「Amor torpe」Ⅴ
夜になっても街の勢いは衰える事無く盛り上がりを見せていた。
今夜が祭り最後の夜という事もあり、最後まで楽しもうとしている人とそれを商売にする者との呼吸が見事に合致している。
大道芸人たちは入れ替わり立ち代り様々な団体がそれぞれの技を披露している。
なかでも人々の歓声を浴びたのは、2本の竹を使ったもので、力自慢の男2人が竹の両端を持ち平行に構えると、軽業師の女がその竹をばねのように使いより高く飛び上がるというもので、その高さはゆうに建物の2階を越える高さだった。
他にも口から火を吐く者、獣を使う者など普段見ない芸に人々は惜しみない歓声を上げていた。
一方では広場に立ち並んだ各出店はというと、昼は遠く北海や東地中海から運ばれた珍しい品を扱う店や雑貨を扱う所が賑わいを見せていたが、夜になると人々の胃袋を目当てにした店がそれに代わって勢いを増している。
ケンケーンとニュンもそれに漏れず、あちらこちらで何かしらを見て買って食べてと過ごしていた。
ただ、この時間になって元気だったニュンも少し大人しくなっていた。
「どうした、疲れたか。」
言葉少なくなってきた様子を見てケンケーンが気遣う。
「さっきのお酒で酔ったのかも…。」
ニュンは暗がりにも辛そうな表情をしている。
「どっかで一休みするか。」
2人は人ごみを避けるようにして休める場所を探す。
漸く落ち着ける場所は広場から遠く離れた海の見えるベンチだった。
周りには何もなくなぜこの場所にベンチがあるのかさえ疑問に思ったが、今はそれが逆にありがたかった。
ニュンはケンケーンの肩に身を預けるように座った。
そしてそのまま2人は祭りの喧騒を遠くに聞きながらじっと黙っていた。
先ほどとは違って、その場を支配するのは波の音だけだった。
静寂の中、どれだけ時間が経ったか計る由もなかったが、ニュンが静かに口を開いた。
「ケンケーンさん。どうして船乗りになろうと思ったんですか。」
この手の質問は過去様々な場面で幾度となく聞かれたものだった。
そしていつもケンケーンは同じ答えを繰り返す。
「なりたくてなったんやない。やるべき事の為にやってるだけや。」
「やるべき事って前に言ってた本の事。」
「そうじゃない。遠い海を越えて長い航路の末に一部の人を相手に鬻ぐ生活をしていても金を儲けるだけの話だ。結局、国の礎を守っているのは地に足をつけて生活してる人達なんや。俺はさらにその人達を守る商売がしたいんや。」
ケンケーンの声も静かだった。
「そっか…。」
「どうしたんや。いきなり。」
「ううん。なんでもない。」
再び2人を沈黙と静寂が包み込んだ。
徐々に気温は下がり、祭りの血気と酒で上昇していた2人の体温をゆっくりと潮風が冷やしていく。
そして次に口を開いたのはまたもニュンだった。
「私の家は特に貧しい訳でもなく両親も兄弟も元気で私がここに来る理由はないはずだった。時折、訪れる旅の行商人さんが色んな町の話をして、私はそれが楽しみでその人が来るのを楽しみにしていたの。そうしている内にいろんな町へ行ってみたいと思ってきたの。でもすんなりと行かせてくれる筈もないから、町の教会の神父様にお願いして読み書きを教えてもらったの。読み書きができれば他の町へ行ってもどうにかなると思って必死に習った。そして弟が仕事についたのをきっかけに村を出ようとした、もちろん両親には猛反対だった。けど、私はどうしても聞いた町へ行ってみたかったの。それで神父様に掛け合って両親を説得してもらったの。そして出稼ぎという事にして今の宿で働かせてもらうことになったの。でも…。」
ここまで言って言葉が詰まった。
ケンケーンは何も言わずニュンの次の言葉を待っていた。
「…宿の人はとても優しくしてくれるけど、町の人達はみんないつも肩を張り合っているみたい。何かを競い合うことが義務付けられてるようで何か窮屈…。憧れてやってきた町だったのに、こうやって過ごしてみると何を求めてきたのか分かんなくなっちゃって…。」
肩越しにニュンの身が小さく震えてるのが分かる。
「何もかも空々しくて、よそよそしくて…。」
ケンケーンの袖口を握り締めているニュンの拳がさらに強く握られる。
ニュンの肩に腕を回すとその小さな体を軽く抱き寄せる。
思ったより華奢な体はじっと身を固めている。
「なぁ、ニュン。」
「はい…。えっ。」
ケンケーンはニュンの返事を待たず彼女の開きかけた唇へそっと口付けをした。
突然の事にニュンはさらに体を硬直させる。
唇が重なっていたのはほんの数秒だったが、それはニュンにとってとても長い時間だった。
「知らない町で生きていくってのはとても怖いやろうな。でもな、知らないって事はこれから学べるって事なんやで。お前には持ち前の元気がある、きっと上手くいくはずや。」
ケンケーンの声は静かに聞こえる波の音に乗せるような声だった。
「…ねぇ、ケンケーンさん。また船へ乗せて貰えますか。」
「あぁ、構わんで。いつでも言うて来い。」
「いつも優しいんですね。ありがとうございます。もうちょっとで元気になりますから、あと少しだけこうやって居させてください。」
そして2人は祭りの喧騒と波の音の狭間でひっそりと体を寄せ合ったままの時間を過ごした。
深い藍色の空には夜風に晒されて瞬く星たちが広がっていた。
今夜が祭り最後の夜という事もあり、最後まで楽しもうとしている人とそれを商売にする者との呼吸が見事に合致している。
大道芸人たちは入れ替わり立ち代り様々な団体がそれぞれの技を披露している。
なかでも人々の歓声を浴びたのは、2本の竹を使ったもので、力自慢の男2人が竹の両端を持ち平行に構えると、軽業師の女がその竹をばねのように使いより高く飛び上がるというもので、その高さはゆうに建物の2階を越える高さだった。
