「航跡の価値」Ⅲ
ゴールデン・ルーヴェの集会所とその役目を変えた1軒屋の玄関先、ライラが2階から降りてくる。
「居た居た。」
礼儀正しく挨拶するF・トーレス、その後ろにはまるで世の果てから走ってきたかのかと思わせるほど激しく肩で息をする青年が一人。
「ライラさん掃除かい?」
「私も久々に来たんだけどね。最近は皆ここを使う機会がないみたいね。」
「どうだろうな。」
この一軒家、小さな庭に2階建てのさほど大きくない建物、外見から推測するに部屋数は8室ほどにみえる。生活するには何の不自由もないただ少し街中から外れているだけだった。そんな物件があると何気なく仕入れ商会員共同出資という形で購入まではいかないものの賃貸としてゴールデン・ルーヴェの集合場所となった。一時前までは建物の一室を借りていたのだが、確実に増えている商会員を抱えるには少々窮屈だと誰もが感じていた時のお得物件だったのである。「宝石を満載した海賊がワシの目の前に現れたようなもんだ」と当初F・トーレスはこの物件を押さえられたことに満足していた。しかし、この物件の使用頻度はさすがに海での生活を生業にする者達だけあって、恐ろしく疎らでライラが見た埃化粧の状態はさほど珍しいことではなかった。ハウスキーパーを雇うか?という話も出るには出たが生活基盤がない家に無駄金をつぎ込むのは勿体無いという意見が大半を占め「状況を見て各個人判断で掃除する。」という大人的妥協案が出されて落着した。ライラを始めとする冒険稼業の人間はセビリアへ立ち寄った場合はこの建物を宿代わりに使うもののやはり遠距離交易や出征で長期不在が主となる商会員の足は自ずと遠くなるのは仕方が無く、その担当頻度の2極化は否めなかった。「こうやって掃除するのも良い気分転換よ、もっとも自分の船では違うけどね。」掃除する者はそろって同じ冗談を口に出していた。自船に戻れば片付けようと思っても片付けられない山積みになった書類や関係書籍が待ち構えている事も珍しくはない職業なだけに、せめて陸の居住空間だけはと案外楽しみにしている者も居たりしている。
「ところで商会長。地の果てから走ってきたかのように倒れてる後ろの方は?」
ライラに尋ねられて後ろを振り返ったF・トーレスの目にこれ以上なく紅潮した顔に魂が抜け出るのではないかと思うほど激しく息をするハガルの姿が映る。必死に旧友を追いかけた隻眼の青年はどうにか目標を見失わずに目的地まで辿りつけたものの、その対価は決して安いものではなかったと、今その身をもって実感している。
「新しいメンバーだ。ハガルって言うてな前の商会で一緒やった奴や。アイツ風に言うと『残党』やな。」
「あら。それは喜ばしい事ね。いつの話なの?」
「今さっき申請と決済してきたばかりや。」
「あらあら、初日から大変な目に遭ったわね…」
玄関で横になるハガルは激しい動悸と息遣いに視点の定まらぬまま見慣れない天井を見つめている。F・トーレスとライラと呼ばれる女性の会話が続いている最中も全くそれは治まる気配を見せない。痛いほどに枯れ果てた喉の感触が頭の奥にまで響く、ただ今水を口に含めば違う地獄が待っていると声を出すのを諦めた。もっとも、声になるほど彼の息遣いは回復しているわけでもなく、結果同じ事でもあった。
「でも、ここってこの有様だし…ハガル、寝るのはお勧めできないわよ。」
今のハガルにとって横たわる玄関に敷き詰められた石の冷気が背中から伝わってくるのが非常にありがたい、体温が下がっていくのが全身で体感できる。いっそこのままここで寝てしまいたいぐらいの心地良さだったが、ライラのその一言を聞くとぼやけた視点を天井から中空に合わせる。そして飛び交う埃へと無事に焦点が合ったとき、今の状況がもたらす現象を予想すると飛び上がるように立ち上がった。床の埃はちょうどハガルの人型を切り抜いたように写し出している。
「うぁ。もぅサイアク…。」
声ならぬ声を絞り出したこの一言が何もかもハガルの気持ちを素直に表している。
F・トーレスとライラは目を見合わせるなりくすくすと笑みを零す。笑っては悪いとライラは口を手で隠してはいるものの我慢できないようだ。
「商会長、なにやったの?」
「なんもしてないわぃ。ただ、ライラさんを追っかけただけや。」
「私が悪者みたいにしないでね。」
「分かっとる。分かっとる。」
「ちょっと、アッチのソファを片付けてくるわ。ハガル、そこで暫く横になると良いわ。」
そんなライラの気遣いを受けながらも、ハガルはうんうんと頷くだけが精一杯の様子だった。
ライラは今のソファに掛けられていた覆い布を埃が巻き上がらないようにそっと取り外す。具合良く風向きが部屋の中へと流れ込むように変わり、余計な埃を取り去り篭った空気を一新する。手際よくハガルが倒れこむ場所を確保すると促されるままにハガルはその場所へと身を沈めた。吹き込む風が荒立っていたハガルの心と体を急激に鎮めていくように絶え間なくカーテンを揺らす。数分で部屋は見違えるように綺麗になり、さっそく本来の目的を取り戻したテーブルにライラはグラスと1本のワインボトルを置くといつの間にか寝息を立てるハガルの様子を見てその部屋を出た。
「居た居た。」
礼儀正しく挨拶するF・トーレス、その後ろにはまるで世の果てから走ってきたかのかと思わせるほど激しく肩で息をする青年が一人。
「ライラさん掃除かい?」
「私も久々に来たんだけどね。最近は皆ここを使う機会がないみたいね。」
「どうだろうな。」
