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火が、燃え上がっている。
焼き焦げた炭を敷いて荒れ狂う橙色の波。
その上で踊る、千切られ、解体された贄の断片。
生命が途絶えた肉片は、身を包む火に欣喜雀躍するが如くうねる。まるで肉片に残留する思念が断末魔を上げているというように。
落ちた油が炭に落ちて、煙になり、嗅いではいけない匂いを鼻腔に運ぶ。
それは禁忌。一度手を出せば二度目の歯止めが格段に緩くなり虜にする地獄の扉。
かつて生命だったもの。肉を串刺し焼き染めるもの。お酒のあてに最高のもの。
そう、焼き鳥である。
───……食べてばっかだなこの神……。
どこからともなくやってきて、柴関ラーメンの隣に停止したキッチンカー。
焼ける串の並びを理は眺めている。
「よし、丁度いい。いい焼き加減だ。
待たせたなマスター、さあ食いな」
我が物顔で出店を仕切る、いかにも自由業に手を染めてそうな怪しげな外国人から、理は出来立ての串が詰まったパックを受け取る。
ねぎまに皮、砂肝ハツ……焼き鳥には定番の部位を余さず網羅している。
少しは勉強したアステカ神話の内容を思うと、その主神から手渡された意味に良からぬ想像を抱いてしまう。
「ん? 金の事なら心配するな。今回はオレの奢りだ。美味いラーメン屋を紹介してもらった貸しもあるからな」
燻される鳥串の葬列の白煙に包まれる
テスカトリポカは、死を司る荒神の神秘性をどこかに置いてきてしまっている。
煙る鏡とは出来立ての食事の湯気のことをいうのだろうか。成る程、常日頃生贄を所望しているのは食材の提供を無心していたというわけか。
「……」
得意げなテスカトリポカに対して、実際に串を焼いている店主は無言だった。
無駄を排し、休みなく黙々と指を動かし串の焼きを調節している姿勢はある種のストイックさがある。
あくまで主役は料理であり、主題は客に如何に美味に提供するかのみに終始する、プロ意識というものを感じさせた。
他の屋台に隣接させるのは営業妨害以外のなにものでもないと思うのだが、そこはテスカトリポカが上手くやっているのだろう。
少なくとも芝関の大将は嫌な顔ひとつせず受け入れてる。本人がおおらか過ぎる気もするが。
あれで
ルールにはかっちりしてる所があるので、ギリギリ違法ではないと信じたい。
『どうかしましたかトラマカスキ。兄様の恵みを受け取らないなんて、不敬極まりありませんよ。
心臓抉り出されたいんです、か』
念話で入ってくる物騒なお小言は、すっかり顔なじみになったトラロックのもの。
アステカの神話に伝わる、雨と雷の神を名乗る彼女は、この聖杯戦争に招かれたどの英霊とも異なる立場にいる。
テスカトリポカが、借用したベルベットルームに開いた商店を管理させる為に独自に召喚した、番外の違法サーヴァントだという。
店の小間使いに神霊を喚び出すという無体無法。仕事が大胆なのか大雑把なのかは分からないが、スケールが違うのは確かだろう。
そんな無法の代償に部屋の外を出ることができないでいる彼女だが、こうして理とは念話での交信が可能になっている。
テスカトリポカ曰くの加護……曰く付きの権能の一種だ。
彼女のナビゲートと情報解析には実際幾度も助けられている。
マスターとサーヴァントの完全な別行動という、割と致命的な単騎行動には生存ルートの確保が必須なのだ。
「聞いときたいんだけど……これ、鳥だよね? 普通の。アステカ流じゃなくて」
『はあ、何を言うかと思えば、浅はかですね。
心臓を食らうのはテスカトリポカ神のみの特権であり、炙った手足を齧るのはその神官の役目、それもどちらも重要な儀式の時のみです』
「それはどうも。じゃあ遠慮なく」
俄仕立ての知識に呆れた風に訂正の解説が加わる。
杞憂だったと分かったので安心して串を取った。
一見細身な理だがこれでも花の高校生である。既にラーメン一杯平らげていても遠慮なく腹に入っていく。学生は栄養よりも味と量、ひたすらに肉と油だ。
