長門さんと別れた後、一人暮らしのマンションに帰宅するなり、投槍にベッドに身を投げ出した。明かりもつけず、闇に息を殺すように身を縮めて、めまぐるしく駆け巡る誰かの策謀に思い馳せる。――本当は、気付いていたのかもしれない。初めから疑っていたことだ。ただ、考えたくなかった。見てみぬ振りをしていたかった。涼宮さんたちを目撃した後も、僕はなかなか散会を切り出せず、現実から逃避するように長門さんと歩き回っていた。あれこれと理由付けをして、無意味に時を浪費してでも、長門さんを傍らに引き止めておくことに躍起になっていた。だが、普通のデートを装ってはいても、心はもうそこになかった。すべてが軋み捩れているように思えてならなかった。帰途を歩むときには、既に夜になっていた。僕は思考停止していたツケが、今頃回ってきているのかもしれない、と自嘲する。違和感を突き詰めておかなかった、怠慢の罰だ。あらゆる最悪を想定しておき、未然にそれを防止する。この時代を生きる機関員としての僕の役割の一つ。しかし――今は、それがどうしようもなく重い。苦悶の末に、折り畳んでポケットに仕舞ってある携帯電話へと手を伸ばす。正直な話、頭の整理がついているとは言い難い。だが何にせよ、今日遭遇した彼らの関係については把握しておく必要があった。気懸かりなことは幾つもあったが、急いては事を仕損じるという言葉もある。今は冷静に、一つずつに対処すべきだと己に言い聞かせて、コール音を耳に押し当てた。『――古泉か。どうした?』電話越しの「彼」の声は緊張感のない、全くのマイペースで、僕はほんの少しだけ、肩の力を抜く。「夜分にすみません。少々お話を伺いたいことがあったものですから。……不躾な質問ですが、気を悪くしないで下さい。今日、涼宮さんとショッピングモールにいらっしゃいませんでしたか」『――見てたのか?』すっと息を吐いた。この反応は、確定的だ。「ええ。実は今日、僕も長門さんと偶然にレストラン街に行きましてね。あなたと涼宮さんらしき人を目撃しまして。……いつからなんです?」『二週間ほど前から、だな。長門がお前に告白したってのを聞いて、ハルヒも色々思うところがあったらしくてな。俺も……、その、あいつから告白されたんだ』「そうでしたか……」想定の範囲内の回答ではあったけれど、二週間も前――そんなに長い間、彼らの変化にまるで気がついていなかったとは。転がり込んだ予想外の幸せにかまけて、周りに気を遣う余裕を失くすなんて、森さん辺りから猛省を促されること必至の失態だった。僕は項垂れながらも、声の弾みは落とさないよう気を使いながら続ける。「……ひとまず、そうですね、おめでとうございますと言わせてください。僕らにも隠されていたのは、涼宮さんの意向ですか?」『ああ。なんか長門に感化されて恋愛に走ったみたいで、自分でもみっともないから、暫く内緒にしてくれとさ。折を見て話すつもりだとは言ってたが』語る彼の口調からは涼宮さんへの胸が温かくなるような情が滲んでいて、涼宮さんはもう安心だろうと、こんな状況にも関わらず僕は知らずのうちに微笑んでいた。この上なくお似合いな二人だと思っていたし、その為にささやかながら助力も惜しまなかったつもりだ。言い知れぬ寂寥感は胸のうちに巣食っていたが、それは義務から解放されるという安堵感に類するものだった。――僕は、「彼」とはまた違う意味で、涼宮さんを護るために此処にいたのだから。その仕事の終わりが近いことを思えば、見送る背中に感傷的にもなる。「事情は分かりました。朝比奈さんには、まだ内緒にしておいた方が?」『いや、長門にも知れちまったんなら時間の問題だろ。ハルヒには俺から言っとく。次の団活の時にでも正式発表するさ』「そうですね。それがいいでしょう」要らぬ心配を「彼」にさせることもない。長門さんの事を相談するなら、この靄の原因を浮き彫りにしてからだ。僕は礼を述べ、電話を切った。その後、迷った挙句に、もう一人に短縮ダイヤルで電話を掛ける。『はい、みくるです。