荷馬車をこっそり抜け出せたのはよかった。そのあと追っ手に気づいて、森へ逃げ込んでうまく撒けたのもよかった。
 問題はその時に深手を負ってしまったことだった。傷の方は血の滲んだ服の上からターバンをぐるぐる巻きにして強引に止血をしているが、重傷に変わりはない。
「いってぇ……」
 私が一歩進むたびに、傍らを浮遊するフィネストがおなかを押さえてうめく。幽霊の彼は怪我なんてしなければ、痛い思いをすることもない。実際彼が押さえている自分の腹は、傷一つない。
 怪我をしているのは私だけ。

 盗賊団プレアデスだけが使える特殊能力。本当なら私が感じるはずの痛みを、フィネストはいつも進んで引き受ける。
 フィネストが痛がったところで私の傷は回復しないのだけど、ひとまずはダメージを無視して歩くことができた。
 多分、フィネストが痛みを引き受けるのはもっと別の理由からなんだろうけど。
 どちらにしろ、この草が生い茂っている中をまだ進まなきゃいけない。傷の悪化を気にするのはあとだ。
 そして問題はもうひとつ。
 長時間私が表に出ているにもかかわらず、ユキが何も言ってこないことだった。いつもなら五分と経たないうちに私を引っ込めて戻ろうとするのに、死んだように反応がない。
「なぁ……もういいだろ?」
 言葉の端々でうめき声を漏らしながら、フィネストが言う。
「町に……、戻ろう? な?」
 私は苦痛に歪む彼の顔を見据えて、答えた。
「今戻っても、ティマフ達が町にいる」
 淡々と、なるべく呼吸が乱れないように注意しながら言って、自分の内側へと意識を向ける。
 ユキからの反応はなかった。
 途端に足がもつれそうになって、意識が現実に戻る。
 体のほうも、痛みをごまかすだけではカバーできなくなってきていた。
 一度深呼吸して、息を整える。
「それに……っ」
 「町までは無理」そう言おうとした時、軟らかい土に足をとられた。
「いっ、でえええぇ!!」
 フィネストが激痛に悲鳴を上げ、その声をバックに私の視界一杯に土が広がる。叫びながらもフィネストが私を支えようとしてきたが、私の体は彼をすり抜けて地面に倒れた。
 その衝撃でフィネストがまた悲鳴を上げた。
 私はというと、軟らかい土に顔を半分ほど埋めたようになりながら身動きが取れない。この辺が限界みたいだった。
 フィネストの悲鳴を聞きつけ、辺りを散策していた他の浮遊霊たちも戻ってくる。
「   」
「   」
「   」
「   」
 他にもなにか報告があるらしかった。ナガリスが、フィネストが、ティルダが、ケーフィアが、口々になにかを話し合ってすぐ私に何か叫ぶ。
 しかし彼らの声が、景色が、遠い。
「      」
 ふいに、頭の上が陰った。続いて、水が落ちてくる。
 彼らは雨が降ることを言っていた……?
 言うことを聞かない体を無理やり動かして顔を上げると、雨なんて降っていなかった。
 その代わり、青色と白色の体の、ロボットが私を見下ろしていた。
 その姿が、伸ばしてくる手が、次第に滲んで、霞んで……。
 私の意識は途切れた。

