「航跡の価値」
ケンケーンは喉まで出掛かっている言葉をぐっと押し込むようにグラスのブランデーを押し込んだ。セビリアの小さな酒場、その1テーブルで語るには余りにも重過ぎる内容に上手く会話を続けることが出来ないでいる。目の前に座る銀髪の女性は落ち着いた様相とは別にその口から紡ぎ出されている台詞は彼の心情を押し沈めるに十分だった。
酒場の中は2人の重苦しい雰囲気とは裏腹に時間が経つにつれてゆっくりと賑やかさを増し始めている。重く響く男の笑い声、忙しく店内を駆け回る店員が矢継ぎ早に繰り出される注文を必死でこなし、厨房は額に汗を滲ませた料理長が怒声に近い言葉で指示を出している、看板娘は彼女を口説こうとしている男達の話を上手く受け流しながら笑っている。本来ならケンケーンもそういった中で今日の憂さを晴らす為に楽しい酒を呷るはずだった、しかし現状は酒の味も分からないほど深刻な状況と思える場面に対象の女性から目を逸らしていた。
「いっそ野に下ろうかと思ってるの…」
今までの酔いが全て吹き飛ぶような言葉を聞いて、ケンケーンのグラスを持つ手が止まる。
「振り返ってみれば、もう商会は勝手に動けるほどまでに成長したし…」
女性の眼差しは空ろで寂し気にテーブルに落とされている、事あるたびに何かと賑やかな人がこれほどまでに萎れられるのかとケンケーンは少し躊躇している。
「私が何をしてきたわけでもないけどね」
ゆっくりと酒を呷る彼女のペースはいつもより確実に酒量を越えている。注文する酒がそのアルコール度数を上げている。到底付き合いきれないと自らはいつも通りのペースを守らねばと自答しつつ、一挙手一投足が長く感じられるこの雰囲気では飲まずに間を持たせられなかった。
「あっと言う間に時間が過ぎて、素晴らしい方々が商会に来てくれて。皆が我先にと口を開いていた時期が懐かしいわね。」
頬杖着くような視線は一度も正面に座るケンケーンに向けられていなかった、彼女自身の後ろめたさというか自信の喪失感を体現するように両肩に力はなく頬杖だけがその身を辛うじて支えているように映る。
ケンケーンが返す言葉を聞いているのかいないのか、目前の女性は滔滔と言葉を連ねている。
この酒場の喧騒でさえ、彼女の耳には届いていないのかもしれない。しかし、逆にそれは時折彼女から発せられる独り言をかき消すには十分なほどの賑わいでもあった。
「ここ最近、ずっと思ってるの。ここに私の場所は無くなったとね…」
心情を全て吐露するには静か過ぎる口調で女性はさらに続ける。
「後進を止める愚を犯すほどの大罪はないの、私の存在価値はもう終わったのよ…」
ヒステリックなまでに言葉が過激になっていく、ただ感情の昂ぶりがそうさせているのでは無いことを証明すように女性は溜息を混じらせている。
そして女性のその言葉をきっかけにテーブルは言い例えようのない静寂と沈黙に支配された。
どれくらいの時間が経過しただろう、刹那の時間でも千秋のように感じられる時間を2人はただ目の前にあるボトルを注いでは喉に押し込むだけに費やしている。
「俺はね、アンレが羨ましいよ。」
重苦しい雰囲気を押し破ったのはケンケーンの言葉だった。
「アンレの存在ほどこの商会で重要な役割はないんやで。」
ケンケーンの言葉を聞くほどでもないような様子でアンレーデの視線はテーブルに落ちたままにグラスを見ている。
「緩衝帯って言うのかな、皆アンレが居るから蟠り無く過ごせてるんやで。」
取り繕うような言葉だと決め付けるように、アンレーデは動かない。
「アンレのポジションは他の誰にも務まらない、俺はそんなアンレの人間性が羨ましいよ。」
ケンケーンは自分に目を合わせず身動ぎしないアンレーデを逆に見つめながらこの女性の凍てついた状況を打開しようと慎重に言葉を選びながら話しかける。
「アンレの言う通り、商会が一人歩きし始めたのかもしれへんけど。それはトーレスを始め、ライラ、アンレ、イザナミの上層がしっかりしてた結果やんか。」
その言葉を聞いたアンレーデは、グラス持つ手をテーブルに叩きつけるようにしてケンケーンへと向き直った。
「上層ですって?発足に立ち会ったメンバーがそんなに特別なの?皆、国で何かしらの柵を受けているのに商会の中でも上下関係を求めるの?!」
「い、いや…それは…」
「私のポジション?当事者になれば誰だって出来るわよ、それが何?皆と楽しく過ごすって事が罪なの?」
アンレーデの激昂したような口調、ケンケーンが初めて聞くほどの語気だった。
「それは考えすぎやで、皆楽しくやってる。俺はこの商会ほど楽しい所はないと思ってるで、それは何よりこの商会が持つ雰囲気それはこの商会が当初から持ってるもの全てが素晴らしいからだと思うで。」
目前に座る女性の勢いを殺ぐような冷静な口調をケンケーンは保っている。そしてアンレーデの反論を制するように続ける。
「まぁ聞け。今の商会の状況はアンレを含む全てが条件として動いてるんや。俺はこの商会が好きや、俺はその商会を守るためアンレの意見を真っ向から否定する。そう何があってもだ!」
思わずテーブルを叩き、その音に驚いた周囲の視線が向けられる。しかし、その状況を見た店の客はぱっと見てしがない痴話喧嘩かと再び自らの酒を楽しむ時間に戻っている。
