アットウィキロゴ
金の獅子の背に乗って
掲示板 掲示板 ページ検索 ページ検索 メニュー メニュー

金の獅子の背に乗って

第24話

最終更新:

Bot(ページ名リンク)

- view
メンバー限定 登録/ログイン

「その手に掴むもの」Ⅴ


昼下がりの陽気と食後の充足感に包まれて瞼が自然と重くなっている。
穏やかに揺れる船室のリズムが心地の良さを阻害する事無く続いている。
このまま傍らにあるベッドへ横になりゆっくりと体を休めることができるなら、それこそこの世に存在するあらゆる悦楽の最高位にある至福ではないだろうか、そして用意されている至福を拒む事は生を受けて以来の反逆ではないだろうかと、まどろむ意識の中で自らに都合の良い理屈を並べている。
「提督っ。お時間ですよ!」
船員がドンドンと扉を叩く音が部屋の主の意識を呼び戻す。
「提督?まさか出ないわけでもないでしょう?起きてください。」
騒音が戻ったばかりの思考回路に響く。
それにしても寝ていると決め付けている対応が癪に障る。
「ハナっから目覚めさせる対応か。」
室外からの声に何言かを返して、ようやく耳障りな音が止んだ。
仕方なしに目覚めてしまっては約束の時間に遅れることも出来ず、簡単に身支度を整えるために重い腰を上げた。
手鏡に写した自らの顔はどこかまだ眠気を纏っていて、不意に連発する生欠伸がいつもの手順を遅らせている。
「提督、大丈夫ですか?そろそろギリギリの時間で…」
待機していた船員が痺れを切らした台詞が言い終える前に扉が開く。
「お…おはようございます。」
見るからに分かる不機嫌さに思わず船員の声が詰まっている。
「副船長が甲板でお待ちですが」
「あ、そう…」
船員の声に簡素な返事を返すと重い足取りで甲板へと向かう。
頑丈に作られた扉を開けると容赦ない日差しが船内を照らす。
思わず眉間に皺が寄る、手で庇を作り自然界の洗礼を避けながら甲板へと立つ。
「おはようございます、提督。と言っても昼前ですが。」
「うぅ…日差しが痛い。」
「ははは、それより約束の時間が迫っています。急ぎましょう。」
「んー、やだ。休む…」
「そうはいきません。行きますよ。」
軽やかに提督の意見を無視し、副船長はタラップを降り始めた。
その様子を眺めながら、自分の意見・意思が悉く無視されている事に改めて気付く。
「一応、提督なんだけど…」
変わらない日差しが煩いほど降りかかってくる。恨めしく太陽を睨むと渋々自らもタラップへ足をかけた。
「あー、ヤダヤダ…」
呟くような文句が口を出る。
「文句言わないで早く降りてきてくださーい。」
「(なんで分かるのよっ)」
シラクサの港には近隣諸国から集まった船で埋まり、さらには港へ入りきれない船が沖合いに何列にも停泊を余儀なくされている。そんな船団の中からボートを下ろし町を目指す。
「予想以上に雄大な眺めですね、これなら勝てそうな気がしますね。」
副船長の声は軽やかに弾んでいる。
「まぁ、数で負けてると後々大変だし。良いんじゃないかな」
「寝起きだと辛い意見になりますね。」
「うるさい!」