他にも口から火を吐く者、獣を使う者など普段見ない芸に人々は惜しみない歓声を上げていた。
一方では広場に立ち並んだ各出店はというと、昼は遠く北海や東地中海から運ばれた珍しい品を扱う店や雑貨を扱う所が賑わいを見せていたが、夜になると人々の胃袋を目当てにした店がそれに代わって勢いを増している。
ケンケーンとニュンもそれに漏れず、あちらこちらで何かしらを見て買って食べてと過ごしていた。
ただ、この時間になって元気だったニュンも少し大人しくなっていた。
「どうした、疲れたか。」
言葉少なくなってきた様子を見てケンケーンが気遣う。
「さっきのお酒で酔ったのかも…。」
ニュンは暗がりにも辛そうな表情をしている。
「どっかで一休みするか。」
2人は人ごみを避けるようにして休める場所を探す。
漸く落ち着ける場所は広場から遠く離れた海の見えるベンチだった。
周りには何もなくなぜこの場所にベンチがあるのかさえ疑問に思ったが、今はそれが逆にありがたかった。
ニュンはケンケーンの肩に身を預けるように座った。
そしてそのまま2人は祭りの喧騒を遠くに聞きながらじっと黙っていた。
先ほどとは違って、その場を支配するのは波の音だけだった。
静寂の中、どれだけ時間が経ったか計る由もなかったが、ニュンが静かに口を開いた。
「ケンケーンさん。どうして船乗りになろうと思ったんですか。」
この手の質問は過去様々な場面で幾度となく聞かれたものだった。
そしていつもケンケーンは同じ答えを繰り返す。
「なりたくてなったんやない。やるべき事の為にやってるだけや。」
「やるべき事って前に言ってた本の事。」
「そうじゃない。遠い海を越えて長い航路の末に一部の人を相手に鬻ぐ生活をしていても金を儲けるだけの話だ。結局、国の礎を守っているのは地に足をつけて生活してる人達なんや。俺はさらにその人達を守る商売がしたいんや。」
ケンケーンの声も静かだった。
「そっか…。」
「どうしたんや。いきなり。」
「ううん。なんでもない。」
再び2人を沈黙と静寂が包み込んだ。
徐々に気温は下がり、祭りの血気と酒で上昇していた2人の体温をゆっくりと潮風が冷やしていく。
そして次に口を開いたのはまたもニュンだった。
「私の家は特に貧しい訳でもなく両親も兄弟も元気で私がここに来る理由はないはずだった。時折、訪れる旅の行商人さんが色んな町の話をして、私はそれが楽しみでその人が来るのを楽しみにしていたの。そうしている内にいろんな町へ行ってみたいと思ってきたの。でもすんなりと行かせてくれる筈もないから、町の教会の神父様にお願いして読み書きを教えてもらったの。読み書きができれば他の町へ行ってもどうにかなると思って必死に習った。そして弟が仕事についたのをきっかけに村を出ようとした、もちろん両親には猛反対だった。けど、私はどうしても聞いた町へ行ってみたかったの。それで神父様に掛け合って両親を説得してもらったの。そして出稼ぎという事にして今の宿で働かせてもらうことになったの。でも…。」
ここまで言って言葉が詰まった。
ケンケーンは何も言わずニュンの次の言葉を待っていた。
「…宿の人はとても優しくしてくれるけど、町の人達はみんないつも肩を張り合っているみたい。何かを競い合うことが義務付けられてるようで何か窮屈…。憧れてやってきた町だったのに、こうやって過ごしてみると何を求めてきたのか分かんなくなっちゃって…。」
肩越しにニュンの身が小さく震えてるのが分かる。
「何もかも空々しくて、よそよそしくて…。」
ケンケーンの袖口を握り締めているニュンの拳がさらに強く握られる。
ニュンの肩に腕を回すとその小さな体を軽く抱き寄せる。
思ったより華奢な体はじっと身を固めている。
「なぁ、ニュン。」
「はい…。えっ。」
ケンケーンはニュンの返事を待たず彼女の開きかけた唇へそっと口付けをした。
突然の事にニュンはさらに体を硬直させる。
唇が重なっていたのはほんの数秒だったが、それはニュンにとってとても長い時間だった。
「知らない町で生きていくってのはとても怖いやろうな。でもな、知らないって事はこれから学べるって事なんやで。お前には持ち前の元気がある、きっと上手くいくはずや。」
ケンケーンの声は静かに聞こえる波の音に乗せるような声だった。
「…ねぇ、ケンケーンさん。また船へ乗せて貰えますか。」
「あぁ、構わんで。いつでも言うて来い。」
「いつも優しいんですね。ありがとうございます。もうちょっとで元気になりますから、あと少しだけこうやって居させてください。」
そして2人は祭りの喧騒と波の音の狭間でひっそりと体を寄せ合ったままの時間を過ごした。
深い藍色の空には夜風に晒されて瞬く星たちが広がっていた。
翌朝、いつもより早い時間に目が覚めた。
祭りに参加したとはいえ、見物に多くの時間を割いたためか普段より酒量が少なかったのが幸いし、いつもならありえない時刻に目が覚めた。
むっくりと体を起こす。
すぐ隣をみると昨晩可愛らしい寝顔を見せたニュンの姿はなく、僅かに感じる体温の名残だけが隣に残されていた。
彼女が居たその場所を暫く見つめた後、寝癖のひどい頭を掻き揚げて何とか形にすると小さな掛け声とともにベッドから降りる。
とりあえずは何か着なければ始まらないと、鞄の中から服を取り出した。
服を着ている背中から朝日が差し込み始める。
暖かさがじんわりと広がってくる。
陸でこのような朝を迎えるのは何時ぶりだろうかと考えつつシャツのボタンを留めてゆく。
余程の畏まった場所へ向かわない限りは許されるだろう格好になるとそのまま椅子へ腰をおろした。
