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金の獅子の背に乗って
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金の獅子の背に乗って

第17話

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anrede

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「越えてきた日々」(前)


食卓には夕方に焼かれたパンやタラをハーブで煮込んだもの、きのこのバターソテー、地中海で庶民に愛される鶏肉の香料焼きなどが並べられている。北海と地中海の料理が混在する食卓を囲みその場にいる全ての者がテーブルに並び主への祈りを捧げている。
「天にまします我等が父よ、今日の糧を食せることを感謝いたします…」
短い黙祷と祈りの文言が静かに終わり胸前で十字を切ってその祈りは完了した。閉じていた目をゆっくりと開き賑やかな晩餐が始まった。久々に一家揃っての食事にいつもより軽く感じる唇が留まることを知らぬように今日までの出来事を紡ぎ出している。
「インドは危険だ、危険だと騒ぎ立てる人も多い。無事でなによりだ。」
父親の顔は安堵に眉が下がりつつも、今日まで募っていた不安を含ませるように娘達の帰宅に関して口を開く。かつては自らも船に乗り大海を駆りながら、まるで海こそが安住の場所であると言わんばかりの生活を送っていた。それゆえ時代が変わったとは言えども海の危険を熟知する彼にとっては愛娘が自らの後を追うように同じ道を歩んでいることが不安でならなかった。しかし、その不安も娘が自立している結果だという思いも同時に彼の胸に浮かび上がるが、それ以上の親心が良き伴侶を見つけ、早々にも危険な海から上がり人並みという幸せに包まれて生活して欲しい、そして自らの近くに居てほしいと願わせていた。
「インドは確かに危険かな。でも、各国の海軍が頑張ってくれてるし。噂以上には危険じゃないよ。各国の面子がかかってるからね」
チーズを練りこんだマフィンを口へ運びながらクリスチーネはさらりと無事に帰ってきた事が当然であるかのように平然としている。
「そうか…なら良いんだ。」
父親の言葉は妙に歯切れが悪かった。娘の言うことを信じていない訳でもなかったが、彼女達が海で経験してきた以上の経験と知識を有する彼の不安は軽薄な根拠のみの言葉に素直に頷けずにいた。
「アイメル、ウーナ。今日の料理はどうかしら?母さん頑張ってみたんだけど」
少し沈んだ空気を払拭するような母親の声が、きっぱりとその場の空気を切り替える。
「やっぱり、母さんの料理が一番だね」
「うん、美味しい。」
長い航海の中で過去に立ち寄った様々な街で数ある料理を口にしてきても、こうやって母親の手料理を口にすることがもっとも自分達にとって大切な栄養価であるのは皆誰もが感じていた。
「忘れられぬは母の味というけれどね、この味も母さんだけの味じゃないのよ」
母親の眼差しはいつにもまして優しく3姉妹を見つめている。
「この味はきっと貴女達に受け継がれるわ、でもね、これは必ずしも守らなければならないものではないのよ。」
全く変わらない口調のままで椅子へ腰を下ろしながら発した言葉の真意をクリスチーネはすぐに汲み取ったが、アイメルとウーナはそれが何を指すのかを漠然と掴めないままに目の前にある料理に舌鼓を打っている。
「暫くは居られるのか?」
クリスチーネがそれを理解したことを見届けた父親は、残る心配を口にする。
「今回はゆっくりできそうだよ。何事もなければ1ヶ月は居られるんじゃないかなー。」
1ヶ月、親子の時間がこれほどに短くしか取れないという職業をこれほど恨めしくも思得ることはなかった。月日が経つほどにより募っていく彼の思いを当人達がどれほど感じ取ってくれているのかなどと娘達の居ない生活の中で自問する時間も増えてきていた。
「久しぶりに店でも手伝ってくれないか?明後日には新しく荷が届く、忙しくなるからな。」
父親の言葉に少し視線を天井へ向けるように考えた後、クリスチーネは頷きながらその旨を了承するように答えた。
「うん、わかった。」
「すまないな。」
ウィスキーを傾ける父親の声は小さくとも3人の愛娘にしっかりと届いていた。

