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金の獅子の背に乗って
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金の獅子の背に乗って

外伝「Amor torpe」Ⅳ

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goldenlowe

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「Amor torpe」Ⅳ


細い廊下の突き当たりに1階へ降りる階段がある。
この移動の時間が意味を持つのかは是非ともしがたいと重い1歩を踏み出した。
すると向かう先から軽妙に階段を駆け上がる音が聞こえてくる。
酒を呷って上機嫌になった客の1人だろうか。
「あ、ケンケーンさん。こんな時間からお出かけですか。」
廊下の先に現れたのはニュンだった。
「大事な資料を忘れたらしくてな。それより、ここへ抜け出してきて下は大丈夫なんか。」
「手が空いたので、何かお持ちしようと思ったんですけど…。まだ、なにも召し上がってないですよね。」
ピーク時には目も回るような忙しさになるにも関わらず、昼以降ケンケーンの姿を見ていない事をしっかりと把握していた。
もしかすれば、目を離した時に外出しているかもしれないが、気遣ってこの場に居るという事は確かな洞察力だった。
そう考えると、目の前にいる女性はこういう職業に合っているのかも知れないと他愛ない事が頭を過る。
「そうしたいんやがな。この按配やからまたの機会やな。」
鞄と書類を抱えた両手を見せる。
「そうですか…。」
思わず空振りに終わった事にニュンの言葉が少しだけ曇る。
「その心配りだけご馳走になっとくわ。」
ケンケーンは再び階段へ続く廊下を進みだした。
「あ、あの。ケンケーンさん。」
再びニュンにその足を止められた。
(なんとも長い廊下やな…。)
ゆっくりと振り返る。
何か緊張したような面持ちのニュンが何かを言いたそうに立っている。
「あ、あの…。その…。今日はいろいろと有難うございました。私は何もお返しできないですけど、せめてお礼の言葉だけでも…。」
肩の力がするりと抜ける。
こうも1日に何度も感謝されては逆に心苦しくもある。
ただ、元気さが何よりもの取り得だと思っていた子がこうも神妙になる姿は思った以上に面食らう所もあった。
「普段一生懸命がんばってる自身へのご褒美やと思っとき。」
そういうとケンケーンはニュンに向かって1歩近付いた。
そしてそのままニュンの右手を取りそこに優しく口づけする。
「え…。」
「あれくらいなら何時でも叶えたるから。またな。」
もっとも、ほぼ立ち尽くしているだけのニュンには次の言葉を発することすらできなかった。
その場にニュンを残したまま、今度は引き止められることなく階段へ足をかけることができた。

1階は大体の客が引けて空いた席が大部分を占めている。
残っている1組の客は小さな賑わいを見せているが、追加する注文もなくいつ帰るのか時間の問題だった。
「おや、ケン坊。どこへ行くんだい。」
片付けに入っていた女将が店内を横切るケンケーンを見つけた。
「女将さん居たのか。丁度いい宿代払っとくな。」
鞄の中から財布を取り出し、本来の宿代とは少し多い銀貨を女将へと手渡す。
「ニュンへの挨拶は済んだのかい。」
「有りがたい事に成り行きに恵まれたんでな。」
「そうかい。あの子の為にもまた来ておくれよ。」
奥で厨房の片付けしている主人に軽く頭をさげて挨拶すると簡単な女将の見送りを受けて店を出た。
新月に近い町の中はどこもが暗く染め抜かれていて、昼間の陽気は欠片すらどの角にも落ちていなかった。

寒々しい足音だけを道連れにしながら港へと到着する。
ずらりと係留された船が不規則に揺れている。
侘しさを増徴させるように肌寒い風が桟橋を横切る。
その中を通り抜けて自らの船まで辿り着く。
掛けっぱなし渡し板をゆっくりと登っていく。
ぎいぎいと無機質な音が波音に混じる。
甲板に着いた時、ちょうど見回りの船員が船尾の方からやってきた。
「見回りご苦労さん。」
しっかりその姿を見回りに見せ付けた後、労いの言葉をかける。
「これは提督。こんな時間にお帰りとは珍しいですね。」
「できるなら戻りたくなかったがな。」
手に持っている書類を重たいという演技をしつつ、船内へ続く扉へと向かう。
「あぁ、そうや。まだ何も食ってないんやが、何か残ってるか。」
「さぁどうでしょうね。」
「期待はできへんか。まぁええ、見回り頑張ってな。」
資料忘れに食事抜きの追い討ちを受けて肩をがっくりと落としながら自室へと向かった。
提督室と書かれた部屋へと入ると、鞄をベッドへ投げる。
そして据え付けられている机の引き出しを検めると、すぐに目当ての資料は見つかった。
「なんでこれを忘れるんかな。」
胸の奥から搾り出すような声で小さくぼやくと、一番下の引き出しを空けそこから酒瓶を取り出した。
2つを机の上に並べ、さらに宿から持ち帰った書類を広げ椅子に腰を下ろした。
気付け薬代わりのブランデーを押し込みグラスをペンに持ち替えた。
「さぁ、やるか。」
その後、全ての書類を仕上げたのは辛うじて夜明けの一番鶏が鳴く前だった。