そして再び鞄へ手をかけると、その中から厚みのある書類を引っ張り出し机の上へ広げる。
一応約束どおりに祭りを過ごした事でいつでも出れるはずだった。
ただ、今のケンケーンには日も目的地も全く決まっていない状態だったが、特に焦るような素振りもなく書類を整理する姿もなんとなくやっているという感じだった。
祭りに参加したとはいえ、見物に多くの時間を割いたためか普段より酒量が少なかったのが幸いし、いつもならありえない時刻に目が覚めた。
むっくりと体を起こす。
すぐ隣をみると昨晩可愛らしい寝顔を見せたニュンの姿はなく、僅かに感じる体温の名残だけが隣に残されていた。
彼女が居たその場所を暫く見つめた後、寝癖のひどい頭を掻き揚げて何とか形にすると小さな掛け声とともにベッドから降りる。
とりあえずは何か着なければ始まらないと、鞄の中から服を取り出した。
服を着ている背中から朝日が差し込み始める。
暖かさがじんわりと広がってくる。
陸でこのような朝を迎えるのは何時ぶりだろうかと考えつつシャツのボタンを留めてゆく。
余程の畏まった場所へ向かわない限りは許されるだろう格好になるとそのまま椅子へ腰をおろした。
そして再び鞄へ手をかけると、その中から厚みのある書類を引っ張り出し机の上へ広げる。
一応約束どおりに祭りを過ごした事でいつでも出れるはずだった。
ただ、今のケンケーンには日も目的地も全く決まっていない状態だったが、特に焦るような素振りもなく書類を整理する姿もなんとなくやっているという感じだった。
早朝という時間を過ぎていくらか経った頃、机に向かうケンケーンの居る部屋のドアが静かに開けられた。
そしてそのドアの陰から中を窺うのはニュンだった。
ベッドの方を向いてケンケーンの姿が見えない事に気付くとゆっくりと部屋の中を見渡す。
ひょっこりとドアから顔だけを見せて死角になっているテーブルにまで確認するとようやくそこにケンケーンの姿を発見する。
「ケンケーンさん、おはようございます。今日は早起きさんなんですね。」
いつもと変わらないような元気な声だ。
ペンを持つ手を止めてそちらを振り向く。
「おはよう。」
「朝ごはんどうしますか、持って来ましょうか。」
「そやな、そうしてくれると有りがたい。」
「わかりました。ちょっと待っててくださいね。」
そう言ってニュンは部屋を出て行った。
廊下を歩いて行くぱたぱたという音が徐々に小さくなっていく。
そして朝食を載せたトレイを持って程なくして戻ってくる。
野菜を煮込んだスープをメインに後はゆで卵とフィッシュペーストとパンがテーブルの上に並べられた。
旨みをたっぷりと含んだスープの香りが部屋に広がる。
広げていた書類を大雑把に重ね片付けると、さっそくスープへ手をつける。
塩味と野菜の甘みが空の胃袋に優しくしみこんでいく。
祭りで買い食いをした後に食べる料理としてはうってつけの一品だった。
これで気が落ち着くと、朝の貴重な時間を楽しもうとゆで卵の殻をスプーンで勢いよく叩いた。
「あの、お味はどうですか。」
対面に座わり様子を窺っていたニュンが恥ずかしそうな上目遣いでケンケーンの顔を窺う。
「ん。普通に美味いな。さすが女将さんって所やな。」
「あの、これ私が作ったんです。」
スープを口へ運ぶ手が止まる。
そしてゆっくりそれを口に含むと、もう一度その味を確かめて飲み込んだ。
「お世辞抜きに美味いで。これで女将さんも更に楽できるようになったな。」
「本当ですかっ。」
ぱぁっとニュンの顔が喜びに満ちて明るくなった。
「実はケンケーンさんが毒見役だったんです。どきどきだったけど美味しいって言ってくれて、私うれしいです。」
「あぁ、これなら下で出しても良いぐらいやな。」
さらに感想を続けたケンケーンの言葉だったが、浮かれ頂点のニュンには届いていなかった。
(そこまで喜ぶもんなんか…)
「ありがとうございます。褒めてもらったし、私お仕事に戻りますね。」
「あ、あぁ…。がんばってな。」
「はいっ。ゆっくり食べてくださいね。」
そう言い残して部屋を出て行った。
しかし、すぐに聞き覚えのある足音が戻ってきた。
「あ、お替りありますから。言ってくださいね。」
そして再び足音は廊下の先へと消えていった。
「なんやったんや…。」
朝一の静けさから一転しどたばたとした展開に、ただ呆然とニュンが出て行ったドアを見つめていた。
そして足音が戻ってこない事を確認すると再び目の前の食事へと向き直り続きを存分に堪能した。
そしてそのドアの陰から中を窺うのはニュンだった。
ベッドの方を向いてケンケーンの姿が見えない事に気付くとゆっくりと部屋の中を見渡す。
ひょっこりとドアから顔だけを見せて死角になっているテーブルにまで確認するとようやくそこにケンケーンの姿を発見する。
「ケンケーンさん、おはようございます。今日は早起きさんなんですね。」
いつもと変わらないような元気な声だ。
ペンを持つ手を止めてそちらを振り向く。
「おはよう。」
「朝ごはんどうしますか、持って来ましょうか。」
「そやな、そうしてくれると有りがたい。」
「わかりました。ちょっと待っててくださいね。」
そう言ってニュンは部屋を出て行った。
廊下を歩いて行くぱたぱたという音が徐々に小さくなっていく。
そして朝食を載せたトレイを持って程なくして戻ってくる。
野菜を煮込んだスープをメインに後はゆで卵とフィッシュペーストとパンがテーブルの上に並べられた。
旨みをたっぷりと含んだスープの香りが部屋に広がる。
広げていた書類を大雑把に重ね片付けると、さっそくスープへ手をつける。
塩味と野菜の甘みが空の胃袋に優しくしみこんでいく。
祭りで買い食いをした後に食べる料理としてはうってつけの一品だった。
