「その手に掴むもの」Ⅵ
東からの脅威に対して各国はそれぞれの立場を表明し1ヶ月が過ぎようとしていた。
参戦を表明した国はローマ法王の元に神聖同盟という名で結集し、シラクサおよびその周辺の港町を基点として体制を整えようとしていた。
同盟に参加の意思を示したイスパニアもそれに漏れることなく軍隊を東地中海へ向かわせていた。
物騒な時勢に巻き込まれている首都セビリアは、どこで聞き耳を立てても東で起こっている事の話題に支配されている。
そんな首都の昼下がり、突然の雨降りにひと時の静寂が訪れる。往来していた誰彼もどこかの軒先へと雨宿りに急いでいる。
その中にアムスの姿も混じっていた。
その日の夕食準備に買い物へと出掛けた帰り道に遭遇した雨に急ぎ足で雨をしのぐ場所へと路地を急ぐ。
入り込んだカフェの軒先で服の雨飛沫を払いながら先ほどまでの晴天を羨むように降り続く雨を眺めている。
「あら、アムスさん。お元気?」
知っている声がカフェの中から聞こえてくる。
「お買い物の途中でしたのかしら、雨宿り中でも一緒にお茶でもいかが。」
振り返った先には近所に住む友人たちが午後のお茶を楽しんでいるのが見える。
空を見上げても雲が切れそうな気配はなく、しばらく雨は続きそうに感じたアムスは友人の勧めにしたがって空いている席へと座った。
「突然の雨とは嫌なものですね、予定が狂ってしまいますわ。」
友人連中は歌劇を見に行くつもりだったが、開演までの時間をここで時間を潰している時の雨降りになってしまったという。数日前にアムスも誘われてはいたが、混乱の時勢に忙殺される夫の事を思い断りの返事をしていた。
そんな婦人仲間の一人がアムスに尋ねる。
「アムスさんの所も旦那様お忙しいのでしょう。」
「そりゃそうでしょうよ。このご時世、アムスさんのご主人のような腕の良い職人さんが居てこそ前線は成り立つんですもの。」
「大変ですよね。うちの旦那なんて何をやってるのか昼間からぶらぶら…。」
アムスが口を開くまでに口の回る友人が先に話しだしている。
「聞いた話ですけど、今回は世紀の大戦になるとか・・・。前線に立たれる人は名誉な事ですわね。」
婦人仲間の中でも特に耳聡い友人がどこから仕入れたか聞いた話を披露する。
そしてそれを口火にするように今回の事件に対して真偽の怪しい情報の披露会へと様相が変わっていく。
普段、彼女達の会話に負ける事なく同じように口を動かすアムスだったが、今の内容に対して、彼女達と同じ意見を言うこことを内心躊躇っていた。
その為、当り障りのない相槌を適所に織り交ぜながら極力は自分の意見を言わないようにやり過そうと取り繕っていた。
「それでアムスさん、旦那様からは何も聞いておりませんの。」
目新しい情報に恐ろしいまでの興味を示す婦人達のまなざしがアムスに突き刺さる。
「主人は世間ごとに疎い頑固な所がありますから。皆さんの方が詳しいかと思いますわ。」
アムスの返事に期待を外された友人達は視線を各々の思うところへと戻すと、流暢な世間話を再開させる。
そして、いつの間にか会話の内容はゴシップ的なものへと変化していた。
内心落ち着いたアムスは一時の鬱憤を晴らすように会話へ入り込んでいた。
参戦を表明した国はローマ法王の元に神聖同盟という名で結集し、シラクサおよびその周辺の港町を基点として体制を整えようとしていた。
同盟に参加の意思を示したイスパニアもそれに漏れることなく軍隊を東地中海へ向かわせていた。
物騒な時勢に巻き込まれている首都セビリアは、どこで聞き耳を立てても東で起こっている事の話題に支配されている。
そんな首都の昼下がり、突然の雨降りにひと時の静寂が訪れる。往来していた誰彼もどこかの軒先へと雨宿りに急いでいる。
その中にアムスの姿も混じっていた。
その日の夕食準備に買い物へと出掛けた帰り道に遭遇した雨に急ぎ足で雨をしのぐ場所へと路地を急ぐ。
入り込んだカフェの軒先で服の雨飛沫を払いながら先ほどまでの晴天を羨むように降り続く雨を眺めている。
「あら、アムスさん。お元気?」
知っている声がカフェの中から聞こえてくる。
「お買い物の途中でしたのかしら、雨宿り中でも一緒にお茶でもいかが。」
振り返った先には近所に住む友人たちが午後のお茶を楽しんでいるのが見える。
空を見上げても雲が切れそうな気配はなく、しばらく雨は続きそうに感じたアムスは友人の勧めにしたがって空いている席へと座った。
「突然の雨とは嫌なものですね、予定が狂ってしまいますわ。」
友人連中は歌劇を見に行くつもりだったが、開演までの時間をここで時間を潰している時の雨降りになってしまったという。数日前にアムスも誘われてはいたが、混乱の時勢に忙殺される夫の事を思い断りの返事をしていた。
そんな婦人仲間の一人がアムスに尋ねる。
「アムスさんの所も旦那様お忙しいのでしょう。」
「そりゃそうでしょうよ。このご時世、アムスさんのご主人のような腕の良い職人さんが居てこそ前線は成り立つんですもの。」
「大変ですよね。うちの旦那なんて何をやってるのか昼間からぶらぶら…。」
アムスが口を開くまでに口の回る友人が先に話しだしている。
「聞いた話ですけど、今回は世紀の大戦になるとか・・・。前線に立たれる人は名誉な事ですわね。」
婦人仲間の中でも特に耳聡い友人がどこから仕入れたか聞いた話を披露する。
そしてそれを口火にするように今回の事件に対して真偽の怪しい情報の披露会へと様相が変わっていく。
普段、彼女達の会話に負ける事なく同じように口を動かすアムスだったが、今の内容に対して、彼女達と同じ意見を言うこことを内心躊躇っていた。
その為、当り障りのない相槌を適所に織り交ぜながら極力は自分の意見を言わないようにやり過そうと取り繕っていた。
「それでアムスさん、旦那様からは何も聞いておりませんの。」
目新しい情報に恐ろしいまでの興味を示す婦人達のまなざしがアムスに突き刺さる。
「主人は世間ごとに疎い頑固な所がありますから。皆さんの方が詳しいかと思いますわ。」
アムスの返事に期待を外された友人達は視線を各々の思うところへと戻すと、流暢な世間話を再開させる。
そして、いつの間にか会話の内容はゴシップ的なものへと変化していた。
内心落ち着いたアムスは一時の鬱憤を晴らすように会話へ入り込んでいた。
結局雨は止む事なく自宅へと帰ってきたアムスはずぶ濡れになっていた。
友人達の会話に思わぬ弾みがついてしまい、夕飯の支度がいつもより遅くなっている。
急いで服を着替え、濡れ頭にタオルを巻きつけながら足早に台所へと入る。