提督のもたつきにも関わらず2人がシラクサへ着いた時刻は予定通りだった。
街中はかつて無いほどの賑わいを見せている。どの通りへ入っても人影が目に映り、あらゆる言語に溢れかえっている。
そんな中を歩きつつ指定された場所へと進む。
「おや、スズメ嬢ではないか。」
聞き覚えのある声が不意に飛んでくる。
自身をスズメの名で呼ぶのは極限られた人物のみであるため声の主は容易に特定できた。
ただ、スズメという名は本名ではなく親から授かった名としてテルプシコラという立派な名があるにも関わらず、本人はこの名を使うことを控えていた。
周囲から何度も同じ質問が繰り返されてきたが「好きだから」と言ったきり詳しい理由は誰一人として知らなかった。
「嬢も向かう途中かね。」
「ジョルジュさんか。」
褐色の肌に軍人としての正装を整えた人物が視界に入ってくる。
「嬢も神聖同盟の一員として参加するのかね。」
ローマ法王の名の下に各国の軍勢が神聖同盟という形でオスマン帝国による侵略を阻止せんと集っている。このシラクサを始め東地中海やイタリア南部の各港にはそういう船で溢れている状況だった。
「同盟かどうかは知らないけど商会の寄り家になんか伝言あったから来てみた。」
そっけない返事だった。
「うむ。かつてない危機に立ち上がる勇気こそ素晴らしい。」
「そんなんじゃないけど。」
「神聖なる我等が海域に土足で踏み込んでくるという蛮行を我々の手で阻止せねば。」
「(う、重い…)」
「そもそも、この度のヤツ等が取った蛮行は…」
いつもは口数の少ないゴーダだったが、今日はそれに反するように舌が良く回っている。
じりじりと照りつける太陽の日差しが首筋にしっとりと汗を滲ませるのに加え、テルプシコラにとって対オスマン帝国について語るゴーダの言葉はさらに額へ汗を滲ませていた。
「ときにスズメ嬢。貴女もヤツ等には相当の思いがあるのであろう。」
ゴーダからいきなり話題を振られ驚くように足を止めるテルプシコラ。
「うーん…恨みとかは無いかな。」
「ほう。」
思わぬ返事にゴーダは興味あるような顔をする。
今度の大戦において皆それぞれの思惑を胸に参戦するものが殆どであった筈であるのに、いま目の前にいるテルプシコラからは何もそれらしい素振りを感じられなかった。
「では何の為に命を賭するここに居られるのか。」
率直な疑問がゴーダの口をつく。
「キライだから!」
またしても即答だった。
歩く速度を落とそうともせず、そしてゴーダに目線を向ける事もせずテルプシコラはそう答える。
ゴーダはいつも掴み所の無いしぐさを見せるこの女提督がその実は内面に揺るぎない芯を持っている事に触れ口元に不敵な笑みを浮かべる。
「なるほど。存分に手腕を発揮する理由があるというわけだな。」
口元に湛える髭へ手をやりながら何事かを自らの中で納得させるようにゴーダは頷いている。
「ねぇ、1つ質問していいかな。」
まだ指定された場所までの距離も中ほどに残し、次に口を開いたのはテルプシコラだった。
「うむ、我輩ばかりでは公平を失する。何でも質問するがいい。」
「ゴーダさんって、商会長さんと長いの?」
「ほほう、我輩と商会長との仲か。今思えば長いな。」