これで気が落ち着くと、朝の貴重な時間を楽しもうとゆで卵の殻をスプーンで勢いよく叩いた。
「あの、お味はどうですか。」
対面に座わり様子を窺っていたニュンが恥ずかしそうな上目遣いでケンケーンの顔を窺う。
「ん。普通に美味いな。さすが女将さんって所やな。」
「あの、これ私が作ったんです。」
スープを口へ運ぶ手が止まる。
そしてゆっくりそれを口に含むと、もう一度その味を確かめて飲み込んだ。
「お世辞抜きに美味いで。これで女将さんも更に楽できるようになったな。」
「本当ですかっ。」
ぱぁっとニュンの顔が喜びに満ちて明るくなった。
「実はケンケーンさんが毒見役だったんです。どきどきだったけど美味しいって言ってくれて、私うれしいです。」
「あぁ、これなら下で出しても良いぐらいやな。」
さらに感想を続けたケンケーンの言葉だったが、浮かれ頂点のニュンには届いていなかった。
(そこまで喜ぶもんなんか…)
「ありがとうございます。褒めてもらったし、私お仕事に戻りますね。」
「あ、あぁ…。がんばってな。」
「はいっ。ゆっくり食べてくださいね。」
そう言い残して部屋を出て行った。
しかし、すぐに聞き覚えのある足音が戻ってきた。
「あ、お替りありますから。言ってくださいね。」
そして再び足音は廊下の先へと消えていった。
「なんやったんや…。」
朝一の静けさから一転しどたばたとした展開に、ただ呆然とニュンが出て行ったドアを見つめていた。
そして足音が戻ってこない事を確認すると再び目の前の食事へと向き直り続きを存分に堪能した。
開けている窓から入ってくる町の音を聞きながら、書類整理を続けていく。
昨日まで続いた賑やかさはどこへ隠されたのか、耳に届くのはいつも知った町の生活音だけとなっている。
静かであると言えばそう例えられる部屋の中は書類を捲りペンを走らせる音だけが続いていた。
「ケンケーンさん。居ますか…。」
そこへドアのノック音と共にニュンが入ってきた。
手には空のトレーを持っている。
「片付けにきました。」
「あぁ、よろしく。美味かったよ。そこへおいてあるから。」
書類が詰まれた向こう側にある机の空いたスペースに食器は小ぢんまりと並べられていた。
どの器も見事に空である。
再び褒められた事にニュンはにっこりと笑みを浮かべ慣れた様子で器を片付け始めた。
ニュンの片付けを他所にケンケーンは読みかけの書類に目を通している。
その顔は普段ニュンが見る顔と違って少し難しそうな表情をしている。
ニュンは全ての器をトレーへと載せると、真剣に書類と向かい合っているケンケーンを見て何かを考えたようだったが、こくりと頷くと静かに口を開いた。
「あの、ケンケーンさん。」
その声は先ほどとは違っていつになく神妙なものだった。
呼びかけに応じる形でケンケーンは視線をそちらへと向ける。
朝と雰囲気が違っている事、すなわち彼女が大切な何かを話そうとしてるのをその表情で察すると手に持っていた書類を置き、ニュンの方へと向きなおした。
「あの…。そのなんと言うのかな…。」
ニュンの口が空回りしている。
何かを言いたそうにしながら、次の言葉を上手く見つけられてないようだ。
視線が泳ぎ、焦点のあわせ所を失っている。
泳いだ視線が抜け殻になっているベッドへ辿り着くと、どくんと心臓が大きく胸を叩いた。
ニュンの顔は真っ赤に染まった。
しかし、それを振り払うようにぎゅっと目を一度閉じ、再び目を開けると漸く口が動いた。
「あの、私、もうちょっと頑張ってみようと思います。そしてケンケーンさんに良くやったって言われるぐらいに頑張ろうと思います。」
言葉の節々が震えている。
これだけの事を言うのにどれだけの決意を要したのか、それを知るのは本人のみだが、ケンケーンはニュンの態度を見てなぜか自身が船に乗り始めた頃の事を思い出されていた。
(なるほど、あの時と立場が変わってしまったんか…。)
ケンケーンの中で何かが何かを理解した。
頭の中にあった思考の縄の結び目がするりと解けたような感覚を覚える。
「そうか。きっとお前なら上手くいくや…」
「それでっ。あの、1つお願いがあるんですっ!」
興奮しているようなニュンはケンケーンの言葉尻を遮るようにまた口を開く。
「その…。でも…、大丈夫だと思うんでけど。でも、やっぱり…」
再びニュンの口が空回りしている。
しかし、今度はすぐに向き直った。
「あの、できればすぐ会えるような傍に居てくれませんか…。きっと私1人だと心細くて、ケンケーンさんの優しさに頼りたくなると思うんです。」
顔から火が出るのではないかと思うほどニュンの顔が真っ赤になっている。
その様子から、彼女がこの場で一番言いたかった事がこれであったのではないかと推測できた。
しかし、さすがのケンケーンもこれには面食らったようで眼鏡の奥にある目を円くしていた。
「あまりご迷惑はおかけしません。なるべく1人で頑張ります。だから…。でも…無理ですよね。ケンケーンさんは船の皆さんの生活を左右される方ですし…。」
肯定と否定を繰り返しながらニュンの声は掠れて小さくなっていく。
エプロンの裾を力強く握り締めている手が小さく震えている。
しばらく2人の間に沈黙が流れた。
どちらかが何かを発しなければこの時間はいつまでも続くような、そんな雰囲気だった。
昨日まで続いた賑やかさはどこへ隠されたのか、耳に届くのはいつも知った町の生活音だけとなっている。
静かであると言えばそう例えられる部屋の中は書類を捲りペンを走らせる音だけが続いていた。
「ケンケーンさん。居ますか…。」
そこへドアのノック音と共にニュンが入ってきた。
手には空のトレーを持っている。
「片付けにきました。」
