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金の獅子の背に乗って
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金の獅子の背に乗って

第16話

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「航跡の価値 Ⅵ」

男性とすれ違う度に彼らの視線が思わず振り返る。その視線に気づいているか否かは定かでないものの脇目も振らずに足は郊外へと向かっている。風に誘われるままに踊る淑やかな髪がセビリアの日差しを受けて絹糸のように輝く。華奢に見えるその体で人ごみの中を軽く縫うように進みながら、やがて発展した街の風景を通りこし、所かしこに田畑が覗きだした頃、彼女が目指す一軒家があった。目に映る田畑は冬支度を整え、かつて青々とした生命感がひしめいていた季節など微塵も感じさせないほどに土景色が広がり、踏みしめる道の感触も寒さに凍えているのか味気もなく冷たい。乾燥した足音をざりざりと置き去りにしながら特筆するような特徴のない建物の前までたどり着くと一見して生活感のないその佇まいに躊躇させられる。手元のメモに書き写した住所をよくよく確かめながら付近にそれらしい建物がない事を確認するとその女性は敷地内へと足を踏み入れた。きいと鳴く少し錆付いた門をくぐり最小限に手入れされてりる玄関までの数メートルのアプローチを本当にここが目的の場所なのかという疑心を抱きつつゆっくりと歩く。大きめの一枚板で作られている玄関ドアの前で周りを見渡した、庭木はある程度の手入れが成されているもののそれもここ最近に手を入れたようには見えない、相変わらず無機質に思えるほどに存在する建屋に視線を戻すとドアをノックする。1回、2回とノックしても返事は返って来ない、掲示板の内容が誤っていたのか、自らの転記ミスかはたまた掲示内容が古かったのか、複雑な心境でメモを眺めながら、これが最後のノックだとノブに手を伸ばしたとき、彼女の耳に建物内から発せられた生活音が聞こえる。耳を疑うように静まり返った中でじっと耳を澄ませて様子を伺う。確かに誰かが中に居る、確信を得た彼女は3度目のノックに力を込める。
「はいはい。」
落ち着いた声の返事と蝶番の軋み音を共にしてドアが開かれる。真っ白なシャツの袖を捲り上げ、いかにも掃除中でしたと推測できる格好の男が現れる。
玄関で待ちわびた来客は被っていたピューリタンハットを脱ぎ、恭しくお辞儀するとこう口にした。
「シンシア・フーバーと申します。街の掲示板を見て訪ねさせていただきました。」