「すまない、つい大きな声を…」
「…そうね…」
「非礼は詫びる、しかし、俺の言葉は他の皆の言葉だと思って欲しい」
「…そうね、私はこの身に注ぐ愛情と火の粉をと間違っていたのかしらね。」
かすれ消えそうな声、そしてグラスを持つ手が少し震えている。
「なんか、最近泣いてばかりだわ…悔しいね、どうしてこんなに弱いのかしら」
必死に堪えようとすればするほどに、彼女の視界が潤み滲んでゆく。
女性の涙は男を黙らせる最大の武器になる、しかし、ケンケーンはそれに負ける事無く口を開く。
「アンレ。こうやって、飲むことが誰とできるって言うんや。な、良い商会やんか、もうちょい皆とがんばってみようや。」
アンレーデは俯いたままで何かを耐えている、いつもは颯爽と風を切る肩も弱々しく落ちている。そして、テーブルには再び沈黙が訪れた。
時間にして数分、今度はアンレーデからそれを打ち消した。
「頑張れか…脆い言葉だけどこんなに力強い言葉だとは思いもしなかったわ。」
濡れた目尻を指で押さえながら、ようやく顔を上げたアンレーデはグラスに残る酒を飲み干す。その面持ちには何かを諦め、決意した事を十分に示すほどいつも通りの表情を浮かべている。
ケンケーンはそんな表情を確認すると、課せられた重荷がどっと降りたように軽くなった手でグラスを持ち直す。
「蟠り、柵、大いに結構。こうやって酒が美味けりゃ、明日は良い日になるって。」
いつの間にか自分の許容量を越えているはずの酒の最後を流し込む、妙に乾いた喉に酒が絡むように落ちてゆく。その余韻を感じながらいつの間にか満席になっている店内を見渡す。客の様子からするに日が暮れてまだそれほどの時間が経っていないように見える。しかし、ケンケーンには一晩使ったような疲労感があった。
「ケン、すまなかったわね。私の為に無駄な時間を使わせてしまって。」
「なぁに、普段アンレには世話になっとるからな。」
「ふふふ。日が暮れたわね、家で待ってる彼女さんに悪い事したわね。こんな場面を見られたら違う修羅場が出来上がるわね。」
「まったくだ。」
ようやく訪れた笑顔には互いに曇るところがなかった。
「ケンありがとうね。お礼はここの勘定を持つことしかできないけどね。」
ケンケーンはただ笑っているだけだった。軽い沈黙が今のアンレーデには嬉しく思える。
2人は揃って店を出た、外は家路を急ぐ人の往来が増えている。驚くほどに時間が経っていない事に互いが笑っている。そんな2人のすぐ近く、恐らく家へ戻ろうとする子供が足元を滑らせて転倒するや、大きな声を出して泣き始めた。
「ふぅ、今日は泣く場面に良く遭遇するな」
ケンケーンが独り言と共にアンレーデが居た方を見ると、そこは誰も居なかった。
「ほら、泣かないの。どこも怪我してないわ、大丈夫よ。」
泣く子を優しく宥めながら、アンレーデはポケットからコインを取り出す。
「これで、お菓子を買ってご機嫌で帰りなさい。泣き顔で帰ると家の人が心配するわ。」
「うん…うん。ありがとお姉さん」
「もぅ転んじゃだめよ。」
お辞儀して走り去る子供を見送りくるりと向きを変えるとすぐ後ろにケンケーンが立っている。その顔は妙ににやけている。
「なによ?」
「いぁ~、アンレも女らしいところがあるんやなとな生態観察中や」
意地悪そうに眼鏡を押し上げる素振りを見せる。
「うるさいわねっ」
不貞腐れたような顔を見せアンレーデはケンケーンを背にするように振り返る。
「なぁ、アンレ。俺にもあんな風に優しくしてくれると有り難いが?」
「言う相手が違うんじゃないの?アンタの大切な人に言いなさい。」
「そんなん言うたら殺されるで…」
「じゃ、私と2人で居るこの場面を見せると大変な事になるのかしら?」
「多分な…」
店の中での経緯が嘘のように穏やかな2人の元にバーヌースの布擦れする音が近寄ってくる。
「ケンっ、久しぶりだなっ」
不意打ちを喰らい、驚きの表情で振り返った所に1人の男が立っている。
「ありゃ、シッドやんか。」
「こんな美しい女性を口説くとは…お前も身持ちが軽くなったもんだ。それがケンケーンクオリティか?」
眼鏡の奥に潜む切れ長の瞳、赤い髪を後ろへ梳き流しただけのような風貌、加えての長身ゆったりとしたバーヌースの衣装からも分かる軍人としての雰囲気を漂わせている。
「ちゃうわっ。俺が大切なのは只1人や!それにこの御方を口説くと後が大変な事に…」
「なにが大変なのかしらね。初めましてシッド、連絡は受けてたわ、副代表のアンレーデと申します。」
握手する手には冒険家とは違う感触が伝わってくる。それはF・トーレスと同じく剣を握り続けた手の感触だとアンレーデは確信した。
背筋にぞくりと来る、それは彼女が今までに数人から味わった直感的な信号だった。
「え?シッドが?ホンマか?」
「腐れ縁のようだな。なにか悪さしてないか?スグにでも撃ち沈めてやるが?」
「お気遣いは無用や。爽やか系な俺には悪事なんて似合わんからな」
「さて、どうやら…」
不適な笑みを浮かべて両者が向かい合う。
傍から見ているアンレーデには圧倒的シッド有利に見える、シッドの実力の程は何もしらないが、感じ取れる何かがそう言わせていた。