棚には香草や乾燥パスタが容器に収められて並び、まだ年季の入っていない調理器具たちが今日の出番を待っている。
竈に火をおこし薪をくべる、チリチリと小さな火の粉が沸き立ち顔を赤く染める。
適度に火が熾ったところに鍋をかける。
そしてオリーブオイルとみじん切りにしたニンニク、セロリとタマネギを入れて軽く炒め、買ってきたベーコンを賽の目に切って入れる。
ミンチにした豚肉を加えしっかりと火を通した所にスープと下拵えしたヒヨコマメ、そして湯剥きしたトマトを入れ煮込む。
一度味見をし塩と香草をで味を調えて1品が完成する。
夫の好きなヒヨコマメのトマトソース煮だ。
この料理は夫と一緒になり彼の好物であることを知り覚えた料理だった。
かつて海を生活の大半としていた頃、当番制で厨房に入ることもあったが、船内という特殊な環境に加え、食する相手が味に煩くない連中とあっては腕前については高が知れていた。
それから夫となる男性と出会ってから、事有るたびに愛する人の為にと努めて厨房に入っては腕を磨くようにしていた。
当初、アムスは大海を越えて知った各地の珍しい料理を食卓に並べていた。
中には大成功品も、少し思い通りにいかなかった品もあったが、愛しい人は平らげてくれていた。
しかし、地中海で生まれ育ったきた夫にとっては、異国の美味に感動は覚えるもののアムスの思う気持ちを汲めばこそ手料理に舌鼓を打ってはいたが、頑張りすぎる彼女の事を慮って口を開く事も何度かあった。
そしてその言葉は自らの気持ちの不理解と捕らえアムスの心に小さな傷を負い、些細な口論を産むきっかけになっていた。
ただ、口論の末はいつも同じく互いの信頼を確認しあって終わるのだった。
そんな2人だからこそ周りからも良い夫婦として認められ、アムスも陸に上がってから時も掛からず周囲と馴染めていた。もっとも彼女の持つ社交性と明るさもそれには充分役目を果たしていた。
友人達の会話に思わぬ弾みがついてしまい、夕飯の支度がいつもより遅くなっている。
急いで服を着替え、濡れ頭にタオルを巻きつけながら足早に台所へと入る。
棚には香草や乾燥パスタが容器に収められて並び、まだ年季の入っていない調理器具たちが今日の出番を待っている。
竈に火をおこし薪をくべる、チリチリと小さな火の粉が沸き立ち顔を赤く染める。
適度に火が熾ったところに鍋をかける。
そしてオリーブオイルとみじん切りにしたニンニク、セロリとタマネギを入れて軽く炒め、買ってきたベーコンを賽の目に切って入れる。
ミンチにした豚肉を加えしっかりと火を通した所にスープと下拵えしたヒヨコマメ、そして湯剥きしたトマトを入れ煮込む。
一度味見をし塩と香草をで味を調えて1品が完成する。
夫の好きなヒヨコマメのトマトソース煮だ。
この料理は夫と一緒になり彼の好物であることを知り覚えた料理だった。
かつて海を生活の大半としていた頃、当番制で厨房に入ることもあったが、船内という特殊な環境に加え、食する相手が味に煩くない連中とあっては腕前については高が知れていた。
それから夫となる男性と出会ってから、事有るたびに愛する人の為にと努めて厨房に入っては腕を磨くようにしていた。
当初、アムスは大海を越えて知った各地の珍しい料理を食卓に並べていた。
中には大成功品も、少し思い通りにいかなかった品もあったが、愛しい人は平らげてくれていた。
しかし、地中海で生まれ育ったきた夫にとっては、異国の美味に感動は覚えるもののアムスの思う気持ちを汲めばこそ手料理に舌鼓を打ってはいたが、頑張りすぎる彼女の事を慮って口を開く事も何度かあった。
そしてその言葉は自らの気持ちの不理解と捕らえアムスの心に小さな傷を負い、些細な口論を産むきっかけになっていた。
ただ、口論の末はいつも同じく互いの信頼を確認しあって終わるのだった。
そんな2人だからこそ周りからも良い夫婦として認められ、アムスも陸に上がってから時も掛からず周囲と馴染めていた。もっとも彼女の持つ社交性と明るさもそれには充分役目を果たしていた。
白身魚を卸して準備を整えた所でアムスは手を止めた。
あとは夫の帰りを待って、香草と共に焼き上げれば完成である。
不安な情勢に夫の仕事も急激に変化し、ここ数ヶ月は帰宅時間が定まらずにいた。
それでも出来立ての料理を食べて貰おうとアムスはいつも調理の完成は夫が帰ってきてから行っていた。無論、それに従うように自らも先んじて食事を取ることはなく、自宅で帰りを待つ日々が結婚以来続いている。
あとは夫の帰りを待って、香草と共に焼き上げれば完成である。
不安な情勢に夫の仕事も急激に変化し、ここ数ヶ月は帰宅時間が定まらずにいた。
それでも出来立ての料理を食べて貰おうとアムスはいつも調理の完成は夫が帰ってきてから行っていた。無論、それに従うように自らも先んじて食事を取ることはなく、自宅で帰りを待つ日々が結婚以来続いている。
台所の片付けを済ませ、食卓の準備を整えた頃、玄関扉をノックする音が聞こえた。
「郵便ですー。」
「あ、はいはーい。」
「あ、はいはーい。」
小走りに部屋を抜けて、郵便を受け取る。
送り主の記名はないが、封蝋に獅子の紋章が彫られている。
送り主の記名はないが、封蝋に獅子の紋章が彫られている。
「あら、ルーヴェから…。」
居間へと戻り中身を検める。
内容は新規入会者の知らせと今回の動変に関する商会の対応が書かれていた。
内容は新規入会者の知らせと今回の動変に関する商会の対応が書かれていた。
「そうか、ルーヴェは出るんだ。いつも送ってくれるなんてライラさんも律儀ね。」
胸が一瞬高鳴っている。
目を閉じるとそこにはイオニア海の海図が鮮明に浮かんでくる。
そこには今の時期に吹く風の向きや質、波の状況などまで細かく描かれていた。
かつての生活の喜怒哀楽が景色と共に流れてくる。
懐かしさがアムスの表情を薄く和らげる。
しかし、その安らぎはすぐに現実へと引き戻された。
再び玄関扉を叩く音がする。
目を閉じるとそこにはイオニア海の海図が鮮明に浮かんでくる。
そこには今の時期に吹く風の向きや質、波の状況などまで細かく描かれていた。
かつての生活の喜怒哀楽が景色と共に流れてくる。
懐かしさがアムスの表情を薄く和らげる。
しかし、その安らぎはすぐに現実へと引き戻された。
再び玄関扉を叩く音がする。
「ただいま。帰ったよ。」
「お帰りなさい、スバース。」
「お帰りなさい、スバース。」
先ほどとは違って軽やかな足取りで夫の迎えに向かう。
「今日は早く終わったのね。」
「まぁな。」
「待っててくださいね。食事を仕上げますから。」
「まぁな。」
「待っててくださいね。食事を仕上げますから。」