それからゴーダは立て板に水を流すようにF・トーレスとの関係をいつもと変わらぬ口調のまま話し始めた。
その声はどこか嬉しげに所々で語気を強めている。
「特に4年前の遠征では同胞トーレスとの阿吽の呼吸がまさに敵を翻弄し…」
端々にF・トーレスの名が出てくるものの内容としてはゴーダ自身の武勇伝的な部分が多くを占めていて、まるで吟遊詩人が紡ぐ物語のように滔々と話は続いている。
1つの筋、2つ目の角を曲がり間もなく指定された場所だという所にいたるまでゴーダの話は続いていた。
「実にヤツとの関係は密過ぎず疎ならん仲でな、まさに刎頚の友といえるな。」
ゴーダはその言葉で強く締めくくった。
「それじゃ今回も活躍間違いなしだね。」
「この度の作戦では補給任務を担っておる。」
思わぬ返答に小石で躓きそうになるテルプシコラ。
「戦場へ出ないんだ…。」
「残念な事だがな、我輩は補給艦として神聖同盟へ参加である。これも重要任務であるし、なかなかに重責である。」
そう言い切るゴーダは自らの返答に躊躇いなど感じさせない表情のまま正面を見据えている。
今まで数々の戦場での話を聞かされてきたテルプシコラにとっては、きっと今回も洋上での任務を受け持っているだろうと思っていただけに、返す言葉を詰まらせていた。
「ゴーダさん、もひとつ聞いて良いかな。」
「他ならぬスズメ嬢の頼みを断る術は知らぬな。」
「その喋り方って、態となのかな…」
質問の真意を汲み取れないゴーダは暫し無言だった。
「いつも固いって言うか…軍人口調って言うか…」
「あぁ、なるほど。これは失礼した。我輩のこれは正しく我輩そのものである。」
「そのもの?」
「うむ。軍人たるもの常に規律を胸に置かねばならぬのだ。船の長である我輩がそれを出来なくては示しがつかぬであろう。」
「いつもそうだと疲れない。」
「そんな甘い事を言っていては愛すべき祖国を守れないのだ。いついかなる時でも船に乗る者達の鑑であるよう勤めるのが提督の義務と言えよう。」
ゴーダの実直な性格が前面に押し出たような言葉には虚飾の欠片も見られなかった。
「嬢も祖国を愛するなら我輩のように規律正しく生活し模範とならなければならないではないか。どうだ、船員と共に我輩の船で規律を旨とする生活をしてみるかね。」
「イ…イヤッ。イヤイヤイヤッ!」
テルプシコラは動く範囲を越えるのかと思うほど左右へ首を振ってゴーダの誘いを否定する。
「これは嫌われたものだな。しかし、規律良く生活したくなったら何時でも我輩を頼るが良い。」
「トーブン無いからお気になさらずにどうぞ…。」
指定された時刻の少し前、一行は集合場所となる宿へとたどり着いた。
藪をつついて蛇を出してしまったようなテルプシコラの道中もようやく終わりを告げた。
「長かった、疲れた。」
宿の中へ向かいながら本音が口からこぼれる。
「これくらいで何を疲れている。そんな体力ではヤツ等に勝てんぞ。」
「(…いや、そうじゃなくて…)」
倦怠感と疲労感を背中に感じながら指定された部屋へと続く階段を上ってゆく。
正午を越えた太陽の傾きは徐々にその体に赤色の染料を纏いシラクサの街を照らしている。