「姉  、ソ 子ハ……!」
「 壇 拾イ  タ」
 慌てふためく機械の声と、それより更に機械的な声で目を覚ました。慌てている声の方は聞いたことがある。ベルファストだ。
 景色は、森から一転して石の壁に囲まれた部屋になっていた。コンクリートでできたそれら天井や壁は一様にして染みがついたりヒビが入っていて、ここがずいぶん長い間雨風にさらされていたことがわかる。
 照明になるようなものは見当たらず、かつては窓がはめ込まれていたであろう、四角く切り取られた壁の穴から差し込む日差しがそのまま部屋の明かりになっていた。
 多分廃屋だろうと思うけど、そのわりにはあちらこちらにケーブルが張られて何か色々な機械も置かれている。
「シカシセンサーノ方ニハ何ノ反応モ……」
「偶然ニモ死角ヲ通ッテ来タヨウデスネ」
「ソンナマサカ……!」
 あの青いロボットは、私を両腕に抱えたままベルファストとなにか話をしていた。
 私が起きたことに気づいていないのか、二人(正しくは二機?)は私の頭上でやり取りを続けている。
 当たり前だけど、私を抱いている腕が堅くて冷たい。逆に、傷はかなり痛くて熱い。
「にょーん」
 その肩のところに、猫が1匹、私を見下ろしていた。人違い(猫違い?)でなければ、泰紀だ。
 心配そうな泰紀の鳴き声に、ベルファスト達も私が起きたことに気づいて顔を覗き込む。
「ユキ、サン?」
「起キマシタネ」
 私は頷くだけにしておいた。けど、ベルファストは私の様子がおかしいことに気づいたらしい。疑問系だし、首をかしげている。
 さすがに初対面でないベルファストには何か言っておくべきだろうか。私はできるだけユキとは違う声になるように、低く、抑揚のない声を出した。
「今は、ユカリスだよ。……はじめまして、ベルファスト」
 私が予想した以上に、自分の声はひどく掠れてしまっていた。しかしそれがさらにベルファストの首を傾げさせる。このままこっちの事情は話さずに押し切ってしまおうと、私は更に畳み掛けた。
「事情は説明しないけど、少し休んだらすぐ出て行くから」
「ハ、ハイ……ッ!?」
 私の言葉に頷きかけたベルファストが、泰紀に尻尾で叩かれる。
「チチチ違イマス、マダ何モ言ッテマセン!」
 私に言っているのか泰紀に言っているのか、せわしなく両方を向きながらベルファストは釈明した。
「怪我ヲナサッテイル以上ハ追イ出スナンテシマセンガ、シカシ――」
 ベルファストの言わんとしていることを汲んで、私は続けた。
「この場所もあんた達のことも、誰にも言わない。その代わり、私のことも黙ってて」
 私の誓約に納得してくれたのか、ベルファストは頷いた。
 最近姿も見えなかったし、ベルファストも逃げるか隠れるのかしているのだろう。理由や状況は何であれ、自分達のことを知られたくないという私の予想は間違ってないはずだ。
 泰紀がベルファストの判断に太鼓判を押すようにその肩に飛び乗り、フンと鼻を鳴らす。ベルファストは安心したようにそんな泰紀をひとなですると、すぐにどこかへ出かけてしまった。
 ここの上下関係はどうなっているんだろう。
 あとには瀕死の私と、私を抱っこしたままのベルファスト姉が残された。
「あんたは……なにもしないの?」
 ほとんどささやくような私の声にも、このロボットは答えてくれた。
「何モ指示サレテイマセンノデ」
 そういうことじゃなくって。
「……あんたは……」
「MFM−ST(モーフィングマシン・スピードタイプ)、通称ヘスケス」
 いや、そういうことでもなくって。

 ……え、あんたほんとになにもしないの?

 本当にヘスケスは何もしなかった。
 ちなみに泰紀は寝た。


 やることが決まればベルファストの行動は早かった。程なくして薬や食料を買い込んだベルファストが戻ってきて、出てくるときと位置も格好も変わっていない私達に首を傾げつつ、手際よく私を手当てするための準備を進める。
 その時になって、ヘスケスもようやくベルファストの指示に従って私を建物の奥の部屋へと連れて行く。
 殺風景で機械類ばかり置いてあった作業場と思しき部屋が、ちょっとした仮説診療所へとなっていった。
「ちょ、止めろって俺は何もしねーの! ただの浮遊霊なの!」
「フーーーッ!」
 やることのない泰紀はなぜか部屋の隅のフィネストに威嚇していた。けどフィネストを追い払うならもっと強く出ないとダメだ。
「フシャーーーッ!!」
「ぎゃあああああ!?」
 私の考えが伝わったのかどうかは知らないが、泰紀はそのままフィネストに飛び掛り、ダメージがあるわけないのに悲鳴を上げて窓から逃げたフィネストを追ってそのまま出て行ってしまった。
 ベルファストやヘスケスは見えないだろうし、私がここにいる間は他の浮遊霊三人も建物から遠ざけておくべきかもしれない。
 少なくともベルファストは見えていなかった。当然、いきなり何もないところに威嚇した挙句飛び出して行った泰紀のその様子に首を傾げるが、すぐに私の方へ薬を手にやってくる。
「姉サン、ユカリスサンヲ作業台ヘ寝カセテクダサイ」
 まだ私を抱えているヘスケスの腕が、ほんの少しだけ、私を強く抱え込む。
「姉サン?」
 渋るヘスケスに、ベルファストが首をかしげる。私もそこは気になる。
 ヘスケス自身も戸惑っているみたいだった。しばらくして、答えが出る。
「下手ニ動クト、壊レテシマイソウナ気ガシテ……」
 ヘスケスの『壊れる』がどの範囲までの意味を含んでいるのかはわからなかったけど、否定はできなかった。