「ま、今日のところは勘弁しといてやるわ。シッド、命拾いしたな。」
「ほぉ…まぁ、俺も忙しい身だからな。また後日改めるとしよう。」
そう言うなり、2人に敬礼するとシッドはその足を夜の港へと向けた。
「あれじゃ、勝負にならないわね。」
「まぁな、トーレスでさえ敵わないヤツやからな。」
「世の女性が黙ってないでしょうね、良い男だわ。」
「俺よりもか?」
アンレーデはそれは言わなくても分かるだろうという仕草をして見せる。
「へいへい、俺は百万の女性にフラれてもアイツが居れば十分さ。」
「お惚気ごちそうさま。」
朧月夜に延びる2つの影は挨拶らしい動作を石畳に映すと、それぞれに別れていった。セビリアの街中は昼の喧騒とは違い、そこらかしこから聞こえる酒の声が薄く響いている。世の憂さと悲しみ、喜びを全て飲み込むように更けてゆく夜はまだ序章の余韻を残していた。
酒場の中は2人の重苦しい雰囲気とは裏腹に時間が経つにつれてゆっくりと賑やかさを増し始めている。重く響く男の笑い声、忙しく店内を駆け回る店員が矢継ぎ早に繰り出される注文を必死でこなし、厨房は額に汗を滲ませた料理長が怒声に近い言葉で指示を出している、看板娘は彼女を口説こうとしている男達の話を上手く受け流しながら笑っている。本来ならケンケーンもそういった中で今日の憂さを晴らす為に楽しい酒を呷るはずだった、しかし現状は酒の味も分からないほど深刻な状況と思える場面に対象の女性から目を逸らしていた。
「いっそ野に下ろうかと思ってるの…」
今までの酔いが全て吹き飛ぶような言葉を聞いて、ケンケーンのグラスを持つ手が止まる。
「振り返ってみれば、もう商会は勝手に動けるほどまでに成長したし…」
女性の眼差しは空ろで寂し気にテーブルに落とされている、事あるたびに何かと賑やかな人がこれほどまでに萎れられるのかとケンケーンは少し躊躇している。
「私が何をしてきたわけでもないけどね」
ゆっくりと酒を呷る彼女のペースはいつもより確実に酒量を越えている。注文する酒がそのアルコール度数を上げている。到底付き合いきれないと自らはいつも通りのペースを守らねばと自答しつつ、一挙手一投足が長く感じられるこの雰囲気では飲まずに間を持たせられなかった。
「あっと言う間に時間が過ぎて、素晴らしい方々が商会に来てくれて。皆が我先にと口を開いていた時期が懐かしいわね。」
頬杖着くような視線は一度も正面に座るケンケーンに向けられていなかった、彼女自身の後ろめたさというか自信の喪失感を体現するように両肩に力はなく頬杖だけがその身を辛うじて支えているように映る。
ケンケーンが返す言葉を聞いているのかいないのか、目前の女性は滔滔と言葉を連ねている。
この酒場の喧騒でさえ、彼女の耳には届いていないのかもしれない。しかし、逆にそれは時折彼女から発せられる独り言をかき消すには十分なほどの賑わいでもあった。
「ここ最近、ずっと思ってるの。ここに私の場所は無くなったとね…」
心情を全て吐露するには静か過ぎる口調で女性はさらに続ける。
「後進を止める愚を犯すほどの大罪はないの、私の存在価値はもう終わったのよ…」
ヒステリックなまでに言葉が過激になっていく、ただ感情の昂ぶりがそうさせているのでは無いことを証明すように女性は溜息を混じらせている。
そして女性のその言葉をきっかけにテーブルは言い例えようのない静寂と沈黙に支配された。
どれくらいの時間が経過しただろう、刹那の時間でも千秋のように感じられる時間を2人はただ目の前にあるボトルを注いでは喉に押し込むだけに費やしている。
「俺はね、アンレが羨ましいよ。」
重苦しい雰囲気を押し破ったのはケンケーンの言葉だった。
「アンレの存在ほどこの商会で重要な役割はないんやで。」
ケンケーンの言葉を聞くほどでもないような様子でアンレーデの視線はテーブルに落ちたままにグラスを見ている。
「緩衝帯って言うのかな、皆アンレが居るから蟠り無く過ごせてるんやで。」
取り繕うような言葉だと決め付けるように、アンレーデは動かない。
「アンレのポジションは他の誰にも務まらない、俺はそんなアンレの人間性が羨ましいよ。」
ケンケーンは自分に目を合わせず身動ぎしないアンレーデを逆に見つめながらこの女性の凍てついた状況を打開しようと慎重に言葉を選びながら話しかける。
「アンレの言う通り、商会が一人歩きし始めたのかもしれへんけど。それはトーレスを始め、ライラ、アンレ、イザナミの上層がしっかりしてた結果やんか。」
その言葉を聞いたアンレーデは、グラス持つ手をテーブルに叩きつけるようにしてケンケーンへと向き直った。
「上層ですって?発足に立ち会ったメンバーがそんなに特別なの?皆、国で何かしらの柵を受けているのに商会の中でも上下関係を求めるの?!」
「い、いや…それは…」
「私のポジション?当事者になれば誰だって出来るわよ、それが何?皆と楽しく過ごすって事が罪なの?」
アンレーデの激昂したような口調、ケンケーンが初めて聞くほどの語気だった。
「それは考えすぎやで、皆楽しくやってる。俺はこの商会ほど楽しい所はないと思ってるで、それは何よりこの商会が持つ雰囲気それはこの商会が当初から持ってるもの全てが素晴らしいからだと思うで。」
