ランチの自動扉が開いたときフィリア・シュードの気に止まったのは、区画内に悪臭が充満していることであった。
火星軌道と木星軌道の間には小惑星帯が存在し、そこには岩石をくりぬいて作られた安価な居住小惑星が無数にひしめき合っている。
軌道が不安定で行き来も不便であるから、これら簡易居住小惑星の地価は地球・火星間の小惑星やコロニーに比べて数千分の一である。
フィリアが訪れたのも、何々番小惑星と呼ばれる名も無き居住小惑星の一つであった。
農業区画から垂れ流されるリンと流れの停滞とで富栄養化現象が発生し、居住区画の川は緑色に濁っている。
鼻にさわる臭気は、そこと、天井の大型空調機から発せられるかび臭い空気が原因であると思われた。
路肩にぽつぽつ坐っている乞食も月の大都市で見られるそれが上品に思えるほど薄汚く、立ち並んだ粗末な作りの建物からは、酔っ払いの怒鳴り声や夫婦喧嘩と思われる金きり声が響いてくる。
フィリアは自分が通行人にじろじろ見られているのを感じた。
染みが無く糊の利いた服を着ているのがフィリアだけであったこともあるが、路地の物売りの中年女性たちはフィリアを見てひそひそ囁き合い、軽蔑の言葉を漏らしている。
労働者ふうの男が馴れ馴れしくフィリアの肩を抱いて、卑猥なことをささやきながら皺だらけの紙幣をフィリアの手に押し付けた。
見当違いも甚だしい。フィリアは男の手を払って歩き出した。
後ろから怒鳴り声が聞こえたが、フィリアがある事実を告げてしまうとすぐ静かになり、少し遅れて、先ほど囁き合っていた中年女性たちが大笑いするのが聞こえた。
フィリアは小さな下宿屋の前で立ち止まった。携帯端末を操作して住所が間違っていないのを確認し、それからインターフォンを押した。
しばらく経つと、中年と熟年の中間ほどの年齢と思わしき女主人が出てきて、胡散臭そうな目つきでフィリアを眺めた。
フィリアは女主人に事情を話しながら携帯端末に映る顔写真を見せたが、彼女はのらりくらりとフィリアの質問をはぐらかし、相変わらず疑りの目でフィリアを見ていた。
フィリアはこのままでは埒があかないと考えて、女主人の手に幾枚か紙幣を握らせた。
その途端に彼女は打ち解けたと見え、フィリアを家の中に通し、「デイヴィッド・リマー」と表札に書かれた部屋に案内した。
部屋の主は居なかったが、どんな人物がここに暮らしているのかは容易に想像できる有様であった。
寝台にはシーツもなく、あちこち綿のはみ出たマットが剥きだしになっている。作業着と黄ばんだ下着を一緒くたに丸めたのが枕代わりであるらしかった。
床には空き瓶と空き缶が散乱し、部屋に据付と思わしき冷蔵庫は開け放しで、乱暴に放り込まれたビール缶と、なぜかバスケットシューズが覗いて見えた。
その上、この居住区の劣悪な空気にようやく慣れ始めたフィリアでさえも顔をしかめる悪臭が部屋に篭っている。
諸悪の根源は冷蔵庫脇にぽつんと置かれている物体であった。緑色の黴に覆われたその物体をよく観察すると、フィリアも量販店でよく見かける乳製品のパッケージの切れ端が見えた。
雪の結晶を模したロゴの横に「アルバート」と書きなぐられ、その下のペンで乱暴に塗りつぶされた箇所の端に「祝! 生後六ヶ月!」と同じ筆跡で書いてある。フィリアは口元を押さえて部屋を出た。
女主人の話によれば、デイヴィッド・リマーはここ数ヶ月ずっと働いていないらしかった。
朝から晩まで酒場や賭場へ通い、そうでなければ部屋で何もせずに飲んだくれているそうである。
部屋の使い方が汚いやら家賃の支払いが三ヶ月も滞っているやらと、女主人がいらぬことまで愚痴り始めたので、フィリアは暇を告げて逃げるように下宿屋を立ち去った。
デイヴィッドが入り浸る界隈を訪ね歩いて、そのたびにいやらしい言葉を浴びせられながらもフィリアは根気強く彼を捜し続けた。
一見して余所者と判るフィリアがからかわれないでいるためには、会話を交わすごとに財布を軽くしなければならなかった。
フィリアは自分の風貌が相手を付け上がらせるのに一役買っていることも知っていた。
最下層のゴミ溜めでなく小奇麗な月都市でもそれは同様であり、金で解決できるだけここのほうがかえって円滑に進むくらいであった。
半月分の給料と四時間の時間を浪費してからようやくフィリアは目的の人物を見つけることが出来た。
薄汚い建物の前で、デイヴィッドは頬を押さえて蹲り、彼を殴ったと思わしき大男に向かって何やら懇願を繰り返していた。
時折、「ひひっ」と卑屈な笑い声を口の端から漏らしつつ、金銭上の問題について相手に慈悲を乞っていた。
デイヴィッドがあまりにもしつこくむしゃぶりつくせいか、大男は「いい加減にしろ」と怒鳴りながら彼の顔を蹴っ飛ばし、それきりすたすたと建物の中へ入って行った。
デイヴィッドは大男が居なくなったのを見ると、たどたどしい口調で扉を罵った。
「ここここの、おおれは知ってんだぞ。ててめえがカードでイカサマしてんのも、きゃ客に出すウォトカに水混ぜてんのも、ちちち畜生、う訴えてやる。おおれはうったえるぞ。ひひっ……」
フィリアは二年ぶりに再会した親友の姿から目を背けたくなった。
受ける印象の上ではすっかり様変わりして、以前のからりとした明るさが卑しさにすり返られている。
無精ひげに覆われた口元から発せられる声は、二年前と比べて相当に嗄れている。おそらく酒の中毒が原因であろう。
服装はみすぼらしく、染みと元の色とが区別できないほど汚れている。このまま帰ってしまおうかという考えがわき上がった。
しかしそのときには既にデイヴィッドが黄色く濁った目をフィリアに向けていた。
「ひひっ、ああんた、どっかで見たことあるような顔だな。まあ、いいさ。ととにかく、ちょっとばかし金貸してくんねえか。なあ、お嬢さん、いい、いいだろ。ほほんのちょっとでいいんだ」
デイヴィッドがそんなことを言いながら立ち上がり、千鳥足でフィリアに近づいてきたと思えば、彼はフィリアの肩に手を置いた途端いきなりその場にくずおれてしまった。
フィリアがあわてて抱き起こして声をかけてみたけれども、デイヴィッドは目を瞑ったまま青ざめた口をもごもごと動かすに過ぎなかった。
彼は酔いつぶれたらしかった。