そう言ってアムスは台所へ向かった。
ヒヨコマメの煮込みに火をかけ、炒め鍋にオリーブ油をひき白身魚をソテーする。
その間、スバースは用意されていたブランデーをグラスに注ぎ仕事後の一杯を楽しもうとしていたが、アムスの席にある手紙がちらりと目に入る。
表向いていた封蝋から中身を察し一瞥をくれると、何事もなかったようにグラスを傾けた。
それから少し遅れてアムスが料理を運んでくる。
手紙の所在に今更ながら気付き、何事もなかったようにそれを懐へしまい込むと腕によりをかけた料理を食卓へ並べた。
それについてスバースは何一つ問うような言葉を発せず、いつものようにありふれた食卓の雰囲気が部屋に漂っていた。
ヒヨコマメの煮込みに火をかけ、炒め鍋にオリーブ油をひき白身魚をソテーする。
その間、スバースは用意されていたブランデーをグラスに注ぎ仕事後の一杯を楽しもうとしていたが、アムスの席にある手紙がちらりと目に入る。
表向いていた封蝋から中身を察し一瞥をくれると、何事もなかったようにグラスを傾けた。
それから少し遅れてアムスが料理を運んでくる。
手紙の所在に今更ながら気付き、何事もなかったようにそれを懐へしまい込むと腕によりをかけた料理を食卓へ並べた。
それについてスバースは何一つ問うような言葉を発せず、いつものようにありふれた食卓の雰囲気が部屋に漂っていた。
食事はいつもアムスが一方的に口を開くのが毎日の光景だった。
それは今日も変わる事無く、今日の料理に使った材料の事や市場で見た他愛ない日常の事など、その日起こった事を楽しげに話している。無論、帰り道に遭遇した雨の事も忘れることは無かった。
「でね、皆が楽しみにしていた歌劇も雨に流れちゃったみたい。」
楽しげに話すアムスの声が食卓の上で踊っている。
スバースにとってはその声と表情が一日の疲れを癒すなによりの馳走だった。
「なぁ、アムス。お前も飲まないか。」
この日は珍しくスバースが酒を勧めてきた。
「どんな心境の変わりなの。疚しいことでもあるのかしら。」
「まぁな。」
「あら、正直ね。じゃ、少し飲ませて貰おうかしら。」
グラスに受けた夫からの酌をぐいっと飲み干す。
元々呑む口を持っていたが、陸に上がってからは家事に障ってはいけないと自ら酒を遠ざけていた為、久々の味にじわりと喉の奥が熱くなる感覚と余韻をゆっくりと楽しんでいる。
「で、何か私に言うことがあるのよね。」
「恐らく明日から帰りが遅くなりそうだ。」
「なんだそんな事なの。こんな情勢だもの気にしないわ。」
「わるいな、面倒なことになって。」
「なに言ってるの、それだけ働けるって事じゃない。主の思し召しよ。」
そう言ってアムスは胸の前で手を組んだ。そして1日の終わりを感謝する祈りを捧げている。
「さ、温かいうちにどうぞ。」
スバースは好物のヒヨコマメに手をつける。
「美味いな。」
その一声がアムスの待ち望んだものだった、何千という祈りよりも報われる一瞬だった。
そしていつもアムスは同じ言葉を微笑みと共に返すのだった。
「ありがと。」
それは今日も変わる事無く、今日の料理に使った材料の事や市場で見た他愛ない日常の事など、その日起こった事を楽しげに話している。無論、帰り道に遭遇した雨の事も忘れることは無かった。
「でね、皆が楽しみにしていた歌劇も雨に流れちゃったみたい。」
楽しげに話すアムスの声が食卓の上で踊っている。
スバースにとってはその声と表情が一日の疲れを癒すなによりの馳走だった。
「なぁ、アムス。お前も飲まないか。」
この日は珍しくスバースが酒を勧めてきた。
「どんな心境の変わりなの。疚しいことでもあるのかしら。」
「まぁな。」
「あら、正直ね。じゃ、少し飲ませて貰おうかしら。」
グラスに受けた夫からの酌をぐいっと飲み干す。
元々呑む口を持っていたが、陸に上がってからは家事に障ってはいけないと自ら酒を遠ざけていた為、久々の味にじわりと喉の奥が熱くなる感覚と余韻をゆっくりと楽しんでいる。
「で、何か私に言うことがあるのよね。」
「恐らく明日から帰りが遅くなりそうだ。」
「なんだそんな事なの。こんな情勢だもの気にしないわ。」
「わるいな、面倒なことになって。」
「なに言ってるの、それだけ働けるって事じゃない。主の思し召しよ。」
そう言ってアムスは胸の前で手を組んだ。そして1日の終わりを感謝する祈りを捧げている。
「さ、温かいうちにどうぞ。」
スバースは好物のヒヨコマメに手をつける。
「美味いな。」
その一声がアムスの待ち望んだものだった、何千という祈りよりも報われる一瞬だった。
そしていつもアムスは同じ言葉を微笑みと共に返すのだった。
「ありがと。」
翌日のセビリアは晴天に恵まれた。
一条の雲なく、澄み渡った青色が町を覆っている。
朝の家事を終わらせて外へ出たアムスは、行く足のままに広い街中をゆっくりと散策していた。
建物の影には昨日の雨の名残が見えるもの、今日は西の空に不安材料はなく1日の天候を保障している。
一条の雲なく、澄み渡った青色が町を覆っている。
朝の家事を終わらせて外へ出たアムスは、行く足のままに広い街中をゆっくりと散策していた。
建物の影には昨日の雨の名残が見えるもの、今日は西の空に不安材料はなく1日の天候を保障している。
大通りに荷を出している花屋で今に活ける花を買い、足は市場へと向かった。
「さて、帰りが遅くなるとは言ってたものの…。」
昨晩の言葉では夫の職場は情勢に振り回されているのが想像できる。
ただ、仕事量よりも原材料の供給量がつりあっていないとアムスは予想していた。
「『なりそうだ』って事は決定事項じゃないのよね…」
軽い溜息を漏らしながら出ている品を見ながら献立を考える。
「あら、アムスさん。」
不意に呼び止められる声に一時考えを止めた。
声の主は昨日カフェで出会った友人の1人だった。
「昨日はどうも。突然の雨降りで残念でしたね。」
「えぇ、前々から楽しみにしていたのに、本当に残念な事になりまして。」
「次こそは私もご一緒させていただきたいものですわ。」
「勿論ですわ。皆さんで亭主放り出して観に行きましょう。」
友人の口は変わらず陽気な調子で会話を紡ぎ出している。
「昨今は市場にも品数が少なくなって、お互い大変ですよね。」
友人の言葉は大戦に投じた国の実情を表していた。
国軍を動かすほどの大遠征とあって、国が物資を押さえる為に市井に出回る物資が自然と減ってきている。
「台所を預かる身としては辛い所ですわね、ご政道に文句つける訳じゃないですけどね。あら、スズキの良いのが有るじゃない、ウチはこれにしましょう。」