セビリアを出航して半月、ケンケーンの船はピサの町にあった。
途中、ヴァレンシアとバルセロナに立ち寄ったがセビリアと同じく相場が芳しくなく途中の港を通り越してこの町まで足を伸ばしたのである。
「と言うわけで、積荷は今日中にそちらへ。」
契約書に署名し終えると店主と握手し互いが上手い取引になった事を確かめた。
後ろに控える副官に荷降ろしの指示を出す。
一礼と共に副官は船へと向かった。
ケンケーンはというとお茶が出され、店主との雑談に興じていた。
「ピサの町も変わらず不思議な町やな。」
運ばれたお茶に口をつけながら率直な感想を零した。
「これほど長く隆盛を気付いた町は他にあらへん、町にある建造物はどれも芸術品ともいえる物ばかりや。それにかつてのピサ最高艦隊はどこよりも強く誇り高き艦隊やったな。今は名門ピサ大学を始めとする文化的役割が他を圧倒しとる。美しく強く賢い町や。」
「はは、かつてはの話ですな。トスカーナ第1と謳われたこの町も今はフィレンツェの言いなりというのが実情ですな。」
華やかさに隠された市井の現実を店主が吐露する。
この町の昔話をし始めると何百年も昔、ローマ帝国の時代から語り始めないと始まらない。
東ローマ帝国の造船の要として夥しい数の軍船を帝国に供給した事で知られ、帝国の衰退時期にも機転を利かせ徐々に北ティレニア海の主要港へと変貌し、トゥスキア州の首都と呼ばれた町がついにはピサ共和国として成立する。
11世紀にはイタリアの4大共和国の一角を成しその比類なき海事力によって管理された貿易システムがさらに強固な町を作っていった。
しかし、富国に進むにつれ外的脅威に晒されることも多く、その間で始まった近隣ジェノヴァとの対立は世紀を越え1284年のメローリア海戦でピサ最高艦隊が大敗を喫するまで続いた。
それからは多くの侵略と占領を受け、今はフィレンツェに再征服されその旗の下に従っている。
数多くの犠牲の上に成り立つこの町の歴史を紐解くと栄枯盛衰の縮図をそのままにしたような生々しい町、それがピサだった。
『これは幼少の頃に聞かされた話なのですが…。』
そう切り出す話は、親から祖父から聞かされたかつての栄光話であり、ピサに住む人々の良く知る御伽噺でもあった。

町の歴史や最近の相場や取り留めない世間話など店主との話が予想以上に盛り上がり、小一時間ほど経過していた。
そして2杯目のお茶が終わろうとしていた時、慌しく誰かが店内へ入ってきた。
2人してそちらへ顔を向ける。
若い男が息を切らせて立っている。
「店長、ちょっと…。」
どうやらこの店の従業員のようだった。
呼ばれるままに店主は奥で戻ってきた従業員と何かを話し始めた。
その内容のほどは遠くてうかがい知る事ができなかったが、元より人様の事情に興味あるわけもなくぼんやりと店内に飾られている品々を眺めながら手持ち無沙汰な時間を潰していた。
美術品取り扱いは専門外であったため素人目では価値の程は分からなかった。
ただ好き嫌いの感覚だけで観賞してた。
「なんだって!」
突然、店主の声が響いた。
驚いて声の方向を見ると一瞬、店主と目が合ったが、手を挙げて気にしないで欲しいという素振りを見せた。
ただのんびりとした雰囲気を何となく崩された感じになり、そのまま立ち上がる。
店の奥では神妙な面持ちの2人が難しい顔をしている。
見ているかどうか怪しいと思いつつも軽く挨拶をしながら店の外へと向かう。
その様子を見た店主は慌ててケンケーンを引き止めた。
「ちょっと待ってくれないか。」
店主が奥から戻ってくる。
「ケンケーンさん。あんたの船、空いてるかね。」
なぜか額には汗が滲んでいる。
「いや。来るはずだった船が嵐にあって座礁したらしいんだよ。」
「ほぅ、それは災難やな。」
「そこでだ。もしあんたの船が空いてるなら1つ仕事を請けてもらいたいんだよ。船の修理にどんだけかかるか分からないんでな。物を運ぶだけなんだが先方が期日に煩くってね。どうだろう、助けてはもらえないだろうか。」
ケンケーンは即答を避けた。
心情としては久々のピサの町に来たという事もあり1週間はのんびりと羽を伸ばしたいというのが一番だった。
しかし…。
「信用第一が商人の鉄則やからな。で、どんな仕事や。」
「おぉ、よかった。物は陶磁器なんだ、物が物だけに陸路は使えなくってね。届け先はセビリアだ。向こうへ着いたら管理局近くの交易店へ連絡してくれ。いぁ、助かったよ。」
店主はケンケーンの手を取り安堵の表情を浮かべている。
一方ケンケーンはというとセビリアへのとんぼ返りに複雑な心境だった。
(さて、あいつらに何と説明するか…。)