デイヴィッド・リマーはシャワーの音で目を覚ました。
ここ一年ほど見ていない小奇麗な天井と、清潔な枕の滑らかな感触があるのを知り、すぐさまばっと音を立てて羽毛蒲団を捲った。
残念なことに、服は着ていた。代わり映えの無い着たきり雀である。
デイヴィッドはため息を吐き、醒めた頭で昨日の出来事を順々に思い出して行った。
いつもどおり正午に起き、大家の催促を逃れてパチンコ屋へ出かけた。
負けも勝ちもせず夜になって、行きつけのバーでカードに興じ、負けが込んできて、店主に追加の酒を頼んだら店から追い出された。
その後の記憶はぼやけて、なにやら悪態を付いていたかもしれず、通行人に絡んでいたかもしれない。
酔いが回りすぎて、デイヴィッドは自分が何を言ったのかさえ覚えていなかった。
シャワーの音が止んで一分ほど経つと、バスローブ姿の人間が、肩口ほどまでの長さのある髪をタオルで拭きながら浴室から出てきた。
白い肌とバスローブに包まれた細い腰が見えたとき、デイヴィッドは思わず足を組んでその人間の胸元に視線を集中させた。
「あ、起きたんだね」
その人物が聞き覚えのある声を発した途端にデイヴィッドの淡い期待は崩れ去った。
デイヴィッドは頭を抱えて、投げやりな口調で言った。
「お前だったのかよ、フィリア」
「どうしたのデイヴ? なんで怒ってるの?」
「うっせ、紛らわしい顔しやがって……」
女性と見まがうばかりの容貌であるけれども、フィリア・シュードは正真正銘の男性である。昔、実際にひん剥いて確認したこともある。
彼と言葉を交わすのは二年前に連邦軍を抜けて以来のことであったが、デイヴィッドは蒲団を被って目を瞑った。
期待していただけに幻滅も大きかったのである。
「お変わり無いようで何より。じゃ、お休み」
「ちょっと! 用件を聞くとかはしないの?」
「俺は疲れてるんだ。ほら、仕事とかでいろいろ」
「ニートが何言ってるんです! 親友がはるばる訪ねてきたというのに、その態度はどうかと思うよ!」
一時間ほど押し問答した後、眠気も醒めてしまったデイヴィッドは仕方なしにフィリアの用件に耳を傾けていた。
「火星へ?」
「うん。第七次調査団として派遣されるんだけれど、MSパイロットの枠が一つ空いているんだ」
「テラフォーミングが終了するのはまだ何百年も先だろ? 何でわざわざ調査団なんか送るんだよ?」
パイロット枠の件には触れず、デイヴィッドは思いついた疑問を口にする。
「途中経過報告が火星開発公社(ウチ)の名目だからね。そのために連邦から資金援助も受けてるし。まあ、ほかにも色々と事情がね。だからさ――」
「先回の調査は何年前なんだ?」
「……五十年前。ちょうど五十年周期だよ」
「で、フィリアはメカニックチーフで参加するわけか。しかしまあ、なんだ。お前も相当に出世したな。たしか引き抜かれたんだろう? 連邦にいたころより給料だって――」
「デイヴ! 四方山はもう止めようよ。僕は、君を誘いに来たんだ」
デイヴィッドは口を噤んだ。フィリアの様子が思いのほか真剣味を帯び始めてきたからである。
「君は、今のままの境遇で本当にいいの! 軍を抜けて、こんな辺境で夢も希望もない人生を続けるの! ここは空気も悪いし、人間だってみんな性根が薄汚い。
こんな、食べるために生きるのか生きるために食べるのか定まらないところにいれば、いつかきっと、デイヴは駄目になる!」
「もう充分駄目人間さ」
「だったら、これから立ち直ろうよ! 飲酒と放蕩と伊達気取りなんてすっぱり止めて、もっと、地に足付けて将来を考えることにしよう!」
「今の時代、地球は立ち入り禁止だぜ」
「だから、火星に行こうと言ってるんだよ! 火星には大地があるし、安定した職だってある!
調査団が解散した後のポストは僕が用意するし、君の借金だって、僕が立て替えるから、昔みたいに、僕と一緒にがんばろうよ!」
お前はなぜそうまでするんだ、という藪蛇を突っつくような言葉は飲み込んだ。デイヴィッドにはその理由を三つも四つも挙げることが出来るのである。
彼は他人の性情に深く立ち入りたくなかった。
真実であるとか、理想であるとかはぜいたく品で、物事を深く考えずにだらだらと上辺だけの人付き合いをしながら、残りの人生を死ぬほど退屈に暮らしたいと願っていた。
「返事は、早めにしないと駄目か?」
「出来れば、今日中にして。早くしないと、火星の位置が変わってシャトルじゃ行けなくなっちゃうから」
「わかったよ。行くよ。行けばいいんだろ。ったく、お前にはかなわねえよ、フィリア」
デイヴィッドは観念した。どのみち、下宿にも財布にも金が無い一文無しの彼には、強情を張るという選択肢は無いのである。
「デイヴ、ありがとう!」
フィリアはぱっと咲くような笑顔を見せて、心底嬉しげに今後の計画をあれこれと語り始めた。
火星軌道と木星軌道の間には小惑星帯が存在し、そこには岩石をくりぬいて作られた安価な居住小惑星が無数にひしめき合っている。
軌道が不安定で行き来も不便であるから、これら簡易居住小惑星の地価は地球・火星間の小惑星やコロニーに比べて数千分の一である。
フィリアが訪れたのも、何々番小惑星と呼ばれる名も無き居住小惑星の一つであった。
農業区画から垂れ流されるリンと流れの停滞とで富栄養化現象が発生し、居住区画の川は緑色に濁っている。
鼻にさわる臭気は、そこと、天井の大型空調機から発せられるかび臭い空気が原因であると思われた。
路肩にぽつぽつ坐っている乞食も月の大都市で見られるそれが上品に思えるほど薄汚く、立ち並んだ粗末な作りの建物からは、酔っ払いの怒鳴り声や夫婦喧嘩と思われる金きり声が響いてくる。
フィリアは自分が通行人にじろじろ見られているのを感じた。
染みが無く糊の利いた服を着ているのがフィリアだけであったこともあるが、路地の物売りの中年女性たちはフィリアを見てひそひそ囁き合い、軽蔑の言葉を漏らしている。
労働者ふうの男が馴れ馴れしくフィリアの肩を抱いて、卑猥なことをささやきながら皺だらけの紙幣をフィリアの手に押し付けた。
見当違いも甚だしい。フィリアは男の手を払って歩き出した。
後ろから怒鳴り声が聞こえたが、フィリアがある事実を告げてしまうとすぐ静かになり、少し遅れて、先ほど囁き合っていた中年女性たちが大笑いするのが聞こえた。