「あぁ、よろしく。美味かったよ。そこへおいてあるから。」
書類が詰まれた向こう側にある机の空いたスペースに食器は小ぢんまりと並べられていた。
どの器も見事に空である。
再び褒められた事にニュンはにっこりと笑みを浮かべ慣れた様子で器を片付け始めた。
ニュンの片付けを他所にケンケーンは読みかけの書類に目を通している。
その顔は普段ニュンが見る顔と違って少し難しそうな表情をしている。
ニュンは全ての器をトレーへと載せると、真剣に書類と向かい合っているケンケーンを見て何かを考えたようだったが、こくりと頷くと静かに口を開いた。
「あの、ケンケーンさん。」
その声は先ほどとは違っていつになく神妙なものだった。
呼びかけに応じる形でケンケーンは視線をそちらへと向ける。
朝と雰囲気が違っている事、すなわち彼女が大切な何かを話そうとしてるのをその表情で察すると手に持っていた書類を置き、ニュンの方へと向きなおした。
「あの…。そのなんと言うのかな…。」
ニュンの口が空回りしている。
何かを言いたそうにしながら、次の言葉を上手く見つけられてないようだ。
視線が泳ぎ、焦点のあわせ所を失っている。
泳いだ視線が抜け殻になっているベッドへ辿り着くと、どくんと心臓が大きく胸を叩いた。
ニュンの顔は真っ赤に染まった。
しかし、それを振り払うようにぎゅっと目を一度閉じ、再び目を開けると漸く口が動いた。
「あの、私、もうちょっと頑張ってみようと思います。そしてケンケーンさんに良くやったって言われるぐらいに頑張ろうと思います。」
言葉の節々が震えている。
これだけの事を言うのにどれだけの決意を要したのか、それを知るのは本人のみだが、ケンケーンはニュンの態度を見てなぜか自身が船に乗り始めた頃の事を思い出されていた。
(なるほど、あの時と立場が変わってしまったんか…。)
ケンケーンの中で何かが何かを理解した。
頭の中にあった思考の縄の結び目がするりと解けたような感覚を覚える。
「そうか。きっとお前なら上手くいくや…」
「それでっ。あの、1つお願いがあるんですっ!」
興奮しているようなニュンはケンケーンの言葉尻を遮るようにまた口を開く。
「その…。でも…、大丈夫だと思うんでけど。でも、やっぱり…」
再びニュンの口が空回りしている。
しかし、今度はすぐに向き直った。
「あの、できればすぐ会えるような傍に居てくれませんか…。きっと私1人だと心細くて、ケンケーンさんの優しさに頼りたくなると思うんです。」
顔から火が出るのではないかと思うほどニュンの顔が真っ赤になっている。
その様子から、彼女がこの場で一番言いたかった事がこれであったのではないかと推測できた。
しかし、さすがのケンケーンもこれには面食らったようで眼鏡の奥にある目を円くしていた。
「あまりご迷惑はおかけしません。なるべく1人で頑張ります。だから…。でも…無理ですよね。ケンケーンさんは船の皆さんの生活を左右される方ですし…。」
肯定と否定を繰り返しながらニュンの声は掠れて小さくなっていく。
エプロンの裾を力強く握り締めている手が小さく震えている。
しばらく2人の間に沈黙が流れた。
どちらかが何かを発しなければこの時間はいつまでも続くような、そんな雰囲気だった。
無言が支配する時間というもは全ての感覚を狂わせてしまう。
聞こえている町の雑踏やもう既に始まっているであろう昼食準備の匂いですら2人には感じられなかった。
その中で緊張を続けて口を硬く結ぶニュンに対し、落ち着きを取り戻したケンケーンは胸の中で同じ問答をぐるぐると駆け巡らせて行く。
経過した時間は5分だったのか10分だったのか、それとも1分だったのか。
「分かった。」
すごく長いようにも短いようにも思えた静寂を破ったのはケンケーンだった。
「すぐにとは無理やが、なるべく近くに居るようにしよう。」
ゆっくりとした声だった。
ニュンは恐る恐る顔を上げるとケンケーンの顔を見た。
その表情はしっかりとニュンを見据えていた。
「本当ですか…。」
「あぁ。」
ニュンの目から大粒の光るものが溢れる。
「ありがとうございます…。たとえそれが嘘でも…。」
同じ言葉を何度も繰り返す。
ケンケーンはそんなニュンをそっと抱きしめた。
「ただ俺はあいつ等を養う義務と責任がある、それだけは理解してくれ。」
抱かれた胸の中でニュンは静かに頷いた。
「ありがとう。さぁ、泣くのは止めや、お前が泣いてるんなんか誰も期待してないで。皆が待っている顔に戻るんや。」
「はい…。」
抱き合っていた2人はゆっくりとその手を解いた。
俯いていたニュンは目の涙をそっと拭うと顔を上げた。
「…お仕事へ戻ってきます。」
そう言いながらもその場を離れる事が名残惜しいようにニュンはじっとケンケーンを見つめていた。
そしてゆっくりとドアへ向かおうとして、また立ち止まった。
「ケンケーンさん。襟元にゴミがついてますよ。」
指摘された所を探る。
「そこじゃなく、もっと右…。」
「どこや…分からん、取ってくれ。」
ケンケーンは中腰になってニュンを促した。
するとニュンはケンケーンの唇に自分の唇をさっと重ねた。
「これは昨日の仕返しです。」
その時のニュンは今までに見た中で一番の笑顔を残し仕事場へと消えていった。
部屋に残ったケンケーンは事の展開を自身で整理していた。
「船の上で死にたいとは思ってはいないさ…。」
誰へでもなく自身へ向けられた言葉を発すると再び机へと向かった。
麗らかな日の光が差し込み続ける日の出来事だった。
聞こえている町の雑踏やもう既に始まっているであろう昼食準備の匂いですら2人には感じられなかった。
その中で緊張を続けて口を硬く結ぶニュンに対し、落ち着きを取り戻したケンケーンは胸の中で同じ問答をぐるぐると駆け巡らせて行く。