中規模の船団がティレニア海を東へと向かって進んでいる。
各船のメインマストに掲げられている旗でそれがどこの船かを知ることができるものの、改めてそれらを見直すと何のための船団かは考えられないほど各国の旗が空を向いて聳えている。
「この状況を呉越同舟と表現することは誤りだと指摘されるだろうか。」
船団内の一隻、輸送ガレーを指揮するケンケーンは誰かへ聞かせるようにも、独り言のようにも今の複雑な心境を一言発すると、真一文字に口を閉ざす。
その表情は険しく曇っている。
過去、その理由も知らず隣国というだけで袂を分かつ間柄の国旗が憚る事無く同じ方向を進み、同じ波を蹴っている。
「昨日の敵は今日の友という間柄ではなさそうですね。」
船員達への指示を終えた副官が戻ってくる。
ご苦労さんと労いの言葉を返しながら、ケンケーンは船の行き先である東の方角をじっと見据えている。
「しかし、このままで良いのですかね。少し南に寄ってる進路ですが…」
「気になる所ではある。が、しかしそれを決めるのは俺やないからな。」
このままの航路では良からぬ事が起こりうる可能性が高まるばかりだと2人の意見は合致していた。そしてその考え方は船団の中の一部でも懸念する声が上がっていたが、脆い結束の元に集まった吶喊艦隊であるが故に大きく意見するという事を憚っている提督が殆どだった。
そして、直線距離にして半月の航路さえ我慢すればという気持ちが更に余計な口を出すまいと慮っている。
「不測の事態が起こったとしても、この中には我等が黄金獅子のメンバーも居るからな。」
「ヒロッチ殿にシンシア殿ですか。」
「そうだ。不確かに結ばれた結束よりも過去の実績という保障の絆こそ最も信頼できからな。」
「起こらなければ良いんですがね。」
「それが最高の結末だが、そうは問屋が卸さんだろうな。」
緊迫した情勢の下での輸送作業は前線に立つ事と同じ危険を背に受ける。
前線に立つ勢力がその真価を発揮する為にあるべき筈の物をあるべくしてもたらす事が最低条件であることは誰もが持つ共通意見であったが、それゆえに船倉の殆どを物資で埋め尽くす輸送船はその役目を全うするまでに不運に見舞われることも珍しいことではなかった。
誰もがその重要性を認識しつつも、輸送船団に割り当てられる護衛は常に認識とは裏腹に心許ないという現状は昨今も変わらない厳しい事実でもあった。
実際のところ、今回の輸送任務に割り当てられた護衛も前例に則ったような雰囲気だとケンケーンは感じていた。
自室に戻ったケンケーンは海図を取り出すと慣れたような手つきで今日までの航路を記してゆく。
セビリアを出発し、マラガ・バレンシア・パルマを経由しその都度新しく同道する船が加わり、一応の予定者が揃うと安全なリグリア海航路ではなくティレニア海を横断する航路を東へと向かっている。ティレニア海は南にアフリカ大陸を控え、その北岸にはアルジェやチュニスなど主要な拠点が多く存在する為、今欧州各国を取り巻く情勢下では物資の到達速度よりも確実な到着を優先させるべきだと各提督は船団を指揮する人物へと何度か具申したが、ヴェネツィアから派遣されたこの人物は危険を承知だと伝えながらも何日で到着させたという実績に重きを見てそれらの意見を聞き入れることはなかった。そればかりかそのような意見は臆病であると挑発するような言葉すら発していた。
「所詮は蛮族の所業に過ぎない、たとえ不測の事態になろうとも我等神聖同盟における結束力をもってすれば寧ろ返り討ちに会うのがヤツ等の運命である。我等には神の加護がついている。」
主の名目を立てられては陳腐な演説も黙って従わざるを得なかった。
「最も功績の云々を口走る。なんら変わらない俗物や、机上の空論と十字架を振り回すだけしか知らないボンボンやな」
ケンケーンが航路を凝視していた。
真東に進路を取っているはずが北風の影響で僅かに南へと流されている。
「俺は平和主義なんだがな…」
拭いきれぬ胸中の不安が1海里毎に強くなっている。
それは形を変えて苛立ちにも似た感情となってケンケーンの表情を険しく変えている。