フィリアは小さな下宿屋の前で立ち止まった。携帯端末を操作して住所が間違っていないのを確認し、それからインターフォンを押した。
しばらく経つと、中年と熟年の中間ほどの年齢と思わしき女主人が出てきて、胡散臭そうな目つきでフィリアを眺めた。
フィリアは女主人に事情を話しながら携帯端末に映る顔写真を見せたが、彼女はのらりくらりとフィリアの質問をはぐらかし、相変わらず疑りの目でフィリアを見ていた。
フィリアはこのままでは埒があかないと考えて、女主人の手に幾枚か紙幣を握らせた。
その途端に彼女は打ち解けたと見え、フィリアを家の中に通し、「デイヴィッド・リマー」と表札に書かれた部屋に案内した。
部屋の主は居なかったが、どんな人物がここに暮らしているのかは容易に想像できる有様であった。
寝台にはシーツもなく、あちこち綿のはみ出たマットが剥きだしになっている。作業着と黄ばんだ下着を一緒くたに丸めたのが枕代わりであるらしかった。
床には空き瓶と空き缶が散乱し、部屋に据付と思わしき冷蔵庫は開け放しで、乱暴に放り込まれたビール缶と、なぜかバスケットシューズが覗いて見えた。
その上、この居住区の劣悪な空気にようやく慣れ始めたフィリアでさえも顔をしかめる悪臭が部屋に篭っている。
諸悪の根源は冷蔵庫脇にぽつんと置かれている物体であった。緑色の黴に覆われたその物体をよく観察すると、フィリアも量販店でよく見かける乳製品のパッケージの切れ端が見えた。
雪の結晶を模したロゴの横に「アルバート」と書きなぐられ、その下のペンで乱暴に塗りつぶされた箇所の端に「祝! 生後六ヶ月!」と同じ筆跡で書いてある。フィリアは口元を押さえて部屋を出た。
女主人の話によれば、デイヴィッド・リマーはここ数ヶ月ずっと働いていないらしかった。
朝から晩まで酒場や賭場へ通い、そうでなければ部屋で何もせずに飲んだくれているそうである。
部屋の使い方が汚いやら家賃の支払いが三ヶ月も滞っているやらと、女主人がいらぬことまで愚痴り始めたので、フィリアは暇を告げて逃げるように下宿屋を立ち去った。
デイヴィッドが入り浸る界隈を訪ね歩いて、そのたびにいやらしい言葉を浴びせられながらもフィリアは根気強く彼を捜し続けた。
一見して余所者と判るフィリアがからかわれないでいるためには、会話を交わすごとに財布を軽くしなければならなかった。
フィリアは自分の風貌が相手を付け上がらせるのに一役買っていることも知っていた。
最下層のゴミ溜めでなく小奇麗な月都市でもそれは同様であり、金で解決できるだけここのほうがかえって円滑に進むくらいであった。
半月分の給料と四時間の時間を浪費してからようやくフィリアは目的の人物を見つけることが出来た。
薄汚い建物の前で、デイヴィッドは頬を押さえて蹲り、彼を殴ったと思わしき大男に向かって何やら懇願を繰り返していた。
時折、「ひひっ」と卑屈な笑い声を口の端から漏らしつつ、金銭上の問題について相手に慈悲を乞っていた。
デイヴィッドがあまりにもしつこくむしゃぶりつくせいか、大男は「いい加減にしろ」と怒鳴りながら彼の顔を蹴っ飛ばし、それきりすたすたと建物の中へ入って行った。
デイヴィッドは大男が居なくなったのを見ると、たどたどしい口調で扉を罵った。
「ここここの、おおれは知ってんだぞ。ててめえがカードでイカサマしてんのも、きゃ客に出すウォトカに水混ぜてんのも、ちちち畜生、う訴えてやる。おおれはうったえるぞ。ひひっ……」
フィリアは二年ぶりに再会した親友の姿から目を背けたくなった。
受ける印象の上ではすっかり様変わりして、以前のからりとした明るさが卑しさにすり返られている。
無精ひげに覆われた口元から発せられる声は、二年前と比べて相当に嗄れている。おそらく酒の中毒が原因であろう。
服装はみすぼらしく、染みと元の色とが区別できないほど汚れている。このまま帰ってしまおうかという考えがわき上がった。
しかしそのときには既にデイヴィッドが黄色く濁った目をフィリアに向けていた。
「ひひっ、ああんた、どっかで見たことあるような顔だな。まあ、いいさ。ととにかく、ちょっとばかし金貸してくんねえか。なあ、お嬢さん、いい、いいだろ。ほほんのちょっとでいいんだ」
デイヴィッドがそんなことを言いながら立ち上がり、千鳥足でフィリアに近づいてきたと思えば、彼はフィリアの肩に手を置いた途端いきなりその場にくずおれてしまった。
フィリアがあわてて抱き起こして声をかけてみたけれども、デイヴィッドは目を瞑ったまま青ざめた口をもごもごと動かすに過ぎなかった。
彼は酔いつぶれたらしかった。
デイヴィッド・リマーはシャワーの音で目を覚ました。
ここ一年ほど見ていない小奇麗な天井と、清潔な枕の滑らかな感触があるのを知り、すぐさまばっと音を立てて羽毛蒲団を捲った。
残念なことに、服は着ていた。代わり映えの無い着たきり雀である。
デイヴィッドはため息を吐き、醒めた頭で昨日の出来事を順々に思い出して行った。
いつもどおり正午に起き、大家の催促を逃れてパチンコ屋へ出かけた。
負けも勝ちもせず夜になって、行きつけのバーでカードに興じ、負けが込んできて、店主に追加の酒を頼んだら店から追い出された。
その後の記憶はぼやけて、なにやら悪態を付いていたかもしれず、通行人に絡んでいたかもしれない。
酔いが回りすぎて、デイヴィッドは自分が何を言ったのかさえ覚えていなかった。
シャワーの音が止んで一分ほど経つと、バスローブ姿の人間が、肩口ほどまでの長さのある髪をタオルで拭きながら浴室から出てきた。
白い肌とバスローブに包まれた細い腰が見えたとき、デイヴィッドは思わず足を組んでその人間の胸元に視線を集中させた。
「あ、起きたんだね」
その人物が聞き覚えのある声を発した途端にデイヴィッドの淡い期待は崩れ去った。
デイヴィッドは頭を抱えて、投げやりな口調で言った。
「お前だったのかよ、フィリア」
「どうしたのデイヴ? なんで怒ってるの?」
「うっせ、紛らわしい顔しやがって……」
女性と見まがうばかりの容貌であるけれども、フィリア・シュードは正真正銘の男性である。昔、実際にひん剥いて確認したこともある。
