アットウィキロゴ
金の獅子の背に乗って
掲示板 掲示板 ページ検索 ページ検索 メニュー メニュー

金の獅子の背に乗って

外伝「Amor torpe」Ⅱ

最終更新:

goldenlowe

- view
メンバー限定 登録/ログイン

「Amor torpe」Ⅱ



一方、ケンケーンが戻るはずだった宿では1階にある食堂の客が大方引けて料理を担当する主人の手が止まり始めた頃で、女将とニュンは後片付けに取り掛かっていた。
積まれた食器類が2人に洗われるのを静かに待っている。
時折、追加の注文があるが、静かになってきた食堂ではカウンター越しの返事で十分対応できている。
桶に溜めている濯ぎ洗いの水は生暖かく、食器洗いの作業は1日の仕事の中では比較的楽なものだった。
「ねぇ。女将さん。ケンケーンさんって楽しい方なんですね。」
グラスを洗いながらニュンは唐突に口を開いた。
そして、買出しの最中に道に迷い偶然ケンケーンと会った事、そして宿屋に戻ってくるまでの事を具に話し始めた。
「船乗りさんなんですね。知らない国の事をいっぱい話してくれました。」
そう話すニュンの顔はどこか楽しげだった。
「そうかい。そんなに楽しかったのかい。」
「船乗りさんって怖くて荒い方と思ってたんですけど。ケンケーンさんは話方も優しくて、お話も面白くて、何かイメージが違っちゃいますね。」
楽しさや嬉しさを隠そうともしない口ぶりだった。
女将は軽やかに話すその横顔をちらりと見た。
例えそれが心配の種を増やす話題であったとしても、これほど上機嫌に話すニュンの姿を見るは久しぶりだった。
(やっぱり年頃の子なんだねぇ。)
良く知るケンケーンが相手だということに間違いは起こらないだろうと女将の心はまだ幾分気が楽だった。