経過した時間は5分だったのか10分だったのか、それとも1分だったのか。
「分かった。」
すごく長いようにも短いようにも思えた静寂を破ったのはケンケーンだった。
「すぐにとは無理やが、なるべく近くに居るようにしよう。」
ゆっくりとした声だった。
ニュンは恐る恐る顔を上げるとケンケーンの顔を見た。
その表情はしっかりとニュンを見据えていた。
「本当ですか…。」
「あぁ。」
ニュンの目から大粒の光るものが溢れる。
「ありがとうございます…。たとえそれが嘘でも…。」
同じ言葉を何度も繰り返す。
ケンケーンはそんなニュンをそっと抱きしめた。
「ただ俺はあいつ等を養う義務と責任がある、それだけは理解してくれ。」
抱かれた胸の中でニュンは静かに頷いた。
「ありがとう。さぁ、泣くのは止めや、お前が泣いてるんなんか誰も期待してないで。皆が待っている顔に戻るんや。」
「はい…。」
抱き合っていた2人はゆっくりとその手を解いた。
俯いていたニュンは目の涙をそっと拭うと顔を上げた。
「…お仕事へ戻ってきます。」
そう言いながらもその場を離れる事が名残惜しいようにニュンはじっとケンケーンを見つめていた。
そしてゆっくりとドアへ向かおうとして、また立ち止まった。
「ケンケーンさん。襟元にゴミがついてますよ。」
指摘された所を探る。
「そこじゃなく、もっと右…。」
「どこや…分からん、取ってくれ。」
ケンケーンは中腰になってニュンを促した。
するとニュンはケンケーンの唇に自分の唇をさっと重ねた。
「これは昨日の仕返しです。」
その時のニュンは今までに見た中で一番の笑顔を残し仕事場へと消えていった。
部屋に残ったケンケーンは事の展開を自身で整理していた。
「船の上で死にたいとは思ってはいないさ…。」
誰へでもなく自身へ向けられた言葉を発すると再び机へと向かった。
麗らかな日の光が差し込み続ける日の出来事だった。
それから季節は流れたとある秋の日の事。
セビリアの郊外にゴールデンルーヴェ商会が所有する1軒の家がある。
庭はいつも綺麗に整備されているが、建物自体には生活感が感じられないのだが、今日は珍しく人の影があった。
掃除を終え、お茶を楽しんでいる面々の楽しい声が居間から聞こえている。
同じ商会に所属しているとは言え、互いの活動内容が疎らなだけに顔をあわせる機会が少なく、こういう場になるとついつい時間を忘れて話が弾んでいる。
と、そこへまた1人誰かがやってきた。
「おや、今日は盛況なことで。」
居間へ入ってきたのはウォルだった。
「たまには寄ってみるもんだな、錚々たる顔ぶれだ。」
その場に居る人数を数えるような素振りを見せながら空いている席へ座る。
「もっと早く来てくれれば掃除の手伝いができたのに、良くタイミングを見計らったものね。」
「ライラよ、そう言うてくれるなって。俺だって忙しいんだ。」
そこへコウヒエが口を挟む。
「ウォルが居てくれればもっと楽だったのにな。」
「お掃除ご苦労。ご苦労。諸君等の健闘は多いに称賛するよ。」
降参を示すように軽く両手を上げた姿を見せる。
一同それを見て笑うと与太話を再開させる。
「そういえば、先日ケンケーンをセビリアで見たな。」
運ばれた紅茶の香りを楽しみながらウォルが話題を振った。
「そうそう。ケンさんの事やけど、最近はめっきり近海だけで過ごしてるみたいね。」
「さすがレナータ。情報が早いね。」
「遠路辞さずと豪語していた彼がねぇ。どんな心境の変化かしら。」
一同、しばし間を置いて考える。
そして揃って口を開いた。
「女だ。」
それぞれがそれぞれの顔を見渡した。
誰もが自信ある回答をしたという顔をしている。
その間が過ぎると次は一斉に笑い声が部屋中に響いた。
「あはは。これで1つ確信できた事があるわね。皆、ここに居るべき人だったという事がね。」
「あぁ、見事な一体感だ。」
「真偽の程はともかく、律儀なケンさんの事だし、いずれ話してくれるでしょうね。」
「さて、オチが着いた所で皆、食事にしないか。もちろんライラ副会長さん持ちで。」
「どうして私持ちになるのか理解できないけど、食事には賛成ね。良いわ行きましょうか。」
周りから小さな歓声が上がった。
「最近出来たばかりだけど、いい店があるんだ。」
「さすがコウヒエ。そこらは抜かりないな。」
ライラは皆を促しながら席を立った。
「じゃ、そこにしましょう。」
セビリアの郊外にゴールデンルーヴェ商会が所有する1軒の家がある。
庭はいつも綺麗に整備されているが、建物自体には生活感が感じられないのだが、今日は珍しく人の影があった。
掃除を終え、お茶を楽しんでいる面々の楽しい声が居間から聞こえている。
同じ商会に所属しているとは言え、互いの活動内容が疎らなだけに顔をあわせる機会が少なく、こういう場になるとついつい時間を忘れて話が弾んでいる。
と、そこへまた1人誰かがやってきた。
「おや、今日は盛況なことで。」
居間へ入ってきたのはウォルだった。
「たまには寄ってみるもんだな、錚々たる顔ぶれだ。」
その場に居る人数を数えるような素振りを見せながら空いている席へ座る。
「もっと早く来てくれれば掃除の手伝いができたのに、良くタイミングを見計らったものね。」
「ライラよ、そう言うてくれるなって。俺だって忙しいんだ。」
そこへコウヒエが口を挟む。
「ウォルが居てくれればもっと楽だったのにな。」
「お掃除ご苦労。ご苦労。諸君等の健闘は多いに称賛するよ。」
降参を示すように軽く両手を上げた姿を見せる。
一同それを見て笑うと与太話を再開させる。
「そういえば、先日ケンケーンをセビリアで見たな。」
運ばれた紅茶の香りを楽しみながらウォルが話題を振った。