……古泉くん、ですかぁ?』能天気ともいえそうなくらい柔らかく、ふわふわと宙に浮いたように定まらない声だった。甘くぼやけた発声から察するに、寝起きなのだろうか。ベッドに微睡んでいる朝比奈さんの姿を脳裏に思い描いてしまった僕は、その想像をすぐに散らすことに神経を使った。この有様では、とても「彼」を笑えない。「もしかして、就寝されていましたか。申し訳ありません」『いえ、だいじょうぶです、……ふぁあ。えっと、あたしに電話ってことは、何かあったんですか?』「ええ。と言ってもまだ断言は出来ませんが。何かあるかもしれないので、そのご確認を朝比奈さんにお願い出来ないかと思いまして」『わ、わかりました。あたしにできることなら……。あ、でも、禁則だと、権限が管理されてるので、あたしの一存じゃお話できないんですけど』「いえ、あなたの禁則に掛るような話ではない筈です。一つだけ確認させてください。このところ、朝比奈さんの周辺で異変は起きていませんか?八月のように未来に帰れなくなった、または時空震が発生している、といったような異常事態です」『ええと……ちょっと待っててください。今、確認してみますから』初めはぽかんとした調子だった朝比奈さんも、僕の声が笑みを含んでいないことには気付いたらしい。――そうして、暫し後。僕は自分の、最も当たって欲しくなかった想像図が、既に描かれていたことを知る。『……、ウソ……!こ、こんなこと』電話越しに、朝比奈さんが狼狽している様子がダイレクトに伝わってきた。僕は何を言うにも迷って、結局のところ無言を貫いた。精神的に疲弊していたこともある。彼女を宥める気力も、沸かなかった。『……だめです、あたし、未来に帰れない……連絡も取れなくなっちゃってます!そんな、こっちからは全く、感知できなかっただなんて。古泉くんは、どうしてわかったの?』「いえ、確信があったわけではありません。ただ……、事が思った以上に深刻であるのは間違いなさそうですね」僕は息を漏らす。吐き出した溜息には疲憊が混じった。デ・ジャヴ。本当は、ある程度、予感していた。もしかしたら――と。「作戦会議は明日の放課後にしておきましょう。そのとき、僕が気付いたきっかけについてもお話します。これが何に起因する事象なのか、それさえ掴めれば打開策はあるはず。あまり気を落とさないでください」『は、はい……』未来への不安感から嗚咽の混ざり始めた朝比奈さんに励ましの一言を添えた後、ひとまず電話を切る。最も考えたくなかった「可能性」が現実味を帯びていることに、僕は苦い思いを隠せず、顔を片掌で覆った。長門さんの変化に付き纏う違和感。朝比奈さんにはああ言ったが、涼宮さんの力はすこぶる安定している。この事象は涼宮ハルヒを原因とするものではない。――だとすれば解は一つだ。長門さんの異様な変容を踏まえても、今回の件は恐らく情報統合思念体の、何らかの干渉の結果としか考えられない。夏の間のようなループが起きているとは思えないが、限りなく近い現象が朝比奈さんの身に降り掛かっていることからみても、空間を切り取られているか、断絶されているか。何がしか大掛かりな事が行われているはずだ。そしてそれは、長門有希が古泉一樹に、突如として恋心を芽生えさせたことと無関係か?……無関係なわけがない。携帯を睨みつけ、胸の内を占める重苦しさに眼を伏せた。長門さんに直接に、事の全容を話すように求めることはできるが、そう容易な話ではないだろう。彼女は間違いなく全てを知る立場にあるが、一連の動作を鑑みるに、彼女の立ち位置は完全に思念体側にあるとみていい。非難するつもりはない。「彼」にも明かすことのできないような、長門さんなりの思惑があってのことなのだろうから。だが、その行為が我々にとって害為すものなら、僕らはそれに抗わなければならない。打てる手を総て打ち終えて初めて、僕らは息をつくことが許されるのだ。といっても、大した有効策が見つかるわけでもない。「機関」に報告、他のTFEIに協力要請、「彼」に事を暴露――どれも不確かで、かつ成功率の低い賭けばかりである。