いつしか店内からは食事客の姿が消えていて、数少ない泊まりの客も粗方部屋へと引けている。
ようやく落ち着ける時間が訪れ、3人はそれぞれに店じまいに取り掛かっていた。
そこへ主人が余った食材で簡単な夜食を作ってきた。
つかの間の寛ぎを求めて、3人は適当なテーブルへ腰を下ろした。
豆と豚肉を炒めた物と白身魚のソテー、そして1杯のワインを共に1日の終わりをねぎらうように頬張る。
元々は魚嫌いなニュンだったが、ここの主人の作る香草の利いた魚のソテーは別格で、ここに来て良かったと思える一瞬の1つだった。
それからとりとめない話を混ぜながら訳30分ほどの休憩を挟み、再び3人は片付けへと戻った。
宿屋夫婦は厨房の片付けを、ニュンは食堂を担当するのがいつもの様子だった。
テーブルを拭き、あちこちへ移動している椅子を片付けた後、床の掃除をする。
今は慣れてきたとはいえ、やはりこの時間ともなるといくら若く元気なニュンでも疲労の顔は隠せない。
ようやく床掃除が終わると、「ふぅ」と一息をついた。
これで明日もまた気持ちよくお客を迎えることができると納得した表情に切り替わる、そしてまだ片付けが終わっていない厨房へと向かう。
ちょうどその時、入り口の扉ががたんと音を立てた。
その音に目を丸くして驚いた表情のまま、ゆっくりと後ろを振り返る。
そこに居たのはケンケーンだった。
酩酊状態とまではいかないものの、機嫌のいい顔と口調が消費した酒量の程を示唆している。
それから少し遅れて音を聞いた女将が何事かと現れた。
「何か音がしたけど。どうしたんだい。おや、ケン坊、かなり機嫌が良さそうじゃない。」
「あぁ。良い船員達に恵まれてこの様や。」
ふらりふらりと少々危うい足取りで店内へと入る。
つい先ほど綺麗に整理されたばかりの椅子にどっかりと座った。
「締めの1杯貰えるかな。」
「まだ飲むのかい。そんな状態じゃ味も分からないだろうに。」
「ここで飲むのが一番美味い酒やからな。」
嗜めても聞く耳を持たないだろうと諦めの女将は注文通りに酒を注いで来る。
「これを最後にしなよ。明日も忙しいんだろう。」
そう言って女将はまだ残っている厨房の片付けへと戻っていく。
そしてニュンも女将の後について厨房へと向かっていた。
「おっ。ニュン。こっちで一緒に飲まへんか。」
「いぇ、あの。まだお仕事が残ってるので。」
また異国の話が聞けるかもと瞬間的に心が動いたが、それよりも宿屋の手伝いが先と真面目な性格が出てしまった。
ただ、それを聞いたケンケーンは片付いている店内を見渡すと
「女将さん。ニュンを借りてええか。」
店の奥に居る夫婦にまで届く声だった。
「構わないけど、変な事したら叩き出すよ。」
「よっしゃ。ニュン、お前も酒持ってきたらええ。」
あっけなく女将の許しが出てしまって、拍子抜けした顔になっている。
薦められるままに座ると、ケンケーンの調子に乗せられるようにグラスへ口をつけた。
「今日1日におつかれさん。」
分の厚いグラスが鈍い音を弾いた。
「やっぱり、こうやってるのが一番美味い。」
もう既に細かい味の差など分からないはずだろうが、その表情はまさに美味いという顔をしている。
そして上機嫌なまま自身の体験談を語り始めた。
「こういう話を知ってるか。遠く南の方へ行った所にある村の話なんやが。」
少々、舌の周りが鈍いところもあったが、ニュンにとっては思いがけず夕方の続きを聞くことができ小さな幸運と感じていた。
それから時間にして30分ほど経った頃、片づけを終えた女将が食堂へと戻ってきた。
ケンケーンの語り口はさらに滑らかになっていて、それを聞くニュンもすっかり聞き入っている。
「2人とも、程ほどにしないと明日に響くんじゃないかい。」
その様子を見た女将が呆れ声で言った。
「今日はもう遅いし、また明日続きをやんなさい。」
「もうそんな時間なんか。そう言われるとかなり眠い…。」
ぷっつりと何かの糸が切れたのか、急な眠気がケンケーンを襲う。
もう何も残っていないグラスだと知りながら、最後の1滴2滴を啜るように口をつける。
それからようやく重い腰を上げようとしたが、思った以上に酒は足にまで届いていて覚束ない足元が何も無いところで絡んで転げそうになる。
「おっと。ははは、だいぶきてるよやな。」
情けない格好を披露しながら笑いがついて出る。
「大丈夫ですか。」
ニュンに肩を貸されながらようやく真っ直ぐ歩けるようになったケンケーン。
「ほんとに、だらしがないねぇ。」
「女将さん、ケンケーンさんを部屋まで送っていきますね。」
「大丈夫かい。ったく悪い見本にしかならないね。私達ももう休むから、あんたも送ったら休むんだよ。」
「はい、おやすみなさい。」
そういって女将は自分達の部屋へと戻っていった。
「さて、俺達も寝るか。」
支えになっていたニュンの肩から手を離すと1人で部屋へ向かおうとするが、やはりふらふらとしていて、せっかく綺麗に片付けていたテーブルや椅子にぶつかっていく。
「ケンケーンさん。危ないですよ。」
このままだと転んでしまいそうな様子を見て、ニュンは支えるようにケンケーンの傍に寄る。
しかし、さすがに2人では体格差がありニュンもケンケーンの足取りに釣られるようにふらふらとしながら部屋のある2階へと上がってゆく。
「しかし、お前は働き過ぎやな。」
必死なニュンに比べ、ケンケーンは安気な声で話す。
「たまには遊んでるか。仕事ばっかやと息詰まるで。」
「働かせてもらってるんですから。それ以上は女将さん達に悪いですから。」
「そうか…。なら俺がなんか買ったろ。何か欲しいもんあるやろ、服とか宝石とか」
「とんでもないです。私はこれで十分幸せです。」
「ふぅん。」
ようやく部屋の前までたどり着き、扉を開ける。
ベッドが2つと小さなテーブルが1つあるだけの至って普通の部屋だ。
いよいよ重くなったケンケーンを引っ張るようにして部屋へ入る。
あとはどちらかのベッドへ連れてゆくだけだった。
するとベッド手前で急にケンケーンの体が重くなった。
ここまできて眠気に勝てなかったようだ。
思いもよらない事態に体勢を崩したニュンは何もないような床板の僅かな段差に躓く。
「きゃぁ。」
小さな悲鳴とどさっという音と共に2人はベッドへ向かって前のめりに倒れこんだ。
そしてニュンが恐る恐る目を開けると、まるでケンケーンに抱かれて寝るような格好になっていた。
そして何よりケンケーンの顔が触れようか触れまいかという目の前にある。
思わぬ状況に鼓動が一気に早くなり、その拍動は頭の天辺まで届いている。
その状況から逃げ出そうとするが、完全に力の抜けた男の腕は妙に重たかった。
ようやくベッドから抜け出したニュンだったが、自身でも分かるほど息が上がり火照った顔が燃えるように熱くなっている。
落ち着きを取り戻そうと1つ2つ大きな深呼吸をすると、ベッドに横たわるケンケーンへ目をやる。
もうどこにも意識の欠片はなく、静かな寝息を立てている。
それを確認すると、隣のベッドの布団をその上へかける、そして軽くお辞儀をして足早に部屋を出て行った。
「びっくりした…どうしよう。」
生涯初の事にまだ動悸の治まらない胸に手を当てて、落ち着けと念じてみる。
しかし、それは彼女が自らの部屋へ戻り眠りに就こうと目を閉じても続いていた。
その変な興奮が彼女の睡魔を遠く追いやってしまい、結局その夜は寝付くまでにかなりの時間を要してしまった。
どの道、眠れない夜になってしまっていた。