美人秘書に依頼されればハンバーガーの大食いチャレンジとて達成してみせよう。
『よい食べっぷりです。戦士……男の子はそうでなくては。
それに……まだまだ見識が不足していますが私の事を知ろうと調べてくれた努力は評価点です。
また真の神官に一歩前進しました……ね』
外出禁止の反動なのか元の気質なのか、それとも非番で暇なだけなのか、日中はトラロックから積極的に話しかけられる事も多い。
どころか朝にはモーニングコールをかけにきたりと、いつの間にか身の回りの管理にまで手が伸びて初めていた。接近が、すごく速い。
姿の見えない安住の地を名乗る謎の女の声が昼夜問わず聞こえる。傍から聞けば完全に怪談の前兆だが、理は特段何事もないように落ち着いて相手をしていられる。
自分にしか感じられない隣人を持つのは、初めての経験ではないのだった。
『──────。トラマカスキ、サーヴァントの反応が近づいてきてます。それもニ騎。同一の方角からです』
硬くした声質で、待ち人が来たと理解する。
昼時とあってサラリーマンから観光客で賑わう雑踏が、大きくふたつに割れた。
強引に押し退けられたわけてはいない。騒がしさに水を差す事なく、誰もがごく自然に道を譲っている。
彼らに道を空けている意図はなく、また発想すらしていない。
すれ違う客とは雑多な会話を交わすほど周囲と打ち解けていながら、その人の歩みを止める壁にはなるまいとよけている。
清らかな渓流に足を入れ、水面に揺蕩う蓮を手に掬い、麗らかな空から流れる風を満身に受ける。それと変わりない。
緊張から解放された弛緩の果て、歓の一字で当たり前に受け入れ、当たり前に見送っているのだ。
「ラーメン屋で待ち合わせって聞いたけど……焼き鳥屋の間違いだった?」
人だかりの裂け目から、いち早くひょこりと顔を出した少女。
予めホシノからの伝聞で知ってはいたが、本当に幼い子供であるのには内心で驚く。
「いや、合ってるよ。君が、ホシノ先輩が言ってたヤヨイちゃん?」
「うん。
寶月夜宵、よろしく。あなたが結城理だね。話は
小鳥遊ホシノから聞いてる?」
「だいたいは。幽霊屋敷を打ち壊すとかなんとか」
ホシノは年齢と不釣り合いな体躯であったが、夜宵は本当に相応の幼さだ。小学生の身で活動部に加わった天田乾よりも、さらに歳下ではないだろうか。
「うん? 誰かと思えばお前さんか。言っとくが、表の店だろうとまけてやる気はねえぞ」
「……驚いた。あなたが理のサーヴァントだったなんて。
怪しい武器屋だけじゃなく、屋台まで扱ってるとは。テキ屋の胴元がヤクザなのと同じ理屈?」
煙の立ち込める屋台を挟んだ夜宵とアサシンは、とっくに顔は見知ってるという風に軽いやり取りを交わしている。
「知り合いだったの?」
「店で一度きりな。ひたすら値切りの交渉を粘ってくる、とてもじゃないが上客とは言えんがね」
「お金を持ってる身なりだと思ってた? 小学生に大金の期待なんてしないで欲しい」
「だから物でも手を打つと言ってるだろう。あの指輪ならデカい呪体と引き換えにしても釣りが出るぞ?」
「遠慮しとく。敵に転売されてこっちに使われたら目も当てられない」
どうやら、商売相手として対面済みであったらしい。ただし迷惑リストに記入された客だが。
ベルベットルームを通じての商売で、アサシンは全ての葬者と接触する機会がある。この冥界では誰よりも葬者に顔が利く。
店の来訪者について、守秘義務と言ってアサシンは理に開示を遮断している。表立っての活動を開始して、今後も一方的に面識のある者と会う事だろう。
「……まあいっか。買い物は二の次、ゲームマスターならぬルールメイカーとこうして直にコネが出来ただけで儲けもの。
葬者とも会えたんだから損はない。それだけでも価値はある」
精神世界で運営される店を全葬者と共有する……聖杯戦争、ないし冥界の構造に深く関わっていなければ出来るものではない。
世界の秘密を知っているキーマンであると、夜宵は見做している。事実そうだ。理さえ全てを教えられたわけではない。
出会った直後に情報を集めて編纂する夜宵からは、目的意識の高さが感じ取れる。
