チョコレートが溶けた甘い匂いが嗅覚を刺激し、そこでようやく自分が何をしているのかがわかった。
あ、あれ…あたし何やってんだろ。もうあげる相手なんていないのに…。
どうやらあたしは放心状態で無意識に手作りのチョコレートを作っていたみたいだった。
そう、今日は2月13日。
付き合う前からも何年か繰り返してきたこの作業。大切な人を失ってからも習慣になってしまったのか、身体が勝手に動いていた。
あたしは混ぜるために使っていたらしいスプーンを途中で投げだし、ベッドに倒れ込んだ。
はぁ…なんであんな事言っちゃったんだろ。
付き合って3年経った頃のデート中、キョンとケンカ別れした。
「もうウンザリだ!好きにしろ!」
「そうさせてもらうわ!」
始まりはささいなことだった。なのにあたしは学校の事でイライラしていたせいもあって、言い争ってるうちにいつの間にか止められなくなり、気付いたらあたしはそこを飛び出してた。
その時の勢いでキョンのアドレスデータも消してしまったからそれ以来キョンとは会ってないし連絡も取ってない。高校も卒業してるから毎日会う機会もない。
別れてから1ヶ月。
大学の授業も上の空で全く聞いてない。ただ課題をこなしてるだけの毎日…。
ねえキョン。あの時の言葉は本当だったの?嘘だよね?嘘だと言ってよ。
でも、優しい笑顔で答えてくれるキョンはここにはいない。
今あんたはどこにいるの?誰といるの?誰のことを思ってるの?
あんたがあたし以外の女といるなんて考えたら…泣きそうになっちゃうよ。
あぁ、そっか…あたしこんなにもキョンのことが好きだったんだ。
あたしが塞ぎ込んでいる時も愚痴を言っている時も、苦しんでいる時はいつでも側にいて優しく包み込んでくれたから。いつしかそれが当たり前みたいになってたんだね。
だからかな…失うまでキョンの大切さに全然気づけなかったのは。
…バカだあたし。
その時、キョンとの思い出が瞼の裏側に現れては消えた。走馬灯みたいに何度も何度も。
キョンのどこか間の抜けた顔、あたしのワガママをしぶしぶ受け入れてくれたしかめっ面、怒った時の顔、初めてデートした時の恥ずかしそうな顔、映画を見た後の楽しそうな顔、キスした後にいつも見せる笑顔。
その全てがかけがえのない宝物だった。
キョンに会いたい。触れていたい。そしてもう一度だけでもいい、キョンのあの笑顔が見たい…。
そう考えたらあたしは家を出て夢中で走ってた。
どこに?
わからない。けど走るのをやめたくなかった。やめたらもう何もかもが終わってしまいそうだったから。
あたしは無我夢中で走った。自分が何処にいるのかさえわからなかったけど、脇目も振らずとにかく走り続けた。
どれくらい走ったんだろう。
気がつくと公園の前だった。キョンと付き合ってた頃よく来た公園。二人でベンチに座って楽しく話した思い出の場所。
あの時のまま何も変わってない。ただ違うのは隣にキョンがいないこと。
それだけなのに…たったそれだけの違いなのに風景が全く違って見える。
足が棒のようになってもう走れなくなったあたしはベンチに座って休むことにした。
この鉄製ベンチ、去年の冬よりも冷たい気がする…。
あたしは何気なく落ちていた小枝を拾って、それを折ってみた。その傷口は白く、綺麗で、どことなく光って見えた。
でも、もう折れた枝は元通りにはならない。何度くっ付けてみても結果は同じ。
あたしはそれに自分とキョンを重ねて見ていたのか、無性に申し訳ない気持ちになった。
「ごめんね」
あたしは一人でそう呟いた。
あたしが引き裂いてしまった二つのカケラ。もう二度と一つになることはない別々の固体になってしまった…一つの鮮やかな傷跡だけを残して。
あたし達も…もう終わりなのかな…。
ポタ…ポタ…
一つ二つと足下にシミができる。あたしの意思とは無関係に涙が溢れた。
あたし…こんなにもキョンが好きなのに…なんで…なんで離しちゃったんだろ。
もっとしっかり掴んどけばよかったのに。バカ、あたしのバカ。
目を閉じた暗闇の中、キョンがそこにいて微笑んでくれていた。だけどそれは残像であって本物のキョンじゃない。そう解りながらもその残像を見ているうちにあたしはいつの間にか眠りについてた。
―――――クシュン!
身体が冷えてきたせいか、クシャミで目が覚めた。
そっか、あたし寝てたんだ。
今何時なんだろ。帰ってご飯作らなきゃ…。
そこでふと、あたしは自分のじゃない上着を羽織っているのに気がついた。
そういえば上着は着てないはずなのに…これ…。
「やっと目が覚めたか?」
え?
横を見るとキョンがいた。あの時と変わらないままの笑顔で。
「キョ…キョン…バカァ!」
あたしはキョンの胸に顔をうずめて泣いた。
泣いて泣いて泣き尽くした…涙が溢れて止まらなかったから。
キョンはあたしをそっと抱きしめてくれた。
キョンだ。いつもの優しいキョン。あたしの大好きなキョン。
あたしの帰るべき場所。
「あたし…ずっと…ずっと寂しかった…。キョンのことばっかり考えて…あたしにはキョンがいないと駄目なんだって…やっと気づいた」
「おれもだ。ハルヒ以外の誰と何をしても気分が晴れなかった。何度も何度も電話しようと思ったけど、できなかった。でもおれ達…やり直せるよな?」
そんなの決まってる。
あたしは涙を拭いて今までで一番の笑顔で答えた。
「当たり前でしょ。だけど今度あたしを離したりしたら許さないからね」
「わかってるよ」
そう言ってあたし達は誓いのしるしとしてのキスをした。
それから何を話したかは覚えてない。
唯一覚えているのは、次の日に渡した手作りのチョコレートを美味しそうに食べてくれたキョンの笑顔だけ。
だけどいいの。だってキョンがあたしの側に帰って来てくれたんだもん。キョンの笑顔があればそれだけで幸せだから。
これからはずっと一緒だよ…キョン。
-Fin-