「うぁ…頭いてぇ…。」
昨日の朝のようにどのようにして宿のベッドまでたどり着いたかまるで分からない状況だった。
窓からはもうすでに高く上った太陽が煌々と自然の恵みを照らしこんでいる。
上体を起こすと頭の中に針でも入っているのではないかと錯覚するほどの激痛が走る。
それに加えて喉も火箸を突っ込まれたように痛い。
何もかも昨日の朝より酷い。
寝ている間、無意識に脱いだのだろうかベッドの周りには自身の服が散乱している。
しかも、掛け布団の上に寝ていて、どうしてその上から布団を被っているのか何もかも不思議な状態だった。
けたたましい銃声が響いているかのような頭で昨晩の事を思い出そうとするが、結局船員達に乗せられて飲んだまでは覚えているが、それ以降の事は千切れたメモ用紙のように断片的にしか思い出せなかった。
「昨日の朝もこんな感じだったが、あれが夢でこれが本当なんかな…。」
そう錯覚してしまうほど2日連続で最低の目覚めを迎えていた。
「夢の通りならば、ここでお手伝いのお姉ちゃんが入ってくるはずだが。」
開いているのかどうかも分からない目を部屋の扉へ向ける。
すると、測ったようなタイミングでニュンが部屋へと入ってきた。
「失礼します。」
「ほら…な。」
全ての事象が面白いように重なり合っている。
ただ1つ違うのは、入ってくる前からニュンの顔が俯き加減であった事だった。
「部屋の掃除やんな。すぐ出るからちょい待ってな。」
鉛でも巻きつけているのではないかと思うほど重く鈍い体をどうにか動かし、手短に着替えを済ませる。
部屋の外へ出ると、ニュンが隠れるように待機していた。
なぜかずっと俯いたままで顔をあわせようとしない。
「ん。風邪でもひいてるんか、耳真っ赤やで。」
「いえっ。大丈夫です。どうぞごゆっくり。」
一度も目を合わせないまま、ニュンは逃げるように部屋の片付けへと入っていくと勢いよく扉を閉めた。
その様子を呆然と見ていたケンケーンだったが、特に何かを思いつく事はなくそのまま1階へと降りてゆく。
「女将さん。水くれ。」
昨日と同じカウンター席へ座り、仕込みをしている宿屋夫婦へ声をかける。
「やっと起きたのかい。ニュンには悪い見本だねぇ。」
井戸からくみ上げたばかりの水は程よく冷たく荒れた喉と胃に気持ちよく染み渡る。
「もう20を超えた娘がそうそう影響は受けんやろ。」
「悪い虫は叩いておくに限るんだよ。」
「悪い虫って俺か。」
「何で叩いてやろうか。この麺棒かい、それとも火掻き棒が良いかい。」
パスタを打つ女将がわざと見えるように麺棒を使っている。
「怖い、怖い。それは勘弁やな。」
「分かったら、少しは仕事しておいで。グータラしてる格好だけじゃ誰も寄ってこないよ。」
「仕事ってもな。終わってるようなもんやし、あと1週間弱なんやからゆっくりさせてくれや。」
「なんだい。もう出て行くのかい。」
「来週頭やけどね。」
「そうかい。相も変わらず落ち着かない職業だね。」
「まぁ、仕方ないやろ。それより水をもう1杯くれ。」
「自分で汲みに行っといで。」
「客使い荒いな。」