彼と言葉を交わすのは二年前に連邦軍を抜けて以来のことであったが、デイヴィッドは蒲団を被って目を瞑った。
期待していただけに幻滅も大きかったのである。
「お変わり無いようで何より。じゃ、お休み」
「ちょっと! 用件を聞くとかはしないの?」
「俺は疲れてるんだ。ほら、仕事とかでいろいろ」
「ニートが何言ってるんです! 親友がはるばる訪ねてきたというのに、その態度はどうかと思うよ!」
一時間ほど押し問答した後、眠気も醒めてしまったデイヴィッドは仕方なしにフィリアの用件に耳を傾けていた。
「火星へ?」
「うん。第七次調査団として派遣されるんだけれど、MSパイロットの枠が一つ空いているんだ」
「テラフォーミングが終了するのはまだ何百年も先だろ? 何でわざわざ調査団なんか送るんだよ?」
パイロット枠の件には触れず、デイヴィッドは思いついた疑問を口にする。
「途中経過報告が火星開発公社(ウチ)の名目だからね。そのために連邦から資金援助も受けてるし。まあ、ほかにも色々と事情がね。だからさ――」
「先回の調査は何年前なんだ?」
「……五十年前。ちょうど五十年周期だよ」
「で、フィリアはメカニックチーフで参加するわけか。しかしまあ、なんだ。お前も相当に出世したな。たしか引き抜かれたんだろう? 連邦にいたころより給料だって――」
「デイヴ! 四方山はもう止めようよ。僕は、君を誘いに来たんだ」
デイヴィッドは口を噤んだ。フィリアの様子が思いのほか真剣味を帯び始めてきたからである。
「君は、今のままの境遇で本当にいいの! 軍を抜けて、こんな辺境で夢も希望もない人生を続けるの! ここは空気も悪いし、人間だってみんな性根が薄汚い。
こんな、食べるために生きるのか生きるために食べるのか定まらないところにいれば、いつかきっと、デイヴは駄目になる!」
「もう充分駄目人間さ」
「だったら、これから立ち直ろうよ! 飲酒と放蕩と伊達気取りなんてすっぱり止めて、もっと、地に足付けて将来を考えることにしよう!」
「今の時代、地球は立ち入り禁止だぜ」
「だから、火星に行こうと言ってるんだよ! 火星には大地があるし、安定した職だってある!
調査団が解散した後のポストは僕が用意するし、君の借金だって、僕が立て替えるから、昔みたいに、僕と一緒にがんばろうよ!」
お前はなぜそうまでするんだ、という藪蛇を突っつくような言葉は飲み込んだ。デイヴィッドにはその理由を三つも四つも挙げることが出来るのである。
彼は他人の性情に深く立ち入りたくなかった。
真実であるとか、理想であるとかはぜいたく品で、物事を深く考えずにだらだらと上辺だけの人付き合いをしながら、残りの人生を死ぬほど退屈に暮らしたいと願っていた。
「返事は、早めにしないと駄目か?」
「出来れば、今日中にして。早くしないと、火星の位置が変わってシャトルじゃ行けなくなっちゃうから」
「わかったよ。行くよ。行けばいいんだろ。ったく、お前にはかなわねえよ、フィリア」
デイヴィッドは観念した。どのみち、下宿にも財布にも金が無い一文無しの彼には、強情を張るという選択肢は無いのである。
「デイヴ、ありがとう!」
フィリアはぱっと咲くような笑顔を見せて、心底嬉しげに今後の計画をあれこれと語り始めた。
新宇宙暦072年現在では、火星のテラフォーミングが始められてから五百年が過ぎている。
それ用の機能遺伝子を持つ微生物や藻類を大量に放し、千年前後もの時間をかけて火星全体を地球と同じ生態系へ作り変えるという気の長い事業である。
しかし人間というものはせっかちな生き物であるから、千年後に約束された地上の楽園なんて悠長に待ってはいられない。
テラフォーミング開始から二百年後、微生物・藻類循環の安定と地球環境悪化に伴って、パラテラフォーミング、すなわち地表でのコロニー開発が始まった。
末期の地球における都市計画を流用して建造されたこれらのコロニーは、タワーとケーブルからなるフレームに透明な外壁パネルを被せて、その形状が三次元アーチを為していることからドームと呼ばれている。
脆弱な構造のため、ドームの寿命は居住小惑星とどっこいどっこいであるが、短時間で安価に作れて、それに加えてほとんど完全な自給自足が可能であるため、火星の各地には大小様々な規模のドームが点在している。
ドーム・テーレマコスは、火星で最も規模の大きいドームであり、また、マスドライバー施設を保有する唯一のドームでもある。
したがって、火星と宇宙を繋ぐスペースポートはこのドームにしか存在せず、絶えず観光客で賑わっている。
観光客の団体に混じって、男装した妙齢の女性と、浅黒い肌をした短髪の男がターミナルを歩いていた。
男が立ち止まって窓を眺めながら何かを喚いたり、火星の現地人を指差して何かを言ったりするたびに、女性のほうは男の手を引っ張ったり、あわてて男の口を塞いだりしている。
見るからにおのぼりさんである二人組は、ひとしきり周囲の冷ややかな視線を集めると、団体客と別れて、ドーム行きではなく連邦軍駐屯地行きのランチへと乗り込んだ。
同乗する軍人たちに詮索の目で見られているこの二人組は、フィリアと、人間らしい身なりになったデイヴィッドであった。
第七次調査団が使用する空中艦「カナリヤ」は、鯨に羽を付けたような恰好で、ずんぐりとしている。全幅が全長より二倍近い大きさである。
この艦は、元々ドーム・テーレマコスの所有であった大型輸送機を火星開発公社が買い取って、調査用に改造したものである。
ペイロードの約半分が研究室区画で占められているので、格納庫は狭く、護衛のMSは六機までしか搭載できない。
武装も貧弱で、黄色い船体に対空機銃がちらほら見える程度である。
カナリヤという名前は、旧時代、炭鉱において発生する毒ガスを検知するために、同名の鳥が坑道におろされたことに由来していた。
名付け親の人柄がしのばれる。
あわただしく、作業員が走り回り、物資の運搬作業が行われている中、デイヴィッドはフィリアに連れられて、カナリヤ内のMS格納庫を歩いていた。
「MSU-14ドグッシュ、まだ量産ラインが整っていない最新鋭機なんだけど、地上での性能試験用に二機提供してもらえたんだ。今の火星駐屯軍はほら、あれだからね……」