「そうそう。ケンさんの事やけど、最近はめっきり近海だけで過ごしてるみたいね。」
「さすがレナータ。情報が早いね。」
「遠路辞さずと豪語していた彼がねぇ。どんな心境の変化かしら。」
一同、しばし間を置いて考える。
そして揃って口を開いた。
「女だ。」
それぞれがそれぞれの顔を見渡した。
誰もが自信ある回答をしたという顔をしている。
その間が過ぎると次は一斉に笑い声が部屋中に響いた。
「あはは。これで1つ確信できた事があるわね。皆、ここに居るべき人だったという事がね。」
「あぁ、見事な一体感だ。」
「真偽の程はともかく、律儀なケンさんの事だし、いずれ話してくれるでしょうね。」
「さて、オチが着いた所で皆、食事にしないか。もちろんライラ副会長さん持ちで。」
「どうして私持ちになるのか理解できないけど、食事には賛成ね。良いわ行きましょうか。」
周りから小さな歓声が上がった。
「最近出来たばかりだけど、いい店があるんだ。」
「さすがコウヒエ。そこらは抜かりないな。」
ライラは皆を促しながら席を立った。
「じゃ、そこにしましょう。」
一方その頃、話題の餌とされていたケンケーンはニュンと共に宿へ続く途中に居た。
なぜか先ほどから鼻がむず痒く、すんすんと鼻を鳴らしている。
「どうしたんですか。」
「いぁ、さっきから鼻が…。どうせ商会の奴らが噂してんやろ。」
口を尖らせて悪態をつく。
ニュンがそれを見て笑っている。
「良い噂なら良いですね。」
「あいつ等の事や、悪い噂に決まっとる。」
とここで堪らずクシャミをする。
「皆さん、何をされてる方なんですか。」
例えばという話をしようとメンバーの顔を思い出してみる。
しかし、説明する適当な言葉が見つからず簡単な返事で済ませてしまった。
「色々やな。」
「そっか。でも、楽しそうですね。」
「まぁな。」
商会メンバーに対して悪態をつくケンケーンの姿を見て、少し寂しそうな顔をした。
かつて自身が住んでいた村での生活ではそうやってできる仲間に恵まれていた。
この町ではまだ知り合いが増えたに過ぎない、それだけにケンケーンのこういう姿を見てはそうしたいという憧れとかつての友人たちを思う郷愁の念が胸に去来する。
ケンケーンはそんなニュンの思いを察してか知らずか話を続ける。
「でもいつかはあいつ等にお前を紹介せんとな。」
「私をですか。」
「知り合いが増える程度のもんや損はない。」
「損得じゃなくて、私ただのお手伝いですよ。」
「あいつ等もどこで何をしてるか分からんからな追々や。」
「でも…。」
困った表情を見せるニュンに対し、ケンケーンは平然としていつもの宿の中へと入っていく。
「いずれの話や。とりあえずは今日のお仕事を頑張らないとな。」
「そうですね。その時に考えましょう。」
中へ入ると2人の帰りを待っていたように女将が血相を変えて現れた。
「ニュン、アンタの里。大変な事になってるみたいだよ。」
なぜか先ほどから鼻がむず痒く、すんすんと鼻を鳴らしている。
「どうしたんですか。」
「いぁ、さっきから鼻が…。どうせ商会の奴らが噂してんやろ。」
口を尖らせて悪態をつく。
ニュンがそれを見て笑っている。
「良い噂なら良いですね。」
「あいつ等の事や、悪い噂に決まっとる。」
とここで堪らずクシャミをする。
「皆さん、何をされてる方なんですか。」
例えばという話をしようとメンバーの顔を思い出してみる。
しかし、説明する適当な言葉が見つからず簡単な返事で済ませてしまった。
「色々やな。」
「そっか。でも、楽しそうですね。」
「まぁな。」
商会メンバーに対して悪態をつくケンケーンの姿を見て、少し寂しそうな顔をした。
かつて自身が住んでいた村での生活ではそうやってできる仲間に恵まれていた。
この町ではまだ知り合いが増えたに過ぎない、それだけにケンケーンのこういう姿を見てはそうしたいという憧れとかつての友人たちを思う郷愁の念が胸に去来する。
ケンケーンはそんなニュンの思いを察してか知らずか話を続ける。
「でもいつかはあいつ等にお前を紹介せんとな。」
「私をですか。」
「知り合いが増える程度のもんや損はない。」
「損得じゃなくて、私ただのお手伝いですよ。」
「あいつ等もどこで何をしてるか分からんからな追々や。」
「でも…。」
困った表情を見せるニュンに対し、ケンケーンは平然としていつもの宿の中へと入っていく。
「いずれの話や。とりあえずは今日のお仕事を頑張らないとな。」
「そうですね。その時に考えましょう。」
中へ入ると2人の帰りを待っていたように女将が血相を変えて現れた。
「ニュン、アンタの里。大変な事になってるみたいだよ。」
セビリアを出発してからニュンの表情は暗く、ただ何かを考えている様子だった。
どうにか気を紛らわせようと話題を振るケンケーンだったが、会話は途切れ途切れでその重苦しさが更に不安を呼び寄せているようにニュンは押し黙っていた。
馬車へ乗りニュンの出里へ向かう山路を行く。
1日目、2日目と経つにつれ道すが誰かとすれ違うことが少なくなってきた。
未舗装の悪い路面を車輪が押し付ける無機質な音が辺りに響いている。
木漏れ日に野鳥の鳴き声が混じって降り注いでいる。
手綱を握るケンケーンはこれが安否を気遣う道程でなければどれだけ楽しい道になった筈なのにと、状況の違いに恨めしさを覚える。
彼の心情としては、この道を行くのはもっと後、2人が最良の日を迎える間近になって訪れようと心ひそかに決意していただけに、よもやこのような事態になろうとは主の思し召しとは如何なるものかと複雑な心境だった。
鬱蒼と生い茂る木々の中を進み続け、ようやく日のあたる道へ抜けると遠くの山間に目指す村がみえてきた。