目前に座る女性の勢いを殺ぐような冷静な口調をケンケーンは保っている。そしてアンレーデの反論を制するように続ける。
「まぁ聞け。今の商会の状況はアンレを含む全てが条件として動いてるんや。俺はこの商会が好きや、俺はその商会を守るためアンレの意見を真っ向から否定する。そう何があってもだ!」
思わずテーブルを叩き、その音に驚いた周囲の視線が向けられる。しかし、その状況を見た店の客はぱっと見てしがない痴話喧嘩かと再び自らの酒を楽しむ時間に戻っている。
「すまない、つい大きな声を…」
「…そうね…」
「非礼は詫びる、しかし、俺の言葉は他の皆の言葉だと思って欲しい」
「…そうね、私はこの身に注ぐ愛情と火の粉をと間違っていたのかしらね。」
かすれ消えそうな声、そしてグラスを持つ手が少し震えている。
「なんか、最近泣いてばかりだわ…悔しいね、どうしてこんなに弱いのかしら」
必死に堪えようとすればするほどに、彼女の視界が潤み滲んでゆく。
女性の涙は男を黙らせる最大の武器になる、しかし、ケンケーンはそれに負ける事無く口を開く。
「アンレ。こうやって、飲むことが誰とできるって言うんや。な、良い商会やんか、もうちょい皆とがんばってみようや。」
アンレーデは俯いたままで何かを耐えている、いつもは颯爽と風を切る肩も弱々しく落ちている。そして、テーブルには再び沈黙が訪れた。
時間にして数分、今度はアンレーデからそれを打ち消した。
「頑張れか…脆い言葉だけどこんなに力強い言葉だとは思いもしなかったわ。」
濡れた目尻を指で押さえながら、ようやく顔を上げたアンレーデはグラスに残る酒を飲み干す。その面持ちには何かを諦め、決意した事を十分に示すほどいつも通りの表情を浮かべている。
ケンケーンはそんな表情を確認すると、課せられた重荷がどっと降りたように軽くなった手でグラスを持ち直す。
「蟠り、柵、大いに結構。こうやって酒が美味けりゃ、明日は良い日になるって。」
いつの間にか自分の許容量を越えているはずの酒の最後を流し込む、妙に乾いた喉に酒が絡むように落ちてゆく。その余韻を感じながらいつの間にか満席になっている店内を見渡す。客の様子からするに日が暮れてまだそれほどの時間が経っていないように見える。しかし、ケンケーンには一晩使ったような疲労感があった。
「ケン、すまなかったわね。私の為に無駄な時間を使わせてしまって。」
「なぁに、普段アンレには世話になっとるからな。」
「ふふふ。日が暮れたわね、家で待ってる彼女さんに悪い事したわね。こんな場面を見られたら違う修羅場が出来上がるわね。」
「まったくだ。」
ようやく訪れた笑顔には互いに曇るところがなかった。
「ケンありがとうね。お礼はここの勘定を持つことしかできないけどね。」
ケンケーンはただ笑っているだけだった。軽い沈黙が今のアンレーデには嬉しく思える。
2人は揃って店を出た、外は家路を急ぐ人の往来が増えている。驚くほどに時間が経っていない事に互いが笑っている。そんな2人のすぐ近く、恐らく家へ戻ろうとする子供が足元を滑らせて転倒するや、大きな声を出して泣き始めた。
「ふぅ、今日は泣く場面に良く遭遇するな」
ケンケーンが独り言と共にアンレーデが居た方を見ると、そこは誰も居なかった。
「ほら、泣かないの。どこも怪我してないわ、大丈夫よ。」
泣く子を優しく宥めながら、アンレーデはポケットからコインを取り出す。
「これで、お菓子を買ってご機嫌で帰りなさい。泣き顔で帰ると家の人が心配するわ。」
「うん…うん。ありがとお姉さん」
「もぅ転んじゃだめよ。」
お辞儀して走り去る子供を見送りくるりと向きを変えるとすぐ後ろにケンケーンが立っている。その顔は妙ににやけている。
「なによ?」
「いぁ~、アンレも女らしいところがあるんやなとな生態観察中や」
意地悪そうに眼鏡を押し上げる素振りを見せる。
「うるさいわねっ」
不貞腐れたような顔を見せアンレーデはケンケーンを背にするように振り返る。
「なぁ、アンレ。俺にもあんな風に優しくしてくれると有り難いが?」
「言う相手が違うんじゃないの?アンタの大切な人に言いなさい。」
「そんなん言うたら殺されるで…」
「じゃ、私と2人で居るこの場面を見せると大変な事になるのかしら?」
「多分な…」
店の中での経緯が嘘のように穏やかな2人の元にバーヌースの布擦れする音が近寄ってくる。
「ケンっ、久しぶりだなっ」
不意打ちを喰らい、驚きの表情で振り返った所に1人の男が立っている。
「ありゃ、シッドやんか。」
「こんな美しい女性を口説くとは…お前も身持ちが軽くなったもんだ。それがケンケーンクオリティか?」
眼鏡の奥に潜む切れ長の瞳、赤い髪を後ろへ梳き流しただけのような風貌、加えての長身ゆったりとしたバーヌースの衣装からも分かる軍人としての雰囲気を漂わせている。
「ちゃうわっ。俺が大切なのは只1人や!それにこの御方を口説くと後が大変な事に…」
「なにが大変なのかしらね。初めましてシッド、連絡は受けてたわ、副代表のアンレーデと申します。」
握手する手には冒険家とは違う感触が伝わってくる。それはF・トーレスと同じく剣を握り続けた手の感触だとアンレーデは確信した。