「ウチは昨晩が魚でしたからね、そろそろ肉を食べさせないと…。」
市場を半分過ぎたところでもアムスの買い物籠は先ほど買った花だけしか入っていなかった。
「旦那さん思いですわね。ウチのもそう言わせるぐらい働いて欲しいですわ。」
その言葉にアムスは苦笑いを返すのが精一杯だった。
「国の威信とかなんとか言いながら残された者の事も考えて欲しいですわね。」
友人のセリフは活気のない市場の全てを代弁しているようだった。
「そういえばアムスさん。ふと思い出したんですけど、貴女って海で生活されてたんですのよね。」
「えぇ…。」
「そうなれば、この一大事には居ても立っても居られないのではなくって。」
特に悪意も冷やかしも感じない純粋な疑問のように友人はアムスに問うた。
「いぇいぇ、私は一線を退いたですし。」
明るくあっさりと返事をするアムス。
それを聞いて友人は少し残念そうな顔を見せた。
「もしもの話でしたけれども、そうだったらお友達に自慢できたんですけどね。」
自分の心に正直になれば、友人の言葉通りに東へ向かいたいという気持ちは確かに存在していた。
家庭に入っていなければ傭兵なり、かつての仲間と風を一緒に東からの脅威に立ち向かおうとする自分を容易に想像できる。
しかし、今のアムスには海と関わる術の大半を失っていた。
夫は繋がりを残すことに寛容だったが、自らのけじめとしてできる限りかかわりを持たないようにと過ごしてきたのである。
ただ唯一残っていたのが商会から不定期に届く手紙だった。
「アムスさんは世界を広く航海されてて、今の旦那様にお会いなられたの。」
友人は船乗りという職業は陸での生活を殆ど行わないようなものを想像している。
「私の場合は、半分は陸生活でしたから…」
「でも、羨ましいですわ。絵画から出てきたような旦那様…、本当に同じセビリアに居たと思うと私にもチャンスが無かったかと残念でなりませんわ。」
急に夫を褒められアムスは言葉に詰まっている。
なにか上手く返そうと思っている間にも友人は楽しげに話を続けている。
「それに比べてウチのなんて、どこかの土中から掘り出されたような遺物のような風采のあがらない…」
そこから始まった友人の言葉は内容すら面白く可笑しくしているものの纏めてしまえば愚痴を並べたものだった。
適度な相槌と空返事を繰り返しながら、市場を歩くアムスであったが、道の途中でラム肉を見つけようやく今晩の食事が決まっていた。
「さて、帰りが遅くなるとは言ってたものの…。」
昨晩の言葉では夫の職場は情勢に振り回されているのが想像できる。
ただ、仕事量よりも原材料の供給量がつりあっていないとアムスは予想していた。
「『なりそうだ』って事は決定事項じゃないのよね…」
軽い溜息を漏らしながら出ている品を見ながら献立を考える。
「あら、アムスさん。」
不意に呼び止められる声に一時考えを止めた。
声の主は昨日カフェで出会った友人の1人だった。
「昨日はどうも。突然の雨降りで残念でしたね。」
「えぇ、前々から楽しみにしていたのに、本当に残念な事になりまして。」
「次こそは私もご一緒させていただきたいものですわ。」
「勿論ですわ。皆さんで亭主放り出して観に行きましょう。」
友人の口は変わらず陽気な調子で会話を紡ぎ出している。
「昨今は市場にも品数が少なくなって、お互い大変ですよね。」
友人の言葉は大戦に投じた国の実情を表していた。
国軍を動かすほどの大遠征とあって、国が物資を押さえる為に市井に出回る物資が自然と減ってきている。
「台所を預かる身としては辛い所ですわね、ご政道に文句つける訳じゃないですけどね。あら、スズキの良いのが有るじゃない、ウチはこれにしましょう。」
「ウチは昨晩が魚でしたからね、そろそろ肉を食べさせないと…。」
市場を半分過ぎたところでもアムスの買い物籠は先ほど買った花だけしか入っていなかった。
「旦那さん思いですわね。ウチのもそう言わせるぐらい働いて欲しいですわ。」
その言葉にアムスは苦笑いを返すのが精一杯だった。
「国の威信とかなんとか言いながら残された者の事も考えて欲しいですわね。」
友人のセリフは活気のない市場の全てを代弁しているようだった。
「そういえばアムスさん。ふと思い出したんですけど、貴女って海で生活されてたんですのよね。」
「えぇ…。」
「そうなれば、この一大事には居ても立っても居られないのではなくって。」
特に悪意も冷やかしも感じない純粋な疑問のように友人はアムスに問うた。
「いぇいぇ、私は一線を退いたですし。」
明るくあっさりと返事をするアムス。
それを聞いて友人は少し残念そうな顔を見せた。
「もしもの話でしたけれども、そうだったらお友達に自慢できたんですけどね。」
自分の心に正直になれば、友人の言葉通りに東へ向かいたいという気持ちは確かに存在していた。
家庭に入っていなければ傭兵なり、かつての仲間と風を一緒に東からの脅威に立ち向かおうとする自分を容易に想像できる。
しかし、今のアムスには海と関わる術の大半を失っていた。
夫は繋がりを残すことに寛容だったが、自らのけじめとしてできる限りかかわりを持たないようにと過ごしてきたのである。
ただ唯一残っていたのが商会から不定期に届く手紙だった。
「アムスさんは世界を広く航海されてて、今の旦那様にお会いなられたの。」
友人は船乗りという職業は陸での生活を殆ど行わないようなものを想像している。
「私の場合は、半分は陸生活でしたから…」
「でも、羨ましいですわ。絵画から出てきたような旦那様…、本当に同じセビリアに居たと思うと私にもチャンスが無かったかと残念でなりませんわ。」
急に夫を褒められアムスは言葉に詰まっている。
なにか上手く返そうと思っている間にも友人は楽しげに話を続けている。
「それに比べてウチのなんて、どこかの土中から掘り出されたような遺物のような風采のあがらない…」
そこから始まった友人の言葉は内容すら面白く可笑しくしているものの纏めてしまえば愚痴を並べたものだった。
適度な相槌と空返事を繰り返しながら、市場を歩くアムスであったが、道の途中でラム肉を見つけようやく今晩の食事が決まっていた。
市場を抜けると友人とも別れ、アムスは自宅へと戻った。
いつものように台所へと向かい、竈に火をおこす。
しかし、すぐには調理を開始せず、食卓においてある花器を運んでくると先ほど購入した花を活けなおし再び食卓の中央に飾る。
精気のない花の時と比べ、上を向いてぴんと咲く花を見ると不思議とその周りが明るく見える。
物言わぬ花の不思議をアムスはこよなく愛していた。
「よしっ。」