それから港へと戻ったケンケーンは荷降ろしをしている副官を捕まえ事情を説明する。
話を聞いた副官は眉間に深い皺を刻んでケンケーンを睨みつける。
そして大きな溜息を1つ吐き出した。
「お仕事なら仕方ないですけどね。もう少し仕事を選んでもらっても結構ですよ。」
予想通り皮肉たっぷりの台詞が返ってきた。
「そう厳しい顔するんなって、困った時はお互い様やろ。」
「…まぁ、私も雇われの身なので快く働かせてもらいますよ。皆には私から説明しておきますから。」
「そうか、んじゃ物は明日には届くらしいんで色々と頼んだで。」
思ったよりすんなりと副官が首を縦に振ってくれたと、胸を撫で下ろす。
「ただしっ。今回は提督も働いてもらいますよ。荷積みは私がやりますから出航手続きはお願いしますね。」
「分かっとる、分かっとる。これもお互い様やな。」
事の次第と手筈が決まったという事でケンケーンは足早に港を後にした。
そしてその足で役場へと向かうと出航に関わる書類を受け取った。
「ったく、これじゃどっちが提督か分からへんな。」
小言を言う副官の顔が頭にちらつく。
それを振り払うように1・2度頭を横に振ると、その足を大聖堂のある市街地へ向けた。

パレルモ沖でサラセン艦隊を破った事を記念して作られたピサの大聖堂は、町の中でも一際大きい建築物で時の隆盛を忍ばせている。
中の丸天井にはキリストと洗礼者聖ヨハネ、聖母が、他にも玉座のキリストがモザイク画で描かれている。
その圧倒されんばかりの迫力が静かな雰囲気と相俟って一掃厳かな雰囲気を築き上げている。
ケンケーンはぽつんとその教会の真ん中に立って天井を見上げていた。
教会全体に描かれた物語全てを視野に納めようと体を弓のように反らせている。
そして一通り見終わると何も言わず外へ出た。
「立派過ぎるのも息が詰まる。」
外気を深く吸い込みながら港へ向けて歩き始めた。
のんびりする暇はない時ではないとは分かっていても、いまいち乗り気のしない足取りはどこか重たくゆっくりと南へと向かっている。
大きな通りを抜けてファルテローナ山を源とするアルノ川へと辿り着く。
その水面に頑丈な石橋と往来する人や馬車を写しこみながらゆっくりと流れている。
人とぶつからぬよう歩いていると、対岸に小さな教会が見えてきた。
川岸にひっそりと小さく佇むその姿からは先ほどの大聖堂にみられた他を寄せ付けない威厳と威圧感を微塵も感じさせなかったが、小さな尖塔が空に向かって多く突き出ているのがすぐ隣を流れるアルノ川があまりにも優雅と対比して全体の緊張感を損なわせず教会としての意義を保っているように見えた。
小さな教会に見とれつつも橋を渡りきると、再び町の喧騒が匂う通りが始まった。
取りとめもなくただ目的地の港へ向かうだけの足だったが、とある店の前で立ち止まった。
その店は道具屋とも雑貨屋とも形容し難い品揃えの店で言わば何でも屋のような感じだった。そこの店頭に並べられている女性用の髪飾りが妙にケンケーンの目に留まった。
「へい、いらっしゃい。」
立ち止まったケンケーンを見て店の中から店主らしき男が現れる。
「お兄さん、その髪留めが気になるかい。目が肥えてるね、これはジェノヴァの職人の作で今週入ったばかりの品なんだよ。」
売り込み文句の内容が嘘か誠かは定かでないものの、景気の良い台詞だけが並べられる。
「ジェノヴァ?ほんまかいな?」
「ああ、あの町には良い職人が多くてね。しかもこの品は職人のなかでも名人と謳われる人の作だ。この町でもウチでしか扱ってない代物だ。」
「確かにあの町には職人が多いが、この町はジェノヴァとの因縁は浅からぬもんがあるやろ。」
「そりゃあるさ。でも物に因縁なんてありゃしない。良い物は良い、それ以上もそれ以下もないだろう。こっちはそれを生業にしてんだ、町の因縁は別の話さ。」
無理矢理な理屈にも感じたが、確かにこの髪留めは気になる品であることは美術品素人のケンケーンでも分かる。
「で、なんぼまで勉強できんの。」
定価では買わない主義の商売人根性がぱっと表にでた。
店主が指で値段を示した。
「もう1声。」
店主の声に負けじとケンケーンも声を張った。
1つの髪留めの交渉とは思えない十数分の時間をかけ、結局ケンケーンの押し切り勝ちとなった。
これで幾分か上機嫌になると、それからは寄り道をせず船まで戻り書類作りに取り掛かった。
ピサも大きな町ではあるが、書類の数ではセビリアのそれとは全く数が少なく副官の心配をよそに早々と仕上げることができた。
「人間、気の持ちようやな。」
その日の夕食は珍しく仕事が早く終わった事を示すように口が軽く動いていた。