「ふぅ…」
自室のベッドにその身を投げ出す。
日向の匂いのする布団が柔らかく心地良い。きっと母親が干してくれたんだなと、まだ日差しの温もりの残る所へ頭を埋める。
「お母さんの味…守るべき物とそうでない物…か。」
視線の先に映るよう左手をかざす、何もない薬指をじっと凝視しながら両親の言葉を態とらしく口に出して繰り返す。
各国を忙しく動き回る彼女にも全く男縁に恵まれない訳でもなかった。容姿も王城の中に居る女性と比べると我が身にかける資金の差も素材も全く桁が違って競う土俵が違っているものの、街中ではどちらかと言うと声を掛けられる部類に入ると言っても良かった。
そしてそんな中で彼女もまんざらでもないと思わせる男性との出会いもあった、しかし、彼女が生きる術として選んだ道はその誰しもに完全なるまでの理解を得られるものでもなく、どれもが全て過去の思い出として残っているだけだった。
「そりゃ、お父さんとお母さんの出した結果はすばらしいけど…」
クリスチーネは自問する中で両親と自分とを比較していた。
3姉妹の両親は父親がイングランド国籍、母親がイスパニア国籍という国境を越えた恋愛を成就させた2人であった。

父親が海を駆る商人としてある程度の名を挙げつつあった頃、当時は今より遥かに危険とされていた東地中海との工業品取引で確かな手腕を発揮し、他国の酒場でもその名が噂されることもあるほどの人物だった。
渡り鳥のような生活に使いきれぬほどの金がその手に握られると、陸での生活は自然と派手なものとなり庶民には手の届かないような高価な酒や食事を飽食するような日々が続いていた。
そんな生活の中で若き父親は嵐を回避する為にマラガの町に降り立つ。
町全体に特筆するべきものは少なくサンゴとサフランを取り扱っているものの、当時はさほど大きくは発展しておらず、それゆえ外船が立ち寄る事も少なかった。しかし、その土地に住む人々は比較的穏やかで余所者にも温かかった。
そんな街の酒場でも大盤振る舞いの時間を過ごし、彼等のことはスグに街の噂となり。噂が噂を呼び、中には金持ち相手に擦り寄る爪弾き者も居た。
当初は嵐が過ぎるまでの滞在だと予定していたが、嵐の傷跡は思った以上に彼等の船へ大きなダメージを与えており、已む無くの長逗留を強いられていた。
何事も度を過ぎれば何かしらの軋轢が生じるのは世の定め、最初は金払いの良い上客だと思っていた酒場や宿屋の主人も彼等の金に物を言わせるだけの騒ぎっぷりに次第に眉を顰め始めていた。
そして何より異性交渉のだらしなさがそれに拍車をかけていた。
娼婦相手ならともかく、町娘を金で買うようにして部屋に連れ込む者が居たために彼等に対する視線は次第に白々しいものへと変わっていっていた。
提督自身も夜な夜な部屋に違う女性を連れ込んでいる状態で、船員に自重を促す態度ではなかったのである。
数日間で住民との関係が離れてしまった彼等は、そんな事にお構いなくと派手な生活を続けていたが、提督はそんな毎日に少し飽きてもいた。
ありきたりの食事、ありきたりの酒、そしてありきたりの夜を過ごし、なにかポッカリと空いた胸の奥を埋めるように相手を変えての事にも埋まることはなかった。
提督にとって興味のなくなった町に逗留せざるを得ない日々のある朝、いつものように女を部屋から追い出すようにして1人ブランデーを煽っている所へ宿屋の娘が入って来る。
「お目覚めですか?お片づけをと思いますが、如何いたしましょうか?」
「ふん、勝手にしろ。」
「では片付けさせていただきます。」
そう言うなり娘は手際よく食器を下げ、部屋の片づけを始める。
「そうやって当てつけのように振舞って宿から追い出そうという算段か?」
嫌われついでに悪態をつくような言葉が飛んでくる。
「町のモンにはさぞ疎ましい奴等だと映っているのだろうな、さっさと町を出て行けか?」
娘は片付ける手を止めずその言葉を聞いている。
「言葉を交わすことすら汚らわしいか?随分な態度じゃないか…」
自分でもひどい言葉だと思いながらも、言葉が口を止めようとしない。
「アンタ、結構美人だな。どうだい今晩俺と一しょ…」
その台詞が終わらないうちに娘が声を出す。
「私は宿屋の娘です。私にとってあなたは大切なお客様以外の何者でもありません。」
その声は堂々と正面を突き破るように提督へ向けられていた。
「そうやって奇麗事を言って、なにか下心でもあるんだろう?いいぜ、金なら有るんだ。」
「例えお客様がこの国の王であれ、路銀に困るような方であれ、どなただろうと私は同じ事をさせていただくだけです。私は昨日という日が返ってこない事に後悔しないよう今日という日に宿屋の娘としての責を果たしているだけです。」
娘の言葉は優しく流れるように目の前に居る男へぶつかっていく。そして力強く曇りのない瞳に見据えられると耐えられないように顔を背ける。
「そうか…。」
雷に撃たれたような衝撃を受けようやく搾り出すことができた言葉だった。
「それでは良い1日を過ごされますよう…」
そう言うなり娘は部屋を出ようとする。
「待った。いや、待ってくれ。さっきは済まなかった、つい…気を悪くさせてしまった。お詫びと言っても何もできないが、どうだろう食事でもご馳走させてもらえないか?」
娘はその言葉に優しく笑うと宿屋の仕事がありますからと言い残し部屋を出て行った。
「あ、ちょっと待ってくれ…」
酔いの残る足が重く絡まってしまい、ドアから身を乗り出すようにして出て行った娘を探すも、その姿はすでに次の仕事へと置かれていて声を掛けられるようにない雰囲気にがっくりと肩を落としながら部屋へと戻り、釈然としない気持ちを抱えたままベッドにその身を預けた。
その日から男の生活は何をおいても娘の言葉に支配される時間が多くなっていた。
酒を飲み、食事をし、女を抱いてもそれは消えることなく彼を我に返させた。
そして、毎朝決まった時間に娘は部屋の片付けに来る。その度に食事に誘うのだが、彼女はににべもなく宿屋の仕事があるからと断られていた。
「なぜだ?何をしようって話じゃない、ただあの日の詫びをしたいんだ。な、少しで良いんだ時間をくれないか?」
「そのお心はとても嬉しくて身に余りすぎます。しかし、私はこの宿の娘としての仕事がそれ以上にありますので…」
娘の返答はいつも同じ内容だった。
相手が金持ちだと知るや態度を一変させる人物は掃いて捨てるほど居た。そして、自分がこんな生活をしているのが噂になると今まで上目遣いだった人達でさえ手のひらを返すような態度に変わることも屡だった。しかし、この宿の娘は初めてこの宿に来てから今までそんな素振りを見せないで居た。
「まぁ、影では何を言われているやら知らんが…」
狙ったとおりの結果が出ないことの苛立ちが思考を悪い方へと導いていく。
「俺とあろうものが、たかが片田舎の娘になにをしているんだ。」
造船所にはあと3週間は掛かると言われている、ならば気ままに生活させてもらうさと窓からみえる景色をぼんやりと眺めながらグラスにブランデーを注いだ。