一通り食卓を整理した後、軽く背伸びをしながら台所へと戻っていった。
いつものように台所へと向かい、竈に火をおこす。
しかし、すぐには調理を開始せず、食卓においてある花器を運んでくると先ほど購入した花を活けなおし再び食卓の中央に飾る。
精気のない花の時と比べ、上を向いてぴんと咲く花を見ると不思議とその周りが明るく見える。
物言わぬ花の不思議をアムスはこよなく愛していた。
「よしっ。」
一通り食卓を整理した後、軽く背伸びをしながら台所へと戻っていった。
それから10日ほど経ったある日、街は雨降りに見舞われていた。
雨が窓を叩く音が居間にまで聞こえてくる。
じっとりと湿った空気が充満するなか、アムスは朝からずっと自宅の片付けに時間を割いていた。
幸いな事に、今日は外にでる用事もなく、のんびりと過ごしていた。
しかし、世間の情勢は天候に左右されるものではなく、夫スバースは早くから職場へと出かけていっていた。
遅くなるという言葉の通り、あの日からスバースの帰りは極端に遅くなっていた。
あまりの多忙さに夫にも少し疲れの色が見え始めている。
アムスはそんな夫を気遣って休みを取るように勧めていたが、スバースはにっこりと笑って「大丈夫だ。あと少しで終わるよ」と毎度のように繰り返していた。
「気遣い返されてちゃダメよね。」
掃除する手の合間に小さく自分を諌める言葉を呟きながらも、その手は軽快に動いている。
そして、昼を過ぎた頃には寝所から居間に掛けての掃除も終わり、1人ゆっくり遅めの昼食をとっていた。
食べられるだけのパンを軽く火であぶり、昨晩の残りを副菜にした少し地味な食事だったが、アムスには空腹が満たされれば良いという感覚と手を抜ける場所では無駄に労力を費やさないという点において、これ以上の必要性を感じていなかった。
外の雨はまだ止んでおらず、低く響く雨音が食卓に枯れた賑やかさを演出する。
昔を思えば、スバースとの逢瀬の時を除けば誰か彼かに囲まれている時間が多かった。
それが2人の生活だけになってしまうと、常に襲ってくる孤独感が自身の心に不足感をもたらし、ある程度の回答を導くまでの過程は人言えぬ苦しみを抱いて夫の帰りを待つ日々だった。
しかし、ある日の事、適度な緩急があったからこそ互いが良き刺激になっていたと心の中に答えを見出してからのアムスは、自身で自覚できるほど前向きに物事を考えられるようになり、海に生きていた頃よりも違った自由さを体に感じ、家の中の雰囲気もグッと明るくなっていた。
そして、夫のいないこの時間帯の過ごし方も2人だけの時間を大切にする為にと彼女なりに楽しく迎えられるようになっていた。
雨が窓を叩く音が居間にまで聞こえてくる。
じっとりと湿った空気が充満するなか、アムスは朝からずっと自宅の片付けに時間を割いていた。
幸いな事に、今日は外にでる用事もなく、のんびりと過ごしていた。
しかし、世間の情勢は天候に左右されるものではなく、夫スバースは早くから職場へと出かけていっていた。
遅くなるという言葉の通り、あの日からスバースの帰りは極端に遅くなっていた。
あまりの多忙さに夫にも少し疲れの色が見え始めている。
アムスはそんな夫を気遣って休みを取るように勧めていたが、スバースはにっこりと笑って「大丈夫だ。あと少しで終わるよ」と毎度のように繰り返していた。
「気遣い返されてちゃダメよね。」
掃除する手の合間に小さく自分を諌める言葉を呟きながらも、その手は軽快に動いている。
そして、昼を過ぎた頃には寝所から居間に掛けての掃除も終わり、1人ゆっくり遅めの昼食をとっていた。
食べられるだけのパンを軽く火であぶり、昨晩の残りを副菜にした少し地味な食事だったが、アムスには空腹が満たされれば良いという感覚と手を抜ける場所では無駄に労力を費やさないという点において、これ以上の必要性を感じていなかった。
外の雨はまだ止んでおらず、低く響く雨音が食卓に枯れた賑やかさを演出する。
昔を思えば、スバースとの逢瀬の時を除けば誰か彼かに囲まれている時間が多かった。
それが2人の生活だけになってしまうと、常に襲ってくる孤独感が自身の心に不足感をもたらし、ある程度の回答を導くまでの過程は人言えぬ苦しみを抱いて夫の帰りを待つ日々だった。
しかし、ある日の事、適度な緩急があったからこそ互いが良き刺激になっていたと心の中に答えを見出してからのアムスは、自身で自覚できるほど前向きに物事を考えられるようになり、海に生きていた頃よりも違った自由さを体に感じ、家の中の雰囲気もグッと明るくなっていた。
そして、夫のいないこの時間帯の過ごし方も2人だけの時間を大切にする為にと彼女なりに楽しく迎えられるようになっていた。
「うん。ごちそうさま。」
食事を終えて軽く主への祈りを捧げる。
掃除の残っている所はあと少し、今日1日でやり遂げる事ができるだろうと目算をしながら、二皿の片付けから取り掛かる。
鼻歌が思わず出るほどの気軽さで決まった手順を追いながら片付けてゆく最中、玄関をノックする音が聞こえてきた。
まだ普段どおりとしても夫が帰ってくるには時間的に早すぎる。
郵便かなにかだろうかと、掃除の手を止めて足を向けると男の声が扉の向こうから聞こえている。
「ごめんください。居られますか。」
少しの沈黙の後、再びドアがノックされる。
「どちらさまで。」
「昔お世話になっていたザナルディです。近くへ寄りましたからご挨拶をと。」
男の名を聞いてアムスは躊躇い無くドアの鍵を開けた。
そこには、頑丈な体が目に付く男が立っていた。
「お久しぶりねザディ。元気だったしら。」
ザナルディと名乗る男は恭しく頭をたれて挨拶をする。
「提督、お久しぶりでございます。」
「やぁねぇ、もう提督と呼ばれる身分じゃないわよ。」
「あぁ、そうでしたね。いや、ここの近くに居る友人を訪ねてましてね、ふと提督のお宅も有ることを思い出しましてご挨拶をと。」
「あら、嬉しいわね。ま、お入りなさい。」
「恐縮です。」
食事を終えて軽く主への祈りを捧げる。
掃除の残っている所はあと少し、今日1日でやり遂げる事ができるだろうと目算をしながら、二皿の片付けから取り掛かる。
鼻歌が思わず出るほどの気軽さで決まった手順を追いながら片付けてゆく最中、玄関をノックする音が聞こえてきた。
まだ普段どおりとしても夫が帰ってくるには時間的に早すぎる。
郵便かなにかだろうかと、掃除の手を止めて足を向けると男の声が扉の向こうから聞こえている。
「ごめんください。居られますか。」
少しの沈黙の後、再びドアがノックされる。
「どちらさまで。」
「昔お世話になっていたザナルディです。近くへ寄りましたからご挨拶をと。」