セビリアに到着したのはその日から20日後だった。
各手続きを済ませたケンケーンは再びあの宿屋へ向かった。
「やあ、女将さん。また世話になるよ。」
「もう戻ってきたのかい。今回は早かったじゃないか。」
「そういう段取りになったんでな。」
「そうかい。部屋は空いてるよ。」
女将から鍵を受け取りポケットへ仕舞う。
「それより町が何やら騒々しいけど、なんかあったんか。」
カウンターに腰を下ろして何か飲み物をと催促する。
女将はそれを分かっていてブランデーをグラスに注いでいる。
「何かって、今月末は祭りだからね。町全体がそわそわしてるよ。」
「あぁ、もうそんな時期か。」
セビリアの祭りは町の規模に応じて3日3晩続く盛大な催しで、この時期が来ると町の人間の誰もが浮き足立っているようになる。
ただ、1年の大半を海の上か他の町で過ごすケンケーンはそういう時節的な感覚が薄く聖誕祭でさえ洋上で過ごす事もある。
「今年は参加できそうやな。」
「あ、ケンケーンさん。」
突然、賑やかな声が食堂に響いた。
使いに出ていたニュンが帰ってきた。
「いつ戻られたんですか。今度はいつまでですか。」
明るい声で矢継ぎ早に質問する。
「急ぎの仕事が入らん限り、祭りが終わるまでは居るで。」
「それじゃ、また遊んでもらえますか。」
「構わんで。」
ニュンの笑顔が一層明るくなる。
「ニュン。そろそろ仕込みを手伝っておくれ。」
厨房から女将の声が聞こえる。
「はーい。あ、ケンケーンさん、私今お料理の勉強してるんですよ、いつか食べてくださいね。」
ぴょんぴょんと飛び跳ねるような足取りで厨房へと入っていった。
あっさり1人になったケンケーンはグラスの酒を飲み干すと2階の泊まり部屋へ向かう。
部屋までの短い間、祭り終わりまでどう過ごそうかと考えていた。
『陸に上がった船乗りほど使えないものはない。』
これは常々ケンケーンが口にしていた事だった。
「やれやれ、流れで言ってしまったもののどうすっかな…。」
部屋のベッドに身を投げ出すと、しばらくは何事かを考えていたが、いつの間にか目を閉じ静かな寝息を立てていた。

