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金の獅子の背に乗って
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金の獅子の背に乗って

第26話

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anrede

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「その手に掴むもの」Ⅶ


自宅から40分ほど歩いて1軒の酒場へ到着する。
そこはアムスが言ったことない小さな酒場だった。
スバースは躊躇いなく店内へと入る、アムスがそれに続いていく。
「おぅ、いらっしゃい。今日は一段と別嬪な娘を連れてるじゃないか。」
マスターの威勢良い声が2人を出迎えた。
「よせよ。嫁さんだ。」
「珍しいじゃないか。ま、空いてる所へ適当に座ってくれ。注文取らせるからよ。」
大きいとは言えない店内の客入りは6割ほどで、大繁盛とはお世辞にも言い難い状況だった。
2人が空いているテーブルに座るとすぐに中年の女性が近寄ってくる。
歳は50過ぎ、慣れた手つきで配膳をしながら2人のテーブルまでやってくる。
「嫁さんだって?可愛い娘さんじゃないか。あんたにゃ勿体無いねぇ。」
その女性は慣れた客商売用の笑顔だった。
「女将さん、いきなりの御挨拶で痛み入るよ。夜は娘さん居ないんだね。」
昼間の忙しい時間は夫婦の娘が注文受けをこなしていた、いわば看板娘と言われるものだ。
「さすがに管を巻く客も居るからね。まだまだ出せられないよ。で、何にするんだい。」
豪放な口ぶりがいかにも酒場の女将を思わせる。
「酒と腹の足しになるようなのを適当に。」
「そちらの可愛い娘さんも酒で良いのかい。」
アムスは夫の顔を窺った。
しかし、その視線にスバースは全く気づく素振りもなく注文していた。
「あぁ、酒で良い。」
「そうかい。じゃ、適当に持ってくるよ。」
注文を受けた女将はカウンターへと引き返す。
途中、飲みすぎそうな客を見つけて釘を刺す姿はさすがに慣れた感がある。
そうして2人はようやく落ち着いた。
「こんなお店知ってたんだ。」
夫の意外な知識に対する感想を口にしながら、アムスは店内を見渡す。
年季の入ったテーブルや椅子、飾り棚には使い古されたジョッキが陳列されている。
壁にはいたる所に傷と落書きが見える。おそらく酔っ払った客が悪戯につけたものだろう。
店全体としては寂しすぎず、かと言って混み合うような賑々しさもなく時間がゆっくりと流れていると錯覚させるような店だった。
酔って大声をあげたり、暴れたりできる雰囲気を感じさせないのは店主夫婦の人徳と言える。
街の中を探せば同じような店を探すことは容易だろうが、こじんまりとした店へ入る為には少しの勇気が必要と感じていた。
それゆえに異国の街ではなるだけ大通りに面し賑やかな酒場へ寄る事が多く、むしろ当時はそちらの方が楽しいと感じている部分があった。
「ここは仕事場から近いし、安く食べさせてくれるのさ。」
店に入ってから一連の会話を見て、どれだけの頻度で通っているかが容易に測ってとれた。
そして、平静そうに見えながらも嬉しそうなスバースの顔がこの店の品質を雄弁に語っている。
「お待たせしたね。酒とつまみだよ。」
ジョッキに入ったワインと近くで採れるムール貝の蒸し焼きが運ばれてきた。
食欲を誘う香りが2人を包む。
調理法はとても簡単で、空の鍋にムール貝を入れ火にかけた後、蓋をして数分待つ。
火加減は中火を保ち、貝が開き旨みの詰まったスープが出てきたら、そこへ塩と香草とワインを加えて再び蓋をする。
そうして2分ほど火を通したら皿へ盛り付け出来上がりである。
「これは美味そうだな。さ、食べよう。」
軽くワインで喉を潤した後、湯気立つ料理に手をつける。
「…美味しぃ…」
思わず感嘆の声が出る。
手の込んでいる料理とはお世辞にも言えないが、味付け火の通り具合など何もかもがバランス良く出来上がっている。
これなら家でも出来るのではと思い、アムスはその味を覚えようと入念に味わっている。
先ほどまでとは違う生気ある表情になった妻を見てスバースはほっと肩の力を抜いた。
それから2・3品の料理がテーブルに届けられ、酒の力を借りていつしかアムスもすっかり機嫌を取り戻している。