そんなある日、若い父親は何の宛もなくふらふらと街中を散策していた。のどかな町並みはセビリアやリスボンの大都市とは違って余分な雑音が響くことがなく、人の生活感が路地のあちこちから見る事ができ、今まで生き急ぐように生活していた彼にとってそれは暫く足を向けていないイングランドの故郷を思わせるような町だった。
「何もないな…」
彼が幼少を過ごした町も何もない町だった。そこに有ったのは昔ながらの人情と温かさ、そして素朴な田舎料理である。
片田舎を飛び出し、とある商人の下へ転がり込んだ。そして十数余年の月日が流れた今、あの町に居ただけではなしえなかっただろう地位と金を手に入れた。年に数回は故郷へ戻る事もあるが、それは故郷に錦を飾るという者ではなく一介の商人が町へと立ち寄る程度のものだった、骨を休める休養というものはあの町を出て以来、この体を芯から休める事をする術を持たなかった。いや、正確にはそれを求める場所を持てなかったのである。
噂に名高い風光明媚な土地へ行こうとも、長逗留しつつの療養を得ようとしても、彼の体が休まることはなかった。体一つで飛び出し、身を粉にしても足りぬほどの労働の末に掴んだ物は彼の心を埋めきれずにいた。
「…おや。あれは…」
愉快とは言えない思いを抱えながら散策する彼の視線の先に、宿屋の娘が大きな包みを抱えて歩いている。華奢な体の割りには大きな包みを抱えているためか、娘の足取りは軽やかとは言えない。
「買出しの帰り道かい?」
「え、あ。はい。」
「大層な荷物だな。私が持とう。」
「いえいえ、どんでもございません。お客様に手伝わせるなんてできません。」
「そう言うなって、か弱き乙女が大きな荷物を抱えている。それを見過ごす方が紳士としての意地が廃れるってもんだ。さ、貸しなさい。」
そういうなり娘が持っていた包みを軽く腕に抱える。
「あの、そんな事をされては…」
「まー、風評悪い俺と一緒に歩いているって事がアンタには迷惑かもな」
「とんでもありません!私には貴方が風評通りの人ではないと思っています。」
「ほぅ、お世辞でも嬉しいねぇ」
「残念な事に私は宿屋の娘です。それだけに様々な人と接する機会が多く、何となくそんな気がするんです。」
「職業病ってヤツか…」
若い身でありながら、大した事を言うと若き父親は関心した。
逆に、こういう生き方を選んだ娘と接する機会が少なかった彼にはその姿が特に斬新で興味深かった。
しかし、それっきり娘は言葉少なく歩き始めた。思わず喋ってしまった言葉に男の言葉が途切れた為に気分を害してしまったと思い込んだのだ。
そんな、片言だらけになった会話と共に2人は宿へ続く道をゆっくりと歩いて行く。
「そうだ、あの話は考えてくれたかな?」
「お言葉だけで十分です。宿の仕事を抜ける訳にはなりませんし…」
「なるほどね。」
「お誘いだけで私は満足です。」
「いや、なに。これからは商人としての意地だよ」
「え?」
それから2人は他愛ない話を短く続けながら宿までの道のりを一緒に歩いた。暖かな日差しが並び歩く影を足元に強く残していた。

