私には、「最初の記憶」と呼んでいいものがある。
 もう十年も前になるけど、未だにコマ送りにして一瞬一瞬をはっきりと、それこそ時々夢に見てしまうくらい思い出せる。
 きっと、何年経とうとこの記憶だけは決して色褪せることはない。それほど私の頭に強く焼きついて、離れない光景がある。
 それは、鮮明な赤色から始まる。


 それは、濃密な錆びのにおいと共にユキの視界一杯に広がった。それ以外はよく見えない。直後に背中から何かが覆いかぶさり、ユキは床に叩きつけられるように倒れた。
 屈強な男の体だった。
 同時に、ゴトンと何かが床に落ちて跳ねた。
 抱きしめるように覆い被さっていた体を必死に押しのけ、ユキは、目の前に落ちたものを見た。
 なすすべなく、床を転がっていく。
 それは首だ。
 今しがた自分を庇い、自分の体に被さっている男の、首だ。
 生暖かい赤が、床を這うように染めていく。
 数遊びに使った床の木目が消えていく。
 首から、ユキの上から、止めどなく、赤が。
 べったりとユキの服にも滲み込んで、張り付いていく。
「            」
 誰かがユキの頭上で叫んだ。
 誰の悲鳴か、ユキは知っている。
「            」
「            」
 怒声とも罵声ともつかない男達の声も、ユキの耳は拾っている。
 しかし、目の前の首から目を逸らすことができない。
 転がるたびに、彼の癖のある髪が赤くなってべったりとその顔に張り付く。
 首が止まる。
 目が合った。
 男の顔は歪んでいた。
 決して苦悶ではない。目を細め、皺を寄せ、叫ぶように口を開けて、何かを訴えるような、必死の形相。
 首は、まだ生きていた。
 もう声は出ないのに、ユキは彼がなにを言いたいのかわかった。
 自分を、呼ぼうとしている。
 ガラスの割れる音がして、床を走る炎が首をかき消した。
 たちまち木の焼けるにおいと灼熱の空気がユキの肺を満たす。
 不意に体が軽くなった。
 まるで腕が抜けそうな勢いで、ユキは死体の下から引っ張り出された。
 女の手だ。もう片方の手には、火のついたランプを持っている。
 彼女がそれを床に叩き付けると、先程と同じように炎が床を走った。
 あとは振り返らず、女はユキの手を引いて裏口から森の中へ走った。
 外は夜で、真っ暗だった。
 しかしそんなに寒くはない。夏だからか。
 何度も転びそうになりながら、右へ左へ揺れる女の束ねられた髪を追うように、ユキも必死で彼女について走った。
 どれだけ走っただろう。女が、立ち止まった。
 ユキも、その場に座り込んで息をつく。どれだけ息をしても、まるで空気が入ってこない。
 女は、今きた道を振り返った。
 ユキも、つられて振り返る。自分たちの家がある方角だけ、まだごうごうと明るかった。
 まだ座っているユキを、女が優しく抱きしめた。
「あんたは、ここで待ってて。私はお父さんを探してくるからね」
 どこまでも、穏やかで、優しい声だった。
 そんな女の微笑みを見て、ユキは思った。
 ああ、この人は壊れてしまった。
 ふらりと立ち上がり、女が歩き出す。もう、ユキは見ていなかった。
 女の言葉に逆らい、ユキはその後に続いた。
 程なくして、二人は燃え盛る家の前へ戻ってきた。
 変わらずふらりとした足取りで、女が家へ歩み寄る。
 ユキは、それ以上進めなかった。
 家から吹き上がる炎が、熱い。
 行ってはいけない。
 ユキはこの先、女がどうなるの予想できた。
 あの家へ行けば、彼女は死ぬだろう。
 しかし、ユキは口に出さなかった。
 彼女が帰ってくることはないだろう。
 彼女が探しに行く相手は、さっき死んでしまったのだから。
 だから行かないで!
 女は何のためらいもなく、自分の家へ足を踏み入れる。その足に、腰に、服に、腕に、火が絡み付いていく。
 炎に撫でられた髪留めが外れて、髪が一本一本、火をともしてなびいた。

 ――ユ――ッ!
 誰かがユキを呼んでいる。

 でももしかしたら、まだ間に合うかもしれない。
 ユキには、この先なにが起こるのかわかっていた。今彼女を呼び止めたら、間に合うのかもしれない。
 しかし、何もできない。

