポケットの中に!
 ジクジクと痛み始めた胃に顔を歪めて、恐る恐る、エルザに尋ねた。
「お前に小銭入れ持たせてたよな?銅貨とか銀貨を入れたやつ」
 エルザが自分の服に付いたポケットに手を伸ばす途中、ホル・ホースの様子からどういう状況かを悟った店主の表情に怒りが混じった。
「まさか……金がないなんて、言うんじゃないだろうねえ」
 どこからか取り出した包丁を手に、店主は壁に背を預けて不適な笑みを浮かべ始める。
 包丁の表面が妖しく輝くのを見て、ホル・ホースの頬が引き攣った。
「ば、バカ言うな!あるさ!あるに決まってる!なあ、そうだろエルザ!」
 ポケットを探っているエルザの掴み、死にそうな顔で問い質すホル・ホースにエルザの首が無慈悲に動いた。
「ゴメン、お兄ちゃん。お財布、山に落としたみたい」
 エルザの首が、小動物のように小刻みに横に振られた。

 ハルケギニアには四大王国がある。
 始祖ブリミルの血を継いだトリステイン、ガリア、アルビオン。そして、王国とは言えないが、始祖ブリミルの子孫が起こした宗教国家ロマリア。
 この四つは、ハルケギニアで最も主流とされる始祖ブリミルとその神に対する信仰の対象として6000年の時間を多少の領土の変化を伴いながら、変わることなく存在し続けている。
 メイジとは、始祖ブリミルの子孫、あるいは、その力を受け継いだ証。宗教概念上において、生まれながらに平民の上に立っているわけである。
 そのため、平民と貴族の間には必要以上に強い身分の溝が生まれているのだが、それが最も顕著であるといわれているのが、トリステインである。
 北をゲルマニア、南をガリアに挟まれた形で存在するトリステインは、人口比に対するメイジの数が他国より多く、そのために平民は一層の重圧を強いられている。
 その首都トリスタニアの裏通りには、貴族達から受ける鬱憤を晴らそうと、日夜平民達が数を増やして遊びに興じる場所があった。
 表通りのブルドンネ街とあわせて裏通りと言われるチクトンネ街は、平民達が日頃のストレスを発散しようと集まる歓楽街なのだ。
 日が落ち始めた頃が最も騒がしくなるこの町で、5メートルにも満たない道幅を無数の人々が行き交う中、異様な様相の人物が覚束ない足取りで目的地へと足を進めていた。
 左顔面を沢山の痣で埋めたホル・ホースだ。
 無銭飲食の代償に、店主の拳を受け、更に用事を言いつけられたのである。
 抱きかかえたエルザがその顔に氷の入った皮袋を当てて冷やしているが、タルブからトリスタニアに辿り着くまでの二日の間にも、痛みは引かなかった。
「まあ、腫れは引いたわね」
 皮袋を離して、ホル・ホースの顔を確認したエルザが呟いた。
 殴られた翌日の、ブドウを一房貼り付けているかのような顔を思うと、随分と治りかけているように見える。
 エルザは皮袋を再びホル・ホースの頬に当てて、街道の奥に目を向けた。
「えっと、あのおばちゃんが言ってた場所って、あそこかな?」
 ネオンではない、不思議な明かりでイルミネーションを施された賑わう一軒の酒場を指差して、エルザはホル・ホースの肩を叩いた。
 看板に掲げられた文字は、“魅惑の妖精”亭と書かれている。
 最近、この辺りで名前を上げ始めた人気酒場の一つだ。
 “緑の苔”亭の店主の話では、店自体は以前からあるものの、売り上げを伸ばし始めたのはここ数年らしい。営業方法に革新的なアイディアを取り入れたとか何とか。
 頬の痛みに耐えつつ、ホル・ホースは上着のポケットにしまってある預かり物を取り出した。
 エルザの手の平にも乗る、小さな土色の巾着袋だ。