それから数日して宿屋の娘と若き父親は同じテーブルに座っていた。
あれから宿屋に着いた彼は荷物を返すなり、宿屋主人と対峙する。
そして娘の知らない所での駆け引きの末にこの席を設ける事に成功したのである。
「父に『行って良い』と言われたのですが…。」
娘は目の前に座る男に対する父が持つ反応を知っていた、それだけに父からの許可が下りるなんて事は露ほどにも思っていなかった。
「なに親父さんもいつも良く働くアンタに偶の休みでもしてもらいたいと思ったんだよ。良い親父さんじゃないか。」
困惑する気持ちが素直に表情に出ている娘だが、服装は普段と大違いである。
「これはあの日の詫びだ、今日を存分に楽しんでくれれば良い。」
そういって、グラスを持つとささやかに乾杯と傾ける。
「店の事が心配かな?」
娘は男の声に力なくコクリと頷いて答える。
「確かにアンタの代わりになるほどの戦力にはならないだろうが、日雇いで給仕さんに店へ行ってもらっている。だから、安心してくれ。」
それで娘も少し気が晴れたのか、それとも諦めたのか漸く顔を上げた。
「おうよ、そうでなければな。」
やっとテーブルが明るくなった。酒が進むにつれてゆっくりと口も軽やかになり、娘も宿で会う時よりもより年齢相応の言葉が混じるようになってきていた。
娘がふと相手の皿に目をやると、そこには魚料理に対して食が進んでいない。
「あら、魚料理は苦手ですか?」
「俺は北の出だからな。ただ、このオリーブ油ってのが…」
「なんか可笑しいですね。いつも堂々としてらっしゃる方にも苦手なものがあるなんて。」
北海の厳しい気候ではオリーブは育ちにくい、それに代替するようにラードや鯨油など動物性の油脂類が一般的に使われている。
「あぁ。宿の食事はそれを感じさせないほどに美味いものばかりだ。」
慌てて取り繕うように少し大げさなな手振りを見せる。その姿が娘の何かに響いたのか口に手を当てて笑っている。
「他国のお話を聞かせてくださいませんか?」
それならお安い御用だと気を取り直すように軽く咳払いをする。そして、男は今まで自分がその耳で聞き、その身で体験してきた事を語り始めた。
その中には多少なりの脚色と誇張が入っていたが、娘にとってそれが真実か否かは分かりようもなく、ただその語り口に対し真剣に耳を傾けている。
危険な東地中海、芸術が集まるヴェネツィア、海と白壁が美しいマルセイユ、セビリアの活気について若き父親は陽気な口調で語っている。
未だ見ぬ異国の様子を必死に想像している姿は一片の美化もなくあどけない少女のように可憐に映る。