それから3日過ぎた朝を迎えた。
2日目以降の生活は陸に上がった船乗りとしては大人しいものだった。
昼間は馴染みの交易店へ向かい、夜は適度な酒を呷るという生活だった。
そしてその頃にはニュンとの関係も平常に戻り、顔をあわせても普通に世間話をするようになっていた。
そして今朝も、いつもの様に1階食堂へと降りる。
しかし、そこには仕込みをしているはずの宿屋夫婦の姿がない。
早めに終えたのかと思ったが、調理をしたような雰囲気も竈に火が入っている様子もない。
食事のない食堂に1人立っているのも無駄な時間だと、食器棚からグラスを取り出し水を汲みに行く。
裏口を開けたすぐそこにある井戸へ向かうと、ちょうど良くニュンが洗濯物を干していた。
「おはようさん。今日は誰も居らんみたいやな。」
がらがらと釣瓶を動かし水を汲む。
「えぇ。月に1度のお休みなので御主人と共に教会へ向かわれたみたいです。」
生気溢れる水をごくりと飲み干す。
そういう習いもあったなと、言われて思い出す。
「で、お前が留守番って訳か。」
「留守番って言うか、特に何もする事がないだけですよ。」
そう返事ながらニュンは手際よく洗濯物を干している。
「今日1日、そうやって過ごすんか。」
「ゆっくりさせて貰おうと思ってます。」
「そうか。ところで朝飯はどうしたんや。」
飲み干したグラス1杯の水が胃を起こしたのか、急に空腹感を感じ始める。
「えっと。私もまだなんですが、何か厨房にあればと…」
「お、それやったら俺の分もお願いするか。」
ニュンは洗濯物を干す手をぴたりと止めた。
「いえ、もしかしたら何もないかもしれないので…。」
何かと言葉を濁す風のニュンだった。
「んな事はないやろ。何でも適当に作ってくれんか。」
「えっと…。いや、やっぱりダメです。」
今度はきっぱりと否定した。
「えらい嫌われようやな。」
「いえ、あの…。すみません。できるなら作って差し上げたいのですが。」
恥ずかしそうにニュンは唇の先だけで何か言っている。
「私、お料理が苦手で…。」
一番言いたくなかった台詞だった。
これまで厨房の手伝いと言っても、食器の準備や片付けが主で材料を切るぐらいが精々の仕事だった。
宿屋夫婦もニュンの料理の腕前を承知で今の担当になっていた。
「そないにひどいんか。」
ニュンは無言のまま頷いた。
こんな年頃の娘が料理をできないとは珍しい。ましてや、普段の仕事が真面目なだけにさすがのケンケーンも掛ける言葉に困っている。
「えと、それが終わったら何かすることあるんか。」
ニュンは小さく首を振って答える。
「気にしてる事聞いて悪かった。そや、朝飯を外で食べへんか。天気もええし偶にはええやろ。」
無言のまま最後の洗濯物を手に取るニュン。
「よし、決まりや食堂で待ってるから。支度整ったら来てな。」
そう言い残してケンケーンは宿の裏口から再び中へと入っていく。
一方洗濯物を干し終えたニュンはその場で少し考えていた。
このまま誘いに乗って良いのだろうか。
女将さんが居ればなんと言うだろう。
頼りにするその人も今は教会へ行っている。
はぁ。と小さく溜息をついた後、開いたままになっている裏口から店内へと戻っていった。