この一軒家、小さな庭に2階建てのさほど大きくない建物、外見から推測するに部屋数は8室ほどにみえる。生活するには何の不自由もないただ少し街中から外れているだけだった。そんな物件があると何気なく仕入れ商会員共同出資という形で購入まではいかないものの賃貸としてゴールデン・ルーヴェの集合場所となった。一時前までは建物の一室を借りていたのだが、確実に増えている商会員を抱えるには少々窮屈だと誰もが感じていた時のお得物件だったのである。「宝石を満載した海賊がワシの目の前に現れたようなもんだ」と当初F・トーレスはこの物件を押さえられたことに満足していた。しかし、この物件の使用頻度はさすがに海での生活を生業にする者達だけあって、恐ろしく疎らでライラが見た埃化粧の状態はさほど珍しいことではなかった。ハウスキーパーを雇うか?という話も出るには出たが生活基盤がない家に無駄金をつぎ込むのは勿体無いという意見が大半を占め「状況を見て各個人判断で掃除する。」という大人的妥協案が出されて落着した。ライラを始めとする冒険稼業の人間はセビリアへ立ち寄った場合はこの建物を宿代わりに使うもののやはり遠距離交易や出征で長期不在が主となる商会員の足は自ずと遠くなるのは仕方が無く、その担当頻度の2極化は否めなかった。「こうやって掃除するのも良い気分転換よ、もっとも自分の船では違うけどね。」掃除する者はそろって同じ冗談を口に出していた。自船に戻れば片付けようと思っても片付けられない山積みになった書類や関係書籍が待ち構えている事も珍しくはない職業なだけに、せめて陸の居住空間だけはと案外楽しみにしている者も居たりしている。
「ところで商会長。地の果てから走ってきたかのように倒れてる後ろの方は?」
ライラに尋ねられて後ろを振り返ったF・トーレスの目にこれ以上なく紅潮した顔に魂が抜け出るのではないかと思うほど激しく息をするハガルの姿が映る。必死に旧友を追いかけた隻眼の青年はどうにか目標を見失わずに目的地まで辿りつけたものの、その対価は決して安いものではなかったと、今その身をもって実感している。
「新しいメンバーだ。ハガルって言うてな前の商会で一緒やった奴や。アイツ風に言うと『残党』やな。」
「あら。それは喜ばしい事ね。いつの話なの?」
「今さっき申請と決済してきたばかりや。」
「あらあら、初日から大変な目に遭ったわね…」
玄関で横になるハガルは激しい動悸と息遣いに視点の定まらぬまま見慣れない天井を見つめている。F・トーレスとライラと呼ばれる女性の会話が続いている最中も全くそれは治まる気配を見せない。痛いほどに枯れ果てた喉の感触が頭の奥にまで響く、ただ今水を口に含めば違う地獄が待っていると声を出すのを諦めた。もっとも、声になるほど彼の息遣いは回復しているわけでもなく、結果同じ事でもあった。
「でも、ここってこの有様だし…ハガル、寝るのはお勧めできないわよ。」
今のハガルにとって横たわる玄関に敷き詰められた石の冷気が背中から伝わってくるのが非常にありがたい、体温が下がっていくのが全身で体感できる。いっそこのままここで寝てしまいたいぐらいの心地良さだったが、ライラのその一言を聞くとぼやけた視点を天井から中空に合わせる。そして飛び交う埃へと無事に焦点が合ったとき、今の状況がもたらす現象を予想すると飛び上がるように立ち上がった。床の埃はちょうどハガルの人型を切り抜いたように写し出している。
「うぁ。もぅサイアク…。」
声ならぬ声を絞り出したこの一言が何もかもハガルの気持ちを素直に表している。
F・トーレスとライラは目を見合わせるなりくすくすと笑みを零す。笑っては悪いとライラは口を手で隠してはいるものの我慢できないようだ。
「商会長、なにやったの?」
「なんもしてないわぃ。ただ、ライラさんを追っかけただけや。」
「私が悪者みたいにしないでね。」
「分かっとる。分かっとる。」
「ちょっと、アッチのソファを片付けてくるわ。ハガル、そこで暫く横になると良いわ。」
そんなライラの気遣いを受けながらも、ハガルはうんうんと頷くだけが精一杯の様子だった。
ライラは今のソファに掛けられていた覆い布を埃が巻き上がらないようにそっと取り外す。具合良く風向きが部屋の中へと流れ込むように変わり、余計な埃を取り去り篭った空気を一新する。手際よくハガルが倒れこむ場所を確保すると促されるままにハガルはその場所へと身を沈めた。吹き込む風が荒立っていたハガルの心と体を急激に鎮めていくように絶え間なくカーテンを揺らす。数分で部屋は見違えるように綺麗になり、さっそく本来の目的を取り戻したテーブルにライラはグラスと1本のワインボトルを置くといつの間にか寝息を立てるハガルの様子を見てその部屋を出た。
F・トーレスは久々に来たこの家でゆっくりとワインでも飲もうかと思っていたが、ライラの厳しい目線に阻まれてグラスを掃除用具へと持ち替えて家中を歩き回る。
「案外に広いな。ライラさん、コレ全部やるの?…!!…はいはい、やりますよ。」
ハガルが倒れるまでの距離を平然としていた彼も慣れない仕事で額に汗を滲ませる、掃除をするほどに次から次へと汚れが目につき、本人の知らない内に自ら腕捲りして掃除の無限連鎖へと足を踏み入れていた。季節は冬がもうすぐ到来しようかという少し肌寒い時期にも関わらず家全体の掃除が終わった夕刻での彼の上服は簡単なシャツ一枚だけになっていた。
すっかりと人の住める環境へと変貌を遂げたゴールデン・ルーヴェの集会所は白く淡い埃の化粧で窒息されていた生活具の呼吸が伝わってくるように見違える。
「いつもはコレを一人でやってるんか?」
F・トーレスの言葉にそれが当然よと答える。
「大変やな。ほかの奴も一人でやっとんかな?…まぁそうやろな。」
どっかりと椅子に腰掛けてF・トーレスは軍人では味わえない疲労を感じている。右を見ても左をみても自らが手がけて輝きを取り戻したものだけに囲まれて充足感に満たされる。
「悪党を懲らしめるとは違った満足感やな…連続ではちと勘弁やな。」
窓外の景色がいよいよ夜の帳を張り始める。
「どう?偶には良いもんでしょう。」
ライラも全て片付けた様子で部屋へ入ってくる。満更でもないような商会長の顔をみるなり口元が緩む。そして透明感漂うグラスにワインと簡単な肴そして煙草ケースをシルバーのトレイに載せてテーブルへ静かに置く。
「どちらからでもどうぞ。」
忘れたものを思い出すようにF・トーレスが自らの胸ポケットを探る。あるはずのものが無いと一瞬戸惑ったが、掃除の合間に脱いだ上着にそれがあることを思い出す。すまないねと一言告げるとライラが持ってきた煙草を口に咥えて火をつけた。芳醇な香りを存分に楽しむようゆっくりと味わうと気分をさらに安らげる。
「美味いな!」
「当たり前でしょう。働かざるもの吸うべからずよ。」
「なるほどな。」
合点がいったように笑う2人。ワインを飲みながら2人はそのまま話続けた。軍人と冒険家、全く相反するほど職業に就いている2人がこうやって長話するのは久方ぶりの事だった。ゴールデン・ルーヴェという商会を立ち上げた頃は皆が集まる機会も多かった、しかし、今となっては個人それぞれが得意とする分野で名声を得るに従い徐々にその回数は減っていっていた。