それから2人は2人だけの楽しい時間を過ごしていた。
毎日顔を合わす者同士であるはずなのに、途切れることのない会話と笑い声がテーブルに響いている。
気づけば店へ入ってから2時間余りが経過しようとしていた。
店内は変わらず落ち着いた雰囲気に包まれている。
気持ちよく酔ってきたアムスの耳が近くのテーブルから聞こえてくる話題を捉える。

「今や東は普通に商売しようとるす船なんて近寄れないほどらしいぞ。」
「あぁ、俺も聞いたよ。船は問答無用で捕らえられるらしいからな。」
「ったく、商売あがったりだぜ。早くケリつけてくれないとな…。」
「平和ボケしたヴァチカンの連中が仕切ってんだ、無理な話だろうぜ。」
「結局、正規の軍隊動かしたからって。動かなきゃ意味ないな。」
「黒鯱の看板が泣くな…。」

夫を目の前にして、気にしないと思っていても意識がそちらへと傾いていく。
伝聞系の噂話だけに尾鰭や脚色がなされていると知りつつも、時折聞こえてくる話し声にいちいち聞き耳を立てている。ただ機嫌よく飲んでいる夫に覚られないように適度な相槌を打ちながらの作業だった。
「わりぃ、ちょっと外す…」
タイミングよく夫が手洗いへと立った。
俄かに静かさの訪れたテーブルと相反するように、東地中海の噂話をする席はすこし熱を帯びてきている。

「小競り合いが何度かあったみたいだぜ。」
「おう。俺も聞いた。」
「小さく勝って喜んでるんだろうけどよ、まったくいつになれば終わるのか。」
「そうだな。いい加減にしてもらわないと商売にならんぜ。」
「神聖同盟って言ったって所詮は各国の寄せ集め軍隊さ、向こうもこちらも烏合の衆には変わりない。埒なんざ開くもんか。」
「結局は数の押し合いだろ。時間ばっか掛けてなんちゃできやしない。」
「人は居なくなる、物価は上がる、近くの海でも賊が出ると聞いた。何の為の戦なんだか…。」

一部始終を聞いていたアムスの目は対面の壁を見つめている。
技術屋として日夜働く夫の支えになると決めた事に後悔はない。
しかし、胸の中に湧いて出てくる焦燥感は何だというのだろうか。
自らに問うた疑問を流すようにジョッキに残っているワインを喉へ押し込んだ。
ふぅ、と息を継いだところで夫が戻ってきた。
「さて、そろそろ遅くなったし出ようか。」
夫は席を立つ前と同じように上機嫌な顔をしている。
カウンターへと移り支払いを申出ると、その額を聞いたアムスは想像以上の安価に目を丸くした。
そこへ配膳を終えた女将が戻ってくる。
「なんだ、もうお帰りかい。もっと注文してくれないと赤字だよ。」
「ここが潰れないぐらいに食べさせてもらったよ。」
「そうかい、まいどあり。また来ておくれよ。」
女将の見送りを受けて2人は店を出た。
外は昼間に降った雨の影響で少し蒸し暑さを感じるが、平日よりかは幾分涼しく感じる。
久々の外食を終えアムスも気を取り直し酒で火照った体に感じる外気の心地よさを愉しんでいる。
そして2人は腕を組んで歩き始めた。
「こんな店知ってるなら早く教えてくれれば良かったのに。」
「教えられない理由があったのさ。」
「ふーん。まさか、あの店で浮気してるとか。」
今まで教えなかった罰のつもりで、わざと意地悪な質問をする。
「お前が待っててくれるからさ。」
あっさりとスバースは答えた。
気の利いた演出もなにもなく、ただ平然と歩きながらの回答だった。
その言葉に、ただ純粋に悪戯のつもりだったアムスの方が言葉をつまらせる。
「えっと…なによ、いきなり。」
耳が焼けそうなぐらい熱くなっている。
酒だけではない火照りが胸から顔へ向けて上ってくる。
アムスは動揺と照れでどうしてよいものか分からず、スバースの腕をただ強く抱きしめていた。
動揺しているアムスをよそにスバースは突如歩く向きを変えて港へと向かう。
「海へ行こう。」
「ちょっと、今度は何なの。」
しかし、アムスの問にスバースは答えなかった。
目抜き通りへと出て、西へ進む。
日中は賑やかで人通りの絶えない場所も夜となれば人影も疎らになっている。
数件の酒場から聞こえる声が昼間のそれに対抗しようとしているが、それを除けば辺りはひっそりと夜の静けさを迎えている。