「さて、お話も良いが、折角に1日という貴重な時間があるんだし…」
そういって店を出ると、時間の経過を忘れるようにマラガの街を遊んでいく。
娘の為にと服を買い、偶然に町に逗留していた行商の一行から宝石のアクセサリーを買い、時には町の高台で語らい、まるでその仲のように2人は時間を共有した。
夕食を終えて潮騒の聞こえる港へ辿りつく。
「今日は1日ありがとうございました。今でも夢の中にいるようです」
濃紺に染まる海を眺めながら娘は礼を述べる。今日まで生きてきた中では考えられない1日が過ぎようとしている。彼女にとって今日は現実ではなく夢の中を泳いでいるような錯覚に囚われていた。
「私はこの町で生まれ育って来ました。時折聞く異国の話はどれも私にとっては御伽噺なのです。」
月明かりの淡い演出が昼間見る彼女とは違った側面を作り出している。真っ直ぐに海を見つめる横顔は今日という日を明日の為に忘れようとしているようにも思えるほど憂いを帯びている。
暫しの沈黙が2人を支配する。
「宿の娘という身分を忘れ、まるで恋仲のように接してしまいました…」
娘の声が静かに漏れる。
「それだけ楽しんでくれたと解釈して良いのかな。その言葉が聞けて嬉しいよ。」
「一つお聞きしてもよろしいですか?」
「あぁ、なんでも聞いてくれ。」
「なぜ私ごときにこれほどまでして下さったのですか?」
「アンタだからだよ。」
「え?」
「昨日という日を後悔しない為に今日の責を果たしたいと言われたとき、俺はアンタに目を覚まさせてもらったような気がする。」
「でしゃばって申し訳ありませんでした。」
「いや良いさ。俺には図星過ぎて悪態をつくしか出来なかった。謝らなければならないのは俺の方だ。」
「…」
「どうだろう。またこうして会ってくれないか?」
「嬉しいお言葉ですが…私には…。すみません、もう遅いですし戻らないと…」
振り返って家路に着こうとする娘の手を取り引き止める。
「これ以上されても私は…あまりにも違いすぎます。」
わずかに光るものが彼女の目に滲んでいる。
華奢なその身を抱きしめたいと思う気持ちを強く抑える。これ以上は余計に彼女を苦しめるだけなのかという思いが彼の脳裏をよぎる。
若き父親は片膝をつき、娘の右手にそっと口付けをする。これが今の彼にできる精一杯の事だった。
「苦しめてすまない…俺が欲張りすぎたようだ。でも、最後に1つだけ君を無事に送り届けるという紳士としての責務をまっとうする事だけは許してくれないか。」
2つの影が港からゆっくりと離れて行く。2人にとって初めての2人だけの時間はこうして閉じたのである。

それからというもの若き父親の生活は一変した。
大きく派手に遊んでいた生活をぴたりと止めると、宿屋の主人との度重なる衝突も交えながらゆっくりと時間を掛けて理解を得ようと奔走を続けたのである。
女など掃いて捨てるようにしてきた提督がこんな片田舎の娘に何を入れあげているのだろうかと不思議がっていたが、その姿が日を追っても冷めぬ様子を見て『惚れさせられている』と陰口を叩いていた。なにより自分達にも襟を正すような規律を強いられてしまっている事が不満を一層に募らせていたが、現提督を離れても次には貧乏くじを引かされるかもという不安も手伝って船を下りる者は居なかった。
船が直り、いつでも出港できる状態になっても若き父親はその町から離れようとはしなかった。
「分かった。娘との交際を認めてやる。」
宿屋の主人からその言葉を引き出すことが出来たのはそれから2ヶ月を越えていた。
ようやく公認の仲となった2人は人目を憚ることなくその間を急速に縮めていく。
互いが互いをより深く許しあえるようになった頃、町の高台で若き父親は新たなる悩みを抱えていた。
遠くに見える海を眺めながら溜息をつく回数が日ごとに増えていった。
己の人生としてこのまま彼女と一緒になりこの町に落ち着くか、それとも彼女を船へ載せるかという決断を迫られていた。
「どちらを取っても、誰かが損をする…」
悩んだところで易々と結論がでるはずもなく、鬱々とした日々に天を仰ぐしかなかった。
愛するべき人のわずかな変化は相手にも伝わっていた。
そして、結論がでないままに生活していたある日、若き父親は宿屋主人に呼び出された。
「この町を出ろ」
もう馴染みになった酒場の一席に面向かうように座った父親の第一声だった。
思いがけない言葉に息が詰まる。
「今週中にこの町から出ろ。」
再び父親が口を開く。
「娘さんとの仲を認めてくれたんじゃないんですか?」
「あぁ、認めた。」
「では…なぜ?」
「娘にも荷造りをするように言ってある。」
「え?」
「親としてあいつの苦しむ姿ほど耐えられないものはない…わかったな。」
若き父親は立ち上がると深々と頭を下げる。
「準備があるんだろう、さっさと行け!」
「申し訳ありません!ありがとうございます!」
若き提督は大きく返事をすると走って店を出て行く。
その人物が開けたドアが閉まる音を背中で聞きながら宿の主は残るウィスキーを一気に飲み干した。
「今日の酒は効かんな…」