ドアをノックする音が聞こえる。
中へ入ってきたのは副官だった。
「今回の輸送任務に関して各船のリストが出来上がりました。」
数枚の報告書をケンケーンへと手渡す。
「これから合流する船はありませんので、それが全てになります。」
寄せ集めの船団であるが故に互いの腹の内が見えないままの航行を続けているが、海の上の慣わしは忘れてはいなかった。
急編成艦隊では伝書矢や手旗信号などを使いどの船が誰なのかを知らせ合う。
もっとも慣例的になっている挨拶のようなもので、これがこの先の航海で何かしらの役に立つという可能性はさほど期待できるほどのものではないと誰しもが思う言わば過去の遺物的な儀礼でもあった。
ケンケーンも副官から渡されたリストの1枚目に書かれている所を軽く流すように目を通す。その中にヒロッチとシンシアの名前も記されており、それを確認し終えると興味なさ気に口を開く。
「2人の他は特にないな。」
「それが1名だけ気になる方が居られます。」
副官は諸提督のリストに列記されている中から1人の名を指差した。
「この方なのですが。」
副官に促されて確認するケンケーン。
「A・スバース…知らんな。この提督が何かあるんか。」
「えぇ、パルマから合流した方で、名前は私も聞かないのですが、所属が…。」
「セビリア商会…GLだと。」
副官は頷いた。
「現在、セビリアに登録されている商会は100を超えますが。GLという名で登録がある所は1つもありません。」
副官の報告は続く。
「なのでGLとなりうる商会を調べた結果はほんの数商会。無論、私達が所属するゴールデン・ルーヴェも含めての数字です。」
「なるほどな。もしかすると知らない間に入会したヤツかも知れないという事か。」
「っと言いたいところですが。この任務に就く前に商会管理局へ向かった時にはA・スバースという方の名をルーヴェ内では見られませんでした。」
副官の報告を受けながらケンケーンは心の中でなにかもやもやしたものを感じている。
「まさか…。この方の船はなんだ。」
「確かジーベック型の船です。」
一瞬の閃きがケンケーンの脳裏を過る、しかし副官の返答でそれは可能性の低い選択肢へと転がり落ちる。
「ルーヴェ名簿に載ってないのなら他商会の方だろう。同国の好で一応挨拶ぐらいは打っておいてくれ。」
了承の返事とともに副官は振り返り自らの持ち場へ戻ろうとする。
「あぁ、くれぐれも粗相のないようにな…」
出てゆく背中へ提督からの注文が飛んでくる。
そして副官は一礼すると部屋を後にした。
広げていた航路図をするすると丸めると忘れかけていた感情が蘇る。
このまま北風に流されるような場合、チュニスをかすめるようにティレニア海を抜けるようになる。
緊迫した情勢の元でにらみ合う相手の餌場を商船が航行し無事抜けられるなど考える余地すら与えてくれない確定事項の運命が船団を包んでいた。
「鼻っ先を擽られて無視するヤツなんて居らんわな」
机の上へ再び航路図を広げディバイダーで目印をつけてゆく。
「ざっと見積もって3日後、まったくこんな所で足止め食らうとはねぇ。」
ケンケーンは無造作に頭を掻き毟る。荒い手つきで海図を納める。
自ずと荒くなる足取りと共に部屋を出ると近くの船員を呼びつける。
「全員に何時でも兵装できるように伝えてくれ。」
提督の言葉に船員の表情が険しくなる。
「用心の為だ。なにも無い事が一番やが叶わないやろな。」
ケンケーンの耳が真っ赤に燃えている。
頭に血が上ると決まってこの症状が出ることを船に乗る提督以外の全てが知っていた。
厳しい目つきであれこれと細かい指示を出した後、ケンケーンが一言呟く。
「まったく…急ぎで飛び込んだ仕事とは言えとんだ貧乏くじだ」
提督の中では何通りものシュミレーションが渦巻いている。
そして、どれもが船団を率いる人物が起因しているものだと確かめる。
「指揮官の無能ってのは性質が悪いな…」
「えぇ、まったくですね。」
急に元気がよくなった船員の返事が間髪入れずに返ってくる。
「なんや…えらい間がええやないか…」
「いぇ、別に…兵装準備ですね。伝えておきます。」
その言葉を残し船員は足早にその場を離れた。
船員の放った言葉の意味の分からないままケンケーンは再び部屋へと戻る。
船体は穏やかな軋み音と共にその体を左右に揺らす。
間もなく日が暮れる、おそらくあと数海里も進まないうちに停船し投錨の合図が送られてくるだろう。
ケンケーンはゆっくりと甲冑が納められている箱を開いた。
所々に見える刀傷が窓から差し込む夕日を鈍く、そして直線を乱すように反射している。
商人として確実さを信条と海に生きてきた今まで全く平和だったとは言えないものの、今までは目の前に出番を控えた甲冑を身に着けるほどの相手ではなかった。
「ここでヘマやらかすと後でトーレスのヤツに何て言われるか分からんからな。」
遠くで停船を告げる鐘の音が響いてくる。
ゆっくりと速度を下げ、しばらくして船団は足を止める。
がらがらと碇を下ろす音が静かに響く。
窓外には一面の朱色の波が休み無く不規則な模様を映し出し全てに1日の終わりを告げるようゆっくりと燃え尽きるように色あせては消えていった。

