有希はまっすぐ前だけを向く。黙々と歩く。
あたしと有希の間に会話はなかった。
延々歩き続け、ようやく有希が立ち止まったのは、信じられないほどの高級マンションだった。
有希は玄関のキーロックに暗証番号を打ち込んで施錠を解除し、そのまま後ろを振り返ることなく脚を進める。
7階の8号室のドアに鍵を差し込み、そのまま手招き。
それを合図にあたしも上がり込む。
殺風景な部屋だった。リビングにはこたつが一つあるだけ。カーテンもない。
ただ、気になる部屋があった。そのドアだけ全面に黒いクッションが付いている。
「この部屋、見せてもらっていい?」
急須と湯飲みを持ってキッチンから出てきた有希に訊く。有希はゆっくり瞬きをすると
「どうぞ」
「失礼します」
重い扉が開いた。
数多くの穴と、クッションで囲まれた部屋。
大量の楽譜。一台のピアノ、音叉。ホコリにまみれたベース。
後ろを見て、リビングを見やる。殺風景な部屋と比べて、構成要素が多すぎる。
楽譜を除(の)けて床をみる。いくつかの血の点が顔を覗かせる。
「涼宮ハルヒ、お茶…」
有希はあたしを「涼宮ハルヒ」と呼ぶ。
ただの知り合いとして『涼宮』と呼ぶか、それとも親友として『ハルヒ』と呼ぶか、迷っているのだ。
有希はどちらを選んでくれるのだろうか。あたしとしては、親友として名前を呼んで欲しい。
有希はお茶を入れ終わったらしく、眼鏡に手をかけてこちらを見ている。
あたしは早速口を開く。
「有希、あなたには才能があるわ、そう、ちょうどレオナルド・ダ・ビンチみたいな」
有希はうつむく。きっと悪い記憶があるのね。
でも、あたしはかなりの独りよがり主義者よ。たとえあなたが尻込みしようと、願いは必ず聞いてもらう。
「だから、プロの音楽家としての道をあきらめないで欲しいんだけど」
あたしには分かる。有希の音楽はきっと世界を盛り上げる。このつまらない世界をぶっ壊してくれるはず。
でも、有希があきらめたらこの世界はつまらないまま。そんなの、あたしは認めない。
有希は返事のかわりに
「飲んで」
お茶を勧めてきた。
まあ、飲むわ。
ほうじ茶をすするあたしを動物園でキリンを見るような目で観察する有希。
自分は湯飲みには手を付けようとしない。…毒、じゃないわよね
「おいしい?」
もちろんおいしいわよ。
「よかった」
飲み干した湯飲みを置くと同時に、有希は再び茶褐色の液体で湯飲みを満たす。しょうがなしにそれを飲むと、すかさず駆けつけ三杯目。
ついに急須が空になり、長門がおかわりを用意しようと腰(こし)を上げかけるのを、やっとのことであたしは止めた。
「お茶はいいから、返事が欲しいの!」
腰を浮かせた姿勢で静止した有希はゆっくりと元の位置に座り直す。もう、いらいらするわね。
ようやく有希は薄い唇(くちびる)を開いた。
「涼宮ハルヒ」
背筋を伸ばしたきれいな正座で
「わたしには自信がない」
口をつぐんで一拍おき
「あなたには教えないでおく」
と言ってまた黙った。
なにを?それ、どうしても教えられないの?まるで、誰かにはもう教えたような口ぶりだけど…
ここで有希は出会って以来、初めて見る表情を浮かべた。困ったような躊躇(ちゅうちょ)しているような。
有希はこちらを見すえると、眼鏡のふちを押さえる。
有希はゆっくりと言葉を紡ぐ。
「…佐々木さん…過去が…けじめ…できたら」
ええと、佐々木さん、なの…?
まさか、有希が表舞台を降りた理由って、あの『神童』佐々木さんと関係あるの?
音楽が楽しめなくなってしまった今の有希を作ったのは、まさか…佐々木さん?
「それって、『神の能力』と関係ある?」
それきり、有希は黙る。
長い沈黙。
あたしはそろそろおいとまさせていただくことにした。有希は止めなかった。
「もし、オーケーだったら、復活リサイタル、お願いね」
ちょっと寂しく見えたのは、たぶんあたしの錯覚。
第八章 〆