デイヴィッドはドグッシュの真新しい艶やかな塗装を眺めながら、説明しているフィリアを横目に、頭に浮かんだことをそのまま口に出した。
「あのリニアの銃口、催情的な粘膜部位を思わせる造形だな」
「ちょっと! 聞こえているんだぞ!」
と、開け放たれているドグッシュのコックピットから、鈴を転がすような声が聞こえた。それから間を置かずにパイロットスーツ姿の女が飛び出てくる。
「お前! いま何て言った!」
長い黒髪を後ろに纏めた女は、髪のしっぽをゆらゆら振りながら、赤い顔をして、吊り上がった目でデイヴィッドとフィリアを睨みつけていた。
あまりかかり合いたくない手合いである。デイヴィッドが返事をしないで黙っていると、
「私のドグッシュのカントーンを、あろうことか、あ、あろうことか……、……だなんて……」
言葉は尻窄まりになって、女は顔をいっそう赤らめて口を噤んでしまった。
けれども視線はより険しくなり、呪い殺さんばかりに二人を射抜いている。
狼狽するフィリアがひそひそ声で「謝ろうよ」とデイヴィッドに忠告するが、見たままを言って何が悪いというのがデイヴィッドの言い分である。
彼は腕を組み、あらぬところを向いて口笛を吹かし始めた。当然、例の女は立腹する。
そんなときである。もう一機のドグッシュから、ワイヤーを伝って、例の女と同じくパイロットスーツ姿の中年男が降りてきた。
「どうもどうも、お久しぶりでございますシュード主任。いやはや、火星の重力というものは、なかなかどうして、思いのほか強うございますね。
わたくしなんかこう、ふんわりしておるものですから、ふう、疲れて疲れて、無闇やたらと汗ばかり垂れ流しております。ええ」
でっぷりと太った中年男は、薄気味の悪いほどにこやかな表情で、しきりに汗を拭きながらフィリアにぺこぺこと頭を下げた。
年のころ四十前後と思われる。彼の脂ぎった団子鼻の上には、ちょんと乗せるような具合に小さな眼鏡がかかっている。
「おや? 貴方はもしや、以前シュード主任の仰った、デイヴィッド・リマー氏でいらっしゃいますか?
どうもはじめまして。わたくし、このドグッシュの専属パイロットを勤めさせていただきます、ゲイリー・ターレルと申します」
言いながら名刺を差し出される。デイヴィッドはゲイリー・ターレルの慇懃な物腰にまごついた。
名刺には、写真、生年月日、現在の職業から、学歴、離婚経験があることに至るまで、こと細かに個人情報が印刷されている。
デイヴィッドが名刺から目を離すと、ゲイリーは腰をかがめた恰好で右手を差し出していた。
にこにこ笑いで細まった目と視線がぶつかり、デイヴィッドはえたいの知れない寒気を覚えて思わず目を瞬いた。
ゲイリーはますます笑みを深めて、「さあ!」と言わんばかりに右手をデイヴィッドに差し出した。
「で、デイヴィッド・リマーだ。これからよろしくな。デイヴでいい」
握手のために右手と右手を触れ合わせた瞬間、遊んでいたゲイリーの左手が凄まじい速度でもって伸びてきてデイヴィッドの右手を包み込んだ。
そうして、ゲイリーは握った両手を上下に強く揺さぶり、過剰ともいえる親愛の情を表した。
「ええ、ええ! 末永くよろしくお願い申し上げます、デイヴさん」
握られた右手は、ぬめっていた。外気にさらすとひんやりして、たいへん不快であった。しかし本人の居る前で拭うわけにもいかない。
すると、いつの間にかドグッシュから降りていた先ほどの女がてくてくと歩み寄って来て、
「よろしく。ネルネ・ルネールネだ。さっきのけしからん言葉は、この私の寛大な心に免じて許してやろう……だが、次はないぞ」
と言って左手を素早く差し出した。「嫌な女だ」とデイヴィッドは思った。彼は右手で握手したかったのである。
二人の同僚への自己紹介を終えたデイヴィッドが次に案内されたのは、格納庫の一番奥に位置するハンガーであった。
遠目でも、その周囲に大掛かりな端末が幾つも据付けられているのが見えた。
最新鋭機ドグッシュと比較して、そこに格納されている機体は相当な特別待遇を受けていることがわかる。
「これは……」
デイヴィッドは覚えず感嘆の息を漏らした。その機体は、白を基調として、各部に黒と青と赤とで鮮やかに塗装が施されていた。
機体の形状においては、流線形のしなやかさと鋭角の強靭さがそれぞれ適切な箇所に配置されて、男女両性をそなえた調和をもたらしている。
肩アーマーから腕にかけては主に鋭角である。
胴体は、胸から腹の中心にかけての流線形部分と、ブロック状のわき腹部分と、入り組んでいる腰及びスカート部分で構成され、それぞれ色が分けられている。
下半身部分については、いい加減面倒臭いと感じたデイヴィッドはあまりよく観察しなかった。
装甲や間接部品の合いを見ても、大金を惜しみなく注ぎ込んでいることが判るからである。
二対のアンテナは、それぞれ鋭角と鈍角を形成し、その下に見えるのは、この種の機体に共通する鋭いツインアイであった。
「ガンダム?」
「そう。火星開発公社(ウチ)が独自に開発したガンダムタイプMS第一号機、GEY-001ガンダムムウシコス。
機体性能もさることながら、内蔵コンピュータの情報処理能力は、現存するガンダムタイプMS四十六機の中でもトップクラスで、最大九基のビーム兵装を同時に制御可能。
……今回の調査の要となる機体だよ。ところで、デイヴ。これから君には――」
「待てよ!」
デイヴィッドはフィリアの言葉を遮った。淡々と説明を続けている目の前の親友がたちまち憎らしくなり、気が苛立つのに任せて胸倉を掴み上げた。
デイヴィッドにとって、ガンダムというMSは好ましくない過去の出来事を思い起こさせる存在である。
守秘義務だのなんだの言って、今の今まで何も知らせずにいたフィリアに向かって、裏切り者めと叫んでやりたかった。
絶えず湧き上がる怒りを抑えながら、デイヴィッドは咽喉の奥から搾り出すように言った。
「お前は、俺に、こいつへ乗れというのか」
「……へ?」
持ち上げられて宙ぶらりんの状態にあるフィリアが素っ頓狂な声を上げた。その表情は悪意でも恐怖でもなく、鳩に豆鉄砲である。
フィリアが首を傾げるのに続いて、
「凡庸パイロットが何を勘違いしておる」
というしわがれ声が聞こえて、大型端末の陰から白衣姿の老人が現れた。