 タルブ村に数十年前に生まれてばかりの風習で、親が自分の体の一部と願いを篭めた一枚の紙を一緒に封じて子供に手渡すのだとか。
 袋には文字が刺繍されているが、ハルケギニアで主に使用されるガリア語ではない。言葉の意味は教えてもらったが、どうすればそう読めるのかまでは理解できなかった。
 とにかく、コレを渡すことがホル・ホースの役割なのだ。考えても仕方がない。
「邪魔するぜ」
 “緑の苔”亭に入るときと同じ言葉を使用したことで、まさか、また寂れた店だったりしないだろうなと、考えたホル・ホースは、目の間に現れた世界で一番見たくないものに接近されて痛みの走る頬を引き攣らせた。
「いらっしゃいませー!」
 店に入ると、皮製のぴっちりとした胴着を着込んだ大男が出迎えた。
 唇に厚く紅を塗り、髪を油で固め、全身をクネクネと躍らせる。いわゆる、オカマとい
うやつだろうか。
 女を史上最高の生命体と考えるホル・ホースにとって、一番接触したくない存在だった。
「あら、こちらおはつね、カッコイイお兄さん。そちらの可愛らしいお嬢さんもヨロシクね。ウチ低年齢も大丈夫よー。甘い甘ーいジュースが用意してあるから。いっぱい楽しんで行ってね!」
 そう言って席に案内しようとする男をホル・ホースが止めた。
「いや、オレは客じゃねえ。ここで働いている、ジェシカって嬢ちゃんに用がある」
 ホル・ホースの言葉を耳にした男は、先程までの気持ち悪い態度を改めて背筋を伸ばして体を真っ直ぐにすると、威圧感のある目でホル・ホースを見下ろした。
 背の高さはホル・ホースに帽子の高さを加えた程度だが、体格は一回り大きい。
 少しだけ威圧感を感じて、ヒヒと笑ったホル・ホースは、首を小さく横に振って帽子を深く被った。
「勘違いするな。別に因縁をつけるわけでもナンパでもねえ。ちょいと頼まれたものを渡しに来ただけだ」
 男はすこしだけ眉を顰めると、一度静かに深呼吸をして、オカマに戻った。
「あら、そう?じゃあ、もうすぐ閉店時間だから、お酒でも飲んでて待っててもらえるかしらん。そっちのお嬢ちゃんにはジュースを用意するからね」
 ホル・ホースとエルザの二人を店の奥のテーブルへと案内した男は、気持ちの悪いお辞儀をして、そのまま仕事に戻っていった。
 席に座って一息ついたホル・ホースは、皮袋の氷で頬を冷やしてくれるエルザを横に座らせて店内を見渡す。
 客は圧倒的に男が多いようだ。
 “緑の苔”亭と違って店内は綺麗で、所々に置かれた淡い色の花が鮮やかさと清潔感を感じさせる。
 店内の様相だけを見れば、女性客が入ってもおかしくは無いと思うのだが、そこは店員の接客方法に問題があるのだろう。
 ウェイトレスとして客の対応に当たる人間は、全て若い女の子。それも、20を下回るほどの若年層で締められている。
 制服も露出の多い際どいもので、店の男達はちらちらと見える女性達の素肌に鼻の下を伸ばしているのが分かった。
 簡単に言えば、酒と料理を主眼に置いた風俗店だ。
 それでも女性客がゼロではないのは、ストリップ・バーと同じ心理だろうと考えて、ホル・ホースは隣のエルザに視線を向けた。
 ほうほうと、何故か感嘆の息を漏らしてウェイトレス達を見ている。
 ウェイトレスの1人が男性客の膝に尻を乗せてしな垂れかかるのを見つけると、そこに視線を集中させ、手練手管で男達からチップを巻き上げるのを注意深く観察していた。
 なにか嫌な予感がしたので、ホル・ホースは見なかったことにして適当に酒を飲もうと近くのウェイトレスに声をかけた。
 幼女連れということもあって、チップをねだるウェイトレスはいなかったが、好奇心から声をかけてくる女の子は多い。
 曰く、妹さんですか?