「あそこか…。」
それを見て特にどうという印象はなくどこにでもあるような長閑な村に見える。
「もうすぐ着くからな。」
馬車の窓から故郷を見るニュンに声を掛けると手綱を振り馬車を走らせる。
「みんな無事で居て…。」
村の事を思うニュンの祈りの言葉が切なく森の中へと消えていった。
どうにか気を紛らわせようと話題を振るケンケーンだったが、会話は途切れ途切れでその重苦しさが更に不安を呼び寄せているようにニュンは押し黙っていた。
馬車へ乗りニュンの出里へ向かう山路を行く。
1日目、2日目と経つにつれ道すが誰かとすれ違うことが少なくなってきた。
未舗装の悪い路面を車輪が押し付ける無機質な音が辺りに響いている。
木漏れ日に野鳥の鳴き声が混じって降り注いでいる。
手綱を握るケンケーンはこれが安否を気遣う道程でなければどれだけ楽しい道になった筈なのにと、状況の違いに恨めしさを覚える。
彼の心情としては、この道を行くのはもっと後、2人が最良の日を迎える間近になって訪れようと心ひそかに決意していただけに、よもやこのような事態になろうとは主の思し召しとは如何なるものかと複雑な心境だった。
鬱蒼と生い茂る木々の中を進み続け、ようやく日のあたる道へ抜けると遠くの山間に目指す村がみえてきた。
「あそこか…。」
それを見て特にどうという印象はなくどこにでもあるような長閑な村に見える。
「もうすぐ着くからな。」
馬車の窓から故郷を見るニュンに声を掛けると手綱を振り馬車を走らせる。
「みんな無事で居て…。」
村の事を思うニュンの祈りの言葉が切なく森の中へと消えていった。
村へ到着すると、ニュンに案内され1軒の家の前で馬車を停めた。
すると、飛び降りるようにニュンが懐かしの家へ駆けて行く。
「みんな大丈夫?」
「おや…ニュン。お帰り。」
そこに野良仕事を終えた父親が戻ってきた。
「この町に似合わない馬車があると思えばお前だったか。」
「なに悠長な事を言ってるの。世話になってる女将さんに聞いたわ、村が襲われたって。」
娘の言葉を聞いた父親は何の事を言っているのかと首を傾げたが、思い当たる節が脳裏に浮かぶと軽く笑い始めた。
「ははは。クマが出たという話か、襲われたのは村の家畜が2・3頭だ。」
父親の返事に娘はぽかんとする。
「それに誰も怪我もしていないし。どこかで話が膨らんでしまったんだな。まぁ良い、そのお陰で便りの少ない娘がこうやって戻ってきてくれたんだ。」
「んもう。お休み貰って戻ってきたのに…。」
愛娘との再会を喜ぶ父親は例えようのない笑顔を見せている。
一方、とんだ骨折り損になってしまったニュンだったが、皆の無事を知り今は安堵の表情を浮かべている。
「ところでニュン。後ろの方は…。」
父親の視線がケンケーンへと向けられた。
うすうすは感じ取っているようだが、改めて娘に尋ねている。
「いつもお世話になっているケンケーンさんよ。ここまで送っていただいたの。」
ニュンはこの場での名言を避けた。
しかしそれを見抜けぬ父親ではなかったが、そこはあえて問いただそうとはしなかった。
「そうか。ケンケーンさん、不出来な娘がご迷惑を…。何もない山村ですがごゆっくりしていってください。」
そう言って握手を求めた。
ケンケーンもそれに応じる。
父親の手はごつごつとして力強く父親としての尊厳を示すには十分な手だった。
「ありがとうございます。」
「どうぞ中へ。さぁ、ニュンご案内して。」
「はいっ。ケンケーンさんどうぞ私の家へ。」
促されるままに客人として招かれた。
それに対し素直に応じるケンケーンだったが、このやり取りの最中、ニュンの父親が何度か咳き込んでいた事が妙に気に掛かっていた。
すると、飛び降りるようにニュンが懐かしの家へ駆けて行く。
「みんな大丈夫?」
「おや…ニュン。お帰り。」
そこに野良仕事を終えた父親が戻ってきた。
「この町に似合わない馬車があると思えばお前だったか。」
「なに悠長な事を言ってるの。世話になってる女将さんに聞いたわ、村が襲われたって。」
娘の言葉を聞いた父親は何の事を言っているのかと首を傾げたが、思い当たる節が脳裏に浮かぶと軽く笑い始めた。
「ははは。クマが出たという話か、襲われたのは村の家畜が2・3頭だ。」
父親の返事に娘はぽかんとする。
「それに誰も怪我もしていないし。どこかで話が膨らんでしまったんだな。まぁ良い、そのお陰で便りの少ない娘がこうやって戻ってきてくれたんだ。」
「んもう。お休み貰って戻ってきたのに…。」
愛娘との再会を喜ぶ父親は例えようのない笑顔を見せている。
一方、とんだ骨折り損になってしまったニュンだったが、皆の無事を知り今は安堵の表情を浮かべている。
「ところでニュン。後ろの方は…。」
父親の視線がケンケーンへと向けられた。
うすうすは感じ取っているようだが、改めて娘に尋ねている。
「いつもお世話になっているケンケーンさんよ。ここまで送っていただいたの。」
ニュンはこの場での名言を避けた。
しかしそれを見抜けぬ父親ではなかったが、そこはあえて問いただそうとはしなかった。
「そうか。ケンケーンさん、不出来な娘がご迷惑を…。何もない山村ですがごゆっくりしていってください。」
そう言って握手を求めた。
ケンケーンもそれに応じる。
父親の手はごつごつとして力強く父親としての尊厳を示すには十分な手だった。
「ありがとうございます。」
「どうぞ中へ。さぁ、ニュンご案内して。」
「はいっ。ケンケーンさんどうぞ私の家へ。」
促されるままに客人として招かれた。
それに対し素直に応じるケンケーンだったが、このやり取りの最中、ニュンの父親が何度か咳き込んでいた事が妙に気に掛かっていた。
(続く)