程なく2人は港の荷降ろし場へと到着した。
ここまで来ると人影もなく、ただ潮騒のみが時を刻むだけの完全な静寂に包まれている。
雲の切れ間から顔を見せ始めた星明りに照らされた2人の影が何本かある埠頭の1本へと歩いてゆく。
連れられるままに黙って夫に従うアムスにはまだここへ来た理由を探し当てられずにいた。
「ねぇ、どうしたの。ここに何があるの。」
「あそこさ。」
そう言ってスバースはまだ遠い1隻の船を指差した。
アムスは夫の指差す先にある船に目を凝らす。
どこか見覚えのある船体が最も港外に近い埠頭に係留されている。
小さく波に揺れる船の薄暗く照らされた船の船首を見たとき思わず息を飲む。
「まさか、そんな…。」
1歩進むたびにアムスの思いは確信へと変わってゆく。
早まる胸の鼓動が耳の奥で低く響き渡る。
そして船の前へ到着したとき、アムスは何も発せられないでいた。
「なぁ、アムス。」
妻の気が動転している事をしりつつもスバースは口を開いた。
震える体を必死に動かして夫の問いかけに答える。
「お前、まだ間に合うんじゃないか。」
その言葉を聞いた瞬間、アムスの目に光るものが溢れ出る。
今にも崩れそうな妻の体をスバースはきつく抱きしめる。
「でも…。でも…。」
アムスは何かを必死に否定しようとする。
スバースはその口に自らの唇を重ねて続く言葉を遮った。
「この動乱の時期、日に日に輝きを失う君の瞳に僕は耐えられなかった。」
夫は耳元で優しい口調のまま続けた。
それは独り言のような囁きだった。
「君の心は知っている。でもそれは僕一人の幸せになってしまう。」
もうアムスには瞳から流れる涙をどうすることもできなかった。
スバースの胸に顔を埋めたままただ震えていた。
「僕は君の夫だ。君がそうしてくれてるように、僕も君の幸せを考えたいんだ。だから…。」
その時、今度はアムスから夫の口を塞いでいた。
隠れていた月が2人を祝福するように姿を見せる。
抱き合った2人の影が埠頭の石畳に細長く伸びている。
「ありがとうスバース。必ず戻ってくるから…。」

出航を迎えた日の港に真新しい提督服に身を包んだアムスの姿があった。
傍らには副官に復帰したザナルディの姿も見える。
物資の積み込みが少し遅れているため、2人は空いた時間を今後の打ち合わせに充てていた。
「提督―。」
そこに誰かが軽快な足音と共に駆け寄ってくる。
「アムス提督、お帰りなさい。」
「ただいまフィリップス、元気だった。」
「えへへ。また提督の船に乗れるんだし元気いっぱい。」
このフィリップという人物、傍目には年端もいかぬ少女のように見える。
ただ、これで一端の船乗りであり、その事を初めて聞く人は皆一様にして驚きの表情をするほど外見と中身の差がある人物だった。
「それにしても貴方達を始め皆よく集まってくれたわね。」
「当時の者全員とまではいきませんでしたが…。」
「それぞれの生き方は自由だけど、また貧乏くじ引かせちゃうわよ。」
「提督と一緒なら皆平気だよ。」
フィリップスの口調が当時から変わっていないのが懐かしくもあり、つい先日まで聞いていたような錯覚も感じる。
「あれれ、旦那さんはお見送りに来てないの?」
周りを見渡してもスバースの顔はどこにも見当たらなかった。
「折角の出航なのにー、冷たい旦那サマ。」
「あの人は朝早くから出かけたわ。私達みたいにやるだけが戦争じゃないのよ。」
その言葉どおり、スバースは朝早くから仕事へ出かけていた。
出航準備に追われ疲れ果てたアムスはその時眠りについていた為、何も話さずの出航となってしまった。
「うー、いつもそうやって私を子ども扱いする…。」
「お前はまだまだ子供だろう。」
「何をこの髭だるまっ。お前なんかタコの餌になっちまえ。」
「ガキに何を言われて悔しがるかよ。」
「なんだとぅ」
これも当時は良く見た光景だった。
2人は何かといがみ合うことが多く、些細な事から始まる為いつも賑やかさという点では不足しなかった。
「はいはい、そこまで。そろそろ積み込み終わったみたいよ。」
これも当時と同じく仲裁はアムスの係だった。
見慣れたはずのありふれた光景であったが、それは逆にアムスの心へ街を離れるゆえの寂寞たる思いを抱かせていた。
そして甲板へと続く踏み板を最後尾から上ってゆく時、アムスは1度だけ後ろを振り向いた。
そこには船員達の家族が見送りに集まっている。
ぐるりとその集団を見渡し確認すると、再び踏み板を上ってゆく。