 ユキのいない私は、精神的に全壊していると言ってよかった。

 ただ、それと私が抱っこされたままでいるのはまた別だ。というかベルファストがいないときのヘスケスは放置プレイもいいところだった。
 ベルファストもさすがにヘスケスが抱っこしたままでは傷の治療ができないので、包帯を巻くときだけはベルファストがヘスケスをなだめすかして私を作業台の方へ移動させる。
 けどベルファストもベルファストで私の服を脱がす時にいちいち「失礼シマス」とか気を遣ってくる。
 ベルファストは機械だよね?
 詳しくは聞かないけど。
 そして傷はというと、我ながら酷い傷だった。詳しくは言わないけど。
 しかしそれでもベルファストが買ってきた傷薬を塗った途端痛みが引いていった。
「……どんな高級品使ったの」
 服もどこから調達してきたのか、浴衣みたいな服をもらったのでそれに着替えた。泰紀と私のご飯を用意していたベルファストがそれに答える。
「私達ニハ金銭ガホトンド必要アリマセンカラ。傭兵任務ノ報酬ガカナリ余ッテイマス」
「そのわりには食料が全部インスタントだけどね」
「ス、スミマセン」
 特に皮肉ではなかったけど、ベルファストが慌てて謝る。泰紀がベルファストの足元で明らかに高そうな猫缶にがっついているのもあるかもしれない。フィネストは無事に逃げ切れたらしい。
 タイミングがいいのか悪いのか、ヘスケスが湯気の立っている缶詰、それもスタンダードにコーンスープを手に持って部屋にくる。持ってくるように指示をしたのはベルファストだから、私は悪くない。
「嫌味じゃないよ」
 まあ高級インスタントなんて聞いたこともないし、料理なんてできるような場所でもないからこれが普通だろうと思う。部屋を満たしていくコーンスープのにおいは決して悪くないし、者よりも先に私の胃をくすぐる。
 私は作業台に毛布を敷いて作られた即席のベッドに腰掛け、缶詰を受け取ろうと手を伸ばした。
 そこでベルファストから待ったが入った。
「ユカリスサンガ火傷スルトイケナイノデ、姉サンガ食ベサセテクダサイ」
 朗らかな響きの声だった。
「ハイ」
 しかし了承したヘスケスはそのまま私の隣に腰掛け、熱々のまま缶のスープを食べさせようとしてきた。
 泰紀が食事を終えて毛づくろいをしている隣で、私とベルファストはほとんど互い違いでヘスケスに注文と注意を出し合った。
 ようやくまともな体勢で食べさせてもらえるようになったときには、私は再びヘスケスに抱えられる形になっていた。
 ちなみに缶詰は、少しぬるくなっていた。食べやすいからいいけど。
 そうなるとあとは機械的にスプーンで運ばれてくるスープを機械的に喉へ流していくしかなく、食べさせてもらいながら、私の頭は膝を抱えたベルファストが頭にヤカンを乗せてお湯を沸かしているところを想像していた。
 シュールだった。
 泰紀もベルファストの頭の上で昼寝をしてしまい、泰紀を起こさないようにベルファストも膝を抱えた状態で停止した。
 しばらく静寂が続いた。