背筋にぞくりと来る、それは彼女が今までに数人から味わった直感的な信号だった。
「え?シッドが?ホンマか?」
「腐れ縁のようだな。なにか悪さしてないか?スグにでも撃ち沈めてやるが?」
「お気遣いは無用や。爽やか系な俺には悪事なんて似合わんからな」
「さて、どうやら…」
不適な笑みを浮かべて両者が向かい合う。
傍から見ているアンレーデには圧倒的シッド有利に見える、シッドの実力の程は何もしらないが、感じ取れる何かがそう言わせていた。
「ま、今日のところは勘弁しといてやるわ。シッド、命拾いしたな。」
「ほぉ…まぁ、俺も忙しい身だからな。また後日改めるとしよう。」
そう言うなり、2人に敬礼するとシッドはその足を夜の港へと向けた。
「あれじゃ、勝負にならないわね。」
「まぁな、トーレスでさえ敵わないヤツやからな。」
「世の女性が黙ってないでしょうね、良い男だわ。」
「俺よりもか?」
アンレーデはそれは言わなくても分かるだろうという仕草をして見せる。
「へいへい、俺は百万の女性にフラれてもアイツが居れば十分さ。」
「お惚気ごちそうさま。」
朧月夜に延びる2つの影は挨拶らしい動作を石畳に映すと、それぞれに別れていった。セビリアの街中は昼の喧騒とは違い、そこらかしこから聞こえる酒の声が薄く響いている。世の憂さと悲しみ、喜びを全て飲み込むように更けてゆく夜はまだ序章の余韻を残していた。
あくる朝、1隻の船がインドへ向かうべくセビリアを出航した。
少し白波立つ水面を押し分けて西南西へと進んで行く、順風満帆の言葉通りしっかりと風を受け止めた帆はその姿を見せびらかすように澄み切った青空に美しく栄える。瞬く間とは大げさな表現だが、すでにセビリアの港が小さく見えるほど沖合いまで進んでいる、振り返る先には今、出てきたばかりの港へ大小を問わない船が忙しく出入りする。
船中は扱いに慣れた余裕を思わせる靴音が響く、当然のようにその中にはこの船の提督のものも含まれている。ただ彼は何を支持することもなく船員達の動きを確かめると悠然と航路の先をもっとも確認しやすい場所へと移動する。
遠く離れた街までの航路は今までに両手に余る以上の回数を往復した、しかしそのどれもが安寧としたものではなかった。過去の災害を数えるのも馬鹿馬鹿しいとも思えるが、自然の驚異、人災、疫病等遠路になればなるほど自らが藻屑になりかねないものばかりが増えていた。
「まぁ、今回も易々とはいかないだろうな…」
提督として不安な材料は全て取り払うよう勤めているが、何が起こる分からないからこそその重責は測るに十分すぎると自らに言い聞かせるように呟く。
振り向きざまにかけている眼鏡が日の光を反射させる。静かに足音を響かせながら船中へ戻るその甲板には統制のとれた船員達の影が絶え間なく映り込んでいた。
少し白波立つ水面を押し分けて西南西へと進んで行く、順風満帆の言葉通りしっかりと風を受け止めた帆はその姿を見せびらかすように澄み切った青空に美しく栄える。瞬く間とは大げさな表現だが、すでにセビリアの港が小さく見えるほど沖合いまで進んでいる、振り返る先には今、出てきたばかりの港へ大小を問わない船が忙しく出入りする。
船中は扱いに慣れた余裕を思わせる靴音が響く、当然のようにその中にはこの船の提督のものも含まれている。ただ彼は何を支持することもなく船員達の動きを確かめると悠然と航路の先をもっとも確認しやすい場所へと移動する。
遠く離れた街までの航路は今までに両手に余る以上の回数を往復した、しかしそのどれもが安寧としたものではなかった。過去の災害を数えるのも馬鹿馬鹿しいとも思えるが、自然の驚異、人災、疫病等遠路になればなるほど自らが藻屑になりかねないものばかりが増えていた。
「まぁ、今回も易々とはいかないだろうな…」
提督として不安な材料は全て取り払うよう勤めているが、何が起こる分からないからこそその重責は測るに十分すぎると自らに言い聞かせるように呟く。
振り向きざまにかけている眼鏡が日の光を反射させる。静かに足音を響かせながら船中へ戻るその甲板には統制のとれた船員達の影が絶え間なく映り込んでいた。
提督室での仕事は比較的容易に片付いてしまう、過去に通った航路を辿るようにその計画を立てるだけで大半が終了していると言っても過言ではなかった。これが今と異なる目的の旅路ならば様々な書類に忙殺される所、交易に関しては作成する書類も比較的穏やかな量で済むのが彼にとっては有り難いことだった。時に冒険家の事情を聞く事もあるが、そんな時には、「優秀な副官を雇うさ」と一笑していた。
船はマディラ沖へと進入し、予定通り一気に進路を南へ取る、無寄港航路としてはこれから先数十日間、陸を見ることもなくただ広大に広がる海だけの世界に入る。島影がゆっくりと離れてゆく、当然といえば当然の如くこれまで何の心配も憂慮もトラブルも無く距離を進めている。
椅子にどっかりと座る提督もどこか面白味に欠けるといったような雰囲気で窓外の景色を眺めている。無論、そこは何の代わり映えのない360度を海水に囲まれただけの景色が続いているだけであった。
「トーレスの作った商会だけにどんな際物が居るのかと思えば…」