自分に有利な盤面を整えようと常に考え、実利を見て、能動的に街中を駆け回っている。
ゴールが確定しているのだから、それに沿う最短のルートの構築に余念がない。勝つにはそうするべきだと弁え、迷わず考えを実行に移す。
明確な行動方針を打ち立てられていない自分やホシノとは、年齢と共に相反する行動力だ。
「二人一緒だとは聞いてなかったけど」
「その子はさっき知り合ったばかり。方針がある程度一致してたから連れてきた。味方が多いに越したことはない」
夜宵に促されて、後ろに控えていたもう一人が前に出る。
モノクロ色の服と髪をした、世界に対して実存を薄めているような少女。
それはまだ何にも染まってない無地の布か、漂白されて色を失くした織物か。
「ご紹介に預かりました、
プラナといいます。最近ではプーちゃんと新しくあだ名が付きましたが、呼び方はお任せします」
頭上に天輪を載せた少女───プラナは、ぺこりと頭を下げて名前を告げる。
「葬者の方、お名前を聞いてもいいでしょうか」
そう問いかけ、じっと理の顔を見つめる。
親の言葉を従順に待つ子供のような、自分に何かを送られるのかと期待している、無垢さと無機質さ。
いかにも子供らしくもありながら、どこか人世に適合していない浮遊感が、あどけなさに同居している。
別に、どこが似ているというわけでもないけれど。
不意に、懐かしい記憶が理の内に浮かぶ。
魂にも肉体にも刻まれた眩い青春───その欠片の中でも、一際輝く思い出のひとつ。
心を交わした、或る機械の少女の顔が、目の前にいる子どもを通過したのだった。
「結城理。よろしく」
「了解しました。では理さんと……いや結城さん?
すみません、人とのコミュニケーションは不慣れなもので。やはり初対面の方を名で呼ぶのは失礼でしょうか?」
「どっちでもいいよ。お好きにどうぞ」
和やかに葬者との顔合わせが済んだところで、 夜宵達が抜けた人だかりから、新たにふたつの巨躯が出てきたのが見える。
纏う強大な魔力の波。共に夜宵とプラナのサーヴァントであるのを示している。
「悪ィな大将、待たせちまったわ。いやー近所の佐竹の婆ちゃんに捕まっちまった。
こういうのは自分の倅にやれって言ってんのに、聞かずにホイホイ渡してきてよ」
一人は筋骨隆々の偉丈夫、まさしく英雄らしい金髪の男。
戦士の威圧感は腕に抱えた菓子の詰め合わせが和らいでいた。
サングラスで眼を覆っていても、人懐こい笑顔がよく似合っている。総じて好印象を抱きやすい益荒男だ。
「そう言うなって。金ちゃんが好かれてる証でしょ。どこ行っても金ちゃんは金ちゃんのままで俺も嬉しいよ」
「おうよ───あーいや……有り難き御言葉にて!」
「ほら、また敬語になってんぞ。やめなってそういうの、俺と金ちゃんの仲だろ?」
「いや、オレっちはそれ知らねぇんすけど……?」
そんな偉丈夫の肩を小突くのは、同様に貰い物で両手が塞がった男。
こちらも見事に鍛えられた肉体を、ラフな文字がプリントされたタンクトップから覗かせている。
快哉に笑うその顔を───額の真中に打たれた白毫の面貌を見るだけで、知ってしまう。理解してしまう。
脳を揺さぶり、直感を掴み上げられ、魂に一直線に届く天啓。
何も隠し立てず、在るがままに裡を開かれた胸襟から、この国で広まった教えを開いた祖の真名を、否応にも確信させられる。
即ちブッダ。
可能性の至点。紡ぎ結び伸び行く絆の果て。審判を冠さぬ異聞の救世主と。
「っと。やっと追いついた。どうよプーちゃんにやよちゃん、待ち人には会えて……っと」
地獄に仏が来ている。諺の通りのこの場面をどう受け取るべきなのか。洒落が利いてると笑い飛ばすほどの度胸は流石に理にもない。
綿菓子の棒を口に加えた当の釈迦は、理を見るなり歩み寄り、まじまじと凝視して。
「…………君、悟ってるね」
そう、おかしな事を言うのだった。
「え?」
「食うかい? 色々貰ったけど肉はいま食う気なくてさ」
問い返す間もなく手渡される。提案の形式を取っていながら、既に理の胸に押し付けている、有無を言わさぬ強引さ。