「デイヴィッド・リマー。連邦軍退役時の階級は中尉であるが、先日行った能力査定シミュレーションの結果は、
近接D、射撃D-、回避D+、状況判断C-、空間認識以下技能オールD、総合成績D、加えて軽度のアルコール中毒あり。
一般平均に産毛の生えた程度の技量しか持たん貴様なんぞに、わが社のムウシコスを任せるはずなかろうが」
いきなり出てきた初対面の年寄りに自分のパイロット適性を立て板に水のように空で語られて、デイヴィッドは羞恥を感ずる暇もなく、ぼんやり口を開けて立ち竦んだ。
握力が抜けたことで戒めから開放されたフィリアが、デイヴィッドの腹を肘で小突きながら、「この人、偉い人。偉い人だよ」と小さな声で言った。
デイヴィッドはそれでようやく我に返り、すかさず直立不動の体勢を取った。
「このたび、火星開発公社調査団MS隊に配属になりましたデイヴィッド・リマーであります! 本日はお日柄も良く、閣下におきましては――」
「ああ。いい、いい。邪魔にならんよう、向こうに行っとくれ」
デイヴィッドは、しっしっと手を払う御老人に敬礼すると、きびきびした動作で回れ右をし、元来た道を引き返した。
彼は長いものに巻かれたがる性質の人間であった。
ムウシコスの特待ハンガーから離れて、二機のドグッシュの整備風景を手持ち無沙汰にただ眺めながら煙草を吹かしていると、誰か声をかけてくる者がいた。
フィリアは先ほどの失態を弁解するために、今頃は例の偉い人に頭を上げ下げしているはずである。
デイヴィッドは壁に寄りかかったまま、声のした方向に顔を向けた。
パイロットスーツの胸元を肌蹴た金髪の青年が、にやにや笑いをしながら彼に近づいてくる。その丹精な顔つきは随分と若々しく、十代の少年とも思われた。
「アンタ、デイヴィッド・リマーだろ?」
「そうだが」
年下のくせに不躾である。デイヴィッドは先ほどのこともあって気を悪くした。
「俺がガンダムムウシコスの専属パイロット、ディック・オメコスキーだ。アンタはこれから、俺の指揮下に入るってわけ」
ガンダムパイロットを名乗る青年はデイヴィッドの肩にぽんと手を置いて続ける。
「仲良くしようぜ、微笑みデイヴ。それとも、ガンダムキラーか?」
昔の、恥しい通り名を持ち出されてデイヴィッドは眉を顰めた。
「アンタのことはなんでも知ってる。二年前にガンダムを落としたことも、ついこないだまでニートやってたことも。
データベースを閲覧させてもらったんだ。この調査団に参加できたのは、アンタがシュード主任の愛人だからなんだって?」
デイヴィッドは、こういう友達になりたくない輩に対してだんまりを決め込んだ。
これは彼自身がされて一番いやなことで、こうされると暖簾に腕押しを繰り返すうちに、段々と自分が言い負かされているような気持ちになるのである。
けれども、ディック・オメコスキーは怯むわけでもなく、自分で自分の言う皮肉に酔っている様子で、ますます機嫌を良くして喋り続けている。
「ガンダムキラーさん、どうやらアンタの機体が届いたみたいだぜ」
ディックが顎をしゃくって指した先では、シートに包まれたMSが運搬用リフトに乗ってハンガーへと運ばれていた。
「おやおや、こいつはまた……」
シートが剥ぎ取られたとき、デイヴィッドの口があんぐり開いて、咥えていた煙草が床に落ちた。
「三八式かよ。Dランのアンタにゃぴったりだな」
格納庫の明かりに照らされて、頼りない饅頭型の頭部と、太くて逞しいというよりも成人男性のビール太りを思わせる体躯があらわになる。
国防色の塗装が所々剥がれ落ちているその機体は、MSU-06グワッシュであった。
新宇宙暦038年に生産が開始されたことが、三八(さんぱち)式と愛称で呼ばれる所以である。
旧式の代名詞ともいえるMSで、新宇宙暦072年現在、コロニー外壁の清掃、鉱物資源の採掘、スペースデブリ除去作業、耕作、それから自爆テロ及び郊外コロニーの警備と、幅広い分野において現役で活躍している名機である。
そこに、「待った? デイヴ」なんて明るい調子で言いながら、フィリアがぱたぱたと小走りで戻ってくる。
デイヴィッドはさっそく掴みかかった。
「フィリア! この、おまっ、三八式って、どうして俺だけこんな棺桶なんだよ! しかもこいつは、払い下げじゃねえか!」
「だ、だって予算が下りなかったんだもの。な、なんなら、ドグッシュの予備パーツでカスタム化したげるから。だ、だから、は、はなし、くく、くび、し、しまってるって」
この日、火星開発公社第七次調査団には、デイヴィッド・リマーと、彼の専用機であるグワッシュが新たに加わった。
それから数日後に、空中艦カナリヤは総員百八名と四機のMSとを乗せて、ドーム・テーレマコス脇の駐屯地から火星の空へと飛び立って行ったのである。
それ用の機能遺伝子を持つ微生物や藻類を大量に放し、千年前後もの時間をかけて火星全体を地球と同じ生態系へ作り変えるという気の長い事業である。
しかし人間というものはせっかちな生き物であるから、千年後に約束された地上の楽園なんて悠長に待ってはいられない。
テラフォーミング開始から二百年後、微生物・藻類循環の安定と地球環境悪化に伴って、パラテラフォーミング、すなわち地表でのコロニー開発が始まった。
末期の地球における都市計画を流用して建造されたこれらのコロニーは、タワーとケーブルからなるフレームに透明な外壁パネルを被せて、その形状が三次元アーチを為していることからドームと呼ばれている。
脆弱な構造のため、ドームの寿命は居住小惑星とどっこいどっこいであるが、短時間で安価に作れて、それに加えてほとんど完全な自給自足が可能であるため、火星の各地には大小様々な規模のドームが点在している。
ドーム・テーレマコスは、火星で最も規模の大きいドームであり、また、マスドライバー施設を保有する唯一のドームでもある。
したがって、火星と宇宙を繋ぐスペースポートはこのドームにしか存在せず、絶えず観光客で賑わっている。
観光客の団体に混じって、男装した妙齢の女性と、浅黒い肌をした短髪の男がターミナルを歩いていた。
男が立ち止まって窓を眺めながら何かを喚いたり、火星の現地人を指差して何かを言ったりするたびに、女性のほうは男の手を引っ張ったり、あわてて男の口を塞いだりしている。