街の中心部にある連絡用掲示板、今や設置された当初の目的を失いそうなほどに節操を選ばない様々な掲示物で埋め尽くされている。そんな中の一点を見つめる女性が一人居た。隅から隅まで掲示板の内容を1つずつ確認すると、再び同じ箇所へ戻って内容をメモしている。そして手帳への記入が終わるとその足で酒場へと向かった。情報を得るならどこよりも船乗りに聞くのが一番確実で、船乗り同士の情報網は正確かつ迅速だった。
ちょうど表通りに面した酒場、潮風に吹き晒されて心許なく揺れる看板が充足を求める船乗り達を招いているように目に映る。ドアの外からも重く響く船乗りたちの声が聞こえてくる。船の上では多忙な彼らも陸ではやる事など高が知れている、女を抱くか酒をあおるかに大別される、そんな後者をいつでも抱え込んでくれるのは彼らの懐を狙って商売するこんな酒場だった。
「『ゴールデン・ルーヴェ』?最近、耳にするようになったな。」
良い具合に出来上がった船乗りは傾けた頭から尋ねられたキーワードを探すように宙を彷徨いながら回答を紡いでいる。
「商会長をトーレスとか言ったかな、あれは良い男だ。国のために良くやってくれてるよ。」
少し呂律の回っていないスペイン語に聞き取りづらいところも合ったが満足できる回答だった。偶然にも尋ねた相手がイスパニアの人間だったのが幸いに一介の船乗りまでに名前が売れている人物が商会長を務めているという情報は十分に納得できるものだった。一杯分の金貨をテーブルに置き席を離れる。
ごった返す酒場で聞きまわる中には決して良くない情報も混じっていたが、なかなかに評判は悪くない、確かに商会管理局での資料を見る限りもまずまずの評価だなと自分を納得させるには十分なだけの情報を得ていた。ただ、決意を固めるにはあと少しの何かが欲しいとも言う気持ちがわずかに残っている。
あと一歩の踏ん切りがつかないままに数日が過ぎてしまった、定宿の一室で掲示板から写し取ったメモを眺めてはそれを机の上で遊んでいる、その他にも数枚のメモが並べられているがどれも決定打に欠けると天井を仰ぐ。
「もう一押しするようなきっかけが欲しいな…」
手の中で遊ぶペンの行き先が定まらずに中を舞う。どこでも良いと言えばそれまでの決断になってしまう、しかし、この身を預ける先に妥協する事は、これから先にある有意義な時間を無意味に変えてしまうのではないかと踏みとどまってしまう程に重要なものではないかと候補となるメモに視線を戻す。
あとどれくらい悩めばこの鬱積した感情が好転するのだろうと、シンシアの葛藤は続いている。考えることを考えているような思考の迷宮に陥りながら、自らが立っている状況が最も招きたくない状況と気づくまでの時間は本人の思惑以上に経過していた。
このままでは埒も明かないと時折冒険者ギルドへ顔を出しては近海の依頼でその気を紛らわせてみる。
「こうやって海に出ているときには何もかもが許容されるわね…」
緩やかに揺れる船中で変哲のない窓外の海だけを眺めている事は彼女にとってなんの苦痛にもならない時間だった。なにも考えなくても刻々と変わりゆく水面の表情を見つめることでシンシアは陸上であれこれと考えすぎて溜め込んでいた心理的な疲労が逓減していくのを自覚できるほどに落ち着いている。
地中海の入り口付近で軽く地形調査を試みる、まだ熟練した段取りとまではいかないもののよく効率的に測量をしている。ジブラルタル海峡付近はその独特の地形から船同士の間隔が外洋のそれより狭い為に行き交う船の邪魔にならないよう測量を続けなければならない、それに加え思わぬところに遠浅の隠れ瀬があるために往来と座礁に注意しなければ思わぬ失敗を招きかねなかった。船内は妙な雰囲気に包まれながら淡々と測量作業を続けている、忙中にあっては悩んでいた事をすっぱりと忘れることができ身体的な疲労が彼女の精神を癒すような作用をもたらしている。日和的にはそれほどにも感じない中にも彼女にはじっくりと日の光を照り返すものが額に浮かんでいる、そしてそれこそが彼女の内面鏡の埃をさっぱりと洗い流すように日を経るにつれシンシアの表情にはみるからに生気を取り戻している。

「ふぅ…」
何かに取り付かれたように測量へ没頭した疲労感が支配する体を自室のベッドに放り投げてようやく彼女の緊張が解ける。見つめる先の天井はこの船に初めて乗った時となんら変わりがなくいつもの木目がその瞳に映っている。この船に乗り込む全てにおいて唯一自分だけが見つめることが許されているこの模様を何度見つめたのだろうかと覚束ない思考の中で疑問があれこれを浮かんでは今までの経験の断片が一片二片と思い出される。
「今までも楽しかったな。」
そう呟くと、枕元にあった資料を手に取る。知人が参考にと写してくれたある論文だった。
『美術とはその顕す内面性になにかしらの意図を常に感じなければならない。そのなにかとはその土地に根付く人々の生活や信仰を深く練りこんだ作者の意思そのものである。』
ふうんとシンシアはその一文を読んで思わず感嘆の声を漏らす。自分もこんな事を堂々と述べられる日が来るのだろうか?この筆者は何を見て何を感じそしてこの結論に至ったのだろうか?そしてその歳月はいかほどだったのだろう?そんな新たなる疑問が彼女の視線をその論文から離れなくしてしまっていた。

『美術とは人々に感動を与え続ける。美しきその姿を作り、美しいと感じる事は主が我々に与え給うた様々な能力の中で最も主に尊敬を抱かされる事である。その感動は我々の想像を越える生活を送る者達の美を目の当たりにしたときでさえ変わらずに純粋に美しいと感嘆の声を上げる事ができるが、前述したようにその土地についての理解を深めなければ目の前にある真実をみすみす見逃してしまうのである。』