「嬉しいとも悲しいとも寂しいとも楽しみだとも言えないな。」
皆が活動すればするほど名声は高くなる、しかし名声は時として個人の時間を奪い続けるものだと2人は納得していた。かつては消えていった商会の事を思えば幸せだと思えなくもないが商会というくくりで活動するには邪魔なもんだなとF・トーレスは再び煙草へ火をつけた。今、彼の胸に去来するものはかつての商会が選んだ結末だった。『僕が最後だった。』ハガルが言ったその言葉が彼の目に過去を映す。共に海を駆り、酒を飲んだ楽しい時間もあった、しかし、そのどれらも彼らが陸に上がる事を留めるには至らず、その仲間が去り行く光景は自分への裏切りだと悔しさを拳で握り殺したこともあった。だからこそ、自分はゴールデン・ルーヴェの為に奔走するのだと味わった紫煙をゆっくりと吐き出した。
「商会長聞いてる?」
反応のないF・トーレスにライラが問いかける。
「勿論や、聞いてるで。」
「お酒が効いて寝たかと思ったわ。」
「北の女の酒に付き合うと大変な目に遭うからな。」
「最後まで付き合う?負けないわよ?」
「ライラさん、それはワシに死ねと言うてるんですか?」
海賊相手に引けを取ることのないF・トーレスも酒に関しては強い方ではないのは皆が知る事実だった。飲めば美味い、でも量は飲めない。そして、最も彼を悩ませるのはつい深酒をしてしまった時のことであった、いっそ前後不覚になって倒れれば楽なのだが意識だけは途切れず内臓が踊り暴れる苦痛をじっと我慢し続けなければならないのである。
「ワシは酒より肉やな。」
「その口癖変わらないね。」
ようやく目の覚めたハガルがランプの光も眩しそうに目を擦りながら入ってきた。けだるそうな様子が肩の位置で見て取れる。
「だるい…。」
自分とは違って疲れた素振りもないF・トーレスの姿をみるとがっくりと項垂れて呟く。そしてむくりと顔を上げると空いている席へと座った。
「ハガル、お前ちと鍛え方が足りんちゃうか?」
「僕は普通なの、トーレスさんが異常なんだよ。」
ハガルは呆れた口調で反論するが、その言葉も抜け切らない疲労と空腹で力が無い。
それでも納得いかないのか口を尖らせて少年のように拗ねてみせる。
「まぁ、体力の基本は食う事だ。よし、メシにするかっ。」
ハガルがその言葉を聞いてピンと背筋が伸びるように反応する、よくよく考えれば魚を釣り上げて船へ戻ろうとしたのが昼過ぎ、そこでF・トーレスと遭遇したため昼を抜いている。
「ごはん?!行こう行こう!」
「商会長、この時間だとどの店も満席かもしれないわよ?」
「ワシを誰やと思うとんのや、エエ肉食わせる穴場の1軒や2軒知ってるがな。」
「そう、じゃあご馳走になるかしら。」
「まかせぃ!」
「やったー!」
3人は意気揚々と街へと繰り出した。昼間の陽気が消えて肌寒い風が変わりに吹いている、もう窓を開けて生活する家はどこにも見当たらず家々からはランプの暖かな光が誘導灯のように零れている。
「そういえばトーレスさん。このライラさんが副代表さんよね?」
「そやで。商会の事は何でも聞いとけよ、ワシより詳しいからな。」
「で、どっちの副代表さんなの?」
「それは…前者や前者」
「これが職人肌の…」
「商会長さま、なにか変なことを吹き込んでないでしょうな?」
「いやぁ、まさに事実は小説よりも奇なりやな。店へ急ぐか。」
今日一番の危機を迎えたF・トーレスは即座に歩調を速める。
「あ、こらっ。穴場なんでしょ?待ちなさいっ」
残された2人が商会長の後を追いかける。乾いた足音が街中へ入ったことを示すように石畳の音へと変化していく。
「もう走るのヤだー。」
ハガルの悲痛な叫びが雑踏の中で響く、3人分の吐息がいつの間にか白く変化している。もう冬到来を告げるようなその中を人々が行き来している、最後の1ヶ月を迎えて様々なことが賑やかにそしてゆるやかに営まれている。いずれ皆が襟を立てながら歩き出す日々が来る、そうすれば新しい一年の終わりと始まりの日が近づいていると人は感じる。今はまだそんな気分になれない少し寒いだけの夜がセビリアの街を包んでいた。
「案外に広いな。ライラさん、コレ全部やるの?…!!…はいはい、やりますよ。」
ハガルが倒れるまでの距離を平然としていた彼も慣れない仕事で額に汗を滲ませる、掃除をするほどに次から次へと汚れが目につき、本人の知らない内に自ら腕捲りして掃除の無限連鎖へと足を踏み入れていた。季節は冬がもうすぐ到来しようかという少し肌寒い時期にも関わらず家全体の掃除が終わった夕刻での彼の上服は簡単なシャツ一枚だけになっていた。
すっかりと人の住める環境へと変貌を遂げたゴールデン・ルーヴェの集会所は白く淡い埃の化粧で窒息されていた生活具の呼吸が伝わってくるように見違える。
「いつもはコレを一人でやってるんか?」
F・トーレスの言葉にそれが当然よと答える。
「大変やな。ほかの奴も一人でやっとんかな?…まぁそうやろな。」
どっかりと椅子に腰掛けてF・トーレスは軍人では味わえない疲労を感じている。右を見ても左をみても自らが手がけて輝きを取り戻したものだけに囲まれて充足感に満たされる。
「悪党を懲らしめるとは違った満足感やな…連続ではちと勘弁やな。」
窓外の景色がいよいよ夜の帳を張り始める。
「どう?偶には良いもんでしょう。」
ライラも全て片付けた様子で部屋へ入ってくる。満更でもないような商会長の顔をみるなり口元が緩む。そして透明感漂うグラスにワインと簡単な肴そして煙草ケースをシルバーのトレイに載せてテーブルへ静かに置く。
「どちらからでもどうぞ。」
忘れたものを思い出すようにF・トーレスが自らの胸ポケットを探る。あるはずのものが無いと一瞬戸惑ったが、掃除の合間に脱いだ上着にそれがあることを思い出す。すまないねと一言告げるとライラが持ってきた煙草を口に咥えて火をつけた。芳醇な香りを存分に楽しむようゆっくりと味わうと気分をさらに安らげる。
「美味いな!」
「当たり前でしょう。働かざるもの吸うべからずよ。」
「なるほどな。」