夜が来た。
何もかも真っ暗に染め抜き闇が人の心に不安の闇を落とす。
シンシアもまたその不安に囚われた1人だった。
蓋を開けてみれば船団には商会のメンバーが2人も居るという事に一時は胸を撫で下ろしたが、日が経つにつれかつてこの先の海峡で苦い思いをした事を思い出している。

3年以上前、シンシアはとある依頼を遂行するためにセビリアを出航した。
しかし、出航するまでに起こった隣国ポルトガルとの政治的緊張がジブラルタル海峡の航行事情に緊張を及ぼし、それによって準備するべき物資の仕入れの段取りが大きく狂っていた。
各方面へ奔走し、なんとか用意すべきものが揃った時、余すはずだった依頼までの期限は全て使い切っていた。
航行するには最悪の条件に見舞われながら、なんとかセビリアを発ったシンシアは無事にジブラルタル海峡を抜けて地中海へと進んだが、迫り来る期限に押されながら普段は決して選ばないカリアリ経由での航行を選択したのであった。
不安定な情勢だらけに各方面で不穏な情報が交錯する中、虎口へ飛び込むような決断を下したのは、かつての航行経験によって無事に通り抜けられるという薄弱な根拠だけに委ねられたものだった。
しかし、その根拠となる経験はその時の情勢下であって、変化した今日の海で通用するとはどこにも確証を得られるものではなく、そんな不安材料はえてして的中してしまうという事を、カリアリ到着を目前に控えた洋上で知らされたのである。
その時はどのような方法でその危機から脱したか覚えていないが、船体に大きな被害を受けながらもイオニア海へと抜ける事ができた。
ただ、ひどく傷ついた船体と仲間を目の当たりにしシンシアは自らの決断をこれほど後悔した事は無かった。そして更に向かってきたバルバリア海賊の激しさと憎悪と殺意は胸の奥に大きな傷を残していたのである。

そして今あの時味わった不安と恐怖が再現されると同じような状況が目の前に迫っている。
依頼と任務の違いこそあれ、なにもかもが以前を踏襲するように進んでいる。
シンシアは口を堅く結んだまま押し黙って考えに耽る。
「お食事の用意ができました。」
しんと静まり返った部屋の中に船員の声が静かに通る。
船員は恭しく室内へ入ると、中央にある床面に固定されているテーブルへと持ってきた食事を置いた。
「お食事…ここへ置いておきます。」
「うん。ありがとう。」
シンシアの言葉は何かを察せまいと空元気を乗せるように発せられていた。
鼻腔を擽り食欲を誘う香りが部屋中に満ちて尚、シンシアは椅子に座ったままで食事に手をつけようとはしなかった。
何事か考えを巡らせては頭に貯まったもやもやを吐き出すように溜息をつく。
それで何かが解決するはずもないことは本人が一番理解しているにも関わらず、今のシンシアにはそれをする事が唯一心を落ち着かせる為の手段であると自らに問うていた。
「提督、よろしいですか。」
再び扉の向こうから声で静寂が崩される。
かちゃりと湿ったドアノブ音をたてて入ってきたのは副官だった。
「お食事、ご一緒してもよろしいですか。今日の食堂は何だか賑やかで…」
その手には既に自らの食事を運んできている。
唐突な申し出にシンシアは目を丸くしている。
「よいしょ。提督っ、食べましょう。」
促されるままに対面の格好に座る2人、副官はついでで持ってきたブランデーを互いのグラスに注ぎ始める。
「アナタ。ちょっと、お酒は…」
「また『いつ何時でも変事に対応できるように酒は慎む』ですかぁ。いつもそうだったら息詰まっちゃいますよ。」
そう言って副官はブランデーが注がれたグラスを強引に手渡すと通路に聞こえないように控えた声で音頭を取る。
「今日の無事に乾杯です。」
銅製のグラスに鈍い音を立てて2人は乾杯する。
勢い良く喉を潤す副官を余所目にシンシアは酒に映る自分の顔をじっと見つめたまま口をつけようとしないでいた。
「シンシア提督、なにかお困り事でも。女同士、なんでもお話聞きますよ。」
その一言にはっと我に返るような様子を見せる。
「ううん、なんでもないわ。さ、頂きましょう。」
そう言って、漸くグラスの酒に口をつけたシンシアを副官はじっと見ている。
「な、なに…。」
「提督、まさか…。」
副官の鋭い眼差しがシンシアに向けられる。普段見慣れないその威圧感がシンシアを圧倒する。
「提督、どこかに居る良い人の事が心配なんでしょう!」
「え?」
意表を突かれたというより、予想を超えた副官からの発言に提督の口が空しく空回っている。
「提督ほどの美人なら、世界中の港に良い人が居てもおかしくありません。」
「な、何でそういう発想に…。」
「分かります…。愛しい人が今なにをしているか、悪い虫がついてるんじゃないか。同じ女性としてお気持ちは良く分かります。」
何かの確信を得た副官は何度も頷きながら口が留まる事無く動いている。
「男連中には分からなくても、この私には分かります。提督の胸を焦がす病を治す術はその人の胸に抱かれるぐらいしか…。」
何かの妄想を抱いたように副官の声は上ずっている。
「で、お相手はどこのどんな方なんです?」
副官はまるでテーブルを越えてくるかのように身を乗り出し、シンシアからの答えを待っている。その顔の瞳はいままでになく輝いている。
「ちょ…ちょっと…。」
「セビリアの人ですか?それとも国境を越えた愛ですか?」
畳み掛けるような質問がシンシアに答える隙を与えない。
「いい加減にしなさい。」
乗り出してきている副官を無理やり押し返すようにして座りつかせるとシンシアはようやく話せるようになった。
そして自分を落ち着かせるようにグラスに注がれたブランデーを喉の奥へと滑らせる。
「3年前、貴女を雇った時の事を覚えてるかしら。」
シンシアは目の前に居る副官を雇う事となった3年前に遭遇したあの襲撃についてゆっくりと口を開いた。