見るからにおのぼりさんである二人組は、ひとしきり周囲の冷ややかな視線を集めると、団体客と別れて、ドーム行きではなく連邦軍駐屯地行きのランチへと乗り込んだ。
同乗する軍人たちに詮索の目で見られているこの二人組は、フィリアと、人間らしい身なりになったデイヴィッドであった。
第七次調査団が使用する空中艦「カナリヤ」は、鯨に羽を付けたような恰好で、ずんぐりとしている。全幅が全長より二倍近い大きさである。
この艦は、元々ドーム・テーレマコスの所有であった大型輸送機を火星開発公社が買い取って、調査用に改造したものである。
ペイロードの約半分が研究室区画で占められているので、格納庫は狭く、護衛のMSは六機までしか搭載できない。
武装も貧弱で、黄色い船体に対空機銃がちらほら見える程度である。
カナリヤという名前は、旧時代、炭鉱において発生する毒ガスを検知するために、同名の鳥が坑道におろされたことに由来していた。
名付け親の人柄がしのばれる。
あわただしく、作業員が走り回り、物資の運搬作業が行われている中、デイヴィッドはフィリアに連れられて、カナリヤ内のMS格納庫を歩いていた。
「MSU-14ドグッシュ、まだ量産ラインが整っていない最新鋭機なんだけど、地上での性能試験用に二機提供してもらえたんだ。今の火星駐屯軍はほら、あれだからね……」
デイヴィッドはドグッシュの真新しい艶やかな塗装を眺めながら、説明しているフィリアを横目に、頭に浮かんだことをそのまま口に出した。
「あのリニアの銃口、催情的な粘膜部位を思わせる造形だな」
「ちょっと! 聞こえているんだぞ!」
と、開け放たれているドグッシュのコックピットから、鈴を転がすような声が聞こえた。それから間を置かずにパイロットスーツ姿の女が飛び出てくる。
「お前! いま何て言った!」
長い黒髪を後ろに纏めた女は、髪のしっぽをゆらゆら振りながら、赤い顔をして、吊り上がった目でデイヴィッドとフィリアを睨みつけていた。
あまりかかり合いたくない手合いである。デイヴィッドが返事をしないで黙っていると、
「私のドグッシュのカントーンを、あろうことか、あ、あろうことか……、……だなんて……」
言葉は尻窄まりになって、女は顔をいっそう赤らめて口を噤んでしまった。
けれども視線はより険しくなり、呪い殺さんばかりに二人を射抜いている。
狼狽するフィリアがひそひそ声で「謝ろうよ」とデイヴィッドに忠告するが、見たままを言って何が悪いというのがデイヴィッドの言い分である。
彼は腕を組み、あらぬところを向いて口笛を吹かし始めた。当然、例の女は立腹する。
そんなときである。もう一機のドグッシュから、ワイヤーを伝って、例の女と同じくパイロットスーツ姿の中年男が降りてきた。
「どうもどうも、お久しぶりでございますシュード主任。いやはや、火星の重力というものは、なかなかどうして、思いのほか強うございますね。
わたくしなんかこう、ふんわりしておるものですから、ふう、疲れて疲れて、無闇やたらと汗ばかり垂れ流しております。ええ」
でっぷりと太った中年男は、薄気味の悪いほどにこやかな表情で、しきりに汗を拭きながらフィリアにぺこぺこと頭を下げた。
年のころ四十前後と思われる。彼の脂ぎった団子鼻の上には、ちょんと乗せるような具合に小さな眼鏡がかかっている。
「おや? 貴方はもしや、以前シュード主任の仰った、デイヴィッド・リマー氏でいらっしゃいますか?
どうもはじめまして。わたくし、このドグッシュの専属パイロットを勤めさせていただきます、ゲイリー・ターレルと申します」
言いながら名刺を差し出される。デイヴィッドはゲイリー・ターレルの慇懃な物腰にまごついた。
名刺には、写真、生年月日、現在の職業から、学歴、離婚経験があることに至るまで、こと細かに個人情報が印刷されている。
デイヴィッドが名刺から目を離すと、ゲイリーは腰をかがめた恰好で右手を差し出していた。
にこにこ笑いで細まった目と視線がぶつかり、デイヴィッドはえたいの知れない寒気を覚えて思わず目を瞬いた。
ゲイリーはますます笑みを深めて、「さあ!」と言わんばかりに右手をデイヴィッドに差し出した。
「で、デイヴィッド・リマーだ。これからよろしくな。デイヴでいい」
握手のために右手と右手を触れ合わせた瞬間、遊んでいたゲイリーの左手が凄まじい速度でもって伸びてきてデイヴィッドの右手を包み込んだ。
そうして、ゲイリーは握った両手を上下に強く揺さぶり、過剰ともいえる親愛の情を表した。
「ええ、ええ! 末永くよろしくお願い申し上げます、デイヴさん」
握られた右手は、ぬめっていた。外気にさらすとひんやりして、たいへん不快であった。しかし本人の居る前で拭うわけにもいかない。
すると、いつの間にかドグッシュから降りていた先ほどの女がてくてくと歩み寄って来て、
「よろしく。ネルネ・ルネールネだ。さっきのけしからん言葉は、この私の寛大な心に免じて許してやろう……だが、次はないぞ」
と言って左手を素早く差し出した。「嫌な女だ」とデイヴィッドは思った。彼は右手で握手したかったのである。
二人の同僚への自己紹介を終えたデイヴィッドが次に案内されたのは、格納庫の一番奥に位置するハンガーであった。
遠目でも、その周囲に大掛かりな端末が幾つも据付けられているのが見えた。
最新鋭機ドグッシュと比較して、そこに格納されている機体は相当な特別待遇を受けていることがわかる。
「これは……」
デイヴィッドは覚えず感嘆の息を漏らした。その機体は、白を基調として、各部に黒と青と赤とで鮮やかに塗装が施されていた。
機体の形状においては、流線形のしなやかさと鋭角の強靭さがそれぞれ適切な箇所に配置されて、男女両性をそなえた調和をもたらしている。
肩アーマーから腕にかけては主に鋭角である。
胴体は、胸から腹の中心にかけての流線形部分と、ブロック状のわき腹部分と、入り組んでいる腰及びスカート部分で構成され、それぞれ色が分けられている。
下半身部分については、いい加減面倒臭いと感じたデイヴィッドはあまりよく観察しなかった。
装甲や間接部品の合いを見ても、大金を惜しみなく注ぎ込んでいることが判るからである。