 曰く、娘さんですか?
 曰く、姪御さんですか?
 どうあっても親類縁者に仕立て上げたいらしい。しかも、エルザの話題しか出てこない。
 幼女じゃなくて自分に興味を持ってくれよ、と思う一方で、最近女運が悪いから丁度いいかもしれないな、なんて考えてもいた。
 “緑の苔”亭の店主から駄賃として貰った金は、あまり多くない。
 派手に飲むことは出来ないだろうと、チビチビとグラスを傾けながら待つこと三十分。
 オーダーにストップがかかると同時に客が引き始め、さらに三十分が経つころには店員と二人を残して人はいなくなっていた。
 最初にホル・ホースたちを案内した男がテーブルの前に立って、小さくお辞儀をする。
 その影から、ウェイトレスとは違う服装の黒髪の少女が姿を現した。
「あたしは店長のスカロン。で、こっちが娘のジェシカよ」
 紹介にあわせて、ジェシカがお辞儀をした。
 ホル・ホースも帽子を取って応対する。
「はじめまして、ってのもなんかおかしいな。長く付き合うこともねえだろうから、簡単に紹介だけさせてもらうぜ。オレがホル・ホース」
「わたしはエルザよ」
 注文したジュースの残りを飲み込んで、エルザが笑みを浮かべる。
 エルザの様子に少しだけ緊張が解れたのか、ジェシカがホル・ホースの正面に座って頭につけた頭巾を外した。
「それで、渡したい物っていうのは」
「その前に、そっちのスカロンってオッサンは、席を外してくれ。依頼主の条件でね。あんたがいると、ややこしくなるだろうからってな」
 ジェシカの切り出しにホル・ホースは手でそれを制して、テーブルの隣に立つスカロンに追い払うように手を振った。
 スカロンが警戒心を強めて、ジェシカの傍に寄る。
「ダメよ。あなた達が何者かも分からないのに、大事な娘を1人にさせられないわ」
 その太い腕でジェシカの体を抱きしめたスカロンがホル・ホースを睨む。
 だが、それに抵抗したのは、他ならぬジェシカだった。
「パパ。この人の言う通りにしてくれる?それにほら、まだ、お店の片付けは終わってないでしょ」
「……ジェシカがそう言うなら」
 渋々離れていくスカロンは最後にホル・ホースを殺気の籠もった目で睨みつけると、店の清掃を行っているウェイトレス達の指揮を執り始めた。
 こちらに聞き耳を立てていないことを確認して、ホル・ホースは上着のポケットに手を突っ込む。
「それは……タルブの?」
 取り出された巾着袋を見て、ジェシカが言葉を漏らした。
「ああ。”緑の苔”亭の女店主からあんたに、ってな」
 差し出されたそれを手に取ったジェシカは、刺繍の文字を指で触れて書かれた文字を読み上げる。
「お守り……?”緑の苔”亭……?」
 少しだけ首を傾けたジェシカに、ホル・ホースは眉根を寄せた。
「知らねえのか?髪の色はアンタとは違ったが、顔立ちは良く似てる。虫を馬鹿みたいに嫌う変な女だ」
「……虫嫌い。でも、そんな」
 巾着を握り締めて、ジェシカが首を振る。
 まさかややこしい依頼だったのか、とホル・ホースが不安を感じ始めたところで、ジェシカが身を乗り出してホル・ホースに詰め寄った。
「その人、どんな感じでしたか!?髪の長さとか、口癖とか、特長みたいなのはわかりませんか!?」
 悲鳴を上げるように尋ねてくるジェシカに、椅子から転げ落ちそうなほど背を逸らしたホル・ホースは、視線を天井に向けて言付けも預かったことを思い出した。
 お守りとその中身に篭めた意味に添えて、伝えて欲しい。
 離れても、想いは変わることなく。
 ホル・ホースの言葉を聞いたジェシカは、巾着の中から取り出した一枚の紙に書かれた字を読んで、肩を振るわせた。