合点がいったように笑う2人。ワインを飲みながら2人はそのまま話続けた。軍人と冒険家、全く相反するほど職業に就いている2人がこうやって長話するのは久方ぶりの事だった。ゴールデン・ルーヴェという商会を立ち上げた頃は皆が集まる機会も多かった、しかし、今となっては個人それぞれが得意とする分野で名声を得るに従い徐々にその回数は減っていっていた。
「嬉しいとも悲しいとも寂しいとも楽しみだとも言えないな。」
皆が活動すればするほど名声は高くなる、しかし名声は時として個人の時間を奪い続けるものだと2人は納得していた。かつては消えていった商会の事を思えば幸せだと思えなくもないが商会というくくりで活動するには邪魔なもんだなとF・トーレスは再び煙草へ火をつけた。今、彼の胸に去来するものはかつての商会が選んだ結末だった。『僕が最後だった。』ハガルが言ったその言葉が彼の目に過去を映す。共に海を駆り、酒を飲んだ楽しい時間もあった、しかし、そのどれらも彼らが陸に上がる事を留めるには至らず、その仲間が去り行く光景は自分への裏切りだと悔しさを拳で握り殺したこともあった。だからこそ、自分はゴールデン・ルーヴェの為に奔走するのだと味わった紫煙をゆっくりと吐き出した。
「商会長聞いてる?」
反応のないF・トーレスにライラが問いかける。
「勿論や、聞いてるで。」
「お酒が効いて寝たかと思ったわ。」
「北の女の酒に付き合うと大変な目に遭うからな。」
「最後まで付き合う?負けないわよ?」
「ライラさん、それはワシに死ねと言うてるんですか?」
海賊相手に引けを取ることのないF・トーレスも酒に関しては強い方ではないのは皆が知る事実だった。飲めば美味い、でも量は飲めない。そして、最も彼を悩ませるのはつい深酒をしてしまった時のことであった、いっそ前後不覚になって倒れれば楽なのだが意識だけは途切れず内臓が踊り暴れる苦痛をじっと我慢し続けなければならないのである。
「ワシは酒より肉やな。」
「その口癖変わらないね。」
ようやく目の覚めたハガルがランプの光も眩しそうに目を擦りながら入ってきた。けだるそうな様子が肩の位置で見て取れる。
「だるい…。」
自分とは違って疲れた素振りもないF・トーレスの姿をみるとがっくりと項垂れて呟く。そしてむくりと顔を上げると空いている席へと座った。
「ハガル、お前ちと鍛え方が足りんちゃうか?」
「僕は普通なの、トーレスさんが異常なんだよ。」
ハガルは呆れた口調で反論するが、その言葉も抜け切らない疲労と空腹で力が無い。
それでも納得いかないのか口を尖らせて少年のように拗ねてみせる。
「まぁ、体力の基本は食う事だ。よし、メシにするかっ。」
ハガルがその言葉を聞いてピンと背筋が伸びるように反応する、よくよく考えれば魚を釣り上げて船へ戻ろうとしたのが昼過ぎ、そこでF・トーレスと遭遇したため昼を抜いている。
「ごはん?!行こう行こう!」
「商会長、この時間だとどの店も満席かもしれないわよ?」
「ワシを誰やと思うとんのや、エエ肉食わせる穴場の1軒や2軒知ってるがな。」
「そう、じゃあご馳走になるかしら。」
「まかせぃ!」
「やったー!」
3人は意気揚々と街へと繰り出した。昼間の陽気が消えて肌寒い風が変わりに吹いている、もう窓を開けて生活する家はどこにも見当たらず家々からはランプの暖かな光が誘導灯のように零れている。
「そういえばトーレスさん。このライラさんが副代表さんよね?」
「そやで。商会の事は何でも聞いとけよ、ワシより詳しいからな。」
「で、どっちの副代表さんなの?」
「それは…前者や前者」
「これが職人肌の…」
「商会長さま、なにか変なことを吹き込んでないでしょうな?」
「いやぁ、まさに事実は小説よりも奇なりやな。店へ急ぐか。」
今日一番の危機を迎えたF・トーレスは即座に歩調を速める。
「あ、こらっ。穴場なんでしょ?待ちなさいっ」
残された2人が商会長の後を追いかける。乾いた足音が街中へ入ったことを示すように石畳の音へと変化していく。
「もう走るのヤだー。」
ハガルの悲痛な叫びが雑踏の中で響く、3人分の吐息がいつの間にか白く変化している。もう冬到来を告げるようなその中を人々が行き来している、最後の1ヶ月を迎えて様々なことが賑やかにそしてゆるやかに営まれている。いずれ皆が襟を立てながら歩き出す日々が来る、そうすれば新しい一年の終わりと始まりの日が近づいていると人は感じる。今はまだそんな気分になれない少し寒いだけの夜がセビリアの街を包んでいた。
上天気に甲板が焼ける。じりじりと船ごとフライにさせられるような日差しをもたらすインド洋の太陽を受けてザンジバル航路を進む船が1隻西へと向かっている。上手く庇を利用した影にある椅子で寛いでいるのはこの船の提督マッテンである。
カリカット-ザンジバル航路といえば海賊被害が多発し最も危険だといわれているが、それも少し迂回するだけで他国、自国、先住民どれもの船影が見えないほどに安全な大海である事を発見してからと言うもの、彼にとってはなんら地中海と変わらない唯の海になっていた。
「こうも暑いと釣れないか…」
暇つぶしと食糧確保にと舳から等間隔に仕掛けている釣竿はただ風に揺られて小さく撓む規則的運動を繰り返すだけでなんら反応がない。こんなときの頼みの綱であるナブラや鳥山も見渡す限りの平坦な海のどの方向にも見ることは無く、まさにお手上げの状況にマッテンも椅子に座るだけの時間が続き、その姿は見るからに暇を体現している。カリカットを出航して10日余り、目的地であるザンジバルまではまだ半分を残していながらここ数日は魚影に恵まれず楽しみなく1日が過ぎていた。
「少し航路を変えるだけで、これだけ平和だとは…」
副官の口から感嘆の声が漏れている。
「そんなもんだろ。俺達は急ぎ旅ではないからこうやって進路を変更できるが、立場が変われば分からないぜ。」
この航路とて必ずに発見されないという保障などどこにもあるはず無く、カリカットからアラビア海方面へ向かう船も居ないわけでもない為、それを狙う輩と遭遇してもおかしくないのは事実だった。こうなれば襲う側と襲われる側が互いに裏を取り合うゲームのようなものだった。もっとも、このゲームの敗者は生死を賭した次のゲームが待っているのは船員の誰しもが覚悟していた。無事を願う祈りさえ惜しみ1日でも早く目的地へ着くことが彼らにとって最も喜ばしい勝利と言えた。
