必死の形相でメインストリートを駆け抜けてきた一人の少年がハンス邸の広い中庭で素振りをしているカタリナを漸く見つけたのは、その翌日の事だった。
 思えばかれこれ数ヶ月前にもなる魔王殿の一件以来、殆ど顔を合わせていなかったその少年-ゴンの突然の登場に、カタリナは素振りを中断して気軽に片手をあげながら久しぶりね等と挨拶をする。
しかしゴンは久しぶりであるとかそんなことはどうでもいいという風に彼女の様子には一切構わずそばまで駆け寄り、カタリナの目の前に立ち止まったかと思うと膝に手を当てて大きく息を吐いた。

「ミューズ様をたすけて!」

 荒い呼吸を無理矢理整えながら開口一番にそう叫んだゴンにカタリナは当然目を丸くし、しかし次の瞬間にはそばにおいて置いた愛用の大剣だけを握りしめ、弾かれる様に旧市街へと向けて走り出していた。

「何よ、ルートヴィッヒが刺客を送ってきたとか!?シャールさんはどうしたの!?」

 驚くピドナの通行人達には構わずに布にくるんだ大剣を軽々背負いながら走るカタリナに、負けじと隣を駆けるゴンが息を切らし気味に答えた。

「シャール様は・・・これからミューズ様をたすけにいくって・・・!」
「攫われたの!?」

 しびれを切らしたカタリナが疲労困憊で走るゴンをひょいと小脇に抱え上げてさらに加速しながら言うと、ゴンは首を横に振った。

「違う・・・ミ、ミューズ様は寝てるんだ。二度と起きないムマの眠りに誘われたんだって、シャール様が・・・!」
「夢魔の眠り・・・?」

 聞き慣れない言葉に眉を潜めたカタリナは、程なくしてピドナ旧市街へと降り立った。
 以前来たときと変わらぬ荒れ果てた様子の街並みを一瞬だけ見渡すと、そのまま周囲の住民達の奇異の視線を物ともせずに、ゴンを小脇に抱えたままミューズ達の住まう家まで駆けていく。
 ゴンの証言だけでは状況はいまいち分からないが、少なくともミューズが危険であるということだけは解るので、今は兎に角急がなければならない。
 だが。
旧市街を駆け抜けるその途中で、カタリナは自分に向けて注がれる異様なまでに不快な視線を感じて、そのおぞましさに思わず急停止をしてしまった。

「・・・・・・」

 即座に気配を感じた自分の斜め後方、最早住居としての機能性を無くすほどに崩れた石造りの家屋の辺りに鋭く視線を走らせる。
 だがそこには一切の人影はなく、ただ下水路から溢れて濁った水溜りに波紋が揺れるだけだった。

「・・・どうしたの?」

 いきなり止まったカタリナを不思議に思ったゴンが尋ねると、カタリナは首を軽く横に振ってもとの道に向き直った。

「なんでもないわ。急ぎましょう」

 確かに自分は今、何者かに見られていた。
 だがその視線の存在は非常に気にはなるが、しかし今はミューズの元へ行くのが先だ。そう判断したカタリナは、またすぐに駆け出した。
 ほぼ一直線に旧市街を駆け抜け間もなく見えてきた見覚えのある家を発見すると、カタリナは走ってきた勢いに任せて荒々しくその戸を開く。

「ミューズ様、シャールさん!」

 屋内に半ば飛び込む様に駆け込みながら叫んだカタリナの目に見えたのは、以前珈琲を頂いた記憶のあるテーブルが設置された居間の先に開いた扉の奥、そこに一人佇んだシャールの姿だった。

「・・・シャールさん?」

 ゆっくりとこちらを振り向くシャールの想定外に落ち着いた様子に、カタリナは怪訝な表情をしながら歩み寄る。
 警戒は解かず周囲を探るように視線を巡らせながら扉をくぐって部屋に入ると、入り口からは見えなかった位置にあるベッドに、なんと海色の豊かな髪を扇形に広げて静かに寝入っているミューズの姿があった。

「・・・カタリナ殿、丁度よかった。私はこれからミューズ様をお助けに行ってくる。その間、恐らく私も無防備になるのでここで見ていてくれないか?」

 シャールの様子にいよいよ眉を潜めたカタリナは寝入っているミューズとシャールを交互に見ながら、メインストリートから小脇に抱えたままだったゴンを床に下ろして尋ねた。

「・・・状況が見えないと了承の返答は、しかねます。状況は多少なりと伺いましたが、ミューズ様が夢魔の眠りに誘われたというのは、どういう事なのですか」

 問いかけるカタリナに、シャールは何かを言おうと口を開きかける。だがそれを幾分躊躇った後に、ベッド脇のテーブルから小瓶を取り上げてカタリナに見せた。

「・・・夢魔の秘薬だ。人の意識の中、精神世界に巣食うと言われる魔物に、この薬を飲んだために今ミューズ様は囚われている」

 シャールのその言葉に、カタリナは自分の記憶の奥底にある引出しを探る様に目を細めた。
 俗に「ナイトメア」とも呼ばれる夢魔という名の魔物は、昔から童話などにもよく登場するため民衆にも認知度の高い魔物だ。
 とは言えそれは伝記上の存在としてのみの認知であり、おとぎ話の上でしか民の中には存在していない。
 だが本来は正真正銘実在する魔物であり、文献によれば今は失われて扱える者の無いはずの冥の術法を用いて作られる秘薬によって誘われる仮想の固有空間をその住処とする、とされている。

「・・・アビスに彩られた固有空間は、迷い込んだ最初の贄によって形を決める・・・。以前私も、本で読んだ事はあります。秘薬の複数人同時摂取による同一空間への侵入は、可能なのですか?」

 カタリナがそう言うと、シャールは多少驚いた様な表情を見せ、次に腕を組んで唸った。

「知っていたか・・・。流石は、と言ったところだな。実際にミューズ様と同じ空間に行けるかは、正直わからぬ。だが、これしか方法がなさそうだからな。何れにせよ精神世界では何が起こるかも不明だから、私が行ってくる。そうなれば私もミューズ様と同じく眠りこけてしまうだろうから、見張りをお願いしたい」

 小瓶を握りしめながら言うシャールに対し、カタリナは数秒の迷いの後にコクリと頷いた。

「・・・恩にきる」

 それだけ言うとシャールは躊躇い無く小瓶の中身に口を付け、それから間もなくその場に崩れ落ちた。
 慌ててシャールの体を支えにかかったカタリナは小瓶の中身が零れない様に同時に支えつつ、シャールをミューズの寝ているベッドの脇に安定させる。
 そうして一息ついてから、あまりの急展開に某然としているゴンに向き直った。

「・・・ゴン、疲れてるところ悪いけど、もう一回商業区まで走れる?」

 状況こそ理解できていないながらも心配そうにミューズとシャールを見つめていたゴンに、カタリナがゆっくりと語りかけた。
 するとゴンは直ぐに反応してカタリナに振り返り、しっかりと頷く。

「オーケー。あそこにはトーマスや強そうな黒いおっさんとかがいるから、誰かに声をかけてここまで連れてきて頂戴。そうしたら私も、シャールさんの後を追うわ」

 カタリナのその言葉に再びしっかりと頷いたゴンは、とっくに体力の限界だろうに休む事なくその場から駆け出していった。
 その頼もしい背中を見送ったカタリナは、思いのほか安らかな寝息だけが微かに聞こえる静かな室内で、手にした小瓶を見つめながら眉を顰めるのだった。





最終更新:2012年09月06日 23:18