船首部から改めて自分の船を見渡してみる。
家族との別れを惜しむ者、準備に追われる者それぞれが忙しく動いている。
「提督、復帰おめでとうございます。」
船中の様子を眺めているアムスに副官両名から祝辞が述べられた。
「残念だけど戻ってきちゃったわね。」
冗談混じりに話すアムスの表情は穏やかに笑っている。
「こうやって見ると、この船も大きいわね。当時は狭いと思ってたのに。」
視線は忙しく動き回る船員達に向けられたままだった。
そのまま数分ほど準備する船員達の光景を眺めた後、船中を歩きながら船員一人一人に声をかけてゆく。
知った顔の船員からは復帰を喜ぶ声を掛けられたが、今回から乗船する者はまさか声を掛けられると思っていなかった為か突然に湧いた小さなハプニングに声を詰まらせる者もいたりした。
「あの人はいつも出航前はこうやってるのさ。」
慣れた船員が動揺する新人に嬉しそうに説明している。

船は暫く使っていなかったものの、当時そのままの姿で残っている。
おそらく副官2人のどちらか、それとも両名かが管理してくれていたのだろうとアムスは声に出して確認はしなかったが確信していた。
「さて、私は荷物を片付けてくるわ。」
副官から提督室の鍵を受け取ると船内へと歩いてゆく。
部屋へ入るとすぐに運び入れた荷物が置かれていた。
ここから東地中海へ向かい事を終えるまでの航海と考え、荷物の量としては少ない感じも受ける。
それらの荷を解いている時、開けっ放しにしていたドアの影に置かれている荷が目に入る。
つい最近、自宅の収納部屋で偶然発見した錠前のある箱だった。
それがなぜこの部屋にあるのだろうかと首をかしげる。
見ると、錠前は外されている代わりに1通の手紙が添えられている。
手紙の封筒には宛先も差出人も書いておらず、蝋で簡単な封がされているだけだった。
運び込まれていた荷物からナイフを取り出し、丁寧に封筒を開ける。

『貴女に女神ニケの加護がありますように。  S』

たどたどしい筆跡の手紙だった。
「恋文の1つも書けない人なのにね…」
思いがけない夫からの応援に少し照れくさそうな表情を浮かべる。
「で、こっちは何かしら。」
あの時は夫の帰宅により開ける事が叶わず中を確認できなかったのを思い出しながら箱の蓋に手を掛ける。
箱の中には少し草臥れた提督服と使いこまれた測量用品と航海日誌とが綺麗に整理され納められていた。
しかしアムスにはその手触りや傷、綻びの1つ、どれにも見覚えと思い出がある。
「取り置いてくれてたんだ…。」
夫の優しさが物言わぬ服から伝わってくる。

それから程なくしてザナルディは出港準備が整った報告を携えて提督室へと向かっていた。
「提督、準備が整いました。」
部屋中で自身の準備を終えたアムスが待っていた。
その身を着くたびれた服に包んでいる。
提督の着替えた姿を見てザナルディは何も言わなかったが、どこか嬉しげな表情をみせる。
甲板へ向かうアムスの足取りは迷いを振り払うような大きくしっかりしたものだった。
甲板には全船員が整列し、皆一様に無言で提督の言葉を待っている。
一人一人の顔を確認した後、アムスは口を開く。
「みんな、集まってくれてありがとう。」
用意していた台詞を押しのけ、出てきた言葉だった。
「今回はかなりの覚悟が必要です。しかし、ここに居る誰一人欠けることなく
 再びこの港へ戻ってきましょう。」
提督の言葉を聞いて、整列していた船員達の表情が頼もしいものへと変わる。
誰も死して英雄になろうとは考えていない、そう決意した顔だった。
その表情を確認したアムスは大きく息を吸い込み小さく告げた。
「出航します。」
号令と共に船員達が一斉に持ち場へと散ってゆく。
船は一挙に緊張した喧騒に支配される。
甲板の振動を通して船員達の慌しさが伝わってくる。
そして大きな音と共に錨が海中より引き上げられると、船はゆっくりと埠頭を離れていく。
セビリアの空に順追って展開される帆がしっかりと風を捉え船を港の外へと進めてゆく。
「総帆展開完了しました。パルマへと進路を取ります。」
アムスはフィリップスの報告を背中で受けながら航線の先に少しずつ離れていくセビリアの街を見つめている。
「提督、やっぱり寂しい?」
憂いに帯びたアムスの背中にいたたまれないフィリップスが質問した。
「そんな事はないわよ…。」
振り返り様に返答するアムスの目に1つの人影が映る。
そこはセビリアの東の端にある小さな漁業用の港だった。
人影はセビリアを出たこの船の行く先を見守るように立っていた。
遠目にも分かるその姿にアムスは船縁に駆け寄った。
連日、暗いうちから出かけ夜遅くに帰って来るほど極まった忙しさにも関わらず、確かにそれはスバースの姿だった。
遠くなる距離を気にすることも無く互いに見詰め合う。