「神は誰しもに平等だという。しかし、平等を唱える神が創り給うた人間は個人の身体に差異を付けられている。なぜだ?それはすなわち神自らが真の平等を行わない差別主義だからだ。無限の愛よりも我々は差異をなくすだけの生きる術を勝ち得なければならない、そこに神の意思はなく個人の力量が試されるだけだ。」
そういいながらマッテンは胸の前で恭しく十字を切る。
「提督、いくらここが洋上だとしても異端っぽく聞こえる発言はちょっと控えた方が…」
「異端?彼らはいつも言ってるじゃないか、主の愛は無限だと。異端すらも許し給う慈愛こそ無限の愛じゃないのか?」
「さぁ、それはどうでしょうね。私は聖職者でありませんからね、彼らの言い分はわかりませんが。」
「やつ等が行うのは『平等』にすべての人から金をせしめることさ、豪華な金糸で飾られた服を着て一等高いところからご高説を垂れるだけでなにもしやしない。救う者が救われる者の事を考えちゃいないのさ。あるのは7つの大罪に記された欲望に忠実な信仰心とそれを行える強権だけだ。」
世の不条理をからかうようにマッテンの皮肉交じりの声が響く。
「決して俺は無神論者ではないが、教義と行動が異なる教会のやつ等がする行動が気に入らないだけさ…異端諮問なんざそもそもありえない話の筈なんだがな。いっそ土着の宗教を守り続けるインドの人間の方が我らが信じる神の教えを忠実に守っているのかもな。」
会話の途中にもまったく生命反応のない竿先を見ながらマッテンは八つ当たりのように厳しい言葉を船の上に投げ捨てる。
カリカット-ザンジバル航路といえば海賊被害が多発し最も危険だといわれているが、それも少し迂回するだけで他国、自国、先住民どれもの船影が見えないほどに安全な大海である事を発見してからと言うもの、彼にとってはなんら地中海と変わらない唯の海になっていた。
「こうも暑いと釣れないか…」
暇つぶしと食糧確保にと舳から等間隔に仕掛けている釣竿はただ風に揺られて小さく撓む規則的運動を繰り返すだけでなんら反応がない。こんなときの頼みの綱であるナブラや鳥山も見渡す限りの平坦な海のどの方向にも見ることは無く、まさにお手上げの状況にマッテンも椅子に座るだけの時間が続き、その姿は見るからに暇を体現している。カリカットを出航して10日余り、目的地であるザンジバルまではまだ半分を残していながらここ数日は魚影に恵まれず楽しみなく1日が過ぎていた。
「少し航路を変えるだけで、これだけ平和だとは…」
副官の口から感嘆の声が漏れている。
「そんなもんだろ。俺達は急ぎ旅ではないからこうやって進路を変更できるが、立場が変われば分からないぜ。」
この航路とて必ずに発見されないという保障などどこにもあるはず無く、カリカットからアラビア海方面へ向かう船も居ないわけでもない為、それを狙う輩と遭遇してもおかしくないのは事実だった。こうなれば襲う側と襲われる側が互いに裏を取り合うゲームのようなものだった。もっとも、このゲームの敗者は生死を賭した次のゲームが待っているのは船員の誰しもが覚悟していた。無事を願う祈りさえ惜しみ1日でも早く目的地へ着くことが彼らにとって最も喜ばしい勝利と言えた。
「神は誰しもに平等だという。しかし、平等を唱える神が創り給うた人間は個人の身体に差異を付けられている。なぜだ?それはすなわち神自らが真の平等を行わない差別主義だからだ。無限の愛よりも我々は差異をなくすだけの生きる術を勝ち得なければならない、そこに神の意思はなく個人の力量が試されるだけだ。」
そういいながらマッテンは胸の前で恭しく十字を切る。
「提督、いくらここが洋上だとしても異端っぽく聞こえる発言はちょっと控えた方が…」
「異端?彼らはいつも言ってるじゃないか、主の愛は無限だと。異端すらも許し給う慈愛こそ無限の愛じゃないのか?」
「さぁ、それはどうでしょうね。私は聖職者でありませんからね、彼らの言い分はわかりませんが。」
「やつ等が行うのは『平等』にすべての人から金をせしめることさ、豪華な金糸で飾られた服を着て一等高いところからご高説を垂れるだけでなにもしやしない。救う者が救われる者の事を考えちゃいないのさ。あるのは7つの大罪に記された欲望に忠実な信仰心とそれを行える強権だけだ。」
世の不条理をからかうようにマッテンの皮肉交じりの声が響く。
「決して俺は無神論者ではないが、教義と行動が異なる教会のやつ等がする行動が気に入らないだけさ…異端諮問なんざそもそもありえない話の筈なんだがな。いっそ土着の宗教を守り続けるインドの人間の方が我らが信じる神の教えを忠実に守っているのかもな。」
会話の途中にもまったく生命反応のない竿先を見ながらマッテンは八つ当たりのように厳しい言葉を船の上に投げ捨てる。
マッテンにとって教会の現状は決して快く思えるものではないと疑心を持ち続けていた。持ち歩く聖書を読めば読むほど主の愛は無限であり、遍く苦悩を救済さし給わんとする姿が痛いほどに伝わってくる。ところが今の教会は万人から絞り集めた「喜捨」を惜しげもなく使っての贅沢を楽しんでいる。何かに寄り縋りたい民衆の心理を逆手にとった見事な経営戦略だと、マッテンは呆れながらも感心していた。もっとも、地方で活動する小さな地域に密着したような、それこそ神父の肩書きでありながら医者や大工だとなんでも屋のように活動する真の神の代行者達も居るところが、まだ信じるべき神の救いなのかと安堵できた。
「導くものが罪業にまみれては有り難味も半減するもんだ。」
口ひげで遊ぶように手をやりながら、隣に居る副官へ言い聞かせるわけもないような口調で呟いた。
「提督、神の教え云々は良いんですが。そろそろ何か釣ってもらわないと壊滅的釣果たなのですが。」
「それはあの竿が曲がるように神へ祈ってくれ。」
いまだ反応を示さない竿を指差して、マッテンはお手上げのような身振りを見せた。
変わらず薄曇りの空模様に快適な生活を送っているだけに、この竿が曲がり食料を無事確保できれば何の文句もないほど充実したものに変わるだろうと釣り糸を垂れてみたが数日そのタイミングが訪れていない事にマッテンとしてはつまらない日々と感じていた。
「ナブラだっ!」
マストトップの見張り番が声を上げた。
報告に示す方角に船中の視線が集中する。たしかにナブラが立っている。
「好機到来のようですね、船を回しますか?」
