欧或戦争(西部大戦)(1962~1967)
欧或戦争はアルギニア社会主義共和国連邦(以降アルギニア連邦と表記)と連合国(ヨーロッパ、オーストラリアと周辺国)による大規模な戦争で、アルギニア事変は含まれない
ヨーロッパ西部からアルギニア大陸、オーストラリア近海までを舞台にアルギニア連邦と連合国とが戦闘を行ったほか、アルギニアと欧豪の開戦を機に、アルギニア大陸北部民族の独立戦争(北征戦争)も包括する戦争となった。
戦力比較
海軍戦力
| アルギニア連邦 | 連合国 | |
| 戦艦 | 8 (縮小後7) | 14 |
| 重巡洋艦 | 11 (縮小後6) | 10 |
| 軽巡洋艦 | 19 (縮小後10) | 25 |
| 航空機母艦 | 4 (縮小後4) | 6 |
| 駆逐艦 | 35 (縮小後21) | 31 |
| 潜水艦 | 16 (縮小後12) | 21 |
陸軍戦力
| アルギニア連邦 | 連合国 | |
| 兵力 | 1120万人 | 2380万人 |
| 車両 | 3600両 | 4200両 |
空軍戦力
| アルギニア連邦 | 連合国 | |
| 戦闘機 | 30152機 | 90257機 |
| 小型爆撃機 | 14827機 | 24316機 |
| 中型爆撃機 | 7841機 | 22513機 |
| 大型爆撃機 | 411機 | 32152機 |
発端
この時期の西アルギニアは経済建設期にあり、深刻な戦争には耐えられないと考えていた。そこでランドルフは西方の安全保障を確保するために1961年、それまで敵対していた国々と不可侵条約を結び、同年の南アルギニア内戦の際一方的に条約を破棄するとともに侵攻し、南アルギニアの北半分を占領した。また東アルギニアに圧力をかけ、親西政権の樹立を要求し、その回答を待たずに進駐した。さらに親西政権を組織し、これを併合しアルギニア社会主義共和国連邦の樹立を宣言した。(アルギニア事変)
これらの行動がヨーロッパ諸国の反感を買い、ヨーロッパ諸国は南アルギニアからの撤退、東アルギニアの開放などを記した或無血開放要求書をアルギニア連邦に提示したがランドルフがこれを拒否、これを受けヨーロッパ諸国が連合国を結成、連合国全国がアルギニアに宣戦布告、アルギニア連邦が恐れていた深刻な戦争が起こってしまうという最悪の結果となった。
開戦
5月21日連邦議会最終決定会議
弱冠20歳にして、初の女性陸軍大佐アリア・エイドルフ、同じく20歳にして陸軍大佐のルルーシュ・ファーソン等は最後まで開戦に反対したが、ランドルフは聞く耳を持たず、5月21日に連邦議会で正式に連合国へ宣戦布告した。
これにより、5月21日PM2:12をもって連合国との戦争が始まることになった。
ミナビエール平原攻防戦
1962年6月7日、平原を進軍していたアリア大佐率いる第一装甲師団が連合軍第四機甲師団と衝突、平原にある丘をめぐり、開戦後初となる戦闘がおこなわれた。
丘を巡ってはしばしば近隣諸国と衝突していたが、大規模な戦車戦はこれが初となる。
お互い撃破された戦車数は100以上にものぼり、激しい消耗戦が行われたが、アリア大佐が策案した13夜霧作戦(夜間奇襲)により丘を奪取、連合軍は撤退し初の戦闘はアルギニア連邦が飾った。
しかしこの戦いで撃破王ことヴィエント・アルベルト等熟練の戦車長が戦死するなど、連邦内の被害は大きかった。