口元に薄っすらと笑みを浮かべて昨日の出来事を思い起こす。西アフリカ特有の波具合を示すように船の軋み音が変化する。小刻みに変化する風向きを手玉に取るように帆を繰る船員達の声がかすかに聞こえてくる。船は躊躇い無く白い航跡を残しながら南へ向かって進み続けている。
船はマディラ沖へと進入し、予定通り一気に進路を南へ取る、無寄港航路としてはこれから先数十日間、陸を見ることもなくただ広大に広がる海だけの世界に入る。島影がゆっくりと離れてゆく、当然といえば当然の如くこれまで何の心配も憂慮もトラブルも無く距離を進めている。
椅子にどっかりと座る提督もどこか面白味に欠けるといったような雰囲気で窓外の景色を眺めている。無論、そこは何の代わり映えのない360度を海水に囲まれただけの景色が続いているだけであった。
「トーレスの作った商会だけにどんな際物が居るのかと思えば…」
口元に薄っすらと笑みを浮かべて昨日の出来事を思い起こす。西アフリカ特有の波具合を示すように船の軋み音が変化する。小刻みに変化する風向きを手玉に取るように帆を繰る船員達の声がかすかに聞こえてくる。船は躊躇い無く白い航跡を残しながら南へ向かって進み続けている。
カナリア沖、穀物海岸沖を抜け南太平洋から喜望峰沖を越えてもなお順調な航海は続きアラガス岬沖を抜けたモザンビーク海峡エリアをマダガスカル島の東を通るような航路ととりながら船の進路を北北東へと調整する。
「さて、これからが一番大変だな…」
ザンジバル沖からカリカットを結ぶ航路は海賊行為が頻発すると航海者間では有名な航路だった、しかし、その危険を冒してでも選択する価値を見出す商船は後を切る事は無い。
カリカットーザンジバルを結ぶ線と船の針路が交差する地点へと近づくにつれて、船内に見えない緊張が走る、誰もがいつでもそうなる可能性があると自覚しているとその目元はいつしか厳しいものへと変化している。
「さぁさぁ、目的地までもう少しだ。なぁに幸運の女神は俺たちを見捨てたりはしない。陸に上がればささやかな幸せと泣きたくなるような美味い酒が待っているぞ。」
いつもと変わらない口調で船中を鼓舞する。適度な緊張こそ普段以上の実力を発揮するとは言え、下手な力みに変わればミスの元凶にもなりかねない。そんな紙一重のギャンブルを好むほどインドの海は優しい所とは言えなかった。そしてもっとも危険な海域へと船は寡黙に進入する。
「さて、これからが一番大変だな…」
ザンジバル沖からカリカットを結ぶ航路は海賊行為が頻発すると航海者間では有名な航路だった、しかし、その危険を冒してでも選択する価値を見出す商船は後を切る事は無い。
カリカットーザンジバルを結ぶ線と船の針路が交差する地点へと近づくにつれて、船内に見えない緊張が走る、誰もがいつでもそうなる可能性があると自覚しているとその目元はいつしか厳しいものへと変化している。
「さぁさぁ、目的地までもう少しだ。なぁに幸運の女神は俺たちを見捨てたりはしない。陸に上がればささやかな幸せと泣きたくなるような美味い酒が待っているぞ。」
いつもと変わらない口調で船中を鼓舞する。適度な緊張こそ普段以上の実力を発揮するとは言え、下手な力みに変わればミスの元凶にもなりかねない。そんな紙一重のギャンブルを好むほどインドの海は優しい所とは言えなかった。そしてもっとも危険な海域へと船は寡黙に進入する。
「ふん、着いてしまえば余計な気苦労だな。」
ゴアの港へと降り立った男は軽い溜息と共に呟く。
海賊は歓迎するものではないが、平穏すぎる航路も退屈だと言わんばかりの表情を顔に浮かべている。
慣れた足取りで街路を右へ左へと進む、時折、彼の顔を見つけては挨拶する人々に丁寧に返事しながら街役場へ辿り着く。
「しばらく。相場はどうだい?」
勝手知ったる他人の家の如く、普段話を始める。
「これはシッド卿、お久しぶりで。」
恐らくこの建物の中で一番偉い人と思われる人物が歩み寄ってくる。
通された執務室で2人は何気ない話を続けている。
「景気はボチボチといった所ですか。お目当ての品は最近安定しているようですな。」
帳面をめくりながら、最近の相場動向を確認しながら役人の話は続く。
「少し前に大掛かりな掃討作戦がありましてな、欧州の…そうイスパニアとか言う国の方が頑張られたようですよ。」
「ほぅ」
「そのお陰か、不穏な輩もセイロン方面へ追いやられたようですな…」
その言葉にぴくりと手が反応する。帳簿を見ている役人はそれに気付いていないものの明らかに動揺の仕草がそこに見えた。
このシッドと名乗る人物はこの街では5指に入る投資家であった。知る人ぞ知るという域を超えて知らぬ人を探す方が難しいほどの知名人であった。
街役場を出ると、その足は交易所へ向けられる。
「しかし、セイロン方面はちとヤバくねーか?」
この後、セイロンへと向かう予定だったシッドは呆れた表情でその足取りを保つ。
「掃討作戦って、あのトーレスもやったんか?」
交易所までの道中、イスパニアの行った掃討作戦の是非を自らに問う。
「どちらにせよ、迷惑な話だ…ったく。」
バーヌースが擦れる音もどことなく荒々しく感じる。心の動揺は交易所でも落ち着いている様子は無かった、さっと流し書くようなサインの乱れはその表情には表れないものが見て取れる。数枚の書類を仕上げると一直線に港へと急ぐ。