セビリアの町全体が連日大きな活気で満たされている。
広場はもちろん、そこに繋がる通りの全てに出店が構えられ景気のいい声が飛び交う。
その声すらもかき消すような雑踏があらゆる通り、路地に溢れている。
もしこの中を歩いたとすると、目的地まで何度肩をぶつければ良いのかとケンケーンは2階の窓から流れる人の頭を眺めながら考えていた。
祭りといえば血が騒ぐ、しかしこれほどの祭りだとそれなりの覚悟をもって行動しなければ無駄に疲労するだけだと部屋に篭っている。
祭りが始まるまでは好きな店で酒を飲り、たまに馴染みの交易店へ顔を出して世間話で時間を潰したりして過ごしてきた。
時折、宿屋の手伝い(もっとも大半がニュンの仕入れに関する荷物持ちだったが)もしたりして持て余す時間を使っていたが、こうなってしまっては外へ出る気も起こらない。
宿屋の立地条件的にまだ人の数は中心地のそれとは緩やかであるものの、普段からしてみれば洪水の如く人の群れでだった。
「よくもまぁ、最終日や言うのにこれだけの人数が動くもんやな…。」
船での生活は良くも悪くも限られた人数との付き合いの日々だ。
ながくそれに携わってしまうと、こういう陸のイベント時には少々損をするような気分になってしまう。
「もっとも、そう感じるのは個人差があるだろうがな。」
誰に聞かせるわけもない心情を吐露する。
傍らにおいてある酒瓶を手に取る。
「おや、空か…」
自棄酒のように呷ったせいか、瓶は1口2口を残す程度に減っていた。
どこで覚えたか忘れたが空瓶を使った曲芸まがいの遊びをしつつ1階へと降りる。
「おや。」
外の喧騒とは違って、しんと静まり返った空間が広がっている。
確かに昨日までは多くの人で賑わっていた。
「なんや、こんな日に店閉めて潰れたんか。」
「人聞きの悪いことを言うんじゃないよ。」
女将が奥から出てきた。
「聞いてたんか。」
「こんな日だからこそ休んで日頃の憂さを晴らすんだよ。アンタも篭って酒ばかり飲んでないで、外へ出たらどうだい。」
「そう言われてもなぁ…。」
ニュンが女将の背後からひょっこりと現れた。
着ている薄紅色の服はケンケーンが以前に買ったものだ。
先日渡したピサ土産の髪留めも光っている。
今日は薄っすらと化粧をしている。
町に溢れている塗り固めたような化粧でない所がまだまだ世間擦れしていない事を感じさせる。
「ケンケーンさん。お出かけしましょうよ、きっと楽しいですよ。」
両の目を爛々と輝かせてニュンの声はどこまでも元気だった。
純真なその目で見られると、なぜか後ろめたさを感じてしまう。
「ま、しゃーない。」
期待される視線の迫力に気圧されるままに返事をしてしまった。
(どうしてもあの目には逆らえん)
「女将さん、ケンケーンさんと一緒に遊んできて良いですか。」
「本当にアンタはケン坊がお気に入りだね。良いよ行っといで。」
ニュンは満面の笑みを浮かべた。
そしてケンケーンの元へ駆け寄るとすぐにでも出かけようとケンケーンの手を引いた。
「ちょい待て。こんな為りじゃどうにもならん。」
柔らかく腕を解く。
確かに今着ている服は部屋着として使っているだけあって、小さな解れや色あせが所々に見える。
その場にニュンを留まらせ、着替える為に部屋へと向かう。
折り目の正しくついた服へ着替えて戻ってくると宿屋夫婦の姿はなかった。
「羽目を外し過ぎないようにって女将さんからです。」
出かける前に女将から預かった言伝をそのまま伝えた。
しかし、今のニュンはそれよりも先に心は祭りの方へと向いているようだった。
「了解、了解。んじゃ、行こか。」
「はいっ。」
そう言ってケンケーンは気乗りしない足を向かわせる。
宿の外へ一歩出ると、予想通りの混雑っぷりだった。
「祭りといえば、まずは中央の広場や。人も多いし迷子にならんようにな。」
ニュンは歩き始めたケンケーンにぴったりと寄り添うと何の躊躇もなくケンケーンの左腕に腕を絡ませる。
「えへへ。こうすれば迷子になりません。」
確かに迷子にはならないが、誰かに見られてはあらぬ誤解を招くとの考えが一瞬頭に浮かぶ。
自分への誤解ならともかく、ニュンに対する誤解はこれから先、何かと邪魔になるかもしれない。
ただ嬉しそうなニュンを見ると無理にその手を解くのを躊躇してしまう。
どうしたものかと思案したが、良い案が浮かばなかった。
(まぁ、祭りやしこんなのも有りか…)

(続く)
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