「そうだな。可能性はあがるかも知れんな。」
副官の声が響き、船中が一気に慌しく足音に支配されまるで海賊が現れたかのような様相を呈している。その動きはここ数日に見られる倦怠感を吹き飛ばすように船中を騒音に巻き込んだ。
「まるで戦場ですな…」
「食料ってそんなに底だったか?」
「いえ、まだ十分に余裕はあるはずなんですが…」
副官はすこし困った顔をしながら答える。
「じゃあ、こいつ等のこの元気は何なんだ?」
「さぁ…なんとも不思議な光景で…」
釣り糸を垂れていたマッテンの方が全く無関心のように事の顛末を眺めている。さすがに手際の良い船員達の操船で自在に動くナブラの先を捉えるように船が動く。
必死に何かから逃げるように水面を荒らす鯵や鰯など小魚の群れをナブラと言う、そしてその後ろにこそ狙うべき大物が居るのだ。この海域では運良ければマグロが掛かる可能性がある、中骨以外は余すところが無いほど重宝する魚で大物でなくても十分に船員の腹を満たす魚である。
それにしても、この船員達の働きっぷりは理解しがたいものもあるが、折角働く気になってくれている彼らに水を差すのもどうかなとマッテンはのんびりと仕掛けに新たな餌を仕掛けながら時を待った。
「提督っ!」
どたばたと足音を立てながら船員がやってくる。
「ナブラの後ろに…!」
驚愕に強張った顔を携えて、声にならない声を繋げながら船員は報告する。
「後ろに、何か大きなものが…」
「なんだそれ?」
「いあ、その…見たこともない大きな物体が向かってきます。」
「向かってくるって、船がその進路に移動しただけだろう。」
「あの…その…とにかく大変なんです。」
要点を得ない報告に首を傾げる。これだけ取り乱すような船員の様子に自らもその正体を確かめるべく船体の高いところへ足を向けた。手渡された望遠鏡で船員の指し示す先を確認する。
「ほぉ」
思わず感嘆の声が上がる。ナブラを追いかけるように移動している物体はゆうにこの船と同等の大きさを有しているように見える。
「船を遠ざけろ。あんなもんに下から押し上げられたら一発だ。」
再び船中が戦場のように荒れ始める。
「あれはなんでしょうか?もしかして海に住む魔物が…」
1人の船員が発した言葉に周囲がざわめく。未知なる海には行き交う船を襲い船員を飲み込んで餌にするという言い伝えが彼らの脳裏に過ぎる。クラーケンやリヴァイアサンなどかつての大冒険家が記した航海記には挿絵付きで紹介されており、その生々しい描写はときの上流階層の人々まで恐怖させ討伐命令がでるほどの騒ぎも起きていた。
「下から持ち上げられる以外は特にないだろう。遠巻きに居る分には安全だ。」
黒く大きな物体は悠然と大海を泳いでいる。マッテンはその姿を見て過去にめくった文献を思い起こそうとしてた。
「導くものが罪業にまみれては有り難味も半減するもんだ。」
口ひげで遊ぶように手をやりながら、隣に居る副官へ言い聞かせるわけもないような口調で呟いた。
「提督、神の教え云々は良いんですが。そろそろ何か釣ってもらわないと壊滅的釣果たなのですが。」
「それはあの竿が曲がるように神へ祈ってくれ。」
いまだ反応を示さない竿を指差して、マッテンはお手上げのような身振りを見せた。
変わらず薄曇りの空模様に快適な生活を送っているだけに、この竿が曲がり食料を無事確保できれば何の文句もないほど充実したものに変わるだろうと釣り糸を垂れてみたが数日そのタイミングが訪れていない事にマッテンとしてはつまらない日々と感じていた。
「ナブラだっ!」
マストトップの見張り番が声を上げた。
報告に示す方角に船中の視線が集中する。たしかにナブラが立っている。
「好機到来のようですね、船を回しますか?」
「そうだな。可能性はあがるかも知れんな。」
副官の声が響き、船中が一気に慌しく足音に支配されまるで海賊が現れたかのような様相を呈している。その動きはここ数日に見られる倦怠感を吹き飛ばすように船中を騒音に巻き込んだ。
「まるで戦場ですな…」
「食料ってそんなに底だったか?」
「いえ、まだ十分に余裕はあるはずなんですが…」
副官はすこし困った顔をしながら答える。
「じゃあ、こいつ等のこの元気は何なんだ?」
「さぁ…なんとも不思議な光景で…」
釣り糸を垂れていたマッテンの方が全く無関心のように事の顛末を眺めている。さすがに手際の良い船員達の操船で自在に動くナブラの先を捉えるように船が動く。
必死に何かから逃げるように水面を荒らす鯵や鰯など小魚の群れをナブラと言う、そしてその後ろにこそ狙うべき大物が居るのだ。この海域では運良ければマグロが掛かる可能性がある、中骨以外は余すところが無いほど重宝する魚で大物でなくても十分に船員の腹を満たす魚である。
それにしても、この船員達の働きっぷりは理解しがたいものもあるが、折角働く気になってくれている彼らに水を差すのもどうかなとマッテンはのんびりと仕掛けに新たな餌を仕掛けながら時を待った。
「提督っ!」
どたばたと足音を立てながら船員がやってくる。
「ナブラの後ろに…!」
驚愕に強張った顔を携えて、声にならない声を繋げながら船員は報告する。
「後ろに、何か大きなものが…」
「なんだそれ?」
「いあ、その…見たこともない大きな物体が向かってきます。」
「向かってくるって、船がその進路に移動しただけだろう。」
「あの…その…とにかく大変なんです。」
要点を得ない報告に首を傾げる。これだけ取り乱すような船員の様子に自らもその正体を確かめるべく船体の高いところへ足を向けた。手渡された望遠鏡で船員の指し示す先を確認する。
「ほぉ」
思わず感嘆の声が上がる。ナブラを追いかけるように移動している物体はゆうにこの船と同等の大きさを有しているように見える。
「船を遠ざけろ。あんなもんに下から押し上げられたら一発だ。」
再び船中が戦場のように荒れ始める。
「あれはなんでしょうか?もしかして海に住む魔物が…」
1人の船員が発した言葉に周囲がざわめく。未知なる海には行き交う船を襲い船員を飲み込んで餌にするという言い伝えが彼らの脳裏に過ぎる。クラーケンやリヴァイアサンなどかつての大冒険家が記した航海記には挿絵付きで紹介されており、その生々しい描写はときの上流階層の人々まで恐怖させ討伐命令がでるほどの騒ぎも起きていた。