男の名を聞いてアムスは躊躇い無くドアの鍵を開けた。
そこには、頑丈な体が目に付く男が立っていた。
「お久しぶりねザディ。元気だったしら。」
ザナルディと名乗る男は恭しく頭をたれて挨拶をする。
「提督、お久しぶりでございます。」
「やぁねぇ、もう提督と呼ばれる身分じゃないわよ。」
「あぁ、そうでしたね。いや、ここの近くに居る友人を訪ねてましてね、ふと提督のお宅も有ることを思い出しましてご挨拶をと。」
「あら、嬉しいわね。ま、お入りなさい。」
「恐縮です。」
船長時代、この男は副官として常に傍らに置いていた。
堅実な仕事に全幅の信頼を置いていた人物だった。
アムスが船を下りる際、船員全てに他船への紹介状を渡したが、この副官ザナルディについては、自らの船を継がないかと持ちかけたこともあった。
しかし、彼は躊躇い無く首を横に振り、誰もが夢見る船長の座を呆気なく断ったのだった。
再三再四の説得を試みたが、『この船は提督の船ですから。』といつも丁寧に断られたのである。
結局、アムスが折れる形で紹介状を渡したが、最後までこの人物の望みが何だったのかは知りえずに終わってしまっていた事を思い出す。
堅実な仕事に全幅の信頼を置いていた人物だった。
アムスが船を下りる際、船員全てに他船への紹介状を渡したが、この副官ザナルディについては、自らの船を継がないかと持ちかけたこともあった。
しかし、彼は躊躇い無く首を横に振り、誰もが夢見る船長の座を呆気なく断ったのだった。
再三再四の説得を試みたが、『この船は提督の船ですから。』といつも丁寧に断られたのである。
結局、アムスが折れる形で紹介状を渡したが、最後までこの人物の望みが何だったのかは知りえずに終わってしまっていた事を思い出す。
玄関を入ったところで服に付いた雨の雫を払い落とすと、ザナルディは勧めにしたがって食卓の一席に腰を下ろす。
「紅茶で良いかしら。といってもこれ以外は何もないんだけど。」
「どうかお気遣い無く。」
いつになっても礼儀正しい彼の返事だった。
「はい、どうぞ。昨日焼いた物だけどお菓子もいかがかしら。」
綺麗に焼かれたクッキーと共に芳しい香りの紅茶が運ばれてきた。
「ねぇ、ザディ。皆どうしてるか知ってる。」
アムスは家へ招き入れた嘗ての副官を船に乗っていた頃と同じように愛称で呼んでいる。
「えぇ、フィリップは時折船に乗っているようです。遠出は避けているようですが、助っ人みたいな形で…。」
「そうなのね。あの子はいつも元気だったからね。」
それから2人は近況報告やかつての仲間たちの事で大いに盛り上がる。
ザナルディはアムスが船を去った後、しかるべき後片付けを行ったあと暫くは他の船に乗って生業を立てていたが、程なくして陸へ上がり異なる生活を始めたのだという。
「えぇ、提督のお陰をもちまして。人様に自慢できる経験をさせていただきましたからね。ただ、いつまでも海には居られないでしょう、なに慣れてしまえば陸も楽園ですな。」
照れ隠しとも見える笑顔を浮かべていた。
「あら、紅茶が切れたみたい。新しく淹れてくるわね。」
アムスの上機嫌は軽い足取りに見て取れた。
そして数分後に戻ってきた時、先に話題を振ったのはザナルディだった。
「提督、一つお聞きしたいことがあるのですが。」
「なにかしら。」
「征かれないのですか。」
味気のない普段どおりの口調だった。
「…今は答えられないわね。回答を急ぐというのなら今の私には生活がるとだけかしら。」
それに対するアムスも変わらない口調だった。
ただ、ほんの一瞬だけ最初の言葉を発するまでの躓きを元副官は感じとった。
僅かな気持ちの揺れ、それを確認できただけで彼の任務は終わった。
「そうですか、提督も私も同じ気持ちであったと知って嬉しかったです。いやはや長らくお邪魔しました。」
ザナルディはそういって席を立った。
「お互い臆病になったのかしらね。」
「臆病とは真なる勇気を知ってこそ生まれるもの。そう言ってたのは提督でしたな。」
「ただの受け売りよ。」
見送るアムスには薄っすらと笑みが浮かんでいる。
いつの間にか、セビリアを濡らす雨は勢いを弱めている。
弱々しくなった雨雲を見上げる元副官、その顔はここに来た時よりも何かの核心を得たという表情だった。
「恥ずかしくもザディという愛称を忘れておりました。次はお迎えに上がります。」
「え、なに。」
「クッキーごちそうさまでした。」
アムスの問いに答えず別れの会釈をすると街中へと消えていった。
それからザナルディの足は自らの寝屋へは向かわず、街の南東にある1軒の酒場へと歩き始めた。
店内へ入るなりぐるりと中を見渡す。
カウンターの向こう側は数時間後に押し寄せてくるだろう夕食客に備える仕込みで忙しそうに動いている。
それを除けば、客の入りは疎らで空席が目立つ。
数少ない客の中から1人の男を探し出すと、その座るテーブルへと近寄った。
「提督の心は9割決まっているようです。それと、以前より頼まれていた件については昨日到着しています。」
そう切り出して事の顛末を具に伝える。
テーブルの男は元副官の言葉を全て聞き終えるまで一言も発しなかった。
そして、どこか落ち着きのない様子で1つ溜息を吐き出した。
「つらい役回りを押し付けてしまい申し訳ない。」
その言葉を聞いて、元副官は首を横に振る。
「信念と現実の狭間で悩まれておるようですね。提督の弱音というものは聞きたくないものです。」
椅子に座る男は黙って聞いていた。
そして全てを聞き終えると、硬い表情のまま礼を述べた。
それから続いて元副官に2・3の事柄について伝えると、一度頭を深く下げ店を出て行った。
徐々に増え始める客の数に比例するように店内は賑やかになっていく。
そんな賑やかさに取り残されたようなザナルディは口を真一文字に結んでいる。
そして暫く無人のテーブルに目をやった後、何も発せぬまま店を後にした。
外は雨上がり後の湿った空気が人の往来に翻弄されている。
所々にできた水溜りが雲切れた混じり物のない空色を写しこむ。
1粒2粒の雨が自分が最後の1滴と言わんばかりに振ってきてはその景色を壊す。
気まぐれな天気と雑踏に紛れながら元副官の男は今度こそ自らの寝屋へと足を向けた。
「紅茶で良いかしら。といってもこれ以外は何もないんだけど。」
「どうかお気遣い無く。」
いつになっても礼儀正しい彼の返事だった。
「はい、どうぞ。昨日焼いた物だけどお菓子もいかがかしら。」
綺麗に焼かれたクッキーと共に芳しい香りの紅茶が運ばれてきた。
「ねぇ、ザディ。皆どうしてるか知ってる。」