「なるほど、私が雇われたのはそんな経緯があったのですね。」
話を聞き終わった副官には先ほどの勢いが殺がれたように腕を組んだまま静かに座っている。
「今は情勢が情勢だけに、こういうのは歓迎できないわよね。」
シンシアの本心はその一言に尽きていた。
3年前と比べ、今は艦隊であり護衛艦もついている。そして何より自分自身も船乗りとしての経験は相応に備わったと思っている。
しかし、功を焦る艦隊の指揮者はシンシアの目からしても腕がきく船乗りではないとこの数日で判別するに十分だった。
それだけにもしもの場合が発生した時は、巻き添えや要らぬ被害を受けそうだなと、余計な心労がシンシアを苦しめている。
「なーんだ。」
深刻な話を聞いたはずの副官は全く意に介さないような明るい口調だった。
「それは提督、大チャンスじゃないですか。」
「え?」
「今回の相手は東地中海だけど、もしこの先でそんな事になったら。それは借りを返すのが早まっただけでじゃないですか。」
「こんな混成艦隊で襲われたらただじゃ済まないでしょう。」
「何言ってるんですか、指揮してるあいつはボンクラなので放っといても護衛艦は居るし、何よりケンさんやヒロさんが居るんだし。痛い目見るのはあっちですって。」
副官は再び身を乗り出すようにして提督に詰め寄る。
「な…何、その自信は…。」
「最初っから勝つ気でいないでどうするんですか。なにより私が居るんですから大丈夫ですって。」
「えっと…。」
「異論ないですね。じゃ、飲みましょう!」
ちらりとテーブル上のボトルへ視線を移す。
シンシアは最初の1杯以外手をつけていないにも関わらす、新品だったボトルの容量は半分を既に下回っている。
「普段は大人しいのに、お酒が入ると別人ね。」
「良いじゃないですか。偶の1夜ぐらい、息抜きですよ。」
隠し事のない笑顔で返されるとシンシアは何かを諦めたように一気に酒を煽った。
「こういう日も悪くないか。」
「ですよねー。という訳で提督…ひとつお願いが…。」
「なに?」
「その愛しの男性って誰なんですか?」
「知らないわよっ。」