そもそもの話、僕は長門さんをどうしたいのだろうか。長門さんが僕に向け始めた穏やかな視線、彼女が微笑んでくれたすべて、あれらが作り物であり、ただの演技であったのだとしたら。長門さんからすれば初めから全て織り込み済みの、期間限定の恋人同士であったのだとしたら。唇を噛み締める。彼女を信用してはならない事は明らかだというのに、それでも一縷の望みがあるうちはまだ、悪足掻きと分かっていてもそれを信じていたい。彼女と共にあった時間へ、何時の間にか蓄積させていた未練に、僕は愕然とし、また、打ちのめされていた。
携帯の裏側に張られた、一枚のプリクラに眼を落とす。慌てながら、フラッシュの瞬間にだけどうにか繕った笑みを浮かべる僕と、無表情ながら柔らかに輝く眼を少し細めた長門さん。
初デートの記憶。
破り捨てようと左手を伸ばし、結局できないままに指先が力を失う。記憶の中のあの日の彼女が、色をくすませ、歪んでいく。まがいもの。本物では、決してなかったもの……。長門さんが漏らしたワンフレーズを思い出す。
井の中の蛙は幸せ。……確かに、その通りだったのだろう。何も知らなければ、僕は今も恐らく、幸せだったのだろうから。+ + +霧がかったような思索の夢に、ふと、思い出していた。あれは長かった夏が終わり、体育祭も文化祭も一段落がついた後の、雨の日のことだ。無料で譲られることになったストーブを「彼」が受け取りに屋外へ赴き、残留組の僕らは朝比奈さんの撮影会を行っていた。長門さんはそんな僕らにも気を払う様子なく、延々と部室で読書を進めていた。体育館に移動しての撮影も無事終了すると、僕は機材の片付けに居残ることにした。涼宮さんはお手洗いに行くからと席を外したので、僕は長門さんに一声掛けようと部室を覗いて。――そこで、見た。椅子に座り込み、机に顔を伏せて安らかな寝息を立てる「彼」と、……「彼」にそっとカーディガンを羽織らせる、長門さんの姿。子が親を気遣うように、慈しむ人をしめやかに労わる少女のふるまいは、僕に言いようのない感慨を齎した。無機質な白い横顔。甘くも可憐でもない、人形のような精巧な顔立ちが、「彼」に寄せた微弱な感情。ああ、長門さんは、「彼」のことが好きなのだろう。きっと、そうなのだ。思い、微笑み、その優しい二人きりの空間を今は壊さないようにと、扉をそっと閉じた。薄ぼんやりとした夢の中で、忘れていた違和感の正体に思い至る。長門有希が仮に恋をしたならば。僕はもう知っていた。長門さんがどんな風に感情を降り積もらせ、暖め、胸郭の内部に形にしていくかを知っていたのだ。とある雨の日に、「彼」を静寂のうちに見つめる静かな面差しを目の当たりにしたときには、既にそうだった。だから僕に見せた、分かり易いくらいの丸みを帯びた女性らしさや、媚を孕んだ言葉たち。あれらが、長門さんの真意の言葉であるわけもなかった。あれらは総て、偽りに彩られた虚像に過ぎなかった。彼女が何を目的に僕に向けて恋愛的行動を取ったのかまでは測りかねるが、諦めはつく。彼女の嬉しげな笑み、挙動、纏う雰囲気のすべてが仮初であったのだということを、自分なりに納得することは出来る。僕が甘かったのだ。硬く閉ざしておかなければならなかった心に隙間を生じさせ、あまつさえ、受け入れてしまった。疑い続けなければならなかったものを、我が身の油断で信じてしまった。すべて僕の責任だ。――だけれど、だとしても。僕は問いたかった。機関に所属する人間としてではなく、ただの古泉一樹として。情報統合思念体のTFEIに問うのではなく、ただの長門有希に向けて。なぜ、僕に嘘をついたのか、と。夢から覚め、天井を見上げたときには、流石に寂しさが身に堪えたけれど、それも受け容れた上で僕は腹を括った。勝負は放課後。今日の団活の際に、全てを明らかにしよう。例えそれが、すべての終わりであったとしても。
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