麗らかな日差しに包まれたセビリアの街の中、噴水の見える広場から西へ向かう大通りに南を向いて構える店に2人は向き合うように座り朝食を取っている。
「もっと洒落た店があれば良いんやが。こんな所しか知らんから。」
ケンケーンはそう断りながらベーコンと野菜を炒めただけの簡単な料理を口に運んでいる。
朝というのに見事な食欲である。
それに比べ対面に座るニュンはと言えば、トーストに少しサラダだけのあっさりした朝食で、それを少しずつ口へ運ぶ姿は年齢相応の仕草だった。
「せや。ここは大分慣れたか。」
グラスの水をぐいと喉の奥へ押し込んだケンケーンが話題を切り出す。
それに対しニュンは少し考えてから答えた。
「まだ慣れたというには遠い気がします。」
ケンケーンを気遣うよう、笑みを浮かばせている。
「俺もここの出身やないからな。最初は戸惑ったんやが、慣れると良い町だ。」
「そうですね。私が居た町に比べてとても大きいですし、人も多いです。びっくりする事も沢山あって、もうちょっと時間が要りそうです。」
ケンケーンは大きく頷いた。
彼が始めてこの町へ出たとき、同じ事を思ったと懐かしい日の記憶を辿る。
「ただ…。人が多い分、何かと空々しい感じもありますよね。何かこう御近所さん同士のお付き合いとか、地域の暖かさみたいなのがないような気がします。」
それを聞いて思わず小さく唸る。
食事の手を止め、腕を組むと何事か考えている。
「確かにその通りやな。暫くそういう感覚をなくしてたが、言われてみればそうやな。」
「でも、皆さん良い人が多いですよ。お世話になってる宿の御夫婦とか皆よくしてくれますから、ただ慣れてないだけだと思います。」
ニュンはそう言ってまたにこりと笑っている。
「いかん、いかん。不慣れな子にそんな気遣いさせては、この町の先輩として見過ごすわけにはいかん。夕方の仕込みまでは休みやろ。よし、俺がこの町を案内したろ。」
皿に残ったソースをパンに染み込ませたものを口へ投げ入れる。
「あ、あのっ。1つお願いがあるんですが。」
「ん。なんか欲しいものでもあるんか。」
ニュンは首を横に振る。
「もし、よろしければ。船を見せてもらえませんか。」
「船。俺の船でええんか。」
こくりと頷く。
勢いよく立ち上がったものの、何となく出鼻を挫かれたような気分のケンケーンだった。
「そんなんならお安い御用やが。そんなんでええんか。お前みたいな子が喜ぶ場所は他にもあるんやで。」
ケンケーンは身振りを付け加えて次々と店名を挙げてゆく。
その姿を見たニュンはくすくすと笑っている。
「お詳しいんですね。」
「そういう事にしておいてくれ。それじゃ、行くか。」
2人は席を立った。
「と、その前に。その服をどうにかせんとな。」
言われてニュンは改めて自分の服を確かめる。
「変ですか…。」
「いあ。普段、宿の手伝いしてる格好のまんまや思ってな。休日ぐらいはええ格好せんとな。」
そう言ってケンケーンはまず港とは違う方向へと歩き始めた。
午前の柔らかな日差しが大通りの石畳に降り注ぐ。
そこに2人して歩く影がぼんやり映し出されている。
行き来する人の数も増え、セビリアの町がようやく目覚めようとしていた。