 食事が終わってもろくな会話一つないままだったが、「ドウゾ」と言ってまだある毛布を渡してくるベルファストは、なんというか、少し戸惑っていた。
 それがユキに比べて静か過ぎる私に対してなのか、やっぱり私を抱えたままのヘスケスに対してなのかは、分からない。
 ヘスケスはやっぱり何もしないので、私はなるべく傷に障らないようにもそもそ動いて毛布に包まった。
「うにゃん」
 起き出した泰紀が、ベッドに跳び乗ってきてヘスケスをどこか納得のいかない表情で見上げる。
「ドウカシマシタカ?」
 そんな泰紀に、ヘスケスは首を傾げるだけだった。もちろん、ヘスケスの腕は私を抱えたまま微動だにしない。
 泰紀が移動して動けるようになったベルファストが、控えめに腰を浮かせた。
「アノ……、私ハ少シ、出掛ケテキマスノデ」
 なにが気に入らなかったのか、泰紀がヘスケスに、続いてベルファストに華麗な飛び蹴りを決めて再びベッドに音もなく着地をした。
「ススススミマセン! オ土産ノ方ハ必ズ……!」
「フンッ!!」
 ベルファストは更にもう一発蹴られた。私もそうだけど、ヘスケスもベルファストもきっとわけがわかっていない。
 小さい泰紀に追い立てられながら、ベルファストはドアのない入り口で踏みとどまって一度こちらを振り返った。
「ソ、ソレデハ行ッテキマス!」
「みょーん」
「行ってらっしゃい」
「イッテラッシャイ」
 ほとんど同時に、私と泰紀とヘスケスが返した。ベルファストの動きが一瞬止まったかと思いきや転びそうになり、しかしすぐに格納していたブースターを出して持ちこたえた。
「ハイ……!」
 嬉しそうな声だった。
 ベルファストはもしかしたらものすごく単純なのかもしれない。
 そのまま慌ただしくベルファストが飛び去るのを見送ってから、私はベッドに戻ってきた泰紀に労いの言葉をかけて喉を撫でてやった。
 泰紀が仕事帰りにマッサージを受けるような顔で私の手に体を委ねてくる辺り、私の行動は正解らしい。
 ゴロゴロと喉を鳴らす泰紀を撫で続けながら、私はヘスケスを見上げた。
「……あんたは行かないの?」
 微かな機械音と共にヘスケスが私と目を合わせる。私の視界の外で、泰紀のざらざらした舌が私の手を舐めていた。くすぐったい。
「ハイ。外ニ出テハイケナイト言ワレテイルノデ」
 おそらくそれもベルファストの指示なのだろう。しかしその理由は、私の疑問を更に増やす。
「でも、あんたは私を拾ったとき外にいたよね?」
「アア、アレハ花壇ニ水ヲヤリニ行ッテイマシタ」
 私は泰紀と遊んでいた手を止めて、聞き間違いじゃないか2回聞き返した。
 これは二度チラではなくなんだろう。……二度聞き?
 動きが止まった私の手は、泰紀の蹴りによる洗礼を受けた。即謝ったけど泰紀は知らん顔でガラスのない窓に陣取り、毛づくろいを始めた。
 しかし、顔はこちらに向けないもののずっと部屋を移動することはなかった。