「下から持ち上げられる以外は特にないだろう。遠巻きに居る分には安全だ。」
黒く大きな物体は悠然と大海を泳いでいる。マッテンはその姿を見て過去にめくった文献を思い起こそうとしてた。
『その姿は雄大で雄雄しくまるでこの海域を支配している王のように振舞っている。大きな口は全ての生物を飲み込むように開けられ大量の海水と共に餌を捕食している。ただ彼はその姿とは反するように穏やかな性格で我らの船と併走していた。勇気ある船員が海へと潜り彼との接触を求めた。しかし、人が近寄っても全く意に介さない泳ぎは変わることなく寧ろ我々と共に走る事を楽しんでいるようでもあった。どうやら彼は我々を敵とはみなさなかったらしい、しかし、その性格こそが彼の生命を縮めるかもしれない。世の好事家の連中にとってこれほどの巨体は格好の餌食になりかねない。できるなら人に見つからぬように生活せよと警告を発したいが、我々の言葉など彼らに届くはずもない。世界の果てをも見ることができる彼らは我々より先んじて様々な海へと足を向けているに違いない、ようやくインドまで来れるようになった我々など彼らからみれば卵から孵ってもない存在だ。できるならこの姿を我々の子孫まで残して欲しいものだ、温厚な彼らが我々人間によって搾取され尽くされない事をただただ祈るばかりである。』
そんな文献の内容をようやく思い出すとその彼がいままさに目の前にいるのだと思うとマッテンの目は学者としての輝きを取り戻す。
「えっと、なんて言ったかな…文献に名前も載っていたが…」
肝心なところを思い出せない焦燥感がマッテンを襲う。その苛々感が絶え間なく動くかれの指が表している。
「なんだったか…ここまで出てきてるのに…」
喉元まで出掛かっている単語が出てこない。周囲はいまだ大きな魚影を見ようと興奮した船員達でいつのまにか埋め尽くされている。所々で感嘆の声が絶え間なく続く、船員達は勝手にその感動を思い思いの言葉で口にしている。
「すげぇ…あんなモンに突っ込まれたらひとたまりもないな。」
「まるで王様だな。」
「けど、本当に魚か?イスパニアの秘密兵器だったりして…」
「まじか?」
「んな訳ないだろう。」
「ジンベイザメだ!」
提督はやっと思い出した言葉を声にした。その声に周りの目線がマッテンへと移る。
「なんですかそれは?」
「あれはジンベイザメと呼ばれるヤツだな。この海域に生息していたのは聞き及んでいたが実際お目にかかるのは初めてだな。」
マッテンの解説に再び感嘆の声を上げた船員は再び海へと視線を返す。いまだ海面近くを泳ぎ続けるジンベイザメは船上のことなど露知らず有意義な食事の時間を楽しんでいるようだ。その間、船は彼を十分観察できる位置で併走しながら急遽現れた珍客の姿を楽しんでいる。そして1時間が過ぎようとしていた頃、満足したジンベイザメはその姿を海中へと沈めてこの興奮劇は幕を閉じた。
まだ興奮冷め止まぬ船員達はその感動を口々に持ち場へと戻る。マッテンも生物学者として貴重な体験だったと甲板へと戻り、そして反応のない竿を一本一本片付ける。
「魚は釣れずとも貴重な体験をしたな…。」
竿を片付ける手にも余裕が感じられる、が、ぴたりとその手が止まるとなにやら考え始めた。
「まてよ…」
考えがまとまると手に持っている竿を投げ出し船中の自室へ駆け戻る。そして机一杯に航路図を広げると現在のポイントを確認し始めた。
うんうんと頷きながら航路を測定し、現状を把握する。そして、自らの考えを忘れないようにメモへと書きとめると、それに付属する理論を考え始めた。
「これは後でアンレさんに聞いてみよう。あの人も放浪癖があるからな…どうやって捕まえるか…」
引き出しからペンと便箋を取り出すと、セビリアの商会集会所へと手紙を書き始めた。
船はザンジバルへ向けて休まず航行する、波は変わらず穏やかで東からの風が湿気を乗せて吹いている。波を押し分ける船首はその価値を知らないままに定められた方向へ押し運ばれてゆく。夕刻が間近に迫ってきた、今日の役目を終えた太陽が水平線へと傾き始める、交代を知らせる鐘が船中に響き船は夜へ向けての準備が始まった。忙しかった船上は徐々に静けさが訪れ、それに変わるようにと船中の雰囲気が忙しくなる。特にこれからの1・2時間の厨房はまた違った意味での戦場へと姿を変える、この日の疲れを取り戻そうとする船員が大挙して押しかけるまであと少しとなっている。
「今日の晩飯はポークビーンズか…」
漂う香りがより一層空腹を誘うようにも思える。自室に篭るマッテンもある程度の考えが纏まると窓外に沈む景色の移り変わりを差し込む陽の変化から読み取っている。
「そういえば、そろそろ戻っても良い頃か。」
この東アフリカからインドにかけての地域は生物学者としては興味が尽きない物が多く存在し、その楽しさについ数ヶ月も学術に没頭してしまっていた。
「皆も家族と過ごしたいだろうしな。ちょうど良いタイミングだろう。」
頭の後ろで手を組むようにして、天井を相手に会話するような独り言をばら撒いている。学者としては止まりたいが学者としてではなく生活を預かる提督としての判断は個人の感情を抜きだと自らに言い聞かせる。
「提督っ。夕飯の支度が整いました。」
船はいつの間にか深紺に包まれ大海の真ん中で明日の朝日を待っている。
通路には料理長自慢の料理が放つ極上の香りが充満し賑やかな食堂からの声が反響しながら伝わってくる。頼もしい船員達の力強い声だ。
「やっぱり、帰るのが上策だな。」
意気揚々と誘われるままに食堂へ入ると、そのまま空いている席へ座る。他愛ない話に笑い話、ずっと同じ場所で生活しているにも関わらずこの話題はどこから湧いてくるのだろうと毎回不思議に思わされる。作りたてのポークビーンズは陸のどの店もの追従を許さぬほど絶品で、普段より多く酒が喉を通る。
「一つ聞くが、この生活と家族。お前達はどっちが好きだ?」
マッテンは質問を素直に投げかけてみる。
「そりゃ、愚問ってもんですよ。1万Dの価値がある宝石と現金1万Dを天秤にかけるようなモンですぜ。選ぶことなんてできやしません。」
周りの船員がそれに頷いて賛同している。
「なるほど、納得だ。」
「どうしてそんな事をお聞きになるんで?」
「聞きたかっただけだ。ザンジバルで一仕事終えたら、欧州へ戻るぞ、皆準備しとくようにな。」