セビリアを出港する前とは違ってシンシアの瞳がきらきらと輝いている。船員が食事を知らせに来た事にも返事をしたのかどうかも分からないほど彼女はその論文に魅入られている。体の内から焚き起こる情熱が鬱積した様々な疲労感を昇華させるように彼女は論文を読む手を止めることが出来ずに居る。随所に語られる筆者の言葉にうんうんと頷き、時にその難しい表現に繭を顰め、そして未だ観ぬ美術品を想像しては口が綻んでいる。彼女が書きとめたメモはいつの間にか数枚にも及んでいる。勤務交代を告げる鐘がの音にようやく現実に戻ったシンシアはいつの間にかこんなにも時間が経過してしまっていた事に気づく。
「すごい内容…。感謝しなくっちゃね。輻輳論的に捉えていてその理論には頷かされることが多すぎる。」
一息入れると今まで緊張していた腹筋が緩んだのか、急に空腹感を覚える。船員の皆はとっくに食事を済ませているだろう時間に食堂へと向かう。陸に居るときよりその足取りははるかに軽く、自身もそれを体感できていた。食堂では自分用にと1皿分がカウンターに置かれている。慣れた様子でそれを左手で、右手にワインとグラスを持ちテーブルへ移動する。出来たてなら有無を言わさぬ美味い食事だったろうが今は冷たく幾分本来の旨みが抜けてしまっているようにも感じる。いつもよりワインの量も増えるが昂ぶった感情を抑える面で言えばその2つは十分に役割を果たしたといえた。他に話す相手も居ない食事は簡単に短時間で終了し、厨房内で片付けるとシンシアは足早に部屋へと戻ると再び今の自分にはこれが何よりの発奮材料だといわんばかりに続きを読み始めた。相部屋の船員達は提督が行き来する靴音に今日の提督はどうしたのかあれこれと要らぬ噂で盛り上がっていた。

シンシアはそれからというもの昼は測量をし夜を論文を読む生活に変わった。特に論文は数ページ進んではまた読み返しを行い、一言一句まで理解するようなほどの熱の入れようだった。
そして数日後、依頼されていた測量の内容も完遂しゆっくりとセビリアへの帰途についていた船中で彼女の読む論文が最後のページを迎えていた。日が経つにつれて机の上にはメモが散乱し、磨り減った羽ペンがくず籠の中に数えるのが嫌になるほど捨てられている。
そして最後のページを読み終えると大きく胸を膨らませゆっくりと吐き出す。体中の凝りを解すように背伸びを繰り返す、充足感が指先にまで伝わるように脈動を感じる。これほどまでに夢中になれるもなのだとかなりくたびれ感の出てきた論文を頬杖ついてぼんやりと眺める。
「誰が書いたのかな……ライラって人か…」
シンシアは椅子に深く腰を掛けなおすと腕組みしながら自らの記憶の糸を細く辿る。この名前はどこかで見た記憶がある。それは特に重要な項目として確認したことではなかったためかすぐに思い出せなかったが確か商会管理局で確かに見たと思い出した。どの商会だったかまでは性格には映像で出てこなかったが机の引き出しからセビリアで頭を悩ませていたメモを取り出す。
「確かこのなかのどれかだったよね。」
彼女の中で不思議なつながりが生まれていた。この論文を読むことでシンシアは筆者にかなりの尊敬と親近感を持つようになっていた。見解の同調というものか彼女の今の状態は論文に感化され筆者に近づきたいという念が湧き、億劫にも思えたセビリアへの航路が急に意味をもつようになっていた。

セビリアの中央広場から少し西へと移動した先に彼女が目指す商会管理局がある。ギルドと同じようにいつも何かしらの人だかりが出来ているのが彼女にとって不思議な光景だった。お気に入りのピューリタンハットが人ごみに落とされないよう目深に被り建物の中へと入っていく。
「ライラ…ライラ…っと」
職員から貸し出された商会一覧の綴りを1ページずつ丁寧に捲りながらライラという名前を見逃さぬように確認していく。
「…La…Layla…ライラ。あった!」

商会名:ゴールデン・ルーヴェ
発足 :・・年7月13日
代表 :F・トーレス
副代表:ライラ…..

確かにシンシアの探す名前がそこにあった。自らが書きとめた中にあるゴールデン・ルーヴェ商会の募集に関してのメモと照らし合わせてみる。確かに同じ商会だった。
「うん、ここにしよう。もう悩む必要はないわ。」
商会管理局の建物を出たシンシアは手に握るメモを再び確認する、今彼等が活動している拠点はこの郊外にある1軒の家らしい。今は煩わしい依頼の報告書を纏め上げなければならないが、どうせ手続きに多少の時間はかかるだろうしと彼女は一度船へと足を向ける。
「最初っからあれを読んでいれば無駄に悩む必要もなかったわね。」
順序の前後で無駄に心労を重ねた事を彼女は笑っていた、しかし、石畳を叩く彼女の靴は海に出る前とは想像も付かないほど軽やかに船へと消えていく。
「解決するときなんてこんなもんよね。」
緩やかに緩む口元がそんな言葉を街中に捨て去って行く、雑踏は彼女がたどり着いたそんな一つの真理の言葉を飲み込みながら冷め止まぬ人の活動を誇示するように町全体を包み込んでいた。