アムスは家へ招き入れた嘗ての副官を船に乗っていた頃と同じように愛称で呼んでいる。
「えぇ、フィリップは時折船に乗っているようです。遠出は避けているようですが、助っ人みたいな形で…。」
「そうなのね。あの子はいつも元気だったからね。」
それから2人は近況報告やかつての仲間たちの事で大いに盛り上がる。
ザナルディはアムスが船を去った後、しかるべき後片付けを行ったあと暫くは他の船に乗って生業を立てていたが、程なくして陸へ上がり異なる生活を始めたのだという。
「えぇ、提督のお陰をもちまして。人様に自慢できる経験をさせていただきましたからね。ただ、いつまでも海には居られないでしょう、なに慣れてしまえば陸も楽園ですな。」
照れ隠しとも見える笑顔を浮かべていた。
「あら、紅茶が切れたみたい。新しく淹れてくるわね。」
アムスの上機嫌は軽い足取りに見て取れた。
そして数分後に戻ってきた時、先に話題を振ったのはザナルディだった。
「提督、一つお聞きしたいことがあるのですが。」
「なにかしら。」
「征かれないのですか。」
味気のない普段どおりの口調だった。
「…今は答えられないわね。回答を急ぐというのなら今の私には生活がるとだけかしら。」
それに対するアムスも変わらない口調だった。
ただ、ほんの一瞬だけ最初の言葉を発するまでの躓きを元副官は感じとった。
僅かな気持ちの揺れ、それを確認できただけで彼の任務は終わった。
「そうですか、提督も私も同じ気持ちであったと知って嬉しかったです。いやはや長らくお邪魔しました。」
ザナルディはそういって席を立った。
「お互い臆病になったのかしらね。」
「臆病とは真なる勇気を知ってこそ生まれるもの。そう言ってたのは提督でしたな。」
「ただの受け売りよ。」
見送るアムスには薄っすらと笑みが浮かんでいる。
いつの間にか、セビリアを濡らす雨は勢いを弱めている。
弱々しくなった雨雲を見上げる元副官、その顔はここに来た時よりも何かの核心を得たという表情だった。
「恥ずかしくもザディという愛称を忘れておりました。次はお迎えに上がります。」
「え、なに。」
「クッキーごちそうさまでした。」
アムスの問いに答えず別れの会釈をすると街中へと消えていった。
それからザナルディの足は自らの寝屋へは向かわず、街の南東にある1軒の酒場へと歩き始めた。
店内へ入るなりぐるりと中を見渡す。
カウンターの向こう側は数時間後に押し寄せてくるだろう夕食客に備える仕込みで忙しそうに動いている。
それを除けば、客の入りは疎らで空席が目立つ。
数少ない客の中から1人の男を探し出すと、その座るテーブルへと近寄った。
「提督の心は9割決まっているようです。それと、以前より頼まれていた件については昨日到着しています。」
そう切り出して事の顛末を具に伝える。
テーブルの男は元副官の言葉を全て聞き終えるまで一言も発しなかった。
そして、どこか落ち着きのない様子で1つ溜息を吐き出した。
「つらい役回りを押し付けてしまい申し訳ない。」
その言葉を聞いて、元副官は首を横に振る。
「信念と現実の狭間で悩まれておるようですね。提督の弱音というものは聞きたくないものです。」
椅子に座る男は黙って聞いていた。
そして全てを聞き終えると、硬い表情のまま礼を述べた。
それから続いて元副官に2・3の事柄について伝えると、一度頭を深く下げ店を出て行った。
徐々に増え始める客の数に比例するように店内は賑やかになっていく。
そんな賑やかさに取り残されたようなザナルディは口を真一文字に結んでいる。
そして暫く無人のテーブルに目をやった後、何も発せぬまま店を後にした。
外は雨上がり後の湿った空気が人の往来に翻弄されている。
所々にできた水溜りが雲切れた混じり物のない空色を写しこむ。
1粒2粒の雨が自分が最後の1滴と言わんばかりに振ってきてはその景色を壊す。
気まぐれな天気と雑踏に紛れながら元副官の男は今度こそ自らの寝屋へと足を向けた。
その日の夜、アムスはいつものように夕餉の支度を整え夫の帰りを待っていた。
後ろではラム肉をワインと香草で煮込んでいる。
食欲を誘う香りが部屋に充満している。
食卓に座るアムスは夫を待つ間をレース織りをしながら時間を過ごしている。
いつからか始めたか忘れてしまったが、地中海のどこかの街で習ったものだった。
だが今日のアムスの手は動いては止まりを繰り返している。
元副官の突然の訪問、自身の中にある迷う心が針を止めていた。
手が止まるたびに小さな溜息をついては再び針を動かしている。
もどかしさと少しの苛立ちを積み重ねる時間を過ごしていると、いつの間にかアムスの手は完全に止まっていた。
時折、調理中の鍋を確認するために席を立つ以外は途中でとまったレース織りを手にしたまま物思いに耽ってしまっている。
それから暫く、鍋の蓋がカツカツと小刻みに踊る音と竈の緩やかな暖かさだけが部屋の賑わいの時間が過ぎていた。
アムスは食卓に寄りかかるような姿勢で目を閉じていた。気づかずに溜まっていた小さな疲労の蓄積があったのか、小さな寝息をたてている。
次にアムスが目を覚ましたのは部屋の異変に気づかされた時だった。
かすかに届く何かが焦げた匂い。
後ろではラム肉をワインと香草で煮込んでいる。
食欲を誘う香りが部屋に充満している。
食卓に座るアムスは夫を待つ間をレース織りをしながら時間を過ごしている。
いつからか始めたか忘れてしまったが、地中海のどこかの街で習ったものだった。
だが今日のアムスの手は動いては止まりを繰り返している。
元副官の突然の訪問、自身の中にある迷う心が針を止めていた。
手が止まるたびに小さな溜息をついては再び針を動かしている。
もどかしさと少しの苛立ちを積み重ねる時間を過ごしていると、いつの間にかアムスの手は完全に止まっていた。
時折、調理中の鍋を確認するために席を立つ以外は途中でとまったレース織りを手にしたまま物思いに耽ってしまっている。
それから暫く、鍋の蓋がカツカツと小刻みに踊る音と竈の緩やかな暖かさだけが部屋の賑わいの時間が過ぎていた。
アムスは食卓に寄りかかるような姿勢で目を閉じていた。気づかずに溜まっていた小さな疲労の蓄積があったのか、小さな寝息をたてている。
次にアムスが目を覚ましたのは部屋の異変に気づかされた時だった。
かすかに届く何かが焦げた匂い。
「いけないっ。」
目を覚まし慌てて台所へと走っても時は遅かった。
火に掛けていた鍋の中身は黒く焦げている。
一見してラム肉は無事のように見えるが、底は鍋と焦げ付いており取り出してみたものの疲れて帰宅する夫に出せる品ではなかった。