僅かな静寂の後、歓声が沸き起こる。予想以上の反応に思わず耳を塞いだマッテンだったが注がれる酒を断るわけにもいかず、その夜は船室へ戻るのも深夜になっていた。
翌朝、何か雰囲気が違う船員達の下がらがらと大きな音を立てて碇が海中から姿を現した。朝日が目に染みるように感じながらマッテンは出航を叫ぶ。
「ザンジバルへ!」
大きな帆が一気に青空のキャンパスに広げられる。軽く前後しながら風を捉えた船は逸る船員の気持ちを宥めるようにゆっくりとその船首を西南西へと向ける。水面にゆれる船影はその輪郭をはっきりと描き、いよいよ速度に乗った船は一身に期待を受けてザンジバルまでの波を切り進み始めた。
「えっと、なんて言ったかな…文献に名前も載っていたが…」
肝心なところを思い出せない焦燥感がマッテンを襲う。その苛々感が絶え間なく動くかれの指が表している。
「なんだったか…ここまで出てきてるのに…」
喉元まで出掛かっている単語が出てこない。周囲はいまだ大きな魚影を見ようと興奮した船員達でいつのまにか埋め尽くされている。所々で感嘆の声が絶え間なく続く、船員達は勝手にその感動を思い思いの言葉で口にしている。
「すげぇ…あんなモンに突っ込まれたらひとたまりもないな。」
「まるで王様だな。」
「けど、本当に魚か?イスパニアの秘密兵器だったりして…」
「まじか?」
「んな訳ないだろう。」
「ジンベイザメだ!」
提督はやっと思い出した言葉を声にした。その声に周りの目線がマッテンへと移る。
「なんですかそれは?」
「あれはジンベイザメと呼ばれるヤツだな。この海域に生息していたのは聞き及んでいたが実際お目にかかるのは初めてだな。」
マッテンの解説に再び感嘆の声を上げた船員は再び海へと視線を返す。いまだ海面近くを泳ぎ続けるジンベイザメは船上のことなど露知らず有意義な食事の時間を楽しんでいるようだ。その間、船は彼を十分観察できる位置で併走しながら急遽現れた珍客の姿を楽しんでいる。そして1時間が過ぎようとしていた頃、満足したジンベイザメはその姿を海中へと沈めてこの興奮劇は幕を閉じた。
まだ興奮冷め止まぬ船員達はその感動を口々に持ち場へと戻る。マッテンも生物学者として貴重な体験だったと甲板へと戻り、そして反応のない竿を一本一本片付ける。
「魚は釣れずとも貴重な体験をしたな…。」
竿を片付ける手にも余裕が感じられる、が、ぴたりとその手が止まるとなにやら考え始めた。
「まてよ…」
考えがまとまると手に持っている竿を投げ出し船中の自室へ駆け戻る。そして机一杯に航路図を広げると現在のポイントを確認し始めた。
うんうんと頷きながら航路を測定し、現状を把握する。そして、自らの考えを忘れないようにメモへと書きとめると、それに付属する理論を考え始めた。
「これは後でアンレさんに聞いてみよう。あの人も放浪癖があるからな…どうやって捕まえるか…」
引き出しからペンと便箋を取り出すと、セビリアの商会集会所へと手紙を書き始めた。
船はザンジバルへ向けて休まず航行する、波は変わらず穏やかで東からの風が湿気を乗せて吹いている。波を押し分ける船首はその価値を知らないままに定められた方向へ押し運ばれてゆく。夕刻が間近に迫ってきた、今日の役目を終えた太陽が水平線へと傾き始める、交代を知らせる鐘が船中に響き船は夜へ向けての準備が始まった。忙しかった船上は徐々に静けさが訪れ、それに変わるようにと船中の雰囲気が忙しくなる。特にこれからの1・2時間の厨房はまた違った意味での戦場へと姿を変える、この日の疲れを取り戻そうとする船員が大挙して押しかけるまであと少しとなっている。
「今日の晩飯はポークビーンズか…」
漂う香りがより一層空腹を誘うようにも思える。自室に篭るマッテンもある程度の考えが纏まると窓外に沈む景色の移り変わりを差し込む陽の変化から読み取っている。
「そういえば、そろそろ戻っても良い頃か。」
この東アフリカからインドにかけての地域は生物学者としては興味が尽きない物が多く存在し、その楽しさについ数ヶ月も学術に没頭してしまっていた。
「皆も家族と過ごしたいだろうしな。ちょうど良いタイミングだろう。」
頭の後ろで手を組むようにして、天井を相手に会話するような独り言をばら撒いている。学者としては止まりたいが学者としてではなく生活を預かる提督としての判断は個人の感情を抜きだと自らに言い聞かせる。
「提督っ。夕飯の支度が整いました。」
船はいつの間にか深紺に包まれ大海の真ん中で明日の朝日を待っている。
通路には料理長自慢の料理が放つ極上の香りが充満し賑やかな食堂からの声が反響しながら伝わってくる。頼もしい船員達の力強い声だ。
「やっぱり、帰るのが上策だな。」
意気揚々と誘われるままに食堂へ入ると、そのまま空いている席へ座る。他愛ない話に笑い話、ずっと同じ場所で生活しているにも関わらずこの話題はどこから湧いてくるのだろうと毎回不思議に思わされる。作りたてのポークビーンズは陸のどの店もの追従を許さぬほど絶品で、普段より多く酒が喉を通る。
「一つ聞くが、この生活と家族。お前達はどっちが好きだ?」
マッテンは質問を素直に投げかけてみる。
「そりゃ、愚問ってもんですよ。1万Dの価値がある宝石と現金1万Dを天秤にかけるようなモンですぜ。選ぶことなんてできやしません。」
周りの船員がそれに頷いて賛同している。
「なるほど、納得だ。」
「どうしてそんな事をお聞きになるんで?」
「聞きたかっただけだ。ザンジバルで一仕事終えたら、欧州へ戻るぞ、皆準備しとくようにな。」
僅かな静寂の後、歓声が沸き起こる。予想以上の反応に思わず耳を塞いだマッテンだったが注がれる酒を断るわけにもいかず、その夜は船室へ戻るのも深夜になっていた。
翌朝、何か雰囲気が違う船員達の下がらがらと大きな音を立てて碇が海中から姿を現した。朝日が目に染みるように感じながらマッテンは出航を叫ぶ。
「ザンジバルへ!」
大きな帆が一気に青空のキャンパスに広げられる。軽く前後しながら風を捉えた船は逸る船員の気持ちを宥めるようにゆっくりとその船首を西南西へと向ける。水面にゆれる船影はその輪郭をはっきりと描き、いよいよ速度に乗った船は一身に期待を受けてザンジバルまでの波を切り進み始めた。
(次に続く・・・予定)