港周辺は街中と違い、辺り中に潮のにおいを満たしている。
午前の一番忙しい時間は過ぎているが、それでも新たに入港した船やこれから発とうとする船の準備やらで人の影が消えることはない。
あちらこちらで何やら声があがる光景はいつきても変わらない。
出航所の役人と物資を卸す業者の周りにはいつも人の壁ができている。
この近くにある市場へは買出しに何度か足を運んでいるが、こうやって港の中まで入るのはこれが始めてだった。
元々海のない町で育った為、その目に映るもの全てが新しい。
ただ、水夫の荒々しい声は静かな町で育ったニュンにとってはどこか怖いと感じ、いつの間にかその手はケンケーンの袖口を力強く握っていた。その身は真新しい薄紅色の服を纏っている。
人ごみを抜け、何本かある桟橋の1つに入ると人の姿は疎らになっていた。
大小さまざまな船がずらりと並び、一定の間隔で波に揺られている。
その中の1隻の前でケンケーンは足を止める。
ちょうど荷積みが終わったあとの確認に来ていた副官が立っている。
「お仕事ごくろうさん。」
「ほぼ積み込みは終わりました。あとの物資も明日には入る予定です。」
簡単な報告をしながら、その視線はケンケーンの袖口を握ったままの女性へと注がれる。
「この方が件の…。」
「ちゃうちゃう。世話になっとる宿屋夫婦が預かってる娘さんや。船が見たい言うからな。」
「そうですか。初めまして、この船で世話になってる者です。お見知りおきを。」
そう言って副官は、ニュンの右手をとり挨拶した。
「どうや、ちょっとそこら辺動かすこと出来るか。」
「今からですか。まぁ、出来ない事はないですが。」
副官の声は面倒ごとを振られたという歯切れの悪さだった。
「んじゃ、頼んだ。」
軽く言ったケンケーンに対し、副官は明らかに不機嫌そうな顔つきだった。
「ニュン、船は初めてか。」
こくんと1つ頷く。
「よしっ。じゃ、乗り込むぞ」
そう言ってケンケーンはニュンを軽々と抱きかかえた。
その格好を見た副官が茶化すように口笛を鳴らす。
「えっ。あの…。」
生涯初の事に遭遇し、ニュンの胸は破れんばかりに鼓動が早くなる。
激しく動揺するニュンに構わず、その抱きかかえたままで渡し板を上ってゆく。
船の揺れと板の撓みの独特なリズムが伝わってくる。
今まで見たことない距離にケンケーンの顔が近い。
その視線は一心に歩く先を見つめている。
衝撃的な状況で何かしらこみ上げる感情に迫られ抱きかかえられてから僅か少し進んだところかで目を閉じ船に着くまでの時を待った。

たった数メートル間の出来事のはずなのに、ニュンには遥かに長い時間に思えた。
「着いたで。」
ゆっくりとケンケーンの腕から解放され、ニュンは生まれて初めて船の甲板に足を下ろす。そして1つ小さな深呼吸をして硬く閉じていた目を恐る恐る開ける。
「ここが、船の上…」
少し震えたような声だった。
間近で見るメインマストは真っ直ぐ空に向かって伸びていて、そこから何本ものロープが船体へと繋がっている。
その視線の先に広くどこまでも続いているような海が見える。
市場から初めて海を見たときとは違った感動がこみ上げる。
何もかも初めて見るものばかりで、胸の高鳴りは治まる気配がない。
「船内も見てみるか。」
ケンケーンはニュンの手を取りニュンを船内へと案内する。
船内は思ったより狭く、なにもかもが小さく収まっている。
「乗せられる量が決まってんからな。こうやって色々と工面してるんや。」
通路にある小さな収納の1つを開くと綺麗に整理された見慣れぬ品が納められていた。
まるで迷路のような船内をぐるりと回った後、最後に提督居室へと案内される。
「ここが俺の部屋。」
部屋の中央には丸いテーブルが1つ、それの他には部屋隅に小さな机、その反対側に質素なベッド。壁沿いには収納が1つとなにやら沢山の書物が収められている棚が2基ほど置かれている。
ぱっと見れば陸にある小さな宿の1室のようだが、どこか生活感がないというか無機質な印象を受ける。
「航路決めたり、書類作ったりと、いわば仕事部屋やな。」
ケンケーンはおもむろに1枚の地図を取り出す。
「これが航路図だ。今居るセビリアがここ、他にもリスボン、マラガ、お前が生まれた町がここや。」
ただただ感嘆の声を上げるニュン。
「今までどれだけの町へ行かれたんですか。」
「せやな…。数えたことないが大小あわせると200は超えるんやないかな。」
ケンケーンは棚に並んでいる本の中から1冊を取り出した。
そしてそこに書いてある項目を数え始める。
「これは今まで訪れた町の事を書いたもんなんや。いずれこういうのを纏めて出したいと考えてる。」
「今まで行った全ての町の事をですか。」
「その通り。例えばアフリカのある町の事なんだが『とくかく暑い。一歩町の外にでると夜と勘違いするほど鬱然たる光景が広がっている。』という具合や。」
その本の1ページを開き、記されたところを指で示す。
そしてこの町に纏わる自身の体験談を話し始めた。
(続く)
最近更新されたスレッド
ウィキ募集バナー