 ――おい――っ!!
 誰かが呼んでいる。

 女が立ち止まって、振り返った。
 彼女は笑っていた。
 それを見て、ユキは思う。

 なんて、きれいな――


「ユキ、起きろ」
「ぅ……」
 体を大きく揺らされて、ユキは目を開けた。辺りは夜で、真っ暗だった。しかしもう炎はどこにもない。服も、血ではなく汗で濡れている。
 それに、ユキはベッドの上に寝ていた。
「うなされていたんだよ。ヴィダスタが起きてきたら心配するだろうから、起こしちゃった」
 暗がりの中、ショートヘアのティマフがユキの顔を覗き込む。更に彼女の上に、ユキを心配そうに見下ろす、半透明に光る浮遊霊が四人分。そのうち二人は、さっきの夢で死んだ男と女、フィネストとナガリスだ。
「フィオがあんたの悪い夢を抑えようとしたんだけど……」
 ベッドから起き上がったユキの隣に、ふわふわとナガリスが降りてくる。天井付近のフィネストを見上げる顔は、夢の中のときのように微笑んではいなかった。
 ナガリスに続いて後の二体の浮遊霊、ティルダとケーフィアもベッドのところまで降りてくる。
「ミイラ取りがミイラになっちまったな」
「大丈夫か、ユキ? 久しぶりに鮮明なのを見たな」
 ここに来てようやく、ユキは自分がリナウェスタのアパートにいることを思い出した。
「……フィネストは?」
 ティルダがあごをしゃくって、まだ降りてこないフィネストのほうを指す。
「しばらく休憩だな」
 ユキも見上げると、頭を抱えて縮こまるフィネストが浮かんでいた。唯一ユキに憑依できるフィネストは、ユキの夢にも干渉できるらしい。
 しかし両親の死に際を夢に見てもこうしてうなされてしまうのだ。自分が死ぬ夢に介入するのは、どれほど精神力がいるのだろう。
 ただ、フィネストの努力の甲斐もむなしくユキの悪夢はこれといってマシにはならない。
「あれ、お前いつの間に見えるようになったの?」
 ティマフが意外そうな声をあげ、ユキ達を見渡す。
 ユキも、なんとなく四人の浮遊霊を見回してから答える。
「えっと……、精神崩壊してユカリスに変わった後」
「あー、そっか……。そういえばついこの間までユカリスのままだったっけ」
 今は短い髪をかきあげ、ぼんやりと、ティマフが窓の外を眺める。ここ数日の騒動を思い返しているに違いなかった。
 それは、ユキの方も同じだった。自分が頼れる人達総てに協力してもらってオークション会場へ突入し、ニセユキも倒してティマフ達を救出したのは、ほんの二日前だ。
 それでいて騒ぎはまだおさまっていない。偶然居合わせた鳥人族のカティアから預かった卵が、まだ希鳥と共にルオルにある。
「ティマフっていつから見えてたの?」
 その横顔に、ユキが問いかける。
 窓の外を見たまま、ティマフは答えた。
「最初から。でもみんなからはユキが怖がるといけないから黙っとけって言われてた」
「そっか……」
 少しかすれ気味のユキの声を、ユキが傷ついたと取ったのか、ティルダが慌てて明るい調子で言う。
「でもほら、こうしてユキも見えるようになったからな。ティマフももうちょっとユキに優しくしてやれよ?」
「それとこれとは別ですー」
 ティマフとティルダの間柄は弟子と師匠の関係なのだが、ティマフはおどけて舌を出して見せた。
「っあー……何回見てもひでぇ夢だ」
 気を持ち直したフィネストも、ようやく天井付近から降りてくる。
 まだ夢の感覚が抜け切らないのか、しきりに首をさするフィネストに、ナガリスが寄り添う。
「おつかれさま」
 ティマフも、フィネストを労う。そんな周りを見て、ユキはうなだれた。
「……ごめんね」
 ぽそりと呟いたユキを見て、ケーフィアが笑いかける。
「そんなしんみりすんなって。俺達なら大丈夫だからさ」
「そーそー。どうなったって結局はみんなあんたの味方だからな!」
 ティルダもあっけからんと笑う。
 腕を組むティルダの隣で、フィネストもふんぞり返る。
「まあまず娘の言うことが聞けない時点でそいつはフルボッコの刑だ!」
「殴れるようになってから言おうねー」
「それ以前にちゃんと見えるようになろうか」
 そんなフィネストを、ナガリスとティマフが冷静になだめて、そして笑う。
 好き勝手に喋り合う周りにつられて、ユキも自然に笑みがこぼれた。

 あんたならもう、大丈夫。
 オークションでユカリスが自分に向けて言った言葉が再生される。
 大丈夫。
 それは、重石のようにユキの中へ沈んでいき、呪文のようにユキの足を地につける。
 もう、大丈夫。みんなも一緒にいてくれる。

 アパートの窓に、薄く光が差し込んでくる。
 朝が来る。
最終更新:2012年03月27日 18:59