二対のアンテナは、それぞれ鋭角と鈍角を形成し、その下に見えるのは、この種の機体に共通する鋭いツインアイであった。
「ガンダム?」
「そう。火星開発公社(ウチ)が独自に開発したガンダムタイプMS第一号機、GEY-001ガンダムムウシコス。
機体性能もさることながら、内蔵コンピュータの情報処理能力は、現存するガンダムタイプMS四十六機の中でもトップクラスで、最大九基のビーム兵装を同時に制御可能。
……今回の調査の要となる機体だよ。ところで、デイヴ。これから君には――」
「待てよ!」
デイヴィッドはフィリアの言葉を遮った。淡々と説明を続けている目の前の親友がたちまち憎らしくなり、気が苛立つのに任せて胸倉を掴み上げた。
デイヴィッドにとって、ガンダムというMSは好ましくない過去の出来事を思い起こさせる存在である。
守秘義務だのなんだの言って、今の今まで何も知らせずにいたフィリアに向かって、裏切り者めと叫んでやりたかった。
絶えず湧き上がる怒りを抑えながら、デイヴィッドは咽喉の奥から搾り出すように言った。
「お前は、俺に、こいつへ乗れというのか」
「……へ?」
持ち上げられて宙ぶらりんの状態にあるフィリアが素っ頓狂な声を上げた。その表情は悪意でも恐怖でもなく、鳩に豆鉄砲である。
フィリアが首を傾げるのに続いて、
「凡庸パイロットが何を勘違いしておる」
というしわがれ声が聞こえて、大型端末の陰から白衣姿の老人が現れた。
「デイヴィッド・リマー。連邦軍退役時の階級は中尉であるが、先日行った能力査定シミュレーションの結果は、
近接D、射撃D-、回避D+、状況判断C-、空間認識以下技能オールD、総合成績D、加えて軽度のアルコール中毒あり。
一般平均に産毛の生えた程度の技量しか持たん貴様なんぞに、わが社のムウシコスを任せるはずなかろうが」
いきなり出てきた初対面の年寄りに自分のパイロット適性を立て板に水のように空で語られて、デイヴィッドは羞恥を感ずる暇もなく、ぼんやり口を開けて立ち竦んだ。
握力が抜けたことで戒めから開放されたフィリアが、デイヴィッドの腹を肘で小突きながら、「この人、偉い人。偉い人だよ」と小さな声で言った。
デイヴィッドはそれでようやく我に返り、すかさず直立不動の体勢を取った。
「このたび、火星開発公社調査団MS隊に配属になりましたデイヴィッド・リマーであります! 本日はお日柄も良く、閣下におきましては――」
「ああ。いい、いい。邪魔にならんよう、向こうに行っとくれ」
デイヴィッドは、しっしっと手を払う御老人に敬礼すると、きびきびした動作で回れ右をし、元来た道を引き返した。
彼は長いものに巻かれたがる性質の人間であった。
ムウシコスの特待ハンガーから離れて、二機のドグッシュの整備風景を手持ち無沙汰にただ眺めながら煙草を吹かしていると、誰か声をかけてくる者がいた。
フィリアは先ほどの失態を弁解するために、今頃は例の偉い人に頭を上げ下げしているはずである。
デイヴィッドは壁に寄りかかったまま、声のした方向に顔を向けた。
パイロットスーツの胸元を肌蹴た金髪の青年が、にやにや笑いをしながら彼に近づいてくる。その丹精な顔つきは随分と若々しく、十代の少年とも思われた。
「アンタ、デイヴィッド・リマーだろ?」
「そうだが」
年下のくせに不躾である。デイヴィッドは先ほどのこともあって気を悪くした。
「俺がガンダムムウシコスの専属パイロット、ディック・オメコスキーだ。アンタはこれから、俺の指揮下に入るってわけ」
ガンダムパイロットを名乗る青年はデイヴィッドの肩にぽんと手を置いて続ける。
「仲良くしようぜ、微笑みデイヴ。それとも、ガンダムキラーか?」
昔の、恥しい通り名を持ち出されてデイヴィッドは眉を顰めた。
「アンタのことはなんでも知ってる。二年前にガンダムを落としたことも、ついこないだまでニートやってたことも。
データベースを閲覧させてもらったんだ。この調査団に参加できたのは、アンタがシュード主任の愛人だからなんだって?」
デイヴィッドは、こういう友達になりたくない輩に対してだんまりを決め込んだ。
これは彼自身がされて一番いやなことで、こうされると暖簾に腕押しを繰り返すうちに、段々と自分が言い負かされているような気持ちになるのである。
けれども、ディック・オメコスキーは怯むわけでもなく、自分で自分の言う皮肉に酔っている様子で、ますます機嫌を良くして喋り続けている。
「ガンダムキラーさん、どうやらアンタの機体が届いたみたいだぜ」
ディックが顎をしゃくって指した先では、シートに包まれたMSが運搬用リフトに乗ってハンガーへと運ばれていた。
「おやおや、こいつはまた……」
シートが剥ぎ取られたとき、デイヴィッドの口があんぐり開いて、咥えていた煙草が床に落ちた。
「三八式かよ。Dランのアンタにゃぴったりだな」
格納庫の明かりに照らされて、頼りない饅頭型の頭部と、太くて逞しいというよりも成人男性のビール太りを思わせる体躯があらわになる。
国防色の塗装が所々剥がれ落ちているその機体は、MSU-06グワッシュであった。
新宇宙暦038年に生産が開始されたことが、三八(さんぱち)式と愛称で呼ばれる所以である。
旧式の代名詞ともいえるMSで、新宇宙暦072年現在、コロニー外壁の清掃、鉱物資源の採掘、スペースデブリ除去作業、耕作、それから自爆テロ及び郊外コロニーの警備と、幅広い分野において現役で活躍している名機である。
そこに、「待った? デイヴ」なんて明るい調子で言いながら、フィリアがぱたぱたと小走りで戻ってくる。
デイヴィッドはさっそく掴みかかった。
「フィリア! この、おまっ、三八式って、どうして俺だけこんな棺桶なんだよ! しかもこいつは、払い下げじゃねえか!」
「だ、だって予算が下りなかったんだもの。な、なんなら、ドグッシュの予備パーツでカスタム化したげるから。だ、だから、は、はなし、くく、くび、し、しまってるって」
この日、火星開発公社第七次調査団には、デイヴィッド・リマーと、彼の専用機であるグワッシュが新たに加わった。
それから数日後に、空中艦カナリヤは総員百八名と四機のMSとを乗せて、ドーム・テーレマコス脇の駐屯地から火星の空へと飛び立って行ったのである。