「なるほど、掲示板を見てこられたのですか。まま、中へお入りください。」
玄関で対応した男はこの建物を訪れたシンシア・フーバーと名乗る女性を中へと招き入れる。中は外見と同じくして驚くほどに生活感が感じられず、所々には掃除が行き届いていない様子で調度品に埃の薄化粧をしている。
「いやはや、ここも集会所みたいなもんだから。たまに寄ればこの通りですよ。」
シンシアの思うところを察したのか、前を行く男は自分も呆れるよと言わんばかりの身振りで歩を進める。そして、リビングらしきところへと通されると掃除したてなのか先ほどとは違って綺麗に片付いている。
「ようこそゴールデン・ルーヴェへ」
先ほど先導していた男が飲み物と共に再び現れる。
席を勧められて互いに椅子へと腰掛ける。
「これしか見当たる飲み物がなかったので口に合いますかどうか。」
っと無駄のない手つきで紅茶を注ぐと男はシンシアに差し出す。
「ありがとうございます。」
緊張の為かひどく喉が渇いている、ゆっくりとカップを手に取り口へと運ぶ。
「わぁ…凄く美味しい…」
予想以上の味にシンシアは躊躇なく驚いている。そんな彼女の様子に動じることもなく男はまだ袖捲くりをしたままで自分の淹れた紅茶を楽しみ、そして一息つくと口を開いた。
「私はヒロッチといいます。久々にここに来てみれば、やはりな状況で掃除してましてね。対応が遅れまして申し訳なかったです。」
「いえ。こちらこそ突然に押しかけまして…」
「商会に興味が?」
「興味っていうより、もう手続きをしてきたのですが。」
「そうでしたか、まだ局からの連絡が届いていないようなので存じ上げませんでした。」
「これからお世話になります。ところでこの紅茶はヒロッチさんが?」
何の話かと不思議な顔をヒロッチは見せる。
「その。余りにも上手で…」
「ああ。これは紅茶の淹れ方にうるさい人が居てね。」
ヒロッチはそれが商会の偉い人だよという事をなんとなく伝えるようなそぶりを見せる。「あはは、どこも一緒なんですね。」
「そんなもんだよ。さて、折角お越し頂いたんだし商会の説明でもさせてもらおうかな。」
そう言うとヒロッチは分厚い資料を持ち出してくる。いつの間にやらこんな資料も出来てたんだよと、面白おかしく説明を始めた。彼の説明は要点を突き聞く側にとっては実に理解が容易くしかも時折ジョークにも取れる商会での笑い話を織り交ぜながら手元の資料にある説明しなければならない事項について立て板に水を流すよう滔々と進んでいく。そもそもゴールデン・ルーヴェには小難しい規約は殆ど無かった、しかし、商会として存在する以上は何かしらの縛りや規則が発生し、条件を満たさない場合は管理局から商会としての立場を剥奪されることもあったため、説明の内容はもっぱらそれらを回避するためのものが大半を占めていた。
数杯の紅茶と途中休憩を挟みヒロッチの説明は日が暮れるまで続いた。
「さて、これで終了です。まだ覚えきれないでしょうが、少しずつ覚えてください。」
そう言いながら資料を閉じるとヒロッチは少し残っていた紅茶を飲み干した。
「あの、この商会ってヒロッチさんのような方ばかりなのですか?」
「っと言いますと?」
シンシアはヒロッチの説明を聞き、終始丁寧な態度に感心していた。人に何かを説明するということは、その内容をしっかりと把握し簡潔な言葉でどれだけ纏められるかという点に尽きる。彼女はそれをしっかりと体現するヒロッチの言葉に多くの教養と知識が詰め込まれている事を感じ取っていた。もし、目の前に居るヒロッチのような人物が集まる商会であれば自分は疎外感を感じ得ないだろう。そんな不安が彼女の脳裏を掠めた。そう言えば、自分がゴールデン・ルーヴェに入ろうとしたきっかけはあの難しい論文を読んだからではなかったか。あの論文を書いた人物が副代表を務め、さらには先ほどから説明をしてくれたヒロッチの事も合わせて考えると、とても自分に似合った商会ではなかったかもしれないと今更に後悔の念を抱かざるを得なかった。
「私、この論文を読んで…」
彼女は船中で夢中になったライラが書いた論文を見せる。
「あぁ、ライラさんの論文だね。」
「私のような者が入っても大丈夫なのでしょうか?」
ヒロッチはその問いの真意と彼女が抱いた疑念をすぐに悟った。
「ゴールデン・ルーヴェは誰でも入会を歓迎しますよ。『皆で楽しく』がモットーだし、片意地張るような事もないよ。」
「そうなんですか?」