数ヶ月にも及ぶマラガの生活に区切りをつける日が来た。
一人も欠けることなく揃った船員、その中には提督に習うように同伴者を連れた者も居た。
港には一介の商船の見送りには似合わない見送りの人が駆けつけている。
「やれやれ…こんな結末が待っていたとはね…ま、嬉しい限りだな。」
隠そうともしない笑い声が甲板に響く。
「さて、お前等。久々で仕事を忘れてないだろうな?」
「忘れてるかもしれませんねぇ」
「忘れてるヤツは減俸覚悟しとけよっ!出港だっ!」
がらがらと大きな音を響かせながら碇が海面に姿を現すと同時に、収まっていたメインマストの帆が青天を覆い隠すように広がっていく。提督は別れを惜しむように手を振り続ける船員達に混じって見送りに来た人達の中に宿屋主人夫婦の姿を見つける。その口が何かを告げようと一度開きかけるが、主人はそれをぐっと真一文字に結ぶと静かに提督を見つめた。その顔は親としての威厳に満ち、寂しさを億尾にも感じさせないものだった。
やがて船がマラガの街を離れ小麦の粒ほどにした頃に提督はやがて伴侶となる娘と自室にいた。
「…あんな顔で送り出されるとは…立場が逆だったら俺はあんな顔ができるだろうか…」
「それはこれから分かることよ。」
「そうだな。」
「まずは何処へ連れて行ってくれるのかしら?」
「北だよ。君と一緒に行く最初の旅は俺の故郷への旅だ。」
「楽しみね」
その後、故郷へと戻った2人はそこで新たなる生命を授かった。長女クリスチーネである。
愛娘の誕生に喜ぶ両親、これを機に父親は遠距離交易の回数を極力減らしイングランド周辺の近海交易に切り替えた。そして2年後に次女アイメルが誕生する。
2児の親となってからは、ロンドンから程近い町で陸商人としての生活を始めていた。俗にいう「陸に上がった」生活へ踏み切ったのである。船を後進へ譲り誰もが羨む夫婦と評判とともに構え腰をすえたのである。
そして2年という短期間で商売を軌道に乗せ、安定した生活基盤を築くと妻の故郷であるマラガへ向かう船へと乗り込んだ。ただ、この時妻の身にはまた新たな命が宿っていた。
そしてマラガの地で三女ウーナが誕生した。手続きの関係上でどうしても出生地が関わった為、ウーナは母方の国籍になったのである。

ベッドに身を沈めるクリスチーネは何度も聞いてきた両親の馴れ初めを思い起こしていた。
父親と自分を重ねるには決定的に違うものが多すぎた。両親が自らの身を案じてくれていることは痛いほどに伝わってくる。しかし、それ以上に今の自分が自分を表現するために生きていることを証明するためには今ある状況が最善の手段だと信じて揺るがなかった。
「私だって…男の1人や2人ぐらい…」
そう呟くと視線の先に上げられていた左手がぱたりと布団へと下ろされる。柔らかい寝床と母の手料理に満たされた胃袋、そして長旅の疲れにクリスチーネはそのまま眠りについていた。それはアイメルとウーナも同じでクリスチーネが寝入るより早く2人は幸せの時間に包まれていた。3人の寝顔には商人として生きる圧力から解き放たれた安堵感に満ち溢れていた。
(続きますよー)
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