呆然とするアムス、そしてすぐに自責と後悔の念に襲われる。
夫が戻ってくるだろう時刻までさほど猶予がなかったが、それでも代わる品を作っておかねばと気を取り直し、収納部屋へ予備の鍋を探しに向かう。
火に掛けていた鍋の中身は黒く焦げている。
一見してラム肉は無事のように見えるが、底は鍋と焦げ付いており取り出してみたものの疲れて帰宅する夫に出せる品ではなかった。
呆然とするアムス、そしてすぐに自責と後悔の念に襲われる。
夫が戻ってくるだろう時刻までさほど猶予がなかったが、それでも代わる品を作っておかねばと気を取り直し、収納部屋へ予備の鍋を探しに向かう。
「確か、この辺に新しいのが…」
背丈より高い収納棚の上段を踏み台を使い探す。
なぜ棚の上段に鍋を仕舞い込んでいるのか疑問に感じたが今はその答えを探す余裕はなかった。
「あぁ、これね」
生活していく上で知らぬ間に増えた雑貨類に隠れた所に呼びの鍋をみつけた。
手を伸ばして取り出そうとするが、何かに引っかかって動かない。
何度か押して引いてを繰り返してみたが取り出せそうな気配がない。
そこで柄を掴んでいる手に力を込めて引っ張った。
なぜ棚の上段に鍋を仕舞い込んでいるのか疑問に感じたが今はその答えを探す余裕はなかった。
「あぁ、これね」
生活していく上で知らぬ間に増えた雑貨類に隠れた所に呼びの鍋をみつけた。
手を伸ばして取り出そうとするが、何かに引っかかって動かない。
何度か押して引いてを繰り返してみたが取り出せそうな気配がない。
そこで柄を掴んでいる手に力を込めて引っ張った。
「きゃぁ」
予期せぬタイミングに鍋が抜け、背後へ体重を掛けていたアムスは足元を踏み外してしまう。
小さな振動が響く。
手には鍋が握られていたが、鍋と共に落ちてきた様々な日用品が辺りに散らばっている。
その惨状を見渡し、ぐったりと項垂れる。
小さな振動が響く。
手には鍋が握られていたが、鍋と共に落ちてきた様々な日用品が辺りに散らばっている。
その惨状を見渡し、ぐったりと項垂れる。
「今日は一体何なのかしら…。」
尻餅をついてじんじんと痛む箇所を摩りながら立ち上がる。
せめて大雑把にでも片付けようと動き出したとき、何かが当って半開になっていた棚下段の扉で足を打ちつけてしまい、扉の蝶番が外れてしまった。
せめて大雑把にでも片付けようと動き出したとき、何かが当って半開になっていた棚下段の扉で足を打ちつけてしまい、扉の蝶番が外れてしまった。
「いたっ…もぅっ。」
こぼれる声に泣きっ面に蜂とはいかないまでも小さな災難続きに苛立っているのが分かる。
改めて片づけを開始しようと外れた扉を手に取った時、元の棚に納められていた箱が目に付いた。
それはとても頑丈そうな箱で大事そうに鍵がおろされていて、所々に蝋で封印がなされているが、蝋付けが不十分だったのかどれも剥がれてしまっている。
どこかで見覚えがあるような木箱に記憶の糸を辿っていく。
そして、それがこの家への引越し当初に夫スバースによって運び込まれたものと思い出す。
当時も何が入っているのか本人に聞いてはみたが、スバースが上手くはぐらかしてしまって、聞けないままに居た。
改めて片づけを開始しようと外れた扉を手に取った時、元の棚に納められていた箱が目に付いた。
それはとても頑丈そうな箱で大事そうに鍵がおろされていて、所々に蝋で封印がなされているが、蝋付けが不十分だったのかどれも剥がれてしまっている。
どこかで見覚えがあるような木箱に記憶の糸を辿っていく。
そして、それがこの家への引越し当初に夫スバースによって運び込まれたものと思い出す。
当時も何が入っているのか本人に聞いてはみたが、スバースが上手くはぐらかしてしまって、聞けないままに居た。
「結局、何が入ってるのかしら。」
妻である自分に内容を告げないまま貴重な収納棚の一角を占めている。
何だか納得のいかない気持ちのアムスは散乱した状況をそのままに、どこからか奇妙な工具を持ち出してきた。
何だか納得のいかない気持ちのアムスは散乱した状況をそのままに、どこからか奇妙な工具を持ち出してきた。
「蝋は取れてるし、この鍵さえ開けてしまえば良いのよね。ちょっとだけ中身を見させてもらうだけよ。」
自分がそのような技術を持っている事に関して周囲の目を気にして夫に告げては居なかったが嘗ての生活の中で必要に迫られ身に付けていた。
そして今、自分を小さな不幸に陥れた相手に対しその技を発揮しようと工具を手に取った時だった。
そして今、自分を小さな不幸に陥れた相手に対しその技を発揮しようと工具を手に取った時だった。
「ただいま。」
夫スバースが帰宅した。
その声を聞いたアムスは慌てて手に持った工具を仕舞い込んだ。
スバースは、帰宅しても出てこない妻の姿と妙に焦げ臭い匂いに首を傾げ家の中に妻の姿を探し始める。
そして収納部屋へとたどり着くと、その中で散らかった日用品を片付けるアムスを発見する。
その声を聞いたアムスは慌てて手に持った工具を仕舞い込んだ。
スバースは、帰宅しても出てこない妻の姿と妙に焦げ臭い匂いに首を傾げ家の中に妻の姿を探し始める。
そして収納部屋へとたどり着くと、その中で散らかった日用品を片付けるアムスを発見する。
「アムス、何かあったのか。」
夫の顔を見るに見れない状況にアムスは表情を強張らせる。
「ごめんなさい。お鍋を焦がしてしまって…。」
厳しい叱責を受けるだろうと身を硬直させる。
俯いたままのアムスはいつになく体が小さく見える。
俯いたままのアムスはいつになく体が小さく見える。
「そっか。それじゃ久々に外で食べようか。」
夫の言葉は想像を裏切る優しいものだった。
「片付けは明日やればいい。鍋も予備が見つかったのならそれで良いじゃないか。」
「でも…。」
「でも…。」
どのように考えても、何もかも間に合っていない今の状況では誰もが厳しい言葉になると想像するに容易かった。
特に几帳面な性格の夫であるだけ優しい言葉が返ってくる事にアムスは戸惑いを隠せないでいる。
特に几帳面な性格の夫であるだけ優しい言葉が返ってくる事にアムスは戸惑いを隠せないでいる。
「さ、着替えて。まだ開いてる店があるから。」
「あ、はい。ごめんなさい…。」
「あ、はい。ごめんなさい…。」
急かされるようにして身支度を始める。
夫はすでに支度を終えている。
よく分からない状況に混乱しつつも、なんとか形を整え2人揃って日の暮れた街へと繰り出した。
夫はすでに支度を終えている。
よく分からない状況に混乱しつつも、なんとか形を整え2人揃って日の暮れた街へと繰り出した。
(25話)