 部屋に置いてあった機械で壁に投影した映像と、それらの機材にケーブルを繋いで操作するヘスケスの説明によるとこうだ。
「コノ辺リノ木ニハ、ベル坊ヤガ侵入者ヲ感知スルタメノセンサーヲコノ建物ノ周囲、半径五十メートルヲ囲ムヨウニ設置シテイマス」
 そのセンサーは更にカメラの機能も備えているらしく、投影された森の景色にはズームアップされた他のセンサーの一部が映っている。
「そこから先が、外?」
「ソウナリマス。アナタノ背丈デハ反応シナカッタヨウデスネ」
 機材と自分をコードで繋いだヘスケスが、映像を切り替え続ける。私は興味深いからずっとその作業を見ているが、視界の端にいる泰紀は邪魔にならない程度にコードにじゃれついて暇をもてあましていた。けどしばらく泰紀は相手にできそうにないし、またフィネストに相手をしてもらおうか。
「アノ辺リガ花壇ニナリマス」
 ヘスケスが映像を止めたので、私も泰紀から意識を逸らした。映像にはこの廃屋で集めたらしい瓦礫や大きめの石で囲ってある土が映っているだけだった。
 まだ芽も出ていないみたいだが、そこは確かにそこは花壇だった。
 あの時土が軟らかかった理由がようやく分かった。私は耕されたその一角に足を踏み入れて転んだらしい。
「私ガ仕事ヲ与エラレナイ限リ動カナイノデ、「ナラバ花デモ育テテミテハ」トベル坊ヤガ種ヲ持ッテキタノデスガ――」
 ヘスケスの説明が頭上を流れて行く。
 よく見ると、花壇の土が人の形に凹んでいる箇所があった。私が倒れた跡に違いなかった。
「……その凹んだとこ、後で直しといてね」
「ワカリマシタ」
「みぃ……?」
 ここにきて、泰紀がこっちを見上げて首を傾げてくる。私は黙って泰紀から目をそむけて、撫でてあげるだけにした。特に何も話すことなんてないし。
 泰紀が憮然とした様子で鼻を鳴らす音が聞こえたが、それ以上は何も言ってこなかったので私も何も聞かなかったことにする。
「そういえば、私を拾ったのってベルファストの命令じゃないよね?」
 話題を変えて質問しているだけなのに、言い訳がましい感じになってしまうのはなぜだろう。
「…………」
 しかしヘスケスは特に意に介した様子でもなく、むしろ答えに詰まって視線を泳がせた。撫でられるのに飽きた泰紀が、私の手をすり抜けていく。
 てちてちと適当な陽だまりを陣取って毛づくろいを始める泰紀を見ながら、私はヘスケスの答えを待った。
「……ソウ言エバ、ソウデシタネ」
 私がヘスケスに拾われる時は、ヘスケスは誰の命令も受けていないはずだった。ヘスケスは言われてからそれに気づいたようで、呟くような声は答えを掴んでいなかった。私と同じくせっせと毛づくろいをする泰紀に向けられている目も、泰紀を見ているわけではなさそうだ。
 ふと、壁に投影されていた外の映像が消え、代わりにヘスケスの機械音が大きくなる。
「何してるの?」
「私ノ記憶データヲ検索シテイマス」
「私を拾った時のやつ?」
「イエ……」
 説明するよりも見せるほうが早いと思ったのか、再び壁に映像が映し出される。今度は外の景色ではなく、ひたすら大量の文字が目で追えない速さで下へと流れて行くだけだった。
「……私モ、何故アナタヲ拾オウト思ッタノカハワカリマセン。……タダ」
 ピタッと、文字の流れが止まる。そこで初めて、流れていたのが横並びの数字だと分かった。
「似テイルト、思イマシタネ」
 そのうちの一列が選択され、一枚の画像が壁に映し出される。私はすぐに、ヘスケスの言葉の意味がわかった。
「……うん、似てる」
 画像は、ベルファストがこっちに向かって見下ろしているだけのものだった。
「私ガベル坊ヤニ拾ワレタ時ノ、私ノカメラアイガ記録シタモノデス」
 けどその構図が、そしてベルファストの目(?)に写っているヘスケスが、私がヘスケスに拾われた時と簡単に重なる。
 はっきりとした理由にはなっていない。もしかしたら本当は別の理由があって、ヘスケスがはぐらかしているのかもしれない。
 でも、本当にヘスケスが私と「似ている」と思って私を拾ったんだったら、ヘスケスは私よりも、むしろ自分を助けたかったのかもしれない。
「ねぇ」
 私は答えの出ない考えを延々と巡らせながら、画像から目を離してヘスケスを見上げてみる。ヘスケスも私を見下ろす。
「まだ、私は壊れそうに見える?」
「ハイ」
 真正面から即答された。
 少し納得がいかなくて、私はヘスケスへのあてつけに泰紀にも聞いてみた。
「……泰紀はどう思う?」
 当然、昼寝をしている泰紀からの返事はなかった。
 微妙な沈黙が降りる中、仕方なく私は視線を画像に戻した。すでにヘスケスはあの画像を引っ込めていて、再び膨大な量の数字が壁を埋め尽くしていた。
「この文字、全部ヘスケスの記憶?」
「ハイ。全テ動画トシテ日付別ニ記録シテイマスガ、今ハ画像トシテ表示サセテイマス」
 本当はもっと詳しく聞いてみたかったけど、多分私では理解しきれない。
 でも、これだけは分かる。
「多いね」
 私が言うと、ヘスケスは自分の記憶をたどるように数字を流していきながら「ソウデスネ」と呟いた。
「ザット160年分アリマスカラ」
「……ちょっと多すぎない?」