 そして、テーブルの上に置かれていた飲かけのワイン瓶を手にして、おもむろに立ち上がると、モップを手に床を磨いていた父親に向かって瓶を投げつけた。
 スカロンの後頭部に直撃した瓶が粉々に砕け、破片が空中に飛散する。
 頭を抑えて悶絶する父親に足音を荒くして近づいたジェシカは、ホル・ホースから受け取った袋を見せ付けて怒鳴った。
「この、バカオヤジ!お母さん生きてるじゃない!三年前、仕入れに出かけた帰りに事故死したって、真っ赤なウソだったわけ!?」
 床に転がる父親の体を蹴りつけるジェシカに、スカロンは小指を唇に当てて涙を溢しながら頭を下げた。
「ごめんなさい、ジェシカちゃん。パパ、あんまり情けない振られ方したから、言うに言えなくてええぇ」
 蹴りが一層強まって、スカロンの体が店の床を転がりだした。
「黙れ、このダメオカマ!お母さんの代わりにって言って、そんな格好してるのも、結局自分の趣味だったんじゃないの!」
「許してー、許してー!だって、もう勘弁、なんて言われて逃げられちゃったこと、言えるわけないじゃない」
「言えよ!言いなさいよ!三年前に流したあの涙は一体なんだったのよ!お葬式に呼んだ親戚一同、平謝りしてきなさいよ!今すぐ!でないと、この店から追い出すからね!!」
 蹴り転がされて店の外へと姿を消していくスカロンをウェイトレス達が見つめる中、肩を怒らせてホル・ホースたちのところに戻ってきたジェシカは、最初に頭を下げた。
「ごめんなさい。家の事情に巻き込んじゃった上に、こんな、変なところ見せちゃって」
 巾着の中にあった紙をテーブルに置いて、はあ、と溜息をついたジェシカはくたびれた様にテーブルに倒れこんだ。
「あー、ご愁傷様、とだけ言っとくわ」
「うん。ありがとう。お客さん、優しいね」
 顔を上げて弱弱しい笑みを浮かべたジェシカは、紙を手にとってホル・ホースに差し出した。
 書かれている文字は、離縁状、の一言だった。
「”緑の苔”亭っていうのはね、この店の前の名前なの」
 肘をテーブルについて手の上に顎を乗せると、ジェシカはなにかを思い出すように天井を見上げた。
「多分、お母さんは最近まで、お父さんを許す気があったんじゃないかな。だから、あたし達の故郷のタルブ村に、店なんて構えたんだと思う」
 ジェシカの母はトリスタニアの出身で、平民の中では裕福な方だった。
 町に店を構えたスカロンが、商人だったジェシカの母の両親と取引をするようになってから、少しずつ関係を深めて行ったらしい。
 そのうち、結婚して、子供が出来て、店を大きくしていこう、というところで、スカロンの趣味が母に見つかった。
 その勢いでの離婚だったのだろう。しかし、スカロンとの関係にまだ未練を感じていたジェシカの母は、スカロンが迎えにきてくれることを信じて待っていた。
 それも、スカロンの故郷に店の名前を借りて分かり易い形を作ってまで。
 虫嫌いは、都会育ちで耐性がなかったためだ。大人になってから、嫌いなものを克服するのは中々に難しい。
 期間にして三年。それだけ待っても、スカロンは村に戻らなかった。
 忙しい毎日にかまけて女房のことを忘れてしまったのか、それとも、ただ単に会うのが恐かっただけか。
 その真意はスカロン以外には分からない。
「もう、なにもかも遅いんだけどね」
 投げやりな言い方でジェシカは言葉を止めて、巾着袋を逆さに振った。
 テーブルに金属音が鳴る。
「お母さんの指輪。結婚指輪じゃなくて、あたしが昔欲しがった、もの凄く綺麗な宝石の付いた指輪よ。……でもね、これ、宝石じゃなくてガラスなのよ」