朝の冷気を含んだ潮風が首元を掠め通ってゆく。
それに釣られるようにシンシアの長くしなやかな髪が優しく宙に踊る。
白み始めた東の空に新たな今日が目覚めようとしている。
結局、寝る事が叶わなかったシンシアはまだ少し体内に残っている酒を覚まそうと、甲板で明けの涼みを感じている。
酒を飲ました張本人である副官といえば、提督室のベッドを占領し穏やかな寝息を立てている。
この船を細かく仕切る彼女が居なければ多少の遅れが出るだろうが、昨晩の初めに呷り過ぎたブランデーは彼女を朝の定刻に目覚めさせないでいた。
「やれやれ、どっちが息抜きなのかしらね。」
静けさの中に聞こえる船員達の動く足音が徐々に増えて行き甲板の上はゆっくりと目覚めてゆく。
「提督、おはようございます。」
珍しく甲板に居る提督を見て誰もが驚きを隠せない声を出す。
「おはよう。」
不思議と昨夜まで抱えていた胸のもやもやは感じられなかった。
「図らずも計られた結果になっちゃったか。」
口元が自然と緩むのをしっかりと感じる。
波間に細長く映し出される万物の根源たる太陽の日差しが水平線の彼方より覗いている。
その正面を見据えたまま、シンシアは宙に遊ぶ長髪を結い紐できつくしめあげた。
「できることなら、今この一瞬の平和がこの海を支配してくれれば良いのに…。」
船員達の靴音に彼女の本音は誰の耳に届くことなくかき消されていく。
周りを忙しく動き回る船員の1人を捕まえて、副官不在にもいつも通りに準備するように伝える。
そして船内へと戻ろうと振り返った瞬間の事だった。

ドォン…

1発の砲音に誰もがその場に凍りついた。
「見張り!何事か!」
固唾を呑む一同が静かに報告を待つ。
「砲音は味方が発したようです!」
「周りを良く見ろ、何かあるはずよっ。」
再び静寂が甲板を支配する。
「居ましたっ、北西に艦影!足つきです!」
「北西だと…」
「我が物顔で西から現れるとは、もう統べた気でいるのかっ。」
報告を聞いた船員達からどよめきが起こる。
「抜錨!」
一際通る声に視線が集まる。
「何をしている、抜錨だ。手が空いた者から兵装を整えろ。」
固まっていた船員達の脚がシンシアの声で再び動き始める。
「誰か私の部屋で寝ている副官を起こしてきて、少々手荒に起こしても良いから。」
周りの船も準備がゆっくりと整えられたのか、何隻かは帆を展開し始めた。
「急ぎなさい、ここで遅れては取り返しのつかない事になる。」
首筋に嫌な汗が流れる、突如襲ってきた緊張感で喉の奥が枯れてゆく。
堅く握り締めた拳の中に深く爪が突き刺さる。
船員達は大きな声を上げながら忙しく船内を駆けている。
錨を巻き上げるガラガラという大きな音が船内の混乱に拍車をかける様に上乗せされている。
1人、北西を睨むシンシアの脳裏に過去の忌々しい記憶が鮮やかに蘇る。
「なんで…。やはり繰り返すの…。」
強くかみ締めた奥歯が小さな悲鳴を上げるように軋んでいる。
「遅れてすみません、後は任せてください。」
突如、硬直していたシンシアの背後から副官の声が響いてくる。
「さすが、周りも海を生業にしてる方たちだけあって動きが良いですね。」
見ればケンケーンやヒロッチも既に何かしらの動きを見せている。
護衛艦はいつでも迎撃する準備を整えているようだ。
副官は手元の望遠鏡を覗き込み北西から進んでくる艦隊との距離を確かめる。
「まだまだ距離は十分に開いています。私達もここを抜けるよう動きましょうか。」
そう言って副官は大きな声を上げた。
「何をしているっ。総帆開け!」
合図と共に全ての帆が明けの空に開かれる。
「護衛艦と距離を開けながら他の船に合わせて動くよ。風を見誤るな、足は奴らの方が速い、逸れるな。分かったかっ。」
おうと船員達の声が返ってくる。
「いくぞっ、上手廻し用意。」

(その手に掴むもの Ⅴ 完)
最近更新されたスレッド
ウィキ募集バナー
急上昇Wikiランキング

急上昇中のWikiランキングです。今注目を集めている話題をチェックしてみよう!