その姿を見ていたフィリップス。
「良いなぁ…私もああいう旦那さん欲しいな…。」
「それは無理だろうさ。それより仕事してくれ。」
各指示を終えて通りがかったザナルディが返答した。
「なによっ。乙女の独り言を盗み聞きするとは無礼なっ。」
ザナルディは同僚の声を聞き流す。
「提督、艦隊合流後、伝書矢での連絡が必要となりますが、以前と同じでよろしいでしょうか。」
引き波の先をずっと見つめていたアムスが振り返る。
「A・スバースとして頂戴。」
「了解しました。それと、依頼にない火薬と砲弾の積み込みがありますがよろしかったので。」
「おそらく南回りの航路になるでしょうね。そうなれば必要になるでしょう。」
アムスと言葉を交わしながらそのきっぱりとした言葉と、何より瞳の力強さが嘗てを思い出させザナルディは背中に粟立つものを感じていた。

打ち合わせを終えてアムスは自室に戻ったが、ザナルディは甲板に残っていた。
さきほど無視を食らったフィリップスがそこへやってくる。
「ねぇ、提督って寂しそうだった?」
出航直後、あんな情景を見せ付けられてフィリップスも心配の色を隠せない。
「あの人はそんな柔じゃないさ。」
「そっかぁ。何かさ、以前より今の提督の方が雰囲気が良くて好きだな。」
「背負う物が変われば人は変わるもんさ。お前も早くどっか行け。」
「じゃ、アンタが貰ってよ。」
「御免被るね。俺にはちゃんと嫁子が居るんでね。」
「えーっ。そんな話聞いたこと無いわよ。」
「そりゃそうさ、言ったこと無いからな。」
目を丸くするフィリップスを余所目にザナルディは船内の見回りへと歩き出す。
「私だけ除け者みたいじゃないっ。」
「フィル。お前も航海者なら自力で道を切り開くんだな、頼ってばかりじゃつまらんぜ。」
そう言い残してザナルディは船中へと消えていった。

自室のアムスは真新しい航海日誌にペンを走らせていた。
西からの風を受けて速度を増した船はジブラルタル海峡へ向けて静かに航行している。
必要な全てを書き終えたアムスは日誌を机の引き出しへと片付ける。
その中には何より大切な夫から初めて送られた手紙も共に入っていた。
引き出しに鍵をかけ、ただぼんやりと部屋を眺めていると次第に両目の瞼が重くなる。
今日に至るまで準備と家事と少々の仮眠の日を重ねるうちに溜め込んでいた疲労が久々に味わう航行中の揺れに表面化している。
船中の緩慢な時の流れの中で欠伸を奥歯でかみ殺していたアムスだったが、いつしか机に伏せて静かな寝息を立てていた。

静かな提督室を他所に船中は活気が支配していた。
出航時の慌しさほどではないにしろ各持ち場の船員達は自らの仕事を懸命にこなしている。
時折、どこかしらから歌声が聞こえて来る。
それは、出航の喜びとも、これから先に待ち受けるであろう生死の岐路に向けて自らを鼓舞するようなものとも感じられた。
船は現れては消えてゆく大小様々な波を勢い良く切り分けて進み、吹き尽きぬ風が出航を祝福するように船を東へと誘っていた。

(26話)
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