反発する負の感情は湧いてこない。飾りのない不敵な笑みに、荒れも言葉の疑問も綺麗に流されてしまった気分だ。
「いやあ助かるわ。プーちゃんもいい加減ダウンしちゃいそうだし、ちょい困ってたんだよね。
子供なんだしもっとたくさん食えばいいのにな」
「……訂正を求めます。あなたから貰ったB級グルメ群の量の総カロリーは既に一日の平均値をオーバーしています。
私の消化が追いつかないのは流石に貰いすぎ、かつ食べさせ過ぎです……けぷ」
持っていたラムネをくぴくぴと呷るプラナ。どことなく充満する油と脂肪の臭いにげんなりしてるように見える。
……もし自分が拒否すれば、この添加物の群れが見るからに胃の容量が限界な子に押し付けられるのかと想像すると、流石に忍びなくなる。
覚悟を決めて口元に近い唐揚げ棒を齧り、次々と胃の中に放り込む。まだまだ容量はセーフだ。
「いい食いっぷりじゃん。男の子はそうでなきゃね。
俺はまあ、見たまんま釈迦だ。バーサーカーって呼ぶのが習わしらしいけど辛気臭いっしょ。金ちゃんも同じクラスで紛らわしいしな」
「さらっと真名のヒントをバラされて、正直仰天の私。このブッダ、幾らなんでも傍若無人すぎる」
「謝罪。代わってお詫びします。聞いた試しはありませんが……」
「ん。これぞ釈迦に説法」
「噛み合ってるねー。もう仲良しじゃん」
バーサーカーと呼ばれた、派手目の現代服で着飾ったサーヴァント。
狂気の片鱗も見せない顔は、少女二人の非難もどこ吹く風だ。確かに、暴力的に大きい存在感だった。
「ところでバーサーカー。今の『悟ってる』とは?」
「だそのまんまさ。まこちーはもう『悟り』に辿り着いてる。
自分の弱さや愚かさ、どうしようもねえ運命に抗って、全力で思春期を突っ走った。
救済とか解脱とか、そんな大仰なもんじゃない。ただ己に悔いを残さない、自分だけが見つけられる答えってやつに至ってんのさ。
いうなら、そう……先輩だよ。プーちゃんの。前言ってた先輩ちゃんとは違う、人生についてのね」
「先輩……ですか」
しれっと愛称を付けてきたバーサーカー……問うまでもなくブッダに説かれたプラナは、瞳に少しの煌めきを宿して見つめてくる。
二人のやり取りには葬者と英霊、主従といった関係性はまるで当てはまらない。
少女の主体の欠けもある気もするが、なにせ相手が相手だ。
会ったばかりの理でも、仏に教えを受ける弟子という構図が丁寧に理解される。誰であっても、そうなるだろう。
「しっかし……マジかよ。そりゃあ至る為にみんなで行こうって言って周ったのは俺だけどさ。こんな早くに達しちゃうワケ?
なんつー子と契約してんだよ。なあ──────ポカっちよ」
口調は依然飄々としていながら、ふいに釈迦は口角を吊り下げ、夜宵の対面にいる商人へと言い捨てた。
「ああ、いいだろ? 今回のオレのお気に入りだ。たまには外回りをしていくもんだな」
「旅先で思いがけない出会いがある。それも人生の面白さだよ」
「同感だな」
フランクに話しかける釈迦は本人の気性としても、それにアサシンも素直に応じているのが謎だ。
あちらも人好きのする神ではあるが、こうも馴れ合いをするだけ緩くもない。会話の合間の一秒間に、銃の引き金に指をかけている緊張感がある。
葬者を他所に交流する神と仏。インドと南米を繋ぐ因果関係が不明すぎる。
一体なんの接点と経緯があって、テスカトリポカと釈迦が顔見知りの仲になるのか。
「質問。バーサーカーの時から、あまりにもスムーズに会話に入っていくので機会を失っていたのですが……お二方とは知り合いなのですか?」
思ってた疑問を理に先んじてプラナが答える。
少女自身も理と同じく、今の状況についていけていないらしい。
「いや? コイツともこの金ちゃんとも、正真正銘初対面だぜプーちゃん。でも無関係ってわけじゃあないんだよねこれが」
プラナの面識がある説を否定し、しかしと釈迦は続ける。
「神の目線は縦軸も横軸も無ぇ。こういうのもあるのよたまに。