「それに、ウチの偉い人の中には変わった人が居てね。1年中ふらふら何か動物を追いかけてるかと思えば、やれ紅茶の淹れ方だ、酒の銘柄はどこが良いとか言ったりね。」
肩をすくめるよう見せながら態とおどけてみせる。
「あはは、ヒロッチさんてお話が上手いんですね…」
「それほどでもないですがね…」
ここでヒロッチは玄関から聞こえる物音に気づく。そしてシンシアに口を開かぬように合図する。
「誰か居るの?」
聞き覚えのある声が聞こえてくる。声からして女性のようだ。しんと静まり返る室内にその歩み寄る音がどんどんと大きくなってくる。喋らないだけなのにじっと身を硬くしている2人の影がランプの明かりに照らされて細かく壁に踊っている。口を噤む事がこれほど1秒を長く感じさせるのかと2人の視線が入り口へと突き刺さっている。
「珍しく人が居るのね…ってヒロッチじゃない。」
「アンレさん、お久しぶり。」
部屋に入ってきたのはアンレーデだった。いつものように脇に多くの書類を抱え、反対側には今日の食事らしきものが提げられている。部屋に入ってきた彼女はざっと状況を考えているようだ。ヒロッチはそんなアンレーデを影で指差しながらそれがこの人なんだよとシンシアに無言で伝えている。
シンシアは、話を聞くだけでその主が男性だと思い込んでいたらしく、いきなりに現れた当事者との誤差に自分の中で消化しきれずに目を丸くしているようだ。
「ええっと、大人時間だったかしら。お邪魔しちゃ悪かったわね…さっさと退散するから気にせず続きをどうぞ…」
とりあえずの答えを導き出したアンレーデは精一杯の気遣いを見せながら部屋を出ようとする。
「アンレさん、ちょっと待った!大人時間は何か知らないけど、このシンシアさんは新しく入会された方だよ。」
「入会?…あぁ、さっき局で申請があったみたいだからサインしてきたんだけど…」
脇に抱えている書類の束からそれと分かる封書を取り出す。これが手続き完了を告げる内容の封書だとアンレーデは告げた。
「そう、その申請した方がこの人…シンシア・フーバーさん」
「あらっ、そうだったのね。シンシアさん副代表をしているアンレーデです。よろしくね」
互いに挨拶を交わし。アンレーデも空いている席へと腰を下ろす。そしてコレまでの顛末をヒロッチから告げられると2・3度頷いてもう自分が説明することもないので食事でもと2人を誘う。もっとも、これから作る事になるのだがと持って帰ってきたもう一つの大荷物を指差して笑った。ヒロッチは再び袖を捲し上げると自分が作ってくると厨房へむかった。
「そういえば、ライラの論文を読んでとか言ってわね。」
「はい、これです…」
「私も読んだけど、これに感化されたとは凄い感性ね…私には難し過ぎたわ。」
「いや…あの…」
「緊張しなくても良いわよ。私は副代表なんて偉そうな肩書きだけど何もやってない役立たずなんだし。」
そう言って笑うアンレーデはシンシアの持っていたライラの論文をペラペラと捲っている。
「でも、こうやって人の心を突き動かす事を出来るって素晴らしい事ね。」
ランプの淡い光が楽しげなアンレーデの横顔を薄っすらと憂い顔に染める。
「分野は違っても同じ学者としての生業を立てる者同士として羨ましいわ、私達は自らの探究心を満たすため、そしてなにより生きる為に海を渡っていくけれど、その成果が1人の女性の心を突き動かす原動力になるなんて、強ち徒労で終わらないのかもしれないわね。」
まるで独り言のようなアンレーデの言葉にシンシアは沈黙で答えるしかなかった。
「もっとも、私の場合はこんな素晴らしい作品を残す事をしないから無理でしょうけど。」
うって変わって目を細めて笑うアンレーデ。対するシンシアはその不思議な感情の移り変わりに意表を突かれるようにしてどう反応して良いのか分からずに硬直している。
「アンレさーん、シンシアさーん、できたよー」
遠くからヒロッチの声が聞こえる。
「さてとっ。難しい話は終わりにしましょう。」
セビリアの郊外にある1軒の建物。いつもは人影すら見えないその建物に今日は珍しく灯が点っている、そして賑やかな声の会話が絶え間なく続いている。時折吹く風の音もどこか乾いていて寒さを伝えている。そんな事も構わずに3人の夜は明るく更けていくのだった。

(航跡の価値 終わり)
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