 日が暮れる頃に、ベルファストが帰ってきた。ベルファストのブースター音が聞こえるよりも早く彼の帰りを察知していた泰紀は、しかしベルファストが部屋に入ってきてから悠然と起き上がって伸びをした。
「戻リマシタ」
「おかえり」
「みゃお」
 ベルファストが出て行く時と違い、ヘスケスは無言で作業にふけっていた。ヘスケスが作業している中身はそのまま壁に投影され続けているが、私の目では追えないほど高速で文字が行き交っている。
「姉サン?」
 心配そうにヘスケスへ呼びかけながら、ベルファストは帰りに買ってきたらしい新しい猫缶を開ける。食欲に負けた泰紀が、ベルファストの頭に飛び乗って催促するようにひと鳴きした。
「ヘスケスは忙しいみたいだよ」
 泰紀のご飯を用意していたベルファストの手が止まり、ベルファストの目(?)が怪しく光りながら私を見据える。
「……ユカリスサン、姉サンニ何ヲ吹キ込ンダノデスカ?」
「別に何も。ヘスケスの記憶が多いねって言っただけ」
 こればかりは本当だった。あれから、ヘスケスは何を思ったのかひたすら無言のまま機械を操作し続けている。
「オヤメナサイ、ベル坊ヤ」
 久しぶりにヘスケスが喋った。同時に、壁を流れていた文字が止まる。
「姉サン……! 一体何ヲシテイタノデスカ?」
「自分ノ記憶データヲ整理シテイマシタ。暇潰シデス」
 ヘスケスの説明に、ベルファストは納得しきらないまでもひとまず安堵したようだった。
「デハ、姉サンハソノママ作業ヲ続ケテイテクダサイ」
 そう言って私の分の食事にも取り掛かったが、時折こっちの方をちらりと見やってくる。
「あ」
 試しに適当に発音してみたら、ベルファストの首が360度回転しそうな勢いでこっちを向いた。どうにも警戒されているらしい。
「……なんでもないよ」
 それきり、私も黙ることにした。下手に刺激しない方がよさそうだった。
 ヘスケスもずっと作業に没頭してしまい、私はベルファストが用意してくれたカップラーメンを一人で食べながらその作業をずっと見ていた。
 ベルファストとの会話もなく、気の弱い人なら萎縮してしまいそうな沈黙の中、私は食事を終えるとすぐに毛布に包まって寝た。
 おやすみの挨拶ぐらいは言うべきだったろうか。私が目を閉じてから、ベッドの上に置いた空のカップをベルファストが静かに回収する気配がした。


 朝が来たらしい気配に、目を開ける。実際は夜明け前で、部屋はまだ暗かった。記憶の整理は終わったのか、ヘスケスもヘスケスに繋いでいた機械も静まり返っている。
 付き添ってくれたのか暖を取りたかっただけなのか、私を覆っている毛布の上では泰紀が寝ていた。
 私が起きたことを察知して、泰紀も目を開けて大きくあくびをする。
「うにゃん」
 そして私の顔を舐めてきてくれるあたり、付き添ってくれていたらしい。お礼に首の辺りを撫でたら、ゴロゴロと喉が鳴った。
「ベルファストは出かけた?」
「にょん」
 猫語はわからないけど、正解だろう。私が起き上がるのに合わせて泰紀がひらりと床に降り、近くにあった台の上に軽々と飛び乗った。
「にょーん」
 汚れ一つなくきれいに畳まれた、私の服が置いてあった。どうやって直したんだろう。というかむしろどこで洗濯を以下略。
 気になるところはたくさんあったが、元の服に着替えた。装備していた物も、全部揃っている。
「みぃ……?」
 台の上で、泰紀が首を傾げる。
「傷もすっかり治ったよ」
 私は包帯をはずして傷のあった場所を見せる。泰紀は私よりも無造作に床に落ちる包帯の方へ飛びつき、じゃれついた。
 まあいいか。
「ドチラヘ行カレルノデスカ?」
 背後からいきなり声をかけられて、思わず振り返った。当然だけど、いつの間にか起きていたヘスケスだった。
「ローイアを経由して、アースガルドの辺りまで」
「デハ、念ノタメニソノ方面ヘノセンサーハ切ッテオキマショウ」
「……ありがとう。……ベルファストにも、お礼言っといて」
「ワカリマシタ」
 私はヘスケスに深く頭を下げ、なるべく足音を立てずに廃屋を去った。



 ……捨てきれない記憶に、縛られながら、

 私もヘスケスも、いつかは直る日が来るのだろうか……。
最終更新:2012年03月27日 18:54