特にコイツは『後から来るもの』を『先に持ってくる』プロだからな。因果とかアレコレ話してちゃキリがねぇ。
「魔術でいうところの照応、類感だ。同じ名を持つ神なら、別の世界とも自然と『繋がる』。
アレだ。仏の手は宇宙の果てまで届くっていうしな。これぐらいの特典なら権能を使うまでもない、軽いサービスだ」
「……?」
「ま、難しく考えないでよ。神ってヤツはどいつもこいつも、どこでもデカイ顔する連中だって事だけ憶えときゃいいさ」
理もプラナも共に首を傾げる。
見えている視座の差が違いすぎるのだけは察する。まさに雲の上の話だ。
人が足をつけて歩く大地の遥か上方で、神と仏は対峙している。
「でよ。どうなんだ。こんな子捕まえてどうするつもりだポカっち?」
「どうもこうもあるか。こいつはオレが勇者と認めた。死に挑み生を勝ち取り、その上で魂を天に捧げ休息に入った。
ならば与えるのは次の試練だ。死が闊歩する自由を許す冥界……オレの世界にはない無法地帯だが、それだけに舞台にはお誂え向きだ」
「させると思ってんの? 俺がいるのに」
ガリ、と。
唯一理に渡さなかった焼きトウモロコシに歯を立て、実を齧り取る。
「お前の意見は聞いてないぜシッダールタ。他所の神の流儀には干渉するな。
トウモロコシは神の肉体。拝領したからには異教の神だろうときちんと敬えよな?」
「知るかよ。俺は食いたいモン食ってるだけだ。
焼いたこいつをくれたのはそこのテキ屋のおっちゃんだし、種撒いて畑耕して収穫したのはどっかのじーさんばーさんだ。
そいつらの汗水を無視して感謝なんざするわけねーわ」
俄に、漣が立った。
穏やかに凪いでいた水面が、吹いた風で激しく揺れ、乗っていた蓮の花が空の彼方へと吹き飛ばされた。
理には、今の瞬間がそう目に映った。
店に集う客で騒々しい街。
見えない法で秩序が守られていた空間が、その時、明らかに空気が変じたのを、周囲は気付いたのか。
釈迦もアサシンも何も語らない。
しゃくしゃくと、トウモロコシを回しながら齧る咀嚼音だけが聞こえる。
これだけ賑わい雑多な音がひしめく周囲で、その音だけしか聞こえない。
そうして高速で早回しするように残らず実を食われ残った芯が、ゴミ袋に放り投げられ中に収まって。
「よし、じゃあ殺るか」
「おう、んじゃ戦ろうか」
風が吹いた。
今度は現実の、だが四月の始めにはない熱が込もった旋風だった。
辺りの店で使われている焼き台の火が、まるで篝火のように燦然と燃え上がり、上昇気流を生み出し灼けた風を送っている。
理論の上ではあり得る、けれどほぼ起こるはずのない現象が偶然という必然に引き寄せられる。
「悪いねまこちー。暫くプーちゃんと遊んでやっててくれ。
けっこう寂しがり屋だからさ、君の辿った物語でも聞かせてといてくれよ」
「なぁオイ、アンタ……」
「心配すんなよ金ちゃん。語り終わる間には終わらせてるからよ」
そしてさらなる怪現象が起こる。
燻される肉が出すのと同じく、アサシンの体───右脚を起点にして、火もないのに急に黒い煙が噴き上がった。
火事だと騒ぎ立てる声もない。煙はアサシンを覆い、釈迦を包み、二人を陽光から遮断する暗黒の領域を形成する。
「後先を考える余裕なんて考えるなよ。オレとやるからには死力を振り絞れ。
しかし、やっとこさの戦いの初手がコレとはね。肩慣らしにしても上等すぎる。運がいいのか悪いのか知らんが、」
視界を遮る濃霧の中。
艷やかにも似た厳かで、神の言葉が唱えられる。
「揉んでやるよ、救世主くずれ」
「五月蝿え、冠位ろくでなし」
再び、一陣の風。
煙は思い切りカーテンを剥ぎ取るが如く空に飛んでいき、消えていった。
包まれた影ごと。
「あっ」
「なっ」
「わっ」
「げっ」
そう、消えた。
神殿で行われる儀式めいた異様な空気も、遍く光を奪い去る煙も、すぐ傍にあった、無視しようにも出来ない巨大な気配も。
三人の葬者と一騎の英霊を残して、釈迦とアサシンは姿を忽然と消していた。
神隠し。神が隠れ、神と仏が対決する、熾烈の予感だけを置いて。
最終更新:2025年03月23日 22:17