 露天で同じものを見たときはショックだったわ、と笑うジェシカに、エルザが尋ねた。
「見つけたときは買わなかったの?」
 ジェシカが首を横に振る。
「指輪が欲しかったんじゃないの、お母さんの持ち物が欲しかったのよ」
 子供心に親の温もりを求めたのかもしれない。
 客商売のためにあまり構ってもらえなかった子供の頃を思い出して、ジェシカは指輪を指先で弄る。
 商売を抜きにしても、母はあまり感情表現が得意ではなかった。手を上げることも少なくはないし、言葉がきついところもあった。
 しかし、その手の暖かさは忘れていない。
「まさか、お母さんがそれを覚えているとは思わなかったけどね」
 指輪を手にとったジェシカが自分の左手の中指に嵌めると、指輪はまるであつらえたかのようにぴったりと収まった。
 にこり、と幸せそうに笑って、左手を右手で包み込む。、
 ガラスの偽者だと分かっていても、母のものだというだけで、それは宝石のものよりも何倍も価値があるのだと、ジェシカの表情が語っていた。
「まだ、遅くはねえ。今からでも会いに行けばいいさ。居所があの世じゃなけりゃあ、会いにいけないことはねえんだ」
 まして、トリスタニアとタルブはそれほど離れた場所ではない。ほんの数日、店を休んで馬に乗れば、三年越しの母との再会が出来るはずだ。
 ジェシカはホル・ホースを見て薄く笑うと、大きく頷いて立ち上がった。
「そうと決まれば、ちんたらしちゃいられないね。しっかり働いて、お店を軌道に乗せたら、土産いっぱい持って里帰りしてやるんだから!首洗って待ってなさいよ!」
 馬で二日の場所にいる母を想い、気合を入れたジェシカが様子を見守っていたウェイトレス達に檄を飛ばす。
 それを見たホル・ホースとエルザは、互いの顔を見合わせて一つのことを思った。
 シャルロットは今頃なにをしているのだろう。と。
 考えてみれば、随分と無責任なことをしてしまった気がする。
 薬で心を病んだ母との思い出の品。それを汚されたとき、何を感じただろうか。
 ホル・ホースもエルザも、もう母は居ない。正確に言えば、家族そのものが存在しない。
 そういう意味では、シャルロットはまだマシなのかも知れない。だが、生きているからこそ割り切れないものもある。
 まったく、世話のかかるお嬢ちゃんばかりだ。
 そう考えて、深く息を吐いたホル・ホースは、帽子を被り直してヒヒと笑った。
「しょうがねえなあ。オレ達も、シャルロットの嬢ちゃんに平謝りするかあ」
「ん。そう、ね。しょうがないわね」
 そう言って、ホル・ホースとエルザは二人して笑った。
 シャルロットはまだ怒っているだろうか。もしかしたら、泣いているかもしれない。
 彼女の持っていた大切な本を汚しておいて、逃げ出すというのは、少々無責任だったかもしれない。しかし、話し合いをする時間も無かった。今回ばかりは許して欲しいと思う。
 追いかけっこが始まって、もうそろそろ一週間が過ぎる。シャルロットの機嫌も、そろそろ落ち着く頃だろう。ガリアに戻るには丁度いい時間だ。
 どんなお仕置きが待っているかは分からないが、それなりに過酷なものとなるのは予想が着く。
 それでも、最後には許してくれるはずだ。
 シャルロットという少女は、どこまでいっても、心優しい人間なのだから。
 ただ、一つ問題があるとすれば、この感情が感動する映画を見た後の気分にそっくり過ぎて、間違いなく長持ちしないだろうという確信が持ててしまうことなのだが。
 それは、今考えても、仕方のないことなのだろう。


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