港は多国籍の船が所狭しと係留されている中の一隻へと足早に駆け上がる。
「おぃ、上のモンを集めてくれ。あぁ急ぎだ、降りてるヤツは探して来い。」
苛立った口調を隠す素振りを見せない声が船内に響く、洋上では静かな提督が見せる荒々しい語気に言い知れぬ緊張感が走る。そしてその緊張は彼らの本来の姿を蘇らせるに十分だった。
「これは一戦あるかもしれないな。」
率直な思いが乗組員の口から漏れる、ただその表情は妙に落ち着き払っている。そして、互いにそれを否定しない会話が終わると皆はそれぞれの持ち場に戻る。恐らく出航は3日後、それがシッドがこの街に留まる平均日数だったからだ。
厳しい顔で自室へと戻るシッド、ポルトガル国籍の彼にはイスパニアが行った事をとやかく非難することに躊躇いはないものの、今回の一件は躊躇いよりも腹立たしさが先行する嫌な出来事だった。
「やれやれ、面倒事は御免いただきたいんだがな。」
クローゼットの傍に整理されている甲冑の方をチラリと見る。甲冑は鈍い光をその身に浴びて沈黙を守っている。物言わぬ相手を見つめながら大きな溜息を天井へ投げる、遠くに聞こえる呼びつけた船員の声が聞こえてくる。
これからの対応を早急に片付けることが先手を取るためには必須とそのまま会議へ入る。
「さてっ、真に喜ばしい事態が発生した。」
皆の予想を裏切る言葉で会議は始まった。
ゴアの港へと降り立った男は軽い溜息と共に呟く。
海賊は歓迎するものではないが、平穏すぎる航路も退屈だと言わんばかりの表情を顔に浮かべている。
慣れた足取りで街路を右へ左へと進む、時折、彼の顔を見つけては挨拶する人々に丁寧に返事しながら街役場へ辿り着く。
「しばらく。相場はどうだい?」
勝手知ったる他人の家の如く、普段話を始める。
「これはシッド卿、お久しぶりで。」
恐らくこの建物の中で一番偉い人と思われる人物が歩み寄ってくる。
通された執務室で2人は何気ない話を続けている。
「景気はボチボチといった所ですか。お目当ての品は最近安定しているようですな。」
帳面をめくりながら、最近の相場動向を確認しながら役人の話は続く。
「少し前に大掛かりな掃討作戦がありましてな、欧州の…そうイスパニアとか言う国の方が頑張られたようですよ。」
「ほぅ」
「そのお陰か、不穏な輩もセイロン方面へ追いやられたようですな…」
その言葉にぴくりと手が反応する。帳簿を見ている役人はそれに気付いていないものの明らかに動揺の仕草がそこに見えた。
このシッドと名乗る人物はこの街では5指に入る投資家であった。知る人ぞ知るという域を超えて知らぬ人を探す方が難しいほどの知名人であった。
街役場を出ると、その足は交易所へ向けられる。
「しかし、セイロン方面はちとヤバくねーか?」
この後、セイロンへと向かう予定だったシッドは呆れた表情でその足取りを保つ。
「掃討作戦って、あのトーレスもやったんか?」
交易所までの道中、イスパニアの行った掃討作戦の是非を自らに問う。
「どちらにせよ、迷惑な話だ…ったく。」
バーヌースが擦れる音もどことなく荒々しく感じる。心の動揺は交易所でも落ち着いている様子は無かった、さっと流し書くようなサインの乱れはその表情には表れないものが見て取れる。数枚の書類を仕上げると一直線に港へと急ぐ。
港は多国籍の船が所狭しと係留されている中の一隻へと足早に駆け上がる。
「おぃ、上のモンを集めてくれ。あぁ急ぎだ、降りてるヤツは探して来い。」
苛立った口調を隠す素振りを見せない声が船内に響く、洋上では静かな提督が見せる荒々しい語気に言い知れぬ緊張感が走る。そしてその緊張は彼らの本来の姿を蘇らせるに十分だった。
「これは一戦あるかもしれないな。」
率直な思いが乗組員の口から漏れる、ただその表情は妙に落ち着き払っている。そして、互いにそれを否定しない会話が終わると皆はそれぞれの持ち場に戻る。恐らく出航は3日後、それがシッドがこの街に留まる平均日数だったからだ。
厳しい顔で自室へと戻るシッド、ポルトガル国籍の彼にはイスパニアが行った事をとやかく非難することに躊躇いはないものの、今回の一件は躊躇いよりも腹立たしさが先行する嫌な出来事だった。
「やれやれ、面倒事は御免いただきたいんだがな。」
クローゼットの傍に整理されている甲冑の方をチラリと見る。甲冑は鈍い光をその身に浴びて沈黙を守っている。物言わぬ相手を見つめながら大きな溜息を天井へ投げる、遠くに聞こえる呼びつけた船員の声が聞こえてくる。
これからの対応を早急に片付けることが先手を取るためには必須とそのまま会議へ入る。
「さてっ、真に喜ばしい事態が発生した。」
皆の予想を裏切る言葉で会議は始まった。
思いがけぬ好相場にいつもより船足が軽く感じられる。ゴアからセイロンへの航路は皆の期待を裏切るように安寧で、なにかしらの障害が予想された先にはさらに予想を裏切る宝石の買い時が待っていた。
「取り越し苦労のご褒美にしては盛大すぎるな…これから先の迷惑料とは考えたくないが。」
不機嫌とも機嫌面ともいえない表情のままで椅子に座るシッドは呆気ない進行に憮然としている。無論、事なきを得たのは彼にも船員にも有り難い事と思える反面、すこし残念だったという顔を浮かべるものも多少からず居た。
「まぁ、確かにここん所平和過ぎるのは平和すぎるが…」
近海に不穏な船が2,3隻居るという情報はセイロンの酒場で聞いてはいたが、広大な海に浮かぶ数隻が全ての出航路を絶つことなどできるはずも無く、シッドの船は悠然と出港しては既にアラガス岬沖まで進んでいる。
西欧から見て、カナリア沖、喜望峰海域、ザンジバル沖、インド洋南西のポイントが注意すべき域で、事実これまでに指折りほどの回数ではあるもののシッドもその被害者になりそうな場面に遭遇していた。洋上での敗北は限りなく死が近くなる、辛くも難を逃れてきた彼にはそんな幸運が巡っていると船内では噂していた。
「ここを越えれば後は楽ですね、今回は話のワリに取り越し苦労で終わりそうですな。」
「ん…まぁな。」
副航海長の発言にもなんとなしに応えるシッド。
「少し鬱憤の溜まった船員の捌け口が失われて残念でしたが」
「なぁに、楽に儲かるならそれが一番だ。好き好んで血を見なくても良いだろう。」
「確かに。でもこうやって楽をさせて貰えるのも提督のお陰ですよ。」
「何の話だ?」
「提督の技量こそが我々の楽さ加減だという事です。」
「何の根拠も無いな。」
「過去の実績が物語るという事ですよ。」
「過去の実績か…確かに地位や名声は実績で勝ち取れるものかも知れんがな。」
「なにやら反対意見のようで」
「俺たちにとってみれば、この先が一番大切なのだ。それは儲け云々ではなく、砲弾に生きるという訳でもなくだ。」
「はぁ。」
「つまり勲章や爵位だけでは食っていけないという事さ。」
そういって甲板に出るように促しながら部屋を出る。
「この白い航跡には何の価値もない、波に浚われいずれ消えてゆく。しかし、俺たち、いや海に生きる者全てがそれに価値を見出そうとする。過去の中に現在を求めるのは途方も無く難しい事だと思わないか?」
「提督の言葉も難しいですね。」
「現在という区切りこそ過去と未来を分ける唯一つの境界線だ、過去の栄光は未来になんの影響ももたらさない。それに胡坐をかいてしまっては自ら生きる手段を放棄する事と何ら変わりないのさ。」
そういうと副航海長を甲板に残し船中へ戻る。セイロンを出るときに帯びたままの剣が歩調に揺れている。蒼く澄み切った空にと海の狭間に吸い込まれるように進む船は、人のやり取りを無視するようにその役割を遂行し続けていた。
「取り越し苦労のご褒美にしては盛大すぎるな…これから先の迷惑料とは考えたくないが。」
不機嫌とも機嫌面ともいえない表情のままで椅子に座るシッドは呆気ない進行に憮然としている。無論、事なきを得たのは彼にも船員にも有り難い事と思える反面、すこし残念だったという顔を浮かべるものも多少からず居た。
「まぁ、確かにここん所平和過ぎるのは平和すぎるが…」
近海に不穏な船が2,3隻居るという情報はセイロンの酒場で聞いてはいたが、広大な海に浮かぶ数隻が全ての出航路を絶つことなどできるはずも無く、シッドの船は悠然と出港しては既にアラガス岬沖まで進んでいる。
西欧から見て、カナリア沖、喜望峰海域、ザンジバル沖、インド洋南西のポイントが注意すべき域で、事実これまでに指折りほどの回数ではあるもののシッドもその被害者になりそうな場面に遭遇していた。洋上での敗北は限りなく死が近くなる、辛くも難を逃れてきた彼にはそんな幸運が巡っていると船内では噂していた。
「ここを越えれば後は楽ですね、今回は話のワリに取り越し苦労で終わりそうですな。」
「ん…まぁな。」
副航海長の発言にもなんとなしに応えるシッド。
「少し鬱憤の溜まった船員の捌け口が失われて残念でしたが」
「なぁに、楽に儲かるならそれが一番だ。好き好んで血を見なくても良いだろう。」
「確かに。でもこうやって楽をさせて貰えるのも提督のお陰ですよ。」
「何の話だ?」
「提督の技量こそが我々の楽さ加減だという事です。」
「何の根拠も無いな。」
「過去の実績が物語るという事ですよ。」
「過去の実績か…確かに地位や名声は実績で勝ち取れるものかも知れんがな。」
「なにやら反対意見のようで」
「俺たちにとってみれば、この先が一番大切なのだ。それは儲け云々ではなく、砲弾に生きるという訳でもなくだ。」
「はぁ。」
「つまり勲章や爵位だけでは食っていけないという事さ。」
そういって甲板に出るように促しながら部屋を出る。
「この白い航跡には何の価値もない、波に浚われいずれ消えてゆく。しかし、俺たち、いや海に生きる者全てがそれに価値を見出そうとする。過去の中に現在を求めるのは途方も無く難しい事だと思わないか?」
「提督の言葉も難しいですね。」
「現在という区切りこそ過去と未来を分ける唯一つの境界線だ、過去の栄光は未来になんの影響ももたらさない。それに胡坐をかいてしまっては自ら生きる手段を放棄する事と何ら変わりないのさ。」
そういうと副航海長を甲板に残し船中へ戻る。セイロンを出るときに帯びたままの剣が歩調に揺れている。蒼く澄み切った空にと海の狭間に吸い込まれるように進む船は、人のやり取りを無視するようにその役割を遂行し続けていた。
(航跡の価値 終)